なにかを為したいという気持ちはずっとあった。
人と話すことも苦手、自己表現もあいまいなアラタにとって人一倍その気持ちは強かった。
自分自身が孤独ゆえに、世界とのつながりを得るには誰よりも大きく輝かねばならない。
どうすればそれになれるのか、考えて幼い少年の頭脳では何も浮かんでこず、ただ波の影が揺らめく天蓋を見ていた。
アラタはそんな月並みな少年だった。
アラタの家の裏手は切り立った崖になっており、岩場に作られた簡易的な階段を下りていくと崖の下の小さな小道に行きつく。
えぐられた崖が物語るように、強い波が小道を荒々しくぶつかる。
幼いアラタはごくりとつばを飲み込みながらも、先に進む父親の背を追いかけた。
しばらく進むと小道は終わり行き止まりになった。父親は入り組んだ崖下の入り組んだ岩場の中から板を取り外してこちらに向き直り手招きをしている。その顔がどこかいたずらをする子供のような人懐っこい顔で、珍しい表情を見られてアラタは少し高揚した。
「ここだ、足切るなよ」
岩場の中に隠されていたのは小さな洞窟だった。
アラタがぎりぎり立ってはいれるほどの小さな穴は人工的なものではなく自然とできた亀裂のようだった。
中からひんやりとした風が断続的に吹いている。
「先に入れ」
父親に促されて、アラタが先に進むと波の音がだんだん小さくなっていく。
こんな狭いところに入ることにアラタは抵抗したが父親の手前恥ずかしい姿を見せたくなかった。
足元に気を付けながら洞窟へ入る。壁がぬるぬるして気持ち悪かったが、何とか中へはいる。
次第に目が慣れるほどに、洞窟全体が見渡せるようになる。
「うわ……」
洞窟の中は、天井からいくつもの光の筋がさして風が気持ちよかった。
洞窟はきれいなドーム状になっていて、机や本棚、ベッドなども備え作られている。
壁にはいくつもの蝶の標本、大きな地球儀、いくつも描かれた書きかけの絵画、難しそうな書籍、そのどれもが輝いている。
すべてが物珍しく、すべてがアラタにとって輝いてみえる。
「うん、まだまだ崩れそうにないな……大丈夫そうだ。アラタ、どうだ父さんの秘密基地は」
そういって父親はひょいとアラタを抱きかかえると机の椅子に座らせる。
机の上にも色々なものがのっている木彫りの人形や粘土細工、そのどれもが美しい。またいろいろな専門書があったり、鉱石ラジオ、半田ごてまである。
父親が好きなことに没頭していたという証拠が机の上にも散見している。
アラタにとってこんな素敵な場所初めてだった。口をぽかんとあけながらも、大きく頷く。
「はは、良かった。これからはアラタ、お前にここをやるよ」
そう言って頭をなでてくれる。
「アラタはここで好きなだけ遊んで学べ、父さんみたいに」
アラタは父親が大好きだった。
「俺は、しばらく島には戻ってこれなくなるけど……お前は大丈夫だな? お前は強くなってそして、大切なものを見つけろよ」
父親としばらく会えなくなるのは、ひどく悲しかったが、外の世界に飛び出していく彼が誇りだった。
いつか父親のようになりたかった。
夕間暮れにて――
幼少期のアラタはどちらかと言えば内向的な少年だった。
杯島(さかずきとう)の中にいる子供と言えば、基本的に漁師の子と相場が決まっていてあたりが強くやんちゃだ。
今まで内陸で、祖父母に箱入りとして育てられていたアラタは、そういった子供たちといまいちそりが合わなくて孤独を感じていた。
父親の祖先は色々と手広く商売をしており、もともとこの島の出身である一族だが、アラタの父親の代でこの島の権利も手に入れた。
その御曹司であるアラタは、この島の大人たちからは可愛がられていていつも気を使ってくれる。
しかし、子供はそううまくはいかない。親から敬語で話しかけられるアラタを子供たちはいつも遠巻きで怪訝そうな目で見ていて、こちらからも近づけなかった。
アラタは聡い子だったので、相手がこちらに何を思っているのかわかってしまう。村長の息子というガキ大将にはいつも睨まれている。
そういうわけで、アラタはいつも一人で遊ぶことが多かったのだが、この日は違った。
「うわ……荒れてる……」
アラタが屋敷の裏手の階段を下りていくと、海の上で大きな波がうごめいているのが見えた。
昨日の夜は、風の音と荒れ狂う海の波の砕ける音が眠っている間中聞こえていた。
「シンタくん!」
「……ボクはシンタじゃない、アラタだ」
キラキラした目でそばに寄ってくる少女、確か名前は「カエデ」だったか。他の子供たちと違い、彼女には距離感というものがなくいつも寄ってくる。
アラタは彼女が苦手だった。そもそも名前を間違えているし、何度言っても改めてくれない。
こちらの気分も言葉もあまりまっすぐ伝わらずいつだってそばに寄ってきて話し出す。お喋りだ、こんな小さな島で何を毎日話すことがあるのかというくらい、アラタに話しかけてくる。辟易していた。
彼女に見つかってしまうと、いつも追いかけてくる。だから彼女の気配を感じれば、道を変える。
しかしこの日は、彼女の接近を許してしまった。荒れる海を眺めていたら、隣に立っていて思わずのけぞってしまった。波の音で全く気が付かなかった。
楓はシンタよりも背が高く、手足も体もすらりと長い。いつも通り見下ろしながらこちらをにやにや見ている。
そこから彼女との不毛な追いかけっこが始まった。
彼は島内を逃げ回りながらも何とか父親の教えてくれた秘密基地に向かいたかった。
だが、彼女にその場所を教えたくもなかったので、森に入ると見せかけて海岸沿いにいき波の打ち付ける岩場の隙間に入った。
(しばらくやり過ごそう……)
「シンタくーん? どこにいるん?」
この島の中でも特に変な女がカエデだった。大人も子供たちもどこか彼女とは距離をとっているように思う。
初対面の段階からこれなのだ、慕ってはくれているようだがいまいち得体が知れなかった。
「しんたく~~ん」
彼女の声が小さくなっていく。しばらくすると、波の音だけになった。
やれやれ、とアラタはため息をついて立ち上がる。カエデの姿はない、森の方へ行ったのだろう。
アラタは秘密基地へ向かう。
最初のころは崖ぎわの違った岩石や激しくぶつかる波、それに洞窟への狭い入り口にたった一人で挑むのは恐ろしくもあったが、もはや慣れたものだ。
むしろここを通り抜ける時は父親から褒められたことを思い出し、自分を誇らしく感じていた。
ただこの日は、洞窟のそばで何かが蠢いているのを感じて立ち止まった。
あたり一面に無数の羽が散らばっていて、その中心で何かが地面を突いている。こちらから見ると背中を向けていて何をしているかわからないが……
「何だろう……鳥かな」
そこにいたのは海猫の雛のようだった。
正体がわかってホッとした小心者のアラタは、静かにヒナに近づいてみた。
ヒナがぐるりと首を回してこちらを見る。つぶらな瞳と柔らかそうな羽毛、しかしそれ以上近づくことはしなかった。
その海猫のヒナの体は血に染まっていて、クチバシからは何かが垂れている。細長いそれをみて、アラタは人体図鑑で見た体の一部を想像してしまった。
そのつぶらな瞳からも涙のような粘っこい液体が溢れていて、それが虹色に光ったように見えた。
「えっ」
アラタは見間違いかと思い目を擦る。
もう一度見たときには、ヒナが首をかしげながらこちらを見ている。
つぶらな瞳と目が合う。しばしヒナは何かを考えるようにずっと凝視している。
茶色いもこもことしたヒナどりをこんな近くで見たことはなく、本当に可愛らしいとアラタは思った。ただ羽は部分的に血のようなもので濡れていて、もしかすれば怪我をしているのかもしれない。
(気のせいだったのかな……)
アラタは、気を落ち着けて見上げる。
洞窟の上部、崖の壁面には海猫の巣がいくつかあって、そこからこの雛が落ちたのかもしれない。大きな羽がいくつも落ちていることから考えると、カモメにでも襲われたのだとわかった。春頃はよく海猫の巣はカモメに狙われる。
足元に柔らかい感触を感じた。
「うわっ……あーあ」
目線を下げると、ヒナはアラタの足に擦り付けているようだった。お気に入りの口に血ついてしまいアラタは後ろにジャンプしていた。
するとそれに合わせるようにヒナも飛び跳ねながらアラタの方へ向かってくる。
アラタが止まるとヒナも止まり、見つめ合う。
「……」
しばらく考えたのち、アラタは鳥に向かって手を差し伸べてみる。
ヒナはしばらくその手のひらを見つめていたが、やがてピョンとその上に乗った。
アラタは嬉しくて、笑いを堪えられなかった。
「これってもしかして刷り込みかな!」
本で読んだことがある。
生まれたばかりの雛は最初に動くものを見た際にそれを親と認識する。
つまりこのヒナが初めて見たものがアラタで、親と認識されたとわかった。