「悪人」とは誰のことか

お話 平松正宣(教元寺副住職) 2022年1月9日

今回の法話を担当させていただきます、教元寺の平松です。よろしくお願いいたします。

浄土真宗の教えを表す言葉の一つに、「悪人正機」というものがあります。親鸞聖人の弟子の唯円という方が書いた『歎異抄』の一節で、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という文があります。「善人でさえ往生をするのであれば、悪人はなおさら往生をする」という意味であり、「悪人正機」という言葉を端的に説明していると思います。

この文章の意味を文言通りに解釈してしまうと、「いいことをする善人よりも、悪いことをする悪人の方が往生するのであれば、悪いことをすればいいじゃないか」という考えになってしまうかと思われます。実際、親鸞聖人が生きていた当時、そのように考えた人がいたようで、親鸞聖人は、わざわざ悪事を働くことがないよう戒める内容の手紙を書いたといわれています。

では「悪人正機」、すなわち善人より悪人が往生する、救われるということになるのでしょうか。まず、物事に対する良い・悪いという判断は、時代や国、地域、さらには個人の置かれた状況によって変わってきます。

一例として、お金の使い方が挙げられます。「吝嗇(りんしょく)は美徳」という言葉があるように、お金を節約して使うことは良い行いであるとされています。しかし、一方では「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」という言葉もあります。かつて火事の多かった江戸の町では「財産を貯めておいても燃えてしまうため、使い切るべきだ」という考え方があり、現在でも、時と場合によってお金を積極的に使うことを良しとする考えがあるのも事実であります。

このように善悪の判断基準は個人の考え方に左右されると思いますが、その時々によって、考え方が変わることも多々あります。例えば、先程のお金の使い方の例で言えば、周りから見れば普段はドケチな人が、自分の趣味に関してはお金を惜しまずに使うということがあり、また、お金を積極的に使う人でも収入が減ったりすれば、節約することもあるかと思います。

つまり、人は自分の価値観によって、物事をコロコロと善と悪に分けてしまいます。このような事実に対して、「自分は愚かであった」という自覚がある人が「悪人」ということになります。逆に、善悪を自分の価値観で分けているという事実に気づけない人、すなわち「善人」は自分を顧みることができないため、しばしば自分の価値観で相手を批判したり、見下したりするということがあります。

阿弥陀仏はどんな人でも等しく救うと呼びかけている仏様です。しかし「善人」は自分の価値観に囚われているため、その呼びかけに対しても気付きにくくなります。そのため、「(愚かであるという自覚のある)悪人が、(自分の価値観で善悪を分ける)善人より救われる」ということになります。