固定観念の危うさ

お話し 青樹潤哉(専西寺住職) 2023年2月20日

 今月の法話を担当いたします専西寺の青樹です。どうぞお付き合いのほどを、よろしくお願いいたします。

 法事の後、境内で楽しそうに走り回っていた幼児が転んで泣き出しました。急いで駆け寄ってきたお母さんが一言「泣かないの!男の子でしょ!我慢しなさい!」すりむいて痛いのに男も女もないだろうと思いつつ、子どもの頃に同じ言葉を言われたことを思い出しました。

 男子たるもの強くあるべし。女子たるものおしとやかであるべし。過ごしてきた時代の業なのか、育った環境なのかはわかりませんが、私の中にも確かに同じ固定観念があるように思います。娘がお人形遊びや料理ごっこをしていると微笑ましく思い、息子が戦隊ものや野球に興味を示すとどこかで安心しました。

 しかし、もしこれが反対だったらどうだったでしょう。娘が戦隊ごっこ、息子がお人形遊びを始めたら、もっと女の子らしく、もっと男の子らしくと、自分の固定観念を押し付けていたに違いありません。自分の持つ固定観念に合えば安心し、合わなければ不安になるのです。

 二十代半ば、病弱だった父に代わり法務を勤め始めた頃、この固定観念が私を苦しめました。僧侶は読経と法話が上手であるべし。けれども、緊張で声が震える、口下手で流暢に話せない。法務を勤める度に、理想の自分と現実の自分が引き裂かれていくようで辛かったです。

 その頃、お世話になった先生に相談する機会がありました。先生は私の悩みを丁寧に聞いて下さった後、こう言われました。

 「人目を気にしないで素っ裸に空っぽになりなさい。裸にならなければ自分の姿はわからないし、空っぽにならなければ、本当に大事なものが何にも入りません。教えに自分を問うことさえ忘れなければ、必ず僧侶としてやっていけます」

 今でも私を支えて下さる大切な言葉です。

 もう一つ忘れられない出来事があります。目の不自由な先輩との会話の中、先輩が一言「海に潜ってダイビングをやってみたいんだよね」と。

 その言葉を聞いて私は正直戸惑いました。ダイビングの楽しみは、綺麗な海と魚を見ることであり、目の不自由な先輩はその楽しみがわからないと決めつけていたからです。

 「海の中の水流の流れ、手の平で魚が餌を食べる感覚、俺も感じてみたいんだよ」

 先輩が発したこの言葉は、私がいかに狭い固定観念の枠に相手を当てはめていたのか、という危うさとともに、もっと広く深い世界があることを教えてくれるものでした。

 法語カレンダーにあった「すべての人間を、すべての型に入れてしまおうと思ったら、とんだ間違いである」暁烏敏先生のお言葉が、ありがたく身に響くこの頃です。