コロキウム



資本主義でも社会主義でもない社会構想と教育



──シュタイナー「社会有機体三分節化」論のインパクト──  

 


企画者・報告者奥本  陽子(甲子園大学)

河野  桃子(日本大学)

西村  拓生(立命館大学)


司会者:西村  拓生(立命館大学)


指定討論者:佐藤  雅史(横浜シュタイナー学園)

吉田  敦彦(大阪公立大学)


ルドルフ・シュタイナーが1919年に最初の自由ヴァルドルフ学校を創設した際、それが彼の社会構想である「社会有機体三分節化」の一環であったことは、未だその学校の存在ほどには知られていないかもしれない。社会の中で人間が人間らしく生きるために不可欠な三つの契機――精神の自由、法・国家の下の平等、そして経済における需要と供給のコーディネーション――がそれぞれに自律的であることを求めるこの思想は、既に100年前に資本主義と社会主義の双方の隘路を先見したシュタイナーによる、大胆なオルタナティブ社会構想であった。

この構想を理解することはヴァルドルフ教育を理解するためにも実は不可欠であるが、あいにくシュタイナーの思想の中でも特に難解とされる部分の一つであり、研究者の間でも解釈が分かれがちである。ここではまず、シュタイナーが当時のどのような社会状況への応答としてそれを構想したのか、それが現実の社会に対する――けっして形而上学ではなく、ゲーテ的な意味での――観察に基づいているのか、そして自由ヴァルドルフ学校の運営にどのように反映されるべきなのか、といった視点から、この構想の理解にアプローチしたい。

その上で本コロキウムでは、さらにヴァルドルフ教育研究の枠組みを超えて、このオルタナティブな社会構想が私たちの一般的な教育の自明性を根底から揺さぶる可能性について提起してみたい。たとえば――私たちの社会では、学校教育は公的に維持されると共に民主的・政治的に統制されるべきと考えられている。しかしシュタイナーの立場では、「精神」の領域の事柄である教育を「法・国家」の原理によって統制することは、芸術作品の美的価値を民主的に討議するのと同じくらい不条理である、ということになる。――このようにシュタイナーの「社会有機体三分節化」論は、私たちの教育の公共性論や学校論、教師論などにラディカルな問い直しを迫るものでもある。そのインパクトを展望してみたい。


※ 対面+オンライン同時双方向型