仙台市民活動サポートセンター(元BEEB)
2025.11.29|プログラム A|建築スタディツアー
仙台市民活動サポートセンター(元BEEB)
2025.11.29|プログラム A|建築スタディツアー
仙台で建築文化を考える・話し合う日をつくろうと、2025年度からはじまった「せんだい建築文化DAYS」。
今年のテーマは、−記憶と風景の間にある、まちの奥行き− です。
1日目のプログラムAでは、「仙台市市民活動サポートセンター(元BEEB)」の建築スタディツアーを開催しました。この建物は、戦災復興で整備された仙台の市街地を横断する「広瀬通」の風景のなかで、周囲のビルとは異質なきらめきを放っています。そこには設計者である原広司(建築家)のどのような思想があったのか。ゲスト講師を務めた髙橋響さんによる解説・論考をご覧ください。
よく分からない建物?
この作品はおそらく、仙台のなかでも指折りの「よく分からない建物」だと思います。四角いビルが建ち並ぶなかで、氷山を切り出してきたような、その鋭い表面は異彩を放っています。そんな特殊な出立ちも相まって、中で何が行われているのかの想像もつきにくい。ついでに恥を晒せば、私もつい最近まで一体何の建物なのかを知らずに過ごしてきました。この不思議な形は、どのように生まれたのでしょうか。
その謎を掘り下げる前に、基本情報を紹介します。本作は「BEEB(日専連仙台会)」と名付けられ、1989年に広瀬通の一角に完成しました。その名の通り、元は日本専門店連盟の会館として建てられ、現在は「仙台市市民活動サポートセンター」として使用されています。運営主体は変わりましたが、事務所や会議室、地下のシアタールームといった内部の機能は、往時から引き継がれています。中に入るとガラス屋根の吹き抜け(アトリウム)に出迎えられ、上階の各部屋からは、広瀬通を見渡すことが可能です。とりわけ目を惹くその外観は、白いタイル、金属パネル、さらにはガラスで表面が細かく切り替わる鮮やかさが特徴です。
建てられた当時を歴史的に振り返ると、建物が別のモノのイメージを喚起することをよしとするポスト・モダニズムという建築学の潮流と、「24時間戦えますか?」というCMが一斉を風靡した、戦後日本経済の絶頂が重なった時期に竣工しました。本作の開館当初に配布されていたパンフレットには “人と街のアーバンアメニティ。都市生活者のクラブハウス” とのコピーが添えられており、華やかなバブル文化の追い風を想像させられます。
そして本作を設計したのは建築家・原広司。宮城県民には馴染み深い「宮城県図書館」(1998)をはじめ、「京都駅」(1997)などの名作を手がけました。原は設計活動を展開する傍ら、東京大学生産技術研究所で教鞭を執りつつ世界各地の集落を調査した研究で成果を挙げています。さらに原の下からは、今を時めく建築家・隈研吾をはじめ、建築界のノーベル賞とも言われるプリツカー賞を2024年に受賞した山本理顕など錚々たる人物が巣立っています。こうした研究・設計・教育という多方面で功績を残した影響力の大きさから、原は日本の近代建築史を語る上では欠かせない存在だと言えるでしょう。
原が本作を手がけたのは、彼が都市の中心部で建物を設計する時期にあたります。それゆえ本作には、原が都市で試みた実験の様子が随所に見て取れるのです。ここからは「よく分からない建物」をひもとくために、作品の具体的な見どころを、原が残した文章とともに考えていきます。
常識はずれの会館建築
改めて建物全体を見てみましょう。[図1] まず一目見て分かるのは、両脇の建物と高さが揃えられていることです。しかし、その高さにしては階数が少なくなっています。隣の建物が8階建であるのに対し本作は7階建。当然のことながら、階数が少ないのであれば高さを抑えた方が、高さに余裕があれば階数を増やした方が経済的です。しかし原はあえてその定石を外すことで、内部では天井の高さにゆとりを生みつつ、外観上は両隣の建物とともに筋の通った美しいスカイラインをつくりだしています。
もう少し外観を観察してみましょう。すると、デザインがおよそ中央で上下に二分されていることが分かります。尚かつ1階ごとに異なる意匠で、同じ形状のフロアはありません。オフィスや会館は同じ形を積み重ねるのが常識なのにも関わらず。そうだとすると、ここで浮かぶのは、なぜ原はこうした操作にこだわったのか、という疑問でしょう。
二層の構成と光の反射
まずは上下の分割について。実は原は、本作の数年前に竣工した「ヤマトインターナショナル」(1986)というオフィスビルでも同様の分割を試みていました。原は当時それを「敷地周辺は、第1に交通騒音によって、第2に景観的に、かなりの混乱が見られる。特に交通騒音がひどいので、オフィス空間を上のほうに持ち上げることによって隔離を図った」[*1] と、説明しています。たしかに本作も、閑静とは程遠い周辺環境に囲まれています。おそらく同様の理由で建物を分割、オフィスや会議室などを上層に割り当てられたのだと考えられるでしょう。
蓋を開けてみれば単純な話です。しかし、原のねらいはこれに限ったものではありませんでした。ヤマトインターナショナルに戻ると、その下層部と道路の間には水盤のある中庭が設けられています。[図2] それによって、中庭で周囲からの喧騒を緩衝させつつ、取り込んだ光が反射する様子を上層から眺められるものとしてデザインしたと説明しています。
それを踏まえて本作のアトリウムに向き直ると、その中庭とどこか似ていないでしょうか。[図3] 具体的に説明します。本作は南向きに建っているので、ガラス屋根からは光が差し込みます。その光はよく磨かれた黒い石の床に届きます。[*2] 黒は乱反射を抑えられるため、水盤のように光の像をきれいに映し出します。さらにそれを囲う渡り廊下の配置に加えて3階からも、ガラス屋根を通してアトリウム内を見られる。つまり、光を入れる、像を反射させる、そこに視線が交錯するという関係が同じように成立しているという点が共通しているのです。
この一連のデザインで特筆すべきは、原がそこまでして光の反射にこだわっていたことです。ここにはどんな目的があったのでしょうか。これは次節で合わせて検討します。
風景を分解し、遠送する
つづいて上層部の複雑な壁面を見てみましょう。[図4] 実はこうしたジグザグのガラス壁は、同時期に原が手がけた住宅作品でも見受けられます。原はその作品の説明で、折れ曲がるガラス壁を「風景を「遠送する」」[*3] ものとして捉えていた、と述べています。どういうことでしょうか。その遠送の効果について「ガラス面が複雑に屈折していればいるほど奇妙な位置の移動が起こるし、実際にはたとえば遠くの空を「重なっていくもの」として運んでもいる」[*4] と説明しています。つまり原は、像が実際の距離を超えて思いも寄らない重なり方を見せることに関心を抱いていたと考えられます。
それを念頭に置いて本作の上層部に戻ります。ガラスの面には分解された都市の風景が映り込みます。少し立ち位置が変われば、太陽の角度が変われば、この表面は不断に変化し続けます。ここで思い出したいのが、原が反射する像を建物のなかに引き込もうとしていたことです。要するに、ガラスは床に反射した像や、その周辺で振る舞う人やものの像を捉えるスクリーンのようにはたらきます。原はこうした効果によって、内外の風景を共鳴させ、増幅させていくことで「境界をあいまいにする」[*5] 現象を目指していたと振り返っています。
自然の形
つづいて建物の中にも目を向けてみましょう。おそらく、シャープな外観とは異なった印象を受けると思います。その理由として考えられるのが、至る所に施された装飾の形です。[図5] これらの独特な装飾は大きく2つに分類できます。1つは雲、煙、樹冠、鳥、星座といった自然がつくりだした形。もう1つは三角屋根や櫛形アーチ、正方形を組み合わせたパターンなど、原初的な建築物によく見られる形です。そしてこれらの装飾には、ある共通点があります。どちらも、人間が住む大抵の場所に存在する形なのです。そう、これは集落調査から得られたものです。原は、人間が経験する普遍的な形を組み合わせて、装飾を練り上げていました。加えて、装飾は同じように見える形同士でも微妙に差異があります。これもまた集落から学んだことで、原は「材料が同じなら、形を変えよ。形が同じなら材料を変えよ。」[*6] との格言を残しています。
急いで付け加えたいのが、いずれも微妙なグレーで塗り分けられていることです。ここにはおそらく、光との関係があると考えられます。先ほど紹介したように、原は「境界をあいまいにする」と言っていたのでした。微妙なグレーの塗り分けは光を受けて、別々の形として独立して見えることもあれば、一体の形に溶け合うこともあります。装飾の境界もまた、刻々と変容を遂げるのです。
むすびに
以上をまとめると、本作では断片的な形とその集合を、どのように経験できるかが一つのテーマだったように思えます。反射した像はガラス面で分解・重畳させられ、装飾の形も同様の操作が意図されていました。それでは、そうしたデザインは何を目指したものだったのでしょうか。最後にその長い射程を眺めてみたいと思います。
これにまつわる興味深い一文が残っています。「私たちの記憶は継起した出来事の全体をとらえることはできず、「断片化した場面」の重ね合わせを組み上げているようである。この断片化した場面を適当に組み合わせて、私たちはその都度生きてきた全体を把握する」[*7]
つまり原によれば、私たち人間は何かをそっくりそのまま記憶しているということはなく、あくまでも断片を都度組み立て直すことによって過去を、そして今を把握しているのだそうです。原はそれを「情景図式」と呼び、晩年に至るまで重視しました。そうだとすると、本作での断片の操作は人間の記憶の仕組みに対して、何らかの働きかけを行おうとした結果だということになるでしょう。
なかなか奥行きのある文章で、簡単に要約することはできませんが、少なくとも原は建築を、人間の意識に対して普遍的な何かを喚起するはたらきをもつものとして考えていたことは間違いないでしょう。本作をから受け渡されるさわやかな感覚は、こうした思想に裏打ちされているのです。
参考文献|
[*1] 原広司「〈縁日〉あるいは〈花祭り〉としてのヤマトインターナショナル」『新建築』4月号、p.146、新建築社、1987。
[*2] 現在は改修によって木目調のシートが貼られていますが、元々はエントランス付近に残る黒い石張りが床一面に広がっていました。
[*3] 原広司「森の輸送」『新建築』11月号、p.27、新建築社、1987。
[*4] 同上
[*5] 原広司「呼びかける力」『住居に都市を埋蔵する』p.23、平凡社、2024。
[*6] 原広司『集落の教え 100』p.168、彰国社、1998。
[*7] 原広司「多層構造論のためのノート」p.47、注5。
髙橋響|Hibiki Takahashi
研究者。1997年宮城県生まれ。2023年より東北大学都市・建築学専攻博士後期課程所属。専門は近代建築史。
写真:齋藤太一 ※特記ないもの
協力:仙台市市民活動サポートセンター
助成:(公財)仙台市市民文化事業団