共に救われたいと気付く

お話し 坪内峰生(教證寺副住職) 2022年8月15日

東京三組、教證寺の坪内と申します。よろしくお願いします。


今回は私の生活の中で感じた「手を合わせる心の変化」についてお話させていただこうと思います。


皆さんの中には毎日お仏壇に手を合わせている生活をなさっている方が多いと思います。ただ、日頃から手を合わせていると、その行為が当たり前になりすぎてしまい、手を合わせる所作だけになっておられる方も居るのではないでしょうか。

かく言う私も、お寺の長男として生まれたこともあってか、子供の頃は「父や祖父と同じ形の所作」として手を合わせておりました。子供のころはそれで十分だったからです。


私は大学生時代に一人暮らしを始め、お仏壇の無い生活を過ごしておりました。そうしますと全く手を合わせない生活に馴染んでしまうんです。そして寺に戻ったころには子供の頃のような「所作として手を合わせること」さえも出来なくなっておりました。

日常の法要、それが喩えご門徒さんの葬儀であっても、手を合わせる行為を「形」として出来ても、願いや思いの全く存在しない違和感だらけのことをしていました。


ところがある時、私が生まれた頃からずっと親しくさせていただいた方が亡くなったとの連絡があって葬儀に伺ったのですが、 式場に入ってから葬儀の途中までは何故か正面の祭壇をきちんと見ることが出来ず、ずっと顔を下に向けたままお経をあげておりました。途中で導師として焼香をする際に顔を上げて亡くなった写真を見てしまった時に、急に涙が溢れ出て止まらなくなってしまったんです。


その時は、導師として出仕している身としてあってはならぬこと、と思いましたが、一度出た涙は簡単には止まらないんです。気持ちが落ちつくまでの五分ほどお経が止まってしまいました。その瞬間はまったく理解が出来なかったのですが、その方の四十九日の頃でしょうか「自分にとって身近で大切な人が逝ってしまった」と言うことを自らの心で受け止めて、初めて自分の手を合わせる行為が「形だけの所作」では無く、「先に逝ってしまった大切な方と共に救われたいと願う気持ち」として私の中に芽生えたのだろうと思います。


浄土真宗では「阿弥陀さまに自分を救って欲しい」と願う気持ちが大切と言われていますが、自分が救われることと同じように「自分の大切な人も共に救われて欲しいと願う思い」が生まれてくるのではないかと思います。毎日手を合わせる行為の中には、そういった自分も他人も同じく共に救われたいと願う気持ちが含まれるのではないでしょうか。


人は日常生活では感じなくなっている事柄がたくさんあると思います。なにかのきっかけが無いと自覚できない事もたくさんあると思います。

今、日常の手を合わせる行為がなんであるのかを、家族で話し合ったりお寺で話し合ったりすることで気付けることが、たくさんあるのではないかと思います。みなさんも周りの方々と手を合わせることについて、一度話しあってみてはいかがでしょうか。


拙い話ではありますが、お聞き頂きありがとうございます。