1940(昭和15)年、鷲見憲治、菅原隆治、香川軍男、原義行の4人で旗揚げしたグループに、美術教師をしていた高橋俊雄が「凍影社」と命名した。
(高橋俊雄は野付牛中学校(現在の北見北斗高校)の一期生が美術活動を始めた折に、グループ名を「凍原社」と名付け、その後数回にわたり「凍原者展」を開催した。
82歳まで製作を続け、「凍影社展」へも賛助出品をし続けた。)
「凍影社展」は毎年春と秋の2回開催。創立の秋季展から景川弘道、梅原清穂が加わる。
第二次世界大戦により活動が難しくなり、1943(昭和18)年8月の第7回展で休止する。戦後、第8回展は1946(昭和21)年2月から始まり、画家たちに芸術への渇望があったことがうかがわれる。
北見市の美術界は凍影社が中心となり、1954(昭和29)年からは管内の公募展として機能した。入選・受賞者に田丸忠、勝谷明男、岡崎公輔、林弘堯、松田陽一郎らがおり、凍影社の会員となった。
1962(昭和37)年9月に全北見美術協会が結成され、凍影社の会員である30人ほどが全北見美術協会の創立会員になることで凍影社は休止状態になる。時代は変わったが、網走支庁管内の美術活動の礎を築いたのは凍影社のメンバーであり、オホーツク美術協会と名称を改めた現在も活動は引き継がれている。
参考文献/鷲見憲治「六創美術館閉館に際して」ひょうげん第19号(北見創作協会 刊)
参考文献/林弘堯「北見現代史補講(美術)」の中から松田陽一郎「全北見美術協会30年の運動を振り返る」など ひょうげん第15号(北見創作協会 刊)