「回想録」と書くには、かなり恥ずかしいものがあるので、文章を修正することで少しでも読みやすい回想録になることを志している。
さて、親父が生前、セカンドライフの場を故郷に求めていた。でも、ふくろの同意が得られなかったので、親父の田舎暮らしを私が反対した。いまになって思うと親父の田舎暮らしを望んでいないことだ。 私の心はまるで空を流れゆく雲のようで心中に定まりがない。それは、「帰りたくない、それでも故郷のことが忘れられない」この心境なのだ。まるで、室生犀星(むろう さいせい)の「故郷は遠きにありて思ふもの」の詩そのものともいえる。
西の海(水平線)に没するダルマ夕日の美しさ、今でも私の瞼に強烈に焼け付いている。
大阪で暮らした期間は約50年(平成25年現在)、一方、故郷で生まれ育ったのは15年。なのに、田舎で育った思いが強い。このようなことで、改めて田舎での生活を振り返り、わが思いをつづってみることにした。なお、現段階では箇条書きをしているにすぎないので、時間をかけながら大幅な修正をすることになる。
島は、高知市内を中心とした南西に位置します。
私が故郷で暮らしたのは、島で生を受け中学卒業するまでの15年間。戦後生まれの時代なので、都会・田舎に関係なく、昭和30年前後の日本の暮らしは、恐らく貧しかったことが想像できる。表現は悪いかもしれないが、今、テレビで見る異国の田舎暮らしが、当時の日本の田舎の生活環境そのものだったように思う。
私が上阪したのは昭和39年。高知県内の一部の国道でも未舗装道路が普通に見られた。いや、大阪府内でも郊外になると、まだ未舗装道路が存在していた。故郷を離れる当時、バスの後部座席に座っていると、タイヤが悪路をとらえるたびに反吐(へど)を吐く思いがする程、体が上下に揺すられたことを覚えている。そのような時代だから、高知県内を走る長距離列車もいわゆるSL列車が主役だった。
今、思えば、贅沢な列車であったことに、逆に感謝をしたい。
現在は宿毛市内まで電車が開通しているが、当時はバスで窪川駅(高知市と宿毛市の中間地点)まで行く必要があった。そこから高知駅を過ぎて更に高松駅まで行き着くと、次は瀬戸内海を渡るために宇高連絡船に乗り換え、宇野駅(岡山県)から更に山陽線に乗り換え、大阪へ向かっていた。島をたつのが朝で大阪に着くのは翌朝を迎えていた。宇高連絡船が宇野港に接岸すると、ここで列車に乗り継ぐ。ところがここからが大変。座席を確保するため、列車を目指して我先に一目散に走ったものだ。座席数よりも乗客人数が多かったわけだから。
写真を見て頂いてもお分かりのように、故郷には、山頂以外、平地がないので当然、車も存在しなかった。そのような環境で育ったわけだから、車のない暮らしがごく自然であり、不便さなど考えたこともなかった。当時あるのは、せいぜいバイクだけだった。なので交通事故は無縁のもので、これが昭和30年代当時の島の交通事情だった。でも、時代は変わり今は車が走っているけれども。
<島内からのアスセス>
故郷の島と四国・宿毛市(港)を結ぶ交通手段は定期船。今もそうだが、沖の島(故郷)~宿毛市片島港を定期便が朝夕の二便通っていた。ただ、昭和30年代の何時ごろまでだっただろうか、今よりも3~4か所も多い港に立ち寄っていた。だからずいぶん時間がかかった。また、当時の船は小さな小型木造船だった。これがまた冬場や台風到来前になると海上が荒れるので、定期船も随分揺れたものだ。高波で船体が揺れるたびに、客室で寝ていると体が転がったことを覚えている。
問題はこれだけではない。台風シーズンや冬場を迎えると欠航することはごく自然なことで、定期船がせっかく島に着いても高波が埠頭に押し寄せると船が接岸できないこともあった。このようなときは、定期船は波止場の沖合で待機して、島の漁船が定期船から乗客と荷物を搬送していた。
現在の定期船は船のラインも美しくて見てくれもいい。それに高速艇だから所要時間もかなり短縮されている。勿論、木造とは違う。今は、釣り人がよく利用されているという。
島は、最高峰が404㍍の妹背山(いもせやま)と他のいくつかの峰から成り立っている。頂きから海岸までは結構な傾斜で成り立ち(憶測だが、30度はあるように思うのだが)、山頂から海岸にたどり着くと、そこはすぐ波打ち際になる。つまり平坦地がない。埠頭に観られる僅かな平坦地は、埋め立てて出来たもの。
集落は、母島、久保浦、古屋野、弘瀬、谷尻、玉柄、の6つから成り立っている。ただ、どこの田舎についても言えることだろうが、島では若者の働く所がない。だから学校を卒業すると都会にでて就職するか、漁船で生計を支えるのが一般的だった。
一方、留守を預かる主婦は、島内で農作業をすることで、生活を支えていた。島には平地がないので、暮らしに必要な屋敷や耕地は石積みで造られている。先人の苦労に頭の下がる思いがする。昔の人は、本当にすごい。
このような島内条件もあり、さすがに先人たちも、ため池を造ることはしなかったようだ。つまり、村全体が段々畑で成り立っているので、ため池を確保しても、そこからすべての耕作地に水路を設けることは、物理的に不可能なことが分かっていたわけだ。
島でも頂きのごく限られたところに平坦地があったので、そこで暮らす村民は稲作を行っていたことを覚えている。
以上のような土地柄から、作物の主流は、夏前に収穫する麦、秋に収穫する芋。あとは、様々な野菜やトウモロコシ、それと落花生などの耕作が行われていた。落花生だが、収穫にはものすごい手間がかかった。収穫は鍬(くわ)を使って掘り起すわけだが、耕したあと落花生が残るので、二回にわたって耕す必要があった。だから、落花生の収穫は、ほんとに嫌な作業だった。
芋の収穫時期になると、どこかの業者が船で芋を買い付けに来るから、主食となる芋と翌年の種イモ以外は業者に買い取ってもらっていた。農作業から得る唯一の現金収入になっていた。畑で収穫した芋を自宅に運び、売るときは更に埠頭まで運ぶ必要があった。
主食のひとつである芋の保管だが、これには先人の偉大な知恵が生かされていた。それは、各家庭に設けられる「芋つぼ」と呼ばれるもの。要するに、一年を通じて一定の温度と湿度を保つことで、芋を腐らせることなく保存する手段(知恵)なのだ。秋に収穫した芋を冬の寒さから芋を守るための保存の知恵といえる。テレビを通じて見る外国でのワインの貯蔵と類似している。完成したワインは人工の地下貯蔵庫に保管されてある、あの原理なのだ。その原理を我が田舎の先人は取り入れていたことになる。
どこの家庭も玄関を入ると広い土間が設けてある。そして、作業の効率上、土間にいちばん近い居間の下に広さ三畳程度、深さ1㍍あまりもある土がむき出しの
「いも壺」が掘られてある(床下収納)。土のむき出し構造が芋を保存するうえで大切になる。そこに芋を保存しておくわけだ。だから、「芋つぼ」を使うため出入りに必要な空間だけは床板の取り外しが可能な構造になっている。
秋に収穫された芋は、種イモとして翌年の春に使うものと主食に使うものを、芋つぼに区別して保管する。他に、冒頭でも述べたように、現金収入として芋は売られていた。
種イモは翌年の春になると家の近くにある畑に畝(うね)を造り、そこに埋める。畝のそばの低いところには下肥を施す。すると芋から新しい蔓(つる)がでてくるので、25㌢程度に摘み取った蔓を、6月の梅雨に合わせて別の耕作地に運び、事前に準備をしておいた耕作地の畝に蔓を一本ずつ土の中に差し込んで埋めることになる。すると、梅雨の恵みを受けた蔓は、すくすくと成長する。
秋後半に入ると立派な芋が育つので、これを鍬(くわ)を使って芋に傷つけないようにしながら、ひと畝ずつ丁寧に掘るわけだ。
収穫した芋を運ぶ手段として使われるのが、ワラを編んで作られた「ふご」という、直径30㌢あまり高さ50㌢程度の円柱形をした入れ物。これに収穫した芋や麦など様々なものを入れ、更に、この「ふご」は「背負子(しょいこ)」という先人の編み出した文明の力に載せ、それを背負って運んでいた。
サツマイモの収穫が終わると、次は、翌年の春後半の収穫に備えての麦の種まきに入る。麦の芽が5㌢程度に成長すると麦踏を二回行う。やがて芋の作付けまえの春の収穫時期が訪れると、釜を使って麦を一束ずつ刈り取る作業に入る。方法は一昔前の稲刈りと全く同じ手法。
刈り取った麦は数日間畑で乾燥させ、これが終わると、千歯扱(せんばこ)きにかけて稲穂だけを摘み取る。この時期になるとムカデが出るので嫌だった。
残された幹の全ては、焼畑で処理していた。この時期になると、どこの畑を見ても焼畑から出る煙が立ち上っていた。
収穫した稲穂は島内で一か所ある精米機を備えたお宅に運び、そこで脱穀機にかけてもらい籾(もみ)を取ってもらう。脱穀が終わると自宅に持ち帰り、故郷の写真でも紹介しているように「干棚(ひたな)=物干し場」に広げて自然乾燥させていた。自然乾燥した麦は、麦壺(倉にある大きな木の箱)に保管することになる。
麦は当然主食の一つとなっていたわけだが触感として、米と違って美味しさに欠ける。だから食べるのが嫌だった。でも、冷静に振り返ってみると、麦は贅沢な食品であることに気付く。今が健康であるのは、島で育ったころ食べた麦が良かった、と思っている。
さて、干棚であるが、竹を編んで出来ているので上下左右から自然の風が流れる。だから、夏はここで夕ご飯や夕涼みの場として、更には、作物の物干し場として重宝されていた。
「干棚」の写真は、「故郷の写真」で見ることがでる。この「干棚」は、先人の編み出した素晴らしい知恵と言える。
燃料の主役は薪だった。薪を作るのは、男の仕事。鰹船が暇になる年末になると、各家庭が保有する山林の木を男の手で伐採。更に40㌢ほどの長さに切りそろえる。これは、煮炊きや五右衛門風呂で使うために必要な「かまど」で使う長さにしていた。山で切った薪を自宅まで運ぶのに適した長さでもあった。伐採した薪を数日間寝かることで、少しでも水分を抜く。それでもまだ薪に水分が含まれていたので、とにかく重かった。
運搬の方法は、「背負子(しょいこ)」と言う農具(ふごを載せる用具)だが、それに薪を積み重ねて背負って運ぶ。ほんとに重宝で、なにを運ぶにしてもこれを使っていた。
一年分必要となる薪を山で作り、自宅に運んだものを屋敷の一角に積み重ねて保管する。
薪は、釜でご飯を炊くときに使う。同時にお風呂を炊くとき等、多くのことで使われていた。どこの家庭でも炊事場があり、私の家では、そこの一角に倉が設けてあり、さらに4畳半ほどの板の間があった。そばには煉瓦(れんが)作りの「かまど」があり、そこに鍋を据えて下から薪で火をおこす。私はかまどによく芋を入れて焼き芋をしたものだ。このように、薪は煮炊きをするうえで必要なものだった。
とにかく時代は昭和30年代のことだから、平成時代とは雲泥の差がある。とりわけ当時の暖房装置といえば、火鉢が一般的。木製で作られていた。木製の枠には湯飲みなどが置けるように、およそ15㌢ほどの幅を設けてあった。
火鉢なので暖を取れるのは手だけ。火鉢の中には灰が置かれてあり、その中央に木炭を置き暖をとっていた。勿論、燃料は木炭となる。
他にデカイ陶器で出来た円形の火鉢もあった。炭は薪を燃やしてできたものを木炭として使っていた。このように考えてみると、木がいかに重宝であり、有効に使われていたのかが理解できる。暮らしは、ほとんど自給自足に近いといえる。
当時は、真冬でもその程度の暖房器具で寒さをしのいだ。翻って今の時代の暖房装置はどうだろう。電気じゅうたん、あるいは電気炬燵(こたつ)、更に温風ヒーターまである。まさに至れり尽くせりの社会といえる。人間というものは、どのような環境であれ、一旦、至福の生活に浸るとそこから抜け出せなくなる。まさに私もその一人といえる。ほんとに贅沢になったと思う。だから、贅沢になったぶんだけ子供達も脆弱になっている。
当時の島の風呂は、どこの家も五右衛門風呂だった。入浴するときは、やけどを防ぐため円形の板の底板が備えてあるので、それを足で沈めて体重をかけることで入っていた。風呂の燃料も薪(まき)だったので、お風呂を薪でたくとき、火口に芋を放り込んで、よく焼き芋をしたものだ。
少々記憶も薄れたが、島に水瓶(みずがめ)・タンク(貯水槽)ができ、各家庭に水道が引かれたのは、私が小学高学年前後になってからのことだったように思う。 それまでは、村の中央を流れる小さな渓流からパイプ(竹筒)を使って、家庭にある水瓶となる小さなタンクへと水を導いていた。
ところが、ものすごく恐怖なのが、谷川から直接水を引いているわけだから、筒を通して30㌢余りもある大きな“ミミズ”(よく、キンタロウと言っていた)が我が家の水がめである貯水槽に入り込んでいた。そいつは、全体がキラキラ輝いていた。とにかくでかくて、気持ちが悪かった。畑でよく見るミミズとは、けた外れに大きかった。30㌢余りもある巨大な“ミミズ”だ(=下記写真)。
最終的には衛生面を含めて、また各家庭に水を安定供給するうえからも、水源地となる妹背山(いもせやま)そばに水瓶となる貯水槽を設置。さらに、島内の主要箇所に大きなタンクを設けた。このようにして、水瓶から各家庭に衛生的で安全な水が安定的に各家庭に供給できるようになった。つまり、簡易水道の誕生となったわけだ。
次の写真は、大台ケ原をハイキング中の山の斜面でたまたま見かけたもの。田舎で見た、そのものだ。本当に珍しいものを久しぶりに見た。さっそく、その写真を使うことにした。こいつが、谷川から自宅へと導くための樋(竹筒)に入り込んで、自宅に設置の水瓶(タンク)の中へと入り込むことがあった。我が家は谷川が近かったので、とくに台風後になると、その光景をよく目にした。今思うとまるでどこかの田舎の光景だ。
こいつが我が家の竹筒の中を通り、家屋に設けてある水がめに入り込むことが度々あった。