人の痕跡

『人の痕跡


『僕は今日までの十八年間、ずっと真面目な人生を送ってきた』

 東京の街が寝静まった午前二時、マンションの屋上。

友人に連れられてこの場所へ来た私は、数日ぶりのたばこに火をつけ、煙を吐きながら隣にいる彼にそう答えた。

「よくもまあ、自分でそう言い切れるな」

「いいだろ、それが僕の人生観なんだから」

私は遠くで光る少ない街の明かりを見つめながら、友人の皮肉めいた言葉をあしらうように言い返した。

「じゃあ、たばこ吸っているのはどう説明するんだ」

 すると彼は私の態度に張り合うように声を出し、これはどうやっても言い逃れできないだろと続けながら、暗かった表情をすこし満足そうにして煙を吸いなおした。

「これは僕が原因じゃないからね」

「おいおい、またずいぶん身勝手な物言いだな」

「だって、本当のことなんだから。何だったら、吸うのを辞めようか?」

「いや、それは俺が困る」

 私が冗談交じりの提案をすると、友人は短くなったたばこを床に捨て、次の一本を取り出すか迷いながら渋るように言った。

落ちていった吸殻を追うように下を見ると、彼の足元には焼け焦げた吸殻が二本転がり、彼がいた痕跡として残されていた。

「まあ、多少の素行不良に目をつぶれば、たしかにお前は真面目な部類の人間か。俺みたく勉強から逃げないで、ちゃんと大学にも進むんだもんな」

「それを言うなら君だって十分えらいよ。自分の力だけでちゃんと就職先を見つけて、四月からは働くわけでしょ」

「いやいや、将来有望なお前と比べたら、俺なんて何もえらくないさ」

 私が肩を持つようなことを言うと、彼はまた表情を暗くしてため息混じりにそう言葉を吐き捨てた。

「すこし謙虚すぎると思うけど……」

「謙虚じゃない。打倒の評価だよ」

 この時の彼が持っていた意見は、私が抱いていた印象に対して正反対の向きに働くものだった。それなのに話す彼の顔持ちは言葉以上の説得力を感じさせ、彼の物言いはどこかもっともらしいもののように私には聞こえた。

「採用されたあの工場だって、今年の志願者数が偶然少なかったから入れたんだ。俺を採用しなくても工場が経営に困ることはなかったし、入ったところでレーンの生産性が上がるわけでもないからな。ようするに、居ようが居まいがどちらでも変わらない、どうでもいい人間なんだ」

彼は世の中か自分かもしくはその両方に鬱憤をぶつけるように話始め、その苛立ちからか迷っていた三本目のたばこを取り出した。そしてそれを咥えると、ジーパンの後ろポケットに手を突っ込み、ライターを探しながら話しを続けた。

「社会全体で考えてもそうさ。なんだったら俺がいない方がもっと効率的に回るのかもしれない」

見つけたライターで火をつけながら話す彼の言葉は、いつの間にか謙虚から卑屈に変化していた。

私は自分の指先で燃える赤い火種を見つめながら、煙と一緒に彼の口から出てくるその愚痴をしばらく静かに聞いていた。

「それで自分の生きている必要性っていうのか? そういうものを見出せなくなって、徐々にいろんなものに対するやる気も起きなくなってよ。結局落ちこぼれの就職組ってわけだ。まったく、生きていくってのはどうしてこうも面倒で、やりがいがないんだろうな」

彼が一通りに思いを吐き終わるころ、私のたばこの長さはすでに一センチを切っていた。私は終わりの近い一本目を指先でいじりながら、ふと話の一部に揚げ足取りのようなことをひとつ思った。

「この星のなかにその存在を必要とされている人間は誰一人として居ないと思うよ」

 私はそう意見しながら聞いた彼が腹を立てることを見込み、余計なことを言うかもしれないけどと後から付け足した。

「はん、余計なことだな」

 すると、友人はやはり不服そうに口を尖らせて、わかりやすく自分の感情をあらわにした。

 そのセリフ以降、私たちはお互いに口を聞かなくなった。あいだにある大人一人分ほどの空間には、少し寒いくらいの風と共に普段よりずっと長く引き伸ばされた、永遠にも感じられる静寂が訪れた。

 三月下旬の風とは、毎年こんなに冷たいものだっただろうか。

 私はほとんど灰になってしまったたばこを、最後に深く一吸いすると、その煙を風になびかせながらそう思った。それからもう一度たばこを確認すると、その巻紙の長さは五ミリと残っていなかった。

「この話も浮き沈みの激しい生涯を送ってきた人間に聞かれたら、まだまだ青臭いとか、眠気を誘うような話しだとか言われるんだろうな。こっちは真剣に考えてるのによ」

 友人は拍数の良い間を空けると、我に帰ったように冷静な声で言った。

 私はその時、彼が言っていることをはっきりとは理解できなかったが、どこかに共感できる要素があったのか、身体は無意識のうちに首を小さく頷かせ、顔に微笑みを浮かべた。

 そしてその表情も薄らぐと、私は指に挟んでいた吸殻を名残惜しく思いながら手放し、床に捨てた。

 

「もう、まだ荷ほどき終わってないじゃない」

 最後のたばこを吸ってから数時間が過ぎた翌日の午後。引っ越してまだ二週間も経たない私のマンションの部屋には、どういうわけかそこに居るはずのない母の姿があった。

「もう二週間も経つんだから、そろそろ部屋のなかを落ち着かせたらどうよ」

「まだそんなに経ってない」

「はいはい、いいから手伝って。あなたの荷物でしょ?」

 この日の母は言わずもがなだが、厚かましかった。口調といい、指摘の内容といい、母の言葉は昔からいちいち鼻につくのだ。母親とは本質的にそういうものだという理解はずいぶん前からあったため、今まで露骨に反抗することはほとんどなかった。だが、だからといってそのお節介を素直に受け入れられるほど、私も大人ではなかったので、こうして気に障らない程度の口答えを会話に挟むことで手を打っていた。

「そういえば、サークルは決めた?」

「サークル? どこにも入るつもりないよ。この前も言わなかったっけ?」

「聞いた。まだそんなこと考えてたのね」

 ここ最近、母から始まる会話は頻度を増し、その話題は十数日後に始まる大学のことで持ちきりだった。

「だって、別にやりたいこととかないし。第一、大学は勉強をする場所でしょ」

「そうだけど、同じくらい大切なことがあるのよ」

 話をしている時の母からは、どこか焦っているよう空気が感じられた。

「部活とかサークルに入れば大学のなかに居場所ができるし、先々で助けてくれる友達とかもそういうところでできるんだから」

「先々って?」

「学校の授業とか、就職の時とか、そのまた先の人生のことよ」

 その焦りの正体が何なのか。また、それが本当に母の抱いているものなのか、それは私にはわからなかった。

「いつかわかるときが来るわ」

 母は封がされたままだった段ボールを開けると、入っていた私の洋服や本を床に広げながら黙っている私にそう言った。

 私はそれ以降、何か言い返そうとする気が起きなくなり、数日ぶりに二人でいる部屋にはしばらく沈黙の時間が流れた。そのあいだ、母が放った言葉は私の頭のなかで宙を舞うように何度も繰り返し響き、私に何かを暗示させているように錯覚させた。

 母はその後、私の荷物を半日で整理し終えてほとんどの家事もあらかた済ませると、家にいた頃のように夜ご飯まで作った。そしてまだインテリアショップのにおいが残っているソファーで一晩眠ると、仕事のために朝早く自分の荷物を持って、私の部屋を後にした。

「じゃあ、また時間があったら来るから。それまでは一人で頑張って」

「うん、何かあったら早めに連絡するよ」

「そうね、そうしてくれると安心できるかな。……ご飯はちゃんと食べるのよ。出来合いのじゃなくて自分で作ったものをだからね」

「うん、わかった」

 私はマンションから徒歩五分のところにある最寄駅の改札まで母と一緒に行き、二言三言ずつ別れの挨拶を交わした。

「じゃあ、いってらっしゃい」

「はい、いってきます」

 淡い朝日とまだ夜の冷たさが残る風の中で、私の言葉に返事をする母はとても複雑な顔をしていた。満足そうに笑みを浮かべ、それでいてどこか泣き出しそうにも見える、そんな顔だった。その無数の感情が入り混じった表情を前に、私は自分がどんな面持ちを母へ向ければいいか悩んだ。しかし、思いつく表情はどれもこの場には不適切なもののように思え、私は結局どの顔も作らなかった。

「頑張ってね」

 母は最後にそう言うとひとりで改札を通り抜け、不思議な笑顔で手を振りながら駅のなかに入っていった。私は同じように手を振ってそれに応え、母の姿が見えなくなった後もしばらくその場に立ち尽くしていた。

 それから数秒してようやく足を動かす気になると、私は身体ごと向きを変えてゆっくりと帰路をたどり始めた。

 慣れない土地を歩くとき、視界には普段よりいろいろなものが映る。ひび割れた道路やかすんだ白線。向かいから歩いてくるプードルや柴犬。家の庭先に植えられたトネリコやヤマボウシの木など、そのほとんどが一度は目にしたことのあるものだった。だがその物たちは私と違って目新しい景色の一部にうまく溶け込んでおり、まだ街に馴染めてない私に、既視感や親近感を湧かせてはくれなかった。

 そのせいもあり多かれ少なかれ焦っていた私は、外を歩くとき自分を落ち着かせるために色々なものに気を配らなければいけなかった。この道は右側通行なのか、それとも左側通行なのかということや、道ゆく人がどれくらいの速さで進むのかとか。走り去る車の速度と量や、横断歩道の信号が青に変わるまでの残り時間など。この町特有のルールをできるだけ早く知り、自分がこの場所に適した行動をとれているか確認するのだ。

三年前の高校入学当初の頃にも、私は今と同じように知らない町に通っていたが、あの時と今とでは様々な面での深刻度が大きく違った。だから私はこれから四年間暮らさなくてはいけないこの町を、今日まで不安なくして歩くことはできなかった。

 途中、私が道沿いにあるコンビニの店内に目を向けると、その窓ガラスにはまとまりのない、よく知った顔が、浮かなそうにこちらを見ていた。私はその人の目を同じような表情のまま一瞬だけ見つめ返し、瞬きをすると流れるようにその視線を足元に落とした。

 その後、マンションに戻り一帯を見回すと、そこに母が居た痕跡は何も残っておらず、荷物が片付いた分、部屋は昨日よりも明らかに閑散としていた。

 

その数日後、一人暮らしを始めてからちょうど二週間が過ぎた日の朝。

前の晩からレンタルショップで借りてきた映画を四作見続けていた私は、作動音を鳴らしている洗濯機の前で洗い物が終わるのをぼんやりと待っていた。ほとんど寝てないせいで身体は鉛が乗っているように重く、気を抜くとそのまま倒れてしまいそうだった。

ふと意識が飛びかけていたことに気づいてはっと目を開けると、扉の向こうからは今日付けで返却になっているイギリス映画の音声が洗濯機の音に紛れて聞こえていた。