還る場所を定める

お話  渡邉尚康(忠綱寺住職) 2022年11月20日

今回、ご法話を担当いたします。忠綱寺(ちゅうこうじ)の渡邉尚康(なおやす)と申します。

(かね)てより人前であったり、このような録音であったりという場は、平時より何故か緊張をいたします。よくよく思い返すと、音楽の授業などで一人、歌わされたりすると、全く声も出ず、人目を気にし、どこか恥ずかしい、周りの声は聞こえず、敵だらけと、一人ぼっちな気分になっていました。

今は、苦手とはいえ仕事柄慣れては来ましたが、この緊張、人目を気にするという根本には、自分に対する相手の評価を気にするという、畏(おそ)れが関係しています。仏教的にいうと5つあるといわれる畏れ、「五怖畏(ごふい)」の中の大衆威徳畏(たいしゅういとくい)と呼ばれるものです。相手の評価によって、自分に否定的な目が向けられ、人が去っていく。それによって自分自身にも肯定的になれなくなって、また人目を恐れるというループ。「悪名畏」という畏れにも似ていますが、この評価を気にするということは、生まれてから死ぬまでずっと私たちはやり続けています。

「悪名畏」、自分の名前、存在が下がっていく畏れと違うのは、「大衆威徳畏」の場合、自我意識がより強く、相手に信頼が置けず、また立っているその場所に安心が持てないという不安が拭えません。年齢や経験を重ねると図太くなることもありますが、この不安のさらに先には、生活が出来なくなってしまうのではないかという畏れ「不活畏(ふかつい)」にもなり、最終的には死を畏れる「死畏(しえ)」に直結しています。多種多様な畏れ・不安の中心には、この死を超えるという課題が必ずあります。

話は逸れますが、現在旅行に対する支援があります。旅行は今いる場所や仕事から一時離れ、心や時間の開放に繋がります。旅行先で揉めたら元も子もなくなりますが、この旅行はなぜ行けるのか。お金と時間があるからでしょうか。支援があるからでしょうか。もちろん、それは必要ではありますが、第一に「帰る場所があるから」ではないでしょうか。鞄一つで行く旅でさえ、最後はどこかに帰る場所がある。

私たちの死の先、最終到達点はお浄土です。いのちもそこからやってきたといわれています。そして最後もお浄土へ還っていく。帰る場所があるから、死までの「生」を生きられるともいえます。遊び盛りの時代、学ぶ時代、育む時代、家を護る時代、自分を見つめる時代、いろいろなものを棄てていく時代、人それぞれ多種多様な「生」、生き方、進む方向、観ている景色、歩むスピードがありますが、どの人の生も自分と時間を共有する徒(ともがら)として、縁あるものとして常に繋がりを意識し、耳を傾けていきたいと思います。