私たちは、横浜市磯子区 屛風ヶ浦地区の久良岐丘(くらきがおか)自治会です。
私たちは、これまで紙面『自治会だより』を毎月発行してきました。紙面での発行は、これからも続けていきます。しかし、パソコンだけでなくスマホやタブレットがこれだけ普及している時代に、自治会活動の様子を伝えるとともに、自治会活動へのそれぞれ参加を働きかけるにはホームページを開設することが、全世代にとって有効だと気づきました。とりわけ、子育て世代にも伝わる様なホームページにしていきたいと思っています。ぜひ、ご覧いただき感想なり、注文なりをお寄せいただきたいと思います。このホームページが、久良岐丘で暮らす一人ひとりの伴走者になりたいと願っています。日々の生活の中で、ちょっと困った時、あれっと悩んだ時、解決のヒントを見つけるお手伝いをしたいのです。久良岐丘で暮らす、久良岐丘の(今の)動きを知る、久良岐丘の過去を知る。そうしたことの情報共有・発信の入口役(これを「ポータルサイト」と呼びます。)を果たしたいと思っています。
また、ホームページとは別に、LINEオープンチャット・グループも作ることで同じ町で暮らす者同士、情報を受発信して、一緒にコミュニケーションの輪を広げていきたいと思っています。久良岐丘に暮らす皆さんの参加、よろしくお願いします。 2025年3月
自治会とは何ぞや?と 聞かれたら
私(会長)なら、交流と助け合いと答えます。「自分のため」、「みんなのため」住民同士が助け合って、住みよい地域社会を作るために自治会はあると思っています。私たちの暮らしは、大災害や凶悪犯罪だけでなく、ますます不安に感じることが増えているように思います。例えば、新型コロナウィルスが蔓延した3年ちょっとの期間、人と人が街中で会うことさえ制限された時期があり、その後も控えるようにしてきました。それまで当たり前のようにあった暮らしや自治会活動が狭められたり、遠のいたりしたことは確かです。でも、人々が本当に求めているのは大災害や犯罪といった大事が起きたとき、いざという時の「助け合い」ではないでしょうか。人は、労わりあい助け合うことの出来る存在です。そのためには、日頃から挨拶を交わす、言葉をかけあう、他人のことも気に掛ける、そんな地域になることではないでしょうか。自治会は、人と人を結び付ける交流の機会をこれからも続けていきます。それは、普段からもそしていざとなった時にも助け合う、そんな地域になってほしいからです。当たり前のようにあると思われている自治会です。でも、実は諸先輩たちが苦労に苦労を重ねてつくり、続けてきた自治会なのです。今の私たち役員の役割は、自治会というこの贈り物を次の世代に引き継いでいくことだと思っています。自治会があることでしか得られない、掛けがえのないこの豊かさを次の世代にも受け取ってもらいたいから、私たち役員はこのボランティア活動を続けています。皆さん、お一人おひとりの参加をお待ちしています。一緒に自治会活動を続けていきましょう。
久良岐丘自治会
◎ 区域 所在地は、神奈川県横浜市磯子区です。
中原三丁目12〜15、森六丁目11と17~20の一部、森六丁目21〜37
◎ 地区のあらまし
昭和30年代の終わり頃、森6丁目と中原3丁目に広がる森林を横浜市が開発した最後の新興住宅地です。「久良岐」の名称は大宝律令の時代にさかのぼる武蔵国久良岐郡に源があり、明治時代には神奈川県久良岐郡となり、現在の久良岐公園などに残されています。 京浜急行線の屏風浦駅と杉田駅の間の丘陵地帯で「坂の街」とも言えます。現在の住民の出身地は北海道から沖縄まで全国に広がっています。住民の職業は、磯子の海に出現した大規模な工業団地に大企業が進出した結果、その従業員・OBが多くを占め、また公務員や近隣の商店主・事業主もいてバラエティに富んだ構成となっています。自治会結成後半世紀を経て初期の住民の多くは次の世代に移り、またミニ再開発による小規模な住宅が増えてきて高校生以下の人口が増えています。
◎ 地区の宝
明治期に横浜が世界に開かれた港を中心に発展したように、久良岐丘自治会の宝は縁あって全国から集まった人のつながりです。言葉も文化も価値観もそれぞれの出身地の異なる風習を持っていたにもかかわらず、自治会結成と同時に様々な活動を通じて人の輪を作ってきました。初期の住民が高齢化するとともに活動が停滞した時期もありますが、今は「防犯」「防災」「支えあい」「環境整備」といった自治会組織がそれぞれの課題に真剣に取り組み、懇親を目的としたサロン、焼き芋会、餅つき大会、各種の趣味のサークルにも多くの参加者が集い、長寿会、子供会の活動も活発です。古い歴史を持たない分しがらみの無い自由な空気と、良い街にしようとする熱意をこれからも久良岐の宝として大切にしたいものです。
自治会館
『つながりの館』 自治会館は、私たち久良岐丘自治会にとって日々活動の場であり、コミュニティをつくり続ける場であり、世代を超えて交流する場 であります。この建物は、私たちにとってシンボルであり、地域住民同士のつながりを深めるための 『つながりの館』なのです。
所在地 横浜市磯子区森6丁目16番2号
名 称 久良岐丘自治会館
敷地・建物 敷地面積 221.64㎡ 建築面積 96.93㎡ 延床面積 177.12㎡
建 築 鉄骨S造 2階建
竣工年月 平成8年11月
標 高 30.3m
自治会館へのアクセス
◎屛風浦駅(京浜急行本線)徒歩10分
◎杉田駅(京浜急行本線)徒歩18分
◎磯子駅(京浜東北線)徒歩24分。磯子駅前からバス「磯子車庫前」下車、徒歩12分
◎新杉田駅(京浜東北線・金沢シーサイドライン)徒歩22分。駅から徒歩5分「境橋」からバス「白旗」下車、徒歩11分
『久良岐』の名の由来
1878年(明治11年)に行政区画として、「神奈川県久良岐郡」が発足した当時の郡域は、現在の横浜市中区、西区(浅間町、岡野等を除く)、磯子区、金沢区(朝比奈町等を除く)および南区の大部分(六ツ川四丁目を除く)、港南区の一部(芹が谷・東芹が谷・上永谷・下永谷・東永谷・丸山台・日限山・上永谷町・野庭町の各町を除いた地域)に及びました。それ以前、安政6(1859)年に開港した当時の横浜は、武敵国久良岐郡横浜村といわれていました 。その後、明治13年の郡区町村編成の際、久良岐郡から独立し「横浜区」が設置され、 ここで現在の磯子区は久良岐という地名が消えることになります。その「久良岐」の名が歴史上最初にに記されたのは、今から1500年ぐらいの昔、 朝廷の直轄地「屯倉(みやけ)」を4ヵ所設けたうちの一つが後の久良岐郡(現在の磯子・中・港南・金沢区一帯)といわれているようです。そもそも「久良岐」の語源ですが、『武州久良岐郡地名考(抜粋)』によると久良は古語の座《くら》で、すべて人のあるいは物の位置すべきところを《くら》と呼んだのであろうと。つぎに岐とは城《き》のことで、城とは、堀や柵を設け外敵から守るため内外を区切った一区域のことだそうです。こうして見てくると、現在の磯子区全域は長らく「久良岐」という地名が付いていたことになりますが、今日では、中村川と堀割川の分岐点にある久良岐橋、久良岐公園、横浜市能楽堂(久良岐能舞台)にその名をとどめているだけです。
『屛風ヶ浦』の由来
屏風ヶ浦とは町名、地名とも存在しませんが。 現在の金沢区富岡、磯子区杉田、屏風ヶ浦、浜、中区本牧にかけての波打ち際。その昔、切り立った山が続き、その崖の中ほどに樹齢数年と云われる松の木が生え、新緑と海の青さが何とも云えない美しさを作り出していたと云われていました。また、その昔、江戸湾の沖合より船から見るとまるで屏風のように連なって見えたと言われ、それがこの名で呼ばれる由縁でしょう。その後、屏風ヶ浦と呼ばれるようになったと思われ、屏風ヶ浦という呼び名になったのでしょう。 《近くの屛風ヶ浦町内会さんによる地区紹介文より》
「屛風ヶ浦」と「屛風浦」は、違いがあるのか?
上の記事にあるように、「屛風ヶ浦町内会」といいます。他にも、「屛風ヶ浦地域ケアプラザ」「屛風ヶ浦保育園」があります。国道16号線には、「屛風ヶ浦交差点」や「屛風ヶ浦橋」があります。環状2号線には「屛風ヶ浦バイパス」があります。
一方、「ケ」のない代表は、「屛風浦駅(京急本線)」と「屛風浦小学校」ですが、他にも「ケ」のない名称は多くあります。屛風浦駅も、戦後までは「屛風ヶ浦駅」と言っていた記録があるそうです。駅のそばにある交差点は「屛風ヶ浦駅前交差点」ですが、駐輪場は「屛風浦駅自転車駐車場」です。
もし、皆さんが「屛風ヶ浦」と「屛風浦」は違いがあるのか? と聞かれたら、どうしますか? 結論は、違いはないのです。もっと言ってしまえば、同じなのです。ひらがなで書けば同じです。では、どうして違うのか? これは、日本語の不思議さ、曖昧さとしか言いようがありません。きっと、その名称を付けた時点での決まりがそのまま引き継がれているのでしょう、としか言えません。日本語は不思議なのです。