手持ちがなかった

手持ちが少なかった


 神様の救いをうけた。

 そう言いはる彼を現実に引き戻せるほど、俺には知識の手持ちがなかった。

「なんだよその顔は、お前もその辺のヤツらみたいに俺が気をおかしくしたキチガイだって思ってるんだろ? でもな、これマジなんだよ」

  彼はそう自信に満ちた様子で言うと、さっき注文した安酒をグラスに注いだ。

「お前も神に近づけば俺みたくなれるぜ」

「お前みたく?」

「そうだ、今の俺は不安も恐怖も、悩みひとつすらない。神が導いてくれるから、俺はこれから何不自由なく生きていけるんだ」

  俺はついさっきまで彼は冗談を言っているんだろうと思っていた。だが、どうやら今回に限ってこいつは、本気で頭がおかしくなったようだった。

「お前だって今は仕事もしないでフラフラ遊んでるけど、そういう不安とか悩みくらいはあるだろ?」

「まあ……、先の事をいろいろ考えるとな」

  俺は机に置かれたグラスに安酒を注ぎながら言った。

  人には誰しも悩みがある。俺も含めた全員が多かれ少なかれ不安を持っている。それがこの世の常識で、覆ることのない理なのだ。

 そして、今の俺は神にすら、というよりは神様ごときでは救えないくらい、人生のちょうど落窪んだ谷の底にいる。4年前に脳出血で母が死に、一昨年のくれには父が消えた。貯金はもうほとんどなく、あと二、三日もあれば、底を見せられるだろう。最近は腹に物を入れる気にもならないし、何も入れてないから、腹の底から笑いが込み上げてくるなんてこともなくなった。

「親父さんのことは気の毒だったな……」

  彼は隣でそう場を繋ぐようにつぶやき、酒を胃に流し込んだ。

「まあ、とりあえずお前が今日を生きててくれれば俺はそれでいい。“明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうだろう“って、教えにも書いてあるしよ」

「ああ、そうかい。素晴らしいお言葉をありがとよ、おかげで救われたわ」

  俺がそう言うと、彼は「だろ、やっぱり神は俺たちを救ってくれるんだ」と調子よく言った。

  俺はそこから彼のお花畑のような話をしばらく聞き流しながら、少し物思いにふけた。そして、何十分かしてもなお馬鹿げたことを口にし続けているその顔を視界に入れると、なぜかしだいに居心地の良さを感じはじめた。

  彼とは知り合ってからずいぶん経つが、どこかこうしているとあの日からずっと変わらず、同じ景色を見ていられている気がした。

  俺はそうやって彼の横顔を見たとき、ふと彼から、彼自身の言葉への反論を教わった。神様なんかよりもよっぽど俺の事を救ってくれる存在を。

 それから俺は口を閉じ、まだ隣で騒いでいる彼を横目に見て、机の上の酒で口を湿らせた。ふと顔に浮かんだ笑みを隠すために。