心地よくて暖かい。優しい気持ちで心が満たされてる。
そんな穏やかな気分。風海ナギは自室のベッドで目を覚ました。
あのババロア家を壊滅させた戦いから4日が経っていた。円堂まおの応急処置で一命をとりとめたナギは、3日間ウラ病院で経過観察をした後、昨日から自身の屋敷に戻っていた。
おぼろげな意識の中、円堂まおが吹き込んでくれた空気の感触を思い出す。そして唇の触れ合う温もりも……。ナギはそっと自らの口に右手を当てる。
ふと窓の方を見る。いまは朝の6時くらいだろうか。しかしカーテンを締め切った暗い部屋はその全ての時間的感覚を遮断している。
なんて陰湿な部屋。
ナギは自然とそう感じた。それはこの2年間、一度も気にならなかった感覚だった。
寝起きのぼさぼさの長髪を垂らしながら立ち上がると、カーテンへと歩み寄る。そしてカーテンを両手で大きく開いた。ぱっ。差し込む朝の陽光。それがナギの銀髪をキラキラと輝かせた。
「お日様、きれいです……」
ナギは顔を上げて空を見る。その表情は自然と和やかだった。
まおはハタキを片手にパタパタと屋敷の棚の埃を落としていた。
ナギを救出してから4日。ウラ病院に付き添い、昨日ナギを屋敷に送ってからもそのまま屋敷で寝泊まりした。体調が心配、というのもあるけれど、ナギともう一度しっかり話すまで、彼女のそばを離れてはいけないような気がしていた。
今日も早く目が覚めてしまった。こうして屋敷の掃除をしていると、まるでここから追い出される前のことを思い出す。久々の屋敷はとても荒廃していた。まるで初めて屋敷に来た日のようだった。ナギは屋敷の掃除に関心がなかったから…。ナギの許可は取っていないけれど、まおは心機一転、朝から屋敷の大掃除を始めたのだった。
ぎし、ぎし、と階段を誰かが降りる音がする。姫が起きてきたのだ。まおはぱっと顔を明るくさせると階段の下へと向かった。すると小さくあくびをし、ぼさぼさの髪を垂らしながら階段を降りるナギの姿が映った。まおが片手を上げて元気よく朝の挨拶をする。
「おはよう、姫! 調子はどう?」
「はひゃっ!?」
ナギはそれに驚いたのか一瞬身じろぎマジマジとまおの姿を凝視する。一瞬の沈黙。先に口を開いたのはまおだった。
「……はひゃ?」
まおが聞き返す。するとナギはわたわたと、ぼさぼさの髪を撫で押さえながら視線を外す。若干顔を赤らめる。
「あ、いえ、その…、貴方がいることは分かっていたのですが……ええと、その……!」
ナギは階段を折り返し三段跳びで登り始める。そして2階の廊下を駆けてバタンッ!と彼女の部屋のドアが閉まる音が聞こえた。
一瞬の出来事にまおはポカンとした表情でそんなナギを見送るのだった。
ナギはドアを閉めると、そのドアに寄りかかり大きなため息をつく。呼吸が荒く顔が熱かった。
「わわっ」
ナギはそれに戸惑う。ただ、円堂まおの顔を見ただけなのに…! それは急に現れて驚いたからではない。気配は感じていたし、どうせいるんだろうなとは思っていたから……
はっと正気に返ったナギは部屋の明かりをつけ、そそくさと鏡台に近寄った。そして鏡台の埃を払うとその引き出しから櫛を取り出し髪に当てた。
鏡を見ながら櫛を当て、自分の顔を見ながらナギは自問する。
あれ? どうして私、こんな事をしてるんでしょう。べつに、こんなぼさぼさ髪、いつもあの人に見せてたじゃないですか……。ううん、いまはそれがとっても、すごくみっともなくて恥ずかしいことのように思えてきました…うう、どうしてでしょう。この感覚……あの人の前ではもっとしっかり身だしなみを正さないと。とにかく……
このぼさぼさ髪をあの人に見られるのは、すごく恥ずかしい……っ!!
まおは厨房で朝食の準備をしていた。ナギが自室に籠もって1時間半、そろそろ朝食にいい時間だし、声をかけてみようか。そう思い改めて階段へと向かう。
すると丁度階段からナギが降りてくる気配を感じる。まおは顔を上げる。
「あ、ひめーーー……」
そしてナギの姿を見て硬直する。そこには、つややかな銀髪(しかしちょっとまだ跳ねてる)を蓄えた、白い清楚な冬用の厚手のワンピース姿の風海ナギが立っていた。すました表情でまおを見据えると鈴のように小さく微笑む。そしてそっと言葉を発する。
「ごきげんよう」
それを聞いてさらにしばらくまおは固まったままだった。しかし正気に戻る。
「えっと、はい……ごきげんよう。………今日はどちらかへお出かけですか?」
ついつい敬語になる。ナギもまおを直視できないようで目が泳ぎ始める。
「い、いえ、そんな予定はありませんけど。えっと、その、何か変でしょうか……?」
するとまおはぱっと目を輝かせた。
「ううん、変なこと全然無いよ。すっごく綺麗! やっぱり姫はこういうお洋服が似合うんだね」
するとナギは口をゆるませる。
「き、綺麗……ですかっ。え、えっと、そうですかね。私も久しぶりに着たので、何がなんだか……」
ナギの口がむにゃむにゃと動く。
「いいね! せっかく可愛いんだからこれからもどんどんオシャレしなきゃ!」
「え、そそうですか。可愛いだなんて……えっと、そうですね…」
「そうだ、朝ごはん作ったんだけど、食べる?」
「え、あ、はい。ぜひ」
ナギは少し嬉しそうな表情をする。まおはナギを食堂へと手招きする。
まおの後ろでナギは顔を赤くする。
ごきげんようって何ですかーーーっ!!?
ルミネさんじゃあるまいし!なぜお嬢様言葉にっ!?
ううっ、ほんと私どうしちゃったんでしょう。ナギはぐるぐると目を回す。
なっ、なっ、なんだーーーーっ、あれはっ!!!?
そしてまおだった。平静を装ってはいたが、その脳内は激しく動揺していた。
え、何あれ!? あれは姫、女神、天使!!?
ちらっと後ろからついてくるナギを盗み見る。ナギはもじもじとしていて視線が合うとそっとメオをそらす。
何あの格好! あのつややかな髪! うっすらお化粧もしている気がするし! それに!あのいじらしい態度っ!!(とても可愛い!!!)
いつものクールなお姫様はどこいっちゃったの!?
えっ、どゆこと!? いったい姫に何が!
まおは脳みそをフル回転させてみる。
はっ、もしかして、前の戦闘で当たりどころが悪かったの?
もう一度ナギの方を盗み見る。ナギもまたまおを見ていたようだ。そしてまた目が合うとそっと視線をそらす。しかし嫌な感じはしない。
…………
まおの脳内で電球が光る。
あれか? デレ期か!!? これが、デレ期ってやつ!?
まおの少女漫画と同人誌の知識がその答えを囁いていた。
いやでもそんな、あの姫が? ウソっ。この私に……!!?
まおは全身の毛が逆立つのを感じた。そして顔が赤くなる。
そしてニヤつきそうになる顔を両手で押さえた。
あ、ダメだ。コレ、今度は私が姫の顔を見れないや…
これやばい、こんなの………意識しちゃうよ……!
食堂のテーブルにはベーコンエッグとトースト、それにコンソメスープが置かれていた。
とても美味しそうな香りがする。ナギは目を輝かす。
それもそのはず、この1ヶ月間、まおが去ってからというもの、ナギはまともな食事を摂っていなかった。
しかし食堂には先客が2人いた。
「ああ、お嬢様! よくぞご無事で! そのお洋服、お懐かしいですね!」
エッダ・ベリエンシェーナは祈るように両手を握りしめながら、ナギを見つめる。
「……風海ナギ、どうして宝座ルミネの首を獲らないのです……」
椅子に行儀よく座りつつ、しかし不満げな表情で赤鋏ツバキがナギを睨みつける。
それに気づいたナギはワンピースのスカートからハンドガンを取り出すとそのまま2人の顔面に向かって発射した。
ガンッ、ガンッ!
2つ分のゴム弾が2人の奥の壁に突き刺さる。ナギの発射した弾を2人はそれぞれかわした。エッダには甘めに撃ったので避けられて当然だったが、ツバキには顔面を直に狙ったにも関わらず避けられてしまった。避けられたことで、ナギの感情は逆撫でされた。
「なんでこの人たちがいるんですかー!!!」
珍しく大声を張り上げる。まおは3人の間に入るとナギを抑えようとする。
「どー、どー、姫。えっとね、昨日お屋敷に帰ってきたら、お庭で十字架きってお祈りしてるエッダさんと、植木に五寸釘打ってるツバキさんがいたから、つい中にいれちゃったっ」
「私のお家ですよ!!」
ナギは2人の背中を掴むとずるずる引きずりそのまま庭に放り出す。
「ああ、お嬢様っ!」
「せめて朝ご飯は食べさせてください!!」
2人分の叫び声。
「なんなんですか、あの人たち……」
ナギは手をパンッパンッとやりながら深い溜め息をつく。
それを呆れ笑顔を作りながまおが見守る。
「ほら、ぼんやりしていないで、一緒にご飯、食べましょう」
そこにはいつもの凛とした表情の頼りがいのある、風海ナギが立っていた。
「うん、そうだね!」
そんなナギの言葉にはにかみながら、嬉しそうにまおが大きく頷いた。
そうして2人の生活が再び始まるのだった。まおは改めてシンジケートの給仕メイドとして、ウラ喫茶店で仕事をするようになった。ナギも争いの無くなったシンジケートにおいて、工場の手伝いをしたり、管理部門の警備メイドの手伝いを続けた。
エッダも屋敷を訪れるようになり、時々ナギとも会話を交わす。以前失った時間を取り戻し始めようとしていた。朱鋏ツバキは気づけば勝手に庭先にテントを持ち込んで住み込むようになっていた。
そうして2週間が経った。
◆◆◆
「はい、今月もお疲れ様です」
コウベシンジケート本店【ヴァルトブルク】のホールにて、桜井ヘルガ率いる管理部門のメイドたちが、給仕部門のメイドたちに給料袋を渡していく。
「もしニホン円に交換したい場合は、別途両替係のところまで持っていってくださいね」
その列に並ぶ円堂まおとT.T.01。
「T.T.さん、久しぶり!」
するとT.T.は小さく微笑み頷く。
「ご無沙汰してます。まおさん」
「T.T.さんもお給料貰いに来たの?」
「はい、私も週に2度ほど給仕メイドのデータ収集のためお店で働いてますから。博士ももらえるものはもらっておけと。そして開発費の足しにするからと」
「そっか~」
そうしているうちにまおの番になる。ヘルガから直々に封筒を受け取る。
「戻って来てくれて嬉しいです。まおさん」
まおが受け取る封筒はずっしりと重い。
「え、あの…ヘルちゃんお姉さま。なんかこの封筒、分厚いし…重くない……?」
するとヘルガは幼さに似合わず意地悪そうに笑う。
「ふふ、ルミネ様は、まだまおさんのこと諦めていませんよ? これは前金ってことで渡しておけって言われました」
「ええっ、それは困るよ~。ちゃんと姫に相談しないと~」
「まあまあ、とりあえずは受け取っておいてください。もし不要でしたら後日返してくれればいいだけですから」
うう、と困り顔になるまお。ヘルガは小悪魔的な笑顔を崩さない。
「あと、これも」
そう言って、黄色いチケットを手渡す。まおはそこに書いてある文字を読む。
「ふくびき…?」
「はい、シンジケートの福利厚生の一環で、優秀なメイドは後でプレゼント抽選会に参加が出来るんです。まおさんは先月分をする前にいなくなりましたから、今回その分です」
「月間ふくびき大会~~~!」
桜井ヘルガと黄色いチケットを渡されたメイドたちが大ホールに残る。
「わふぅ~ん」
ヘルガと共にいるグラーフが主人に合わせて鳴く。
全員の目の前のテーブルの上にでんっ、と置かれた回転式くじ機。
その隣には景品の数々。
ごくりっ、とその場の全員がつばを飲み込む。
まおもその中の1人だった。今回のババロア家撃破の功績が認められたためか、宝座ルミネによってナギの借金はだいぶ減らされていた。しかしそれでもお屋敷の家計は火の車だった。まおはここで何か良いものを手に入れて生活の足しにせねばと意気込む。
ランダムに呼ばれたメイドたちがくじを回していく。
流石に優秀なメイドに送られる福利厚生なだけあって、その景品は豪華だった。一番ハズレでも高級紅茶の缶が与えられる。他にもカップ、洋服、万年筆などなど、少しお高いものが用意されていた。
「この角度、このタイミング……行きます」
T.T.01がクジを回す。
すると赤色の玉が出る。3等だった。
「おめでとうございます~」
カランカランとヘルガがベルを鳴らす。
「3等は米国製の最新映画集ブルーレイですよ」
「フフフ、計算通りです」
T.T.が笑みを浮かべる。
「これでギガントにもっと映画を見せられる…」
「あちゃ~3等出ちゃったねえ」
そこにひょいっとピンク髪のメイドが顔を出した。紫陽ひまりだった。
「あっ、ひまりさん!」
「あ、やっほー、T.T.ちゃん、それに、まおちゃん。どう? 復帰してお店には慣れたかな~?」
「あ、はい。お陰様で」
まおは多少緊張しながら答える。やはりどうもまおはひまりのことが苦手だ。
「も~、何その顔~。私だってここにいるよ~。給仕部門メイド長だって、成績出したらくじ引けるんだもの」
そう言い、ひまりはくじを回す。…銀色。2等だった。
「スコーン1ヶ月分です!」
「惜しい。2等か~」
ひまりはコツンと自分の頭を軽く叩くとエヘっと笑ってみせる。
「じゃあ、次はまおちゃんの番ね~」
ひまりはまおの手を取ると、くじ引きの前まで連れてくる。
まおはくじ引きの前で念じる。何か家計の助けになるものが引けますように!
そしてくじ引きを回す。金色!……出てきたのは1等だった。
「ええっ!? おめでとうございます! 1等です~!」
ヘルガは立て続けに高位景品が出て笑顔だったが、やはり予算をやりくりして用意している景品がこうも簡単に続々と出たので顔を若干引きつらせていた。
「さて、1等の景品はーーー」
コウベ市工場地帯の岸壁にて。
ジャージ姿で釣り糸を垂らす鰐塚らむと風海ナギの姿があった。
「むむ、今日は何も釣れないですねぇ」
ナギがまじまじと海面を覗きながらつぶやく。
「フフッ、ミンナお腹いっぱいだから、今日は来てくれないのかなあ~」
らむは無邪気に微笑む。
「しかしこれでは、らむさんの水族館計画に支障が……」
「いいのいいの~、ミンナお腹イッパイ元気なのはとってもイイコトだから!」
それでも悔しそうな表情をするナギ。そんなナギをらむは見る。
「フフッ、最近ナギちゃんも元気だネェ」
「え、私が? …そうですか?」
ナギは訝しむ。
「うん、前よりもオシャベリになった気がするよ」
らむは大きく開いた目を閉じるとニッコリ笑う。
「やっぱり仲良しで一緒にいるのがイチバンだよね~、オサカナたちみたいに、ワタシと博士とT.T.ちゃんや、ナギちゃんとまおちゃん」
「……」
ナギは少し顔を赤くすると顔をそむけた。
「ま、まあ……否定はしません…よ」
らむはそんなナギを見て更に笑顔になる。
「風海ナギ……宝座ルミネの首を獲るのです……」
すると、らむとは反対側から声がする。そこにはジトッとした目つきの朱鋏ツバキが釣り糸を垂らしてナギの方を見ていた。
「貴方、またついて来たのですか? 何なんですか一体。背後霊か何かですか!?」
ナギがぎょっとする。ツバキは続ける。
「貴方の実力ならシンジケートを奪い取ることも出来るのに……そしてそのシンジケートを私が影から操ります。そうすれば、そうすれば私は……!」
「……ツバキさん、最近薄々気づいたのですが、さては貴方、帰る場所がないんですか…?」
「そ、そんなこと、そんなわけっ!」
するとピンッ、とツバキの釣り糸が引っ張られる。
「おお、今日のお夕飯!」
ツバキは釣り竿に力をいれる。しかしツバキの力をもってしても釣り上がらない。
「…仕方ないですね」
ナギがツバキの腰を掴み、引っ張るのを手伝う。その後ろにらむもやってくる。
「でも、釣った魚はらむさんの水族館に入れるんですからね」
「代わりに工場特製のレーションをタクサンあげるヨ!」
「ううっ、助かります……」
3人の力を合わせ竿を持ち上げる。すると宙に体長3メートルはあろうかという大きな影が映る。
「コレ、オッキイ……!!」
そしてドシーン、と岸壁に打ち上げられる。
それは上半分が青色で下半分が白色、そしてところどころに斑点のある平べったい魚だった。びたんびたんと3メートルの巨体がコンクリートの上を跳ねる。
「これ、私、小さい頃にオオサカの水族館で見たことがあります…」
ナギが口を抑えながら言う。
「たぶん、ジンベエザメの子供…ではないでしょうか?」
その言葉にらむは目を輝かせる。
「サメさん!!?」
「お~い、姫、みんな~」
とそこに仕事から帰ってきた まおとT.T.01が現れる。
そして地面を跳ねる巨体を目撃する。
「えっ、ナニコレ!?」
驚愕する2人。それを見て我に戻るらむ。
「あっ、早く水槽に入れてアゲナイと!T.T.ちゃん、工場の子も呼んで特大水槽持ってきて! みんなはこの子がアバレないように抑えヨウ!」
らむはそう言うとジンベエザメの子供に抱きつく。皆も慌ててそれに続いた。
騒動が一段落し、ジンベエザメの子供は無事らむの水族館に収容された。
らむの水族館に案内されるナギとまお、そしてツバキ。
大きなガラスの水槽がタワーのように周囲に積み上げられていた。そしてそのそれぞれに壁から伸びた水の入れ替えよう配管と複雑に繋げられている。水槽の中にはひとつひとつ異なる魚や水生生物たちが泳いでいた。
「わぁ~、こんなにたくさん魚が…」
まおは感嘆の声をあげると顔を見上げた。
「これをらむさんお一人で?」
ジンベエザメの様子を見てから戻ってきたらむに、ナギは問いかける。
「うん、博士に拾ってもらってココで住むようになって3年間、少しずつオサカナレスキューしてたらこんなに仲間が増えちゃっタ」
らむはニッコリと笑う。
「これは、らむさんが一人で設計して組み立てたんです。水槽をパズルのように並べ積み上げて、複雑な配管配置も全てお一人で」
T.T.が横から解説する。ナギたちにはそれがどれだけすごいことか詳しいことは分からなかったが、見ている景色とT.T.の話しぶりからそれが伺えた。
「まだ完成してなかったから見せるのどうしようかなって思っテたんだけど、ナギちゃんに見せる約束が叶ってヨカッタヨ」
「あ…」
ナギはババロア邸でらむと共に闘っていた時の約束を思い出す。
「ええ、覚えていますとも。あのとき珍しくらむさんがそんなことを言うから驚きましたけど、少し嬉しかったです」
「ウン、ナギちゃんとはお友だちだから」
「ええ、お友達ですよ。らむさん」
そうして2人は微笑み合う。
しばらくらむの水族館を鑑賞して楽しむ一行。
ナギはらむと共に水槽を歩いて回る。らむが興奮しながら1つ1つの水槽を説明する。それを少し笑みを浮かべながら頷き聞くナギ。
すると向こうではT.T.が大きなボール紙を渡し、そこにまおがペンで何かを描き始めていた。らむとナギが近づく。するとまおはボール紙に細かく大量の魚の絵を描いていた。
「ええっ、すごっ、スゴイっ!」
近づいてそれを見たらむが興奮する。
「えへへっ、らむちゃんにすごく素敵なモノを見せてもらったから、そのお礼にあげるよ~」
まおは笑いながら描き続ける。
「えっ、コレくれるの!? うれしい! そうだ……コレ、水族館のカンバンにしよう!」
らむは目をキラキラさせながらその絵に食い入る。
「ふふふ、実はこのヒト、マンガを描くのが得意なのですよ?」
ナギはまるで自分のことのように得意げに語り始める。T.T.もまおのやっていることを興味深そうに覗き込み続けている。
…そしてもう1人、それに食い入るように見ているツバキの姿があった。最初はナギたちと後ろからちらりと覗き込む程度だったが、何かに気づくと2人を押しのけてまおの描く横をじっとその絵を見つめ続けた。まおは特に気にしていなかったが、ツバキは何かを確信するとまおに問いかける。
「貴方、もしかして……マシュマロ先生ですか?」
「はい……?」
まおの描く手がピタッと止まる。そして頭から1すじの汗が流れる。ぎこちない表情でツバキの顔を見た。
「え、今なんて…?」
まおはゆっくりと聞き返す。
「この魚の絵のタッチ、『キュリオシティ』に出てくるナナちゃんのポシェットのおサカナクンにそっくり!貴方、マシュマロ先生ですね!!」
今度は語気を強める。
「はっ、はあ?」
まおは珍しくとても他人行儀で何言ってるんだこの人、とでも言いたげな怪訝そうな表情を作った。しかしそれは明らかに意図して作った顔であることは周りにもバレるほどのヘタクソなものだった。ツバキを見つめ返すも、その額からはさらに冷や汗が流れ始めていた。一方のツバキはその態度こそがその答えだと思うと目をぱっと輝かし、ペンを持っていないまおの右手を握りしめる。
「やっぱり! この前オムライスにイラストを描いてもらった時にそうじゃないかなって、ずっと思ってたんです! さ、サインください!! 私の愛刀に……ぜひ!!」
そう言うとツバキは背中に入れて隠していた白い鞘の刀を取り出すと、まおの前に差し出した。
「お、おサカナクンも大好きですが、ナナちゃんの愛猫にゃーちゃんが一番好きなんです!ぜひ、にゃーちゃんを私の刀に!!」
まおの前にずいっと差し出される白い鞘。まおはしどろもどろになる。慌てて周りに助けを求めようとするも、ナギもらむもT.T.もポカンとしながら2人のやり取りを眺めていた。
「え~、い、いや~、ヒト違いじゃないですかね~~~」
まおはツバキと鞘と自分の左手に持ったペンの3点に順番に目を動かしながら挙動不審になる。
「ちょっと……一体どういうことですか?」
そこにずいっとナギが割り込んできた。
「……マシュマロ先生って…何のことですか?」
そうしてまおに怪訝そうな顔を近づける。
「知らない…」
まおはそっと視線を逸らす。
「わ、私にウソをつくのですか…?」
非難とも泣き出しそうな声ともつかない声をナギは漏らす。
そんなナギの予想外な様子に、まおは意外にもときめいてしまった。しかし罪悪感に勝てなかったまおは観念する。
「え、えーと……マシュマロっているのは……私のペンネームです……ハイ」
するとツバキは目を輝かせ、まおに迫る。
「やっぱり!! マシュマロ先生だったのですね!! 私、先生の作品の大ファンで、作品は全部買って実家の本棚に並べてます! キョウトのシジョウカワラマチのアミメイトに無い時はオオサカのナンバまでこっそり行って買い集めてました! 『キュリオシティ』が本当に大好きで大好きで、毎日読んでてセリフ全部言えます!」
「ちょっと、近いッ…近いですよッ!!」
ナギがまおに迫るツバキを剥がす。
「おい! 私と先生の話を遮らないでくださいっ! 貴様、先生の何を知ってるんですか!」
「わ、私だって、彼女の作品いくつか読ませてもらってるんですから…」
ナギが必死に言い返す。するとそれをツバキは鼻で笑う。
「いくつかぁ? それで貴方、先生の何がわかってるって言うんですか? このニワカ!」
「ぐっ……だ、だって、この前たすけてもらってから、彼女のこと思い出して、それから色々見せてもらうようになって…だから…だって……」
ナギが言いよどみ若干涙目になる。まおはドキドキしながらこの状況をどう収めようかと思案する。しかしナギが唸る。
「ぐぅぅ! そもそも居候のくせに生意気です! わ、わたしだって、このヒトの漫画、全部まだ読ませてもらってないのに、ホント何様ですか!? なんなんですか、この緑茶さん! ぜったいに許せません!」
そう言うとポシェットからハンドガンを取り出す。
「貴様こそマシュマロ先生の何が分かっているというのですか? ……まあいいでしょう。こうなったら貴様を倒して、あのお屋敷とマシュマロ先生と一緒に住む権利をいただきます……!」
ツバキも立ち上がるとその白い鞘からするりと刀を取り出す。
バチバチとにらみ合う2人。
まおは気づく。
あれ? この状況。もしかして2人が私を取り合ってる…?
それに気づいたまおは、さらなるときめきに心をさらにほわほわとさせて心ここにあらずだ。
2人は一触即発の雰囲気。さすがにそれに気づいたらむが慌て始めた。
「だっ、ダメだよ、2人トモ~。こんなところでケンカしたら、水族館が壊れちゃうヨ~」
しかし2人は聞く耳を持たない。らむはまおに助けを求めた。
「まおちゃん~、2人を止めてよ~」
らむは一所懸命まおを揺さぶった。しかしほわほわしている まおはしばらく上の空だった。
工場で夕飯を食べた後、帰路につく3人。結局外で戦いボロボロになるナギとツバキ。
「フフ…やりますね、貴方」
「フフフ……貴様こそ…」
ヨロヨロとまおにつれられて坂道を上る2人。
「今日はツバキさん、流石に家で寝かせてあげようね」
まおのそのセリフにナギは一瞬嫌そうな顔をする。しかしにまおに見つめられると顔をふいっと背ける。
「……し、しかたないですね。だけど居間のソファですよ?」
「くっ、情けを受けるわけには………でも、マシュマロ先生と同じひとつ屋根の下……」
ツバキはうっとりとした表情をする。それを見たナギは顔を曇らす。
「やっぱり、庭のテントです!」
まおは風呂から上がりパジャマを着ると、湯船の栓を抜いた。
ドライヤーで髪を乾かすと、黒色のメガネを掛け、ガウンを羽織り、廊下へ出て屋敷内の電気を消していく。居間のソファではもう疲れ切って寝息を立てているツバキがいた。そっと毛布を掛け直すと部屋の明かりを消す。
そうして階段を上りナギの部屋の前を通り過ぎ自分の部屋へと入った。
明日の仕事の用意とメイド服の準備が終わると椅子に座り机に向き直った。そして漫画作成用のタブレットのスイッチを入れペンを持つ。
まおは夜の時間を作品作りに充てていた。この冬のイベントには参加できるか分からないけれど、新刊を待っていてくれるお客さんのためにもコツコツと製作を続けている。
ナギと約束した漫画はまだ途中だった。まおはもっと経験を積んでより良い状態で作り直そうと決めていた。
「よし、今日もいい出来栄え」
タブレットを覗きながら、まおは満足そうな表情をして描き続ける。すると…
「まお……さん!!」
「うわぁっ!!」
突然後ろからナギの声がする。慌ててまおが振り向くとドアからナギが顔を覗かせている。
「ど、どうしたの、姫!」
「えっと、その、何度もノックしたんですけど…」
ナギが若干困り顔を作る。そして恥ずかしそうに言う。
「そ、その…、ま、漫画! 私にももっと漫画読ませてください!」
目を瞑って大声でそう言う。まおはあっけにとられながら、そして小さく笑う。
「ゴメンねえ、姫。姫に見せたの以外は、全部お姉ちゃんとこのマンションにあるから…」
「そ、そんなあ……」
ナギが若干涙目になりながら弱々しく小さくため息を吐く。
「うう、私、緑茶さんよりも貴方のこと知らなかったなんて、ちょっとショックです…」
「そんなことないよ」
まおは立ち上がりドアへ近づくとナギの手を掴む。
「だって姫とは2ヶ月も一緒にいて、いろんなお仕事をしたじゃない。姫の方が私のこと、いっぱいいっぱい知ってるよ?」
まおがナギの目を覗き込む。
「ほ、ほんとうですか…?」
そこでナギは我に帰る。
「わっ、ち、近いですっ」
ナギが慌ててまおから離れようとする。
「あ、そうだ!」
まおはナギから離れると、仕事用のカバンをガサゴソと漁り始める。そして2枚の紙切れを取り出した!
「じゃじゃーん! これ、今日のお仕事のくじ引きで当たったの!」
まおは誇らしげにふんぞり返った。
「チケット…ですか?」
ナギがまじまじと見る。
「今度、ポートアイランド遊園地でイルミネーション花火大会があるんだって! その特別特等席のチケットだよ!」
「そうなんですね、当たってよかったですね」
「え、何そのリアクション? 姫も一緒に行くんだよ?」
「えっ、えっ、わ、私と……!?」
ナギは驚きながらまおとチケットを交互に見る。
「えっ、でも、当てたの貴方だし、他に行く人だって、ほらお姉さんとかお友達とか…」
「…私はできれば……姫と行きたいんだけどな……」
まおはチケットをぐいっとナギに近づける。
「あ、う、その……い、嫌じゃないです。……むしろ、嬉しいかも、しれません……」
ナギは照れて顔をそむけながらも、それを受け取る。
「お知り合いに誘っていただくのなんて、とても久しぶです……」
「うん、来週の日曜日だから空けといてね!」
「はい……」
これで用事は終わったかなと、まおがおやすみの挨拶をしようとする。しかしナギはその場を動かない。
「あの、まお…さん、ちょっと今から、私の部屋に来ませんか……?」
ナギは恥ずかしそうにそう言った。
まおの脳内で何かが弾けた。
??????!?
「え…いまから?」
「はい…」
2ヶ月前、ナギの屋敷に住み込むようになってからも、一度も彼女の部屋だけは立ち入らせてくれなかった。そして初めてまおはその部屋に入る。そこは30畳ほどの大きな部屋だった。壁には本棚が立ち並び、中央には天蓋付きのベッドが置いてある。そしてその手前の絨毯の上にずらりとぬいぐるみたちが置かれていた。少なく見ても50体以上はいる。
ナギはそのぬいぐるみの近くに座り、近くに来るようにまおを手招きする。まおはそれに従いナギの側で腰を下ろす。
「貴方にも、私のことを知っていただこうと思って、お友達を紹介させてください」
そう言うとナギは近くの熊のぬいぐるみを手に取る。
「この子はヘルムート、お父様が5歳の誕生日にくださった。とても勇敢な子なんです」
そしてヘルムートをまおに渡す。まおがそれを手に取る。とても年季が入ったぬいぐるみだった。
ナギは今度はオウムのぬいぐるみを指差す。
「この子はマンフレッド、ルミネさんが7歳の誕生日にくださいました。とても好奇心旺盛な子」
ナギが小さく微笑む。
「ルミネさんが私がガリバー旅行記のご本をお貸ししたら、くださったんです」
そして紹介は続く。
「この子はエミリア。ちょっとおませな女の子のウサギさん。くださったのはひまりさんです。おしゃれな彼女らしい…」
「蛇のヴェルナーはエッダお姉さまがくれました。蛇は北欧ではとても強力な神様なんだそうです」
「このロボットはオイゲン。マツリカさんの手作りでした。昔は本当にしゃべってたんですけど、電池が切れてしまったみたいで…」
ひとつひとつを丁寧に話していく。
「そっか、君たちが姫の騎士たちだったんだね」
まおは優しい表情を浮かべると熊のヘルムートの頭をそっと撫でた。
「皆、私の大切なお友達だったんです。私の大切な人たちがくれた……」
ナギは顔を曇らせた。
「だけど、みんな離れていってしまった……」
そしてナギはまおの目を見ると、その手を握る。
「貴方も……いつかは離れていってしまうのでしょうか?」
不安そうな目。まおはその手を握り返すと、ナギの近くへ寄り、その身体をぎゅっと抱きしめた。
「もう…何バカなこと言ってんの? 王子様がお姫様の側を離れるワケないじゃん。ずっとずっと側にいるよ? 姫は心配性だなあ」
まおは冗談っぽく笑う。ナギはそんなまおを抱きしめ返した。
「ナギと呼んでください」
「うん、ナギ…」
「まお…まお…」
ナギは抱きしめながらまおの名前を繰り返す。
翌日。冬の陽光がカーテンから射し込む。
まおは目を覚ますと、自室とは違う部屋にいる自分を発見する。
昨日のことを思い返す。そういえば左手に温もりを感じる。何か柔らかく温かいものを握っている。
ぱっとそれを引きずり出すとそれはナギの手だった。
慌ててそちらを向くとそこには布団をかぶって心地よさそうに寝ているパジャマ姿のナギがいた。
まおは急いで自分のパジャマを見る。ボタンの掛け違いすらない。
だだだ、だいじょうぶ、昨日はただ一緒に寝てただけだから!
昨日あのまま話に花が咲きそのままベッドで寝てしまっていたのだ。いつ手を繋いだかまでは覚えていないけど…
改めてナギの様子を見る。布団にはぬいぐるみたちがたくさん転がっていた。ナギの穏やかそうな表情。まおは自然と顔がほころぶ。
「ナギ、起きて。朝だよ」
優しくささやき、そっとナギの肩を揺らす。するとゆっくりと長い銀のまつげが開き、碧い瞳がまおを映した。そして小さく微笑む。
「はい、おはようございます。…まお」
まおは着替えるとキッチンへ足を運ぶ。朝食の準備を始める。
すると隣にはエプロン姿のナギが立っていた。
「え、どうしたの?」
「はい、まおだけに頼ってはいられません。私もお手伝いします!」
ふんす、と意気込み、フライパンを手に取る。
「あー、じゃあ、卵割ってかき混ぜてもらっていい?」
「はい!」
ナギはいそいそと冷蔵庫へと向かう。
「おはようございます。今日の朝ご飯はなんですか?」
ちょうど外での鍛錬から戻ってきたのか、ジャージ姿のツバキが現れた。
「あっ、緑茶さん。働かざる者食うべからず、ですよ! 食器を用意したりテーブルを拭いたりお手伝いなさい!」
「おや、風海ナギ。お早いですね。いつもならまだ寝ているのに…」
その時チャイムが鳴る。まおの代わりにナギが玄関に出ると、そこに現れたのはエッダ・ベリエンシェーナだった。
「まおさん、ちょうど今朝市場で茶葉を買ったときに有名なパン屋のパンを買えたので、よかったらお嬢様と一緒に食べてくださ……」
エッダは応対に出たナギを見て固まる。
「あ、エッダ…お姉さま……」
エッダは目を見開くと叫んだ。
「お嬢様! どうしたんですか! こんな朝早くから起きられて、しかもエプロンまでして! 熱でもあるんですか!?」
「し、し、失礼な!」
ナギは赤面する。エッダは嬉しそうに近寄る。
「まあ、まあ、お可愛いですよ。初めてお嬢様に給仕の手ほどきをした時のことを思い出してしまいました!メイド服がまだ大きくてエプロンもだぼだぼで、拙い手つきでお茶を注いでて。お嬢様は昔からお給仕やお料理ごとが苦手でしたから」
「わーっ」
エッダがコロコロと笑う。ナギは慌てる。すると奥からまおが出てきてその様子を見て言った。
「あ、先生。おはようございます。よかったら一緒に朝食いかがですか?」
「えっ、よろしいのですか?……えっと、お嬢様?」
エッダは喜ぶも我に返ると、ナギにお伺いを立てる。
しかしナギは顔をそらすとぽそりと答えた。
「お屋敷のご飯担当は まおですので……まおが良いと言うのなら、いいんじゃないですか?」
その言葉にエッダは救われたような、嬉しそうに顔をほころばす。
「ありがとうございます、お嬢様。そうしましたら不肖エッダ、ご相伴にお預かりさせていただきます!よろしければ私にも朝食の準備を手伝わせていただきます!」
朝食を終えると、まおはウラ喫茶店への仕事へ向かうため、玄関を出る。
「えっ、本当に大丈夫? お洗濯も任せちゃって」
「はい、今日は私はシンジケートからの依頼は受けていませんので。それくらい私が何とかやっておきます。緑茶さんもいますし」
エッダはすでに帰っていた。ナギとツバキがまおを見送る。
「うん、それじゃ夕方には帰ってくるから」
「はい、いってらっしゃい。お気をつけて」
門を出るまお。その後姿にナギは手を振り続けた。
◆◆◆
誰かの記憶の中。
「川越コウコ!やめるんだ!」
銀髪に赤い瞳、ナギの母親、風海マキが叫んでいた。コウベの沿岸部の工業地帯。その廃材ヤードの一角。ショットガンを両手に、黒い巨大な箱に手足が生えたようなロボットと対峙している。
「なんでだ! どうしてそんなものが必要なんだ!」
マキは続ける。マキの隣には夫のシンがいた。いつものその優しげな風貌は消え、ただ硬い表情でその黒いロボットを睨んでいた。そのロボットの頭頂部には人影が見える。青髪でメガネをかけたマキと同年代の女性……
「やっと大戦が終わって平和になったのに、そんなモノを作る必要なんかないのに!」
「私は彼らと約束したんだよ、マキ。このロボでコウベの全てを叩き潰すって!」
ロボットがマキたちに襲いかかる。振り下ろした腕をマキたちは避けた。そして脚の関節を狙って攻撃を開始した。
降り注ぐ雨。
破壊された黒い塊の残骸。その周りに倒れ込む川越コウコ、風海シン、そして風海マキ……
そこに近づく複数の人影。ぼんやりとした意識の中、風海マキはその声を聞く。
中性的な男の声。
「流石、風海マキといったところですかかか……。まさか川越博士の作ったロボと相打ちにまで持ち込むとははは…」
「ええ、川越コウコの身柄はこちらに……。風海夫妻の身柄はは…ええ、貴方に預けますよ、宝座さんん」
そこに割り込む若い女性の声。
「待ってください! マキ様を差し出したらシン様は許してくれるという話では!?」
どこかで聞き覚えのある中年の声。
「馬鹿なメイドだ! そんなハズ無いだろ。お前はまんまと騙されたんだ」
「そんな!」
「あとはお任せしますよ、冬木さん。アワジ大監獄にでもぶちこんでやってください。これで貴方の昇進は確実。そして私も……ついにコウベシンジケートを手に入れられる」
別の低い女性の声。
「素晴らしい取引でしたよ、宝座さん。しかしこのメイドはどうします? いっしょに牢屋に入れておきましょうか?」
「いいえ、この者は私に引き取らせてください。今回の罪を全て被ってもらう…」
雨はずっと降り注ぎ続ける。
コウベ市ナダ区。ババロア一家豪邸跡地。破壊された2階のバルコニーに座りカップをすする人物がいた。全身黒ずくめで、頭には黒いシルクハットを被っている。
豪邸は警察の立入禁止テープが貼られているものの、警官やパトカーの姿は見えない。人物はバルコニーから住宅地の景色を見渡す。
「ふふははふ、シンジケートがコウベの地下組織を全て潰してしまいましたねえええ。私たちとしてはある程度不安定だとそれが好ましかったのですががが。……それにコレ、ホントに困りましたよよよよ。これではせっかく川越の娘にもう一度作らせたモノを、試す相手がいない…しかたありませんねええ、それならば、私が作って差し上げましょうかかか。戦う相手とその理由を…ねえええ」
「はあ、雨ですよ、ルミネ様」
コウベシンジケート本店【ヴァルトブルク】の総メイド長室でお茶に口をつけながら、紫陽ひまりが窓の外を眺める。
「そうね。今日はまた冷え込みそうですわね」
同じようにソファに座りながらルミネがカップに口をつける。
「それはそうと、ひまりさん。今日はお仕事は?」
「いいんですよ~、円堂まおちゃんが大活躍してるから、私はノンビリやるって決めてるんです~」
「こらこら、また不貞腐れてるの? 困った人」
ルミネは小さく苦笑する。
すると執務室の電話が鳴る。それをルミネが取る。
「ルミネ様、ナビラ・ダルラン様がお目通りを求めています」
「ナビラさんが? 分かりましたわ。応接間に通して頂戴」
ルミネが電話を切る。ひまりが口を開く。
「ナビラさん、この前のババロア一家討伐が済んでから、ずっとコウベのレストラン街巡りばかりしてたって聞いてたけど、どうしたんだろうね~?」
ひまりは立ち上がると、カップを片付け始めた。
「お茶の用意をしてくるね~?」
「ええ、お願いね」
ルミネは鏡を見て服のリボンを正す。そして頭を触りロール髪の位置を確認して身だしなみを整えると、応接間へと向かった。
ルミネが応接間の扉を開くと、そこにはソファに座るナビラ・ダルラン、そしてその後ろにはエミリ・トーヴィーが立っていた。エミリはいつもどおり自信なさげであわあわとした表情をしている。ナビラは穏やかな表情ではあるが、珍しくその目はまるで戦闘中ででもあるかのようなピリついた空気をまとっていた。
「ナビラさん、どうかなされたのですか?」
ルミネは座ってナビラに聞く。
「調査が完了しました」
「調査?」
ルミネははて、という表情を作る。ナビラは机の上にいくつかの写真を滑らせた。
建物の写真と内部の写真。その建物はルミネもよく知るものだった。そう川越マツリカが所有する工場のものであったからである。それと格納庫だろうか、広い空間の写真。解像度は悪いが、そこには何やら黒い金属のような箱のようなものが映し出されている。
「これは何ですの?」
何も見当がつかないルミネは首をかしげる。
「ルミネ殿は何もご存じないと見える」
ナビラは目を細める。そして口を開く。
「これはコウベシンジケートが秘密裏に製造している大型兵器の証拠写真です」
その言葉にルミネは絶句するしかなかった。
「はい? えっと…何かの御冗談かしら……」
さすがのルミネもその意外な言葉に心穏やかではない。慌ててナビラの顔を改めて見る。ナビラと視線が合う。しかしナビラの目は笑っていない。
「申し訳ありません、ルミネ殿。私はヨコハマシンジケート総代、宮ノ條コーデリア殿のご命令によりコウベの手伝いに来ましたが、もう1つ別の任務があったのです。それは…コウベが秘密裏に開発したと噂される大型兵器の正体をあばくこと」
「噂ですって…」
それでもルミネは信じられないという顔を続ける。ナビラはしばらくルミネの表情を観察していたが、ふと警戒の色を薄め、ため息をつく。
「本当にご存じないようですね。…9年前、大戦の後のニホンの紅茶マフィアの間での約束事『アフタヌーンティー協定』ではいくつか決め事がなされました。その1つにシンジケート間での大型兵器の製造・保有が禁じられています。そのことはルミネ様もご存知のはず。このまま持ち続けてますと……」
そこでようやくルミネは自身を取り戻したようだ。いつもの調子に戻る。
「いきなりそんなことをおっしゃられましてもねえ。そんな話、聞いたこともありませんもの」
もしかしたら罠かもしれない。それがまだ本当か嘘かの判断がつかないルミネは強気に出てみる。しかしそこはナビラの方が一枚上手だった。
「もししらを切って開発・保有を強行する場合……ヨコハマ、ニイガタ、ナガサキ、ハコダテ、フクオカの5シンジケートによるコウベへの『懲罰行動』の可能性もあるだろう、とコーデリア殿より仰せつかっています」
「ぐっ………」
ルミネはちらりと部屋の時計に目をやる。
「……私たちの方で、処理する時間はあるのかしら…?」
「2週間お待ちします。その後、破壊した残骸を私とヨコハマの人間に立ち会わせてくれるようでしたら、問題はコウベの『勘違い』ということで解決するでしょう」
「……も、もちろんですわ。わたくしたちには、そんな大それたことをする気なんて、これっぽちもありませんもの」
ルミネは立ち上がると、外で控えていたメイドに呼びかける。
「ひまりさんとヘルガさんを呼んできて! 至急よ!」
風海ナギのお屋敷。年末の冬の空。寒々しいが遠くの青まで見渡せる、とても透き通った気持ちの良い天気だった。
まおと初めて出会った日もこんな空でしたかね。
ナギはベランダで洗濯物を物干しにかけていく。そういえばあの日も、濡れてしまったまおの漫画を干していましたっけ。
隣ではツバキがそれを手伝っていた。
「まったく、風海ナギともあろうものが…洗濯物など干してのんびり過ごしているだなんて…」
「なんですか? まだ私に下剋上をしてほしいのですか?」
ナギは怪訝そうな顔でツバキを見る。
「貴方にはそうする理由と権利があるはずですよ」
ツバキはなおも真剣な表情だった。それにナギはため息をつく。
「貴方が何を企んでいるのかは知りませんが……もういいのです。私には、まおがいてくれたら……それだけで十分」
ナギは微笑む。そして改めて空を見上げるのだった。
ウラ喫茶【イゾルデ】。昼下がり、多くの客で賑わう。
そこで客に給仕するまおの姿があった。メイド服姿で屈託のない笑顔を浮かべる。
「イゾルデにとても美味しい紅茶を入れるメイドさんがいらっしゃるって聞いたから来たけれど、あなたのことだったのねえ」
高級そうなスカーフを巻いた老婦人がころころと微笑みながらまおに話しかける。
「えへへ~、そう言っていただけると嬉しいです。お客様」
まおはそれに感じ良く返事をする。
「円堂さん、ひまりさまがお呼びよ!」
給仕長がまおに声をかける。
「表の車で待っているそうだから、早く行きなさい」
「はい、わかりました」
まおは老婦人に一礼すると、給仕道具一式を厨房に戻すと手を洗い身支度をする。
そして店の裏口から出ると、地上へと上がる。
目の前に深茶色のリムジンが止まっている。噂に聞くところによるとフランス製だというオシャレなひまりの車だった。
すると後部席のウィンドウが下がり、中からピンク髪の少女が顔を出す。
「やっほ~、まおちゃん」
「私の車には湯沸かし器が付いてるのよ~」
車内での移動中。対面で座る2人。ひまりは椅子の横の湯沸かし器からポットにお湯を注ぐ。
「新しいフレーバーが入ってねえ、ぜひまおちゃんにも飲んでほしいの~」
そう言い、カップへとお茶を注ぐ。
「あの、ところでお話って」
「ああ、それはね~、ルミネ様が今後のことでまおちゃんにお話があるんだって~」
「それはこの前の?」
「うん、まあそんな感じ~」
ひまりは笑うとカップをまおに渡す。
「ルミネ様、まおちゃんのこと高く買ってるからどうしてもって。私も最初はハンタイだったけど、でも言われてみれば、確かになって。私たち給仕部門の役目は美味しいお茶をお客様に提供することだから、優秀な人材は必要だもの」
「そうですか…」
「そう、だからお話を受けてくれると嬉しいなって。それにこんなこと言いたくは無いけど、ナギちゃんのためにもお金必要でしょ?だから、前向きに考えてほしいな」
「そうですね」
もうナギとルミネ様のわだかまりも消えたのだろうか。少なくともナギが必死になって戦い続ける必要はないのかも。そうすると今後のことも考えていかなければいけないのかもしれない。
まおはそっとカップに口をつける。
「甘くてとっても美味しいです。これ、なんのフレーバーですか? ……これならナギ姫も飲んでくれ……そう……」
カチャン、とカップとソーサーがまおの手を離れ車の床の上に転がる。そして座席により掛かり眠り始めるまお。
「お疲れだったのかな、ぐっすり眠っちゃって…」
ひまりはそっとまおに近づく。にこやかな目がかすかに開きそこから青い目が覗く。
「油断しちゃダメだよ~。私はルミネちゃんの為ならなんだってするんだから」
ひまりはまおの垂れた前髪を触れる。
「ふふっ、可愛い」
<後編に続く>
(→ 後編)
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