お話 西尾朋央(福成寺住職)2025年9月18日
今回のリレー法話を担当いたします福成寺の西尾です。宜しくお願いいたします。さて、仏様の教えをやさしく語りかける「仏典童話」の中に「けしの種」というお話があります。
サーバッティの町の若い母親キサーゴータミーは、長く望んだ我が子を授かりますが、不幸にもそのわが子を失ってしまいます。彼女は、悲しみに打ちひしがれ、子どもを生き返らせる“薬”を探しに奔走します。しかし名医にすら生き返らせる術はなく、「お釈迦様なら何とかしてくださるかもしれない」との声に導かれ、必死の思いでジェーダの林のお釈迦様のもとへ走ります。
お釈迦様は「わかりました。それではどこかでけしの種をもらってきなさい。ただし一度も葬式を出したことのない家からですよ」と答えます。
お釈迦様のことばに青ざめていた彼女のほほは少し赤みを取り戻し、子を抱えながら町中の家を訪ね歩きます。しかし、インドではけしの種は一般的なもので容易に手に入るはずでしたが、どの家にも「葬式を出した経験がある」と答えられ、けしの種をもらうことができませんでした。
一人ひとりの話を聞いていくうちに、胸の苦い熱いかたまりは次第に溶けていきました。
「坊や、ごめんなさい。あなたのお薬は見つからなかったの、でもお釈迦様にお礼を申し上げにいきましょう。坊や、いちばん大切なことを教えてくれてありがとう」
その気づきを胸に、彼女はお釈迦様のもとへ戻り、感謝をもって報告します。そこから彼女は仏道を歩まれました。
(仏典童話「けしの種」)
これは『法句経』の中の教えを説話にしたものです。皆様はこのお話を聞いてどうお感じになられましたか?一言で申すなら、「誰しも避けることのできない『死という事実は普遍』で、その気づきは『無常の真理』に触れることであり、そこから『かけがえのないいのち』の歩みとなる」ということを教えてくださるお話です。
このキサーゴータミーとは、誰でもない「私」のことです。普段頭で理(ことわり)を分かったつもりとしている私に、冷たくなっていく坊やを通して、死という厳粛な事実そのものから無常の真理が知らされてくる。何も変わらない今日一日が、かけがえのないいのちの歩みとなるのです。
皆様が出遇う法要も、この物語の中でキサーゴータミーが最後「坊や、いちばん大切なことを教えてくれてありがとう」というように、悲しみと向き合う中から人生において一番大切なことを聞いていく場です。最近「葬儀」や「法事」といった時間が簡略化されておりますが、今一度、ご自身の「大事な時間」として過ごしていただきたいものです。