阿弥陀様におあずけする

お話 山名宗隆(宗善寺住職) 2022年12月29日

東京三組 宗善寺の山名宗隆です

 私、この間コロナにかかりまして。いろいろ気を付けていたんですけどね、ついにかかってしましました。ああ、来たか、と思いました。でもちょっと熱が出て、幸い後遺症も少なく帰ってこれました。

 こういった疫病というものはむかしからたくさんあったようで、蓮如上人の時代にもたくさんの方が疫病で亡くなられました。どうしてこんなに我々は念仏してるのに、疫病で亡くなってしまうのか。というてがみがたくさん蓮如さんのところに届いたそうです。そしてそれに返したお手紙が今でも残っています。だいたいのところですが。

 「あなたがたはいまさら何をおっしゃっているのか。私たちは生まれた時からなくなることは決まっております。病気で亡くなることもあれば、事故で亡くなることもあります。それは当たり前のことですので特に驚くことではないので、ふつうにお念仏してまっとうに生きてください」

 というような内容のお手紙です。今の我々からするとちょっと、だいぶ思い切りのいいお手紙のように思えます。

 『生死を出る』、という言葉があります。生死。生き死にですね。生き死にという考えても仕方のないことを考えないで生きる。考えてしまう生き方から抜け出ましょうという仏の悟りの一つの形でしょうか。

 我々は考えても仕方のないことをずっと考えてしまうことがあります。ああ、腰痛い腰痛いとかね。座ったり立ったりするたんびに腰痛い腰痛いなんて僕は言ってますけれど。

 またはね、ああ、あの人に会うの嫌だなぁとかね。どうしてあの人とうまくいかないんだろうなぁ、ああ、会いに行くのなんかいやだな、なんてことを会いに行く前から考えて、いやな気分になる。

 または、ああ、あれほしいなぁ。どうしようかなぁ。まあでもまだ買い時じゃないな。でもどうしようかなぁ。なんて言ってポケットから携帯出して調べたり戻したり、調べたり戻したり。と、そんなことをやってたりすることがございます。

 いっぺん全部最後まで考え切っても、また頭に戻って考えてるんですね。結局これはもう(動くのが)億劫になって同じことを考えて、暇つぶしのようなものですよね。そうしてこう自分を苦しめたりなやませたりして生きていると。そういった状態から出ましょうというのが、『生死を出る』ということなんです。

 そういった観点から見ますと先ほどのお手紙。疫病という苦しい状態にまだなってもいないのに、自分を苦しめて、不安になって、どうしたらいいんですかとお手紙を書いてしまう。そういった自分自身が自分を苦しめてるんですよと。

 当時はどうして病気にかかるのかわからなかった時代ですから、自分たちで何しても仕方がないという状態だったんですね。ですからじぶんたちでどうにもできないことなんですから、そこはおまかせして、しっかり自分にできることをしてまっとうに生きてくださいと。そういった意味なんでしょうね。

 おまかせすると言いましたけどね、この『生死を出る』という言葉は我々浄土真宗の門徒にとりましては、『阿弥陀様にお任せする』とい言葉で伝わっているような気がいたします。

 私も子供のころによくおばあちゃんにいわれました。小学校のころに学校行きたくない、行きたくないなぁ~なんて朝グズグズしてると、おばあちゃんに

「そんなことでグズグズしてないで、ほらもう御本堂行って、阿弥陀さんにお任せして、すっと行っちゃいなさい。」

 そんなことを毎日言われてた気がします。

そうなんですよね、どういった事か。朝寒かったからなのか。宿題を忘れたからなのか。友達とけんかしてたのか。今からしてみれば大したことがない、そんな理由ですから、行ってみれば実際大したことない。遊んで楽しく帰ってこれるんですけど。行く前にいろいろなやんじゃってる。それを、阿弥陀様にお任せして自分はすっと行っちゃいなさいと。そういったことだったんですね。

 今になるとわかりますが当時はわからなかったんでしょうね。毎日毎日言われてた気がします。

 これからもまだコロナ禍というのはしばらく続きそうですね。ですので我々もできることはちゃんとやって、手洗いうがい、マスクですか。そういうことやったらあとはもう阿弥陀様にお任せするしかないですからね。念仏と一緒にお任せして、楽しくまっとうに生きていきましょう。それでは失礼いたします。