孤独死芋虫

『孤独死の芋虫』


「観測史上最長となる記録的な干ばつにより、一部の地域では未だ断水が続いています」

 パソコンの画面の向こう側で、好みのキャスターが今日も同じような原稿を読み上げている。

「専門家は地球温暖化による異常気象として調査を続けており、全国的な水不足への対策を検討しています。水資源が豊富な国とされていた日本で、ここまでの干ばつが起こったことは歴史上稀で、政府は緊急の有識者会……」

 こういう類いのニュースというのは、耳にすると毎度毎度、この世に見切りをつけたくなる。どれだけ楽観視が得意な人間でも、ついに終焉が、なんてことを多少は想起させられるはずだ。

「次のニュースです。近年、独り身の高齢者や都市部の若年層を中心に自宅で孤独死をするケースが増加しています。昨年、国土交通省が実施した調査によると、一人暮らしをしている高齢者や若者が自宅で死亡したまま発見が遅れる、いわゆる孤独死の件数が過去最高の数になりました。専門家によると、増加の原因は……」

 ブラウザバックのボタンが押される。

「はあ、いよいよ世界も終わりかね」

 ニュースを見ていた彼は、誰もいない部屋で呟きながらパソコンの画面を動かした。気晴らしにツイッターのつぶやきを流し見ると、昔の同級生たちが要らぬ近況報告をしている。やれ結婚だの、子供が産まれましただの。夏の鬱陶しさに拍車をかけるつもりらしい。世界の終わりが近いかはわからないが、少なくとも彼の人生はずいぶん前からすでに終わってるらしい。この世界では、卑屈な人間に発言権は無い。だが、それでも屈折した文句のひとつやふたつくらいは吐かせてあげよう。

『アタマお花畑のやつら全員、孤独死してほしいわ』

「誰にも見られないアカでしか、こういうことは言えないからな」

 彼は気晴らしを終えてツイッターを閉じると、代わりに缶ビールのプルタブを開けた。缶を片手にキーボードを打ち、いま話題のアニメをググる。そして、いつものサイトにアップロードされている本編を悠々と見始めた。


 それから何時間がたっただろうか。机に突っ伏したまま、いつものように寝落ちしていた彼は、その早朝、異様な騒々しさで目を覚ました。遠くから聞こえる轟音と、部屋の壁が軋む音。

 それなりに大きな地震だった。

 机に積んでいた空き缶の塔は、根元から倒壊して瓦礫と化している。

 しばらくして揺れはおさまった。幸か不幸か、彼は死にはしなかった。しかし、パソコンの向こう側を見ると、壁際にある本棚から、中の本が溢れ出していた。

 部屋が熱いせいか、額や脇にいやな脂汗が滲んでいる。

 彼は埃の着いた素足で散乱した本の山へ近寄り、一冊を拾い上げた。その本には、黒褐色のカブトムシが映っていた。

 日本の夏の風物詩。名前にそぐう、その勇ましい甲冑のような姿は、彼のなかに幼い記憶を蘇らせた。

 彼は昔から夏の季節が嫌いだった。だが、あの年の出来事は、その偏屈さを決定的なものに仕上げた。


 あの夏、彼にはひとつだけ、夢中になったことがあった。街の外れの雑木林で、一匹の幼虫を見つけたのだ。七色に光る光沢を持ち、どんな色にでも自身を変えられるとんでもない幼虫。はじめは甲虫類の幼虫に似て白かったが、次の瞬間には蝶の芋虫のごとく緑色へ変わる。

 その幼虫を木の根元で見つけると、彼はえも言われぬ感情を胸に湧かせ、気がつくと、幼虫を家に持ち帰っていた。

 長らく庭先で放置されていた虫かごに、土と適当な枝を入れて幼虫を大事に置き据える。あの一瞬だけは夏の暑さも彼の中から消えていた。


 しかし、あの日から数日の間、外の世界には滝のような雨が降り続けた。あれも今年の干ばつと同じような、近年稀に見ぬ異常気象だった。

 来る日も来る日も雨は止まず、初めの二、三日こそ、彼は軒下にいる幼虫の様子を伺うべく定期的に外へ出ていた。ただ、家を出る度に服は濡れ、肝心の幼虫も相変わらず平気そうに虫かごで動いている。その変わり映えしない不快な反復から、彼は段々と嫌気を感じるようになった。そして雨が上がった五日後、久しぶりに見た虫かごは水浸しになっていた。幼虫は彼が入れた枝のそばで息を引き取ったらしく、そこには痕跡としてドロドロに熔けた黒いものがかろうじて残っていた。

 どんな色にもなれたあの幼虫が、一体どんな大人になるはずだったのか。それは今となってはわからない。成長を遂げたら、きっとその姿は目を疑うほど美しいものだったろう。だが、どれだけ想像を膨らませたところで、あの幼虫はけっきょく、現実では何にもなれずに腐り果てた。小さな虫かごのなかでたった一匹、幼虫のまま死んでいった。


 水浸しになった軒下の虫かごを見たあと、彼は心を無にしてその中身を処理した。夏の不快な空気のなかで、人知れず死んでいった幼虫だったものを、水で排水溝に流した。幼虫なのか、泥なのかもわからないあの黒い塊を、すべて下水に流し棄てた。

 あの時の息苦しさはいまでも鮮明に蘇る。だから彼は夏が嫌いなのだ。

「水……」

 散らかった本を一通り棚に戻すと、彼は喉の乾きを覚え、台所へ向かった。幸いにもこの地域は断水を免れており、蛇口をひねれば水が出る。

 終わったような人生を歩んでいても、生きている人間と同じように喉は渇く。だが、この時に彼が覚えた乾きは尋常ではなかった。

 彼は我慢がいかず、蛇口に自分の口を近づけ、欲が満たされるよう急いだ。しかし、取っ手を捻ってもなかなか乾きは潤されない。かがみ込んだ体勢を起こしてみると、蛇口から水は出ていなかった。

「断水か」

 とうとう自分の元にも死の宣告が駆け付けたのだ。

 彼は外見こそ平静を保っているよう見せかけたが、頭の中では崖から突き落とされたような感覚を味わっていた。

 断水によっていろいろと対策を考えなければいけないが、今はとにかくこの渇きをどうにかしなければ気が狂う。

 しかし、財布には水を買えるほどの金すら残っておらず、缶ビールも夜に飲んだのが最後の在庫だった。

 彼は立ち行かなくなった現状から逃避しようと、蛇口を壊す勢いで叩き、どうにかして水を捻り出してやろうとした。

 当然だが、そんなことで水が出てくるわけはない。

 彼はしばらく蛇口にあたり、取っ手が半壊したところでようやく諦めた。

 そしてパソコンの元へ戻ろうとしたその時、蛇口の黒い口から、何かが出てきた。タールのようにドロドロとした黒い液体。異様な腐敗臭がその見てくれからも伝わってくる。その液体は蛇口からじわじわと滲み出していき、大きな雫となってシンクへ落ちた。しかし、シンクを覗き込むと、そこには黒い液体と一緒に、ある別のものがあった。白いブヨブヨとした形で液体の中をうごめいている。それは、一匹の幼虫だった。

 彼は奇声を上げて後ろにたじろぐと、シンクの中を凝視した。すると、再び蛇口から何かが這い出てきた。白い幼虫に続いて、次は緑色の頭が出てくる。身体をくねらせ、シンクにボトッと落とされる、それは毛のない芋虫だった。

「な、なんだよ。これ……」

 彼は脱水症状からくる幻覚だと自分に言い聞かせたが、これが幻覚なら、今まで生きてきた世界自体が幻想にしか思えなくなる。黒い筋を作りながらシンクを動くその虫は、確かにそこに存在していた。

 幼虫たちはシンクから出られないらしく、彼はとりあえず、その二匹を認識しないように務めた。しかし、時間が過ぎるごとに幼虫たちは彼の部屋を侵食していき、気づくと台所の油や液体調味料にも彼らが入り込んでいた。

 

 翌日の早朝、また地鳴りがし始めた。昨日あった地震より明らかに大きな轟音。しかし、ネット民たちは揺れを知らせ合っておらず、生放送中に出ているあの好みのキャスターも、平然と原稿を読んでいた。

 部屋の中の惨状にすっかり疲弊していた彼は、その音で目を覚ますと、正体を突き止めるために窓から顔を出した。

 音は南の方から聞こえていた。海がある方向だった。

 海が轟音を立てているとでもいうのだろうか。

 彼は理解が追いつかないながらも、肌に感じるほどの不気味さを感じた。音の振動が、表皮の内側を疼かせるような感覚。感覚というよりは、本当に体の内側が動いているようだ。

 彼はさすがに錯覚だとたかをくくっていた。だが、その疼きは轟音が鳴り止まないのと同じように、どう気を逸らしても治まらない。まるで体の中の血液が、すべて何か、生物のように這い回っているかのような……。

 嫌な予感がよぎる。

 彼は急いで洗面所へ向かい、鏡の前で着ていた服をめくりあげた。全身にはしこりのようなもの浮き上がり、肋の辺りでそのしこりのひとつがうごめいている。

「いやだ、いやだ、いやだ……」

 彼はそのしこりを掻きむしった。しこりが取り除けるか、中で潰れるかして表面から消えるまで、全身を掻きむしった。

 伸びた爪が皮膚を裂き、傷口からは血液が流れる。

 そのはずだった。赤く、鮮やかな私の血が流れ出てくるはずだった。

「ああ……、やめてくれよ……」

 彼ははじめて心の底から、今まで信じてもいなかった神に救いを求めた。だが、その体から葡萄酒のような血液が流れることはなかった。代わりに出てきたのは、潰れたあの黒い液体。そして彼らだった。


「……次のニュースです。気象庁は今夜から数日にわたって、全国で約三週間ぶりの降雨が発生すると発表しました。干ばつによる水不足が長らく続いていましたが、発表を聞いた国民からは歓喜の声があがっています。……」

「ああ……、ああ……」

 彼は床に倒れ込み、パソコンから流れてくる声を聞いた。目の前の床を、あの幼虫が横切る。七色に光る油膜のような光沢が、次々に色を移り代えていた。


 あの幼虫が正しい姿になっていたら、私も空へ羽ばたけたのだろうか。


 幼虫は、まるで彼の姿を嘲笑っているようだった。

 彼の部屋には何かが這い回ったような黒い筋が残り、遠く広がる空の向こうへ一羽の虫が飛んでいった。