浄土、計らいを離れた境地

お話 細谷修(開導寺住職) 2021年11月14日

皆さん、こんにちは、今月の法話の当番を承りました東京三組の開導寺と申します。宜しくお願いいたします。法話の中で道元禅士と良寛さんの話が出て来ますが、文言が多少違っていますが、ご勘弁ください。
本日のテーマは、「浄土、計らいを離れた境地」とさせていただきます。これはこの頃分かりかけて来たことであります。それではお話させていただきます。

日本曹洞宗の開祖道元禅士が、中国の留学を終えて日本に帰ってきた時、同輩からこう尋ねられました。それは、「あなたは中国で何を学んできましたか?」ということでした。それに対して、道元禅士は、「私は中国で眼は横に鼻は縦に付いているということを学んできました」と、応えたそうです。
これは道元禅士が当たり前、法則、道理を言いたかったのかと思います。人間の顔の造作を見て見ますと、眼は顔の中心よりやや高い処に横に、鼻は顔の中心についているものです。法といいますと、煙は低い処から高い処に昇り、水は高い処から低い処に流れる。人間の一生も生まれて、成長し、老いて、病になって、死んでいく。これが生・老・病・死で当たり前の出来事ですよと言いたかったのかもしれません。
しかし、人間には自分に対する愛着がありますから、素直にその状況に順っていけないのです。自分の保身延命を願い、毀損滅亡(きそんめつぼう)を畏(おそ)れる生活になってしまのです。そして日常では、「善し悪しの心」で生活していくのです。「生まれるのは善いが、死ぬのは嫌だ」、「健康は善いが、病気は嫌だ」、「美しいのは善いが、醜いのは嫌だ」、「金持ちは善いが、貧乏は嫌だ」という様に自分にとっての、計らいの心で現実の状況に反応し判断し、自分の価値観、都合で見て損得利害の生き方をしてしまうのです。

私事になりますが、三十年ほど前、下腹部に違和感を覚えて、てっきり癌ではないかと思ってしまったことがありました。痛み→癌→死というパターンで行ってしまうと想像していました。最初、バリウムの注腸検査で、結果が分かる一週間ほどは、「人生って虚しいなあ、電光朝露だなあ」とてっきり癌で余生も長くはないと想像していました。結果が癌ではなく憩室症という症状で、憩室という腸の凹みに食べかすが溜まり炎症を起こしたようでした。癌でなくて良かったと思いました。まだ四十代ですから死にたくないという心が強かったのです。

もう一人のお坊さん、良寛さんの話をします。江戸時代の後期、越後の出雲崎という処に住んでいた良寛さんが、大地震に遭いまして、助かったわけですが、その時お見舞いをくれた信者や仲間の人に礼状を書いたそうです。礼状の中身は「災難に遇う時節には遇うがよく候。死ぬる時節にはしぬるに候。これぞ災難逃れる妙法なり」と書いたそうです。普通ですと災難に遇わない方が、幸福ですが、良寛さんは災難に遇うことが、妙法だと言い切っているのです。これは災難を計らいますと、計らいとは、「心・心所が対象に対しはたらきを起こし、その相を取って計らうこと」と辞書には出ています。

私たちは、常に対象に対して感覚し、認識し、反応してしまいます。そしてあるがままを素直に受け取れないのです。よく法話で話すことですが、谷中の都営霊園での線路際で墓前経の話です。そのお墓、山手線や京浜東北線の傍にあり、読経中、山手線、京浜東北線、常磐線、高崎線、東北線、京成線とひっきりなしに、電車が往来するのです。3分間と無音の時がないのです。私の心はいい加減に止めてくれないかなあ。うるさいなあと燃えるのです。冷静に見れば、電車が大きい音を立てて走っているなあですが、私の心はうるさいなあ、少し止んでくれよとの反応判断をしてしまうのです。この様にすぐに対象にリアクションしてしまうのが人間なのです。
この物事に反応し、判断する心を抑えてそのまま受け取っていけば、またどんな状況も気にならなくなれば、それが救いであるような気がします。
曹洞宗での「只管打座、ひらすら座禅すること」、浄土真宗で言えば「念仏して、この状況をお任せしていく」。この境地が浄土だと思うのです。