なぜお念仏なのか?

お話 近藤順子(念速寺住職)

皆さんこんにちは。今月の法話を担当します。念速寺の近藤です。よろしくお願いします。

浄土真宗(じょうどしんしゅう)では聞法(もんぽう)が大切だとよく言われます。では一体何を聞くのかというと、それは「お念仏(ねんぶつ)のいわれ」です。なぜ南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)なのか、なぜ私たちにとって南無阿弥陀仏が大事なのかを聞く、ということです。

そして話を聞いて、そうだなと私たちがうなずき、阿弥陀さんの願いを私自身の願いとしていこうと心に決める時、念仏申そうと思う心が起こるのです。うなずくということがないと、念仏を申しても喜びがありません。それは九官鳥(きゅうかんちょう)やオウムが念仏を口にしているのと同じです。

ですから必ず南無阿弥陀仏のいわれを聞き、そうか、南無阿弥陀仏はこういう理由で大切なのかとうなずくところに、信心(しんじん)歓喜(かんぎ)、信仰する喜びが生まれるのです。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は聞くということについて、「仏願(ぶつがん)の生起(しょうき)本末(ほんまつ)」を聞くのだと言われます。

仏願、仏(ほとけ)さまの願い、阿弥陀(あみだ)さんの願いの、生起(しょうき)、生起というのは、なぜその願いが起こされたのかということ、そしてその本末、はじめと終わりです。つまり、阿弥陀さんの願いがなぜ起こされたのか、そのはじめと終わりを聞くのです。

阿弥陀さんは仏さまになる前、菩薩(ぼさつ)として修業(しゅぎょう)を重ねていた時、人間の様子をじっくりと見つめ、人間がなぜ苦しむのか、その苦悩(くのう)の源(みなもと)になっているものを見極(みきわ)められました。

そして二つのことを私たちに教えてくださっています。

一つ目は、私たちの苦悩の源は、関係しあうすべてのものを自分の思い通りにしたいという私たちの自我意識(じがいしき)なのだということ。そしてその自我を中心にすれば、地獄(じごく)が開かれ痛(いた)ましいことになるのだと知らせます。

二つ目は、私たちがどこから来て、死んだ後どこへ行くのか、そのことがわからないから、今の自分に安心できず、死を前に右往左往(うおうさおう)してしまうのだ、ということを知らせます。

これが、仏願が起こされた本(ほん)、はじめです。

そして同時に末(まつ)、終わりです。

世間(せけん)の中で自我(じが)を中心にするのではなく、仏さまの心(こころ)、仏法(ぶっぽう)を中心として、浄土(じょうど)をいつも心に念(ねん)じ、それを保つために念仏を申し、仏さまの心にかなっていない自分を懺悔(さんげ)しながら、だからこそと仏さまの心にかなうようにと苦労をしていく。

そうして地獄の生活の真(ま)っただ中(なか)で、浄土の心を証明していく、それが念仏者(ねんぶつしゃ)の生活なのだと教え、そして私たちに、来たところと、帰るべきところをしっかりと教えて、私たちを助け遂げようとしているのです。

私たち浄土真宗の門徒は、そうやって聞法(もんぽう)を欠かすことなく、世間のただ中(なか)にありながら、死後ではなく、今、ここで浄土を心に開き、教えを喜びながら、選(えら)ばず嫌(きら)わず見捨(みす)てずの人間関係を、目の前の縁ある人とともに実践していく、そういう生活をいただくのです。

お話しは以上です。

ありがとうございました。