僕が今日を生きる意味

第一話 

P. 1  人生とは何か。



人生とは何か。人は何のために生きているか。

 僕は子どもながらに、この人類が長らく向き合ってきた哲学の題材に立ち向かい、その結果自分を見失った。

 人間はふとしたことで呆気なく死ぬ。だから人に生きる意味なんてない。目的なんて必要ない。

 それなりの地位と生活に困らないだけのお金、雨風を凌げる家と温度のある食事。それがあれば良い。あとは健康で平凡な日々を送り、過去や未来に縛られず、今日を生きる。

 そうして人生を安全に、確実に終えられれば幸せになれる。

 十七年間でたどり着いた僕の人生観は、誰が何と言おうと結局覆ることはなかった。そしてこれからも覆されることはない。


***   ***


 ドーン………ドーン………

 暗い視界の中、遠くから体の芯に響く音が聞こえてくる。よく耳をそばだてると、楽しそうな人の声や、太鼓の音が他にもしていて、その音のする場所はとても賑やかそうだった。

 しばらくその音を聞いていると、僕はふと、近くにある人の気配に気付いた。

 ゆっくりと瞼を開けて焦点を合わせると、そこには見慣れた人の足元があった。

 その人は僕の真正面まで近づくと、そのまま後ろに回り、死角から頭を撫でてきた。僕はそうされて、ようやく意識がはっきりし、地面に向いていた目線を上げる気になった。

 周囲の空間を見上げると、そこは全面が水彩画のような筆遣いで淡い橙色に染められていて、どことなく温もりが漂っているような気がした。

 そして、その橙色の空はドーン、ドーンという破裂音がすると、その一部が反応して、瞬間的に紅色や緑色、水色や黄色に変色していた。その光景は目を見張るほど綺麗で、僕はしばらくその光景をただ、眺めていた。

 背後か伝わってくる気配は小刻みに震えているように思えていて、とても弱々しく、周りの音に今にも押しつぶされそうだった。

 しばらくすると、僕の頭頂部に置かれていた手が離れ、後にはほのかな温もりと髪の乱れが残った。僕はその痕跡に自分の手を当てると、その温度を感じようとした。

 そして何気なく後ろを振り返ると、そこにはもう、誰の姿もなくなっていた。辺りを見回しても望んだものは見つからず、得られたのは孤独の冷たさだけだった。


***   ***

 

「……ええ、このようにエックスの値がわからなくても、公式に当てはめて計算を進めれば答えがわかるというわけです。この公式は次の期末テストだけじゃなくて、明日の模擬試験の範囲でもあるから絶対に覚えるよう……」

 梅雨入りから三週間ほどが過ぎたある日の学校。六限、数二の授業。

 僕は数学担当兼、担任のおばさん教師である岡田先生の声をよそに、長い前髪の隙間からひとり外を眺めていた。

 窓からは久しぶりの晴れ間に流れる、気の早い積乱雲や、グラウンドの端に残っている大きな水溜りが見えていた。

 こうして外を見ていると、僕はたびたび、なぜ自分はここにいるのかと哲学的なことを考え始めることがあった。明確な答えがないことを知っていながら、その疑問に対する回答をうだうだと探し回り、結局はすぐに思考を止める。そうして暇な授業の時間をやり過ごすのだ。

 だが、この時間は答えが見つかるわけもないのに、僕はなぜか考えを巡らせ続け、掴みどころのない、漠然とした疑問を雲のように大きく膨らませていた。

 そしてふと我に返り、僕は机の引き出しに片手を入れた。すると乾いた厚みのある紙が指先に触れて、僕にしか聞こえない物音を立てた。

 僕が手に触れたそれを掴んで取り出すと、引き出しの隙間から封筒の形をした、真っ白な紙が姿を現した。

『夏奈慧くんへ

 夏奈慧くんに大切な話があります。

 もし聞いてくれるのなら

 今日の放課後に屋上へ来てください。』

 封筒の中に入れられた紙には、たったそれだけの短い文章が、多くの空白を残して記されていた。

 この手紙を見つけたのはちょうど一限の終業チャイムが鳴った直後だった。

 僕はその文面から、これが俗にいうラブレターだと嫌でもすぐにわかった。しかし、発見から数時間が経過した今でも、この手紙の送り主は誰なのかという疑問や、これが悪戯などではなく、本当に告白目的で送られてきた物なのかという疑念は解消されていなかった。

 とりあえず指示通り屋上へは行ってはみるつもりだが、正直僕はあまり乗り気ではなかった。理由は特になかったが、しいていうなら面倒だからだろう。その証拠と言っては何だが、今も含め、僕は手紙を見つけた時も胸の鼓動が高鳴ったりすることは無かったし、特別感情に変化の兆しが見えることもなかった。

 それから一時の間、手紙の文字を見つめていると、僕は周りが気になり、教室内を見回した。しかし、クラスの中に変化はなく、そこにはさっきと同じ授業風景があった。

 その中で、僕はふと、一つだけ持ち主不在で空いている席に目がいった。その席はもう何日も使われていない。どの学校、どの学年にも大抵一人は存在する不登校生徒の席だった。

 僕は何も置かれていないその机をしばらく眺めると、それと対比するように自分の机へ目線を移した。卓上に広げられたノートに綴られている無数の数字は、相変わらず無駄に多くの色で飾られ、それはそれは非常に鬱陶しく思えた。

「それじゃあ今日の授業はこれで終しまいです。みんな、明日の模試ではいい点数を取れるように、最後の復習を怠らないでくださいね」

 放送用のスピーカーからチャイムが聞こえ、授業の終わりを告げると、岡田先生は授業の最後に教師らしい、生徒の気持ちを無視した念押しを言った。そして週直の生徒が号令をかけると、本日最後のけだるい時間が終わった。



P. 2 「あー、疲れた。夏奈慧、帰ろうぜ」

「あー、疲れた。夏奈慧、帰ろうぜ」

「早くゲームしたいな」

 六限の終了から二十分ほどが経ち、下校前の終礼が終わると、まもなく俊太と奈央が声を投げてきた。二人は早々に帰りの支度を済ませたようで、既にスクールバックを背負って、いつでも下校できる体制をしていた。

「悪い、ちょっと用事が……」

 僕は帰宅を急かす二人にそう言うと、あたりを警戒しながら机のなかを漁り、二人にだけ見えるように、白いラブレターを覗かせた。

「はぁ?」

 俊太はその紙を見ると瞬時に事態を理解し、素早い反応を見せた。しかし、彼は驚きの表情をしたかと思うと、すぐに顔を変え、今度はにやけた顔を作った。そして僕の方に近づくと肩を組んで声を潜めた。

「誰だ?」

「始まった……やっぱりこうなるのか」

「いいじゃねぇか」

「よくない、構ってないで先に帰ってて。あと、さすがに今日はゲームしないで勉強しといたら。一応、来年受験生なんだから」

 僕は俊太の拘束から難なく逃れると、手紙と机の上のバックを持って彼から逃げるように教室を出た。

「待っててやるから、後で話聞かせろよ! それと、今日もゲームはやらせてもらうからな!」

 僕が廊下を数メートル進むと、後方から放課後の騒々しい音に紛れて俊太の大声が届いてきた。振り返ると彼はまだにやけた顔を保ち続けていて、まずいことにその表情は彼の後ろにいる奈央の顔も伝染していた。 

 僕はそこから手の施しようがないことを悟ると、後ろの方にいる二人のことを諦めて屋上に向かった。

 廊下の突き当たりにある階段を登り始めると、上の階から降りてきた生徒と何度かすれ違った。

 僕はその回数が一つ増すにつれて、彼らの目線が気になりだし、次第に逆方向に進んでいる自分が初めて気恥しくなってきた。

 そして湿気が多くじめじめしている階段の空気のなかでは、頬に纏ったそのわずかな熱も二倍三倍に熱く感じられた。

 しかし、屋上に近づくにつれて人とすれ違う頻度は減っていき、屋上に出るための扉の前に着くと、今まで感じていた気恥ずかしさは緊張に変わり、今までよりいっそう胸をざわつかせた。僕は落ち着こうと息をついたが、その口元はなぜかわずかに震えていて、僕に今の精神状態を分かりやすく教えてくれた。

 だが、僕はそれを気のせいだと自分に言い聞かせ、平然を装った。そして勢いに任せてドアノブに手をかけると、そっと手に力を込めた。

 扉はガチャッという音を立てると、思ったよりすんなりと開き、外から階段のものとは違う温度の空気が勢いよく吹き込んできた。

 僕は足元にたまっていた埃が後ろへ流れていくのを横目で追いながら、開いた扉の仕切りを越えて屋上の湿った床に足をつけた。

 しかし、手紙の送り主はまだ来ていないらしく、屋上全体を見回してもそこに人の姿はひとつもなかった。

 僕は仕方なく時間を潰すため、端にある三メートルほどのフェンスに歩み寄った。そして格子越しから、眼下に広がる景色を見下ろした。

 遠くに見える茂みは、数週間前に見たものより青々とした葉を風に揺らしていて、目の前まで迫っている季節の変わり目を色濃く告げていた。

 僕は初めて屋上からの景色を見て以来、時折ここに景色を眺めに来ることがあった。中途半端な都会にあるこの高校から見える景色なんて、たかが知れているし、腐っても絶景などと呼べるようなものではなかったが、その特別な点が無い平凡さが僕は好きだった。

 少数の自然と多数のビルや高層マンションとが入り混じる現代特有の光景は、どれだけの時間眺めていても、飽きが来ることはそうなかった。

  するとその時、背後にある屋上の扉がさっきと同じ音を立てて開き、誰かが来たことを僕に知らせた。

「あの、夏奈慧くん……」

 背後から声が聞こえると、僕はフェンスから手を離して声のした方を振り向いた。

「ああ、君が……」

 そこに立っていたのは隣のクラスの女子生徒だった。苗字はたしか上田……下の名前はわからない。

 僕の知ってる彼女は掃除を率先してやったり、みんなが嫌がるクラスの役職を引き受けてくれる、とても優しい人だった。それゆえ彼女は普段あまり目立とうとはしないが、細かいところを気にする僕の目にはよく彼女の姿が映っていた。だからクラスが違っても名前がわからくても、彼女がどういう性格でどういう行動をとるのかは多少なりとも知っていた。

「手紙、読んでくれたんだね」

「まあ、机の中にあれが入ってたら読まざるを得ないよ」

「そうだよね……ごめん、迷惑だった?」

 上田さんは僕の言葉を聞いて一瞬思考をめぐらせると、やはりいつも通りの気配りを僕にも向けてくれた。

「迷惑なわけじゃないけど、答えは聞かない方がいいかもしれない」

 僕の中にはそんな気の優しい彼女を傷つけようなどという不届きな考えはなく、むしろ何事もなかったような状態でこの場を終えたかった。だが、僕の用意してきた答えは明らかに彼女を傷つける言葉だった。

「そっか。やっぱり私なんかじゃ、嫌だよね……」

「そうじゃないよ。上田さんみたいに優しい人が僕に好意を寄せてくれるなんて、嬉しくないわけない……」

 僕は彼女の卑屈な物言いを耳にすると、すぐにそれを否定した。だがその声は徐々に推進力を失い、屋上に吹く風に揉み消された。

「……でもさ」

 刹那の間を空けてから続けて口を開くと、僕はそのまま呼吸をひとつ置いたて、途切れた声を発し直した。

「僕は今のところ、誰かと付き合う気がないんだ」

「そっか……」

 彼女の声はさっきと比べると弱々しく、表情は今にも泣きだしそうな様子だった。

「……じゃあもう行くね」

 僕は居心地の悪いこの場の空気から、今すぐに逃げ出したいと思い始め、愛想が悪いと思われてでも早急に話を終わらせようとした。

「あのさ、それならせめて友達でいさせて」

 すると、僕が屋上の扉へと引き返し、上田さんの横を通り抜けようとしたところで、彼女からささやかな提案が挙げられた。

「友達って、恋人の代わりがそんな普通な関係で務まるの?」

「務まらないよ、友達で恋人の代わりが務まるわけないよ。でも……私にはそれくらいしか夏奈慧くんの近くにいる口実が作れないから」

 彼女の口ぶりは僕に対して僅かに怒りを覚えているようにも思えた。

「いい……でしょ?」

 しかし、僕が後ろを振り返ると彼女は笑っていた。

 ただ、その笑顔は明るいものではなく、悲しさをなんとか隠そうと強引に口角を引きつらせたようなものだった。

「……うん」

 その証拠に、上田さんは僕が頷いて屋上からいなくなるのを見ると、その場に立ち尽くしたまま両手で顔を覆って大粒の涙を垂らしていた。僕はその姿を屋上の扉越しに見つめ、一種の罪悪感を感じながら階段を降りていった。

 頭の中には、冷たく接しすぎたんじゃないか、傷つけてしまったんじゃないかという心配が渦を巻き、それは胸を締め付けるような感覚となって僕を襲った。

 一段降りるごとに足の裏にくる圧は重みを増し、全身に異常をきたすほどの疲労感を蓄積していった。

 それから僕は下駄箱で靴を上履きから履き崩されたローファーに替えて、逃げるように校舎を出た。

「夏奈慧、お帰り」

すると、校門の前あたりには、やはりあの二人がいた。

「思ったより早かったな」

 しかし僕は俊太が話しかけてきても、相槌を打つことすらできないほどに気が沈んでいて、長い前髪で表情を隠し、素っ気ない態度をとるしかできなかった。だが二人はそんな僕を気遣ってか、それをなんとも思っていないそぶりを見せ、僕は屋上や階段を降りてきたの時とは違う居心地の良い沈黙を保ったまま、下校していった。





P. 3 「なあ、そろそろ聞いてもいいか?」



「なあ、そろそろ聞いてもいいか?」

 そう俊太が聞いてきたのは帰りの電車が自宅の最寄り駅に近づいてきた頃だった。

「何が?」

「何がって、お前……。ほら、告られたんだろ?」

ぼうっとしていて話を聞いていなかった僕が、それをごまかすように聞き返すと、俊太は呆れたような口調でそう言った。

「俊太ってそういうこと気になるタイプの人間だっけ?」

「他のやつのはどうでもいいけど、夏奈慧のは……やっぱり気になる」

 そして彼は吊革につかまりながら、どこか恥ずかしそうに言葉を続けた。

 俊太は普段、僕と奈央も含めて他人に興味を示すことは滅多になかった。学校で手紙を見せた時のような態度はただ単に僕を茶化したかっただけで、ああいうことならしょっちゅうあった。しかし、そういう時は顔が悪い笑いをしていて、見るからに楽しんでいるだけという彼の本性が見えた。

 だから僕は、そんな彼からまじめな顔つきで告られたんだろ、などという言葉が出てきて内心驚いた。

「べつに。どうでもいいでしょ、そんなこと」

 だが僕もまた、基本他人に興味のない人間の一人なので、驚く以上の反応は起こさず、適当にそれをあしらった。

「つれないな」

 俊太がそういうと、同時に電車は最寄り駅に到着し、順を追って扉が開いた。

 僕達はだらだらと電車から降り、改札を抜けると、他の通行人の邪魔になるとわかっていながら、三人横に並んで僕の家に続く道を進んだ。帰り道で目に入るものは、いつもと変わり映えしないものばかりだったが、この日は道路沿いに植えられている儚げなユリノキの花がその景色に新鮮さを補っていた。

 僕達三人の放課後はいつも決まって僕の家にたむろするところから始まる。この日課は今に始まったことではなく、振り返れば小学校からやっている事だった。

 この家に住んでいるのは母と僕だけで、俊太と奈央の他には誰も出入りする人はいない。その上、母は日中仕事で家にはいないため、いくら騒いでも、怠けても誰かに怒られる心配がなく、溜まり場としてはもってこいの場所だった。

「おじゃまします」

「おじゃましまーす」

 二人はまるで自宅にでも帰るように僕の家に上がり、迷うことなくリビングへ向かった。

 幸い二人は昔から家の中を好き勝手に荒らしたり、迷惑になるほど暴れたりするような下郎ではなかったので、今まで母から苦情がきたことは一度もない。

「今日は何持ってきたの?」

「見て驚くな、ジャーン。今話題になってるリリースしたての新作だ」

 気がつくと二人は僕の座る空間を開けつつ、冷たいフローリングにあぐらをかいて座っていた。

「またあのセコイ手使ったの?」

 僕はそう言って呆れた目をしながら二人の間にある空間に入り込んだ。

「当たり前だろ。じゃないと俺があのゲーム屋でバイトしてる意味がない」

 俊太が使ったセコイ手とは簡単にいうと従業員割引と呼ばれるものだ。だがその実態は単純かつ卑劣なもので、本人いわく本来値下げが不可能な商品を自身の類まれなる交渉術で値切り落とすらしい。しかし、どうやっているのかなどの詳細は企業秘密らしく、奈央や僕が詮索しようとしても口を割ることはなかった。

 ただ彼は無駄に貴重面で、そのセコイ手を使うと一度も欠かさずレシートを見せてくる。そこには値引き合計という欄が必ずあり、いつも二、三千と数百円分が割り引かれ、支払い合計が四、五千円ぴったりと切りのいい値段になっていた。

「店長さんが可哀想だから、あんまり頻繁にやらないほうがいいんじゃない?」

「いいんだよ。だって俺の給料だけ他の店員より少ないんだから」

「高校生のアルバイトなんてそんなもんでしょ。雇われてる側が文句言ってるとクビにされるよ」

 何を言われても一向に反省の色を見せない俊太は、奈央の放ったクビという単語を聞いてようやくその達者な口を詰まらせた。

「……やっぱり、これ続けてたらクビにされるかな」

「されるでしょ」

 だがそんな会話をしている間にも俊太はコントローラーを片手に、持ってきたゲームを始めていて、数秒後には僕と奈央も会話より液晶画面に注意が引かれていった。

「模試の前日だっていうのにこんなことやってていいのかな」

「何も問題ないでしょ。どうせ奈央はこんなことやってても平均点は取れるし、お前に限っては学年トップと張り合えるんだから」

「そういう俊太はいつも最下位との戦いだね。少しは勉強したら?」

「あー、俺はいいの。企画立案より現場で実行の方が性に合ってるから。頭の良さとかは必要ない」

 僕が口うるさい保護者のようなセリフを言うと、俊太はそれをもろともせずにはじき返し、意地でも勉強はしないという意思表示を見せた。

 僕達の学力順位はいつも上から僕、奈央、俊太だった。僕が学年上位で奈央が平均前後、そして俊太が順位の下の方。

「いいよな、夏奈慧は。前日までノー勉でも超高得点出せるもんな。俺なんか、血迷って勉強したとしても三割取れるか取れないかなのに」

「きっと夏奈慧は地頭がいいんだろうね」

「きっとっていうか十中八九そうだろ。天性の才能って羨ましいな。勉強に邪魔されないで、やりたいって思ったことを好きなだけできるだろ?」

 俊太は会話の最後にセコイ手や勉強不足を注意した僕へ向けて、冗談混じりの皮肉を投げかけ、再びコントローラーを持った手元に集中し始めた。

「そんな簡単じゃないよ……」

 俊太の皮肉の中のある一言が引っかかった僕は、二人に聞こえないような声でそう呟くと、居心地の良かったはずの空間から立ち上がった。

「夏奈慧、どこ行くんだ?」

「部屋に鞄置いてくる」

「早くしろよ」

「わかってる」

 僕は動きに気づいた俊太に返事をすると、自分のスクールバックを持って自室に逃げていった。

 他人の気配がない部屋、誰の干渉も受けない場所というのは、行き場を失った、言葉ではうまく言い表せない感情を落ち着かせるにはこの上ないほど適していた。





P. 4 俊太と奈央が帰った後

 


俊太と奈央が帰った後も僕は一人で自室にこもり、リビングに残っている人の痕跡を避けるようにしていた。

「あーあ、何やってんだろう……」

 イヤホンを耳につけたままベッドに仰向けで寝転がり、乱れた前髪の上に手を当ててひとりごとを呟くと、遠くにある天井を仰ぎながらため息をついた。

 僕は俊太に勉強しろと言った手前、自分がシャーペンにも教科書にも触れないままで模試を受けるのはどうかと思い、さっきまで机に向き合っていた。しかし、突然現れて瞬く間に全身に蔓延した抑鬱はそう簡単に晴れてはくれず、机の上に置かれた勉強の手は全く進まないまま時間だけが過ぎていった。

 身体はベッドに横になっている時間が長くなるにつれて重みを増し、十分もすればいくつもの欠陥点が生まれてきた。

「ゴホッゴホッ……」

 そして意識的に空気を吸い込むと、その気体は気管支のあたりで胸苦しさに変わって肺に充満し、その後痰混じりの咳となって体外に出ていった。

「まさかね……」

 僕は典型的な風邪の症状が見えているのを気のせいだと自分に暗示をかけ、それ以上は何も考えないようにした。

 ふとイヤホンの先に繋がれたスマホを見ると時刻は六時過ぎになっていた。

 僕は時間の進みの速さに意味もなく焦りを感じながら、ゆっくりと身体を起こし、俯きがちになっていた視線を上げた。

 部屋の窓から見える地平線には、もの侘しげな夕日がぽつんと浮かんでいてた。そして、その光の玉は僕の時間感覚のさらに何十分の一の速さで沈んでいき、そうかと思うと、数分後には紅色の残光だけを置き去りにして姿を消していた。

「ただいまー。はあ、遅くなっちゃってごめんね」

 それから僕が無感情なまま、しばらくただ外を眺めていると階下から母の声が聞こえてきた。

 僕は数分経ってからそれに気づくと、おぼつかない足取りで階段を降りていき、リビングに入った。すると母は仕事帰りにスーパーで買った惣菜をテーブルに並べているところで、昼間には何も乗っていなかった食卓が出来合いのおかずで表面的に彩られた。

「お帰り」

「ただいま。ご飯買ってきたからさっと食べてお風呂入んなさい。明日テストでしょ?」

「うん」

「勉強は進んだ?」

「まあ、進んだ……」

「そう、今回も上位に入れそう?」

「たぶん……」

 いつもと変わらない無神経な母とのたわいない会話。それは今日もどこか手ごたえがなく、いつも通り一方的なものだった。それなのにこの時の母の声はいつもと違い、こちらめがけて一直線に飛んでくると、僕の傷んだ心にわかりやすく突き刺さった。

 僕は母の声があまり好きではなかった。

 僕のことを何もわかっていない、何も知らないのに、母はさも僕の全てを理解してあげられているように接してくる。何も関与していないにも関わらず、息子の高成績を勝手に自分の手柄にし、優秀な保護者を気取っている。

 良い成績を出し、良い評判を受ける。何に関しても普通以上を保ち続けてきたことで、母の中の僕はここまで生きてこられた。

 これは僕の偏見なだけかもしれないが、おそらく母からしてみれば僕なんてただのネックレスやイヤリングなんかと大差ないのだと思う。そして、そういった装飾品は高価だからこそ身に着ける意味がある。そのため、母のいるこの家の中で僕が生きるためには、無理をしてでも優秀でいなければいけなかった。

 僕は忙しなくビニール袋を漁る母の横を通り、救急道具の入った引き出しから体温計を取り出すとリビングに置かれたソファーに座り、それを左の脇に挟んだ。

 ピピピピッという電子音がすると僕は体温計を脇から抜き取り、表示されている数値を見た。

「どうしたの、熱?」

 すると体温計の聞きなれない音に気づいた母は、ソファーに座っていた僕に近づくとわざとらしい心配づらを見せた。

「いや、大丈夫」

 その時僕はとっさににそう言ったが、体温計に表示された数字は三十七度を少し超えていて、どんなに言い繕ってもあまり大丈夫な状態とはいえなかった。僕は食欲もあまりなく、母が買ってきた惣菜にはほとんど手を付けないまま食事を終えて、言われた通りその足でお風呂に向かった。

「ほんと……何やってんだろうな……」

 僕はシャワーを頭からうなじにかけて浴びながら、また口癖を呟いた。

 身体に当たる水滴はなぜかとても生ぬるく、気分はさっぱりするはずが一層調子を悪い方向へ引っ張られていった。





P. 5 翌日になっても

 翌日になっても全身の不調が治ることはなく、登校するのは厳しく思えた。

 だが、僕は模試を休むわけにはいかないので、無理やり身体を動かしてどうにかいつもと同じ時間に家の玄関を出た。

 外は気が滅入るような雨空だった。

 僕は俊太と奈央といつもの待ち合わせ場所で落ち合うと、濡れた傘を手に下げて満員電車に乗った。電車が学校の最寄り駅を目指して走る途中、僕は耳に入れたイヤホンから流れる音楽で気を紛らわし、しまいつけには俊太と奈央に一方的に話をし続けてもらった。

 二人は待ち合わせ場所から駅に着くまでの時点で、僕の異変に気づいている様子だった。ただ、だからといって母のように表情を変えるようなことはあえてせず、僕にそのことを悟られないようにそれとなく気遣ってくれていた。

 僕は電車の中で人混みに揉まれながら、自分のことをわかってくれる良い友人を持ったとつくづく思った。

「ごめんね、無駄に気を遣わせちゃって」

 学校に着くと、僕は二人に向けて真っ先に感謝を言った。

「やっぱり、わかってんだ」

「まあね」

「だいぶ露骨なところあったからね」

 すると二人は自分達の意図を見抜かれていたことに気を落とし、ため息をつくと照れ笑いを浮かべた。

 教室に着くと、僕達は各自のロッカーに湿ったスクールバックを入れ、教室に入った。

「夏奈慧、それでテスト受けて大丈夫なのか?」

 僕が自分の席で机に突っ伏していると、その様子を確認しに二人が寄ってきて、話しかけてきた。

「……たぶん」

「やっぱり保健室行った方がいいよ」

「そうだよ。模試もさぼれるんだから良いことずくめじゃん。ほら、病人はさっさと保健室に行くぞ」

 奈央が僕を気遣うと俊太もそれに賛成し、僕は二人にいわれるがまま椅子から立たされた。

 二人は初め、そのまま僕を保健室まで連れて行こうとしていたが、同時に朝礼が始まるチャイムがなった。そのため、僕は一人で行けるからと二人を引き止め、見送られながら仕方なく保健室へ向かった。

 学校に着いてまだ数十分も経ってないうちに、保健室に行くのは少し抵抗があったが、体に響く苦痛は限界に近く、そう悠長にもしていられなかった。

「失礼します。二年一組の藤浪夏奈慧です」

 保健室に入ると、僕は決められた手順通りに自分を名乗り、部屋の中を見回して養護教諭の先生を探した。

「ちょっと待ってね。今行くから」

 そして僕が誰もいない部屋に焦りを感じると、どこからか声が聞こえた。そして数秒後に、閉められていたカーテンの隙間から変に険しい顔の先生が現れた。すると開けられたカーテンの隙間から他の誰かの顔が垣間見えた。

 僕がその方に目を向けると、向こうにいる誰かもカーテンが開いた瞬間を見逃さなかったようで、僕達は完全にお互いと目が合った。

「それで、どうしたの?」

 僕が隙間がなくなった後もカーテンの方向を見つめていると、要件を待っていた先生が僕に声をかけた。

「あ、えっと熱っぽいので早退したくて」

「たしかに顔色悪いね。他に何か症状は?」

「体がだるいのと頭痛が少し」

「わかった。じゃあ、とりあえず体温測っておいて」

 そう言うと先生は僕をカーテンの傍の椅子に座らせると素っ気なく体温計を渡し、保健室を出て職員室のある方へ行ってしまった。そうなると僕の意識は自然とあのカーテンの先へまた向かされ、他へ目線を動かせなくなった。

 すると次第に僕の中にはもう一度だけあの人の顔が見たいという気持ちが生まれ、心臓の鼓動を少しばかり急がせた。

 そして相手に気付かれないくらいなら、と自分の好奇心に負けると、僕はその感情に身を任せて恐る恐る手を伸ばした。

「夏奈慧くんだったよね?」

 するとその時、手を掛けかけたカーテンの向こう側から、僕の名前が呼ばれた。

「え……?」

 僕は思いもよらないことに驚き、カーテンに伸ばされた手もあと十数センチというところで抑制され、勢いを失ったまま空中に留まった。

 しかしその直後に閉ざされていた布が内側から開かれ、僕と向こうにいる誰かの間を遮るものが突然無くなった。僕はカーテンが開ききるより速く前に伸びていた手を身体の後ろに隠すと、平然とした顔をした。

「やっぱりそうだ」

 カーテンの内から現れたその人は僕の顔を見ると、何か自分の予想が当たったらしく、嬉しそうに笑った。

「えっと……」

「ああ、私? 私は夏奈慧くんの隣のクラスの宇佐美花楓。……って、名前言ってもわかんないよね」

 宇佐美花楓、そう名乗った彼女は名前を言った後でなぜか苦笑いをし、話を続けた。

「私、不登校だからさ。あんまり私の顔知ってる人いないんだよね」

「そうなんだ」

「あれ、意外と反応薄いね」

「だめだった?」

「ううん、騒がれるよりそっちの方がいい。面倒くさくなくて」

 宇佐美花楓。その名前だけには僕も聞き覚えがあった。それもそのはずで彼女は去年の入学当初からあまり学校に来ておらず、学年内にはその名前だけが知れ渡っていた。

 彼女の印象は一言で言えば内気そうな女子だった。ただ、女子の顔面偏差値に興味のない僕が言うのもなんだが、彼女は一目で美人という類いに入る人間だと思えた。

「それでどうして不登校の人がここにいるわけ?」

「んー、難しい質問。私、今日から登校しようって思って来たんだけど、本当なら教室に行くはずなのに流れで行き慣れてる保健室に来ちゃって」

「なんだそれ」

 僕が彼女の言うことにツッコミを入れると、それに反応したように体温計がピピピピッと音をあげ、会話を途絶えさせた。

 しばらくするとさっきの養護教諭が朝礼中のはずの岡田先生を連れて戻ってきた。先生は養護教諭以上に顔を険しく顰めていて、狂ったように怒鳴り散らしてきそうな勢いで近づいてきた。

「何度だった?」

 そう先生に聞かれると僕はあえて無言を保ち、代わりに体温計を突き出した。

「七度六分かー、高めだね。これは帰って休んだ方がいいかな」

「そう……ですか」

 先生が帰宅を勧めてくると、僕は帰りたいという本音と模試を受けなきゃという使命感に板挟みにされ、どっちともとれない曖昧な返事をした。

「よし、そしたら親御さんに連絡して早退ね。次からは熱があると思ったら無理しないで欠席しなさい」

「はい……」


「それじゃあ帰ったら学校に帰宅したと連絡して、あとはゆっくり休むのよ。模試は後日受験でいいから」

「あ、わかりました」

 それからしばらくして、早退の手続きが済んだ僕は帰り際に最大の不安要素を呆気なく取り除かれ、拍子抜けになった状態で学校を早退した。そして傘をさして校門を出る頃には保健室にいた時間が遠い昔のことのように感じ、その場にいた彼女の顔も霧がかかったようにうっすらとしか思い出せなかった。

 普段ではまずありえない一人きりの帰り道は、妙に寂しげな静けさが際立っていて、聞こえてくるのは雨の跳ねる音と、時々通る車の音だけだった。

 僕は辛い気持ちを晴らそうと顔を上げ、長い前髪の隙間から灰色の空を見上げて歩いた。




P. 6 「ただいま……」


 

「ただいま……」

 そう言って家に帰ると僕は岡田先生に言われた通り学校に連絡を入れ、制服から着替えてベッドに横たわった。

 母は僕が微熱を出したくらいで会社を休む人ではないので家にはおらず、代わりといってはあまりにもお粗末だが、スマホに母からのメールが何件か届いていた。しかし、僕はそのメールに返信をすることはおろか、内容を読むことさえせずに画面を閉じ、スマホを枕もとに放り投げると、ゆっくりと瞼を下ろした。


***   ***


「夏奈慧くん、次の授業って算数だっけ?」

「うん、そうだよ」

 二時間目が終わった後の二十分間ある中休みの時間。その時間は大半の人が校庭や中庭に出払っていて、校内はいつも静けさにあった。僕はそんな普段の騒がしさとは違う空間がとても落ち着き、みんな見たく外には出ずにいつも自分の教室でゆっくりとした時間を過ごしていた。

「ねえねえ、夏奈慧くん。今日一緒に遊ばない?」

「いいよ、奈央くん。俊太もいいよね?」

「べつにいいよ」

「いいってさ」

「うん、ありがとう」

 僕達はこうやって何気なく放課後を共に過ごす約束を交わして、小学校の毎日を送っていた。 

 中休みの終わりを告げる予鈴がなると、いたるところに散らばっていた点が一気に昇降口に集まり、休み時間以上の大騒ぎを始める。そのさらに五分後、授業開始のチャイムがなり、日直の号令で三時間目の授業が始まった。


「それじゃあこの問題わかる人」

 授業が始まって数十分が経った頃、担任の先生がかけ算の問題を黒板に書いてクラスの生徒にそう問いかけるた。すると、教室のあちこちからひっきりなしに、はいはいと声が飛び交い始め、部屋中が騒がしくなった。

 だが、僕はそんな中でも手すら挙げず、いまだ周りと違う行動をとっていた。一番後ろの席の俊太は僕以上に態度が悪く、机に身体を突っ伏していて、先生の注意をくらうのも時間の問題だった。奈央の方はまだ比較的純情さがあり、普通の生徒と変わらない様子で頻繁に手を挙げながら授業を受けていた。

 僕が奈央の方を見ると視線に気づいた彼はこちらに顔を向け、目を合わせた。僕達はお互いに笑みを浮かべ、芽生えたての友情のようなものを確かめ合うとその視線を再び黒板に戻した。

 そんな時だった。

「先生、こいつ適当にノートとってます」

 そう横の方から声がしたのは、奈央と目を合わせてからほんの数秒後、先生が問題の説明を始めようとした時だった。

「え?」

 その声はクラスの問題児、雄介のものだった。

「ほら、黒板に書いてある字と全然違う色で書いてる」

 彼は大口をたたきながら立ち上がると、なぜか僕のノートを取り上げた。

 すると教室にいる全員が雄介の持ったそのノートの方を向き、続いて僕の方を一斉にその目を移した。

「うーん、たしかに夏奈慧くんのノートは使ってる色が多いね」

 僕がみんなの視線を受けて固まっていると黒板の前に立っていた先生が持っていたチョークを置いて、まじまじと僕のノートを覗き込んでいた。

「ねえ、夏奈慧くん。どうしてノートをこんなにいろんな色で書いたのかな?」

「え、何か変ですか?」

 そう先生に聞き返すと、僕は改めて雄介が手にしている自分のノートを見た。そこには算数の授業ノートらしく、たくさんの数字が小さなのマスに一つ一つ並んでいた。それに色だって、白いチョークで書かれた文字は鉛筆で、赤は赤鉛筆、青は青鉛筆といったように黒板とほとんど同じに書かれている。

「どう見たって変だろ。黒板には白いチョークで書かれてる字がなんで黄色とか緑で書かれてるんだよ」

 しかし、雄介はどうしても僕を悪者に仕立て上げたいらしく、意味の理解できない暴言を言い訳がましく吐き始めた。

「何言ってるんだよ、黒板にもその色で書いてあるじゃん」

 だから僕は、きっと彼はまた先生に叱られるんだろうと半分面白がりながら反論を言った。それなのに、僕が味方だと思っていた先生はノートを見るとあらぬことを口にした。

「夏奈慧くん、今日の授業はこんなにいろんな色を使って書いてないよ。言い訳してないで、ちゃんと理由を教えて。先生も怒らないから」

「え………?」

 それを聞いた僕は先生の思いがけない言葉に心底驚いた。というより、困惑してなんと言えばいいかわからなくなった。

「で、でも………」

「言い訳すんなよ!」

 そしてそ追い打ちをかけるように放たれた雄介の渾身の一言が、僕の感情を深くえぐり、僕の中に困惑と不安と恐怖をぐちゃぐちゃに混ぜたような色の感情を生まれさせた。

「雄介くん!」

 すると僕の様子の変化に気づいた先生は、間髪入れずに彼を注意した。だが、その言葉は逆に僕のえぐられた箇所に塩を塗るようなものだった。

「夏奈慧くん、こっちおいで」

 すると先生はその場にしゃがんで、彼女の腰の高さよりずっと下にある僕の手と雄介の持っているノートを取り、緊迫した空気の教室から僕を連れ出した。


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