お念仏

お話 朝倉万作(真浄寺住職) 2023年1月28日

皆さんこんにちは、この度東京3組のリレー法話を担当いたします真浄寺の朝倉万作と申します。

今回のテーマはズバリ南無阿弥陀仏ということについてお話しさせていただきます。

 私たちの真宗ではお念仏、つまり南無阿弥陀仏と称えることが一番大切と言あわれておりますが、この南無阿弥陀仏という言葉は皆さん誰もが知っている言葉だと思うのですが、じゃあどういう意味か分かりますか?って聞かれたらなかなか答えられる人は少ないのではないでしょうか?

 かく言う私もお寺に生まれ、僧侶として生活をしていながら南無阿弥陀仏という言葉の意味は知っていましたが、その南無阿弥陀仏ということを自分はどういただいているのかという事までは考えてはいませんでした。

それがある時、先輩に南無阿弥陀仏と言う事を自分がどういただいていくかを考えないとお念仏ということが何か呪文の様なものになってしまうよって言われてから、本当にそうだなと思って、南無阿弥陀仏ってどういうことなんだろうと考える様になりました。

 南無阿弥陀仏、言葉の意味はサンスククリット語の帰依する、お任せするという意味のナマスに否定を表すア、測るという意味のミタに仏という意味のブッタを合わせてナマスアミタブッダに漢字をあてて南無阿弥陀仏としたものです。

まとめてみると、測ることのできない仏にお任せする、量り知れない仏に帰依するという意味になります。これなら言葉の意味は分かりますが、いまいちピンとこないというのが本当のところではないでしょうか。

少しこの南無阿弥陀仏ということを私なりにどう受け取っているのかということをお話しさせていただくと、阿弥陀仏という量り知れない仏という事を、私は先生から仏というのは働きだと教えられたので、阿弥陀仏というのは量り知れない働きというようにいただいています。私たちは量り知れない働きによって今の自分というものが成り立っていると思うんですね、自分の存在自体ももし自分の両親がお互いを選んでいなかったら今この世に私は存在していないわけで、その両親の両親となると4人、そのまた両親となると8人と、10代遡ると1000人以上のご先祖が繋いできたいのちのバトンが自分のところにまで回ってきてそれぞれがいまこうして私として存在している、その中の誰か一人でも欠けたり、他の人を選んだりしてたらもう私というものはこの世に存在していないんですね、そういう量り知れない縁の上に今の自分の存在が成り立っている。

そして存在だけではなく、今私たちが当たり前のように使っている車やテレビ、冷暖房など文明や文化などもこれまでの先人の営みの上に成り立っているものです。

また同じ時代を生きる家族や友人などの様々な影響を受けて今の自分というものがこうして成り立っている。そういう全ての働きを量り知れない働き、阿弥陀仏と私はいただいています。

そして南無というのはそういう働きに帰依する、頭が下がるという事だと思います。私たちはどうしても毎日の生活の中で、色々なことが当たり前になったり、目の前のことや自分の都合に振り回されて、自分の考えに縛られながら生活しています。そういう生活の中で、南無阿弥陀仏とお念仏して、自分の考えでは量り知れない大きな働きの上に今の自分がこうして存在しているという事実に立ち返るという事が大切なのだと思っています。

これはあくまで私の南無阿弥陀仏の解釈なので、合っているとか間違っているとかは分かりませんし、またどんどん変わっていくものだと思うのですが、南無阿弥陀仏、お念仏ってどういう事なんだろうと考えるということはとても大切なことだと思います。

このお話が皆さんのお念仏という事についてを考えるきっかけとなれば幸いです。