エド.ネメシュ神父 Sr.阿 部 光 子
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はじめに この「気づきのエクササイズ」は,カナダのグァルフにある霊性センターから出されている「オリエンテーションズ」(編者,J.Velyri,S.J.)から抜粋し,それを更に,わたしたちに理解しやすいように書きなおしたり,加えたりしたものです.
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「気づきのエクササイズ」の目的
神と人間との関りの接点,即ち出合いの場は「心の動き」です.それに気づき,自分のものとして認め,またその奥にあることを識別することができるようになると,私たちは,日常生活のすべてを通して,神と関ることができるようになります.これがねらいです.
使 い 方
この中の6つのステップをていねいにふんで,はじめてこの識別力が身につきます.従って,第1ステップからはじめて,それが割合によくできるようになってから(人によってその期間は異りますが‥‥‥第2のステップに移れるようになります.このようにして,数週間にわたってエクササイズをしながら,それぞれのステップをふんでゆかなければ,第7のステップである本当の「気づきのエクササイズ」(意識の究明)は身につかないと思います.
注 意
一人でこのエクササイズをすることは勿論有益だと思いますが,同じようなエクササイズをやりたい仲間と一緒にすることはいっそう助けになるでしょう.その場合,自分の心の秘密まで話す必要はありません.むしろ,できごとそのものや,自分と他人のプライバシーにふれることを話し合わない方がよいと思います.只その体験は,どの領域における体験だったかを一言でのべるだけにとどめたほうが賢明だと思います.
分ち合ったらよいと思うことは,このエクササイズの間に感じたこと,気づいたこと,或は,数日間にわたって日常生活の中で,このエクササイズを続けてきた体験と,それにともなう「心の動き」です.それによって,お互いの確認にもなり,心も豊かにされるのでしょう.この手近かにある手段をよく使うなら,日常生活の中に祈りが根をおろしすべてを通して神との関りにますます深く入ってゆくことができるようになることを約束できます.
み国のための捧げに心を合わせて,
「気づきのエクササイズ」(意識の究明)を身につけるために
-日常生活の中の主に働きがけに気づくためのいろいろな方法-
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自分の体験を省みて,主の働きかけを見出すには,相当の熟練がいります.さまざまな体験の深い意味をわかるためには,種々な方法と段階があります.このエクササイズは,これらの種々な方法の一つ一つをとりあげて,自分で行ってみることです.こうして,それぞれの面から,段階をふみながら,時間をかけて,いろいろな要素に気づき,生活の様々な経験を識別することができるようになっていくのです.
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私は,この半日(または一日),さまざまな心の動きを経験しました.たびたび,それほど意識しないで,このような心の動きに影響されて,考えたり行動したりしてきました.時には,こうした心の動きや感情を無視したり,コントロールしたりして,自分の中に何が起こっているかに,気づきそこなっています.ですから,健全な人間として充実した毎日を送るためには,心の中に起こるさまざまな体験を,自分のものとして認め,それに直面しなければなりません.
a) 主と共にいる自分に気づき,それを味わうようにします.
b) そして,リラックスして心を静め,過ぎ去った半日(または一日),自分の中に起こった心の動きを,何も除外しないで,できるだけ意識にのぼらせます.まず,この4つの中からどれを経験したでしょうか.①喜び ②悲しみ ③おそれ ④怒りそしてさらに,その奥にあるこまかい心の動きや感情をはっきりさせるために,次のようなことばは,ヒントになるかも知れません.(混沌とした柔かい,平和な,いや気,にがい,落胆した,身構えた,一体感,疎外感,愛の実感,すねている,嫉妬心,敵意,あこがれ,ひややかな,よそよそしい,安心,腑におちない,鳥肌がたつ,手も足も出ない,恥ずかしい,用心深い,いらいら,憤慨,驚き,肌に合わない,煩わしい,生きがい,大胆な,ほっとした,怖い,愛されている,とまどい,しらじらしい,興奮した,困惑した,フラストレーション,親近感,反発,充実感など)
c) 体験したことに対しての自分の反応,また,心の中で感じていることを明確にし,ことばで表わして,自分のものとして認めるようにします.できる限り,自分に対しても,神に対しても,正直であるように努めます.
d) 主な反応や,心の動きの中から,一つ,または二つを選んでそれらを呼び起こしてでき事を,思い起こします.そして,その感じの中に留まって味わいます.何がその感じを呼び起こしたか,また,その奥に何があるかを,できるだけ明確にします.できれば,それを書きとめることも助けになります.
e) 自分の心の動きや,感じていることについて主と話します.主はすでにご存知ですが,実際に,それを主と話すことによって,呼びかけを感じたり,大切なことに気づいたり,生活の中でそれを位置づけたり,そして,ある時,いやされることもあります.
時々,私たちは,心の中に起こった反応を,ある一定の側面からしか見ないことがあります.しかし,もう一度,正直にそれらを見つめるなら,さらに,その奥にあることまで発見することができます.この奥にあることは,さらに深い,別な感情や価値観や態度や,満たされていないニードであるかも知れません.例えば,私が,〝混沌〟としている心の動きを感じたとします.しかし,この混沌とした心の動きをよく調べてみると,その奥にある,自分の本当の心の反応は,びっくりするほどの敵意であることに気づくかも知れません.または,感謝の気持を見てみるとき,実際に私の心を動かしているのは,本当の感謝の気持ではなく,感謝を充分表わしていない,罪責感があることに気づくかも知れません.安らぎという感情は,何かを完成したときの感じとして表われるかも知れませんし,一方では,逆に,他人に挑戦することへの,恐れの感情として表われるかも知れません.また,「平和」という感情の奥に,何かを成し遂げた充実感もありますが,逆に,相手との対決を恐れて,無理に自分を落ち着かせようとした結果の,にせ平和であるかも知れません.ある時は,心の中で感じている困惑は,私の,隠れている一つの態度や,大切にしている一つの価値観(例えば親として,自分はいつも正しくなければならないという価値観)を表わしているかも知れません.またある時は,満たされていない基本的なニード,例えば,もっと愛されたい,もっと自分も受け入れ,人からも受け入れられたい,心のきずなをもっと実感したい,自分の足で歩く充実感を味わいたい,などのようなことがあることに気づくかも知れません.
a) 主と共にいる自分に気づき,それを味わうようにします.そして,心が照らされるように祈ります.
b) 第一のステップにあったように,自分の中に起こった本当の心の動きを,何も除外しないで,できるだけ意識にのぼらせます.
c) 主な心の動きや感情の中から,一つか二つを選んで,しばらくその心の動きに留まって味わい,心の中に起こっていることは何を表わしているのかを,さらに深く見られるように,主と共にそれを直面します.そして,その心の動きを引き起こしたでき事を見ながら,その心の動きに留まり続けるようにします.
d) 表面に出てくる心の動きだけではなく,その奥にある本当の心,あるいは,自分の身についている態度,価値観,充分満たされていないニードを,発見できるように主に願います.
e) 発見したことを主と話して,示していただいたことに対して感謝します.詩編や聖書のことば,あるいは聖歌,あるイメージとかシンボルをもって,心の動きの奥にあることを表現することも,助けになるかも知れません.
f) ある人にとって,文章,あるいは絵で書き表わすことは助けになります.
いろいろな感情や心の動きの多くが,その源をたどれば,経験していることに対する生理的,心理的,または,人間としての自由な反応であることがわかります.この事実を認めることは大切です.そうでなければ,必要以上に「超自然化」しようとするあやまちに陥ってしまうかも知れません.「もし,あひるのようにグワッ,グワッというなら-あひるのように歩くなら-あひるのように飛ぶなら-それを『あひる』と呼んでください.」
身体的,生理的‥‥
ある人々の低気圧に対する反応は,憂うつになることです.ある人々の疲れに対する反応は,苛立ちです.ある人々の騒音に対する反応は,過敏になることです.ある人々の更年期の反応は,自分が何の役にも立たない気持になることです.
心 理 的
自分の心理的な歴史を知れば知るほど,本当の自分をわかるようになります.自分の育ち方,今も自分に影響を及ぼしている,過去のさまざまな傷,生活の中の困難を乗り越えるために学びとった生き方,自分の青年期の整理されていない部分などを知り,受け入れることです.これらのことは,今の感情や心の動き,自然に起こるファンタジー,また,それから生じる行動の中で,しばしば繰り返し再生されて,自分に影響を及ぼしています.ほとんどの人はこれに気づかず,ごく幼少のころから,体験の中に,また,自分の性格の中に書き込まれている「脚本」にそって生きています.例えば,
-若い時から,親に「出来が悪い」と言われて育った人は,いつも,自分ができることを証明しようとして,生活していることがあります.
-ある人は,自分の足りなさを強く感じて,それを隠すために「良い子」の役を演じることが上手になってしまったかも知れません.
-ある人は,不意のでき事にうっかり失敗しないように,自分を守るための戦術として,黙りこむことを身につけてきたかも知れません.
人間としての自由な応え
内的体験の多くは,単に現在の状況に対する自由な,正直な反応です.それは,現状において,また,その状況に対する反応として,自分の中で実際に何が行われているかを,示してくれるものです.自分の心の動きをありのままに気づけば気づくほど,自分のまわりに何が起こっているかを,それによってつかむことができます.例えば,
-あずかったばかりの集りで聞いた一つの発言は,私に,何となく気にかる反応を呼び起こしました.この心の動きは,自己防衛的な隠れみのではなくて,その発言が,不正直だと感じ取ったことに対する反応だと気づきます.この,気がかりという心の動きは,実際にその発言の中にあった不正直さの「しるし」です.この発言によって,どう直面したらよいかがわかります.
-ある時には,ある人に対し,自分がよそよそしい態度をとり,近づかせないようにしていることに気づきます.これもまた,私が自分を隠し,守るためではなく,むしろ,相手が自分を操作しようとしていることを示しているのだとわかります.
a) 主と共にいる自分に気づき,それを味わうようにします.そして,リラックスして,できるだけ心を静めます.本当の心の動きを意識にのぼらせて,それを明確にします.
b) 体験していることの奥で,実際に何が行われているかがはっきりみえるように,主に助けを求めます.それについて,主と話します.
(i) その原因は,身体的,生理的なものですか?
(ii) 心理的なものですか? もしそうなら,具体的にどういうことですか? 過去のどういう体験を繰り返していますか?自己防衛的なことですか?あるいはそうでないのですか?そうでなければ何ですか?
(iii) この心の動きは,ただ起こったことに関する,私の自由な反応ですか? そこで起こっていることについて,自分の反応が何を語っていますか?それとも自分自身の中に,何かが起こっていますか?
c) これらの体験について,イエスズと話します.その体験のために,感謝したいかも知れません.あるいは,何らかの行き詰まりや不自由さを発見したとすれば,その領域において,もっと自由になれるように願うかも知れません.また,今後同じようなことを経験したら,どんな態度をとればよいかについて,主に相談するかも知れません.ある時は,これから同じような状況にある自分を想像して,その場合,どのように振るまったらよいのか,主の導きと恵みを願うようにするかも知れません.いずれにしても,自分を主にまかせて,心をこめて主の心に聴きます.主と共に気づき,認め,発見するこのプロセスは,同時に,自分をますます自由にする歩みでもあり,起こっていることをありのままに受けとめ,それに直面する歩みでもあります.
d) 自分の体験の確認のために,それに響き合う聖書の箇所や,それをまとめてくれるみことばを選びます.(イエズスも弟子たちも,預言者や太祖たちも,大なり小なり,私のような体験をしたことがあります.)例えば,
-「柔和な人は幸い‥‥‥」は,柔和な態度にとれた時の,自分の経験をまとめてくれるかも知れません.また,それは,柔和な態度がとれなかったので,本当の柔和を望む自分の心を確認してくれるみことばかも知れません.
-フラストレーションに陥った体験ならば,イエズスのフラストレーションを思い出すことが出来ます.例えば,イエズスが弟子たちに向かって,「心の鈍い者,いつまであなたがたを耐えなければならないのか」とおっしゃっている箇所を味わいます.あるいは,もっと大きなフラストレーションならば,「あなたがたも私を去って行きたいのか」,また,十字架上のイエズスのことば「なぜ私を見捨てられたのですか」を味わいます.
e) この半日(または一日)の間に起こったことに対して,どの程度自由でしたか.それとも,自分の「心理的不自由さ」(過去の傷や痛み,自分の限界,弱さ,ある領域での不安やおそれなど)に振りまわされて行動したり,反応したりしてきましたか?
f) 何を発見したか,日記に書きとめます.
キリスト者として,私は,自分の生活のあらゆる体験を,イエズス・キリストとの関わりのうちに生きるように呼ばれています.私のすべての行いや内的態度において,キリストのように考え,キリストの心を心とするように,呼ばれているのです.しかし,私は同時に,その振りをすることではなくて,自分自身であるように,また,本物であるようにと,呼ばれています.私の中に,いろいろなキリストらしく振るまっているように,装っているだけかも知れません.しかし,これは実際には,キリストらしくない態度で,仮面や演技にすぎません.その他に,二つの可能性があります.即ち,装うだけでなく,キリストらしく行動しながらも,本当の自分として,反応したり,行動したりするために,二つの方法があります.
第一の方法
生活の中でどんなことに対しても,たくさんの異なった感情が,反応したとして起こってきますが,その中から,どういう反応を選んで行動の選択をするかが,私の自由にまかされています.例えば,忙しい時に思いがけない客が現われたとすれば,それに対して,いろいろな異なった感情が,同時に起こります.煩わしい!腹立たしい!なつかしい!うれしい!かわいそう!これらの心の動きは相反するものですが,実際には,私の心に,同時に存在していることがあります.どの感情も,自分のものとして,本当に受けとめるなら,また,それぞれの感情が,どこから生じているかに気づいているなら,その中のどれに基づいて行動したらよいかがわかり,キリストらしいものを,速やかに選ぶことができます.どの心の動きも,本当の自分の反応です.どれもみな,私です.けれども,私は今,ここで,最もキリストらしいものの一つを,行動に移すため選ぶのです.
第二の方法
これは,イエズスしか与えることのできない,恵みによる自由からくるのです.上に述べられて客に対して,私がとまどいを感じ,腹を立てて行き詰まってしまったために,どうしてもキリストらしい態度がとれなくなったとします.その時,そこでちょっと待って,その心の動きを,主にそのまま持っていくのです.そして,私が本当に願うことを選ぶならば,主は,私のキリストらしくない心を変えることが,おできになります.(38年間寝たきりの男に向かって,イエズスは,「よくなりたいか」と,彼自身の選びを問いただしました.《ヨハネ5・6》)イエズスは,私のとまどいと,怒りや行き詰まりを取り除いてくださって,私は,本当に,相手の身になって,相手に心を配ることができるようになります.そして,その行為は,キリストらしい行為でありながら,同時に,本当の自分らしい行為でもあるのです.しかし,ある時は,第一の方法も第二の方法もとることができないこともあります.即ち,キリストとの関わりの中で,その状況を見たうえでも,自分の限界を認める他にないことがあるのです.その時は,「すみません.私は今,あなたに会うことができないのです.」
と,単純に,ありのままに自分の限界を認めて,言わねばなりません.それも,本当に自分らしい行為なのです.
a) 主と共にいる自分に気づき,それを味わうようにします.そして,リラックスして,できるだけ心を静めます.本当の心の動きを意識にのぼらせて,それを明確にします.
b) 体験していることの奥で,実際に何が行なわれているかがはっきり見えるように,主に助けを求めます.それについて,主と話します.
c) この半日(または一日),どのように主のみことばを体験し,生きてきたかを,主と共に見出すように努めます.そのために,その時の状況や,心の動きに響き合う聖書の箇所を選んで味わいます.以下は,その一例にすぎません.
マテオ5章3~12節.真福八端
マテオ5章24節.供え物を祭壇の前に置き,先ず,兄弟と和睦しに行きなさい.
マテオ5章44節.あなたの敵を愛しなさい.
マテオ6章14節.あなたが人をゆるすなら,天の御文があなたをゆるしてくださる.
マテオ7章12節.他人からしてもらいたいように,他人にせよ.
マテオ23章24節.盲目の案内人よ,あなたたちはこばえをこし出して,らくだをのみこむ.
マテオ21章12節.イエズスは神殿の境内をお入りになった.そしてそこで物を売る人や買う人を皆追い出された.
ヨハネ13章14節.私があなたたちの足を洗ったのだから,あなたたちも互いに足を洗い合わねばならない.
ローマ12章6節.私たちは与えられた恵みに従って,異なった贈物を持っている.
コリント前書13章愛は耐え忍び‥‥‥愛は親切.
ルカ4章18節.主の霊が私の上におられる.‥‥‥捕らわれびとに釈放を告げるために.
d) この半日(または一日),みことばにそった心の動きや反応に基づいて,自分の行動を選んだのでしょうか.それができたなら,「神に感謝!」「神に賛美!」そうでなかったら,私の心の奥で何が実際に起こっているのか.何を捧げるように招かれているのか.どこで,何から,私を解放させていただきたいか.どの領域において,もっと自由を願いたいか.どこで,イエズスのいやしを必要としているか.
e) これらについて,しばらく主と共に対話します.
f) 発見したことを,日記に書きとめます.
生活の中でのすべての体験は,何らかの意味で,神が「共にいてくださる」ことを表わしています.ですから,神がご自分を示すいろいろな方法,即ち,神が,私に関わってくださるいろいろな方法に,より敏感に気づくようになっていくことは,とてもためになることです.以下のエクササイズは,このような気づきに熟達する,助けとなります.
a) 主が共にいてくださることに気づき,それを味わうようにします.そして,心が照らされるように祈ります.リラックスし,できるだけ心を静めて,今の本当の気持ちが湧き起こってくるままにします.
b) この体験が,どこから来ているのか.自分の中にあるこの体験の,身体的,心理的,それに対する自分の反応の源がはっきりわかるように,主の助けを願います.
c) この半日(または一日),主が,ご自分を示してくださったいろいろな方法に気づくようにします.そのために,次の質問は,役に立つかも知れません.
(i)この半日(または一日)の中で,いつ,主に魅かれていると感じましたか.
本,友達,仲間,芸術,音楽,自然,あるでき事,手紙などを通して.
(ii)どのように主と出合いましたか.また,どのように主と関わりましたか.恐れの気持で.誤解や誘惑,喜びや苦しみ,怒りなどを心の動きの中で.
(iii)この半日(または一日),神のみことばが,自分にとって,どんなふうに生き生きと感じられてきましたか.
祈りの中で.読書をしている時.歌,聖書を通して.典礼,会話,仕事,人々とのいろいろな関わりの中で.
(iv)この半日(または一日),神は,どのように働きかけてくださったでしょうか.それは,どのように始まり,どこに向かっていったでしょうか.
例えば
-過剰なほどの自信から,主に対する信頼へ?
-私の計画,私の方法から,主の計画,主の方法へ?
-自信がなくて,自分を受け入れられないでいた状態から,自分のことをもっと素直に受け入れられるように?
などなど
(v)自分から出ようとする動き,また,自分を乗り越えようとする動きを感じましたか.
例えば,
-孤独な人々に向かって.
-不正義のもとで苦しんでいる人々に向かって.
-私に対して,敵対意識を持っている人に向かって.
-愛のこもった心で,だれかの力になろうとして.
-落胆している人々に向かって.
-福音的でない社会の組織を変えるために.
などなど
(vi)心が感謝で満たされるようなでき事を体験しましたか.
d) この半日(または一日)の間に起こってくること,これからの出会い,でき事に向かっての,自分の気持は?
がっかりして気の没むような思い 希望がない 恐れている 希望がいっぱいうれしい気持などなど
それはなぜか.自分の本当の気持を,抑えずに正直に答えること.そして,主が私にどこで,どのように,ご自分を示してくださいましたか.
e) どの領域において,また,何に関して,回心への呼びかけを心に感じていますか.もし感じているなら,それに心から答えようとし,また,その恵みを願います.あるいは,まだ,充分回心していないと気づくならば,痛悔の心をもって祈ります.
f) しばらくの間,これらのことを主と話します.
g) 発見したことを,日記に書きとめます.
神が,ご自分を現わすために,また,私たちをより親しく引き寄せるために,そして,み国の建設におけるいろいろな働きを示すためにとられる普通の方法は,私たちの心の動きに気づかせる,ということです.即ち,心の動きの一番深い所,いろいろな感情,愛情と興味,小さなひらめきなどを通して,共におられることに気づかせてくださるのです.ともすると,これらの動きを見過ごしてしまいがちですし,その大切さにも気づいていません.このような心の動きを経験することは,神の働きかけによるものもあれば,そうでないものもあります.
今まで述べてきた種々なステップを,実際にやってみて,それを自分のものにすることも必要ですが,さらに深く掘り下げてみると,これらの心の動きは,霊的な「慰め」と「すさみ」の表れであることもわかります.この観点からみると,自分の中に起こるさまざまな心の動きの意味と価値を,一層深く把握することもできるようになります.
「霊操」の.特に316から324までの,霊的識別を身につけることは助けになります.ここで「慰め」というのは,単なる楽しみを経験することではありません.無味乾燥の中でも,「慰め」を意味深いものとして,経験することができます.一方,「すさみ」は,神が,あたかも「不在」であるかのように感じることです.しかし,「すさみ」の時,人は必ずしも落ち込んだ状態にいるとは言えません.「すさみ」を,極端な喜びとして体験されることもありえます.また,「慰め」が「良い」ことで,「すさみ」が「悪い」ことと,言い切ることもできません.なぜなら,今はすさみの時だ,と解り,しかも,どんなきっかけでそうなったのかをはっきりつかんでいるなら,「すさみ」は,「慰め」への序曲となりえるからです.ある場合には,神が近づいてくださっているのに,自分の方は,神から遠ざかっていることの印として,「すさみ」を経験することもあります.
a) 止まって‥‥‥
主が共にいてくださることに気づき,それを味わうようにします.そして,心が照らされるように祈ります.リラックスし,できるだけ心を静めて,経験したことがありのままに浮かびあがってくるようにします.
b) 見つめて‥‥‥
浮かびあがってきた心の動きの中で,どれが目立っているか,また,どれがもっとも自分に影響しているかに気づき,それを見つめます.
例えば,いろいろな気持の動き,喜び,痛み,渇き,混乱,平和,不安,愛の深まり,怒り,自由さ,共におられる神の実感,孤独,心のふれあい,いや気などを見る.
今,目立っているのは,どれですか.
c) 心をこめて聴きながら‥‥‥
これらの経験している心の動きは,何を物語っているか,心をこめて聴きます.
(i)まず,常識をもって聴く.
今,経験している心の動きの原因は,生理的,心理的なことか.単なる自然的,人間的反応か.
(ii)イエズスの目で見,心で聴く.
いろいろ経験している心の動きの中から,イエズスの道のそった心の動きを選び,それに従って行動してきたか.もし,そうでないとしたら,どこで,もっと自由にならなければならないか.
自分は「慰め」の状態にあるのか
これを見分けるために役に立つ,いくつかのヒント,
-経験している心の動きは,神は向かって進んでいる.
-人々を,心から受け入れるように促されている.
-繊細で,やさしさがある.
-自分を,ありのままに知るように促されている.
-より深い信仰を持って,神が共におられることを実感している.
-もし,感じているのが痛みや渇き,悲しさであるなら,それは,主を思う心からである.(例 私の罪が,主を十字架につけたから‥‥‥など.)
-充実感と希望の実感.
-緊張感が,まだ残るかも知れない.しかし,その奥には信仰,希望,愛がある.
-自分にこもらない.
「慰め」の状態にあるなら感謝し,「すさみ」の時のために備えよう.
自分は「すさみ」の状態にあるのか
これを見分けるためのヒント
-自分にこもる.
-自分のさまざまな行動の中で,神のことばが意識にのぼってこない.
-経験している心の動きが,感覚的楽しみや,欲を満たす方向に向かっている.
-神と共にいたいと望みながらも,孤独と疎外感を感じている.
-寂しく,主から離れているように感じる.
-何に対しても関心がなく,すべて面倒で,重荷になっている.
-ばかにはしゃいだり,うきうきしたりする.しかし,心の細やかさに欠ける.秩序づけられていない,いろいろな動きに左右されて,行動する.それは,自己を求めているためのごまかしである.
-経験している心の動きが,自分を神からそらせていく.
-いろいろなことが,はっきりしなくなる→何がどうなっているか,わからなくなる.
「すさみ」の状態にあるなら,自分を主の前において,自分自身がどうなっているかを省みます.主が共にいてくださることに気づくまで,忍耐強く待ちます.
「すさみ」の原因を明確にするために,次の質問は,役に立つかも知れません.
すさみの中にいるならば‥‥‥
① 自分の罪深さが,邪魔しているのか.
② 主との関わりにおいて,怠惰ではなかったか.主に対しての心づかいが,足りなかったのではないか.
③ この「すさみ」は,自分が霊的に円熟していくために,主がくださったものなのか.
④ 直面したくないことが,あるのではないか.チャレンジを受けているのではないか.成長を拒んでいるのではないか.
⑤ すべては頂くものであり,慰めも自分がつくったものと思い込まないように,さとされているのではないか.「主」自身に頼るよりも,「慰めそのもの」に頼っていたのではないか.
⑥ もしかしたら,十字架を担うように呼ばれているのではないか.イエズスと共に,見捨てられるよう招かれているのではないか.
d) しばらくの間,これらのことを主と話し,また,これ,これを味わう.
「慰め」の状態にあるなら,それは,主のみ業であると認めて,感謝を表わします.「すさみ」の状態であって,その原因が自分にあるなら,謙虚な気持で,主に許しを願います.そして,この「すさみ」が,日常のさまざまな決断を妨げないように,また,いろいろなことに関する自分の反応が,この「すさみ」に左右されることがないように,主に助けと忍耐強さを願います.
e) 見つけたことを,日記に書く.
この短い祈り「気づきのエクササイズ」の目的は,生活の中に働いておられる神に,もっと敏感になる心を養うことです.また,共におられる神と協力し,その呼びかけにこたえて生きるため,光と恵みを願う心を育てることです.
a) 感 謝
一日をざっと省み,感謝したいことを見つけます.自分が感謝すべきだと思うことを選ぶのではなく,むしろ,一日を振り返って,自然に心に浮かびあがってくることに,注意をとどめます.それは,かすかに思いあたる,小さなことかも知れません.今,心に浮かびあがっていることを,どう感じますか?生活の中に,神からの恵みが見えますか?自分自身の貧しさを感じますか?心にのぼってくる感謝の気持を,父と子と聖霊に,そのまま感謝として捧げます.
b) 光を願って‥‥‥
この祈りの中心は,一日を,自分で分析することではなく,神からの照らしです.従って,聖霊が,自分に何を見てほしいと望んでいるかがわかるよう,まず,聖霊に祈ります.
c) すべての中に神を出す
(i)全体的に
① もう一度,一日のでき事を振り返る.
② 一日の生活の中で,神が,何において,どのように共におられたか.それは,自分のどんな心の動きの中に?また出会った人々の中に?また,神は,自分に何を求めていたかわかるよう,主に祈る.
③ 一日の心の状態を,振り返ってみる.気持,感情,心の傾き,心の動きなど.その中で,かすかにでもおもだっているものは何か.例えば,次のようなものがあるのか.喜び,痛み,混乱,愛の深まり,怒り,心のふれ合い,不安,解放感,束縛,共におられる神の実感,疎外感など.
④ 主は,どの方向へ私を導いておられるのか.
⑤ これらの心の動きや,さまざまな状況を通して,ご自分の方に導かれる主に,どのようにこたえてきたか.
(iii)特に焦点を当てて
① 体験してきたいろいろな心の動きは,私の,どのような態度や傾き表わしているか.これらの心の動きは,その奥にある傾きを,また,そこから生じるいろいろな選びや行いを見出すのを,助けてくれる.
② 心のどんな態度に関して,主が,回心を呼びかけておられるか.
③ どの領域に焦点を当てるように,主は促しておられるのか.また,何について,真剣に祈らなければならないのか.どの点で,手を打つように呼びかけられているのか.
④ 自分が大切だと思っているいろいろなことではなく,上に示されたようなことに焦点を当てて,心を傾けなければならない.
d) 痛悔 許し 感謝の贈物を願う
(i) 主の愛にこたえなかったことの,許しを願う.
(ii) 愛してくださる主に協力しなかったことへの,ますます深まる痛悔,恵みを,謙虚な心で願う.
(iii) 主と協力できたことを感謝し,主を賛美する.
e) 明日に向かって助けと導きとを願う
(i) 明日必要な恵みを願う.例えば,何かにうち勝つための恵み.痛みのある捧げができる恵み.耐え忍ぶ恵み.自分に働きかけてくださる主に,もっと敏感になる恵み.委ねる恵み.愛されることにすなおになる恵み.また,心をこめて愛する恵み.ある領域についての回心の恵みなど.
(ii) 神の助けと導きなしには,何ひとつとしてできない.だから願い,求め,信頼して,自分の中に住んでおられる,父と子と聖霊の働きに協力する.