メイキング オブ 「ヲロチ」

※ご注意※

本編の核心に触れています。未視聴の方はご注意ください

仲間内で「ひとつ、上代日本語で会話する動画を作ろうじゃないか」という話が持ち上がったのは、去年12月のことだ。


話が決まってから、計画が巨大化するまでに時間はかからなかった。

あれこれ話し合って、娯楽性の高いヤマタノオロチ伝説を題材とすることになった。

脚本は私と、私が兄と慕うminerva scientia氏が共同で筆を執ってくださり、あまい氏がブレインを務めてくださることになった。

更には方言たん中興の祖たる名波氏、京阪式アクセントの論客たる土佐弁たん氏もキャストとして参加される運びになり、作品はいよいよ、小規模のオペラの様相を呈するに至った。


魅力的な企画は、自ずと巨大化する。まるで作品そのものが意志を持ち、大規模化したがっているかのように。

本作はそのことを如実に物語った。

☆三大原典☆

脚本に書き起こすにあたり、私は古典文献の記述を尊重し、これと矛盾する内容にしないことを基本方針とした。


ベースとしたのは、文学として(比較的に)まとまりがある「古事記

補遺として、「日本書紀」の内容もいくつか取り入れた。

この二大文献をカノンとしつつ、島根県~広島県に根付く伝統芸能「石見神楽」を参考にしてシナリオに落とし込むことにした。

これが本作の三大原典だ。

石見神楽版「大蛇」。神楽団によっては、大蛇の目の部分にLED(発光ダイオード)を仕込むことさえある。そのぐらいフレキシビリティの高い芸能なのだ。

☆櫛の謎☆

歌川国輝画。櫛名田姫を戦場に伴う須佐之男の姿が印象的。

原作ありきの創作には、「解釈」が要される。

いわんや、価値観を異にする古代の文献を近代的な演劇に翻案するとなると、なおさらだ。


最初に格闘した難問は、櫛の謎であった。

スサノヲがクシナダヒメを櫛に変えて自らの髪に挿したのは、一体なぜなのだろうか?

避難させればいいものを、なぜ姿を変えてまで戦場に連れ出したのだろうか?

この謎はしばしば議論の的になってきた。


古事記では、この行動の直後に、スサノヲは有名な「八塩折の酒」作戦を提案するシーンが記述されている。

まるでクシナダヒメの櫛を挿したことで作戦を思いついたかのようだ。

しからば、クシナダヒメは知力を司る巫女、あるいは知力そのもののメタファではあるまいか。


ここに、神道の「奇魂」という概念を当てはめ、古代人の思考の再現を試みた。

記紀の時代、知力は言いしれぬ霊妙な霊魂の発露と捉えられていたのかもしれない

(とは言え、本田親徳の一霊四魂説に傾倒するものでないことはお断りしておく)。

☆クシナダヒメの物語☆

本作の最大の特徴は、全編にわたってクシナダヒメの視点で描いたところにある。


先述の通り、本作の典拠は古事記・日本書紀・石見神楽の三つだ。

しかし、そのいずれにおいても、クシナダヒメは脇役に過ぎない。

それどころか、クシナダヒメのセリフが一切存在しない

原典において、クシナダヒメは登場人物ですらなく、小道具に過ぎないわけだ。


しかし、前段の議論を経た今、もはやクシナダヒメを小道具として割り切れない。

それどころか、クシナダヒメこそはヲロチ神話のキーパーソンなのである。


三大原典には触れられてすらいない、幻のクシナダヒメ像

知性を司り、戦士〈スサノヲ〉に力を与える聖なる少女の有様を再現せねばならない。

この直感が筆を突き動かした。

一言も喋らない、石見神楽版の櫛名田姫。
饒舌に推理を披露する本作のクシナダヒメ。ドウヤ顔をしていそうだ。
ちなみに、文字色を演者のminerva scientia氏のアイコンと同色(#EC407A)にしたのは、ちょっとした遊び心。

☆木々を産む場面☆

さて、この物語の導火線に火を付けるのは、スサノヲとの出会いだ。


日本書紀に詳しい方はピンときたと思うが、冒頭のスサノヲが木々を産むシーンは、本来はヲロチ神話と無関係のエピソードだ。

クシナダヒメの知性とスサノヲの深慮を提示する場面として据わりが良かったので、採用することにした。

ともすれば、記紀の編纂者たちも、同じようなことを考えていたのかも・・・と思うのは奢りか。


クシナダヒメは、お家芸たる推理でスサノヲが船を作ろうとしていることを見抜く。

しかし、彼女は一つだけ見落としていた。

子々孫々の栄耀を願うスサノヲの深謀遠慮である。

「男は弱く、卑怯な性」

と悲観していた彼女にとって、スサノヲの深慮は青天の霹靂だった。

クシナダヒメはスサノヲに惹かれ、生きてまた会いたいと願うようになった。

かくして、止まっていたクシナダヒメの時間は動き出したのである。

☆スサノヲとの再会☆

三大原典のヤマタノオロチのくだりは、スサノヲが箸を拾ってクシナダヒメの家に上がり込む場面から始まっている。

このくだりは、ほぼ原典に忠実だ。古事記ファンの諸姉諸兄は片笑窪をこしらえてくれたことと拝察する。


とは言え、言い回しは色々と変えた。

そもそも、古事記原文は擬漢文だ。それを読み下すだけだと、「書き言葉」的になってしまうのだ。

告白しよう。共著者のscientia氏に指摘されるまで、私はそのことに気付かなかった。

その後、彼と共にセリフを練り直す作業にとりかかり、アイディアを出し合って磨きをかけていった。アイディアを出しあうほど、みるみる洗練されてゆく。楽しくて、気づけば時針は深夜三時を指していた。

文字通り寝食を忘れ、本当に有意義な時間を過ごすことができた。

なかなか戸を開けようとしない家人に業を煮やし、勝手に上がり込むスサノヲ。実にむちゃくちゃな男である。
最初、このシーンにBGMを入れる予定はなかったのだが、あまい氏の怪演に触発され、急遽作曲した。こういう楽しい不確定性が、合作の醍醐味だ。

☆スサノヲのプロポーズ☆

謎の男の正体がスサノヲであると知り、クシナダヒメは一度は彼を拒絶する。


三大原典ではクシナダヒメは「小道具」に過ぎないので、このくだりは丸っきりの創作だ。

ここで拒絶しなければ、彼女は再び意志無き小道具になってしまっただろう。


拒絶する彼女に、スサノヲはあえて言う。

「あなたが俺の奇魂になるのです」と。

世にも傲慢なプロポーズである。


思えば、ヲロチに負けていった他の男たちは、女をただ守って生かすことしか考えなかったのだろう。

しかし、スサノヲは違った。

彼はクシナダヒメ自身の才能を評価し、それを活かそうとする男だったのだ。

(傲慢なまでの誠実さで!)

そして、これがスサノヲの勝因となった。


「あなたの奇魂が必要なのです」

ではなく

「あなたが俺の奇魂になるのです」

なのも味噌だ。

クシナダヒメはスサノヲの部下でもなければ共同作業者でもない。あくまで「妻」なのだ。

彼は彼女の知恵を借りるのではなく、彼女自身を求めたのである。

世にも傲慢なプロポーズ。さしものクシナダヒメも、しばし呆れ返る。
ともあれ、知性の巫女を求めていたスサノヲと、質実剛健の男を求めていたクシナダヒメは、ある意味で「割れ鍋に綴じ蓋」だったのかもしれない。
「クシナダヒメの知力による勝利」を強調するため、この作戦はクシナダヒメのアイディアということにしようかとも思った。しかし、それだと「記紀の記述と矛盾させない」というコンセプトに反するし、何よりスサノヲの英雄性が大きく削がれてしまうので、原典通りスサノヲの発案にした。クシナダヒメと融合したことでこの作戦を思いついたと見ていただけると嬉しい。
「置き、置き~注ぎ、注がね」という畳語は、scientia氏の妙案。

☆神としてのヲロチ☆

ヲロチをスサノヲのアンチテーゼとして印象づけるべく、ヲロチもまたスサノヲと同じ境遇にあった可能性を示唆するセリフを挿入。
文字色も同じ青にした。ただし配色が異なる(スサノヲは青地に白、ヲロチは黒地に青)。
同じ境遇より出でて、かたや英雄となり、かたや怪獣に成り果てたのだ。

本作最大の敵であるヲロチは、能う限り神々しく描いた。

スサノヲとヲロチを同格の存在として描くことで、この二者の対立を浮き彫りにするのが狙いだ。

ヲロチの登場するシーンは、ヲロチをはっきり「神」と記述している日本書紀をベースとした


また、神々しいと同時に、反知性的に見えるようにも気を配った。

対してスサノヲは、知力の巫女たるクシナダヒメと出会ったことで、劇的なパワー・アップを果たしたのである。

知性と暴力の宿命的死闘だ。

☆最後の疑問☆

日本神話において、スサノヲは、エピソードごとに性格がコロコロ変わる。

悪く言えば、一貫性がない


私はこの一貫性の無さを逆手に取り、

「神の子には複数の精神がある」

として、スサノヲが知力の巫女にプロポーズする場面の引き金として利用した。


しかし実際には、スサノヲの登場する神話は、本来はエピソードごとに独立した神話体系であったか、あるいはスサノヲという神格そのものが複数の神格を統合したものであったと考えるのが自然だろう。

ウルトラセブン版のモロボシダン(左)は、苦悩を胸に戦う孤独な勇者。ウルトラマンレオ版のモロボシダン(右)は、若き戦士を鍛える鬼教官。同じ人物なのに、作品ごとに性格が大きく異る。

本作のラストシーンでは、史上初の和歌を詠んだスサノヲに対し、ついにクシナダヒメが違和感を口にする。

「あなたは本当にあのスサノヲ様なのですか?」と。

スサノヲはこれに明確な答を与えない。

そもそも、物語の登場人物は、その物語の成立事情については何も語りえないのだ。


とは言え、ギリギリ攻めてはみた。

普通、自分のことは誰よりもよく解っているものだ。

それなのにスサノヲは、あえて明示を避けたのである。

こうして、逆説的にスサノヲという神格が単一ではない可能性を示唆した。ややもすればメタフィクショナルな発言である。

落語に例えるなら、これが「サゲ」と言えよう。

☆雑感など☆

私は四年にわたって言語関連の動画を作り続けてきた。

万葉集読み上げから始まり、「日本語の歴史」五部作で一旦我が活動の極地を見てからは、言語学をエンターテイメントに落とし込む手法の模索に余念がなかった。

私にとって「ヲロチ」は、この四年間の集大成と言っていい。私の旅に一先ずの区切りが付いたわけだ。


そして、言語の道に邁進する同士たちと熱意を持ち寄って共同で制作することは、さながら文化祭のようで、本当に楽しかったし、多くの学びが得られた。

この体験は、何物にも代えがたい宝珠である。ここから、私の表現活動は、必ずなにがしかの形で変化するだろう。


私たち制作陣にとってだけでなく、この企画は日本語にとって、否、汎く世界の言語にとって大きな意味のあるものだと信じている。

いわゆる「言語系」と称されるヴィデオ群は、minerva scientia氏の「喋ってみた」シリーズや、ILoveLanguages!氏の「The Sound of 」シリーズに端を発し、ここに至って、ついに複数人による演劇が作られるところまで来た。

この文化が更に発展し、言語や民族への理解と関心が敷衍されることを願ってやまない。


末筆になるが、熱意と信頼をもって共に脚本を練ってくださったscientia兄さん、明け方近くまで真剣に単語を選定してくださったあまいさん、お忙しい中役作りし、素晴らしい演技を披露された名波さん、短い時間で企画の趣旨を深く理解し、熱演してくださった土佐さんに、格別の謝意を示したい。


西暦2021/05/02公開