タイトル:キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
作家 :岩本 和保
会場 :日本橋三越
展示会 :MITSUKOSHI Art Weeks 三越アートウィークス
購入日 :2025年5月14日
サイズ :15号
技法画材:油絵
タイトル:キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
作家 :岩本 和保
会場 :日本橋三越
展示会 :MITSUKOSHI Art Weeks 三越アートウィークス
購入日 :2025年5月14日
サイズ :15号
技法画材:油絵
■構図の役割
作者の立場になって想像すると、この作品を描くのにもっとも苦慮したのは右下の部分であろう。構図には役割が求められる。左下は主人公である女性の通り道、いわば作品の入り口である。陰影が強調されているのは、小道に草が生い茂っていることも理由の一つだが、緩やかな傾斜とともにワンシーンの出発点として意図的に強調したとも考えられる。画面中段の光をうけたススキと陰になる草むらは風景画の美しさに加え、その「あわい」が彼女の進む方向を暗示している。上段の右のわずかに見える青空は鑑賞者の視線を誘導する鍵となり、作品の解釈に幅をもたらす。そして左上は朧気に描くことで空気感と余韻を生み出している。
では、右下はどのように描くべきであろうか。現実の風景を見えるがままに再現するのであれば、草の形を認識できるくらいに描くことになる。遠くのものは曖昧に近くのものは明瞭に見えるのが視覚的には正しい。しかし、右下をリアルに描いてしまうと単純に女性が駆け抜けるシーンなってしまう。この作品においてもっとも重要なポイントは鑑賞者と女性の距離感である。ワンピースは走りやすい服装ではないし、彼女は全力疾走しているようには見えない。軽やかに跳ねている印象である。急げば彼女をつかまえるのは物理的には容易のはずだ。それでも永久に彼女をつかまえることはできないのではないか、そう感じさせることがこの作品には求められる。右下の部分は実際の距離ではなく、近くて遠い心理的な距離を示唆する役割があるように思う。右下の小道の段差は、その先にあるススキ野と比較すると中間の明るさであり、景色を結び付けてくれる(近い心理)。その一方、道の段差は崩れかけているように見え、ぼんやりと曖昧に描かれている(遠い心理)。この隔たりがミステリアスな感覚をもたらす理由の一つである。
(左上)余韻 (右上)視線の誘導
(左中)ススキ明 (右中)ススキ暗
(左下)入り口 (右下)心理的距離
■彼女はどこへ行くのか
彼女はリズミカルに階段を駆け下りていく。風になびいたワンピースは少し膨らみ、左の裾はやや捲れているように見える。後ろに流れる髪からも勢いを感じさせる。もっとも登山道などで見かける土留を兼ねた丸太の階段はバランスをとるのが難しく、走るに適していない。両手がやや横に広がっているのは、階段を踏み外さないよう注意を払っているためであろう。彼女の左手はブレた描き方になっており、写真のモーションブラーのような臨場感をもたらす。さらに彼女の左側に黄緑色がおかれていることに気づいた。赤いワンピースと隣接していることから差し色として効果的である。
この作品においてワンピースの赤は象徴的である。岩本和保さんの作品は後ろ姿で描かれることが多いため、服の色は表情と同じくらい重要な意味を持つ。画集を捲っていると《君の道》という作品が目に留まった。夕方若しくは朝焼けの時間帯と思われるが、白いブラウスはひかりとともに風景に溶け込んでいく印象がある。一方、《キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン》は黄色みの背景にある赤いワンピースは消え失せることはない。黄色と赤は同じ暖色系であるにも関わらず、彼女の存在はより強くなっていくように思えた。もちろん青や緑色の服であれば、彼女の存在は目立つことになるが、鮮やかではあっても対立的な色彩感覚になってしまう。赤いワンピースは届きそうで届かない彼女の存在を象徴するに相応しい色彩である。
緑色が強調された部分
《君の道》
緩やかな階段は丘陵に沿って左に曲がっているため、このまま進むと彼女は群生するススキの影に隠れてしまう。それは彼女を見失うことを意味する。もし鑑賞者が彼女の後を追いかけて、左に曲がってもそこに彼女は存在しないような不安にかき立てられる。なぜ彼女が消えてしまうように感じるのだろうか。この作品のポイントは遠くの道が判別できないことにある。最初にこの作品を見たときは、丘陵に沿って画面上に向かって道が続いているように感じた。しかし、必ずしも道は明瞭に描かれていない。道に見えるのは光と影の一時的な境界線である。地形から推測すると、左側を大きく迂回しながら奥にある森まで進むことはできそうである。迂回した後にさらに右側に下っていくルートも想像できる。また、日陰になった右側の斜面に道が隠れているかもしれない。さらにススキの小山を左側に曲がるとそのまま真っ直ぐに道が拓かれている、すなわち画面の左側に突き抜けてしまう可能性もあるのだ。この作品には無数の道があると想像してしまう。
公園で鬼ごっこをするように彼女はどこにでも逃げることができる。そう考えながら作品を鑑賞していると、彼女の影が曖昧になっていることに気づいた。影とはまさしく物理的な影である。前と左右にはほとんど影はない。前方の丘陵の影からすれば夕刻を意識させる時間帯であり、太陽が真上にあるわけでもない。後ろには影があるが土階段の影と同化しており、人間の体に対してはやや小さく感じられる。もっとも傾斜を考慮すると影は小さく見えるのかもしれない。写真を元に作品を描いているならば現実に即した表現と考えられるが、空想的なワンシーンという観点でも望ましい表現になっている。幽霊という意味ではなく、影が曖昧になっているのは近くて遠い彼女の存在を示唆しているように感じた。
鑑賞は青い矢印の道を想像しやすいが、赤い矢印の道が存在する可能性もある。
■ひかりをとらえる
当然ながら作者は、最初に誰も人物がいない状況でこの風景を見ている。何が作者を魅了したのか、それは光に輝くススキであろう。日本画では鈴木其一《芒野図屏風》のようにススキ(芒・薄)は古くから画題として描かれてきた。一方、西洋画ではススキを描いた有名な絵は聞いたことがない。尾花とも呼ばれるススキは秋の七草の一つとして万葉集にも詠まれているほか、稲穂と似ていることから豊穣の象徴と日本では捉えられてきたのに対し、西洋では宗教や神話といった文脈で重きを置かれなかったことが要因とも考えられる。もっとも印象派が光の表現に着目したにもかかわらず、ススキをモチーフにしなかったことは意外でもあるが、それだけ文化的な潜在意識が美術に影響を及ぼすという証左になろう。
ススキの美しさは揺らめく穂が光を拡散させることに凝縮される。この作品でススキの穂は光を捉えては、風に揺られてそれを手放すような印象を受ける。それは《キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン》というタイトルそのものであることに気づいた。揺らめく穂の一つ一つが光と戯れのときを過ごす。群生するススキは表面を除くと穂の形を認識するのは難しい。ふわふたとした独特の感覚が残るのみである。この作品は白から黄色、橙色、黄緑色と徐々に色彩は変化していくが、群生するススキがあたかも光を追うように感じられる。やや黄緑を帯びた箇所が感覚的なリアルさを生むことにも気づいた。また、絵具を厚くしてしまうと軽やかな感覚は阻害されてしまいススキ野と認識させることも難しい。西洋画でススキ野がモチーフにならなかったのは油絵で描くと麦畑と誤認されやすいという技術的な理由もあるように思う。この作品では形、色彩の面と筆致を巧みに用いてススキ野を表現していることに驚かされる。作者の持ち味でもある「たしてひく」描き方はススキというモチーフの魅力を最大限に引き出すことができる。
ススキ野(奈良)
小道の脇にもススキは点在しているが、小道を覆うのはいわゆる雑草の類であろう。踏みつけられても元に戻る雑草ならではの強靭さが表現されている。鑑賞者が彼女の後を追いかけようと思考的に足を踏み出した瞬間、やや乾燥した季節のパサパサした雑草を踏む感覚が甦ってくる。草の香りや少し冷たい風、柔らかな日差しまでも感じられてくるのだ。ところで、部屋に飾って気づいたことがある。部屋の電気を消してドアを閉めようとしたとき、隣の部屋からこぼれる明かりに照らされ、作品のちょうど日なたの部分が一つの道のように見えた。描かれた人物も暗がりで判別するのは難しい。それでも美しく神々しさすら感じさせる魅力がこの作品にはあるのだ。
■風景画として鑑賞するならば
ピクチャレスクという言葉は絵のように美しい景色として一般的に使われている。ありのままの自然の姿を尊重することや古典的な美の基準である左右対称からアシンメトリーを取り入れるだけでなく、風景が情緒を揺さぶるという観点も持つ。街中でも海沿いでも、建物の中でも不確かな彼女を登場させることはできる。にもかかわらず、この場所と時間を選んだのは、この風景が《キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン》という主題にもっとも相応しいと考えたからであろう。もしかすると、この風景がこの作品を描く衝動を呼び覚ましたのかもしれない。私が思うにナラティブなピクチャレスである [1]。この作品を風景画として鑑賞するならば、画面中段の左のススキが最大の見所になるのは先に述べた通りである。そして作者は写真ではなく絵画という手段でこの風景を再構成していく。あらためて俯瞰的に作品を鑑賞していこう。
画面の右上は大部分が日陰を占めているが、明暗対比と呼ぶには若干の抵抗を感じる。その理由は日陰と言っても黒ではなく、赤や灰色、青など様々な色が混じり合うことで草むらの感覚が残っているためと考えられる。ススキ野が消えたわけではない。水墨画の滲みを活かした技法のように陰の存在感は増していく。陰影はゆっくりと鑑賞者の心象風景を呼び覚ます。また、濃い緑色の部分は低木が生えているように見え、風景の良いアクセントとなるだけでなく、鬼ごっこの休憩のように鑑賞者の視線を一旦止める効果もある。
作者Xより
日なたと日影の赤みを帯びた境界線は特に美しい。鑑賞者の視線はその境界線に沿って上へと続いていく。ところで、作者のXに本作と似たような場面のエスキースがポストされていた(作者にお尋ねしたところ、制作初期の状態をモノクロに加工したものということである)。本作は鑑賞者の視線は彼女を見下ろす位置にあるが、エスキースは同じくらいの高さに感じる。また、左に曲がった後も一本道が続いているように推測される。画面奥にある雑木林が遠近感を強めるとともに、広く空を描けばイメージは大きく変化したであろう。エスキースでは道を曲がると彼女の存在は見えなくなるが、本作では仮に鑑賞者がこの場所に留まったとしても、小道が画面上に伸びているのであれば、彼女は再び視界に現れることになる。どちらの構図が優れているというのではなく、エスキースは瞬間を強く意識させるのに対し、本作ではどこに向かうのかわからない彼女を追っていく時間軸の長さをもたらしてくれる。
この作品で最初に目が行くのはもちろん赤い服を着た女性である。周囲は黄金色に輝いていることから夕刻が迫っているように感じるだろう。しかし、丘陵に沿って視線を進めると遠くに小さな青空がのぞいていることに気づく。ならば晩秋の午後3から4時頃であろうか。太陽を包摂したかの如く彩度が強まる時間帯がある。マジックアワーと呼ばれるには早い。夕刻は一瞬で過ぎ去ってしまうのに対し、この作品は晩秋の午後に特有のアンニュイでコマ送りのようにゆったりとしながら、それでいて確実に時間は流れていく形容しがたい感覚をもたらすが、それは不確かな彼女の存在と似ている。遠くの樹木は形からすると針葉樹であろう。画面は見切れているが林は奥へと広がっているようだ。樹木の隙間からも青空が見えるのが良い。鑑賞者の視線は青空に抜けていくのではなく、左の丘陵地帯へとスライドする。私は薄明りの丘陵地帯に佇み、別の角度からこの風景を眺めるのだ。幾通りの物語を思いながら。(2025年11月30日)
2021年11月14日 午後3時33分
[1]ナラティブなピクチャレスクとう用語は存在しませんが、鑑賞者が風景を見たときに自分の記憶とリンクさせながら、幾通りもの終わりのない物語を想像してしまう風景を意味しています。