1992~2002、
商店街の秋、
ウインドウに絵を掛けた、
がらんどうの天井
から下がる、
螺旋の梯子を上がる。
卓上に積もる白い埃、
声帯のない電話室、
剥がれた壁紙の下にのぞく、
こんじきの夕日、
そしていま、
ここにある、
風景、
ながいことつづけてきたことはこわれないものです、
と H、
遅日から建屋へ、
地表は軋んでいて、
何かが変わる と思っている。
ペットボトルではない、
四辺形の四隅、
後方伸身宙返り四回ひねり、
を決める、
そしていま、
ここにある、
風景、
つぎはひばりが丘です、
○○においでの方はここで降りると便利です、
下車ボタンを押す。
つぎ 停車します、
完全に止まるまで立たぬようご注意ください、
老犬をひく少女に会う、
麦畑があったところ、
そしていま、
ここにある、
風景、
GENZOがいる給与地
の中、
セルフポートレートではない、
プラタナスのはっぱではない、
そしていま、
ここにある、
風景、
布、
紙、
鉄、
顔料、
等々。
たまるただし 2016「ひょうげん」第24号
輪郭線を潜って入ってきた矩形
コーティングしてふくらんだ
版という配送口
間をおかない選ばない
出遅れ無断の無版法
バスにいて見る茜雲
コミ症元素が一次元モチーフよ
くまない、むれない たわむれや
地につかまってた2014
矩形書法の無版法
再生、再演、再制作
篆刻、伝統、カッパ刷り
美術史パターンのアプリケ
快適、快便。快制作
ひびのフォームを確認し
コンスタントに打つなんて無理
山寺医院のミニマリズム
マンガ、アニメ世代じゃない
わかってないのは俺のこと
現代美術のディスクール
消費者向けのウイスキー
終わったあとの闘争論
対象を描いているので、具象だと思っています
画面いっぱいにかいているだけ
描き方、乗せ方の お決まり要素
これいじょうないサジかげん
コピペ、反転、重ねがき
はきよせられてるハナアクタ
どっちがどっち? どちらともどっち というスタンス
そこに1色、他に2色
あれ、これ、それとしか指しようがない
着陸、炎上
成立配備
プリン、しょうゆ、うに、なまこ
学校外で義務教育
世界経済、温暖化
気になることがかかれてる
現在、ただいま、いま、こんにち
(2015/5/19「朝日新聞」)
「ケイティエム シックスティフォー」(注釈)で
ドローンする
(注釈)「KTM64」 布・鉄
OKETOコンテンポラリーアートakita2013
たまるただし 2015「ひょうげん」第23号
《寄生》とは、共生の一種であり、ある生物が他の生物から栄養やサービスを持続的かつ一方的に収奪する場合を指す言葉である。収奪される側を《宿主》と言う。また、一般用語として「他人の利益に依存するだけで、自分は何もしない存在」や「排除が困難な厄介者」などを指す意味に使われる。「パラサイト・シングル」や経済学上での「寄生地主」などは前者の例で、後者の例としては電子回路の「寄生ダイオード」や「寄生容量」といった言葉もある。
《多面体》とは、複数(4つ以上)の平面に囲まれた立体で、複数の頂点を結ぶ直線の辺に囲まれた面によって構成される。また、三次元空間での多胞体であるとも定義できる。二次元空間での多胞体は多角形なので、多角形を三次元に拡張した概念であるとも言える。穴の開いていない多面体、すなわち球面に位相同形な多面体の、頂点、辺、面の間には 頂点の数―辺の数+面の数=2 が成り立つ。(オイラーの多面体定理)
〔註〕凸多面体とは、全ての二面角が180度未満の多面体を言い、凹多面体とは、いずれかの二面角が180度を超える多面体を言う。
2014.8.10~9.14
Far East Contemporary-Art 2014
旧大和小学校(北海道北見市留辺蕊町大和)
2014.5.18
会場下見
私は廊下の端近くのコンピュータ室の
午後の薄い光の中に立って
旧作『巣』を思い出し
この白い壁に寄生させることにした
岩明均一による漫画作品『寄生獣』は、講談社/モーニング・オープンの増刊F号(1988年)からH号(1989年)に、月刊アフタヌーンの1990年1月号から1995年2月号にかけて連載された。
ある日、空から多数の正体不明の生物が飛来してきた。その生物は鼻腔や耳介から人間の頭に侵入し、脳に寄生して全身を支配し、人間を捕食するという性質を持っていた。寄生後も見た目には人間そっくりに擬態し、高い学習能力により知識や言葉を獲得し、人間社会に紛れ込んでいった。
平凡な高校生である泉新一は、一匹のパラサイトの襲撃を受ける。間一髪で脳の乗っ取りは免れたものの、パラサイトは新一の右腕に寄生、同化してしまう。右手にちなんで「ミギー」と自ら名乗るパラサイトと人間の奇妙な共生生活が始まる。
パラサイトによるものとおぼしき事件が頻発するにつれて、新一は真実を知る者としての責任を感じる。しかし、新一と自らの安全の確保にしか興味の無いミギーは、どちらにも与する気はなかった。 パラサイトらにより世界中でミンチ殺人事件が頻発し、メディアが注目し始めた頃、人間の脳を残している新一を敵と判断し襲撃する。人間対パラサイトの組織的対立が高まる中、この事件で重傷を負った新一は体内に寄生細胞が拡散、より「混じった」状態となった。
日をおかず、わたしはオブジェ『寄生多面体』5体を制作した。
そして、そのオブジェが指示する生命体『寄生多面体』に次のような形質を与えることにした。
それは、人間に寄生し、人間を捕食するパラサイトではなく、人間の住居の壁に寄生し、その壁を損なうこともない、寡黙で愛らしい『獣』達であった。
その『寄生多面体』は、通常の生命体が退化的に進化した半生命体と考えられ、体を固定するための一側面を肥大化させ、不要になった運動機能や消化器官、感覚器官などを退化させた。また、生殖器官は異状に発達する場合が多く、体が生殖器官だけになってしまう例も見られる。
その他、世代交代、寄主間の移動等の奇想に近い考察はここでは割愛する。
わたしはしばらくこのSF的なあそびに熱中し、七月の『斜面516』の製作に取り掛かったころ、このたわいもない妄想(物語)を未完のまま中断した。
多面体はさまざまに姿を変えることにより、ミクロの原子は多面体の頂点に配列され、マクロの銀河系は宇宙の多面体上の空間を満し。立体トラスは頂点と稜を組み合わせ、都市空間は不整形な側面を空間的広がりと時間的深さのなかに拡散させる。
たまるただし 2014「ひょうげん」第22号
四辺形は放射性物質を閉じ込める原子炉、フレームは冷却水と蒸気を循環する回路、それらはきわどく、そして思慮深く隔離された現代社会の意味。
四辺形はミニマリズムのニュートラルな形態、フォーマリズムの絵画では構図の活性化のために他の影響と組み合わされるその合理主義的な世界と関連付けられる意味を、別なものに変えられると思っている。
2014「ひょうげん」第22号
潦(にわたずみ)
コンビニの裏の室外機
生垣
団地の裏の遊具
中央分離帯
を
跨ぐ
解凍する時の想(おもい) 流れ出す日のにぎわい
よるべない 行・列 よ
『平たい塔(タワー)』
花 曼陀羅
2012年、 〝ここにあること〟 と『星団』との間
『ロード・サイド』、『銃痕』、『旅人』、『オレンジ色のフォルム』など、など
窓と椅子の間にある 小さな観葉植物の鉢と、眼鏡、珈琲∪(カップ)など
壁にうつる
カーテンと薬缶の蔓(ツル)の描く
ひしゃげた窓の日影
躑躅が花をつけはじめたころの公園を
弟から貰ったゴルフ∩(キャップ)をかぶって歩いている
そこから 無作為に紡ぐ
多面体の未来
『方形の虚(うろ)』、『真正閣にて』、『キュービックな巣』、『第三建屋』、『亀虫』
星間を渉る始鳥の
拡げる二翼のネット
〝くけまり〟 の糸
それらを
ふぞろいのままに串刺しにする
ピタゴラスイッチ
カガンボが窓ガラスをたたき
雷雨の去った雲に紛れた
蝶の刺さった
空の
パネル
息づく球尻主義(キュービズム)
回帰する『石・刀』
たまるただし 2012「ひょうげん」第20号
壁には大小の作品が整然と掛けられ
天井の蛍光灯の光がそれらをてらしている
ほかには小机とパイプ椅子だけ
そして誰もいない
やがて、男が入ってくる
男は会場をひとあたり見渡し
殆んどうつむき気味に
作品と名前や題名をみくらべ
時々、表情を意味ありげにゆがめたりしながら
会場を一巡する
そして男はIの作品がないのに気がつく
男は数日前の地方紙でインタビューに応えるIのコメントと写真を見ていた
戸口近くの机に近づき、手にとったB5ほどの出品リストに
Iの名前と
題名「ここにあること」、材料「空気」、サイズ「 」とあるのを見つける
そしてこの題名に何か不可解なものを感じ
男は、首を傾げ、そのポーズをしばらく維持する
そして見落としたのだろう そう考えると
こんどは前よりも足早に、作者の名前に注意をはらいながら一巡する
やはりそれらしい作品はどこにも見当たらない
「ここにいること」とは?
あらためて男は手にしているリストを見る
「ここにいること」とは、ここにいる「こと」で「もの」ではない
「観念」で「実体」ではない
また、ここにいるのはI自身のことで
ここにいるI自身も「観念」に過ぎないのだから
ここにいる必要はない
いない方がこの問題の本質をより的確に明示させる
そう考えると、材料「空気」、サイズ「 」についても納得がいった
そして そんななんの材料も手段も使わない
存在してもいない作品が
究極のアートのように思えた
この一連のできごとは男自身にも波及し男の存在をも不安定にさせた
男は周囲に何かの視線のようなものを感じて
あたりをきょろきょろ見回す
誰もいない 監視カメラもない
男はその見えないものに向かって
小さく手を振る そして
男はIの陰謀に乗せられている自分を感じる
しかしそれは決して不愉快ではなかった
むこうがそう来るなら こちらから進んで乗ってやろう
そう考え
さらにどこかでこの様子をライブでのぞいている像を想像すると
それに向かって大きく手を振る
そして、急に恥ずかしくなり
「くぅっ」と苦笑する
それは、この出来事の終わりを意味していた
やがて男は自分を取り戻すと、自分もかって、
美術室のうしろの踊場で一人だけの展覧会を開いたことや
T川の中洲でHと二人で流木を並べたことを思い出した
そしてIの謀に乗って
作品「ここにいること」に参画しえたことに満足すると
芳名簿に丁寧に署名し
うしろを振り向くこともなく
入口から退場する
壁には大小の作品が整然と掛けられ
天井の蛍光灯の光がそれらをてらしている
ほかには小机とパイプ椅子だけ
そして誰もいない
たまるただし 2011「ひょうげん」第19号
チェンジする
『北見創作協会』は「なによりも自らの創作活動を優先させる」を主旨とする集団であり、その「創ること」の多様性を許容し、同じ時代に、同じ地方都市に住み、クリエーティビリティーな活動にはげむものたちの集団である。
『北見創作協会』の二〇年を振り返るとき「創作活動を・・・」とする流れの中にも見えてくるのは確かな変化の軌跡である。
協会の初期の活動では、「われわれの創作活動を取り巻く周囲の状況にも積極的に関わること」として、「市の報奨制度」「市民芸術祭」など一集団が実質運営する文化制度の改善や、空洞化が始まったころの中心市街地の商店街と提携する「街のウインドーギャラリー」など、外向きの活動がみられる。(参照106・107ページ 「年度別事業一覧」(ひょうげん第19号) )
協会が発足した1992年はバブルが崩壊した年で、その後の産業の停滞。若者の地方離れ、インターネットの普及など、様変わりするなかで、協会が「結成の余波が三つ目、四つ目を生み、文化のポリフォニー(多声音)を作り出すこと」と期待した時代はついに到来することはなく、一方協会が市民権を得ていく過程で、自らのあり方を自覚し、本来の目的であるクリエーティブな活動をより鮮明にした流れである。
時代の変化に応じて柔軟に軌道を修正しながら、精度を高めること。集団が生き続けるためには、集団もまた自らチェンジする力を持つことである。
今後も協会はこの二〇年の経験を踏まえ、新たな展望に立って、あるべき集団像の確立に向けての思考と活動を進めたい。
昨年、八年ぶりに文化会議を「北見創作協会の現状と認識」をテーマに開催した。そこには戦中、戦後世代の常連の幾人かはすでになく、新しい世代の顔に変わっており、改めて時の流れを感じた。
事業はこれからも継承するだけでなく、具体的な課題を上げ、内容のあるものにしたい。
「芸術祭」のこと
協会が早くから関わってきたものに、「市民芸術祭」(現・「市民総合芸術祭」)がある。それは一団体の一極的な運営と、市民の文化活動の活発化、多様化に対応していないことに対して異議する活動で、協会は「市民総合芸術祭」の美術展部門を分離し「市民美術展実行委員会」による「市民美術展」としたが、「市民総合芸術祭」本体はいまだ変わっていない。
一方、創作協会は「作品を一堂に会する従来の集約的な芸術祭の形態をとらず、発表の場を、画廊、ギャラリー、街角、広場にも広げ、その全体を一つの美術館・劇場」とする参加方式の「北見創作協会芸術祭」を開催し、あわせて、その期間中に、会場を巡る「作品鑑賞ツアー」を実施する。
また2003年度より、「オープンギャラリー」 (所属・種目・サイズ自由)を2003、2004年にはミントロードで、2005年よりNHKギャラリーで開催している。 昨年の出品者は五〇名に達した。市町村合併後の市民芸術祭として、協会の手を離れ、もう一つの「市民芸術祭」に育つことを願っている。われわれが望むのはそのような市場原理の働いた場である。
フラットなシステム
クリエーティビリティーなかたちとは、多様で個別的状況を突出した個人や一部のものがトップダウン式に把握し意思決定するのではない。個々人の自主的成長性に託するフラットなシステムである。
またそれは、定番メニューを示すことではなく、抽象的なことだけを定め、詳細を特定しない方法で ある。
周囲には、いまだに自らの地域を後進地として、外からやってきてトップダウンで設計する都市設計者や学芸員に依存する体質は変わっていない。地城に対する過度な幻想やエゴを持つことではないが。いつまでも 「落葉運動」ではない。すべての地城はそれぞれが普遍的で特殊である。創作者は自分と自分の属する地域社会にもっと自信と誇りを持つことである。
統計的なことと創作活動とは関係がない
クリエーティビリティーな集団にとっては計数的なこととはあまり関係がない。それは政治や経済の話で、創作活動の内容を決定したり、精密化することはない。
重要なのは個々の活動の成果であり、それが協会の評価でもある。創作の価値は、視覚化、数値化できるものではない。
協会は「会員の増加にともない、組織の維持や運営に力点が向けられ、本来の目的を見失う。」「必要以上に組織を拡張しない。」など、数への暴走に対する制御装置を備えている。
新しい集団のかたち
集団にとって、閉鎖的か開放的かの二項対立の時代ではない。複雑ネットワーク分析をはじめとする情報科学分野などの成果を踏まえた、少しずつ豊かなツールを手に入れることができるようになった。新たな集団のかたちは一人一人の不透明性のリスクに応じて少しずつオープンネスを割り当てられるあり方で、ある程度、外部との連絡路、適度な風穴を持つ、そのようなツリー型を一部に含むフラ ットなシステムである。
クリエーティビリティーな仲間
同じ時代に、同じ潮流にある仲間である。だから作品がどうのこうのというだけでなく、互いにフォローしていくことが必要だ。対立をエネルギーにする時代ではない。
協会はこれからも「自らの創作活動を優先する」自立したメンバーに支えられた、自由な集団として、 会員数や事業の数を評価項目とせず、変わることを恐れず。複数的コンセプト、複数的手法を許容し、不連続、断片性、ずれ、相克等をはらんだダイナミ ズムをもとめて行きたい。
田丸 忠 2011「ひょうげん」第19号
四坪程の
昇順の
ブラインドの
時をみだす陽・影
ゆっくりと戻ってくる
球体の歩行
屈折と切断の境目を辿っていく
線たちの庭
だから
息を潜めて最後まで 引く
木漏れ陽に立つ
兵村の人 人
(六創の時間)
一九九九 四月の木 失った
二〇〇〇 形譜 1 具体の
二〇〇一 面をとらえて 消息
二〇〇二 五面体隣接線分群C 川床を
二〇〇三 象文 8-1 歩いている
二〇〇六 作品2006(部分 箱の
二〇〇七 テキスト(部分 回路
二〇〇八 ハート たたまれる
二〇〇九 グリッド イカルスの
二〇一〇 居住棟 帆
図に絡む地
線に纏う空間
庭石にシンクロする
銅板 の
六華(雪の結晶)
本意を控えて鳴る
オ
・
ル
・
ガ
・
ン
たまるただし 2010「ひょうげん」第18号
ゴォ ォ ォ ォ オォ
ヴヴ ヴヴ
は?
お?
ゴウ
ザザ
ガガ ゴゴ
く
る
!! ??
ド
十のパターンからそれぞれ白黒二点の作品をつくり
さらにそれらを対象に順列組合せする
コンポジション 2009 1 54.5× 72.7 シルクスクリーン
コンポジション 2009 2 54.5× 72.7 シルクスクリーン
コンポジション 2009 3 54.5× 72.7 シルクスクリーン
コンポジション 2009 4 54.5× 72.7 シルクスクリーン
コンポジション 2009 5 72.8×103.0 シルクスクリーン
無題 1 72.7× 54.5 シルクスクリーン
無題 2 72.7 X 54.5 シルクスクリーン
無題 3 72.7× 54.5 シルクスクリーン
無題 4 72.7× 54.5 シルクスクリーン
小さなデータベースの小さなシミュラークル
劣勢こそが優勢だと
リミテットアート
1. エクリチュール 10側面、12側面、4.5稜線、5稜線、6稜線、
2. グリッド a1、a2、b
3. スコア 4.5稜線、6稜線、10稜線
4. ストライプ 12面体
5. 記号合成 ゴシック線、ゴシック面
6. 図形 位相、平行2面体、折線、
7. 側面 10側面、12側面
8. 稜線 4稜線、4.5稜線、5稜線、6稜線、6稜線箱、8稜線
六月
アートの方式を問いなおし
ゴチャゴチャにした
純愛と浮気
集中と拡散
リプレーとリセット
データベース的リアリズム
何でもいいといわれるとかえって辛い
テーマ先行を避けてモチーフ考えると
背伸びしなくても済む
ことばに先立つ
一枚
「エクリチュール」
「遅日」
「ポジション」
「開いている窓」
その一つ手前で
あらぬ方へ反れてしまう
ポスフールで若葉線に乗車
夕陽丘5号線下車 雨・・・
小町川沿いでの
傘を差しての散策と創作
たまるただし協会
「協会ひとり」
〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉と、〈個〉の協会
「教養や教育の場」?
KCUはそんなところなんかじゃあない
「90年代に生きる個たちの周囲には、●●●●●●●●、●●●●●●●●●●、●●●●●●●●●●●●●●●●●など、●●●●●●●が、●●●●●●●しています。●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●、●●●●●、●●●●●●●●●●●●●●●させ、●●●●●●●取り戻すことを願っています。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●が、●●●●●●●●●●●●●●となり、●●●●●●●●、●●●、●●●●●●●●●●『●●●●●●』●●●●●●●●●●●●にしました。」
風来山人で肉を焼き酒を飲んだ
たまるただし 2009「ひょうげん」第17号
柩の折り方
山折り線の向う
立ちのぼる
幻の形象を封じ、
十一の部屋を並べた
オオウバユリ の 種
さんしょううお の
プラタナス の はっぱ
花弁
K市 の 五叉路
(空所も作品の一部で印刷ミスではありません)
形態学(釘)
(な
位相
(は れ)
椅子の背でバランスをとる
シクラメンの鉢
木漏れ日
遅日
ブラインド
スコア グリッド 線分
(出来ること出来ないことがはっきりしているから
他の人のやり方は参考になりません)
角材に
青い譜形
他動選択
―90°
りんご
ハート
(ひとつのシーンばかり繰り返していました)
二〇秒―
二五秒―
7 8 9
三〇秒―
二回目の休みに入ります
午前10時
(寄り添う感覚が生まれ
もたれかかるように
沿うようにして
態勢を立て直しました)
タマルタダシ 2008「ひょうげん」第16号
山下通りを一丁ほど入った左側に画廊喫茶ジャンルがある。斜面はそこで毎月、通常は月の前半、あいている場合は後半も通して月例展を開催している。
二年ほど前には店頭に"おいしい焼きたてのパン" を並べていたが、ママが体調を崩しいまはやっていない。店の脇と奥にはけっこう広い駐車場があり、裏口のドアを押すと早朝から開店前の近所の商店主や夜勤明けの運転手が朝刊を読んでいる。
店の前のB2版ほどのポスターは毎回勝谷さんが作ってくれていて、今回展の447はその回数を示している。四〇〇回記の記念展には使用済の毎月のポスターで北綱圏文化センターの美術館前室の壁をうめた。 来年五月には月例展とは別に四五〇回記念展を開催する予定である。
会則の「毎月第一日曜を展示日とし、合わせて例会を行う。」にしたがって、六時前後に会員はいつものところに作品を掛ける。発会以来この日のために一・ 二点の作品を欠かさず作ってきた。それはいまでは習慣化されて生活に繰り込まれている。
2
現在のメンバーは阿部賢一、安藤志津夫、岡崎公輔、 小川清人、小川みち、 勝谷明男、下地敞、 鷲見憲治、高森忠、田丸忠、富沢裕子、林弘堯の十二名で、下地さんはいまは体をこわし療養中で早い快癒が待たれる。富沢さんは五年前にボリビアから帰国し、皆勤とはいかないが美深町から元気な顔を見せている。 鷲見さんは最近白内障の手術を済ませ、視力の回復を「鏡に映った老人が一瞬自分だとは気付かなかった」と笑わせ、来年の卒寿展に向けて意欲を燃やしている。展示後の例会は制作から世間話まで尽きることはない。最近は特に健康の話題が多くなったことはやむをえないだろう。
3
発会した1968年は日本の美術もまだ「戦後」の中にあって、会員の作品の様式にはそれほど大きな違いはなかったが、その後の国際化・情報化は、斜面にも様式の多様化を増大させた。当時各地にも多くのグループが誕生し、姿を消していった。そのような状況において、斜面が組織を維持していることに対して「妥協を嫌う絵描きがよく喧嘩もしないで・・・」と批判的に見られることもあった。 しかし限られた地域社会にあって同じ仲間として絵を描く喜びを共有すること は、時代が求める異質な他者を認め共に生きる共生社会のすがたであり、斜面の道程ははからずもそれに先行する壮大でささやかな実験の場であったとみることができるだろう。
4
ここに来て表現様式の多様化は活動の多様化として、グループ内グループという新たな展開を見せている。
一つは堅実な技法に裏付けられた具象絵画を標榜し、一つは今日的傾向の美術を志向する。具体的には、前者は毎年写生旅行に管内や道外に車を駆り、その成果を「旅のはしりがき展」に発表している。また酒豪が多いことから「斜面」をもじって自ら「酒面」と号している。後者は斜面現代作家展の開催、 CIRCLATIONや北見現代美術展などの活動を通して他市との連携の輪を広げている。
十五年前より一月展ではテーマを設けている。テーマは前年の忘年会で決めているが、喧々諤々、簡単には決まらない、会員はその過程をむしろ年末の恒例行事として楽しみにしている。今年のテーマは断水、ガス漏れ、東急デパートの閉鎖など、市の一年を振り返って「いま・北見」とした。それは濁流の現場に足を 運んだり、普段とは異なる取り組みを促し、自分のアートを振り返る機会にもなっている。ただそのことで自らの手法を崩すようなことはない。
「オホーツク美術2008.6月号」の一文を手直し転載しました。
田丸 忠 2008「ひょうげん」第16号
間【ガ】ッタ、字体――
疊、疇、・・・・・・、
花、区/路、黒から 七色。
畝、降る (フル)
釘、に、ハ、
田のうね (田に似て)
(掏る)
ギ の
大突(ツク) 尽く
04―04「ひも」、
ラバーグローブの、飛ぶ
枯れ芝
スカシユリの 手
/となると何も変えられません。)
角を 曲がる
髭剃リ・考
Vacillation (な
葵、青い 路線 ―――
(目の前を通り過ぎて行きました。)
折れた 木偶の、
切 株
マロニエ、雨 ・・・・・・
迫る 立方体
Tノ野、曼陀羅 の
塁、1980
、眼鏡の縁から、射る、
廃校に
/A4のオーロラを並べました。
透ける 波頭 ―――、
(幻となった)花のロード
生える 圃
農 の 模擬、
(幻となった)花のロード、
植物園 の
屋根を抜いた
ゼラチン質 の、
そら、
・・・・・・
中州に
流木を、組む、( ) 無。
タマルタダシ 2007「ひょうげん」第15号
語られることと見られることの地表
顕在化するものたち
非定形なフォルムAを
任意の空間s1~s12に立ち上がらせる
「幻 A-s」 斜面200 1987
般若心経の〝観〟から〝見〟までの一六文字の中心を四時の方向に一定距離移動し
45°ずつ回転してえられる図形A~Pをテキスト順に配置する。
「文字によるワーク」 北見現代美術5 1992
「できないことのプラン」
「裏返っている途中」
無軌道に増殖するものたち
一つの意味が照らし出される
「生える」 CIRCULATION記号 1985
私の住む盆地の自然、根拠地の日常、記号化された場所。
無限の循環のなか、息づく時の記憶。
「揺れ動く」 斜面300 1995
そのもののかたち
指示対象をもっていないかたちそのもの
「側面のかたち」 斜面400 2004
言語、非言語を問わず、なにごとかを意味する単位としてのマークは一回のできごと
に尽きてしまうのではなく、異なるコンテキストにおいても反復し、リサイクルされる。
「作品2005」 北見現代美術10 2006
文字、字体、書法、書くこと
「徹底して繰返せば網膜に映るイメージはイメージでなく観念になる。 」を論拠に
『言語 T』を創案する。
「テキスト4」 オホーツク春期29 2006
たまるただし 2006「ひょうげん」第14号
小学校前の隧道をくぐって
寺の横に出る
十字路と寺沿いの脇道
右前方に鳩の住む空き家
(大学を出てこの学校に勤めた)
………………………………
公園前の旧道と十字路
ここの近くに住み
息子が生まれた
昨年、工大へ行く谷に陸橋ができた
………………………………
三叉路と二つの市道
角に紳士服のチェーン店、歯科医院、ちゃんこ鍋の店
空地、空き店舗
………………………………
十字路と合流する道
近くに家を建てた
補助車を押してクラブに出かけていた母は四年前に逝き
妻は花をそだて
息子は国外に
私は近くの公園を歩いている
常呂川 源「サ・ト・バ」2002/07
カイガラムシのついたイチイを切った20坪ほどの庭に、スミサンからもらったオオウバユリを植えた。
(オカザキサン、トミサワサン、アラキサンなどからはツツジ、リンドウ、ニシキゴロモ、ムスカリ、ベンケイソウ、アジサイなどをもらった)
秋には羽についた種を飛ばした
オオウバユリがルリタテハの食草だと
シャメンの忘年会でオカザキサンから聞いた時
私は山間(やまあい)に密かに咲くオオウバユリに群れ飛ぶ
瑠璃色に縁取る黒い蝶を想った
今年の夏は蝶が少なかった
(一昨年はエゾシロチョウが異常発生した)
いまは雪の舞う十二月の庭
雪が舞う
チョウが舞う
瑠璃色の
チョウが
舞う
常呂川 源 1998-1斜面328「ことばと絵」
野鳥の羽
階調に単化する造形の中に雪山は消去される
羽化を待つモノクロームの記憶
保管する仕切り箱から
この場合
放射状の花の絆
花の実質と花の制度
呼び出され差異化された瞬間の
形象と機能の場
花と蝉
蝶と蝶'
つくられる記号の連鎖
実体のない差異の網目に
盛りを過ぎた水芭蕉
孕み蝉
草の実、その他、不明のもの
どれもが物陰に潜むのを嫌うから
「樹間」2のムスカリはここにも現れ
吹き寄せられる、落ち葉二枚
サンショウウオは裏側から表面に這い上がろうとする
註) 1 花のまわり 2002 シルクスクリーン 50.0×54.0
2 樹幹 1998 シルクスクリーン 26.0×18.0
たまるただし 2004「ひょうげん」第12号
ボール紙製の筆入れ 紙・糊 2001
「ボール紙で作った筆入れ〈1941に制作〉」を倍率200%で復刻し
創作協会現代作家展に出品する
半世紀のときを経てこの期に回帰する
未完のまま放置したものの かたち
1941
ボール紙・糊
10面体の三つの面の組合せを抽出する
そこにあった、一つの出自
筆入れ、セルロイドの、五色のクレヨン
完結はないにしても
ときを経て
サ・ト・バ 2001/10
梢がライトを受けて
そこだけに人の動きがあった
大型スーパーが建つあたりは
埋蔵遺蹟のある丘陵地で
麦畑が広がっていた
飲んだ帰りはHとよく歩いた
「北見叢書」の表紙に
そこで出土した瑪瑙製の石刀(注)をシルエット状にしたのを
昨年亡くなった芋版の名手が誉めてくれた
スーパー前でHと分かれ
そこからは一人で無人のK小学校のグランドをのぞいたり
灯の消えた公民館の窓をうかがったりして
二町ほど来ると「鉄板倉庫」でタクシーに通じた
小さな倉庫のあった所がある
昨年「Opera」という美容院が建った
そこを曲がると我が家である
(注)北見市北進町遺蹟、1984
たまるただし 2003「ひょうげん」第11号
ありふれた蝶の
蝶らしい
蝶のかたち
ありふれてなければ
(伝わらないから)
蝶でなければ
(ならないから)
かたちになって
蝶は
この作品にも飛来した
たまるただし 2003「ひょうげん」第11号
中央に大輪の芍薬の花を、
左上に方眼の格子紋、
右上に実らなかった1998年の秋の稲田、
北の夏の夜の祭、暮れる流氷原を、
左下に木造の展望台、野に立つ人影、
右下に一株の水芭蕉と草叢の造形物を置き、
全面にエゾシロチョウの群れを落下させる
その工程の中に名のあるものは名を失い形象一般と化し、
ただ「揺れ動く」としか言いようのないものになる
サ・ト・バ 2003/4
1982年には胴の縊れた双生の球体Sを空間に充填させ
<箱の中>では球体Sを四つに仕切った長方形に入れた
子供のころ住んでいた長屋
「天球」という若い駅士がいた
子供たちの駆けぬける西日の駅舎
一棟の「吹き抜け屋台」が絵巻のように浮かび
宇宙人がいる
子供たちは「てんきゅうさん」と呼んだ
「天球」ではなかったかもしれない
サ・ト・バ 2003/3
足の裏の中に
体を畳む
片方の足の裏の中に脛を
脛に腿を
腿に腰を
腰に
胴と片方の腿を
胴に腹を
腹に胸を
胸に
首と両腕を
首に
顔と耳を
顔に両目と鼻と口を
腕に手首を
手首に手を
片方の腿には
脛を
脛には足を
体の外部器官が
足の裏の中に圧搾され
手がVサインする
たまるただし 2002「ひょうげん」第10号
髭を剃る順について
考察する
鼻の下、口の下、もみあげ、顎、顎の下
という習慣や合理性を問い
その前提からの解放について
非日常の違和感を超え
髭を剃るの時系列の転覆を
課す
顎の下、顎、もみあげ、口の下、鼻の下
という(逆)順
ポスト髭剃
ポストでないかぎりモダンはありえないと
存在する諸規則によって支配されない判断
髭を剃る
髭を剃る順について
今朝
洗面所で
サ・ト・バ 2002/5
ゴム手を地上に立てた一メートルほどのの鉄骨に被せ、中空に浮上させる
「オブジェG」(「Rubber Gloves 1~4」のために)を用意する
「オブジェG」を
美術室裏の階段の踊り場
いきつけの喫茶店から見える交差点
廃校のグラントの鉄棒の脇などに置き
撮影しスクリーンに投影する〈プラン1〉
林の中に
「オブジェG」を出没させ
固定させたビデオに撮り、再生する〈プラン2〉
「オブジェG」を
ミュージアムに持ち込む
フェティシズムの神として〈プラン3〉
ゴム手を
一軒の「働く人の店」から
風船のように舞いあがらせる〟
オープニング・パフォーマンス「Rubber Gloves 4」を
演出する〈プラン4〉
「はい!」
ゴム手が
肯定の手をあげた
北見創作協会現代作家展 2002/10/30
上行結腸を切り取った翌年
F画廊の壁にプリントした釘を降らせ
手術前に医師が示した腸のドローイング
(紙片に病巣や切除個所を示す線が美しい)と
退院後、疵跡を撮ってプリントしたTシャツを並べた
オープニングでは
そのTシャツをつけ
ひそかに
「疵跡を着ている衣服上に刻印する」
模擬行為を演出した
疵跡をプリントしたTシャツの下の
疵跡のある皮膚の内側の
私の短縮された腸管は
順調にぜんどう蠕動し
パーティの料理や酒を
程よく消化し吸収し固形化し糞便にして
輸送した
街には釘が降り
その夜の私の腸は終始快調だった
サ・ト・バ 2002/9
軟鉄製。
ステンレス製、銅製、真鍮、竹製などの変種や亜種も多い。
15.0cmから1.6cmまでの14のサイズがある。
今日では、金物屋のほか、
小袋に分けられてスーパーなどでも売られている。
頭、胴、尾の三部からなり、爬虫類有尾目に似るが、鱗、足、生殖器は見当たらない。
頭は皿状をなし、頭頂には浅い浮彫状の方眼状紋がある。
胴は胸と腹からなり、その境界は明瞭ではない。
胸の両側には山椒魚や蛙の幼生期の鰓を思わせる四・五本の線状痕がある。
腹は全体の八割を占め、主としてこの部分が屈折することで方向線を外した作用からの弊害を排除する。
尾は四角錘状に尖り、その先端は球面をなし用途外のものを損傷することはない。
サ・ト・バ 2002/1
1、自然な正六面体 1982.8.28-9.8 枯芝・紙・鉄
枯芝を貼った立体の光と影を
枯芝を貼った壁の亀甲の穴に照射する
別な日、詩人がそこに腰をかけてが詠んた 北の朗唱+IMATIK/1988
2、生える、圃 1985 塩化ビニール・鉄・芝草
床面に枯芝を敷き、1メートルほどの鉄骨六四本を立て、
それに塩化ビニールのホースを被せ
尖端の余る部分を無作為に屈曲させる
偽装する農のかたち
誰かが、鉄骨の根元に小鳥の骸を置いて
3、穴のある突起 1985 枯芝・紙
頂点に穴のある高・低二つの伏せた碗状の突起を壁につくる
壁の闇が覗くように
捨てられた巣のように
4、寄生する襞 1985 枯芝・紙
喫茶Jの天井から壁にかけて
枯芝を貼った楔状の襞を形作る
巣くう虫たちも封じ込めて
5、壁に芝を下げる 1985 枯芝・紙
枯芝を貼った芝のマットを
紐で繋いで壁に下げる
草の記憶や芝の手触りを
サ・ト・バ 2002/10
風景の中の文字を残して
風景を消す
午後の
積乱雲の
右・下方
い78-00、み84-64、に37-55、た79-00 (車のナンバー)
中央・やや下方
101、北30 (アパートの棟の番号)
中央・下方
大売出し、大売出し、大売出し、大売出し・・・
(スーパーの旗)
左・下方
せ12-21、い89-41、い28-24、て36-59 (車のナンバー)
左・中央
米夢館 (古代米の店の看板
サ・ト・バ 2001/3
角を曲がったところから道は弧をえがいている
高みから俯瞰しないから
路上からは
角の向こうを考えることはない
過ぎてきた道筋は消え、次の道は現れていないから
角の彼方を素描することはない
二つの道が入れかわり
繋がることはないから
現れるままに、並べられる
角において一つがとじ、一つがはじまる
そのとき、あらゆる行程は残らないから
次の道はつねにあたらしい
たまるただし 2001「ひょうげん」第9号
となると
ただ一つの規則は手を加えないこと
すこしの歪みもかすかな裂け目も
何もかえないこと
一つのかたちが
別な展開によって
様式や周囲との関係によって
もっと説得力のある分析、そう考えるときでも
ニュアンスによって
洗練された技法によって
それ自身に対する否定や取り消しによって
あるいは未決定に思えるときでも
とりわけ表現のなにかによって
そう見えるときでも
たまるただし 2001「ひょうげん」第9号
ITと文化活動
―第七回北見文化会議報告にかえて―
インターネットの普及が進み、社会や個人のライフスタイルにも多くの影響を与えており、いまさらパソコンなどできないと思っている人もそれでは済まない時代になっています。このレポートは「IT時代における文化活動とそのしくみ」について話し合われた「第七回北見文化会議」の報告(フリートーク形式の進行を容易に記録することができなかった)にかえて、私の「I T」と「芸術文化活動」についての思いを述べたものです。
尚、このレポート(私にとって重荷な)を書くにあたってあらためて「IT革命―ネット社会のゆくえ―」 西垣通(岩波新書)、「インターネット熟語集-サイバースペースを生きるために-」矢野直明 (岩波新書) 、「インターネット超活用法」 野口悠紀雄 (講談社)を読み参考にしました。
…………………………………………………………………………………………………………
北見創作協会でもパソコンなどにはとんと縁がないと思っていた人から、「ホームページ見たよ」といわれ、あらためてドッグイヤーといわれるインターネットの急速な普及を実感させられます。
五年後にはほぼすべての市民がネットを使いこなし、九割の家庭が高速通信網に接続するようになるといわれています。ほんとうにそんな時代が来るのか。
次は、とりあえず私が描いた二・三年後の未来図です。
その頃には、協会でも日常のやりとりや資料の収集なども〈インターネット〉が使われ、協会の事務局からの案内や連絡も〈Eメールで受け取るようになり、ホームページ〉に自分の作品や創作活動を公開する会員も珍しくなくなります。協会でも自分たちのローカルな〈サイトを立ち上げ「五月祭」や「ひょうげん祭」「芸術祭」「ウインドーギャラリー」「文化会議」などのイベントや「総会」などの報告などを公開し、 「ひょうげん」(文芸誌)への投稿や協会への入会・退会の手続きもそのベージ上でできるようになります。ページ上で会費の納入やチケットの購入をするまでにはまだ少し時間がかかるかもしれません。 会員限定の掲示板で会や同人誌の感想を書いたり、「協会のあり方」や「芸術祭のもち方」についての討論に参加したり、ホームページの〈リンク集〉から会員のホームページへ直接アクセスしたり、メーリングリスト〉にメールをして、登録しているメンバー全員に自分の写真展や音楽会などの案内を配信することもできるようになります。
またその頃になると、 協会外にも同じような文化芸術関係のインターネットの共同体ができており、それらをとり込んで自治体規模のより広域なサイトができ、ネットワークのネットワークがつくられます。これが後にふれる文連や文化団体連絡協議会に代わるインターネット上の中間的組織です。
ここでは「市民芸術祭」の募集や案内、「市民文芸」の作品募集、「ネット市民芸術祭」や「ネット市民文芸」の開催、「北見市賞」や「市民芸術祭のあり方」などについての討論会が開催され、サークルの紹介、ホームページのリンク集〉、自宅のパソコンから公民館などの公共施設の予約、電子会議に登録して行政への提案なども行われます。
このようなインターネットによるコミュニケーションの手段の発達は、地域の文化団体の間に新たな関係を生み、既存の団体の改廃や再編を加速させることになるでしょう。
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北見創作協会は結成以来、全市的なイベントのほとんどを一団体が仕切る前時代的な構造を、だれもが参画できるしくみに変え、新たに「文化団体連絡協議会」をつくることを提案しました。「第五回北見文化会議」ではこの「文化団体連絡協議会」も、「固定的で単一という点では従来とは変わりがなく、 既得権益の土壌になりかねない。 行政と市民の間に、このような中間的な組織はいらない。必要ならその都度関係者でつくるのがよい」という意見が多くの同意を得ましたが、「それでは煩雑で手が掛かる。何らかの仲介的な組織は必要だ」という意見もあり、結論をえることにはなりませんでし た。
そして今回の「第七回文化会議」で、ITがその不可能性を解決する有力なツールとして、というよりは、ITによるインターネットそのものが、文連や連絡協議会 に代わる第三のしくみとして取り上げられました。それ は、従来のピラミット型の階層組織の頂点から末端に向 けて情報を流すしくみではなく、ローカルな一つのサイ トを介してインターラクティブ(双方向)に交信するシ ステムです。 それはまた協会が結成において多くの団体 や個人が共存する様を「コラージュ」とか「パッチワー ク」としてえがいたかたちでもあります。
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今日、国と地方、トップと現場、産地と消費地を直接結ぶ、中間業者を介さないいわゆる「中抜き」という現象が進んでいます。
IT革命とは、そのように情報の中間的な搾取が除去され、われわれ一般人が情報機器を操作して、情報を蓄え、編集し、発信することができるようになることです。
だからといって、中間的組織がまったく要らなくなるわけではありません。すべての人が十分な情報を使って最適な判断をすることなどできませんし、例えデジタルデバイドが解消しても、一人のインターネットの利用者が巨大なウェブを共有することなど考えられず、せいぜい一つか二つのローカル・ウェブの熱心な利用者にすぎないでしょう。そのウェブの一つがここでいう文連や連協議会に代わるインターネットの中間組織です。
われわれの社会はサイバースペースとリアルスペースからなっています。サイバースペースもリアルスペースでの身体同士の直接の出会いがなければうまく機能しません。それがIT革命後の「創作協会」の「オフ会」としての「五月祭」や「ひょうげん祭」です。
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光ファイバーなどのインフラも必要ですが、みんながインターネット機器を使えるようにならなければどうにもなりません。インターネットのサーバーとの契約、保守、運用は個々の団体にとってかなり負担です。さし当たっては身近に相談にのってくれる仲間や、ユーザーの身になってサービスをしてくれるソフト企業や、大学、専門知識を持った住民などによる非営利組織・NPOや自治体などの支援が欠かせません。
コンテンツ(情報の中身)の創出も重要です。 大きな目標を立てることではなく、小型プロジェクトをこなし自己変革を繰り返しながら進化させることだといわれます。郷土の歴史資料などもインターネットに公開して、市史の編纂もその掘り起こしの過程ですすめるべきです。また自宅のパソコンからの公共施設の予約、市民文化祭の参加申込、講座の受講申込、チケットの購入など のしくみを持つ電子自治体の推進、ITディバイド (格差)の解消などの積極的な取組みを期待します。
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IT革命は一過性の現象ではなく、地球規模の生活革命です。 インターネットによる文化の均質化を嘆いてもはじまりません。美術も音楽も文学もITなどで代替できるものではありません。文化は大衆的なものだけではないし、どんな時代にも文学や芸術に関心をもつ人は存在します。ITも芸術も共に発展させることも可能です。何よりITによって世界が小さくなることもよいことです。
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今のIT革命は、「日本再生の切り札に」とか「いかに手っ取り早くビジネスチャンスをものにするか」など、目先のことばかりで、人間のあり方や未来についてはあまり問われません。問題なのは、ITによるネット社会ははたして生きがいをもてる社会なのか、従来の家族・地域・国といった共同体はどうなるのか、それらを支えてきたモラルや価値観はどう変わるのか、また創作協会のような組織はどうなるか、ということです。
IT革命によって個人が情報を持つことはすばらしいことですが、そのことによって民主的な連体が獲得できるわけでもありません。ネット社会は問題意識、メンバー、言葉、文化などを異にする無数のローカルな共同体が共存する、欲望にみちた刺激的な空間でもあり、そこにも当然さまざまな排他性が派生します。
「北見創作協会」はここにおいても直面するこれらの問題を問うスタンスを持ちつづけ、インターネットによるコミュニケーションの発達を、新たな民主主義のチャンスとして捉え、協力と信頼を基本にする表現者の新たな共同体として再生したいと考えます。
田丸 忠 2001「ひょうげん」第9号
窓 1
右より
1. 道端の街路樹の根元に高く積まれた雪の山
2. 車が屋根だけを見せて走り
窓の近くを人が過ぎる
3. 信号機が色をかえ、車が絶え間なく停発進する
斜面に中学校の校舎、うしろに雑木林
スーパーの脇の坂道を車が下りてくる
4. 通りの向かいに木造白壁二階建の事務所風の家
家の前に数台の車
サ・ト・バ2001/12
窓 2
二羽の野鳥
二羽の野鳥去
二羽の野鳥もどる
二羽の野鳥
サ・ト・バ 2001/12
ID・バンド
< 1875号
< 男
< 1930・7・15 生れ
─この日が「差延」の著者*1と同じと知ってからいっそう身近にした 彼を
一月二五日 午後一時五〇分
C 零下十八.六度
流氷が着岸した
千年紀の最後の年は大腸切除から はじまる。
一九九九年
天体マニアの林弘尭 と 仁頃山陰でへール・ボップ彗星群
を観察し、 「オホーツクのエッジから」*2を終えたころから 釘
を並べ はじめ
「月あかりに
生と死が
海の階段をのぼってくるのが 見える」
竹江邦子の作品(群)と 付き あわせ て
清月*3に掛け た
年暮れ、Tシャツ〈釘〉をプリントした ほかの搬入をたのみ
「斜面三五〇」*4はベッドで勝谷明男が撮ったスタミナハンディーカムの液晶画面
で 見た
(シャックリしていた。)
深夜
点滴 の ランプ の 明滅
カーテンのまじきる 暗がり*5 に
山陰に降る、へール・ボップ彗星の光跡と 反復する《釘》のプリントと、を、
重ね て い た
《釘》、
降
る。
《釘》降るTシャツの 中身
スタミナ が還り
臍を 迂回して匍匐する
〈疵〉と 日常
行けなかった高知市*6で Tシャツが三着 売れ
ホームページ*7の「今月の作品」に
《疵》を 載せる
注 *1 Jacqes Derida〈ジャック・デリダ〉(1930-)フランス
*2 「オホーツクのエッジから/三つのベクトル」 1999・7・23-8・15 北網圏北見文化センター美術館
*3 「版画(え)と詩(ことば)」 1999・10・1-15 清月画廊
*4 「GROUP斜面350」 2000・2・6-13 北網圏北見文化センター美術館
*5 北見赤十字病院 南館503
*6 「GROUP斜面+高知市展 交流美術展」 2000・2・27-3・15 高知市立自由民権会館
*7 http://www3.ocn.ne.jp/~galleryt/(現在はサービス中止)
たまるただし 2000「ひょうげん」第8号
1 雪原
そうとしかいいようのない
2 絵をかく男
かっての私
すでにそれとの同一性は薄れている
したがってこの場合別人と解してもかまわない
3 絵
男の見る雪原
詳細は見えていない
(私は当時の作品を残していないから)
4 靴跡
(男は去っている)
砂絵
絵具が零れている
5 傾く雪原
(男が画布を運ぶ)
6 凍上してた戸口
画布を入れる
7 室内の雪原
(入れ子式に)
石炭ストーブ、赤子
雪原を
よぎる人影
サトバ 1 1999/8
反復する
反復する可能性を反復する
反復する可能性により
花を
花の周囲を消し
花の意味を消し
花の零度を反復する
蝶と瑕(きず)の
オホーツクを、ヒロシマを消し
オホーツクを、ヒロシマを反復する
映像を消し
色を消し
稿を消し
票を消し
商標を消し
フレームを消し
蝶と瑕を反復する
ことばを消し
喧騒を消し
余白を消し
近傍を消し
署名を消し
種子を消し
出典を消し
滓を、一つの文字を反復する
動機を消し
終末を消し
差異を消し
質量を消し
位置を消し
意図した分だけ反復する
アートを消し
文学を、音楽を消し
あらゆる法を消し
自他を消し
風景を消し
午後を消し
時を消し
明日を消し
反復し反復する
たまるただし 1999 「ひょうげん」第7号
「つくる」環境と「ふれあう」空間
あらたなる真の文化都市空間の創出をめざして―「第五回北見文化会議」報告―
一月半にわたって行われた「芸術祭」を終えて間もない十二月五日、同祭のしめくくりとして、北見創作協会は北見芸術文化ホール内多目的室において「第五回北見文化会議」を開催した。 創作協会九名、文連関係者五名、一般五名、報道六名、計二五名が参加した。
同会議は何らかの答えを求める場というより、むしろ問題を掘り起こす場として、まえもって用意した話合いのポイントにしたがって進められた。本報告もその趣旨にしたがい多岐にわたった諸意見を項目ごとに列記することにとどめた。ただ、それぞれの意見の背景を明らかにするために、各項のはじめに注釈的解説を付け加えた。
① 文化活動の現状とあり方
現在の北見市の芸術文化活動のしくみは、北見文化連盟(以下文連と略記)を中心に構成されている。 それは文化団体や個人がすべて文連の傘下にあるという前提から成り立っている。しかし内情はそうはなってはいない。文連は昭和四二年に文学、美術、音楽の団体として結成され、組織が拡大するにともない、団体間の調整機関としての役割をそなえ、市の文化行事を一手に主催するようになった。
当初はほとんどの団体や個人が文連に加盟していたが、現在ではそのような文連のあり方をよしとせず、独自に活動する個人や団体が多い。
このような現状とそのあり方について次のような話合いがなされた。
・文連は、今日の多様化した市民芸術文化活動の受け皿にはなっていない。
・一文化団体が市の事業を独占すべきではない。
・それが文化活動の伸びなやみの原因になっている。
・文連を市の出先機関のようにして、やるべきことをやってこなかった行政が一番悪い。
・今の文連には既得権にしがみつき、保身的になっていて、全市的視点を欠いており、自己変革など期待できない。
・文連の外にある者にも、このような状況を傍観してきた責任はある。
・問題意識を持って運動を進めている団体や個人も力量も戦略もなく、状況を変えるまでにはいたっていない。
・芸文ホール等の使用料の減免措置がなくなったため、文連にいるメリットがなくなった。
・そのことだけで文連に所属している団体もある。これから文連は変わる。そんなに目くじらを立てる事はない。
・文連の会員や市職員も含めたこのような会議が成立するのも、状況が変わっていることの証拠だ。
・文化活動とは過程を重視する活動だ。結果がよければいいというようなものではない。
・文連が行っている仕事には誰かがやらなければならないものもある。
・仕事そのものを否定しているわけではない。誰がどうやるかということだ。
② 市民芸術祭のもち方
北見市の「市民芸術祭」は、昭和二二年に公民館活動として始められ、昭和四二年に文連が引き継ぎ、現在の「市民芸術祭・総合芸術祭」形式の芸術祭は昭和五六年から行われている。 はじめの頃は文化団体の数も少なく、発表の機会や場も限られていたが、いまは活動も盛んになり、独自にいろいろな企画がなされて いる。したがって「市民芸術祭」のあり方も当然変わらなければならないはずであるが、相変わらず同じようにくりかえされている。
このような現状で、平成八年に開基一〇〇記念事業 「北見市/晋州市交流美術展」、平成一〇年に「北見市・高知市交流美術展」が実施された。一つは、その前年に晋州市で行われた「晋州市・北見市姉妹都市提携一〇周年記念交流美術展」、いま一つは、高知市の「市民展五〇周年記念市民展」に北見市の作品が招待されたことと関連して開催されたもので、教育委員会(社会教育課)はこの事業を文連外の団体を加えた実行委員会を組織し、「市民美術・書道・写真展」として、市民芸術祭とは別組織で行われた。本年からはこの経験をふまえ「市民書道展」、「市民写真展」、「市民美術展」として実施する方向で関係団体間の話し合いがなされている。
このような芸術祭の現状について、次のような意見があった。
・市民の文化団体の一つにすぎない文連が市民芸術祭を主催するのはおかしい。
・他の団体も企画段階から参加できるようにすべきだ。
・今回の「美術・書道・写真展」は今後の芸術祭のあり方を示す一つの方向だ。
・市民展は交流展のためのものではないが、 これからも行政区の枠を超えた交流の機会も増えてくる。 そのようなことにも柔軟に対応できる「市民芸術祭」であるべきだ。
・市の文化活動のしくみも、特殊なものではなく、どこのまちにもある、普通のものでなければならない。
・「芸術祭」を総合して行う意味はなにもない。 統合よりも分散、画一化よりも多様化が求められる時代だ。
・ジャンルや団体の独自性をもっと発揮させるべきだ。
・「小・中学校の美術展」までをも文連がやるのはおかしい、主体性のない小・中学校の美術部会もだらしがない。
・芸術祭の主催者は市(市教委)でなければならない。
・文化活動に官が口を出すべきではないという考え方もある。
・市がなにもかもやることではない。
・市(市教委)は主催者として市民を組織し、その自発的活動を支えるべきだ。
・はじめに市民芸術祭になにを期待するかの合意が必要だ。
・目的が決まらなければ、芸術祭のなにものも見えてこない。
・広さをもとめるのか、高さをもとめるのか、それとも両方なのか。
・市民の参加は多いほうがよいに決まっているし、レベルも高い方がまさっている。しかし時間(会期)と空間(会場)には限りがある。
・付き合いで出品したり、出演したりするようなものならやらないほうがよい。止めることも一つの選択だ。
・市民芸術祭には、教育委員会は出先機関を単に会場とするだけでなく、その機能をもっと活用すべきだ。北網圏北見文化センターは「市民美術展・書道展・写真展」を、芸術文化ホールは「音楽、演劇、舞踊、ダンス、華道、茶道などの芸術祭」を、図書館は「俳句会、短歌会、川柳会」である。
③ 北見市文化賞について
「北見市表彰条例」(昭和五二年四月一日全文改正)、「北見市表彰条例施行規則」(昭和五三年四月二二日 施行、平成一年五月二九日改正)によると、北見市の褒賞制度は奨励表彰、功労表彰、善行表彰からなっている。また文化関係の「奨励表彰」は、他の該当者とともに各所属長より上申され、「北見市表彰審議会」 (知識経験者、各種団体の代表からなる一三人以内の委員で構成される。文連会長もそのメンバー)の審議を経て、市長に答申されるとなっている。
しかし実状は文連が推薦した者(その年の文連賞の受賞者)がそのまま受賞されている。
他市の多くは文化賞、文化奨励賞の表彰規定を持ち、一月三日に授貫を行っている。
文連の文化賞が市の賞と思っている市民が多いが、それが他の自治体の文化賞と同じ時期に報道され、授賞式に市長始め教育長、社会教育課の職員が顔を揃えるので、そうするのも無理はない。
これについては次のような意見があった。
・北見市の「条例」は不明瞭で、運用も適切になされていない。早急に改正すべきだ。
・北見市でも、別に文化賞、文化奨励賞の表彰規定を設けるべきだ。
・授賞も他の市町村同様一月三日に行うべきだ。
・芸術文化はスポーツのように勝敗や優劣を数量化することができない。したがって不透明になりやすく、芸術文化の健全な活動を歪めかねない。
・制度が整うまで褒賞を中止すべきだ。
④ 文化団体協議会の設置について
文化団体関係の市の予算も文連が握っており、そのため文連とは関係のない組織が行っている美術の道展移動展が文連の事業になっているという変則的な状況が続いてきた。 (これはようやく本年から是正される予定である。) 国や道の情報も文連どまりになっている。
市のこのような体制が是正されて、個別化、多様化、分散化がすすむと、団体や個人の個々のネットワークをつなぐプロバイダーのような機関が必要になってくる。
すでに多くの市ではそのような役割をもった「文化団体連絡協議会」ができている。「文連」がその機能をはたしている場合もある。
話合いはそのような機関を設けることの是非について対立する二つの意見があった。
・市民芸術祭などの行事を行う場合、その都度実行委員会を結成するのは煩雑だ。「文化団体連絡協議会」のような緩やかな組織が必要だ。
・緩やかなものであってもそのようなものはいらない。煩雑でもその度つくればよい。恒常的なものはつくるべきではない。固定化、権力化は避けられない。 文連の二の舞になる。芸術文化活動は効率ではない。 時間と手間は文化活動の必要なコストだ。
行政は人だ、文化学園都市の名にふさわしい働きが のある部署に文化施設をすべきだ。
⑤ 文化関係の諸施設の整備と運営について
昨今、地方自治体の箱物行政が批判されている。 北見市でも、昨年芸文ホールが完成し、建築構造や使い勝手などの問題が指摘されているが、今回は施設の運用を中心に話し合われた。
・社会教育部にはスポーツ課はあるが、文化(振興) 課がない。
・そのことも北見市の文化行政の弱さになっていないか。
・社会教育課にも縦割り行政の弊害が見られる。「斉藤茂吉展」や「絵本原画展」を北網北文化センターが行なっているが、それらは図書館の仕事だと思う。展示会場がないなら北網圏北見文化センターを使って行えばよい。
・行政は人だ、文化学園都市の名にふさわしい働きがいのある部署に文化施設をすべきだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――-
同会議終了後の懇親会でも、新たな参加者も加え、地域の芸術文化活動のあしたについて熱く語った。
『拡張された芸術概念を通して周囲の問題とかかわり、ものの見方、知覚の形式をさらに新しく発展させる』を設立理念とする北見創作協会は、これらの問題とこれからもかかわっていきたい。
一九九八年十二月
1999 「ひょうげん」第7号
蝶の編隊
5×4
蝶 蝶 蝶 蝶 蝶
蝶 蝶 蝶 蝶 蝶
蝶 蝶 蝶 蝶 蝶
蝶 蝶 蝶 蝶 蝶
重ねてある(からだと湿原展望台との)差の
絶対値
(5+1)×5/2
蝶 蝶 蝶 蝶 蝶
蝶 蝶 蝶 蝶
蝶 蝶 蝶
蝶 蝶
蝶
はぎとった反復の周辺
氷原とひょうげんのまつり
シャッターをおろした
商店街の夜をスライドさせる
4×4
蝶
蝶 蝶
蝶 蝶 蝶
蝶 蝶 蝶 蝶
蝶 蝶 蝶
蝶 蝶
蝶
ムスカリ咲く朝
樹形を組み、枝が括るかたちに蝶をはめる
*
秋から暮にかけてB町へ
川沿の盆地の出口
両側から閉じるように山腹が狭まる
むきだしの火山灰の崖のまがり角で
白い蝶の群と出会った
仮想する土地のかたちは
乱脈な風景が似合いだ
*
暖かい陽気の昼
編隊は旋回し
庭の松の根に着地した
蝶の去った空の穴で
盆地の版画家は
孔版画(ステンシル)を刷る
脈20 1998/10
*
あること
あるように見ること
ないものをあるように見ること
ないものをあるように見ることで
ないものを現前させること
ないものを現前させることで
ないものをあるように見ること
掴めないものを掴めるもののように
触れられないものを触れられるもののように見ること
ことばではなく形象で判断すること
ないものをあるように見ること
聴覚や概念によらず、視覚や触覚で
ないものを現前させ
ないものをあるように見ること
もの的でないものに質量と位置をあたえ
ないものを現前させ
ないものをあるように見ること
意味や概念をそぎおとし
言葉や名称によらず
ないものを現前させ
ないものを現前するもののように見ること
**
あるもの
私が見たいと思うもの
見たいと思う特定なもの
まだないもの
志向的で意図的なもの
コミュニケーションや同意を想定しないもの
倫理や美醜と無関係にあるもの
物語や神話と無縁に単にあるもの
0度のもの
自然や道具や材料やテキストなどの他者から力を汲みとりながら
自らに課すもの
見ることによってあるもの
なにかでなく、なに
その総体
そうとしかいいようのないもの
だからこそ
オオウバユリの種とか、水芭蕉とか、山椒魚とか
と呼ぶもの
***
見ることからあるものへ
刷りとられた表面と
内在するもうひとつの表面
見ることとあるものとの境
ないものをあるように見ることで
ないものを現前させること
たまるただし 1998 「ひょうげん」第6号
北見創作協会は九年目を迎えます。
協会は「ものの見方、知覚の形式をさらに新しく発展させ、芸術の創造性を取り戻し、拡張された芸術概念を通して周囲の問題、創作活動をとり巻く制度や環境の問題と関わる」ことを理念とします。
昨年、芸術文化ホールがオープン早々から多くの問題を浮上させたことは芸術文化に関わるものとして無関心では済まされません。
これらの背景には行政の保護主義と文化団体の行政依存という構造があります。それはこのことに限らず、当市の文化活動に多くの影響を与えています。その一例として、一部の民間団体によってなされている「北見市文化賞(褒章制度)」や「市民芸術祭」があります。これに対して、協会は創立当初よりすべての芸術文化団体と個人のものとして、「文化団体協議会」の結成とそれによる運営を要請してきました。しかし現在にいたるまでなんらの施策もなされていません。今日では北見市においても旧来の枠には収まらない多様な活動が生まれています。しかし市はこれらに対するなんの手段を持ち合せず放置したままです。
望ましいシステムとは、特別なものではなく、今日ではどの都市にでもあるものです。芸術文化の分野においても必要なのは市場原理のはたらいた環境であり、多様な活動の共生する社会です。透明・公平・公正なルールをつくること、そして行政は調整役に徹することです。
協会は今後も、「なによりも、自らの創作活動を優先すること」とする自立した協会員に支えられ、芸術を手法とする純粋で自由な運動体として、 加盟者数や事業数を評価項目とせず、常に設立の精神にたちかえり、目的を見失わず、時代との対決のなかで、複数的コンセプト、複数的手法の構築を許容し、一つの考え方、一つの手法を絶対化することなく、不連続、断片性、ずれ、相克等をはらんだダイナミズムをもとめたいと思います。
田丸 忠 1998「ひょうげん」第6号
芸術祭は文化活動の実験場
第三回五月祭・第四回芸術祭を中心に一九九五年を振りかえる
同じ時代に同じ潮流にむかっているものは、絶対になくてはならない人間だ。だから作品がどうのというのではなく、マイナーにならないようにお互いにホローしていくことが必要だ。それが創作協会の存在意義である。芸術も協会もつねにプラスアルファーの状態でしか成立しない、だとしたら行きつ戻りつという状態で進んでいくより仕方がない。つかず離れずつづけることが大切だ。
第三回五月祭
今年の「五月祭」は、「共同体の境界域、郊外の廃校跡地/常川自然の家をトポスに、写生会、造形遊び、撮影会、自然探査、野外展、コンサート、焼肉パーティなど、周囲の自然を取り込んだ体験と対話」をキャッチフレーズに開催した。 参加料は一般一,〇〇〇円、高校生五〇〇円、子供無料。
参加者は石井建百、伊藤公平、岩橋順一、岡崎公輔、越智次朗、小川清人、表宏樹、金田耕一、菅原政雄、高森忠、田丸忠、部田淳一、林弘堯、藤鳥華月、細野義昭、松岡義和、若松華岳。会員外では竹江邦子、鈴木順三郎、岩本恵、岩本由美子、部田登子。名寄より詩人一四名。子供五名。
校庭での野外美術展は絵画、写真、書道、造形、インスタレーションなど。ベッチャクの沢でのバードウォッチング(保坂隆昭/北見野鳥の会)、山鳩の声、オールリ・むくどり・青さぎの声や姿をとらえる。植物観察(伊藤公平/北見野草の会) 「日本タンポポと西洋タンポポについて」。昼ごろから雨、軒端での焼肉パーティ(担当/表宏樹)。教室での 「コンサートと詩の朗読会」は松田英昭、山田政明 (名寄)、竹江邦子、鈴木順三郎、岩橋順一の諸氏。
自然観察と表現の一日を堪能した。
第四回芸術祭
「北見創作協会芸術祭」は「従来からの固定化した発表のありかたを問い、ジャンルや地域を横断する運動」として、第四回をかぞえる。
展覧会関係では金田耕一個展。 第九回北見現代美術展(小川清人、鈴木順三郎、田丸忠、部田淳一、林弘堯、我妻英信)。 勝谷明男個展。「人間水族館」写真展 (表宏樹、小林正典、神門和夫、部田淳一、我妻英信)。第三〇二回GPOUP斜面「韓国報告」展 (青木敏夫、安藤志津夫、太田道子、岡崎公輔、小川清人、勝谷明男、鷲見憲治、田丸忠、高森忠、富沢裕子、細野義昭、林弘堯、松田陽一郎) 。第一一回デスール展 (旭政江、荒木洋子)がそれぞれ創作の成果を発表した。
「芸術祭鑑賞ツアー」は参加作品を横断し、芸術祭を構造化した。 「芸術祭の夕べ」はレクチャー「宮沢憲治誕生一〇〇年をまえにして」(松岡義和)を前段に、焼肉とワイン(シェフ/三股伸二)で四回目の創作協会芸術祭を祝った。
第五回「街のウインドー・ギャラリー」は青木敏夫、旭政江、荒木洋子、安藤志津夫、伊藤公平、太田道子、岡崎公輔、小川清人、越智次朗、柿崎鈴子、勝谷明男、篠木輝子、鷲見憲治、高橋幸子、高森忠、 田丸忠、林弘堯、藤鳥華月、舟山美智子、細野義照、松岡義和、松田陽一郎、渡辺弘樹、表宏樹、小林正典、神門和夫、部田淳一、広川真子、我妻英信の二十九名が出品した。
参加店はラルズプラザ、 羽前屋、アンデルセンフジイ、ロティニーおだ、北海道銀行、清月、仲屋、横浜屋、ピノーレ、VAN HOUSE、FORD、エルファン、北陸銀行、こにし、つじ、一条郵便局、佐藤京呉服店、都屋、山久金物店、まるしょうデパート、ニューオダ、小田呉服店、銀彩堂、エルン、 日専連北見会、オバタ、中村陶苑、タマキ、ミント、つるや呉服店、勉強屋、大丸、ナップス、むらかみ呉服店、こばた屋、なかまち、よしかわ、福村書店、モスバーガー、花月の四〇店であった。回を重ねるにしたがい参加店も定着し、展示も改善されてきた。
「北見文化会議」は、芸術祭・機関誌と共に協会の三つの柱として、昨年につづいてモイワスポーツワールドで開催した。参加者は菅原政雄、岡崎公輔、林弘堯、表宏樹、栗原ひとみ、田丸忠。「創作協会 の在り方」、「地方と文化」、「若者と文化」、「創作について」などの熱のこもった話し合いが深夜にまで及んだ。創作協会のあり方については、単に行事を消化することであってはならず、個々の創作活動によって支えられ、個々の創作活動を支えるものでなければならないこと。それが望めなくなったときは潔く解散すべきで、だらだらと醜態をさらすべきではない、等の率直な発言がなされた。
今年は神戸の地震にはじまり暗い事件が多かった。また「カラ出張」が話題になった。それに悪乗りしたのではないだろうが、協会に所属する美術グループが受けた補助金がいかにも不正があるかのように喧伝され、たいへんな迷惑を被った。創作協会協会会員も公的な補助金などは当てにせず、芸術文化活動は自前を方針としてきた。問題とする対象はむしろ既得権とし補助金を長年受けている方にあるのではないだろうか。
昨年の「ひょうげん」三号で市の文化賞について見直しを提言したが、今年も改善は見られず、従来どおり一団体の選考によって行われた。 市民文化祭の出品要綱が今年も送られてきた、しかしこのままの状態では出品の欲求はおこってこない。
芸術文化会館の建設もはじまったが、これらの捩じれを温存したままでは、問題をいっそう大きくするのではないかと懸念される。
1995/12/21
1996「ひょうげん」第4号
「北見市・晋州市韓日交流美術展」を終えて
-経過とその意義-
手元に出来上がったばかりの「日韓親善美術展報告書」がある。
戦後50年、はからずもこの年、グループ斜面も三〇〇回の節目の年に当たり、意義深い年となった。
振りかえると、グループ斜面は一九六九年に結成され、月ごとの展覧会の回を重ね、メンバーの交代や作風の変化を超えて「風土を共通の課題とする」設立の主旨はひきつがれてきた。
三〇〇回を二年後にひかえた年の忘年会で、二〇〇回記念展が札幌で開催したこともあって、三〇〇回はぜひ海外でと考え、姉妹都市の韓国の晋州市を有力な候補地として計画をすすめることにした。 とはいえ、明けて新春のテーマ展(初夢)では、油画「エッフェル塔を描く私」を勝谷明男が発表していることからもわかるように、まったく雲をつかむようなものであった。
現地の状況を知り、展覧会開催の可能性をさぐるため、昨年の一一月に四名の会員が「秋の韓国訪問の旅」に参加し、晋州市役所で韓国美術協会晋州支部の美術家たちに会い、日韓親善美術展として一九九五年に晋州市で、一九九六年に北見市で開催することを約束した。
その後関係機関の支援を求め、計画を進め、九月二〇日に韓国美術協会晋州支部の曺九培(ゾ・クベ) 支部長からの招待のファックスを受け取った。今年は韓国では民政が進み、晋州市でも民選市長が誕生し、市の行政にも大きな変革があった。そのような中で北見市、北見親善協会には連絡等の労をとっていただいた。
「北見市、晋州市韓日交流美術展」は開天芸術祭期間の一〇月二七日から三一日に韓国晋州市の慶尚南道文化芸術会館において開催された。「開天芸術祭」は四三回を数える晋州市の最大行事である。
一〇月二六日、グループ斜面のメンバー一一名は姉妹都市提携一〇周年の協賛事業「一〇周年記念チンジュ友好の翼」に加わり渡韓した。なお、三名は前日に先発し、作品の搬入・展示を行った。
初日は開天芸術祭開会式、姉妹都市提携一〇周年記念式等の一連の公式行事に公式・一般訪問団と共に参列。晋州市長、晋州市韓日親善協会長へ会員の鷲見憲治氏の作品を寄贈。つづいて韓日交流展の開会式。翌日は前日につづいて晋州支部との交流、その交流会での晋州支部の申し出でにより、北見の出品作品の数点と来年の晋州支部の作品とを交換の約束をした。交流展と旅の詳細については他の会員の寄稿を待つこととする。
「韓国には天をつくような高い山や海のような大きな湖はなく、遙か彼方に地平線が見えるような見渡す限りの平原もない。しかしながら厳しい山が多く立ち並び、その姿はまことに多様で流麗にしてリズミカルな稜線を描き、山間に流れる小川、大きな平野を潤す河がある。これらの自然は特別に一つだけが飛び抜けて大きかったり異色なまでに威容を誇るものではなく、それぞれがむつまじく似通って渾然たる調和をもっている。
韓国人はその自然を愛し、自然の摂理に従って暮らしてきた。韓国の美術はリズムと調和を大切にし、部分よりも全体的な均衡調和を、そしてリズミカルな流れを愛した。それゆえ自然の摂理を曲げて人為的な見栄に執着したりせず、極端に強調しすぎたり、色合いが強烈だったり、装飾的技巧が度を越えることは考えもしなかった。」鄭良謨(国立慶州博物館長) 「韓国の陶磁器について」 韓国七〇〇〇年美術工芸”国宝”巻八
今回の旅の印象はこの文章に尽きると思った。人と自然や物質を対立関係におく西洋の方法とは異なり、素材の持つ特性を引き出し、作業と一体化させる制作態度は青磁や白磁の陶工からひきつがれてきたもので、それはソウル現代美術館で見た現代美術家たちにも生きていた。そこには欧米美術の文脈から逸脱しながら、同時に積極的に逆用することで世界の中に自己存在を打ちたてていく、韓国美術の野心があった。
戦後、韓国との交流展は一九六八年の「韓国現代美術展」(東京近代美術館)に端を発し、北海道では一九八三年の「韓国現代美術展-七〇年代後半、 ひとつの様相」(道立近代美術館)が開催され、それを契機に各種の交流展が盛んに開催された。最近では、旭川市の「水原市・旭川市姉妹都市提携五周年記念美術展/アートセッション'94旭川」がある。この「北見市、晋州市韓日交流美術展」もその流れの中での一つの成熟を示す展開としてとらえることができる。
来年は、斜面の枠を広げて実行委員会を組織し、「日韓交流美術展」を七月に北網圏文化センターで 開催し、晋州市の画家たちを迎える計画である。
最後にわれわれの希望をこころよく受け入れ交流美術展を企画された韓国美術協会晋州支部の美術家たちに心より感謝し、支援とよきアドバイスをいただいた北見市、北見日韓親善協会に対しお礼を申し上げ、韓日交流美術展のレポートとする。
1995/12/21
風土を共通の課題として
斜面300回展
平成7年10月5日 (木) ~ 15日 ( 日 )
会館時間 午前9時30分~午後4時30分
休館日 10月9日 (月) 11日 (水)
北網圏北見文化センター美術館
1996「ひょうげん」第4号
文化賞選考のための条例の改正を
-北見文化賞はこれでよいか-
昨年は大江健三郎の文化賞辞退もあって、賞の問題が例年になくいろいろなところで活発に議論された。辞退の理由は、戦後は勲章のない国になったはずで、文化勲章が国家と結び付いた賞だからという、戦後民主主義の擁護の立場からのものであった。
便利だ、豊だと思って編み出されてきたものが、幅広い文化の領域か らみれば、逆な側面も持っており、文化や人間の生活にとってマイナスの場合もある。ことに芸術の分野では、その価値が個人の主観や状況によるところが大きく、先例重視が選考の最大の物差になったり、事前運動、勲章欲しさにポストにしがみつくなど、好ましくない面も多い。地域文化が問われている今日、われわれの身近な北見の文化賞についても考えてみるよい機会である。
問題のある北見文化賞と北見市文化賞
北見文化賞は文化功労賞、文化賞、文化奨励賞からなっており、昭和 四三年より実施され、北見文連の選考委員によって選考される、「北見文化連盟の組織の維持、拡大、充実、発展に尽くした功績」を授賞理由とする、一民間団体の賞である。また同賞の授賞式には市長、教育長、市議会議長も顔を揃え、後日、そのうちの文化功労賞と文化賞の授賞者が、北見市の文化賞として追授与される。したがって、同賞は文連の賞であると同時に、市の賞でもあるという二重の性格を持っており、市は市の文化賞のこのような選考から授賞に至る一連の行政の基本的な事項を、間接的とはいえ永年にわたり一民間団体に代行させてきたことになる。また同賞は、授賞理由からも明らかなように、文連が当初より組織づくりに機能させ、年功序列、ジャンルの順送りによる選考など問題は少なくない。
最近では統括しなければならない事情もなくなり、代わって文連に所属しない個人や団体の存在も目立ってきている。他都市で既に済ませている文化面の変化に対する制度の見直しを、北見市は一〇年か一五年ほど放置してきた。なかでも賞に関しては看過すべきではない。
文連もまた一の団体にすぎないことを自覚し、このような権益などから離れ、この問題の解決にも参画することを期待する。一般に、文連という組織は自治体になくてはならないように思われているが、帯広市、旭川市の例でもわかるように、たとえ名称はあっても協議会的なもので、北見のような例は特殊である
公正で透明な褒章に関する条例の改正を
協会は発足以来、このような文化賞の欠陥を指摘し、改善を求めてきたが、いっこうに改善されるようすはなく、昨年も従前通り実施されたことは極めて残念であり、民間主導に名をかりた市政の怠慢と言わざるをえない。二一世紀に向け、文化都市にふさわしい文化芸術の状況をつくりだすために、文化賞の廃止も含めこのような制度を見直し、必要ならば第三者機関による選考委員の設置、候補対象の拡大等、公正で透明な褒章に関する条例の改正を速やかに行うことを要望する。また、これが新制度によるまでは市は北見市文化賞を中止することを提案する。
1995 「ひょうげん」第3号
第2回芸術祭を終えて 創作が共通分母
先行き不透明な世紀末- 一九九四年。耳を澄ますと着実になにかが動き、未来を予測させる鼓動が伝わってきますが、それがどの方向に進んでいくのか、いっこうに見えてきません。そのため社会のいたるところに不安がたまって身動きがとれなくなっています。しかし、不安は同時に人々の思考を刺激し、次の段階へと飛躍します。
創作協会の目的は自らの名に頂いている「創作」であり、芸術祭や「ひょうげん」はその目的達成のための手段です。手段が目的化すると活 はエネルギーを失い、集団の精神や理念まで見失うことになることは前例に見るまでもありません。したがって、芸術祭の評価も個々の創作にとってどれだけ意味があったかに関わるものだと思います。 芸術祭と街のウインドー・ギャラリー、鑑賞ツアーについての報告を 昨年暮の総括集会の内容にそって私見を述べ次回への架橋としたいと思います。
ジャンルや他地域との連携、芸術行為の在り方の変容化をすすめ、自 主参加方式の芸術祭として、十、十一月、第二回北見創作協会芸術祭は、 市内全域を会場に、「我妻英信写真展」をもってスタートし、「第三回街のウインドー・ギャラリー」「第三回菅原政雄/詩のあるコラージュ展」「朗読のタベ/日本昔話の世界」「芸術祭鑑賞ツアー」「芸術祭のタべ」「第二七八回 GROUP斜面展/秋」「第七回北見現代美術展」「山々のカムイに捧げる/アートワークショップ・ユニット・ライブ93」、また「芸術祭の夕べ」の新たな企画も加えて、「林弘堯新作展」「松田陽一郎風景画展」をもって幕を閉じました。それらはどれもが充分にエネルギーが注がれたものであったと思います。
第二回街のウインドー・ギャラリー」は文化を核にした単なる地域 こしではなく、根源的な協会の問いかけの実践の場です。写真展と美術展の二本立てのあり方、商店と作家との望ましい関係、作品の傾向、展示についてのマニュアルなども今後検討していきたいと思います。文化は短期間で根付くものではありません。何か大きな変化が形になったとき、ぼくたちはすでに変化の後にいるのに気づくものだといいます。地域住民にとけ込んだ恒例行事として息長く育てていきたいものです。
鑑賞ツアーは協会の異種交流勉強会として大切だと、表広樹が今号において述べていますが、今後も芸術祭を支える重要な活動として捉えていきたいと思います。ツアーのメニューが単調になったことは、この時期、会場がなくて参加作品が少なかったことによります。 会場難で芸術祭そのものに参加できなかった作家もありました。展示場の不足は解決しなければなりませんが、参加応募を早めに行う、「創作協会芸術祭」として前もって契約するなどの手だてを講じたいと思います。
鑑賞ツアーの終着点「芸術祭の夕べ」は別に報告されますが、その日々三条側からうつし出されるステージを囲む人々の情景を眺めながら、これがこの地方の路上パフォーマンスの在り方だと思いました。
今後の問題としては、エネルギーの分散を避け五月祭を芸術祭に一本化する。その際、造形広場、パリ祭は単独に行う。参加作品の会期はできるだけ十一月に集中させる。そのことで鑑賞ツアーのメニューも充実する。一回性のイベントは、特にPRを強化し、多くの観客を集める。全体プログラムは今までの「マップ」形式に変え、「芸術祭カレンダー」をつくり、ウッカリ忘れをさける。などの意見や提言がありました。次回へ向けて検討したいと思います。
創作協会の三つの柱、芸術祭・機関誌・討論会のうち残るのは「討論 会」です。今号には表広樹の「求む!討論会」についての提言もあり、 ようやくその機も熱したように思います。早めに、そのための機構を用意し実施に向けて準備を進めたいと思います。形態は批評会、研究会、座談会など、テーマは広く芸術論、作家論、作品の批評、文化活動、風土論、地方ジャーナリズムなどが予想されますが、表氏も指摘するように協会の性格、姿勢、理念は特に重要なテーマだと思います。そこから周辺の問題ともかかわるべきでしょう。傍観者としてではなく表現者として一人称で語りたいと思います。そして、絶えず自己変革を行う協会でありたいと思います。
1994「ひょうげん」第2号
三〇〇回は海外で
第二七二回 group斜面展(第1回北見創作協会五月祭の記録)
五月祭参加の第二七二回展は「北の自然」をテーマ とした。
午後七時、同人は作品を抱えて会場喫茶ジャンルのドアーを押す。それは第一回から変りなくつづけてきた搬入日(第一日曜日が例会)の風景だ。作品を掛ける壁は指定席のようなものができていて、客の合間を見計らってそれぞれで掛ける。
展示以外の仕事は全員でする。それも役割が出来ていて、手づくりの看板兼ポスターは勝谷明男、芳名簿やキャプションは松田陽一郎、案内状の宛名書きは林 弘尭が中心にやる。仕事が一通り済むと、コーヒーをすすりながら、鷲見憲治の絵の題名をつける。これも慣例になっていて、それが当然の行為のようにみんな でああでもない、こうでもないと言ってやる。そして、それをきっかけに話題は作品の批評や制作の苦労話へ展開する。
昭和四十四年の結成当時は「風土」についてよく論議した。結成の主旨も「風土」への思い入れが強い。だが、最近では「風土」という言葉をあまり耳にしなくなった。たしかにその言葉には当時のような響きを失っている。今日では「風土」より手垢の少ない「自然」の方が使いよい。
「北の自然」というテーマによった二七二回の作品も結成当時のように声高に主張するようなものでなく、静かで確かな姿勢がある。
三〇〇回展は再来年の秋になる。節々には北網圏文化センター美術館や札幌で記念展をもった。三〇〇回は海外展を計画している。
第1回北見創作協会五月祭参加
「北の自然」
第二七二GROUP斜面展
と き 五月三日~十六日
ところ 喫茶ジャンル
遠藤美佐江 「鳥」染色30×30
岡崎 公輔 「仁頃山早春」油彩 10F
鷲見 憲治 「黄色い畦」油彩 10F
高森 忠 「春うらら」 油彩 6F
田丸 忠 「北の記号符」 シルクスクリーン 740×625
細野 義昭 「冬・高台寺」「冬牡丹園」切絵 35×23
林 弘堯 「ブロックによるプロジェクト・自然」ミックストメディア 900×900
松田陽一郎 「春」水彩半切
田丸 忠 1993 「ひょうげん」 創刊号
モヨロの証人
清流の太宗
(捕獲法)
夕方、濡れたかますを水辺に置き、翌朝、その中で熟睡しているところを素早くつかまえる。
(飼育日記)
○月○日 今朝、水槽のえぞさんしょううおが居なくなっていました。えぞさんしょううおは掃除箱のかげで半分干せて死んでいました。
「えぞさんしょううおの夫婦の話」
Tの未発見の遺稿
曲面の幾何学
アール・ヌーボー
ビルにはり付いたえぞさんしょううお
都市居住者の白昼夢
無鱗アレルギー
モヨロのペット
河の系譜
北見文学 1968/8
横に切れた透間から
上辺を基線に八個の球体を並び
その下に空が覗いている
男はその夏旅をした
烏賊釣船で賑あう
小さな漁港から
透間の中へ煙草をくゆらせながら
集魚灯と空を剥ぎとり
マスクした周辺に
情景をひろげる
男の内部にふくれる夏の球体
海の見える墓地の山いちご
炊事場(ながし)の隅の海鞘(ほや)
義母の霊を迎える座敷の提灯
ふくれた奇形の球体に
官吏がNOを付けて海に投棄していた
海鳴が透間から溢れガラス越しに
夏の球体が発光する
文芸北見 1955/8
七月のみみづく 俳句
百貨店百貨店屋上にて
みみづくや工場区街の屋根と空
人間の物理は知らずみみづくの目
みみづくや飢えて都会の高層に
みみづくや薄暮の空を悲しまず
みみづくの瞳に薄暮満ちにけり
みみづくや茫々とせし都市の空
みみづくやむなしき雲と煤煙と
軍 車
軍車行き真夏の女行きにけり
炎天に軍車行き我胃弱なり
炎天に軍車器(うつわ)の中暗し
人呑みし貝殻のごと軍車行く
憲法の講義軍車の音たつる
炎天に軍車海月(くらげ)のただよえり
遊園地
風船の紅の艶めく遊園地
迷風船とべり七月の遊園地
回転木馬めまぐるしくて文月かな
模機にのり我七月の空に舞う
七月の瞳孔(ひとみ)よ午後の遊園地
七月の腕(かいな)の中(うち)に遊びけり
七月の円舞曲(ワルツ)に模機の舞にけり
ベンチに一人七月の肩我に寄る
七月の地平沈めリ模機に乗り
「若葉句集3」1951
雪男目撃せしとロシア兵
雪男宇宙人説まことしやか
雪男研究所長とはいかな
森の人あるいは野人雪男
裏山に雪、児童劇「雪男」
春昼の駅前に来て折り返す
雪男に鉢合わせしてたまげたり
雪男のベンチに居た無人駅
雪男雪目を病んでいたりしと
プラタナスの落葉どこかにプラタナス
この道の記憶どこかにプラタナス
プラタナス径(こみち)車道に出るあたり
プラタナスに車の鼻を向けてつける
プラタナスに車の鼻をつけにけり
プラタナスの落葉急なり車出す
街路樹の夜空に伸びて大寒
街路樹の灯を浴びていて大寒
放置する自転車数台刈田駅
献血車の雪道を来て停りけり
冬の天献血のジュースもらう
おびただしくマロニエの葉の積むところ
プラタナスの落葉おびただしく積もり
冬枯れて樺太薊、蝦夷カンゾウ
屯田の三世にして狐罠
冬眠る山椒魚の氷池
吹き上げる摩周の霧狐来る
天井の透視図、冬の灯を下げる
雪原に草の穂を突き刺していく
曇る日の雪原うすきものの影
曇る日は曇る日の影雪の上
もの影はものなりにして雪の上
小さいものは小いさい影を雪の上
雪原と海氷原の境にいる
炎天に空缶転ぶ行方追う
落葉一つ廊下を滑る北校舎
プラタナスの落葉拾いて手に揃え
額の絵のように雪降るだけの窓
去年今年境の闇に雪ふれる
存在と不在の境雪降れる
昭和23年(1948)
落日に鼻向けている瓶の蝌蚪
落葉踏む人灯光よけて行く
昭和25年(1950)
春の星まっくらがりの広い道
残雪の黒きところが夜の芝生
昭和26年(1951)
涼しさの十燭光の非常口
水門にまず糸おろすうぐい釣り
紅き魚の尾を打ちて野火移りけり
春耕の大き馬体の窓に来し
屋根越しに見える畑を耕せる
古草に街の灯火の盛りなる
校庭の芝に来ている刈田の陽
方形の灯影を雪に蹄鉄所
昭和27年(1952)
単元は「池の生きもの」水馬
「ミズスマシ」と荷札に瓶の水馬
灯のついている日いない日遠蛙
立つ秋の湖に向いて林檎かじる
鶏小屋の金網越しにある刈田
雪虫の今日一日の折々に
スケートの子の水門に腰掛ける
ポケットの鍵さぐりおる軒氷柱
追い付いて黙って並びゆく短日
ストーブをつけるマッチを借りに行く
たちまちに現れ来たる枯野バス
むこう向きに写生する子の背が並ぶ
スケートの子らガチャガチャと玄関に
昭和28年(1953)
枯唐黍の敗残兵のかたちして
窓の灯の交わりている雪の上
屯田の話しの中の兎罠
日食の太陽のある雪の上
犬橇のかなたを駈くる視界
私の1950年代
1950年代といえば、私のおおよそ20代にあたり、その間、旭川と札幌で学生生活をし、27才の時北見に帰り、28才で結婚します。
その後今日まで、いろいろな絵を描いて来ましたが、考えてみるとこの時期が、その後の私の絵画にたいする姿勢のようなものが造られた貴重な時期であったように思います。
そのころは、目録にも書きましたが、服芯に膠と、胡粉をボイル油で溶いて塗ったキャンバスを使い、耐久性などは考えないでガムシャラに描いていました。お金がなくてキャンバスやベニヤ板を買えなかったためだと思います。後日、巻いた作品を巻きもどして見ると、ばらばらに分解してしまい、無残なものになっていました。その時は残念にも思いましたが、作品が残らなかったことは、言訳になるかも知れませんが、結果として過去にとらわれず、新しいことが出来、むしろ良かったと考えています。
今回の作品は、1980年代の作品で、50才からシルクスクリーンを始めています。
初期の頃は球体の分子構造のようなものをイメージしてやっていました。その後ストライプなどによるオップアート、最近の文字や自然物や、人工物を記号として扱った作品になっています。
*
私は1948年に旧制中学を卒業し小学校の代用教員となり、その後大学入学資格検定に合格し、1953年に北海道学芸大学(旭川分校)芸能体育科に入学した。
まだ「アトリエ」「みずえ」「美術手帳」「芸術新潮」なども復刊または創刊されて間もない時期で、戦争中には閉ざされていた海外の作家の紹介や、「アヴァンギャルドとリアリズム」「形象と非形象」などの論争が盛んであった。仲間に1985年の「サーキュレーション'85」のメンバーの一ノ戸義徳がいて、「壁画運動」や「社会主義リアリズム」「半具象」などを話題にした。帰省中に描いた水彩画「祖母」を純生展に出品。翌年「雨の日」道展入選。1955年に北海道学芸大学(札幌分校)に転学。画面いっぱいにコンポジションした黒い裸像を描いた。
1957年に同郷の小林幸義、手島圭三郎とまるい百貨店で「三人展」を行う。同年北海道学芸大学を卒業し、市内の小学校に勤務した。同じ市内に勤めた小林と絵画グループをつくることを相談し、訓子府に平山を尋ね、帰路上常呂の岡崎を尋ねた。それがやがて、鷲見憲治宅の二階のアトリエでの金田、尾形、藤井、堰代、松田、進藤、永地たちとの「ボォ」の結成となった。道内でも早い時期のグループの結成であった。喫茶店モカを会場とした。(当時市内にはキャンドル、コロンビア、エデンという喫茶店もあって個展やグループ展が行われた。)ボォは1967年に終わるが、その「月例展」方式は現在の「斜面展」に継承されている。凍影社展会員推挙。1958年に結婚。「ボォ7人展」(岡崎、進藤、堰代、田丸、永地、平山、松田)をまるい百貨店で行った。解体された荷車をキュービックに描いた。服芯に膠と、胡粉をボイル油で溶いて塗った自家製のキャンバスを使い、耐久性などは考えなかった。そんなこともあって当時の作品は残っていない。
思想背景
自己史
日本近代美術→アメリカ美術
近代美術→現代美術
文学・物語→造形→記号
雨の日、街の人、証人台、モヨロの人、冬の家
↓車、サンショウウオ、量、紐
↓遅日
↓北の記号符、花・広場、湿原広場、韓国の夢
↓揺れ動く
↓オホーツクの花
立体→平面
風土→場所
個性→他者
手書き→コピー
内→外→内と外
絵物語→絵画→デザイン
装飾としての色→差異化のための色
全体、総合、統合→部分、単一、シンプル→現象、偶然、多様
出来事→日常
キュービズム、抽象表現主義→ミニマムアート→シミュレーションアート
特殊→一般
よいもの→キッチュ
70年代
シュポール/シュルファス、支持体/表面
という表現される「意味」よりも「表現」そのもの、モノそのものを重視する
林との違いは「意味」に重きをおき、それを異化することにある
思想背景 美術
社会主義とリアリズム 社会主義リアリズム
科学万能主義
立体派
アンポルメル
宇宙と生命
禅と浄土真宗 写実主義
位相幾何学とトポロジー ミニマムアート
弁償論と実存主義
エコロジー
現象学 もの派/インスタレーション
構造主義とポスト構造主義 ポストモダン
言語学と記号論
経済人類学
感性による選択は、理性による主体的決断より確実
構造主義/ポスト構造主義の思想を一貫したパースペクチブのもとに再構成
終焉と出発
デコンストラクション
幾何学、非ユークリック幾何学、位相幾何学
エントロピー、エコロジー
房総の漁師と土佐武士の末裔
屯田兵教官の孫、鉄道駅手の子
エゾサンショウウオ、遺構
仏教、葉隠、芭蕉
花鳥諷詠、阿寒、
ディコンストラクション
ボォー展の最後の展覧会、一回だけの北緯53度、そのころ流行のエンバァイラメント(環境)
閉店まぎわのモカの壁面を演出した、メンバーは林弘尭、松田陽一郎と私。
エコロジー。エントロピー。生体のアナロジー(類比)
セミオシス 記号現象
シミュラクル 模擬像、シュミレーションによて得られた結果
タイムラグ 時間のズレ、文化的遅滞
スタティック(静的な)な記号への傾向
病後療養期間としての70年の後半
70年前後にラディカリズムの激化と挫折があった、具象絵画への退行
フィジカル(現象学)にもメンタル(心的)にもクライシス危機的状態にあった
テクノロジーが極限に操作された状態、についての絶望
記号や意味と言ったものを建築との絡みのなかでで探す
最後に残る骨組みのようなもの、メッシュのような単純な骨組み
ショックの後の病後療養期間、15年間、アイロニー(皮肉)季節の
テクノロジーからの撤退してセミオシス(記号現象)の問題に戯れる
ハイタッチ
マニエリスム 技巧主義
安定した意味の構造(記号)などは信じない
深層などというアルカイックな虚構持ち出す素朴さなど持ち合わせない
表層が玉ねぎの皮のように際限なく滑っていき、滑ってゆきながらノンセンスな戯れを繰り広げる
すべてのカードは出尽くしている
その順列組み合わせによる際限ない引用の戯れ
非Aも同時に云ってしまう、決定不可能性に追い込む
ポスト・ラディカリズムの後、ある種の疲労感のあったところへ、疲労を疲労として遊戯する手法としてのデコンストラクション
その凡庸化と一般化
それも同じように体制化される
60年代 ポップアートとテクノロジー・アート
70年代 コンセプチャル・アートとミニマル・アート
80年代 ポスト・ミニマルとポストコンセプチャル ポストモダン
90年代 ネオジオ、シミュレーションアート
既存のアートの枠を越えたところで仕事をしたいと思ってきた。
50才を迎えて、油絵を主とした取り組みからシルクスクリーンに変えた。インスタレーションが主要な表現となった。
物事の推移には直接の原因と間接の条件がありやがてその結実の時が招来されるその仕組みの不可思議とさえ言える事象にはつくづく感じさせられるものがあります。
もう十年ほど前のこと、林弘尭の依頼で記念誌第三十五回道展北見移動展のあゆみ展に「三十五年のもうちょっと以前のこと」とした小文を寄せましたが、これに倣いここでは「協会創立年をもう少し遡った頃からの話」としてその時そこに何があったのかの淵源なるものを辿ってみたいと思います。
昭和十六年は対米英開戦の年でその前年の十五年(1940)は皇紀二千六百年記念の年とされ、すでに戦雲色濃い街中には「紀元は二千六百年記念」の讃歌が流れていました。
この十五年の一月私は同じ大正八年生まれの幼友達で画友の隆ちゃんこと菅原隆治と共に教師一年生で迎えた初の正月休暇でした。その頃元旦は全校登校で職員はモーニング着用に威儀を正し「ご真影の拝礼」「君が代」「年の始め」の斉唱、校長の「謹話」の諸々を終え帰宅、玄関一歩のところで電話のベルが鳴っていました。
「おめでとう。憲ちゃん。早速だけど二人で東京に行きたいんだがどうだい」藪から棒の隆ちゃん。待ったなし。受話器を耳に当てたままふと思い出したのが小柳商店先代より紹介を戴き懇意を深めていた第一えのぐ中央商会社員の新妻さん―「東京に出ていらっしゃいよ。会社には寮もあるし、気楽にお泊りもいただけるから・・・」厚かましくも咄嗟に電話即OKを頂戴、二日と三日は予定通りの書初めとし了め用意の十五号ほどの厚手ボール紙に仮題の皇紀二千六百年記念祖母喜寿象(センター収蔵作品)を描くこととし出発は五日で十日間の在京日程を組みました。
初めて観る上野の博物館、都立美術館、ブリジストンや日動など銀座の画廊あれこれに大森の会社や寮のことそれに未だ独立の会友でこの会社の社員でもあった水野(居串)佳一さんとの出合などを電車での珍事を交え綴ってみたいのですがそれはまたの中略にして帰路の車中のことを記さねばなりません。
展覧会の言い出しっぺは言うに及ばずの隆ちゃん。凄く積極的で断る術なし。「帰ったらなんとしても展覧会だ。二人だけでもやろうや。」「・・・じゃ、やろうか」と私。
帰宅するや二人は先ず野中美術部時代の香川軍男先輩を勤務先の野付牛町役場に尋ねたところ待っていましたとばかりのはしゃぎ様。その足で訪問した恩師で担任の図画教師高橋俊雄先生から頂いた応援のお言葉、その場で命名された結社名「凍影社」をお受けし感謝の中準備に入ったのでした。尚、余談ですがこの頃活動休止となってはいましたが野中七回生頃までの美術部出身者サークル「凍原社」があり名付けは先生とのことでした。
折りしも上常呂小で水彩をやっているとかの原義行なる人の存在を小耳にし下宿先の岡崎旅館を尋ね同人参加を約束これにより創立同人は四名で顧問と賛助出品をお引き受け戴いた恩師の分と合わせた三十五点の作品を三鶴屋の一階コーナを会場としこの昭和十五年五月に第一回凍影社展を開いたのです。つづく二回展は同年の秋を予定しましたがその一ヶ月前に原と私は道展十六回展に初出品し入選通知を共に手にしました。菅原は已に二年前学生で入選を果たしていました。私は翌年も入選でしたが当時已に管内道展出品者は九名をも数えるなかで次第に展覧会は休会に追い込まれていくのでした。また二回展では新しく同人として景川弘道、梅原清穂の両先輩を迎えたのですが原も梅原も共に翌年の四回展を区切りとし離北の時期も定かでないまま消息も跡絶えた状態になりました。三年目の出品数には僅かの増をみたものの翌年は急減、凍影社の同人は景川、香川、鷲見、菅原の四人だけとなりました。だが私たちは戦時体制下の美術家として戦意昂揚の役を担い陸軍美術報国隊の腕章に戦斗帽の出立ちで金田明夫の勤め先関看板店の仕事場をお借りして連日連夜ベニヤ板の紙芝居の絵作りをやり時局町民集会の北見劇場では宮城遥拝、軍事講演の跡に続く詩の朗読や紙芝居の上演などの行事に参加しました。駅頭に設置された大壁画は二十平方米かもっと大きかったようにも思いますが香川の用意した「サイパン最後の日」の下図を四人で分割分担しゆれる丸太足場の横木の上でべとべとのペンキの刷毛を振るったものでした。このような事をこなすことで戦時統制下の配給網を通し僅かの絵具を手にすることが許されたのです。美術界も次第に戦力に組み入れられ地方の私たちもまた強制翼下での制作を余儀なくされたのでした。
昭和十七年は市制祝賀参加の五回展で賑わいましたがこの年早くも戦局は逆転ミッドウェー、ガダルカナルの惨敗サイパンの失陥、職場では男女の徴用女子挺身隊そして疎開、つづく本土爆撃に広島長崎原爆投下ついに昭和二十年八月無条件降伏の敗戦。些か脇道にそれますが一九四〇年生まれの四代目事務局長安藤志津夫が今尚トーチカを自分のライフワークとして描き続けているのを見るとあの時兵村三区の自宅の土堤に防空壕を掘ったことなどが思い出され戦禍などこの地方に直接の被害は無かったものの当今の時代に重ね合わせ戦争のもたらす罪悪その愚かしさそして命の尊厳を思い胸の疼くの覚えます。
∥戦後の「凍影社」と公募展∥
昭和二十一年(1946)の戦後の再開を第八回展からとしますがこの時早くも出品者三十名を超え作品数も百の大台に達し十回展は開基五十年とも重なり樺太から帰郷せれた古賀武治先輩の参加もありついに第十八回展は公募展とすることに決定、会員一二、会友七、入選二十三名による展示となりました。勝谷は北斗高生の時からの出品でこの時会員に名を連ね、間もなく岡崎、田丸、松田と夫々が凍影社賞を受けて会員になりました。この辺から出品者も訓子府、置戸、美幌、津別、留辺蕊などと拡張されていきました。
そうした中「凍影社」は昭和三十七年(1962)全北見技術協会の創立に臨みこれに添うことで第二十六回展を最後の区切りとしましたが、この時林弘尭は会員として当地方では未だ数少ない百号の抽象を出品し二十二年に亘る凍影社最終展を飾りました。
● 1940年代の画家たち展(1992・6刊)
松田陽一郎
∥「ボォ」と「斜面」の前期∥
道展をはじめ公募展を目指す夢多い若い彼等はその頃十名ほどの同人の会「ボォ」を拠り所に喫茶モカを始め格好の場をみつけてはよく個展を開き競って外来の画風の摂取を試み材料や技法に新奇を凝し日夜画面と格闘するのを身上としていました。田丸、永地、岡崎、平山、進藤、堰代、松田に金田が加わり水元、下地、尾形など高校生時代の顔が今も想い出されます。「ボォ」ってどういう意味かと尋ねられることがあります。その時分林檎園の拙宅の屋根裏改造のそれはとてもアトリエとは言えそうもない小部屋があり時に彼等の来訪を迎えるのでしたが一夜例によってわいわいの後「では、このへんで会の名前を決めることにしませんか。」「いやァ── もう何だか、すっかり頭がボォ──としちゃってさ・・・」──すかさず誰かの声あり──「〝ボォ〟 でいこう!」
「ボォ」のグループには責任者の存在もその必要もなくその名称もつかみ所も無くいい加減のように思えもしたが響きがよく直ぐ定着しました。それに一つ大切な約束事がありました。それは公募展出品を同人たる条件とすることだったように思います。ある時期に公募出品の経験を持つことも無駄ではないとする考えがお互いの心底にあったような気がいたします。前後しますが「ボォ」の結成は昭和三十二年(1957)でその後十年ほど続きやがて在北のメンバーを置いて自然解体を辿りました。ついでのことですが月例展の習慣を引き継ぎながら「ボォ」の残留同人を主軸に田丸、松田、林、大石、菅原(千恵子─隆治の息女)、鷲見の六名により昭和四十四年(1969)に結成したのがこの二〇〇四年一月で月例展四百回を迎えた「GROUP斜面」です。尚、呼称「斜面」はグループ結成の後日の集会に同人持参の各様の候補名称を披露検討の末田丸により採択されたもので提案は鷲見です。
「GROUP斜面」はそれ自体が独立の目標と活動を持つものですが協会の設立に伴う事務局などの運営は必然の成行きとして事務局長は初代を松田とし二代の林から岡崎の三代へと受け継がれ展覧会の回数を重ねる度に増大する煩瑣な会務処理に砕心するのでしたが斜面代表の田丸は自他共に認める黒子に徹するのでした。
●第十回記念全北見展(1972・11刊)
凍影社のこと 景川弘道
ボォ回顧録 田丸 忠
道展北見支部など 鷲見憲治
●1950年代の画家(1994・8刊)
私の1950年代 田丸 忠
●グループ斜面400(2004・1刊)
田丸 忠
∥道展と道展北見地区の会∥
札幌に於ける道展三十回記念祝賀会の丸テープルの右隣りは初対面の方で道新帯広・田中稔の名刺を差し出されました。彼は新会員でした。それから六年が過ぎた二月末だったろうか道新北見支社から電話がありそれが北見支社に旭川より転勤ご着任の田中さんと知り急ぎ支社を訪れ再会を喜び合いましたが間を置かず移動展の話となりました。田中は帯広、旭川で数年を過ごされ移動展の経験も豊富で学生で道展会友となった林のことにも触れ私は心強くこの春教育大を卒業する林を心待ちしていました。
道展北見移動展実現のためには先ずはその受皿が必要と道展地区の会(後に道展北見支部)なるものを立ち上げることとし当時道展の会長が道の長官であるなどの例に倣い北見商工会議所会頭(後に市長)滝野啓次郎氏を委員長に地元道展関係者とボォの同人合わせ十名による委員会を作り山崎祐春の造形社で支部の結成に及びました。それは一二月中旬のことで翌一九六二年一月八日から第一回の移動展開催まで一ヶ月足らずの出来事で私は田中、林の手配の迅速、若い「ボォ」の活発な動きにただただ目を瞠るばかりでした。このあたりの成り行きは資料として林が日記に残しています。
田中は北見移動展の開会準備、展示要項のあれこれに自作の看板まで用意して移動展が終るやその年の内に根室に転勤されました。まるで移動展の為の在北二年だったのかと思われるほどの瞬時のことでした。没後ご遺族による北網圏北見文化センターと日赤看護大学への作品のご寄贈がありセンターでのその後の披露展のことなどと合わせそれは正に縁のなせる所業かに思え感ずるもの少なからずであります。
「ボォ」と共に奇しくも協会の設立に直面した「凍影社」は先にも述べましたように協会とその運命を共にすべく決断自らの展覧会を終止、会員は挙げて協会の創立に参加その懐深く発展的解消を遂げたのでした。が、そうした中にも先輩景川は「凍影社」はまだ生きているとしてその先長い間自宅に事務所を構えているのでした。二十二年に亘る間「凍影社」の屋台骨を背負い通した香川軍男、景川弘道両先輩に深甚の敬意を、そして歩みを共にした同輩盟友菅原隆治更に同行同士の面々に深く思いを巡らすものです。
終りに蛇足になりますが松田と林の年令差はほぼ十才でこの二人の間を二才、三才の年差で田丸、勝谷、岡崎が埋める。松田と私の間がほぼ十才だから林と私の間は二十才近い開きがある。その私を仲間に凍影社、道展、道展北見移動展、ボォ、斜面、そして協会設立事務局運営と五十余年の長きをよくぞ歩みつづけ厭きもせず今「六創会」に作品を並べる。このことの思いご推察いただければ幸です。
人、航路を振りかえるとき誰しもそこに
深遠をみるでしょう。
遡れば淵源があり淀みは次の淵源ともなって
流れを繋ぐ。
激しく、時に穏やかに。
そして、確かに。
この稿はオホーツク美術協会事務局の要請に応じて執筆したものです。 田丸 忠
二〇〇四年 五月
架設
空間の異化作用
作品と観客との接点における行動的状態化
彫刻とか絵画のジャンルに組み入れられないものに対しての便宜上の区分け
作品と作品を取りまく環境としての意味
□自然な正六面体、自然な立体
立体の六角形の壁の影
エコロジー、紙・草
米山昌治、メールアート、麦藁詰めの紙筒
既存のアートの枠を越えたところで仕事をしたいと思ってきた。
五〇歳を迎えた、油絵を主とした取り組みから のシルクスクリーンというに変えた
インスタレーションが主要な表現となった。
□流氷原にて1、流氷原にて2
紙、東藻琴海岸
モニュメント
サイズ
□生える
塩化ビニール・鉄・草
1985、CIRCLATION
農の模擬
構造
対象は構造(作品のすべて)によって支えられている
対象が構造によってどれだけ成立されているかを見ること
能動的なコンセプチュアル・アート
デュシャン、クライン
能動的なコンセプチュアル・アート
ホップ・アート、 ミニマル・アート
□幻
紙にシルクスクリーン
イリュージョン
□流木
流木、田丸忠/林弘尭、常呂川と無華川の合流点の中洲
北見NHKギャラリー
概念のより直裁な提示、物体より概念の方が重要
あらゆる行為や概念が絵画や彫刻といった形態に転記を必要としない
パフォーマンス
感覚器官を開発させることを目論む
現在形とたえず記録づけをする課程のなかでおこる行為
あらかじめ振り付けられ、再演することができ
即興的であったり、観客と交換したりする
現象学的にいい表される身体は知覚を強調する共同のシステムとして扱われる
多くのパホーマンスはは砂漠や誰もいない桟橋で行われる
□般若心経1、般若心経2
紙にシルクスクリーン、北網圏北見文化センター美術館
紙にシルクスクリーン、1995、北見創作協会五月祭、常川自然の家
文字によるワーク、文字と記号
作品における物質的側面よりも観念性の方向を重視する
狭義には記号や文字などの非物質的な素材による表現
広義にはパフォーマンスやその記録としての写真や地図の提示
□この指とまれ
1993、常川自然の家での、カーレ・ラール/風巻隆と北見現代美術のコラボレーション、
布・鉄
風、闇、自然現象、光
視覚からの概念化
作品であることを感じさせない
ひとつの契機、条件付け
ものを扱うことがあっても
仮装として情報として提示するにすぎない
2.参与する受け手に向け開かれ、自由につくりあげられる
この際優秀さについての価値判断を必要としない
3.作品は作家によってきめられた、絶対的なものとして物質的に存在するものではない
観衆の参与によって作品は完成する
□オホーツク原生花園の初冬
枯れた野の花・プラスティック容器
幻のタイルプラン
モチーフとして植物を加える契機となった
□OKHOTSK
紙にコピー、A4サイズの、
フォントのサンプルとOKHOTSK、文字と大輪の牡丹
□反復
紙にシルクスクリーン
デリダを読む、反復と差異
ヨーロッパ的、ダダイズム以来の近代美術の否定的傾向
アメリカ的、肯定的な分析的概念美術、
コンセプチュアル・アートはダダのように既成の芸術に対して破壊的ではない
既成の芸術の地位が失われているところから生まれてきた
□釘、釘降る、疵
大腸切除、流星群
第350回斜面展、北網圏北見文化センター美術館、高知市立自由民権記念館
紙にシルクスクリーン・ビデオ、2000、北見NHKギャラリー
オホーツク作家展、旭川富貴堂ギャラリー
手術前に医者が手術個所を示した内臓の略図と疵の実写をプリントしたTシャツ
フォーマリズム、ミニマニズムの非人間的傾向に対する反発
個人的な事柄を客観的なデータであると感じさせる
時間的プロセスが作品に直接に関与している
コンセプチュアル・アートはダダのように既成の芸術に対して破壊的ではない、既成の芸術の地位が失われているところから生まれてきた
□回帰する形象
紙の模型・紙にシルクスクリーン
幾何学、立体
模型、作品、詩
写真、ノート、コピー等
過去に演ぜられたり、現在記録し得る行為
作品の背後にあった制作の行為や構想が
作品そのものとなった
□平行一二面体
紙
斜面のこと、第376回、新春展テーマ展のこと
限られた壁面での小規模のインスタレーション
□RUBBER GLOVES
ビニール樹脂の手袋、インクジェットプリント
レディーメード、デゥシャン
コンセプチュアル・アートは仮装として存在する
□四つのフォルム
コーラ(場)、背景
美術と私
特別なことはない
皆さんと同じようにすきだったこと
特徴としては「工作」がすきだった
10面体のセルロイドの筆入れ
60年後に「回帰」を再現して作品にした
2つの作品について
1は20数年前の作品、2は今年の作品
1はシルクを始めたころのもの
モチーフ、地と図の扱い、技法、地と図は同じ
反復から体系へ、イリュージョンを残す、額、構造、概念的になっている
現代美術のこと
現代美術史を共有する
コンテンポラリー・アートを
ミニマルアート、コンセプチャルアート、ポップアート
絵画の終焉からの出発という感じ
インスタレーションのこと
平面的、空間的展開
絵画、彫刻はインスタレーションの小道具
他に記録写真、エクリチュール
インスタレーションの単位として、しかも一つの作品として完結
ボイス、キーファ、ケージ、草間弥生、村上隆
アブストラクトのこと
非対称、非再現絵画
ミニマムアートのこと
描かれている対象、作品としての物体そのもの
何かの表現ではない、支持するもの、指示対象がない
何かの形ではない、形そのもの
イリュージョニズムの排除
平面
フラット、無階調
カメラ、CG、版、コピー、手仕事を避ける
色としての色
モチーフのこと
幾何立体、文字、記号
概念美術の考え方と通じる
地と図のこと
地の上の図ではない、描かれた表面
支持体のこと(シェイプト・キャンバス)
多視点(オール・オーバー)―一点視点(窓、)
奥行にない画面、視点の分散、多視点
交叉する線とプリズム化した小面で組織化された画面
主題も背景も沢山の短い直線や円弧によって細分化された切り子面の集積のような構成
比較的浅い奥行
ピカソ、ブラックが進めたキュービズムの第2段階、分析的キュービズム、’09~’12
オールオーバーな画面
中心的視点を持たない筆触の一様に分散する遠心的な面
つまり地と図の分裂を回避するオールオーバーな場
見る者を包み込むような環境形成
ボロック、抽象表現主義、’47~’50、第二次大戦後のニューヨーク
幾何学的表現
イメージの単一性
演繹的で決定論的方法
同じ単位の繰り返しによって示されるような構造や形態での還元性が特徴
一方で、抽象表現主義の内的関連性のない単一な全体性(オールオーバー)としての空間と
芸術の自律性・純粋性、
自己自身の要素のみで自己自身を構築し定義しようとするモダニズム芸術の純粋化、自律化
表現や意味という抽象表現主義の郷愁的は要求を排除
物体・現実に結びついて
ジャットは三次元性により「特殊な物体」に代表される作品を制作した
知覚経験が目的のための手段になっているのではなく、それ自体が目的とした
反イリュージョナリズム、匿名的表面、単純性をもち、表現よりも見る者のの知覚経験を問題にする点で、「つくる」よりも「見る」ことの超越性と結びついた
芸術の非物質化、ものとしての芸術作品の破棄による概念芸術(コンセプチャル・アート)
ステラ、ジャット、ミニマム・アート、‘60年代のアメリカで展開
イメージの単一性
イメージの単一性、ワン・イメージ
全体がそれを構成する部分の総和よりも存在
近接視的な部分を遠隔視的な全体と統合させるため、統一的焦点のない多視点により、画面に均質性を与る
ジャット、ステラ(‘60年代)絵画の事物化を回避するのではなく、
オールオーバーがもつ全体性・単一性、非関連的関連性を摘出し、積極的に絵画を事物化する
西欧の伝統的イリュージョニズムや関係的構造性を排除し、
表現というより存在としてある作品をつくる
オールオーバー
文字や記号
作品における物質的側面よりも、概念性の方を重視する表現傾向
狭義には記号や文字など非-物質的素材による表現
近代芸術に否定的な方向と肯定的方向がある
アメリカ的概念芸術は肯定的
「抽象表現主義」以降の「冷たい抽象」から「ミニマルアート」にいたる一連の純粋な形式主義が土台となる
初期の記号論理学的立場、美(感情)の問題を(概念)によって解決する
河原温、ソル・ルウィット、コンセプチャル・アート
背景のない絵画
形づくられたキャンバス
描かれた表面と支持体の表面が一致している
描かれた部分が地の上の図にならぬように切りとられたキャンバス
抽象表現主義絵画の周辺視的な視野の強調にともなって、画面の縁は絵画を現実と分離する境界線ではなく、
絵画の要素と認識する
窓としての絵画からの決定的な決別
絵画の物体性の強調
絵画は幻覚的な事物を描写するものではない
抽象表現主義のボロックやネオ・ダダのジャスパー・ジョーンズが
ノン・イリュージョンを目指しつつも表現方法と題材のために排除できなかった
サンボリズム(象徴主義)を克服
絵画以外の何かがあるのではなく
そこに存在しているもののみがすべて
ステラ、シェイプト・キャンバス
小学生時代 絵日記(捨象)
詩のフレーズ(反復)
手作り筆箱(構造)
中学時代 幾何と図学
俳句・現代数学
'79のスタンピング「エゾサンショウウオ」
五つのエポック
脱描写/1980
脱パースペクティブ/1989
脱コンポジション/1997
脱意味/2000
脱次元/2003
主体の分散
視点の分散、多視点
焦点の分散、拡散、焦点深度をとる
中心の分散
時空の分散
頂点(結節点)の拡大
オールオーバー
引用、他者性
間テクスト性、メタテクスト
複製時代のアウラ
アナグラム(言葉の置き換え)
普遍概念との決別
定常的な座標を持たない
多様多面体、脱構築、ディコンストラクション
脱自我、他者のアート
アナグラム(言葉の置き換え)
過渡的であり続ける
一人のままで世界につながって行こうとする
個人であることを壊さないで、世界を変えて行こうとする志向
近代から脱出する唯一手段
ゲイ・サイエンス
スキゾ・キッズ
意味、記号、グリッド <アートの三層構造>
マトリックス
現実界、想像界、象徴界 <精神の三層構造>
合成 and,or,of,
他者(記号、言葉)の決定不可能性を差延化する
エレメント(要素):他者
暴力のエコノミーを脱構築するアートのあり方
コンセプトは
パルマコン、差異、決定不可能性、差延、ダブルバンド、アポリア、反復可能性、暴力のエコノミー、階層秩序的二項対立の脱構築、現前の二項対立の脱構築、再生産のシステム、フィドバック
記号や反復はそのエレメント
差異を含んだエレメントは複数の要素をパラレルに併置し、その決定不可能性を脱構築する
決定不可能性、暴力のエコノミーくを差延化する
パルマコン、責任、決定、他者、引用、共生、回帰
構造、環境、再生産
特別でも偶然でもない
普通のもの、ありふれたもの、日常のもの
二項対立ではない、二項共存
暴力に対する暴力
よい作品には恐ろしいところがある
支配ではない
脱構築する
解決しない
アートの動機は他者
階層的二項対立、現前性の形而上学、暴力のエコノミーを超えて
記号・差延
主体主義や暴力や階層秩序的二項対立としての行為(アート)ではなく
共生、反復可能性、決定不可能性のアート
日本のアートが今日社会性政治性を持たない、すなわち今日的ではない、あまりの個人的に過ぎ、広い視点を欠いているため
強度ではない、支配ではない、意味性ではない、前でも後ろでもない、過去でも未来でもない、現前性ではない、自分発ではない、主張でない
毒でも薬でもない、一方でもない、戦いでもない、対立でもない、おしつけではない、零度のもの
オホーツクのエッジを封印する
二つの画素の差異を対峙させる二項対立的方法の反省
差延化を徹底させること
作家と鑑賞者という階層的二項対立、絵画の制度、法を脱構築すること
多様な形式を、大胆に外部として、他者として、遺物として進入させること
ジャック・デリラ(差延・散種)をアートにおいて実践する
「内と外」「黒い花」「花片」は意味の絵解き、図解、解説
「1999」「終焉」「樹間」「樹系」「蝶」は意味そのもの
「四月の木」はできあがっているイメージの再現
どれもそのものを指していない
アートの段階で始めて存在させるもの、解決させるもの
アートの対象は作品前の段階は含まない
絵画観・絵画思想を作品で解説したり図解することの誤り
立体と平面、デジタルとアナログ
インスタレーション「自然な六面体」「双球体」「生える」「この指とまれ」
フェミニズム、ポストフェミニズム、ジェンダー、マルチカルチャリズム
スペクタクル(大仕掛けな見世物)なインスタレーション
ヨーロッパ旅行後虚脱状態に陥っていた
欧米と日本の美術の基盤のギャップ、欧米のように美術が社会と密着していない、それゆえに制作の強度に劣る日本の美術環境で、自分は一体だれに作品を見せようとしているのか日本の現代美術が根拠を持たない状況のなかで欧米のスタイルを表面的に模倣しているに過ぎないのではないか。自分の美術とはなになのか。今日の状況においても尚無縁ではないか、こうした疑問に、制作の意欲を失っていた。
さっぽろビエンナーレはこうした懐疑から開放するきっかけとなった。この国際展への入選は自己のポジションを明確に意識させる契機になった。
それは欧米とは同じではありえず、かといって日本の湿った風土への回収されない独自の位置、良く言えば彼我の狭間、悪く言えば宙づりの位置をあえて選ぶことを意味していた。
状況追随の姿勢をやめた時から作家になった
日本のアヴァンギャルドの悲しい性ともいうべき情報追随は70年代のTそのものであった
わずかな遅れ・狂いが決定的で、決してイニシアティヴをとることはなかった。
遅れてやってきた生真面目なTは状況に追随することが現代美術たりうる唯一な道だと考えていた
その限りにおいてただの画家でしかなかった
90年代の初頭にそのことに気づいたひから今日の自分が始まる
ポストモダンの80年代型トレンドに関わらず、表現主義的傾向と逆の方向をたどるようになる。華美なものに背を向け徹底して還元的本質的であろうとした
ミニマリズム的還元を表現主義との対極に位置づけるのではなく、フォーマリズムの前夜に立ち帰って
双球体、地と図、中心と構造、プラトニズム。ディコンストラクティヴの80年代においてTの嗜好は時代に逆行していた
事実上の処女作
ようやく復刊、創刊されたアトリエ、みずえ、美術手帳などといった美術雑誌をとおして20世紀の作品や戦後の美術を眼にした
抽象、アンフォルメルといった最新動向を熱のさめぬうちに間接体験した
絵画の再現性へ最終的な見切りをつける
版画というよりプリント・ワーク
記号、文字、数字
方法的に純化させる
ジョーンズ、プロセスを刷って見せた版画、メディア論的版画
線や形象に還元された世界に対する関心
田丸 忠氏は油彩画はすべて破棄してしまいました。そののち、膨大な数のシルクスクリーン版画と文を残しました。現在では現存する作品は少なく、データのみのものがあります。田丸氏の意向を確かめられない今、ここにのせた文の中には他者に見せたくないものもあったかもしれませんが、記録者は残しておきたいと思います。すべて、作家「田丸 忠」を表すものですから。