ナギが学校から帰ってきても、両親がいない日々が続いた。そして両親が戻ってくるはずだったその日を境に、エッダも突然現れなくなった。ナギはシンジケート本店に顔を出すも、宝座の部下に門前払いをされる。
そしてある日、宝座ハンスが娘のルミネや取り巻きを引き連れて屋敷に現れる。ナギは慣れない手つきで紅茶を淹れるとハンスたちを客間でもてなした。
ソファに座りハンスと対面するナギ。ハンスの隣には心配そうにルミネが座っている。
「ナギお嬢様、落ち着いて聞いてください」
ハンスが切り出す。
「……残念なことですが、ご両親が組織を裏切って逃亡しました」
「え…」
ナギはその言葉に耳を疑い、ハンスの目を見る。
「宝座のおじさま、何をおっしゃって…」
ナギはぎゅっと両手を握りしめた。
「その逃亡を手助けした総メイド長エッダ・ベリエンシェーナは捕まえて監視下に置いています。つきましては今後のシンジケートの些事はすべて私、宝座が引き継ぎます。そしてお嬢様、残念ながらお嬢様にはご両親が私から借りた借金を引き継いでいただくことになります」
両親の話の衝撃が大きすぎて、ナギの頭には話の続きが入ってこない。気づくと呼吸を荒くし前かがみになる。ルミネは慌ててナギの隣に駆け寄ると、その身体を支えた。
「ナギ様!」
「はあっ、はあっ、すみません…」
ナギは額に手を当てる。
「ちょっとお父様。お話するにしても順序というものがあるんじゃなくって?」
ルミネがナギの肩を抱きながらハンスに抗議する。その様子にハンスはそっと目を細める。
「それはそうだったかもしれないな」
感情の籠もらない声でそう返す。
「とはいえ私も忙しい身でしてね。今後の組織の態勢を建て直さなければいけない。ナギお嬢様だけにかまっている暇はないのですよ」
ハンスは立ち上がった。
「今後の組織のことは仔細我々にお任せください。ただ借金に関しては、屋敷を売るにしろ、財産を処分なさるにしろ、ナギ様が相続なされてからきっちりお返しいただきますぞ。もちろんそれでも足りないようでしたら、貴方直々にシンジケートで働いてお返しいただくことになることもあるかもしれませんが…」
そこまで言い切るとハンスの口元がにやりと歪む。ナギはそれを聞いて信じられないという表情をただハンスに向けるだけだったが、隣にいたルミネはその言葉にぱっと何かをひらめいた表情を作る。
「それは素晴らしいお考えですわ! お父様」
「…? そうだろう」
娘が何を思いついたのか理解しないままハンスは曖昧に頷く。
ルミネはナギの身体をぎゅっと抱きしめながら目を輝かす。
「ナギ様にはシンジケートで働いていただきましょう! 新しい総メイド長として!」
「なんだと!?」
「風海家は元々コウベシンジケート総代の血筋。次代はナギ様が順当ですわ。とりあえずナギ様には新しい総メイド長になっていただいて、ね、お父様。ご成人遊ばれたらシンジケートのボスになっていただいたら全てが丸く収まります!」
「おい、ルミネ。本気でそんな馬鹿なことを言ってるのか? 風海様たちは組織を裏切ったんだぞ。それに総メイド長もお前が引き継げとあれほど…」
「借金ならいざ知らず、親の罪を子が償うという法はございませんわ。それとこればっかりはいくらお父様のご命令でも受け取れません。ナギ様はシンジケートに必要なお方なのですから!」
状況が掴みきれないナギはルミネに顔を向ける。ルミネはナギを見つめてニンマリと笑うのだった。
そして翌日、新品の深い青緑のメイド服に袖を通したナギが【ヴァルトブルク】の執務室の席に座る。隣にはルミネが赤いメイド服を着て嬉々としてナギの座る椅子の背もたれによりかかっていた。目の前にはシンジケートの幹部のメイドたちが並ぶ。
「さあ、ナギ様。わたくしが補佐いたしますので、びしびし組織を回していってくださいな!」
まずは失踪した両親とその警備部門のメイドたちの経緯の調査。どうやら港の廃墟で大きな戦いを起こしてその後失踪したらしい。どうも川越マツリカの母、川越コウコも同じく行方知れずのようだった。
そしてナギたちはエッダに代わり、シンジケートーー主に紅茶を取り扱う部署の管理を始めるようになった。会議にも参加する。皆ナギが幼少の頃から見知った顔ばかりだったが、そこにはエッダやエッダの部下たちの姿はいない。その殆どが宝座の息がかかった者たちばかりだった。その末席に紫陽ひまりや桜井ヘルガもいる。
会議はルミネの進行で進められて、要所要所でナギの発言が求められた。しかし他の部署のメイドたちから意見を求められてもナギは言いよどむ。資料は読んだし組織も把握した。しかしこれらの情報を元にどう運営していけばいいのかという知識と経験がナギには全く無かった。
「それは…ええと……」
ナギが答えに窮するとすぐさまルミネが取って代わって皆に説明した。
「すみません、ルミネさん」
「ナギ様、謝らなくてよろしくてですわ」
ルミネは幼少の頃から経営や管理の本を読んで勉強していた。また最近は父親に付き添って秘書のような立ち位置でシンジケートで働いていた。
ルミネは常にナギを立ててくれていたが、ナギはそれを申し訳なく感じてきていた。
ある日のこと。
「あの、私…紅茶マフィアの稼業を詳しく知らないので、まずは喫茶店で働かせていただいてもよろしいでしょうか…?」
と、ナギはルミネに申し出る。ルミネはぱっと顔を明るくする。
「まあ、素晴らしいですわ! 下の者の仕事を知ってこその上に立つ者ですわね。でしたらぜひ、ひまりさんが給仕長をしているお店でしばらく働いてみるのはいかがでしょう」
こうしてナギは実地で紅茶マフィア稼業を学ぼうとするのだが…
がちゃーん。
けたたましい音と共に床に白いカップの破片が散る。
「す、すみません。またカップ割っちゃって」
「いえいえナギ様、お気になさらず…」
ナギは慌てて欠けたカップを拾おうとする。それを周りのメイドたちが慌てて止める。
「メイドさん? ちょっと味が薄いんじゃないかしら…?」
「わわ、申し訳ございません」
ナギが給仕したお茶のことで、客に文句を言われ謝るナギ。
休憩時間、ナギはトレーを抱えながらぼんやりと天井を眺めていた。
(私はルミネさんみたいに経営する力も、ひまりさんみたいにお給仕をする力もない…私は何の役にも立たない…)
そんなナギの様子を紫陽ひまりは遠くから眺めていた。
「……ルミネちゃんが言うから色々やってもらったけど、ナギ様はもうダメかなあ?」
厨房の壁によりかかりその様子を眺めながら、ぼそりとつぶやく。
すると次の瞬間、店のドアが勢いよく吹き飛ぶ。
そして爆発音。
ひまりたちメイドらは何事かと入口に注目する。
「この店、潰させてもらうよ!」
入口から大勢のメイド服姿のマフィアたちが現れる。シンジケートと対立している別の小組織のゴロツキたちだった。
「風海マキのいないシンジケートなんて怖くないんだよ!」
機関銃を乱射する。客は慌ててテーブルの下に身を潜めた。
「みんな武器を! ナギ様は奥に隠れてて!」
ひまりが慌てて厨房から武器の入ったカバンをメイドたちに渡して応戦する。しかし多勢に無勢だった。
激しい銃撃音。そしてしばらくしてそれが止む。ナギはそっと物陰から店の様子を伺った。
壊されたテーブルや割れた食器が散乱する店の床。そしてそこに店のメイドたちが倒されて突っ伏している。同じ様に仰向けで倒れ込んでるひまりの頭に、ゴロツキのリーダーは銃を突きつける。
「ひっ…ごめんなさい、ごめんなさい……」
ひまりのか細い泣き声。
その光景にナギは目の奥が熱くなる。鋭い眼差しでゴロツキたちを睨みつけた。
ナギは足元に拳銃が転がっているのを見つけるとそれを手にとった。四角い銃身をしたゴム弾を発射するタイプだ。
ナギは以前一度だけ、母親から銃の扱い方を教えてもらっていた。それは大戦の頃、万が一に備えて護身のために、という理由だった。しかしまだ8歳のナギの小さな手で銃が扱えるはずがなく、ただ知識として入れていただけだった。結局一発も撃つ機会はなかったが、母から受けたその説明は今まで読んだ他の物語のようにナギの頭の中に鮮明に残っていた。銃を手に握る、それはナギにすぐ馴染んだ。撃ち方は分かっていた。身体が勝手に動く。撃鉄を引き弾が入っていることを確認すると腕を伸ばし、ひまりに銃口を向けているリーダーの頭部に向かって引き金を引く。
発砲音と発射炎、そして一瞬遅れて弾がリーダーの眉間に命中する。頭部にゴム弾を受けたリーダーはのけぞるとそのまま倒れ込み気絶した。
ナギの攻撃に気づき他のゴロツキたちがナギに向かって射撃を開始する。
複数の弾が向かってくる。このままでは当たる。だけどかわせる。ナギには相手が放った弾がどこを進むのか手に取るように分かった。
これが私の力。
相手の弾は避け、腕を伸ばし狙いを定め引き金を引く。ナギの弾は次々とゴロツキに命中する。ゴム弾なので怪我こそしないもののその受けた衝撃にのけぞるゴロツキたち。そうして店にいたゴロツキはすべて倒されるか逃げ出すかして無力化された。ナギはひまりに近づくとそっとその手を取る。
「ひまりさん、大丈夫ですか?」
「ナギ…様」
ひまりは恐怖に怯えながらもナギを見る。そして信じられないとでもいう表情を浮かべた。
この事件はその日のうちにシンジケート中に知れ渡った。
執務室のソファで大喜びするルミネ。
「素晴らしいですわ! ナギ様、大手柄です!」
テーブル越しにルミネは身体を乗り出しナギの手を掴もうとする。隣に座る宝座ハンスも軽くそれに同意して頷く。ルミネは続ける。
「さすがマキ様の御息女ですわ! それでこそ総メイド長! ぜひともナギ様には壊滅した警備部門を作り直して組織を強化していただきたいものですわ! ね、お父様!」
興奮しながらハンスに言う。しかしハンスは首を横に振った。
「それは流石にいただけませんな。風海様たちは組織を裏切った身。それにあのエッダ・ベリエンシェーナとも近い間柄。そんなナギ様にシンジケートの武力を任せるなど到底できかねませんな」
「お父様!ナギ様はシンジケートのお店を守ったのですよ?」
「いまのシンジケートの総代はこの私だ。私の決定には従ってもらうぞ。それが例えナギ様やお前だとしてもな」
「…お父様」
「……」
ナギはそっと俯く。そしてハンスに目を向けると、今まで心にしまっていた考えを述べるのだった。
「私、シンジケートを辞めます」
「ナギ様!」
そのセリフにルミネが反応する。それをナギは手で遮る。
「私…組織でどれだけ役に立てないかを理解しましたから。それに、私がいつまでもここにいると皆さんやりにくいでしょうし。ただもし私の力が必要になったら……その時は使ってください。そしてその分の報酬を借金の返済に……」
ナギは自分にはルミネのような経営力やひまりのような紅茶の知識は無いことは理解していた。今回のことで自分の特技のようなものが垣間見えはしたが、それがまだどれほどのものかはナギ自身にとっても未知数だった。
「よろしいでしょう」
ナギのことを内心疎ましいと感じてたであろうハンスはそれを断る理由はなかった。そっと頷く。
「お父様!」
噛み付くルミネ。
「ルミネも分かるだろう。ワガママを言うな」
「ぐっ……」
ルミネにも父親の言い分は分かっていた。ここ数ヶ月ナギを補佐していた身として、若いナギにシンジケートを率いる力は無かった。
こうして風海ナギはシンジケートでの短い仕事を終えた。そして時々シンジケートから依頼を受けてはそれを解決する。そういった間柄となったのだった。
私は戦う。
戦って、戦って、戦い続けて借金を返す。
ドドンっ、ドンッ!
ナギがドアを開けると同時に散弾銃をブチかます。それによって大きく飛ばされるゴロツキたち。
現在ナギたちはコウベの紅茶マフィア小組織「カラサワ一家」の事務所を襲っている。
「イコマさんっ、そっち!」
影から現れた新たなゴロツキに対し、ナギが指示を飛ばす。
「ハイ、風海サン!」
T.T.01に似た少女がそれに応じる。ゴロツキたちに腕を向けるとそこから飛び出した内蔵式ガトリング砲から無数のゴム弾が発射され、ゴロツキたちを蜂の巣にする。
「……事務所の中は一掃できたようですね」
ナギは室内を見渡す。
「T.T.M05イコマ 強襲モードから掃討モードに移行シマス」
T.T.M05イコマと名乗った少女は目の色を赤色から黄色に変更させると、ゆっくりと部屋を出ていった。ナギもそれに続く。
すると下の階で、ドタバタと人が走る音が聞こえる。
「くそっ、覚えてろよ!」
ゴロツキたちが建物から逃げ出すのが上階の窓から見えた。
「追イマスカ?」
T.T.M05イコマが尋ねる。
「いえ、あとは彼らがやってくれるそうです」
ゴロツキたちは命からがら事務所の建物から逃げ出ると、裏道を進み大通りへと駆け出る。するとそこに複数のパトカーが急行して逃げ道を塞ぐ。
「こちらはコウベ警察だ。武器を捨てて大人しく投降しろ!」
それに愕然とするゴロツキたち。
「シンジケートと警察はグルなのか? ちくしょう!」
ナギはその様子を確認する。そしてインカムからの声に耳を傾ける。
「任務完了ですよ、皆さん。お疲れさまでした」
桜井ヘルガが労いの言葉を伝えてくる。
◆◆◆
「お疲れ様ですわ。皆様!」
ホテル【ヴァルトブルク】の大ホール。中央の演壇には豊かな縦ロールの髪をなびかせ真紅のメイド服に身を包んだ宝座ルミネがマイクを握って立っている。
ルミネはホールを見渡す。大勢のメイドたちが集まっていた。桜井ヘルガ率いる管理部門の警備メイドたち、川越マツリカ配下の鰐塚らむ、T.T.01、そして「T.T.量産型」と呼ばれる簡易AIを搭載した8体のロボット、そしてその戦闘とメンテナンスを支援する工場の武装メイドたち。他にもコウベシンジケートとは異なるメイド服の者たちもちらほらいる。その端に風海ナギもいた。
給仕部門のメイドたちが軽食や飲み物を各テーブルに配っている。ルミネは声をあげる。
「ここ3週間、皆さまのご尽力のお陰で、コウベの同業者はほぼ一掃されましたわ」
わああ、と主に管理部門のメイドたちから歓声が上がる。
「そして残すはババロア一家のみ…」
ババロア一家はコウベの東にある「ナダ」という土地に多くの拠点を持つ、古くからある紅茶マフィアのひとつだった。9年前、全国を揺るがした紅茶マフィア大戦の時はコウベシンジケートと同盟関係にあったこともある。少なくとも前代風海マキが支配していた頃は友好的な関係を保っていたが、宝座ハンスの代になってからは小さな争いが耐えなかった。
「ババロア一家も今回の騒動がもう単なる小競り合いではないことに勘付いているようですわ。私たちとの戦いのために全国から傭兵たちを集めています」
どよどよ、ざわめくホール。コウベシンジケートのメイドは自分たちが戦いが上手でないことは重々承知していた。先代風海マキの失踪とマキの子飼いだった警備部門の解体。それによって低下した武力は各地の小組織の動きを活発化させるのだった。それをなんとか今日まで抑えていられたのは、桜井ヘルガによる各店舗の警備力の強化、川越マツリカ配下の特殊発明武器を装備した鰐塚らむたち工場メイドたちの実力、そしてナギを始めとするシンジケート外部の腕の立つ雇われメイドたちの助けによるものが大きかった。
「厳しい戦いになるでしょう。しかし私も手をこまねいていたわけではありません。ヨコハマシンジケートの宮ノ條さんと連絡を取り、歴戦のメイドをお借りすることにしたのです!」
一同が注目する中、ルミネはばっと手を差し出す。
「先生!どうぞこちらへ!!!」
しかし演壇に特に誰かが進み出る様子はなかった。しーん、と沈黙がホールを支配する。いや、何かの音はしていた。もぐもぐと食べ物を食べる音だった。
皆がその音の方に注目すると、そこには様々なパンが山盛りになったテーブルがあり、そこでひたすらパンを口に運び続けているメイドがいた。そのメイドは浅黒い肌に艷やかな黒髪、そして深い海のような青い眼をしていた。そんな美しい眼は真剣に目の前のパンの山に集中しその手はパンを口に放り込み続けていた。そんな彼女の外見に、周囲でそれを見ていたメイドたちは彼女が国内の人間でないことに気づく。そんな彼女に小柄な別のメイドが近づいた。こちらは打って変わって白磁のような肌の栗色の髪の少女だった。こちらも国内の人間ではなさそうだ。青空のような澄んだ眼をしていたが、そこには若干の戸惑いと怒気が含まれていた。
「し、師匠~、呼ばれてますよ~」
そう言い、パンを食べ続けているメイドの肩を揺さぶる。
「あと1個だけ」
そう言いそのメイドはクロワッサン3個を口に入れ噛みしめると飲み込んだ。
「ふう、腹八分目です」
そう言うやそのメイドは視線を上げて立ち上がった。
「エミリ、そのクロワッサン美味しかったので、包んどいてください」
そう言いテーブルに残っていたクロワッサンの山をどさっと少女に手渡す。少女は急いでそれを布のフキンで包む込む。パンを食べていたメイドはルミネの待つ演壇に進み出た。その後ろからその少女もついてくる。
「ご紹介します。ナビラ・ダルランさんと、その付き添いのエミリ・トーヴィーさんですわ!」
ルミネからマイクを受け取ったナビラは挨拶をする。
「こほん、ご紹介にお預かりしました、ナビラ・ダルランです。コウベは良い街ですね。パンがおいしい…」
「ナビラさんは世界的に有名な民間軍事会社の社員さんなんですわ。いままで多くの戦場を渡り歩いてきたプロですの! そしてエミリさんはイギリスのクライブ商会幹部、トーヴィー家のご息女にしてナビラさんの一番弟子ですわ。この度は見聞を広めるためにお手伝いしてくださることになりました」
ぱらぱらとホールから拍手が上がる。ルミネはちらりとホールの隅にいるナギを見やる。ナギはいつものように無表情のまま他のメイドたちと同じ様に軽く拍手をしていた。
「今回の戦いではナビラさんに全体の指揮をお任せしようと思っています。いかにババロア一家が全国から傭兵を寄せ集めようと、シンジケートの団結と歴戦のナビラさんに敵うものではありませんわ。…ナビラさん、何か一言いただけますか?」
ルミネはナビラにマイクを差し向ける。ナビラは一瞬考える素振りを見せる。
「あとで、おいしいパン屋さん、教えてもらっていいですか…?」
すかさず後ろにいたエミリが先ほど包んだクロワッサンの塊でナビラの側頭部を殴る。揺れるナビラの頭。ナビラは殴られた側頭部をさすりながら数秒ぼんやりと考え、そして改めて口を開いた。
「…皆さんご安心ください。マフィア同士の戦いなんて、私にとっては子供同士のケンカみたいなものですから……私の言うことを聞いていれば、とにかく大丈夫です!」
そして思い出したように自信ありげな笑顔を作り、その口元からパン屑をこぼすのだった。
てろてろーん。コウベ市中央区のコンビニエンスストア。自動ドアが開き、客が入ってくる。
「いらっしゃいませーっ」
そんな客に対して元気な声で接客する円堂まおの姿がそこにあった。コンビニエンスストアの黄色い制服を着て、ペットボトルを棚に並べていた。隣で検品していた店長が声をかける。
「いやー、円堂さん戻ってきてくれて本当に助かったよ。代わりに入ってきた子も悪くなかったんだけどね、最近部活とかで中々シフト入ってくれなくなっちゃって、ここのところ人手不足だったから」
30代前半くらいの女性の店長は、たははと笑う。まおは顔を上げる。
「いえいえ、私も新しい仕事先クビになっちゃいましたから。でもまたここで雇ってもらえてラッキーでした」
まおの脳裏に一瞬風見ナギの悲しそうな顔が浮かぶ。しかしそれを慌てて消して笑顔をつくる。
「まあ円堂さんならいつでも大歓迎だよね! お仕事早いし接客も丁寧だし。うちの社員の規定は18歳以上だけど、ぜんぜんいまでも私が本部に推薦状書いてあげちゃいたいくらい!」
「あはは、それはいいですね!」
まおは、にこやかに答える。
「それにしても急に戻りたいって聞いたときは驚いたよ。円堂さんならどんなところでもしっかり働けると思ってたから」
「あはは、まあちょっと雇用主との相性がですねぇ…」
『……王子様。私の、最後の生きる理由を奪わないで』
ナギから言われた別れの際の言葉がまおの耳にこびりついていた。ナギの傾けた顔に銀髪の前髪が落ちる。いつも感情の無さそうな瞳が僅かに揺れていた。……寂しそうな儚げな表情。
「……あんな顔…させるつもりじゃなかったのになあ……」
まおは自虐的な苦笑いを浮かべる。店長はそんなまおの様子に首を傾げる。
てろてろーん。
自動ドアの音と共にまおは営業スマイルに戻る。
「いらっしゃいまー…」
そこにはまばゆいばかりの金色の髪を蓄えた、長身の女性が立っていた。クリーム色のタートルネックとパープル色のスカート姿。エッダ・ヴェリエンシェーナだった。
「先生……」
「お仕事終わったら、お時間ありますか?」
エッダはそっと微笑む。
まおは仕事が終わった後、抹茶喫茶店でエッダと落ち合う。
「急に訪れてしまい申し訳なかったですね」
「近いうちに私の方からご挨拶しようと思っていたんですけど……すみません、先生にはすごくお世話になったのに」
テーブルを挟んで対面する二人。まおは申し訳無さそうに言う。
「いえいえ、気になさらないでください。私は隠居した身。時間はいくらでもありますから」
給仕が運んできた飲み物がそれぞれの前に置かれる。
エッダはうつむくとマドラーでアイス抹茶の氷をカラカラとかき混ぜた。まおはじっと自分の飲み物を見つめ続けている。
「元気のない貴方はちょっと珍しいですね」
エッダがまおの顔を覗き込んだ。
「えっと…仕方ないかもですけど……もっと姫に対してうまくできたんじゃないかなって、つい考えてしまうんです。結局私は姫のこと何も分かってなかった…」
まおは小声で答えた。するとエッダは柔らかく口を緩める。
「お嬢様は気難しい方ですから、あまり気にしないで」
「……」
まおが目を伏せてしまった。
「そうだ。この前貴方が聞きたがっていた、お嬢様の秘密をひとつお話ししてあげます」
その言葉にまおは反射的に身体を動かすも、それに気づくと自分の行動に若干自虐的なる。
「……いいですよ、もう、いまさら…」
しかしエッダは続けた。
「お嬢様は昔から苦い食べ物が苦手で、紅茶ですらストレートで飲むことができなかったんです。でもシンジケート総代の娘である手前、そんな事もできず、いつもポケットに角砂糖を忍ばせていたんです。もちろん私が給仕する時はこっそりお嬢様のカップに予め数個の角砂糖を入れておいてあげて。他の子たちに分からないように、それで平然と飲み干すんです。とても微笑ましい方でしょう?」
まおはその話にくすりと笑い、顔を上げた。
「へえ、確かに姫らしいかも…私の前で紅茶を飲むことはなかったですけど、姫はご飯もお肉ばっかりで、魚や野菜は苦いからっていつも嫌がってました」
そう言いまおは思い出すようにくすくすと笑う。そしてそんな自分に気づくと罰が悪そうに改めて俯く。
「はあ、ダメだなあ、わたし…」
「いいんですよ、それで」
「……」
「それに貴方は、お嬢様のこと、しっかり見てあげてるじゃないですか」
まおはすがるようにエッダを見つめる。
「貴方はいつもあの方のことを考えて寄り添ってくれていた。なのに、あの方のことを何も分かってなかっただなんて、そんな風に自分を責めてはいけませんよ」
エッダは微笑む。
「私、まおさんに感謝しているんです。ここ2年、お嬢様は1人で戦い続けてきました。顔にこそ出しませんがきっと大変辛かったことでしょう。だけど貴方と出会ってから、お嬢様はとても楽しそうにしてました。あの方にとって貴方との時間は、かけがえのないものだったんだと思います」
エッダは少し言いよどみ一瞬目を逸らす。
「だから…もう戻れない私が言うのもおこがましいかもしれませんが……もしよければ、また気が向いたら、お嬢様の様子を見に行っていただけませんか」
そしてまっすぐに、真剣な表情でまおを見つめる。
「そのためにもし必要なことがあれば、なんなりと私に相談してください。お嬢様のためでしたら、このエッダ・ベリエンシェーナ、出し惜しみはしません」
「エッダ先生…」
エッダと別れたまおは、近所のスーパーで夕飯の買い物を済ませる。そして居候している姉のマンションへと向かった。
玄関を開けると、居間のソファで寝転がっている姉を見つける。
「お姉、早かったんだね」
まおは荷物を台所に置きながら聞く。
「ふっ、大学生は試験だからね。今日は午前中で終了~」
そんなまおに姉は寝そべったままグッドサインが見えるように手を上げた。
「そうだ、今月の家賃、振り込んどいたよ」
「関心関心、やっぱ作家様は違うねえ~」
まおは買ってきたものを冷蔵庫へ入れると、エプロンを付ける。
「まおー、今日の夕飯は?」
「カレーにしようかな」
「やったー」
姉はソファで飛び跳ねた。
食事の片付けをしてシャワーを浴びた まおは、明日のバイトのシフト時間をチェックする。
ふと、部屋の壁のハンガーに掛けてあるメイド服に目が向く。
黒を基調としたワンピース、ところどころに紫色のワンポイントがあしらわれている。紫色のネクタイと白のエプロンはクローゼットにすでに片付けていた。
それはここ1ヶ月と少し、風海ナギと過ごした時にいつも着ていたものだった。
「あーあ、姫、ちゃんとご飯食べてるかなあ」
まおはボソリとつぶやく。
髪を乾かす。そしてゴムバンドでひとくくりにすると、その髪を右肩に垂らす。
そして目に手をやると付けていた両目のコンタクトレンズを外した。
そして代わりに引き出しから黒ブチの四角い大きなメガネを取り出すとそれをかける。
机に座るとライトを付けた。そしてタブレット端末を置き、専用のペンを手に持つ。
タブレットを起動させるとペイントソフトが立ち上がった。
まおはそのモニタ越しに、一本一本丁寧に線を入れていく……
まおの本棚に置いてあるいくつかの写真立て。そのひとつに、少し茶色がかった黒髪を両端でお下げの三編みにした黒ブチの大きなメガネをかけた中学校の制服姿の少女があった。学校の正門の前で両親と一緒に写っている。それは円堂まおの中学校の入学式の写真だった。
◆◆◆
円堂まおは有名国立中学の教師を両親に持つ、3人兄妹の末っ子だった。
何不自由ない中流家庭ですくすく育った。少し引っ込み思案ではあったものの、まおは周りから愛され、そしてそのもらった分をしっかり周りに返せる優しいどこにでもいる普通の子供だった。
しかしいつからか、まおにとっての「世界」は「型にはめられた」「嘘っぽく」「窮屈」な世界に感じてしまうようになっていた。皆、本音を言えず、何かに無理をして生きているように感じられた。そしてそんな周りに合わせてまおも「自分」という存在を作り始め、そんな周りに合わせた「自分」に小さな違和感を感じ始めていた。
しかしそれを吹っ切る出来事があったのだ。それは姉の友人がこっそり貸してくれた漫画だったか、もしくは兄のPCで何気なく見つけたウェブ小説だったか、その初めてのきっかけが何だったかは忘れてしまったが、その衝撃はまおにとって凄まじいものだった。
とにかくそこには、いままで彼女が全く知らなかった美しく自由な世界が広がっていたのだった。
まおは気づけばその作品たちを読み漁るようになっていた。もちろん親に咎められる心配があったので親からは隠れながらである。兄や姉は何となくそのことは知っていた。しかし可愛い妹の趣味のために黙っていてくれた。
そしていつしか読むだけでは飽き足らず、自分でも作ってみたくなった。
小遣いでスケッチブックを買い、見様見真似で描き始める。もちろん最初はうまくいかない。しかしまおは諦めることなく、ひとつひとつ情熱のままに描き続けていった。
中学に入ったまおは、ろくに友達も作らず、勉強もせず、ひたすら創作にのめり込んだ。
しかし成績が下がった原因を探していた両親にそれがばれてしまう。
「よくもこんな低俗なものを! 恥ずかしいと思わないのか!」
父親と母親の形相は凄まじいものだった。いつも笑顔で温和そうな模範的な両親からは想像もつかない姿にまおは戦慄した。まおの活動を黙認していた兄や姉でさえその2人の怒りを前には、何も擁護することはできなかった。両親の怒りは当然といえば当然だった。外国文化や慣習に厳しいこの国の人間にとって、特にその大人たちにとって、まおの描いた世界はとうてい受け入れられるものではなかったのだ。そして、まおの両親たちはそれを子供たちに正しく導く立場にあるのだからなおさらだ。
「今後一切この家でこんなものを描くことは許さない!」
円堂夫妻はまおを強く叱りつけた。しかし両親もただ頑固で無知というわけではなかった。教職に身を置くものとして、このような問題が同世代の少年少女にはありがちであることも重々理解していた。しかしだからこそ、それが自分たちの子供ならなおさら「正しく」導く必要があると信じていたのだった。
両親の監視は続いた。しかしそれでも まおは続けてしまった。親の期待や不安、それよりもその美しい自由な世界への憧れが勝ったのだ。二度と親にバレないようにこっそりと…そして気取られないように、勉強に励み両立できるように努力した。
そしてそのまおの創作活動は思わぬ副産物を生んだ。中学2年生の文化祭、クラスで屋台を出すことになったときのことだ。その屋台造りは美術部の生徒を中心に行われることになったが、偶然まおのノートの端に描かれていたラクガキを見たクラスメイトが、まおを仲間に入れたのだった。
人気アニメに出てくるキャラクターを看板にしようという発案のもと、まおが描いたものはクラス全体を驚かせた。まるでプロのアニメ作家が描いたようなクオリティだったのだ。まおの作った看板にクラス中が色めきだった。
その看板のおかげもあり、まおのクラスは文化祭で一番の売上を叩き出した。内気でクラス付き合いをほとんどしていなかったまおは一躍クラスの中でも一目置かれる存在となり、看板作りを誘ってくれたクラスメイトの誘いで美術部に入部するようにもなった。
友達もでき、部活動もするようになったまおを見て、両親は安心した。…それでもまおはこっそりと創作活動を続けていた。
創作活動を続けるうちに、自分が描いているものを実際に他人に見てもらたい欲が生まれていた。
ある日、描いていた原稿を部活の友人に見せてみた。
「まおっち、漫画描くんだねえ」
「へえ、円堂さんは絵がうまいからなあ。読ませて読ませて!」
楽しそうにまおの原稿をせがむ。まおは嬉々として渡した。そして読み進める友人たちを前に期待に目を輝かせた。
しかし読み進めていくうちに友人たちの表情が徐々に感情を失っていくのが見て取れた。そして最後まで読み終わらないうちにその原稿はまおに返された。それを受け取るまお。
苦笑する友人。
「あー…あはは、こういうのは…ちょっとナシかなあ…」
隣のもう一人が言う。
「そうだよねえ…絵はうまいんだけど……なんていうか、ちょっと気味が悪い…みたいな?」
友人たちは言葉を選びながらまおに感想を告げる。
「えっとぉ、そ、そうだよねえ…、冗談、冗談だよ~」
まおは原稿を抱きかかえながら、友人に対して作り笑顔で答えるのだった。
友人たちが部活から帰ったあとも、まおは先ほどの出来事が頭にこびりついていた。キャンバスを前にもんもんとしながら市内コンクール用の「普通」の絵を描いていた。ふと手洗いのために部室のドアを開けた。
手洗いに向かうために昇降口を横切ろうとすると、ちょうど靴を履き終えて校門へ向かう友人たちが見えた。
「あんな漫画を描く子だとは思わなかったー」
「あれはちょっとカゲキだよねぇ」
そう言いながら冗談っぽく笑いながら去っていく友人の声が耳に残る。
そして翌日。部活の数人にしか見せていなかったはずのその漫画の噂はクラス中に広がっていた。
「聞いた? 円堂さんの噂」
「そうそうヘンな漫画描いてるんだって」
「ああいうのって、ユウガイトショって言うんでしょ?」
「円堂さんちょっと絵が上手だからって調子に乗ってるんだよ」
「ダメだよね、そんなの描いてちゃ」
「頭おかしいよな」
「円堂さん、気持ち悪い」
クラスで何回かそういう話を耳に挟む。
その度に友人たちが気にするなと言ってくれるが、そもそもこの友人たちの誰かが言いふらしたのだからクラス中に広まったのだろう。そう思うとまおは誰にすがることもできず、黒ブチメガネの奥の瞳を濁らせる。
やっぱり認められないんだ…ダメなんだ……私が素晴らしいと感じた世界は、美しくて自由な世界は……私の生きてる世界では、受け入れてもらえない……
ある日、ノートを同級生に取り上げられる。
「あー、またやってる!」
「それ、有害図書ってやつだよ、うちの親が言ってたよ?」
「怒られちゃうよ? そんなことしてると。円堂さんの親、教師なんでしょう?」
まおの机を取り囲んだ少し派手な女子たちがくすくすと笑い声を上げる。まおは一部のクラスメイトのグループから、からかわれるようになっていた。彼女たちに何かを言われると、内気なまおは何も言い返せなくなってします。そしていつもうつむいてひたすらそのクラスメイトたちがまおを飽きるのを待ち続けるのだった。
「普通」の子にならなきゃ……「普通」の子に………
クラスメイトのせいでボロボロになったノートを手に、いつもそう思っていた。
しかし、それでもまおは諦めきれなかった。自分が素晴らしいと感じた美しい自由な世界について。そしてそれを表現することについて……
まおがいつも購読しているアングラ漫画雑誌が新人賞を応募していた。まおは決意した。その雑誌に応募して、もしダメだったら全てをすっきり諦めよう。そして「普通」の子になろうと。
そうして、まおは連日徹夜で作業を続けた。
寝不足で締め切り当日に原稿を完成させた まおは、学校を終えるとそのまま校門へと向かった。カバンの中には完成した原稿、それを送るためのポストを探していた。
しかし学校近くだと誰かに見られるかもしれない。まおは坂を登り、少し離れたところのポストを目指す。コンビニを越え、高級住宅地の方角へと向かう。たいていの学生は坂を降りふもとの私鉄駅へと向かう。そのまま坂を登る学生は少数派だ。自然とあたりの人影はまばらとなる。
その日は冬だった。コウベの街にしては雪が少し積もっていた。そんな肌寒い日。その日のことを、まおは一生忘れない。
坂が緩やかになったところでポストを見つけた。カバンから原稿の入った封筒を取り出し、それを投函しようとする。すると後ろから聞き慣れた声がする。びくりと驚くまお。
「どうしたの? 円堂さん。帰り道、こっちじゃないよね?」
振り返るとそこには最近まおに嫌がらせをしてくるグループのクラスメイトたちがいた。3人。あっという間に取り囲まれて原稿を奪われる。
「ちょっと付き合ってよ」
リーダー格のクラスメイトがまおの原稿の入った封筒を片手で雑に掲げながら、まおに話しかける。まおは青ざめてしどろもどろになり下を向き黙って頷いた。
近くの公園。普段は近所の子供たちや奥様方で賑わっているはずだったが、冬のその日は人影はなかった。池の近くのベンチで、原稿を回し読みするクラスメイトたち。彼女たちの前で青ざめて突っ立つまお。
「あははっ、キモチワルーイ」
「うえぇ、大人しい顔して、いつもこんなこと妄想してたんだねっ」
まおの原稿を雑に読み回し、クスクスと笑うクラスメイトたち。
そんな心にもない言葉の数々に、じわりと涙を浮かべるまお。
「こういうの、やっぱり実物も見たいって思ってるの~?」
そのうちの一人が意地悪そうに質問する。
「あははっ、まるで変態みたいじゃん、円堂さん!」
まおは頭に血がのぼる。
「あのっ、いいかげん返してっ! 返してください!!」
まおはリーダー格のクラスメイトの持っている原稿を奪おうとする。それをリーダー格のクラスメイトはさっと手を上げ奪えないようにする。
するとちょうど風が吹き、そのうちの2枚が風になびいて冬の冷たい池の水面へと落ちていった。
「ああっ」
まおは涙目になりながらそれを拾おうと池に向かって手を伸ばす。拾った原稿は水を吸ってとても冷たく、濡れた箇所はインクが紙ににじんでいた。
「あーあ、円堂さん、かわいそ~」
「だって急に風が吹くんだもん。私のせいじゃないよ」
まおはさらに手を伸ばし、もう一枚も回収する。そんな様子をクスクス笑いながら見守るクラスメイト。
「ああっ、また風がっ」
原稿を持っていた別のクラスメイトが、わざとその手を離す。風になびかれた複数枚の原稿がいくつも池の水面へと落ちていく。その様子にまおの血の気が引く。
「あははっ、アンタひどすぎ~」
「え~だって、風つよいし~」
けらけらと笑い始めるクラスメイトたち。そこにまおが迫った。
「なんで! どうして? どうしてそんなひどいことするの!?」
まおが目を真っ赤にして、そのクラスメイトに掴みかかった。
「ちょっと痛いって、もーっ、離してよ」
掴みかかるまおに対して他の二人がその両腕を掴んでまおの自由を奪う。取り押さえられながらも、まおは怒りの形相で必死に相手に立ち向かおうとする。
そうして互いに押し合う両者。しかし多勢に無勢だった。まおは完全に態勢を崩し、そして…
ドプンッ
公園の池はそこまで深いものではなかった。せいぜい まおの膝下くらい。しかし倒れた拍子に尻もちをついたまおは、制服のスカートから下をずぶ濡れにした。冬の凍るような水温がまおの体温を奪っていった。周りを見渡せば水面に浮かぶ原稿、そして目の前には意地悪なクラスメイトたち。
「もー、痛かったんだけどー!」
そう言い残りの原稿も池に投げ込まれる。
まおは呆然とそんな絶望的な光景を見ていた。それが自分に起きているだなんてとうてい思えなかった。その心はひどく凍てつき、今にも悲しみに押しつぶされそうだった。
「暴力に訴えるなんて。円堂さんひど~い」
「ね~、ほんと最低~」
けらけらと笑い続けるクラスメイトたち。しかしーーー
「最低なのは貴方たちです」
凛とした声。まおが顔を向けると、クラスメイトの背後に長い銀髪をたくわえた一人の少女が立っていた。端正な顔つき。すらっとした立ち姿。それはまるで美しい西洋人形のようだった。その少女はまおとは別の学校のコートを着ていた。白い肌に透き通るような碧い眼。上品そうな表情をしていたが、その眼には怒りの色が浮かんでいた。
風が止んだ。
その少女はリーダー格のクラスメイトの身体を押した。押されたクラスメイトはそのまま背中から池の水につっこんだ。
「なにアンタ! 関係ないでしょ!?」
隣りにいたクラスメイトが銀髪の少女の肩を掴む。するとその少女はその手を掴み、背負投げでそのクラスメイトも池に放った。
その様子を見ていた最後の一人は恐れをなすとその場から逃げ出そうとする。
しかし少女はそれを許さなかった。それよりも速い速度で駆け寄るとその胴体を腕でつかみ、持ち上げるのだった。
「…お仲間を置いて逃げるなんて、良くないですよ」
クラスメイトを持ち上げながらそう語った少女は、その最後の一人を池に放り込むのだった。
「ううっ、さむいよぅっ、なんだこのゴリラ女! 円堂さんの連れ?」
リーダー格のクラスメイトがヒステリックに騒ぐ。
「ゴリラ女ではないですよ。…風海という名前があるのですから」
「知らないよっ、そんなの!」
すると別のクラスメイトが自分の肩を抱きながら立ち上がる。
「もういこっ、学校かどっかで着替えないと凍えちゃうよっ、さむいっ」
他のクラスメイトもうなずくと、びしょ濡れなのも構わず一目散に逃げ出した。その様子を風海と名乗った少女は見送る。後に残るのはまおと池に散らばった原稿だけ。
まおは呆然とその一連の出来事を見つめていた。
少女は靴やスカートが濡れるのも気にせず池に足を踏み入れた。そしてまおの原稿を一枚一枚丁寧に拾い上げると、それを胸に抱え込む。
そうして全てを拾い上げると、まおの元に近寄り手を差し出した。
「大変な目に会いましたね……大丈夫ですか?」
透き通るような白い美しい手。ふと少女の顔を見ると、長い銀のまつ毛の下にエメラルドのような碧い瞳が覗き込む。
「あの……は、はいっ」
まおはその少女の手を握り返す。
少女はその手を掴むとまおの身体を起こした。
「近くに私の屋敷があります。そこで乾かしましょう」
少女は優しく微笑む。
そんなまおの目に映る少女の姿は、この世界の何よりも美しかった。
屋敷に連れて行かれると、まおはそのまま風呂に入れてもらった。大きな風呂場だった。きっとこのお屋敷といい、あの少女は良いところのお嬢様に違いないと、まおはぼんやりそんなことを考えながら湯船に浸かる。風呂から出ると簡単な洋服の着替えを渡された。これもおとぎ話に出てくるお姫様のような可愛いフリルの付いたワンピース。そして金髪の素敵なメイドさんがまおの髪を乾かしてくれた。
淹れてくれた茶色いお茶を飲んでいると、中庭の様子が見えた。そこには両端のポールに洗濯ひもをかけ、1枚1枚丁寧にまおの原稿を洗濯バサミで干そうとしている銀髪の少女の姿があった。
「あわわわわっ!」
まおは慌てて立ち上がると中庭に出た。そして急いで洗濯ひもにぶら下がった原稿を回収しようとする。
「あ、ダメですよ。まだ乾いてないんです」
少女は慌てて言う。しかしまおは声を張り上げる。
「すみません! すみません!! 何でもないんです! これは…その、そう…ゴミ! ゴミですから!!」
あまりの声の大きさにまお自身が驚く。しかし水浸しの原稿を回収して自身の胸に抱きしめる。
もう誰にも見られたくない……見られて笑われたり嫌われたりするのはもうイヤなんだ!
……それにこの人に……助けてくれてこんなに親切してくれたこの人にまで嫌われちゃったら…私は……
まおはぎゅっと目を瞑る。そんな一心でまおは叫んでいた。しかしそんなまおの腕を、銀髪の少女は掴む。
「そんなに強く抱きしめたら、くしゃくしゃになってしまいます」
ぐしゃりと水分を含んだ原稿たち。その水分が着替えたばかりのまおの洋服を濡らす。
「1枚1枚丁寧に、丹精込めて描いたのでしょう? 大切にしてあげないと」
「それは…そうです。…けど」
まおがうつむく。原稿は紙の姿を残してはいたが、その殆どはインクが滲んで汚れきっていた。
「貴方が一生懸命に描いたものが恥ずかしいだなんて……ましてやゴミだなんて……そんなこと、言ってはダメですよ?」
そっと銀髪の少女はまおの顔を伺う。
「でも…でも…! 私の描いたのを見せると、みんな気持ち悪がるから……!」
震えるまお。少女はまおが手に持っていた漫画の原稿に目を落とす。
そこには2人の若い人物が描かれていて、互いに見つめあい、そして笑いあっていた。
「私は漫画というものはよく分かりませんが、昔から物語を好んでよく読んでいました。ロマンチックな恋愛、心躍る大冒険、ハラハラするようなサスペンス……様々な世界で、多種多様な人々が、それぞれの物語を紡ぐのです。私はそれをいつもワクワクしながら読んでいた。そしていつも願うのです、ああ、この人達の物語が、どうか幸せのまま終わりますようにって」
銀髪の少女は目を細めるとそっと微笑む。
「貴方の描いたお話…残念ながら全部は読めません。だけど、貴方の物語のこのお二人は笑いあっていますよね。きっとこの方たちは数々の苦難を乗り越え、もしかしたら何か犠牲にして、それでも幸せな二人の世界を掴み取ったのではないのでしょうか。この方たちだけの…素晴らしい美しい世界を」
その言葉にまおははっと少女の顔を見つめる。
「笑いあってる二人の物語が素晴らしくないはずがありません。そして、それを描いた貴方も」
少女は残りの原稿をまおに渡した。
「いつか完成させてください。その時は…ぜひ、読ませてくださいね」
そうして優しく微笑むのだった。まおは呆然とその少女の顔を見つめる。そして自然と瞳から涙がこぼれ落ちた。涙は長く細くまおの頬を伝う。そして顎にたどり着くと滴となって中庭の芝に落ちた。
この人の心は、なんて綺麗なのだろう。
「私の……王子様」
「え?」
まおは慌てて涙を拭うと、満面の笑みを向ける。しかしその後すぐに思う。
何言ってんだ私は!!!
我に返ったまおはその恥ずかしさのあまり原稿を掴み自分の荷物を回収すると、屋敷を駆け足で去っていってしまった。
帰り道。坂を駆け下りながら、まおは白い息を吐き続けた。
原稿がダメになってしまったにもかかわらず、その心はとても軽かった。
昨日までのどこか不安げで憂鬱とした気分はどこかに消えていた。
空を見上げる。雲間から見える冬の空がとても青く感じられた。
いつか、私、あの人の隣に立ちたい!
家に帰ったまおは決心する。中学を卒業するまでは創作を我慢した。家でも良い子を演じ、学校でも目立たないようにした。まおをいじめていたクラスメイトたちもあの事件以来まおをからかうことは無くなっていた。
卒業式の翌日、美容院に向かったまおは髪を茶色に染め上げた。メガネもやめた。そして部屋を片付けを済ますと、良い子を演じて受かっていた高校の合格証書を机の上に置いた。そしてかねてから計画していた家出を決行したのだ。
とはいえ大学生になっていた姉の賃貸物件に転がり込むだけの話ではあったが。それでももちろん両親は強く反対し、自分の将来をもっと大切にしろとか、教師の娘がそんなこと許されないとか常識人が言うであろうあらゆるセリフを並べてまおを説得し、合格していた高校に進めようと試みた。しかしまおはそれを頑なに拒否した。そして自らの憧れーーーそれはもう まおの未来の夢と言っても差し支えなかった、に向けて一心に進んでいく。
なりたかった自分を目指す。そしていつの日か…王子様に私の物語を読んでもらうんだ!
◆◆◆
まおは目を覚ます。気づけば作業中に眠ってしまっていたようだ。なんだか懐かしい、そしてとても大切な夢を見ていた気がする。時計はすでに日付が変わっていた。目の前にはタブレットに映る描きかけの原稿。まおは独り立ちしてから、ネットや即売会での活動を始めるようになった。そしてある程度の知名度と収入を得るようにもなっていた。今描いているのは今度の同人即売会に出す分だった。いつかは王子様に見せられる物語を書く。そのための実力を着々と付けていた。
「ふわ、もう寝なくちゃ」
まおは大きなあくびをする。そして立ち上がろうとして、ふと机の一番下の引き出しに目がいった。そしてなんとなくそれを引っ張る。
少し重い引き出しで力を入れる必要があった。引き出しの奥まで引ききると、そこにはA4サイズの透明なプラスチックケースが入っていた。中を覗くとインクが滲んだ不揃いの紙束たちが丁寧に収められている……そう、あの冬の日…王子様が丁寧に拾い集めてくれた大事な原稿たち…
それは、まおの一番の宝物だった。
<後編に続く>
(→ 後編)
ご感想は【こちら】まで!
おまけ①:円堂一家
父:円堂マナブ。国語教師。温和、しかし怒ると怖い。
母:円堂みなみ。理科教師、学年主任。面倒見がいい、しかし怒ると怖い。
長男:円堂トオル。教職免許は持っているが一般企業に就職。何かアブナイ副業もしているらしい。妹に甘い。
長女:円堂ことは。教育大学3年生。社会学専攻。自由人。妹に甘い。
次女:円堂まお。家出して生活中。ナギにお屋敷を追い出された。
おまけ②:T.T.シリーズ一覧
T.T.Y01 マヤ :シリーズオリジナル。通称「T.T.01」。シリーズ内で唯一AIを搭載していて高い知能を持つ。自分の存在意義をいつも考えている。映画タームネーター2が好き。らむと仲良し。
T.T.Y02 ハルナ:01のパーツのテストは主にこの機体が請け負っている。機体構造的はほぼ01と同じだが感情はない。戦闘時は01の予備武器を装備する。また01のボディチェックの際は01のAIはこの機体に移されることも多い。
T.T.YM03 イセ:02と共に01のテストパーツを付けている事が多い。またこの機体から量産用の簡易パーツが使用されている。今回の戦闘ではドローン制御レーダーを搭載しドローン戦に強い。
T.T.M04 ズイカク:本格量産型1号。武器内蔵式の腕パーツを無くし簡素化が図られている。また接近戦闘ソフトが内蔵され、刀剣や拳銃を多用した戦い方が得意。
T.T.M05 イコマ:本格量産型2号。今回の戦闘のために腕パーツのみ01のモノに戻されている。ガトリング砲を内蔵し中距離戦闘に強い。ナギとタッグを組みカラサワ一家の事務所を襲撃した。
T.T.M06 カコ:本格量産型3号。給仕用ロボとして調整されており温度センサーと味覚センサーに01と同じモノが装備されている。急遽戦闘用に改修され温度センサーを生かした遠距離射撃などを行う。
T.T.M07 タイホウ:装甲強化型。量産型に外部装甲を追加した。重量オーバーのため脚部はキャタピラで移動する。固定武装の4連装ガンランチャーを両腕に装備し、バリケードや建物を粉砕する。
T.T.M08 キヌガサ:給仕用ロボ2号として組み立てられていたが、急遽戦闘用に改修される。武装は通常のメイドが使用する人間用の武器を扱う。フレームこそ正規品だが戦闘用パーツはほぼ他の機体の予備の寄せ集めであるため、よく故障する。また戦闘力は他の一般メイドより若干マシという程度。
※だいたいT.T.シリーズ1体の戦闘力を「1」としたとき管理部門の警備メイドは「0.1」
工場武装メイドは「0.25」
鰐塚らむは「3」風海ナギは「5」くらい。
ここからも分かるようにいかにコウベシンジケートの戦力が外部(工場・ナギ)頼りかが伺える。
シンジケート警備部門(仮)は忠誠心が最大の武器。桜井ヘルガのリーダーシップと人数で弱点をカバー。