シンポジウム
近代仏教と教育
──信仰・修養・教養──
報告者:碧海 寿広 (武蔵野大学、非会員)
渡辺 哲男(立教大学)
眞壁 宏幹(慶應義塾大学)
司会者:室井 麗子(岩手大学)
河野 桃子(日本大学)
報告者:碧海 寿広 (武蔵野大学、非会員)
渡辺 哲男(立教大学)
眞壁 宏幹(慶應義塾大学)
司会者:室井 麗子(岩手大学)
河野 桃子(日本大学)
眞壁と渡辺は教育思想史学会で3回にわたって「近代仏教と教育に関する学説史的研究」と題するコロキウムを企画してきた。それは、明治以来、近代教育(学)の確立や発展、改革の試みの背景に近代仏教(浄土真宗、日蓮主義、禅宗など)に関わる人々の思想的影響があったにもかかわらず、数少ない事例をのぞいて本格的組織的研究がなされてこなかったからである。本シンポジウムでは、コロキウムや科研研究会などを通して積み重ねてきた宗教史、歴史社会学、宗教哲学の研究者との研究交流に基づきながら、「人格」「修養」「教養」の問題に焦点をあて「近代仏教と教育」の関係を考察する。その上で今この問題を思想史的に論じる意義がどこにあるのかについても考えてみたい。
発表者の碧海寿広氏は近代仏教研究の最先端でもっとも精力的に研究を展開している宗教史・歴史社会学の研究者である。発表では、近代日本を代表する仏教学者であり、武蔵野女子学院(武蔵野大学の前身)の創設者である高楠順次郎(1866-1945)が取り上げられる。高楠は仏教思想を背景とした独自の人格主義的教育論を展開した。その教育思想の内実と成立背景が検討される。近代日本において、「人格」をキーワードに仏教思想を語った人物は少なくない。そうしたなか、高楠は国際的仏教学者としての活動を背景に独創的な人格教育論を提示した。特に大きな背景として指摘できるのが、1.西洋発の近代仏教学のブッダ観、2.キリスト教への対抗、3.英国の教育事情である。これらの諸要素を踏まえながら、高楠の教育思想を近代仏教史上に位置づけることを試みる。
渡辺哲男会員は、「随意選題綴方」を説いたことで知られる芦田恵之助(1873-1951)を同時代の「修養」をめぐる動向に位置づける。芦田が岡田虎二郎(1872-1920)に静坐を学んだことは知られているが、本報告では、さらに広い視野から、この時期に「日本心霊学会」(人文書院の前身)や「日本精神医学会」などが設立され、『教育時論』誌上でも「催眠術」に関する論稿に一定の反響があったこと、また、岡田の系譜にあたる治療者らに真宗の人びとが接近していた事実などを踏まえ、「科学」と「仏教」のはざまに精神療法的営為が成立したという歴史的文脈のなかで芦田を捉え直してみたい。
眞壁は、ペスタロッチ研究者であり西洋の哲学・教育学に深く影響を受けた教育学者、福島政雄(1889-1976)を取り上げる。福島は、実は、東京帝大生の時に浄土真宗大谷派の僧侶、近角常観が主催する求道学舎で真宗の教えに出会い、絶対他力の信仰に基づく教養論を刊行してもいる。本発表では、福島政雄の絶対他力の信仰に立つ教育思想と教養論を考察する。そこで問題になってくるのは、真宗の他力信仰に教育現実を批判的に見ることを可能にするような「否定性」の契機を見出しながら、なぜ当時の国体論や皇国史観に依拠した教育学・思想を展開してしまったのかという問いである。生命の平等を主張する仏教思想の影響を受けた少なくない教育者や教育学者も同様なのだが、ここには「時局的」という言葉で片付けられない問題がある。1930年代の宗教の可能性と限界に関する議論を参照しながらこの問題を考える。
近代仏教が学校教育、教師や青少年少女の人間形成に思想的影響を及ぼす場合、具体的には人格主義教育、修養論、教養論などの形をとっていたが、本シンポジウムではその内実を個々の事例に即して明らかにする。すなわち、碧海は高楠順次郎を取り上げながら人格主義教育の問題を、渡辺は芦田恵之助や岡田虎二郎を取り上げながら修養の問題を、眞壁は福島政雄を取り上げながら教養の問題を考察することになる。
司会は、近代化とスピリチュアリティの関係に詳しい室井麗子会員とシュタイナーの人智学や敎育を専門とする河野桃子会員である。両氏とも仏教と教育の関係を専門としていないが、狭く専門的になる恐れのある議論を近代社会における宗教と教育の問題へ広げてくれるだろう。
※ 対面+オンライン同時双方向型