人間の閾 AL;CHYMIST【仮】

人間の閾 AL;CHYMIST【仮】

―― 年の暮れごろ、ついに身体が痛むようになった。
 ちょうど前の月夜に友人を見送り、この身も次の晦日まではもつまいとそのとき悟った。
 未練や不平とはとうに縁を切られているため、あとは夜を待つだけのはずだった。月は欠け、潮も満ちた。だが、あの晩、私は見たのだ。
 あれは暗く、鏡のように底知れぬ闇の地だった。

 私はその地で、死が克服される瞬間を目にした。――




企画書

 私たちは幸福になれないのだろうか。いつの時代も人類は、漠然とした恐怖と不安に手綱を握られている。これは私たちの普遍的な問題であり、幸せな世界への憧れはいつの時代の人の常だった。そして、今日を生きる私たちはその憧れに最も近い場所へ上り詰めていながら、その悲願へ続く道のりの果てしなさにそこはかとなく絶望している。人が不安を拭えない理由はさまざまで、それぞれが自分の命題で楽観的にはしていられない。人は不安を拭うために安心材料を求めている。その中でもひどく信頼されているものに、科学があるといえるだろう。


 18世紀に起きた産業革命に始まり、科学という学問分野は19世紀の間に自然科学から現代科学へと形態を移り変えていった。その頃から人々は技術を進歩させ、都市開発を推し進めてきた。社会を安心安全、便利快適なものへと作り変え、家父長的な啓蒙の元で無意味か不利益を生む無駄と断定した事柄をひとつ残らず排除しようと躍起になってきた。あらゆるものが予測可能で、自分達の思い通りに制御できるよう、不快さを感じないよう、人の手が加えらていないあらゆる闇へ光を灯してきた。それらは現在、テクノロジーやサービスという呼称を与えられ、私たちの生活に差し込む隙がないか、その瞬間を虎視眈々と狙っている。


 人類は200万年前に種として確立して以来、飢餓や病気に特段、苦しめられてきた。そして200万年が経過した今、科学という聖火を大きく育てた人類は、食糧をいつでも簡単に手に入れられ、生命をあらゆる病から救えるようになりつつあるように見える。そういった側面から、科学が生み出した技術、技術が造ったサービスは人を活かすためにあるといえるかもしれない。だが、そうしてただ生かされているだけの人生、安心安全、便利快適に、まさに檻の中で飼われるだけの命が幸福だとはいえるだろうか。

 そうして科学が作り上げてきた現代社会、そこに生きる我々の人生は、豊かになったのだろうか。闇を忘れ、光の中でしか生きられなくなってしまった私たちは、良い人生を歩めているのだろうか。


 おそらく、この問いを投げかければ、今の世の中は大きく意見を二分するだろう。技術革新やサービス向上が人の幸福に結びつくのか疑問視され始めたのは、随分と昔からで、その思考がひとつの意見として市民権を得て久しい。

 だが、現代社会が豊かというのであれば、なぜ都会人は冷たいと言われるのか。鉄の檻に閉じこもり、自ら戒めたの足枷を見て、その檻でなぜに孤独を叫ぶか。なぜそうして自分を憐れんでもらおうとするか。


 都市というものも、その構造は人間の脳内のように無駄のない構造になっている。目に見えるものも見えていないものも、すべてのものに存在する意味がある。街路樹は景観を良くするため、ビルは人が働くため、アスファルトは人や車が移動するため。あらゆるものに意味がある。そして、その中で唯一、たったひとつだけ意味を持たない、または持てないもの。それが私たち自身、人間だ。人間は何のために存在するか。その意味は私たちを創造した者にしかわからない。私たちは意味に飢え、意味のないものを排除し、意味ある物に囲まれるように発展して都市を築き、その中で自分の存在意義を探すようになり、その迷宮に迷い込んでしまったのである。

 インターネットの台頭による情報過多が進んだ昨今では、不快なものを排除する動きは著しく、そして、迷うことに疲れ果てた者たちは、いつまで経っても実りのない、前時代的な響きのする努力といった、意味を求める行為すらをも嫌うようになった。そうして私たちは生まれ持ったステータスが人生の全てだと信じ、それを否定してくるものには率先して自分の世界から退場してもらう。そうしているうちに、いつしか見える世界は小さくなり、気付かないうちに自分を鉄の檻に閉じ込めるようになったのかもしれない。私たちはその檻の中で、安心安全、便利快適を謳うことに必死である。そして、その踠き争う姿さえも不快で、私たちの目は無意識にそれを避け、結局は自分が何者なのかも忘れて、ただ息をするだけの日々を送るのだろう。


 こういったことを問題として取り上げ、訴えかける物語はこれまでにも多く作られ、何気なく世間に消費されてきた。だが、人は今でも「生きてさえいればいい」と生への執着を剥き出しにし、それを指物のように振りかざす。それが究極の幸福なのだと信じて疑わず、檻の中で自我を肥大化させていくばかりである。

 これは一見すると、人生観の違いなだけのように思えるかもしれない。細く長く生きるか、太く短く生きるか。その違いがあるだけだと思うかもしれない。ただ本来、自然の中ではたとえ細く生きたとしても、その生命が明日、明後日でどうなっているかはわからないはずである。これは全てを制御できる都市国家で生きているせいか、万能科学への絶対的信頼のせいかわからない。だが、少なからず私たちは、自分の命が半永久的にいつまでも続くことが保証されている、または半永久的に続かせることができるものだと、心のどこかでたかをくくっているところがある。細く長く、太く短くという言葉のうち、人間が決められるのは半分のみ。細く生きるか、太く生きるか。その箇所しか、私たちには決められないはずなのだ。私たちの世代は特に症状としては末期であり、安心安全、便利快適を追求し、できるだけ命が永続するように願い、金さえあればどうせ医療がどうにか延命させてくれるものだと考えている。だが、これまでの科学史を振り返ると、科学は生かした命の数よりも、殺めた生命の方が何倍と多いことに気づくだろう。


 この作品を作るひとつの目的は、社会における幸福と、その社会を造った科学という牽引者の姿を新しい切り口から問うところにある。

 現代社会では科学を合理的思考の元になった学問だと考える人間も多くいると思う。だが、科学はもともと、今で言うオカルトと同じところに源流を持っている。そして、科学はつい最近まで世界の構造を合理的に解明するどころか、むしろ人間を先の見えない闇の中へ導くのに一役買っていた。その時代はまだ科学が理性などと息巻いて自然本質と呼ばれるこの世の真理を追求していたころ。そして、その時代には科学と隣り合ったところに、まだ錬金術師というものがかろうじて存在していた。

 現代人に錬金術について知っていることを問うと、多くの人が賢者の石という言葉を中心に、それを単なるオカルトか人間の恥ずべき遺物だと言うだろうが、彼らが実際に何を思い、何を行っていたか。その実態を知る人間はほとんどいない。自分自身がその恩恵を受け、その功績の上に成り立つ科学文明で日々を平和に暮らしているということも知らずにだ。

 たとえば実験という概念をこの分野にもたらしたのは誰か、医療で初めて鉱物由来の物質を用いたのは誰か。アイザック・ニュートンやロバート・ボイルといった歴史に名を残す科学者たちがその生涯の大半を何に捧げ、何の伝統的概念を根源にさまざまな功績を残したか。

 私はその輝かしい歴史の影に隠された科学の側面というものを、この社会に提示する。


 ただ当然のこととして、科学と現代社会を否定するにしても限度はある。今さら野生動物を追いかけ回す縄文時代に戻れと言うつもりはないし、中世のようにまやかしで不老不死となる万能の薬を作ろうと言いたいわけでもない。ただ、生活の中に不便なとや不快なこと、未曾有の地を残しておこうという話である。急がば回れということわざがにほんにはあるが、同じような寓話は世界各地にある。ヨーハン・V・アンドレーエという錬金術師が著者とされる『化学の結婚』という文書にも同じような考え方が登場する。ユングのいう集団的無意識がそうさせているのか、神話とともに伝播してきたのかはわからないが、人間は昔から遠回りすることが幸福への正しい道だと知っていたのだろう。

 そして、科学技術とは往々にして近道をするための道具だと私は思う。生活を安心安全、便利快適にするということは少なからず遠回りをしているようには見えない。蝋で固めたイカロスの翼のように、燃え盛る炎に近づき過ぎると、破滅を導くことになるということ言いたいのかもしれない。


 ここまでの話から、私は科学批判をその心根に持っていると思われるかもしれないが、私はむしろ科学に希望を抱いている。つまるところ、私はこの現代社会で本来の正しい科学の姿を復活させたいのだ。科学は今、盲目的に信じられていた段階から移り変わり、時代の要所々々で万能ではないことが露呈してきた。だが、人々はそれで科学の炎を手放すわけもなく、むしろより絶対的な確証を科学に求めるようになった。" 科学的に証明された "と言われれば、誰しもが多かれ少なかれ、その言動には一定の信頼がおけると錯覚していた時代から、その証明を自分の眼で確かめようともしないのに、より高い水準の正確性と絶対的な断言を求め続けるようになったのだ。

 科学の言動を鵜呑みにしてしまう風潮は、19世紀までの自然科学も陥っていた事態で、それは科学としての正しいあり方ではない。科学とは自然が秘める謎を解き明かすために生まれ、19世紀までの誤ち、絶対的な答え、俗に真理と呼ばれるものを求めていた自然科学の時代を乗り越えるべく、自分自身すらも含めたあらゆる物事に対して懐疑的な視点をもつことで、現代科学へと姿を変え、人間を理性に対する狂信的な振る舞いから正気に戻してきた。つまり、現代科学とは本来、人様の安心を得るために、合理性に基づいた明確な解答を導き出すための道具ではなく、私たち自身をも懐疑的に見ていくことで、科学の原点に立ち戻ってきたのだ。だから、そこには民衆を率いる領主のような社会的牽引力はなく、ちょうど幼い少年少女が無意識に美しい蝶を追ってしまうように純粋で個人的なものなのだ。蝶を追えば、空高くに逃げられてしまうかもしれない。だから、どうすればその蝶を捕まえられるのか、考えた。飛んで逃げられるのが厄介だ。だから、どうして飛べるのかを考えた。食べ物で誘き寄せれば捕まえられるかもしれない。だから、何を食べるのか、何に引き寄せられるのかを考えた。蝶を捕まえるためであれば、森にも迷うし、空だって飛ぶ。実際に科学の現場は、知らないことを知りたいという、少年少女が抱くような好奇心でほとんど成り立っている。そして、その純粋な存在は、現代社会に君臨する、大きな権力によって飼殺しにされている。

 故に、この作品では科学のあり方を新しい切り口から問い、その本来の姿を取り戻すことをテーマとする。その目的達成のために現代に影響をもたらしつつも歴史の影へと葬り去られた錬金術、その真の姿を描くことで、錬金術と科学の閾、現代社会を支える万能科学という物の危うさ、科学の真の姿についてを、登場人物たちと共に解き明かしていく。そして、物語を通じて錬金術的、科学的な視点からこの世界を "私たちはどう生きるか" 、その一つの意見を物語を通じて提示していきたいと考えている。



 物語は19世紀のチェコ、そして我々が生きる現代の日本を舞台に展開され、主人公が現代の日本から19世紀のチェコへタイムスリップするところから話は始まる。チェコ、とくに黄金の町と呼ばれるプラハではルネサンス後期の時代、ボヘミア君主にルドルフ2世が君臨していた時代から錬金術師が多く集うようになった。そして物語の舞台である19世紀とは錬金術が本来の姿を維持できた限界点にあたり、この世紀を界に現代科学と呼ばれるようになった分野が残した負の遺産の濡れ衣を着せられ、錬金術は完全にオカルトか詐欺だと馬鹿にされるようになっていった。このような点から19世紀とは現代科学と錬金術が唯一、同じ世界に存在していた時代であり、この作品のテーマを描くには最適である。また、チェコという国は四方八方を深い森の海に囲まれ、それは島国である日本と対比的な構造にあるように思える。作品内では描かれる世界がすべて現代社会、とくに現代の日本社会に通ずるものだとわかるような構造にし、テーマが伝わるように配慮する。


 プラハにゆかりがあり、錬金術にも精通していた神秘主義者として、ヤーコプ・ベーメという人物が存在し、その著作である『アウローラ』には無底という概念が存在する。物語の中ではこの無底という概念を設定に取り入れた空間を経由することで 、時間と距離を超え 、19世紀のチェコと現代の日本を移動することができることとする。

 また、主な登場人物はベーメと同様にプラハにゆかりのあるアマデウス・モーツァルトの代表作、『魔笛』の登場人物と対応させたキャラクターとする。タミーノ役は主人公の憧人、パミーナ役はヒロインのアリス、パパゲーノ役はオリバー、パパゲーナ役は愛依とする。

 主人公の憧人が現代の日本からタイムスリップした頃、19世紀のチェコで生きていたヒロインのアリスは当時、ボヘミアの統治を任されていた統帥に父親を殺され、その復讐に燃えていた。その中で無底の世界へと迷い込むこととなる。無底の世界での進行役には、ベーメやモーツァルトと同じように錬金術に精通していたヴォルフガング・ゲーテの代表作『ファウスト』に登場するメフィストフェレスを起用し、彼の進行によって登場人物たちは無底を冒険する。

 さらにプラハにはゴーレム伝説というものがあり、その伝説を題材にした小説にグスタフ・マイリングの『ゴーレム』という作品がある。これらの要素から、登場人物たちの基本的な敵はゴーレムであり、中盤では父親の仇であるボヘミアの統帥をアリスが殺害する展開、終盤ではラスボスにメフィストフェレスを据え、それを撃破することが冒険の盛り上がりを生んでいく。プラハのゴーレムについて、その源流は1800年代にグリム兄弟が執筆していた隠者新聞という新聞雑誌でポーランドの民族伝承を紹介したのがきっかけとなり、その後に段々と形作られてきた伝説なため、ここではポーランド版ゴーレムを基本的な設定に盛り込む。


 ゴーレムなど、一般的に怪物やモンスターなどと呼称される空想上の生命体を描く場合、そのキャラクターには何らかの意味が込められ、物語に登場する。そして、そのキャラクターを主要な登場人物たちが倒す、またはその魔の手から脱する展開を描くことで、物語を通して読み手が空想上の生命体が持つその意味を昇華することができる。つまり、怪物やモンスターはただアクションが映えるから、わかりやすい対立構造が描けるから、という安易な考えのみで扱って良いものではなく、そこにはなぜその生命体を起用したのかという理由が必要である。つまり、怪物が何かしらの暗喩を持ち、メタファーとして物語に登場することが、それを用いる必要条件である。

 では、ゴーレムにどのようなメタファーを持たせるか。ゴーレムとはその存在が初めて明記された説もある旧約聖書の時代から被創造物であり、プラハやポーランドに伝わる伝説では人間が生み出した生命体とされ、それらの伝説は人間が自ら生み出したものの制御を誤り、自滅するという戒めを語っている。そのため、これは人間が生み出した科学という学問や技術、サービス、ひいてはあらゆる社会問題のメタファーとして機能させられるだろう。錬金術的視点からこの生命体を観察すると、その組成は主に水と土であり、これはアリストテレスが提唱した四大元素に当てはめると受動的な性質を持つものであり、女性的象徴と重なるところがある。この側面と登場人物たちを関連させることで性についてのメタファーとしても機能させたいと考えている。


このような要素を踏まえ、この『人間の閾 AL ; CHEMIST』はゴーレムと錬金術などを用いた科学批判、つまり科学の是非・善悪・美醜などを指摘して、その価値を判断し、論じることを軸に据え、その派生としてさまざまな社会問題に対する提起をし、生きる人たちが規範的な価値と共にある人生、俗に Well Being と言える人生を歩めるよう、その体を支え、不安に怯える背中を押せるような作品にしていきたい。


イメージボード

・ボヘミア東部 チェスキークルムロフ城

・旧新シナゴーグから現れたゴーレム

・19世紀 プラハのユダヤ人街 ヨゼフォフ No.1

19世紀 プラハのユダヤ人街 ヨゼフォフ No.2

無底の果てに建つ神殿

・ゴーレムと少女

・ゴーレム プラハの郊外

・無底に潜むゴーレム

・無底の天井

・無底への小路

・主人公たちが暮らす孤児院

・院長の見送り

錬金術師の実験室

秘薬の突沸

・19世紀 プラハのユダヤ人街 ヨゼフォフ No.3

・19世紀 プラハ 旧市街広場

写真