たらしめる者

お話 青山満(善仁寺住職) 2022年4月4日

こんにちは。今回ご担当させていただきます。青山と申します。

最近に気になった事柄について、簡単に述べさせていただきます。

2022年2月末に突如としてロシア軍によるウクライナ侵攻のニュースが伝えられました。そして、現在1ケ月ほど経過しましたが、未だ戦火が止むことがありません。

国を追われ難民となっておられる方々が数百万人にも及ぶということ、そして破壊された建物や街並みの映像が日々伝えられています。戦火では子供も含めた多くの一般の民衆の方々も命を失ったということも伝えられています。

毎日流れる夥しい情報の中で気になった言葉がありました。それは「この戦争はプーチン大統領個人で行った戦争であり、いわばプーチン戦争であり、個人による暴走である」という意見を述べるロシア専門家の方々の言葉でした。つまり、独裁者が始めた侵略戦争ということのひとつの表現であろうと思います。

 しかし、わたしの中で何か違和感を感じるのです。「はたしてそうだろうか」と。ロシアの一般民衆には罪はないのだろうかと。誤解していただきたくないのは、ロシアの民衆の方々を差別してよいという意味ではありません。申し上げようと思いますのは、独裁者というのは一人では独裁者にはなれないという事実です。独裁者は独裁者たらしめている者があって初めて独裁者たりえるということです。そこに抑圧や暴力という体制があるにせよ、ロシアの民衆がそのことと無関係ではありません。

 同時に私たちはどうでしょうか。遠い異国の大統領が独裁者であることに何ら関係はないように思えます。欧米を中心に世界の多くの国々が正義の鉄槌をくだすといわんばかりに経済制裁を加えてロシアを追い詰めようとしています。日本もそこに名を連ねています。

 しかし、彼、プーチン大統領が独裁者たりえることに、私たちはそこに責任はないのでしょうか。こう思うのです。経済制裁の反動として、原油価格の高騰や物価の上昇などの経済の混乱、そして、私たちの生活にもマイナス面の影響が徐々に出てくるといわれています。逆にいえば、今まで私たちが何ら意識していない経済的な恩恵の中にロシア経済による恩恵の部分があったことを証明しているといえます。つまり、独裁者たらしめている者は私たちも含まれているということです。プーチン大統領がウクライナ侵攻を指示し、多くの方が国を追われ、命を落とした戦争責任にロシアの民衆と共に私たちも共なる業をもっているのです。

 押して考えてみますならば、同時代を生きる私たちがプーチン氏に戦争犯罪を行わせているということであり、そこに大きな罪業があるのではないかということです。

 仏教には共なる業と書きまして「共業」(ぐうごう)という言葉があります。

思えば、釈尊がお説きなられた縁起の法とは、私たちの存在認識とは、個々が独立性を持たず、依存しあう、つまり関係性であるということを言い表しています。「たらしめる者」としての罪業が共業として、戦争の悲惨さをもって私たちにこのままでいいのかと、その責任からは誰も逃れられないのだと、問いかけてくるのではないでしょうか。

以上です。ありがとうございました。