家久遺跡は、越前市街地の北約3㎞の地点、家久町吉野瀬川左岸に形成された自然堤防上に立地する遺跡である。この付近には、対岸の鳥帽子形遺跡をはじめ、西部の芝原古墳群、北部の船岡山古墳群などが分布している。
発掘調査の結果、律令期から中世(8~16世紀)にわたる大規模な集落遺跡である事が判明した。堀立柱建物跡、井戸、溝、土壌、ピット等の遺構と共に多数の副葬品も出土し、全国的にも極めて珍しい中世墓が検出された。この墓は隅丸長方形の墓壙内に礫を積み上げて構築されたもので、全国的にも極めて特異な構造形式といえる。副葬品の特徴等から平安時代末期から鎌倉時代初期頃に造られたもので、また品数、質ともに際立っている事から武生地域の中でも相当有力な武士階層が葬られた公算が高い。
木村氏は、その系図によれば近江源氏佐々木氏の嫡流、木村源三成綱の末裔(まつえい)といわれ、嘉(か)兵衛(へえ)重善(しげよし)のとき、この家久(当時は大井村と言っていた)に土着したと言う。同家の記録によれば、寺子屋創設は四代の儀(ぎ)衛門(えもん)善道(よしみち)に始まる。すなわち儀衛門が享保年間(1716~)にこれを創設し、慶応3年(1867)許右衛門周応の死去まで、5代1世紀半の長きに及んでいる。
この五代にわたる師匠の内でも、もっとも学識に優れていたのは、善通の子の周房であって、その門人帳には地元の家久は勿論のこと、本保村以下32ヵ村にわたり、実に319人の子弟名が列記されている。
尚、芝原との道沿いにあった八幡宮(畷の天狗の石祠と伝わる)は重善の長男である通善が勧請した。
菅公(菅原道真)を祀る。この社は中島勘右衛門家の私社であるが、祭礼は中島家の依頼を受けた集落の青年団(現在は壮年同志会)が協力して盛大に行われる。誠に珍しい慣例である。
社地は昔、除地になっていて、中島家文書 明治6年(1873)「地券証書替願」によれば、「大縄畑反別八畝壱歩」とあり、この大縄という言葉も、大将軍の転訛と考えられ、この社地もまた、何か大将軍信仰に関係のあった地かとも考えられる。
尚、「大井」とは、家久の昔の村名で、中島家所蔵品にも記されている。
主 祭 神
・譽田別之(ほむだわけみ)尊(こと)
由 緒
社伝によれば、長徳3年(997)第66代一条天皇の御代、丹生郡大井村船岡山に石清水八幡宮(京都府)より神霊を勧請(かんじょう)し、社殿を建立したと伝えられている。(南越温故集)
霊験著しく五穀豊穣・家内安全・疾病祈願、村民こぞって産土(うぶすな)の神として崇拝したという。
社殿は幾度の災害や戦乱にあい、旧記録は焼失した。郷人はその後、社殿を再建し信仰のよりところとした。文化10年(1813)現在の拝殿を改築し安寧を祈願した。その当時の棟(むな)札(ふだ)が現在も残り住時の上棟祭状況が記されている。
現在の本殿は昭和33年に再建した。家久町民の崇敬心は篤く今日に至っている。
橋が架かるまで、この付近で日野川を渡っていたことが「福井江戸往還図屏風」に描かれています。両岸間に張った縄に沿って子船が往復する様子が、見てとれます。
白鬼女橋の西側に明治35年頃まで大番町といわれた集落が繁栄していました。鉄道のなかった物資輸送の主力は舟でした。三国港からこの地は、8里(約32Km)、江戸時代、公領及び諸大名の年貢米などは、この地から福井、三国へと運ばれ、帰り舟の物資はこの地で積み替えられ丹南の各地へ分散していった。一部は小さな船で、一里塚近くの柳原を経て府中(武生)へと運ばれていました。明治29年に鉄道が開通するとその後、舟便は衰えてしまいました。その後の日野川拡張工事により大番町は立退きとなり三ツ屋をはじめとする近郷へ分散しました。大番町の舟玉神社は鯖江(下司)に移設されました。
長谷川周一先生は、庄屋長谷川億平氏の弟として天保13年三ツ屋(家久町)に生まれ、若き頃 加藤秀庵の門人として長く江戸で医術を修行、勉強した。
江戸より帰国後、福井藩医 橋本玄哉先生に弟子入りし、病院に住み込みながら医術を習得。明治3年には医師の免許を取得した。また 学校の助手・寄宿長としても勤めた。
明治4年 家久村に疫病が大流行し村人は大変困っていた。これを伝え聞いた周一先生は学校に願い出て、村民の治療に専念した。
たびたび玄哉先生から学校への復帰を懇願されたが、疫病が治まっていなかったため そのまま治療を続けた。
明治4年11月、中央の太政管よりの呼び出しを受けた玄哉先生は周一先生に同行を求めた。しかし先生は、疫病に感染していたので全快次第東京へ赴くと約束されたが、病気はだんだん悪化するばかりであった。明治5年4月、30歳の若さで没した。
この石碑は、周一先生によって助けられた人々が寄り集まり、先生の遺徳を偲んで立てられたものである。
「手のあとを 土にのこして 菊の苗」 は兄・億兵氏の句である。
旧一里塚は、この碑より南に30m余に在り、道路拡幅工事に伴い現在地に移った。街道両側に松の木が植わって休息できる5坪余のスペースがあったと伝わっています。松の木は、枯れてしまいました。
府中から流れる御清水川(尼寺川)は柳原を通り日野川に注いでいる。江戸時代、柳原にあった一里塚の東側には、小舟専用の舟だまりがあった。白鬼女から荷を積んだ小舟はロープで引き上げ、舟だまりに係留されていたという。
柳原は、いわば陸路と水路の要地であったので、茶屋や料亭が軒を並べ、商家も集まっていて賑やかであった。料亭は数軒あったが中でも伊勢屋は風光明媚な地にあり、三味線の音がたえなかったという。茶屋では、うちわや・あめや・中茶屋・はけや・かせやなどが、旅人や人夫を相手に繁昌していた。特に「しんこだんご」は柳原名物として明治末期まで売られていた。