小事に囚われ、大事を忘るることなかれ

お話 渡邉尚康(忠綱寺住職)/2024年3月30日

ご法話を担当いたします。忠綱寺の渡邉尚康と申します。

前回担当した時と変わっていることといえば住職になったということくらいでしょうか。住職とは住んで侍(はべ)ると書いて「住持(じゅうじ)」という役のひとつで、お寺に住んで運営をする人を表します。法律上、代表役員という立場で、なんだが仰々しいですが、要は管理職をさします。

一方で僧侶とは出家をした人全般をさします。住職も僧侶に含まれることではありますが、やっている仕事内容といえば社会的な関わりのことばかりであります。役としての住職という立場と、僧侶として阿弥陀如来(ご本尊)様を前にした関係における立場。この二つの立場が同居しているのだと思います。

 とはいえ、普段の生活ではこの住職という役の立場がいろいろと押し迫っている中で、どこか僧侶としての立場が抜けていくことがあるわけであります。みなさまも普段から身に覚えがあると思いますが、時間が無い中で準備をいそいそと行うと、何かひとつやふたつ忘れることがあろうかと思います。その度に、細かいところに目が行き届かない、自分はマルチタスクに向いていないなと、私自身は特に感じることでもありますが、昨今はこのマルチタスクばかりが求められているのも実情です。能力が上がることは素晴らしいことではありますが、その能力が上がってくると、それに伴って期待や依頼される内容も変わってきます。逆に役が先についていくことで、求められている能力に追いついていない、という我が身の葛藤が出てきたりもします。どちらにせよ一言で解決ができない事象を抱えているのが、不可思議で厄介な存在としての「自己」という面が見えてきます。 

役が付く、増えるということは、個人のキャパシティの問題も当然ありますが、一定の責任が課せられると共に、見えなくなっていく部分が往々にしてあるのではと感じています。自分は何がしたいのか、本当に願われていることは何かと。

役割としてやらなければならないこと、文化・慣習としての在り方、当たり障りない人付き合い、社会的存在としての役割は多々ありますが、要は赤点を取らなければ及第点と思われるというだけなのかもしれません。『歎異抄』に「そくばくの業(ごう)をもちける身にてありける」といわれています。私たちは知ってか知らずか、何かにそくばくされているわけですが、その心を柔和・柔軟にするものが、阿弥陀如来の本願のはたらきでもあろうかと思います。多忙な日々の合間合間には、お手次寺にでもお訪ねいただき、お墓参りや本堂でゆっくりしていただく時間が持てますよう、寺院一同常に準備をし、お待ちしていることであります。法話といえない法話でありますが、ご視聴いただきありがとうございました。