六創会は一九九九年、六名の同人で結成する。
同人は一九六〇年代に出会い、オホーツク美術協会創立会員として事務局を担う。
同人は美術教師を経て、美術家として現在にある。
同人は共に長男として北見に生まれる。
六は六花の風土を顕す。
一九九九年六月
六創会展への誘い (六創会同人)鷲見憲治 1999
六創会は「リクソウ」 と呼称する六人の同人による新しい美術の小集団であります。
メンバーは年齢順に紹介しますと、現代美術の林弘尭、風土の岡崎公輔、写実の勝谷明男、現代版画の田丸忠、半具象の松田陽一郎、具象の鷲見憲治であります。 作者に付したこれら呼び名はもとより美術の分類によるものではなく、作者の現在の作風を私なりにひと言で述べたものであります。
平均年齢は六八才、 林弘尭が一九三八年生まれであるのに、平均年齢をこのように押し上げているのは、 ひとえに一九一九年生まれの小生にあることはいうまでもありません。
その私が、今春林弘尭が無事定年を迎えたこの機に、自らの年齢も省みず、一足先に草鞋一足となっていた他の連中と語らい、ここに結成をすすめたものであります。
数あわせではありませんが、今からちょうど三七年前の昭和三七年(一九六二年)に当地方の公募部門を持つ美術団体として全北見美術協会 (一九九七年オホ ーツク美術協会と改称)が北海道新聞を共催に設立されました。それは管内の諸先輩共々、総勢三九名の旗揚げでした。これらの連中はこの設立の点火にかかわ ったものであり、創立会員としてその当初より事務局の重責を担い、年々に派生する多くの難問課題を解決し、協会を支え今日に引き継いできたものたちであります。
また一回展から昨年の三六回展まで一度の不出品もなく発表しつづけたことは、作家としてまた創立会員としてのその自覚的姿勢は立派であります。
いささか蛇足にはなりますが、この会の結成の話が始まった頃、連中の一人が「全員、長男だ」 「みんな親をみ、あるいは看取ってきた」というのを耳にしました。長男を甚六といいますが、ものの本によりますと甚六は順縁の訛りで長男の隠語とあります。いろはカルタの時代にはお人よしのおろか者、故事名言集には文字通りろくでなしとあります。はなはだおもしろくないわけですが、一歩引いて考えると、どこかほほえましく一抹の哀愁も感じられ、満更話せない言葉ではないように思われます。ついでに血液型や干支も当たってみましたが、これには特に共通点は見当たりませんでしたが、淋しがり、器用、ものによりますが熱中する性癖などなど多くの共通項があるように思えました。ともあれ、その最たる共通点は六人全員がかつて美術教師であったこと、そして今は、画家、あるいは版画家、あるいは造形作家です。
口幅ったい言い方になりますが、以上が三七年前、全北見美術展に結集した情熱もあらたに、ここに新しい画家集団を結成する所以であります。
もっともらしい主張はさておき、要は今後の仕事にかかっていることはいうまでもありません。
❆
六創会は「第一回六創会展」を本年一九九九年七月、 北見東急催場において開催します。
労作約三〇点を展示し、同人一同、みなさまのご来場をお待ちします。
1999「ひょうげん」第7号(北見創作協会 刊)
北見創作協会会員作品展 2008-六創美術館にてー 木村朝行
煉瓦の塀に挟まれた門を入ると、アンティックで瀟洒な洋館がわたしたちを迎えてくれる。館をとりまくように手入れの行きとどいた庭園がひろがる。幾多の樹齢を重ねたであろう樹々、そこかしこ地上のあらゆる色彩をとりこんだかのような花々全面。草木のつくりだす緑のアーケードの小径を歩む、天然の舗石を踏む道すがら、俳句が刻まれた同性の短冊、エッチングが象嵌された庭石を目にする。ひとときの森林浴のここちをあじあわせてくれる。自然と人工とが調和した希有な空間だ。門柱に嵌め込まれた銅板には、六創美術館と刻印されている。
平成18年6月、北見の地に於ける美術界の先駆者鷲見憲治画伯の個人宅とアトリエを基礎として当館は創立された。(六創美術館設立の経緯及び概要、そして北見の美術史の発展とグループ・団体の発足と隆盛等については、林弘尭氏が詳説されているので参照されたい。筆者は文脈上の必要最小限にとどめたい)。鷲見氏の篤志によって設立された本館では、‘06年の開館以来、第6・7回の「六創会展」、「収蔵作品展」が催されてきた。
「六創美術館」と命名された由縁であるが、同館は 鷲見・岡崎・勝谷・田丸・林・故松田(敬称略)の六氏によって平成11年発会した「六創会」に由来する。 設立当初は、東急デパート3Fにて開催 (第1~5回)されたものだ。「六」は同人の員数そして、「創」は 古代文字の(きず・はじむ)に淵源する。
「北見創作協会」の設立メンバーである鷲見治氏が、これまで北見の美術界の発展・普及に寄与された功績の測り知れぬことは言うまでもない。この度「六創美術館」に於いて、‘08年6月8日から29日の期間、「北見創作協会会員作品展」が開催される運びになったのは、氏の「美術」へのそして作家たちの作品の展示・人々の鑑賞する場への熱意とご厚意があったればこそだった。感謝の意と崇敬の念を表したい。
「北見創作協会」は、‘92年8月30日創立された。 ’98年に本協会に参画した筆者は独唱の誹りも免れえないが北見創作協会が志向する理念を述べることをお許し願いたい。美術・文学・写真・音楽、さまざまなジャンルの作り手が集う。風景を切り取る、概念を変形・造形する、瞬間を固着させ、思念を綴り、ことば を彫塑し、情感を音と化す。あらわれの異なる各々の作品(行為)には汎通する一本の糸がある。「『つくる環境』と『ふれあう空間』を、北見の地における文化活動とその発現の〈場〉を、あらたなる真の〈文化都市空間〉の創出をめざして。」これが、本協会の指向する理念であります。
本協会はこれまで、展覧会、種々のイベント(写生会 ・鑑賞会・懇親パーティ等)、シンポジウム、講座、さまざまな活動を行ってきた。そして現在、特筆すべきは‘03年に始められた「オープン・ギャラリー」であろう。 <Open>の語が示すように、一つにはしかるべき器 (美術館・ギャラリー・喫茶店等)から脱出して、 本来の用在とは異なる場・空間で作品群を展開してみよういう考え、オープン・エアー (Open air) =野外をも含意する。もう一つは、出品資格云々あるいは審査という従来の枠・枷を取り払い、オープン参加=誰でも・何でもありとした。真に開かれた市民による芸術祭をめざす。修正・変節を経験しながらも現況に至っている。
現在日本に公・私立の美術館がいくつあるのか筆者は知らない。鷲見憲治氏という「美」の実践者によって設立された小美術館。俗流の言に失することご寛恕願いたいが、同氏はまさしく私財を投じてのことである。財団、法人、個人による御門違いの金の遊(すさ)びから建立されたあまたの美術館とは志の高きを異にする。 「六創美術館」が数年後閉館されると聞く。鷲見氏御夫妻、関係者の尽力と困難はいかばかりかと察しますが、同館こそが維持、存続されて然るべきである。 北の小都市に生まれたこの美術館が輝き続ける道はないのだろうか。ともあれ、「北見創作協会会員作品展」は「六創美術館」に於いて開催された。
※謹告7月6日~27日同館にて、「第8回六創会展」 が催される。ご盛況をお祈りするばかりです。
美術館の近くの細道に一本の林檎の樹が立っている。リンゴの実をひとつつけている。
2008「ひょうげん」第16号(北見創作協会 刊)
RIKUSO MUSEUM OF ART 六創美術館 林 弘堯 2008
―ポンピリカ美術館についての記述を省略―さて、この景川さんと同年代で活躍中の鷲見憲治先生の自宅を改装してできた六創美術館について少しふれる。
この美術館開館までの鷲見先生の並々ならぬ想いと、その経緯、そして現在とこれからの六創美術館の行方を、そのプロセスを追って書き綴ると膨大なものとなるが、北見美術におけるひとつの資料館ともなるこの美術館について記録しておくべき必然性がある訳で、今回、16号にはその前編としての助走となるものである。
六創美術館館長である鷲見憲治氏は野付牛中学の10回生で今年89才、同期会へ行っても同期生が年々いなくなると寂しがる今日この頃である。明治30年、開拓の鍬をふるって開墾した屯田兵の入植後、大正11年(1922年) には野付牛中学が開校した。
最初の美術教師高橋俊雄先生のもとで、その第1回生は、当時西小学校の仮校舎で小さな展覧会を開催した。凍原社となづけた北見黎明期の画家たちであるが、その次の世代となる香川軍男、鷲見憲治、菅原隆治、原義行の4名による凍影社は昭和15年(1940年) 第1回展を開催し活動が始まる。(景川さんは同年秋の展覧会から参加) 昭和17年の市制施行と大東亜戦争の勃発と戦前、戦後の渦中を乗り越えた画家たちの生きざまは、まさしくこの地方の美術界の開拓者、先駆者、創始者としてあるのである。六創美術館は、その生活の地、北見とん田の記念すべき地として、開拓のりんご園とともにある美術館なのである。
そうした、北見美術とともに歩んできた六創美術館の意味はその後、昭和37年(1962年)の全北見美術協会発足(後、オホーツクの美術協会と改称)へと歩む、まさに北見美術の資料館でもある。
六創美術館と六創会
当館は北見市110年の道筋にある小美術館として平成18年に鷲見憲治の住宅とアトリエを基に開設されました。
当館は季節開館の美術館で、6・7月には六創同人の「美術館収蔵作品展」、8月には同人の新作による「六創会新作展」を開催します。
資料室には大正中期の北見先達の画家と、それに続く「凍影社」同人の油絵小品や色紙、戦後来北を機縁とした画家・ 書家の作品などを所蔵・展示します。また1000㎡ほどの庭には句誌「阿寒」の俳人と天才クラブ同人の銅製短冊をうず庭石が置かれています。
北見市はとん田開拓の地で、このあたりはかって兵村三区と呼ばれ、近くの土堤にはどんぐり(柏)の林が広がり、美術館のある場所は昭和の中頃までは林檎園で、季節には白い花をつけていました。
2008「ひょうげん」第16号(北見創作協会 刊)
些か時機を逸した思いもありますが六創美術館の閉館に際し、これを記録しておくことに気付いたもののいつの間にか老生本年三月満九二歳を迎え記憶の減退に驚きながらも、雑然と袋入りされた資料の中に、平成二二年七月一日付けの写真入道新切抜きと、記者相内亮氏の原稿を目にし、先ずはこれを使わせて頂くことにしました。また、山田義丸さんは、校長退任後私達の交友として書道に凝り切抜蒐集で著名、私の所持する資料なども彼に負うところが多い。
「オホーツク館内の美術界をリードしてきた北見市内の画家六人による美術団体六創会が六月二七日に解散し、会の作品発表の場になってきた六創美術館 (北見市とん田西町二二六) も解散した。会員が高齢となり活動を続けるのが難しくなった。会の支柱で最年長の鷲見憲治さん(九一)に「六創美術館の閉館に際して」と題した寄稿をお 願いし、北見の美術界と六創会の歩みを振り返ってもらった。
六創会の六人は鷲見さんの他に田丸忠さん(七九)勝谷明男さん(七六)岡崎公輔さん(七三)林弘堯さん(七一)と、二〇〇〇年九月に七二で亡くなった松田陽一郎さん。一九九九年に会を結成した。二〇〇六年六月に鷲見さんが私費を投じて自宅を改修し、美術館を開いた。
◇
平成九年に第三六回展を迎えた全北見美術協会がオホーツク美術協会と改名したころより話を始めたいと思ったのですが、その前段に触れなくてはと思い直し、その頃からつづってみることにします。
北見の美術は市史によると大正七、八年ころ、鉄道員たちによる「みどり会」から発進し、すでに野付牛中学校 (現北見北斗高) 美術教師高橋俊雄先生のご指導もあったようです。先生は野中一期の一年生が美術活動を始めた折、グループ名を「凍原社」と名づけ、その後数回の「凍原社展」を開かれ幾人もの作家を世に送り、さらに野付牛美術協会などと共に活動されました。
先生にはまた昭和一五年、私どもの立ち上げた小グループに「凍影社」と命名され、顧問として毎回欠かすことなく賛助出品をいただき、八二歳のご高齢まで制作を続けられました。
この凍影社は幼馴染の隆ちゃんこと菅原隆治君と野中時代の美術部の香川軍男先輩を誘い、当時上常呂小勤務で道展出品制作中の原義行兄を訪ね、仲間入りをいただき四人で旗揚げし、作品募集もし、年ごとに応募者が増えました。昭和二九年からは管内の公募展として活動を続けました。田丸、勝谷、岡崎、林、松田君も入選受賞した上で会員になりました。これが後年結成されました六創会のメンバーです。
昭和三二年には高校生も交えた若手の画家一三、一四ほどがグループ「ボォ」を田丸君を中心に結成し、喫茶モカを会場にグループ展を開催し続けました。
昭和三六年の秋口に道新旭川支社から北見支社に転勤となった田中稔さんを訪ねたところ、すぐ道展北見移動展の話になりました。彼は道展の先輩会員で帯広勤務時代に道展帯広移動展の経験も豊富で、道展会員の林君と道展北見支部を結成、道展北見移動展が実現しました。それにかかわったのはボォのメンバーで、なかんずく松田君からは将来北見にも道展のような幅広い公募展をとの提案もあり、それが驚くべき早さで実現に向かい昭和三七年の九月、 全北見美術協会第一回展の開催となり、年長の不肖私が協会の初代会長を引き受けることになりました。
私はこのことで凍影社が消滅するのではないかと気にしました。しかし結果は凍影社の会員約三〇人のほぼ全員が全北見美術協会の創立会員として参加戴き、会の名はなくなったが活動は引き継ぐことになり、会の主力としてその後を支え今日に至ったことに感謝もひとしおです。昭和四四年にはボォの一部メンバーに新顔が加わり、田丸君が世話役となって「斜面」ができました。斜面は全北見美術協会の事務局としても活動し、月一回の斜面展を続け今や五〇〇回に迫っております。
さて全北美術協会がオホーツク美術協会に改名した時、私はすでに八〇歳を目前にしていました。すでに限界を超え、会長を若手の林君に委ねました。しかし、ほっとした気分の中にも正直仲間のいない寂しさがあり、やっぱり俺は(一匹狼ではなく) 羊だったのかとの自認、支えをもらうべく仲間に呼びかけたのが六創会なのでありました。
しかし思いもよらぬことに六創会二回展を経て間もなく私より九歳下の松田陽一郎君が他界されました。またそれに前後して亡くなられた菅原君や香川先輩の面影を重ね、自分なりに何かを残さねば、との思いが募りました。 凍影社に仲間入りしていた景川弘道さん(故人)は私より四歳年上で 九〇代に向かっていました。
六創美術館は当初北見の美術に関する資料を後世に残すための記念館にする構想でした。私の父は四男の九歳叔父は長男の屯田兵で伯母叔父四人もいました。父たちは その父母たちと共に岐阜から上湧別に入りました。その後北見に移った祖父母と父母たちが昭和六年最後に建てた自宅の床下に腐植することなく立派なカシの木の土台が今もあります。私は屯田魂がこれに宿っていると勝手な解釈をし、 屯田の地名が残るこの地に建つ家を記念館に改修し郷里を残すのは意義あることだと思いました、館になにを置くかという話になり、やはり絵だろうと美術館になりました。
美術館の二階には私が集めた凍原社の人たちや高橋先生を始め仲間たちの作品など多くの絵画が飾られてありました。冒頭に記したみどり会の作品類はいくら探しても見つかりませんでしたが、 時代も遠くいずれも貴重な作品で、どうにか残っていてほしいと願っています。
六創会と六創美術館は美術の歴史の流れの線上に位置付けられると思っています。解散と閉館にあたり、たくさんの慰めや励ましのお言葉をいただきましたことをこの機会をお借りして六創会メンバー一同より厚く御礼申し上げます。」
【北海道新聞 2010年7月13日】
六創美術館は北見市民の皆さんに寄贈させて頂くのが目的で、設計関係者を始め出入りの多かった建築家の方々の意見を聞き進められた。最初は同じ地続きの奥に並ぶ築七年四戸二階建てを記念館とすべく考えを重ねたが折角広い庭も生かしたく大方の意向に従い自宅の改修となりました。屋外の庭も生かされることに満足感がありました。
当初は市教育委員会の全面的理解と支持がありそれは跡継の教委に継がれたように思えたが、多忙を理由の市長の来訪はついに一度も無く開館の案内状にも”東京から議員さんの来訪があるから”で姿をお見せにならず、その後の私の電話でご来館の当時の教育長さんは開口一番“とん田町になぜ美術館が必要なのか。他に場所が結構あるのではなかろうか”とのことであったが今更とん田移住地開拓の歴史や、とん田の地名として唯一残された記念の土地であってこそできることだとの思いなど説明する気持にはなれなかった。この件に加えて市が仮に館を受けたとしてもこれから先五年間で雑費一年二百万円として五年間で一千万円戴いたとして、その五年後の議会で寄贈を受けられるかどうかは約束できぬと付加えられました。私は翌々日市長への寄贈関係の書類等の返却を受け即座に何事もなかったとしてこの件を解消させたのであった。思えば美術館寄贈の一件は一場の夢のようなことではありましたが、これも人生の道筋の一齣であったのかとその後再改築入居した自宅にあって思う。そして開館ごとに入館して戴いた教え子や親交を重ねた先輩を始め後輩や同僚それに苦楽を共にしてきた六創会の仲間たちの笑顔や思い出の数々を重ね合わす。時が過ぎすでに五年。以前のことは彼方に忘れ置き懐かしさだけが胸に甦るのであります。
――後記――
どのような、 どれ位のものを寄贈しようと計ったのかの記録はメモ程度のこととし、評価格は市役所の資料とセクト(不動産会社)や建築家、庭師等の方々に算定いただきました。金額にして現金は小額だがその他雑費等でほぼ九千万近いものであったと自認していますが後日寄贈の美術館収蔵の美術品の評価は之に含まれていないことも付記させていただきます。
美術館収蔵作品の寄贈
平成二二年八月二〇日、六創会六名の連記で左記を教育委員会に「将来市に美術館が設けられる時機が訪れたら六創美術館所蔵の左記作品を新美術館の一室に展示されることを願う」として代表の小生がこれを届けました。
ひょうげん2011 第19号(北見創作協会 刊)
「六創美術館閉館に際して」鷲見憲治 著
資料 経済の伝書鳩
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