1962(昭和37)年の春、道新(北海道新聞)北見支社の田中稔、道展会員の鷲見憲治、道展会友の林弘堯、出品歴を持つ田丸忠、岡崎公輔、堰代大幹らと、ボォの松田陽一郎、永地恒夫、山崎祐春らが手伝い、北見地方初の「道展移動展」が実現した。オホーツク地方の芸術家たちは本格的な展覧会を実感し、北見でも本格的な展覧会を開きたいという気運が高まった。芸術家が集まる喫茶モカで、この地方を一丸とした展覧会を開く方法を模索した。実現の方法は、道新主催によるこの地方に住む作家を対象とした公募展の開催で、道新も積極的に支援することになった(協力/北見商工会議所・ロータリークラブ)。この年の7月15日に全北見美術協会が設立され、9月9日に第一回展を開催した。
初代会長は鷲見憲治。
【創立会員】
石川俊一、大江啓二、岡崎公輔、納直次、香川軍男、景川弘道、柏木低定信、勝谷明男、加藤仁一、金田明夫、亀浦忠夫、木村晴一、久保義春、古賀武治、佐藤順四郎、佐藤信勝、佐藤秀雄、柴田省三、菅原隆治、鷲見憲治、堰代大幹、高橋俊雄、田中盛夫、谷口百馬、田丸忠、中沢巽、永地恒夫、畠山嘉康、林弘堯、樋口昭弘、藤沢晃、藤田周平、松田陽一郎、松本光雄、村瀬真治、村瀬登喜子、山崎祐春、山根博、横森正明
【美術展を休止した年】
1969(昭和44)年に、それまで使用していた会場費無料のまる正デパートがゲームコーナーを新設し、会場難になった。入場料を取らない形式で開催してきたため、会員の会費と出品料では会場を借りられなかった。
2020(令和2)~2021(令和3)年は新型コロナ流行のため。
参考文献/鷲見憲治「六創美術館閉館に際して」ひょうげん第19号(北見創作協会 刊)
参考文献/林弘堯「北見現代史補講(美術)」の中から松田陽一郎「全北見美術協会30年の運動を振り返る」など ひょうげん第15号(北見創作協会 刊)
40回記念展を迎えるオホーツク美術協会
オホーツク美術展
オホーツク美術協会代表 林 弘堯
(2002年)
主旨
且て、北辺の此の地方にもオホーツクの文化が栄えた。
我々は、冷涼漠々たる大地に両足をふまえ、
変転し続ける時流を直視し、
新しい価値の創造者として、
活発な歩みを続けるであろう。
オホーツク美術協会と北海道新聞北見支社の主催する網走管内唯一の公募展「オホーツク美術展」が今年で四十年の記念展を迎える。前身の「全北見美術展」が開催されて以来、はや四十年、網走管内の美術のレベルアップやすそ野拡大に大いに寄与してきた。今年の記念展には、会員、会友55名の他に一般出品者も合わせた150点にものぼる大作、力作が壁面をうめるものと思う。
前身の「全北見美術展」の名称は、網走管内、オホーツク斜面の「北見の国」をイメージした広い範囲を網羅した意味を含み、当初は仮称でスタートした。公募展を初めて開催したのが1962年である。
35回記念展のときに「北見の国」より、最近は「オホーツク」という呼び方が一般的に使われるという理由で「オホーツク美術展」と改称した。
時代とともに会のメンバーや作品の傾向も当然のごとく移り変わっているが、設立の時に掲げた主旨に変わりはない。
「冷涼たる大地に足をふまえ、変転し続ける時流を 直視して、新しい価値の創造者として活発な歩みを続けるであろう」
時は刻んでも、作家自身が、如何に表現するかという課題と対峙し格闘することに変わりはなく、作家の衝動の奥に潜む創造の限りない葛藤の姿が多様に展開されて、熱気に溢れた展覧会にしたいと思う。
四十年前の創立に参加した会員は、30名であったが、物故、退会した会員を除くと現在も健在の会員は、9名を残すのみである。実際の年数は41年前で第6回と7回の間に一回中断した経緯がある(後述)
作家ひとり一人の心の中の悲しみや苦しみ、感動や歓喜、深い思索や祈り、そういった心の動きを見るものに訴えかけてくる具象的な絵画。 現実の営みを越えて画家は自らの生活、暮らし、不可思議な世界や幻想を工夫を凝らして語ろうとし、より脹らみのある創造的な意識下へと昇華させてくれる。
20世紀に入って絵画はイリュージョンの道具としてではなく、色や形や素材自体が価値あるものとして存在するようになってきた。また、日常生活や、政治など人間としての生活や生を題材とするものや、テクノロジーを駆使したものなど従来の芸術的価値を超えようとする作品もある。
伝統的な日本の工芸には、簡素な美を好む美意識が反映され、技巧を凝らすことによって洗練され、さらなる飛躍が期待されるのである。さて、四十回記念展を前にして、既に会の運営は事務局長も四代にわたって変遷し、若手へと引き継ぐべく脱皮を試みている。初代事務局長は、故人となった松田陽一郎氏が事務一切を引き受けて企画、交渉、会計を切り盛りした。当時は、北見北中学校の美術教師であったが、北見市教育委員会へ転出した後の、第7回展は、多忙と会場難のため一年間のブランクがあり、その後の第7回展から、林弘尭が2代目事務局長として、引き継ぎ15回記念展まで会の運営にあたった。第3代事務局長は美幌から北見にもどった岡崎公輔氏が引き継ぎ、35回記念展からは、第4代の安藤志津夫事務局長(主任)として会を運営している。
40年も経過すると、創立の頃は20代であった若者も既に、退職の年令を越えており、若手の台頭を願っているが、なかなか引き継ぐ層は、なにかにつけて多忙らしく、運営までには届かない。
また、会の組織の問題も、役員会の席上では、多様化されたジャンルの責任ある専門的な審査をめぐっての論議があり、近いうちの改革も必要である。多くの問題をかかえてはいるが、それぞれの作家が良質でエネルギーを感じさせる作品発表の場として継続、発展できればいうことはない。
今回の記念展には、四十年としての記念すべきイベントなども種々論議した。展覧会としての記念は記念大賞があり、その授賞式と祝賀会がもたれ、立派な企画が、すでにある訳だが、同じく主催者でもある「道新北見支社」が60周年の記念の年とあってもっと市民全体へのアピールできる企画は無いものか、打診されたこともあり、そのための企画会議も何度か開催された。会としては前述のごとく祝賀会をはじめとした展覧会自体を充実したものにしようと心がけたが、その他、陶芸部門を中心としたもののイベントとして「野焼き」も考えたが、焼くための場所や時間等々の条件が合わず企画からはずれ、その他、作品の「絵はがき」作成、市内の画廊全体を使っての小品展なども残念ながら実現できなかった。しかし、会員、会友、一般出品者の出品作品をカラー版で編集する、「画集の作成」記念エプロンの作成を実現する。また、過去に網走、 津別などで行ってきた経緯のある「移動展」を、最近出品者の増えてきた紋別市で開催するため、主催者である、道新北見支社と事務局とで打診し開催の方向で進めてきた。新装なった紋別市の博物館で開催が可能となった。作品運搬等の課題が残るが、また、オホー ツク圏北部の美術状況も活発になるのかも知れない。
道新北見支社社屋に、壁画の登場となるかも知れない。 支社長以下60周年記念に記録としても残るものという驚くべき構想が、伝えられて、その絵画をオホーツク美術協会と共同の企画として市民にアピールするというものである。パブリックアートとして、大々的にこの北見の地に登場するのであるから驚きは隠せない。他に及ぼす影響も大きいかも知れない。パブリックアートといえば、北川フラム氏のプロジェクトで始まった「立川ファーレ」をはじめとして、北海道では、イサム・ノグチのモエレ沼公園などは、それぞれの街(公園)を取り込んだ大々的なものだが、何がなんでも街や公園を利用しての安易なプロジェクトや設計業者に発注するようなことでは、逆に街や自然の景観を壊してしまいかねない。いずれも良質な自然な状況の中での作品を現出させなければならない。いま、W杯で熱狂している札幌ドーム周辺にも、多くの作品が設置され問題化されていることを、ご存じでしょうか。
自然破壊と直結する高速道路のための開発や、河川改修事業などには多くの市民も関心が深いが、ときとして身近に行われる事業には案外無関心である。
そうした視点から見ると、街の景観としては作品としても優れたものであり、自然の中にとけこむ状況を現出させなければならない。そうしたことから壁画だけを考えても、その原画をどう描くのか、デザインも容易ではない。そして、それを描くのは、当然、原画を描いた作家ではないので、どのように原画と同様に描くのかが問題にもなる。
話は、横道にそれるが、北見市の小町川添いにある、立体歩道橋に壁画を描くという構想も同様な問題も含まれる。 折角のラクガキ対策もおかしな作品を描いてしまってはどちらがラクガキかと思われても仕方がない。この件は、道新TODAYなどでも取り上げられたが、また、別の問題が派生した。
「街の景観」いわゆる街づくりは、総合的で長期的な展望をもって進めなければならないが、北見市においては、なかなかそうはいかない。行政と民間が一体となって創り上げる創造的な街とはならないのだろうか。日常生活に密着した公民館、図書館、博物館、美術館、科学館、音楽ホール、市民会館、生涯学習施設、スポーツ施設などの公共施設が地域的にも管理運営に於いても密接に関連したものであってほしい。
我々の創作協会も作品発表と共に商店街連合会と共催で毎年恒例の創作協会芸術祭の期間中に「街のウィンドーギャラリー」を開催して今年は第12回目の開催となる。バブルの弾ける以前のことなら企業メセナの一環としての文化支援が成立していたのだが、今は様相が一変し、商店街活性化もままならぬ中で文化の香りある町並みは、空店舗の目立つ中でとびとびの展示状態なのである。今年は北見商工会議所の商店街活性化対策で、旧まる正デパート1階をギャラリーを含む商店街に復興させる試みもある。
さて、四十回の記念展を前にして、2002年4 月27日(土)から5月5日(日)の連休を全て使った第25回春季「オホーツク美術展」が開催された。会員40名、会友10名、昨年の受賞者9名の計59名の出品による展覧会であった。
秋の本展のプレ展覧会でもあったし、一般の出品者の作品の無い会員、会友の力作を十分展示できるスペースであったが、一部不出品の作家もあり、十分な意気込みが感じられなかったのは残念でもあった。四十回記念展には、現在も尚発表を続けている 9名の創立会員と、招待出品する鷲見元会長、オホーツク展の運営にあたっている事務役員を中心に充実して活気あるものにしたいのである。
現在の事務役員は、北見市を中心とした周辺地域 (留辺、訓子府、美幌など) の作家たちで構成され、20名を超えるが、次世代を担う若手会員は不在。
学校5日制となりゆとりのあるはずの美術教師はどこへ行ってしまったのか。感性豊かな若手の創作者はどこへ行ってしまったのか。魅力ある公募展にするためには、公募展自体の発想も転換しなければならないのであろう
「オホーツク美術協会の記録」
全北見美術協会30周年史には初代事務局長の故 松 田陽一郎氏が展覧会総目録を発行し、創立からの三十年の足跡を振り返っているので再録しておきたい。
*創立会員は下記の39名で網走管内各地の作家が集まり、「全北見展」を創立した。
○印は現在も春の春季展、秋の本展に出品を続けている創立会員9名(2002年時点)
鷲見 憲治 村瀬 真治 山根 博 ○景川 弘道 谷口 百馬 佐藤 信勝 村瀬 登貴子
久保 義春 大江 啓二 高橋 俊雄 金田 明夫 山崎 祐春 ○岡崎 公輔 亀浦 忠夫
○勝谷 明男 佐藤 秀雄 松本 光雄 佐藤 順四郎 永池 恒夫 藤田 周平 木村 晴一
菅原 隆治 香川 軍男 ○横森 政明 石川 俊一 田中 盛夫 古賀 武治 ○堰代 大幹
中沢 巽 ○田丸 忠 松田 陽一郎 ○林 弘尭 柏木 定信 納 直治 柴田 省三
○樋口 昭弘 畠山 嘉康 加藤 仁一 藤沢 晃
全北見美術協会三十年の運動を振り返る
会員 松田陽一郎(平成12年9月逝去)
いつの間にか三十年が経過してしまった。
いつ止められるのか、いつになったら協会は終焉するのかと思いつつ、暑い夏を、来る年も来る年も展覧会の開催に忙殺され続けて来た。でも今29冊の目録をめぐりながら「よくぞこんなに長い時間続いたものだ。結構すごいや」とも思います。これから先のことはよくわからないが、ただ漠然と「ここまで来るとそう簡単にはつぶれないだろうなとか、続けることに本当に意義があるのだろうか」など想いが交錯します。
満30年が過ぎ去り、本展29回、春季展15回の計44回の展覧会を開催してきたのですから、その時々の今頭に浮かぶことを記してみたいと思います。
1、協会結成の頃
昭和33年の春(たしか1月の末か2月始め頃)、 初めての「道展移動展」が北見市で開かれることになり、商工会議所援助を得て北見会館(現経済センター)を会場に開催されました。中心となった人たちは当時道展会員だった鷲見憲治、道新北見支社の編集長で会員だった田中稔、そして、若くして既に会友だった林弘尭のメンバーでしたが、加えて、すでに何回か出品歴のある田丸忠、岡崎公輔、堰代大幹ら、さらに彼らと一緒にグループ活動(ボウの仲間)を共にしていた松田陽一郎、永地恒夫、山崎祐春らが移動展の手伝いに加わり、本格的な展覧会の開催を初めて実感しました。
そして、北見でも本格的な展覧会を開きたいものだとの想いを、いつも夕刻になると集まる喫茶店「 モカ」(北4条西2丁目)で語り合いました。 そしてその謀議を鷲見のところに持ち込んだのは、昭和 37年5月8日で、その時の日記には「田丸、岡崎、堰代、林、永地、松田、山崎らで、鷲見宅を訪ね、どうしたら、この地方を一丸とした展覧会ができるかについて話し合う。」と書き残されています。
この話は早速具体化されます。 筋書きは道新主催によるこの地方に住む作家を対象とする公募展の開催であり、道新も積極的な支援を惜しまず、5月中には発起人のメンバーとのコンタクトもとって、6月30日には道新北見支社社長室(当時は4条西5丁目) で発起人会が開催されるというスピーディぶりでした。何もかもうまくいく滑りだしでした。
7月15日には、全北見美術協会の設立総会、そして9月9日からの第1回展の開催へと進んでいきました。創立会員のメンバーは、上記の39人で既に亡くなっている方、退会された方もおり、現在残る創立会員は9名です。
2、協会消滅の危機
協会30年の歴史の中で、その存在が最も危ぶまれた時期は、6回展、7回展の時期であったと思いますが、7年目には「会場難のため展覧会中止」の年があります。表向きの理由は確かに会場難で、それまで使っていた、まる正デパートが催し場にゲームコーナーを新設して展覧会場として使用できなくなりました。それ迄会場費は無料で使用させて戴いていたものですから、会場を他に移す為には会場費の捻出が必要になり、会場を北見会館(現経済センター )に移すにしてもお金の出所もなく、途方に暮れました。全北見展を初めて開催したころは、入場料も無く、会員、出品者も少ないので会費と出品料では展覧会開催経費が賄えませんでしたから、思い余っているうちに会場の予約の時期を失い、中止の止むなきに至ったのです。それに、それ迄事務局長を務めていた松田が学校を退職して教育委員会に転職したことと重なり動きが取れなくなって迷惑をかけたのも原因のひとつであり、その無責任ぶりを反省しなければなりません。
一度よろめきかけた全北見美術展を再び活性化させたのは、林事務局長を中心とする新しい事務局体制で、たまたま、当時新しく試みられた、網走管内郷土芸術祭の動きにタイアップさせ、会場費の捻出に成功しました。第1回網走管内郷土芸術祭は第8回展、第2回展が9回展、第3回が第10回展と前後 3回郷土芸術祭が開催されたことは、全北見美術展の歴史にとっては誠に幸運でした。振り返って最も苦しかった展覧会の開催は第7回展の開催であったと思います。前年の展覧会中止が応募作品の減少となって表れ、会員の出品もこの年が最低の21点にまで落ち込んでいることが、その当時の混迷を物語っていると思います。
3、 協会運営の安定
協会の運営は、10回展を節目として安定と隆盛期を迎えます。このことは、北見市民会館の落成による展覧会場の拡大と期を一にしていると思います。
作品の展示が小ホールだけでは間に合わなくなり1 号室、4号室までも展覧会場として使用した時期があり、そのピークは第12回展から第15回展への時期で184点の展示を行った第15回展は参加作品が248点にも及んでいます。作品数が増加することは 展覧会の運営が経済的には楽になってきますが、事務量が飛躍的に増大します。事務局も片手間では出来ず、専属に係りきる要員がどうしても必要になる のですが、そこまでの経済的余裕も無く労力的な苦労が続くことになります。二段がけにしても展示すべきか、量より質ではないのか、などがその頃の論議の中心となった事を思い出します。このため地方からの出品にブレーキがかかった事も否めません。この頃の協会にとっての大きな慶事は、昭和48年、個性豊かな薯版画の香川軍男会員が北海道文化奨励賞を受賞されたことです。この賞はそれ迄の経過を見ても、道内一流の美術家に贈られてきた賞で大変嬉しいことでした。この時香川会員から受賞記念のご芳志を戴き、これを基金に12回展以降、会友の優秀作品に贈る香川賞が生まれ現在に引き継がれることになります。
展覧会を開催し続ける時、展覧会場が変わることは、会の運営に様々な転機を与えます。昭和60年から展覧会場は北網圏北見文化センター美術館に移ります。 他の都市の展覧会場に比較しても遜色のない完備した会場に負けない充実した作品を発表しようと呼びかけもしました。そして、1千人を超す鑑賞者を呼び、会期もほぼ2週間開催できるようになりました。いま、展覧会の運営は経済的には会費、出品料、そして観覧料収入により安定期に入りました。振り返ってみて、会場の移る前年(昭和60年) 鷲見会員より運営基金の寄贈を得たことも協会運営を盤石なものにしている大きな要因にもなっています。
しかし、協会運営の目的は経済的に安定することではありません。優れて充実した作品群で展覧会場を埋め尽くすことであり、その継続でもあります。
年の節目を機会に全会員のさらなる努力が期待されるところです。
4、会務を支える事務局
創立の時から、こまごまとした会務の一切を進めてきた事務局のメンバーは、最初、田丸、岡崎、林、松田、山崎、永地、堰代の7名でしたが、山崎、永地は去り、堰代は仕事の都合からメンバーからはずれ、新たに勝谷、高森、小川、富沢、遠藤、安藤のメンバーを加えた、また途中には西田、阿部も事務局の繁忙を支えてくれた時代もありました。
当初、30才前後の若かった事務局のメンバーも30 年の歳月を経て、現在は定年退職した者、または、定年を間近に控えるメンバーとなっており、若返りが急務となっています。全管内にわたる大きな組織となった今、活気溢れるメンバーにどうすればうまく交代していけるのかが大きな課題で、今年新しく迎えた若手のメンバーの、活気の良い血で、新しい企画が生まれることを期待しているところです。
(以下略)
以上、30年の記録ともいうべきことの感想、述懐を綴ったことを転載致しました。その後の「全北見」は、35周年記念展には新たな「オホーツク美術展」として名称を変えて本展40回、春季展25回を迎えた。前述したが、この機会に「オホーツク美術展」の構造改革、新しい出発点を探って昨年から活発に役員会を開催し討議を重ねた。まずは、正月の顔合わを兼ねて開催していた春季展を、各作家の発表の場とすべく4月から5月の時期にすることにあった。
現在までの春季展の位置づけが明確でないこともあり大作、小品などが入り乱れて展示される会員の意識の違いが見られた為、「会員・会友展」として作家意識の強い展覧会を提案した。
しかし、討議を重ねるうち、春季展にまで大作を出品できる余裕の無い作家が多いことがわかるにつれ、それほど自らの展覧会になっていない状況も判明するに至り、限界を感じた。しかし、良質の展覧会をめざして時期の良い5月の連休をあてて開催した。天候、交通手段等を考えると、これからの開催は当分1月から4月末へと移行するのであろう
また、本展の一般公募部門の鑑別、審査方法についても大きな課題のひとつでもあった。絵画、彫刻、造形の部門と工芸部門との分離である。当初は絵画中心の公募展であったが、最近の工芸部門の出品者は急増しており、会員もしっかり定着しているのでそれぞれの専門分野での審査は、当然のこととして提案された。 受賞の数など、まだ検討する余地はあるにしても絵画または工芸で推薦されてそれぞれ会員となった作家であるから、それは、当然のことなのである。しかし、今までの慣例からなかなか脱皮の出来ない状況が続く。さらに検討事項として残り、協会は大きな課題を背負ったまま歩むことになる。
公募展無用論が叫ばれて久しいが、オホーツク美術展の場合、この地方の美術状況を活発に展開できる重要な責務がある。そうした状況を推進して行くひとつのバックアップや展覧会の目的や質を見極める美術評論などは、報道機関にも責任があるはずであるがそれも期待出来ない状況にある。 美術に関する報道のありかたを社内学習する機関も無く指導機関もない。そうであるならば、単に紹介記事にして読者に判断を仰ぐしか無いのであろう。
作家にとって、見当外れの記事を書くことは、読者をまどわすペンの暴力ともなりかねず一種公害をまき散らすことにしかならない。 また、公的な機関である公民館活動、カルチャーセンター等講座などの一貫した目的と広報活動等様々な問題も多い。
今年はW杯で熱狂し、その効果で韓国を中心に、中国と韓国、韓国と日本とがますます近く親密になりつつあるが、アジア圏の美術交流も拡大していくことであろう。社会の現実と向き合う第2回福岡アジア美術トリエンナーレでは、政治的抑圧や貧困などをストレートに表現した体当たりの「芸術は実生活で生まれるもの」という信念が伝わる。暗くて、重い作品群には、美術とはなにかを問い直す多くの課題がつまっている。韓国ではカンジュ(光州) ビエンナーレなどアジアの問題を提起する展覧会も次々と開催されているし、台北、タイ、バングラデシユ等々植民地支配から脱してもなお続く政情不安の続く地域での美術表現は現実を真正面から見つめている。それに刺激されてか否かは不明だが日本では遅ればせながら初めての国際展「横浜トリエンナーレ」が開催された。
こうした美術の動向に日本のこの地で生きる我々の生活は決して閉ざされた空間の中にいる訳ではなく、新しい分野への試みへも挑戦する。
明日への飛躍としての「オホーツク美術協会」であることを願っている。
林 弘尭 2002「ひょうげん」第10号