33年ネット諸兄姉どの(2025.11.08)
鬼退治とそれに連なる鉄小史
平安時代中期の一条天皇(大河ドラマ「光る君へ」の主要人物の一人)の時代、都の若君や姫君が次々に失踪する事件が発生した。陰陽師・安借晴明の占いによって、大江山に棲む鬼王の一党の仕業と判明し、源頼光と藤原保昌(やすまさ-和泉式部の夫になる。)に追討の勅命が下る。両将は、八幡・日吉・熊野・住吉の神々に加護を祈り、頼光は配下の四天王 (渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武 )、保昌は太宰少監のみという手勢で深山幽谷を分け入り、洞窟を抜けた先にある「鬼かくしの里」に入る。そこで最初に出会ったのは、鬼の命令で川辺で洗濯をさせられている女で、鬼王の城の様子をあれこれと聞き出した。さらに登ると、酒吞童子の「鬼が城」に至る。道に迷った山伏であると名乗って案内を乞うと、喜んで迎え入れ歓迎の宴をしてくれる。童子はまことに知恵深そうに見え、盃を傾けながら、酒をこよなく愛するがゆえに「酒吞童子」と呼ばれていること、昔は「ひらの山」 (比良山 )を先祖代々の所領としていたが、伝教大師 (最澄)という悪僧がやつてきて根本中堂を建てたので追い出されたこと、各地の山を転々とした末にこの山に棲み着いて、王威も神仏の加護も衰え薄れる時が来るのを待つていること、などの身の上話を語る。頼光は神々から貰つた毒酒 (神変鬼毒酒)を鬼たちにすすめ、やがて酔った竜子が寝所に入ったすきを狙って、甲肖に身を固めて押し入り、首を斬り落とす。
斬られた首は、「鬼に横道はないものを !」とだまし討ちされたことへの怒りの言葉を発して、頼光の兜に喰らいつく。だが、頼光は家来の渡辺綱と坂田公時の兜をとっさに借りて重ね被っていたので事なきをえる。一行は鬼王の首を持って都に凱旋し、帝をはじめ摂政・関白などがご覧になったあと、その首は宇治平等院の宝蔵に納められた。(以上は「大江山絵巻(14世紀頃、御伽草子にまとめられた一篇、伝承である。)」に書かれたものである。)
「誰も知らなかった京都聖地案内小松和彦著(㈱」光文堂2006.4)」
・坂田公時は、いわずもがな、足柄山、金時山でクマと相撲をとったという坂田公時である。金時山には一度は仙石原から直登、ものすごく悪い登山道だったと記憶している。足柄峠から金時山に二度のぼっている。当時は金時娘も健在だった。足柄峠から金時山への尾根の富士山の眺めは素晴らしかった。
★ 古代の鬼とは鉱山技術
鬼が「人を食う」とか「美女に化ける」といわれるようになったのは平安時代以降のことである。古代において鬼とは「権力者に従わない (まつろわぬ)民」をさした。鬼と呼ばれた人々は鉱脈を探し、採掘、 精製する技術をもった技能者 (鉱山師・製鉄族 )だつた。彼らは山中を歩きまわり、鉱脈をみつけると近くの洞窟などに住み、精製し、都まで 運び、 売りさばいていた。また恵みを与えてくれる山 (鉱山 )の神様に感謝して奉ずる祭祀集団でもあつた。古代国家において貴金属は財政を潤す財宝であり、鉄は武器や農具となる貴重な物質だっただから鉱脈をめぐる覇権争いは絶えなかった。鉱山師である鬼たち (鬼一族 )は大和朝廷にとって 貴重な存在だったが、いつ謀反をおこすかわからない反乱分子だった。全国各地の「鬼退治伝説」は、鬼を朝廷が鎮圧した歴史だといわれている。その技術・財力で朝廷の中枢に結びついた鬼一派もいた。例えば鉱山・製鉄技術を有した泰氏や小野氏がある。小野氏は鉱脈探しと山の神への祭祀を行う呪術者集団、 秦氏は採掘し精製する技術者集団だつたという。小野氏は聖徳太子の側近・小野妹子、閻魔大王の冥官・小野篁(紫式部が心酔したと云われる。)、 謎の美女・小野小町など不思議な人々を出している。彼らの血筋には古代からの異能があったと推測される (「黄金伝説』小林久三著参照)。
日本を代表する鬼が平安時代に登場する酒吞(しゅてん)童子である。彼は丹波国大江山に住む鉱山一族の首領だと伝承されている。酒吞童子の祖先は、海を越えて日本に来た航海技術をもつ製鉄族 (海洋製鉄民 )だったという。大江山周辺の丹波・丹後地方に豊かな鉱脈があった。彼らはそこに本拠地を置いたようである。
以上「京都の「魔界」巡礼」丘真奈美(PHP文庫 2005.10)
★源頼光が酒呑童子退治に用いた、鬼切りの太刀、童子切安綱(どうじきりやすつな);天下五剣に数えられる名刀にして、その筆頭。「大包平(おおかねひら)」と並び称される「天下の名刀」。大包平は、人の胴体六つを一太刀で輪切りする恐るべき切れ味を誇る。両刀とも、現存する全ての日本刀中の最高傑作のとして知られ、「東西の両横綱」と例えられることもある。現在は国宝に指定され、東京国立博物館が所蔵している。
機会があれば、博物館での鑑賞も可能である。
この時代、すでに刀剣製造技術は内製化しており、鬼=鉱山師の話は、はるか昔の話である(website)。
★鉄について;王権と交易
鉄については、「知られざる文明への道―アイアンロード」として2020.07.27日レポートし、一部我が国、日本にふれたが、どうなっていたのか詳しく再掲する。
「日本の誕生」(岩波新書吉田隆1997.6初刷)によれば
「かつて著名な古代史家石母田正は、「魏志」倭人伝の 「市」は倭のクニグ二の間の、あるいは倭国と朝鮮・中国との間の交換の場としての公的な「市」であること、女王がとくにそれを制御しょうとしていることを 重視した。また近年、考古学者の都出比呂志は、 初期国家についての国際的な研究・討論をふまえて、物質流通機構の掌握が初期国家の重要な機能であること、とくに倭王権にとっては、朝鮮半烏の鉄資源の流通機構を掌据することが、王権の存否をも左右する 重要な問題であったと 立論している。
「魂志」韓伝の辰韓・弁辰条には 「国は鉄を出し、韓・濊・倭、皆従いて之を取る。諸々の市買には皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如し。また以て二郡楽浪郡・帯方那に供給すとあり、「後漢再」韓伝には、「国、鉄を出す。濊・倭・馬韓、並に従いて之を市(カ)う」と記す。
魏が238年にの公孫氏を滅ぼし、楽浪・帯方両郡を領有すると、帯方郎に領有していた倭は、翌年ただちに使者を派遣した。卑弥呼がこのとき、大夫難升米とともに次使として「都市」牛利を派遣したことは、さきの(市を重視した)推定が 正しければ、倭王権が交易機構の掌握をいかに重視していたかを示すものである。
そして、多くの研究者が 一致して指摘しているように、交易品の中心はおそらく朝鮮半島の鉄資源であろう。鉄こそは倭が未開から文明へ飛躍する原動力であった。卑弥呼は鉄の流通機構を確保するために、魏 (その出先の帯方郡 )に依存しようとしたのではなかろうか。
古代の 日本列島では、 古くは金・銀が産出しなかった 鉄も弥生時代には ほとんど 産出しなかったが、古墳時代の中期ごろ、すなわら倭の五王のころから、 朝鮮半島からの渡来人によって、列島内でも大量に生産でき るようになった。しかし金・銀 は産出できなかった。」
イチハタ