タイトル:氷の音と
作家 :岩本 和保
画廊 :美岳画廊
展示会 :八丁堀・涼風会展 2022 Summer Exhibition
購入日 :2022年7月9日
サイズ :S3号
技法画材:油絵
MY ART ROOMでは《列車が来たら》《変わらないこと》《或る夏の日》など岩本和保さの作品を紹介してきましたが、《氷の音と》はこれらと異なる点があります。一つは部屋の中であり、しかも窓が描かれていません。つまり光源が直接的に描かれていない特徴があります。喫茶店の場面を描いた他の作品は大きな窓があり、そこから取り込まれる光を中心に画面を構成しています。この作品はどうでしょうか。壁の右側はより白く、隣のテーブルはかなり明るいことから、その方向に大きな窓があり陽が差し込んでいるように見えます。天井の照明に頼れば、もっと均一に照らされているはず。天候は晴れと推測できますね。《氷の音と》も他の作品と同じように光の系譜に連なる作品と考えるべきでしょう。
もう一つの違いは、主人公が顔をこちら側に向けている点です。直近の作品では《メモリー》や《白いアジサイのような人》のように顔が見える例もありますが比較的珍しいです。後ろ姿が多いのは、人物像を特定しないことで鑑賞者の体験やイメージに転換するためと考えられます。アイスコーヒーの溶けかけた氷とガラスがぶつかり、かすかに高い音が鳴る。その瞬間を表現するには表情を描くことが不可欠となります。ただし、前髪が横に流れているので詳しい表情はわかりません。それでも虚を突かれたような表情は見て取れます。もし髪が目にかかっていなければ、彼女の感情はより明確に伝わる一方、それで場面は完結してしまう恐れがあります。完全には表情を伺うことができないがために、鑑賞者は彼女が何を考えているのだろうか、心の内を知りたいと思うようになるのです。全てを描くのではなく、という観点はこれまでの作品と同様と言って良いでしょう。写実絵画のように正確に再現するのではなく、鑑賞者の記憶や想像と作品をリンクさせることで、それぞれの物語が再生されていくような気がしました。
《メモリー》作者Twitterより
今回の舞台は喫茶店。2022年10月に美岳画廊で開催された個展の《ひとときの瞬き》のほか、《煌めく店内にて》と同じお店と思われます。サイフォン式コーヒーが自慢のようですね。ガラスは光を反射するモチーフとして最適であり、木製家具と質感の相性も抜群。西洋の伝統的な静物画のように陶磁器は滑らかな質感表現には打ってつけですが、コーヒーカップは小さすぎる弱点があります。今回の作品はアイスコーヒーのグラスとスパイスボトルはガラス製、アンティーク調のテーブルは木製と素材の違うモチーフを上手く取り入れています。また、右手の人差し指に銀色の輝きがあり、指輪のようにも見えます。遠くからはコーヒーのグラスについた水滴が光に反射しているものと思いました。白いハイライトと線は指の上に描かれています。人差し指にする指輪は集中力や行動力を高める意味合いもあるようで、指輪説?も捨てきれません。いずれにしても白いハイライトは鑑賞者の眼を引きます。もう一つの金属であるイヤリングは、首を傾けることで影になり渋みのある色になっています。テーブルにもハイライトが当たっていますね。光がグラスに反射したのかもしれません。
《煌めく店内にて》作者Twitterより
次に構図について考えてみましょう。正方形の3号キャンバスのためモチーフは凝縮された印象になります。横長のキャンバスであれば、喫茶店の風景を広く描くことができ、窓から差し込む光を直接に表現できます。しかし、店内の光景を広く描けば、かすかな氷の音はかき消されてしまいます。喫茶店の心地よさをテーマとするときは、店内を見渡すように描くのも効果的かもしれません。絵画における時間軸は長くなります。一方、この作品はアイスコーヒーの溶けかけた氷とガラスがぶつかる瞬間をテーマにすることから、彼女の表情と手元にスポットを当てた方がより印象的な場面に映ります。どのような喫茶店であるのかは、澄んだ音色が鳴った後、鑑賞者は想像を広げていくでしょう。水面に落ちた雨水が波紋を描くように。
鑑賞の流れから考察すると、女性の瞳からアイスコーヒーに注がれる視線が中心になります。ストローの向きは彼女の視線と一致し流れを補完します。短い距離がために音が鳴る瞬間とも符合します。これが鑑賞の第一のラインになります。次に、店内に飾られたポスター、女性の顔、イヤリング、背筋を経由して、膝から手前のテーブルに抜ける曲線が第二のラインになります。仮にポスターがもっと右によっていれば、間延びしてしまったかもしれません。右からの光も感じにくくなってしまったでしょう。イヤリングは目立ってはいませんが、耳元から首筋に鑑賞者の視線を誘導するとともに、一呼吸おく有効なアイテムになります。また、手前のテーブルがかなり明るくなっているため、画面の端まで鑑賞者の視線は引き寄せられます。さらに、壁の上下を分ける木製の腰見切りが横のラインとして画面に動きをもたらします。テーブルに伸びる腕と机と合わせ、第三のラインが横に流れが生まれます。小品は画面すべてが鑑賞者の視界の中心に入るため、視線はあまり動きません。しかし、この作品では縦軸と横軸を上手く利用し、複数のラインを形成することで、鑑賞者の視線は重層的になると感じました。
喫茶店の雰囲気に合わせた統一感のある色彩も魅力です。クリーム色の壁、マホガニー色の机。もし女性がより鮮やかな青や白い服であれば、コーヒーのグラスの存在感は薄れてしまったでしょう。それでは鑑賞者は氷の音を感じることはできません。濃い緑がかったサックスブルーは落ち着いた涼やかな雰囲気をもたらしてくれます。右からの光を優しく受け止めてくれる印象も受けます。また、服の折れ目など質感も適確に表現されているのも見逃せません。このポスターは取材した喫茶店に実際に飾られていたものです。お店の方も統一感を意識したのでしょうか。バランスある配色になっていますね。何が描かれているかは明瞭ではありませんが、ワイングラスを前に人がいるように見えます。偶然とはいえ、画中画として面白いと感じました。
ところで、この作品は人物画なのでしょうか、それとも風景画と考えた方が良いのでしょうか。私はどちらでもなく、「シーン」なのだと思います。ただし、必ずしもドラマチックな場面ではありません。映画であれば、そのシーンはなくてもストーリーは成立するものの、そのシーンがないと何か足りないと感じてしまうような場面です。しかも、その「シーン」の解釈は一様ではありません。この作品でも彼女がどのような感情を抱いているのかは鑑賞者に委ねられています。
八丁堀・涼風会展 Summer Exhibition 2022 DM(美岳画廊)
この女性は、背もたれに寄りかかるくことなく背筋を伸ばしています。身だしなみにも気を使っています。読書や勉強をするわけでもなく、くつろぐために喫茶店を訪れたわけではなさそうです。誰かと待ち合わせをしているのでしょうか。しかし、スマートフォンで簡単に暇つぶしできる時代に、喫茶店で待ち合わせをするのはやや古めかしいように思われます。遅刻しないよう早めに到着したのかもしれません。姿勢や仕草からは緊張した雰囲気が伝わってきます。ならば日頃から親しくしている人を待っているわけではなさそうです。
私は喫茶店から出ると太陽の眩しさに思わず目を細めた。駅に向かって歩くと数分も経たないうちに頬から汗が落ち、先ほどの涼やかな喫茶店が恋しくなる。夏が来るには早すぎると文句をつけようにも、どうにもならない。影のある道を探して歩いていると、ふと喫茶店で隣に座っていた女性が少し驚いた面持ちをしていたことを思い出す。誰かと待ち合わせをしていたのだろうか。とりとめのないことを考えながら、氷の音をもう一度聞きたいと思った。(2023年5月21日)