状況救済と根本救済

お話 青山 満(善仁寺住職)/2023年7月13日

今月の担当をさせていただきます青山と申します。ご視聴いただきありがとうございます。

題名を状況救済と根本救済とさせていただきました。

これはあることがきっかけで改めて考える機会となったことです。信仰とは人間の救済が大きなテーマであります。
しかし人間の救済とは何を指すのでありましょうか。

親鸞聖人のご生涯の中でこのことを感じさせる出来事をご紹介したいと思います。これは親鸞聖人の奥様惠信尼公のお手紙が大正年間に発見されたことで判明したことでした。

親鸞聖人は流罪の地、越後から関東への途次、現在の群馬県明和町大佐貫というところで、人々を救う為に浄土三部経という三つの経典を、千回読むという行を行いました。何がきっかけかの記載がありませんが、一説にはこの佐貫という地は利根川と渡良瀬川の合流地点で大雨で川が氾濫することが度々あったことから親鸞聖人も度重なる災害で家族を失ったり、苦しい生活を余儀なくされている人々をご覧になられて発願されたのではないかと言われています。

しかし、お手紙には読むのを思いとどまって途中で中止したとあります。つまり苦しむ人々の救済の為にお経を読むことを止めたのです。苦しむ状況になる人々の救済のためならば、お経を読んで救われるのかもしれません。しかし、それは状況の救済という表層の救いにとどまり、人間を根源的に深く救済していくことには手が届かないということにお気づきになられたのはないでしょうか。お手紙にはこんな言葉をいわれたとあります。

「名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや」、自らの身で未だ信じ切れていない信心を他者に振り向けることで人間が本当の意味で救われていくのかということへの虚偽性を自らの上に見出したのでしょう。

思えば状況の救済とは、苦しむ人々の状況をステレオタイプに色付けをして慰めることでありましょう。しかし、名号の中に込められる願いとは人間を真に自由にせしめる如来の命令なのです。私たちは「自由に生きよ」という命令によってのみ真に世を自在に豊かに生きる生命をいただくのです。私たちを苦しめる内容とは善悪分別、社会共同体道徳観の他律的な価値観に過ぎません。あなたが望んでいると思っているものは、他の誰かが望んでいるものに過ぎないのです。

それでも親鸞聖人は目の前に広がる災害がもたらした現実に状況救済の為に三部経を千回読むということをせずにはおられなかったのではないでしょうか。

親鸞聖人のこの歩みに私たちは何を学び取るべきでありましょう。

以上です。ありがとうございました。