青山-5
青山6丁目は、大きなお屋敷ばかり、近所付き合いもなく、お隣さんも知らなかった。
青山6丁目は、大きなお屋敷ばかり、近所付き合いもなく、お隣さんも知らなかった。
① 語り部氏名 MYさん(定年後 町のボランィア活動)
② 男性
③ 生年月日 昭和25年(1950) 64歳
④ 青山で暮らした時期 昭和25年築地で生まれ。28年に南青山に移転。小学5年生で麻布笄町へ移転
① 主な内容
父親の実家は築地の佃煮屋。実家で生まれたが、2歳か3歳ころ南青山6丁目の今のヨックモックのあるところの300坪ほどの敷地のある家に越してきた。ここには家と工場(町工場)を建てて、庭では家庭菜園をしていた。周囲は200坪から500坪の屋敷ばかりだったので、隣近所のお付き合いというのはなかった。誰が住んでいるのかも分からなかった。小学校の5年生の時に笄町に越したが、学校はそのまま青南小学校に通い、中学受験して慶應に入学した。当時青南小学校は半分以上が中学受験をするような学校であった。小学校の高学年ぐらいになると、自転車で町を乗り回し、ドッジボールなどをした。青南小学校は越境入学の児童が多かったし、住宅街にあるので、地元に残っている人が小学校の同窓会をしても集まるのは極わずかである。
② 備考
・大きな屋敷の子は相続税で家を売り、郊外に引っ越していった。地域に愛着があっても、外的な事情によって外で暮らす人も多い。
・学校の裏には青山脳病院があった。戦後は焼け野原だった。
① 現住所 港区西麻布4丁目
② 小学校 青南小学校 慶應普通部〜大学(工学部)
③ 保存資料の状況 テープ起こし原稿 要約 三回確認
④ 取材者 HM(聞き手1) HM(聞き手2) HK(聞き手3) TM(聞き手4)
⑤ 取材年月日 平成26年(2014)7月11日
⑥ 旧住所 港区南青山6丁目(現 南青山5丁目)
語り部 MYさんの話
【聞き手1】 MYさんの自己紹介から始めます。
【MY】 ということで、まずそもそも港区には多分3歳のときに、生まれが築地なんです。すぐ隣ですし、母親が一時期港区の靹絵小学校という一番古い小学校ですね、神谷町の近くにある、今はもうないですけど、に通っていたことがあって、生まれ築地で、それから、今の青山南町、昔は6丁目、今で言うと5丁目になるんですかね、ヨックモックがありますね。あそこの土地そのものに住んでいました。7、8年、小学校が青南小学校の区域に住んでいて、ちょうどお話聞いたときに戦後からオリンピックまでと、ちょうどその期間は、7、8年ですけど、そのころが青山に住んでいたので、お受けしました。
【聞き手1】 何年のお生まれですか。
【MY】 昭和25年の生まれです。だから、昭和27、8年ですね、青山に引っ越したのが。そのころは何ていうかな、木造平屋家が結構あり、うちも200坪あったんですよね、あそこの青山で。土地がですね、大体そのぐらいの家が、平屋の家が多かったです、青山南町近辺は。
【聞き手1】 ああ、そうですか。それで今のヨックモックに、そのままご自宅の土地がヨックモックになったんですね。
【MY】 ちょうどあの土地そのものだったんですね。
【聞き手1】 今のヨックモックって結構広いですもんね、200坪ぐらいあって。
【MY】 そうですね、そのぐらいでした。
【聞き手1】 何年ぐらい?
【MY】 7、8年住んでいて、多分、青南小学校5年生のときに今の西麻布ですけど、麻布笄町に引っ越しました。でも、そのまま青南小学校は卒業、歩いて通っていたんで卒業しましたね。
【聞き手1】 ああ、そうですか。笄町から青南小学校まで通ってらっしゃるとき町並みとか、道はちょうどそうですね。
【MY】 ええ、高樹町を通っていたんで。高速道路がちょうどそのころ工事が始ったころだったかと思うんですよね。ちょうどオリンピックの前ですね。前、高樹町もやっぱり同じような、今も多少名残りがあるけれども、普通の、何ていうかな、住宅地のど真ん中に広い道路が。
【聞き手1】 ど真ん中に通ったという感じですね。
【MY】 今の高陵中学校の、ちょっと地図ある、高稜中学校の裏に今住んでいるので。
【聞き手1】 高稜中学校の裏に住んでいらっしゃる、高陵中学校だとあれかな、じゃ、あんまり坂道じゃないのかな。
【MY】 ええ、今住んでいるところが、ちょっと地図で、西麻布4丁目のここら辺が、高陵中学校はこれなんです。
【MY】 笄坂あり、牛坂あり、堀田坂ありというところのちょうど上のところですね。この南青山7丁目というところが昔は青山高樹町というところで、昔の高木……。
【聞き手1】 高木侯爵かなんかが住んでいたところですね。
【MY】 高木何ですって、昔の大名が住んでいたところ。青山も大名が住んでいたんですね、青山。
【聞き手1】 ほとんどこの辺は大名・旗本のお屋敷だったんですけど。
【MY】 特にここら辺はね、そうでしょうね。
【聞き手1】 じゃ、こっちから行くと坂はおりないで青南小学校まで行けたわけですね。
【MY】 そうです、ちょうど青南小学校の端っこの、一番ここにプラダがあって、それから、カルティェがあって、その隣なんですよね。だから、ここら辺なんですね。
【聞き手1】 ああ、ヨックモックですね。
【MY】 ええ、ヨックモック。ここら辺に住んでいたんで、ちょうどここから、こう、これ15分ぐらい、子どもの足で通っていました。
【聞き手1】ああ、なるほど、その当時通学路の印象というか、ちょうどそこら辺はそれこそ200坪、300坪のお屋敷がずっと並んでいたかと思うんですけれども。
【MY】 はいはい、ただ、ここから通学したのはほんの1年ぐらいなんで、こちらのほうに住んでいたのが7、8年、南青山ですね。高樹町もひっくるめて今ほとんどおもかげないですよね、この道路(根津美術館脇から高樹町に抜ける道路)なかったんで。
【MY】 港区にかかわるきっかけは港区の青少年対策地区委員会と……。
【聞き手2】 25年になるんですね。
【MY】 25年前に子どもがちょうど笄小学校通っていて、縁があって笄小学校のPTAの会長をやったんですよね。2年間やって高陵中の会長やって、そこから港区とのかかわり合いで、サラリーマンでずっと京橋に通勤していたんで、港区には住んではいるけれども、かかわり合いは今まで全然なかった。だから、通勤しているけど、地域へのかかわりというのは全然なくて、子どもの笄小学校のPTAをかかわったのが一番最初で。そこからずっと20何年、その青少年地区対策の仕事、餅つき大会をやったりスポーツ大会やったり、夏のキャンプやったりとか、笄小学校での夏休みの水遊びなんて、そういうのの企画とかお手伝いをずっとした。西麻布に越される前の南青山の土地は、ヨックモックに売ったんではないです。そのときはもちろんヨックモックなかったですから、大分後になって、多分、ヨックモックができてまだ20年ぐらいじゃないかと思うんですね。
【聞き手1】 そうですよね。
【MY】 でも、売ったのは50年ぐらい前ですから。
【聞き手1】 ああ、そうなんですか。
【MY】 そうそう、50年以上前かな、うちの父がそこで工場をやっていたので。
【聞き手1】 ご自分のおうちは工場をやってらっしゃったんですか。
【MY】 そうです。
【聞き手1】 この辺ってどういった工場だったんですかね。
【MY】 工場は冷凍機の修理をやっていた。冷凍機の修理を。町工場ですね、ええ。あと半分以上は畑でしたから、その当時は竹林があって、ちょこっと野菜をつくっていたりとかいうことをしていましたですね。工場はそんなちっちゃい工場、町工場、あと平屋の自宅と、その分で50坪ぐらい使って、あと100坪ぐらいは全然あいていたんですね。
【聞き手1】 ああ、そうですか、ご両親は、どちらからか移ってらっしゃったんですか、それとも代々そこに住む…。お生まれは築地ですね。
【MY】 そうです。築地に生まれたので築地に住んでいて…。父のほうは生まれはたしか上野台東区ですね。母は浦安、千葉ですかね。町工場は父が仕事としてやっていたんですけど、もとは私の祖父がやっていたのは築地でつくだ煮の問屋をやっていた。問屋をやっていて、その町工場は途中でやめてうちの父もそのつく煮問屋のほうを一緒にやるようになって、そこの敷地が必要ないというか、そのときに多分資金が必要だったのだと思うので、今の笄町に越してその土地を売ったと思います。
【聞き手1】 そうですか。築地から青山に越してきた過程みたいなのは何か聞いてらっしゃいますか、ご両親から。
【MY】 多分築地はすごく狭いんですよ。たしか土地は20坪ぐらいしかないとかですね、そこで多分結婚して住んでいたけれども、多分狭いので、青山、その当時はもう何か普通の、何ていうかな、住宅地ではあったんで、そこの土地があいていたので……。
【聞き手1】 昭和28年ぐらいだと結構そうですね。そのころ何か青南小学校に通ってらっしゃった中で一番印象的に覚えてらっしゃることは。
【MY】 学校は当時から進学校で……。
【聞き手1】 そうですね。
【MY】 半分以上が港区じゃないところから通っていました。
【聞き手1】 越境入学の、はい。
【MY】 越境ですね、渋谷・世田谷方面が多かったと思うので、だから、クラスも6クラスあって、今、青南は2クラスぐらいなのかな。
【聞き手2】 もう2つしかないんですね。
【MY】 ええ、かなり子どもが多かったという印象はありますね。それから、まだ車は全然少なかったので学校終わってからはよく自転車に乗っていたんで、自転車で走り回っていた。それから、道路でドッジボールをしていたんですね、小学校のころの遊びというのは。だから、今だったらこんな車が走っていて道路で遊ぶなんてできないんですけど、当時は道路で遊んでいた。そもそも原っぱ自体はもうあまりなかったですね。
【聞き手1】 もうなかったですか。
【MY】 焼け野原のときではないので、もう昭和28年だから。家が建って、あまりなかったんですけど、記憶にあるのは青南小学校の裏っ側に脳病院があったんですね、斎藤茂吉がつくったね。そこが空襲で焼けて焼け野原のままで空き地になった、空き地というか、何ていうか……。
【聞き手1】 原っぱになっていたんですか。
【MY】 原っぱにはなっていたけれども、前の建物の跡があったような感じが、何ていうかな、土台だけあったような感じ。
【聞き手1】 ああ、脳病院の跡って随分、じゃ、空き地になっていたんですね。脳病院というか、斎藤茂吉の屋敷跡というか。
【MY】 ええ、今はアパートになっていますね、大分。だから、原っぱなかったから。
【聞き手2】 ドツジボールだ。
【MY】 ドッジボールです。ドッジボールと自転車ですね、大体しているのは。
【聞き手1】 その脳病院の跡地では。
【MY】 入れなかったんですね、たしかね。普通の土地ですし、入れなかったと思う。
【聞き手1】 野球なんかあんまりされなかったんですか。
【MY】 空き地がほとんどなかったですから。
【聞き手2】 狭い道路だからね。
【聞き手1】 今の青南小学校の前の通りというのは、幅は今と同じ?
【MY】 今と同じなんですけれども。
【聞き手1】 ああ、そうですか。
【MY】 車が通らないからすごく広く感じたですね。今は、すぐ隣が今のカルティエのあるところが全銀連という全国銀行労働者連合かな、組合の事務所で、そこだけが2階建てのコンクリだったのかな。全国銀行、銀行に勤めている労働者を抱えている、労働組合ですね。
【聞き手1】 なるほど、これ記録があるかもしれない。
【MY】 そこだけがコンクリであとは木造の平屋で2階建てはほとんどなかった。うちも平屋で隣も平屋で奥も平屋で、その横方向の向かい側も。
【聞き手1】 はいはい、銕仙会(てつせんかい)ですね。
【MY】 ええ、あれは当時からあって、そこは何か能をやっているなというのは覚えていますね。
【聞き手1】 やっていました? ああ。
【MY】 そこも今なんか3階建てくらいですかね、なっていますね。
【聞き手1】 そうですね、コンクリートの立派な銕仙会というところですね。
【MY】ええ、それも平屋か2階建てかぐらいだったですね、木造建物だったですね。
【聞き手1】 ああ、そうですか。そのころご近所というのは高樹町の方なんかに聞くと、100坪、200坪のお屋敷だったので、家同士のおつき合いとか、そういったものは「あまりなかったんですよ」みたいなお話だったんですけれども。
【MY】 ええ、うちも隣もやっぱり200坪ぐらいでしたね、1区画が大体そんな感じだったので、青山通りから青南、根津美術館にかけて。密集したとこじゃないので、結構、皆さん門があって門から玄関まで歩いていくというような感じだからあまり顔を合わせることがなく、隣の住んでいる人の記憶はほとんどないですね。だから、うちの両親が、うちの母親があんまりそういうのが好きじゃなかったというのもあるかと思うんですが、近所つき合いはなかったですね。
【聞き手1】 子ども同士は、でも、学校から帰ってきたら。
【MY】 隣の全銀連の守衛さんをしている家族に同じクラスの女の子がいたので、その子とうちは、3人きょうだいだったので4人で、低学年のころは4人で遊んでいましたね、自宅の中で。高学年になると男の子同士でのドッジボールですね、道路でドッジボール投げ合うと、そんな遊びでしたね。
【聞き手1】 学校から帰ってきて友達と、じゃ、遊ぶというか、そういう感じじゃなかったんですね、隣近所の友達を。
【MY】 隣近所というか、いや、それは学校の友達でドッジボールした、帰ってから。それは高学年で低学年は隣の女の子と4人で遊んでいたという感じですね、中でね。
【聞き手1】 それで小学校入学から青南小学校っておっしゃっていましたけれども、やっぱりそのころから勉強って大変だったんですかね、青南小学校。
【MY】 あまり大変だったという記憶はないですけどね。
【聞き手1】 ああ、そうですか。
【MY】 あまり勉強した……。でも、4年生のころから親戚の人が来て家庭教師はついていました。というか、やっぱり中学受験したんで、大体みんなではないですけれども、かなりの半分以上の人は受験していたんで……。
【聞き手1】 ああ、青山中学校には行かないで。
【MY】 行かないで。
【聞き手1】 私立に、ああ、半分ぐらいは、じゃ、もう私立に行かれたんですかね。
【MY】 多分、もう半分ぐらいがそのために越境してわざわざ青南に通っていたので。
【聞き手1】 ええ、そうでなければね、青中に行って日比谷に行って東大に行くみたいな青南のコースですものね。
【MY】 そもそもうちも含めて青中って遠いんですよね。
【聞き手1】 ああ、なるほど、そうですね。
【MY】 青中歩くと30分くらいかかるので、そもそも一番端っこだし。
【聞き手1】 ええ、そうですね。
【MY】 全然行きたいという思いはなかったですし。
【聞き手1】 ああ、じゃ、私立は近くの青山とか、そういう感じだったんですか。
【MY】 私立は横浜のほうに行きましたけど。
【聞き手1】 ああ、そうですか。じゃ、渋谷まで行って渋谷から横浜まで。
【MY】 そうですね、渋谷から東横線で。
【聞き手1】 ああ、そうなんですか。もうそのときはあれですよね、MYさんの時代は給食なんていうのは……。
【MY】 給食はありましたね。
【聞き手1】 まだ脱脂粉乳なんて。
【MY】 そうですね、脱脂粉乳にコッペパンだったと思いますね。
【聞き手1】 その他1品なんていうのは鯨の肉とか。
【MY】 もありましたし、懐かしい。
【聞き手1】 ああ、何か青南小学校って肝油を飲まされたっていうふうに。
【MY】 肝油も飲んでいましたね、それは、はい。
【聞き手1】 肝油って必ず給食についたものなんですか。
【MY】 ついていたと思います。
【聞き手1】 ああ、そうなんですか。それでお金持ちの人はみんな夏休みとか冬休みは肝油をわざわざ買ってうちでも飲んでいたという。
【MY】 うん、飲んでいましたね、肝油は。
【聞き手1】 ああ、そうなんですか。
【MY】 それは多分学校からだと思いますけど、うちでは飲んでなかったんで。(*注 都内の公立小学校では飲んでいた。)
【聞き手1】 西麻布のほうに越され、6年生ぐらいになって越されたということなんですけど、町の雰囲気ってどういうふうに違ったものなんですか。
【MY】当時から建売りで、今もそうですが30坪の敷地で建売りがずら一っとあって、その当時の青山のほうが広かったですね、庭が広くて。途中から100坪になりましたけど、そこからほとんど庭がないところに越したんで、すごく密集したところだなという。
【聞き手1】 ああ、なるほど、青山はお庭も広くて家庭菜園ぐらいもつくれたというお話だったんですけど。
【MY】 家庭菜園というか、ただ、トンモロコシとか、何だろう、カボチャとかキュウリとか、何かそんなものをただまいて、そんなに一生懸命やってはなかったですね。
【聞き手1】 そうですね、みんな100坪とか200坪ぐらいだと、皆さんも……。
【MY】庭をきれいに、庭を庭園風にはしてなかったんで草ぼうぼうで、一角にはそれを、野菜を植えていたと、そんな感じですね。
【聞き手1】 やっぱりほかのお宅も庭は広かったんでしょうね。
【MY】 そうでしょうね、みんな大体広かったですね。
【聞き手1】 この辺からだとあれなんですかね、都電の車庫あたりまで遊びにいくなんていのは相当な遠出だったんですかね。
【MY】 まあ、そうですね、それは遠出で、どっちかというと根津美術館の、今、だから、お庭が入れなくなったんですけど、当時はフリーで入れました。
【聞き手1】 入れたの? ああ、そうなんですか。
【MY】 それで裏の門、南青山六丁目のほうにも、今、閉じたままなんですけど、あそこもあいていたんで。
【聞き手1】 あいていたんですか。
【MY】 あそこ通り抜けできていたんですね。
【聞き手1】 ああ、なるほど。
【MY】 それは一般にオープンにはなってなくて、知っている入は通り抜けできていた。
【聞き手1】 地元の子どもたちとかは通り抜けていた。
【MY】 なので、根津美術館はかなり池があって、下のほうに池があって茶室があって、緑が多いところかな、そんな感じはしていましたね。
【聞き手1】 やっぱりその池で釣りとか、ザリガニとりとかやらなかったですか。
【MY】 釣りはしたことはないですけれども、そんなに大きな池じゃないですよね。
【聞き手1】 そうですか。でも、根津美術館の森で遊べただけでも相当に恵まれていましたよね。そこでは大概何をしてらっしゃったんですかね。
【MY】 あんまり、ただ、そこにいて何か鑑賞するというより、ただ通り抜けていただけという感じですね。
【聞き手1】 結構、季節、季節に花も咲いたり、子どもだからあまり関心がない。
【MY】 あんまり関心なかったですね。青山墓地の花見もやっぱり大人になってからですね、行くようになったのは。子どものころは青山墓地にもあまり行かなかったですね。
【聞き手1】 あまり行かなかったですか。やっぱりこっち……。
【MY】 青山墓地は近かったですけれども。
【聞き手1】 地域性があるんですよね。だから、南青山2丁目の人たちは墓地の中でかくれんぼしたり缶蹴りをしたりということだったですけれども、じゃ、こちらのやっぱり小学生が行けるエリアというのは決まっていたんですね。
【MY】 そうですね、青山墓地は立山墓地のほうが近いんですね、青南からすると5分ぐらいで。立山墓地は何か行った記憶があるんですけど、そこからまたおりて上がって向こう側までは小学校のころはほとんど行ったことないですね。
【聞き手1】 ああ、やっぱり小学生でも登っておりてなんていうのはちょっと大変だったんですかね。
【MY】 というか、あんまり何か行きたいと思わなかったですよね、墓地なんかという感じでしたので。
【聞き手1】 夏の何か子どもたちの肝試しみたいな、そんな企画みたいのはなかったんですか。
【MY】 う一ん、それはあまり覚えてないですね。
【聞き手1】 ああ、覚えてらっしゃらないですかね。
【MY】 あまりそういう行事には参加しなかったと思います。
【聞き手1】ああ、そうですか。わりと住宅街だったので子どもたちも非常におとなしい遊びをしてらっしゃったんでしょうね。
【MY】 あと、青山通りは都電通りで今の半分の広さで、ちょうどあれオリンピックのときに拡張されましたね。だから、その前は結構覚えていますね。2階建ての商店が両側にずっと。
【聞き手1】 両側にずっと、そうですね。
【MY】 普通の、何ていうかな、私鉄の駅前の商店街というような感じで、ちょうど表参道の今は何になっている、今残っているか、布団屋さんがあって。
【聞き手1】 ああ、小松ストア、小松布団店さんですね。
【MY】 小松ストアですね、があって、あと増田屋のおそば屋さんがあって……。
【聞き手1】 ことぶきやさんが、ことぶきやさんって陶器屋さんですかね、小松布団店の前ですね。
【MY】 そうですね、ありました。それから、向かい側は北青山のほうに、富士銀行はその当時からあったのかな。
【聞き手1】 富士銀行はもうちょっと向こうのほうですけどね。
【MY】 というか、いや、向かい側。
【聞き手1】 交差点のところですかね。
【MY】 そうそう、交差点のところですね。
【聞き手1】 山陽堂とか、本屋さん。
【MY】 本屋さんがあって、その裏が善光寺、善光寺があった…。
【聞き手4】 これが昭和31年ごろの写真。
【MY】 そうですね。ここら辺の、神宮前の交差点ですよね。だから、銀行マークありますよね。
【聞き手1】 都電に乗ってどこか、例えば渋谷に、ご両親と渋谷に何か買い物に行って、例えば渋谷のデパートで何かデパートの食堂で何か食べるのが楽しみだとか、もうあれですかね、MYさんの世代はそういうことが楽しみじゃなかったかもしれない。
【聞き手4】 戦後の生まれですもんね、昭和25年のね。
【聞き手1】 戦後のお生まれなので。
【MY】 渋谷あたりは学生というか、中学・高校と渋谷経由して通っていたから。
【聞き手1】 あ、そうですね。
【MY】 そのころは寄ったけれども、小学校のころはあまり渋谷行った記憶はないですね。どっちかというと銀座かな、うちの両親が行っていたのは。多分銀座のほうがデパートには、松屋とか三越とか、うちそもそも築地なので銀座はなじみなんですよね。
【聞き手1】 ああ、そうですよね。
【MY】 だから、築地に行くついでに銀座に寄るとかで、いまだにずっと築地で商売は妹の旦那が継いだのでつくだ煮問屋はやっているんですよ。
【聞き手1】 ああ、つくだ煮屋さん。
【MY】 場外ですけどね、場外のところ。だから、小学校のころは行ってないな、暮れは御節料理を扱っていてすごく忙しくて、中学から大学にかけては大体12月後半は手伝いに行っていた。
【聞き手1】 アルバイトでお手伝い。
【MY】 アルバイトに行っていたですね、築地のほうに行っていた。
【聞き手1】 ああ、そうだったんですか。そうすると、オリンピックのときそこの今の六本木通りの工事が大変だったんで…。
【MY】 ひどかったですね、そうですね。
【聞き手1】 その辺横切って青南に通ってらっしゃったっていうんですけど。
【MY】 そうですね、ええ。
【聞き手1】 オリンピックを境にして町の風景が、工事中で。
【MY】 多分青山通りも六本木通りもそのときに広くなったというかね、特に六本木通りはそのときに……。
【聞き手1】 高樹町から渋谷に道路ができた。
【MY】 渋谷にかけて新しく切り開かれてできたんで、多分、そこを横切って通学していたんで、だから、町並みが何か変わってきているなというのはあったんじゃないかなと思いますね。このときにはまだないですね。
【MY】 ちょうど中学2年生でしたからオリンピックが、中学2年生のころには日比谷線はまだできてなかったですよね。日比谷線はまだできてなかった。銀座線、日赤医療センターから渋谷にバスが今もあるんですよね、通学で、あれをずっと使っていたんですね。前は産院前というのが今高稜中学校の向かい側が日赤の産院と血液センターがあって・・…・。
【聞き手4】 そうですね。
【MY】 その産院が終点なんで、そこがうちのすぐ近くだったのでそこから通学していた。オリンピックのときもそうでしたね。ただ、新しい道路ができて高速道路ができて青山通り広くなってというのは、町が何かすごく新しくなっているなというのはやっぱり感じましたよね。ちょうどできるまだ工事中ぐらいだったと思うんですよね、通っているときは。昭和35年ぐらいでしたから、通っていたのが、ちょうど10歳のころ、昭和35年と36年だからまだ多分できてなかったので、新しい道路沿いのビルとかというのの記憶はないですね、まだ道がつくっていたという感じです。
【聞き手1】 ああ、道はつくっているところだったんですね。
【MY】 だから、何か最初は行けた道が道路をつくるんで閉鎖されたりして、ちょっと遠回りしなきゃいけないとかね、何かそういうのは記憶にありますね。工事中で閉鎖されちゃったという、そこら辺がね、だから、少し回り道をしないと青山の南町に行けなくたりと、そんな感じはしますし、あと青山陸橋ができたのもその後でかすね、ここは。前ここは、今、道路が通じて乃木坂まで行けるけど、前はここなかったから、だから、青山墓地行くのは墓地下まで下がっていかないと確か行けなかったのかな。
【聞き手1】 根津美術館が通ってなかったからね。
【MY】 はい。
【聞き手1】 あそこ通ったのもつい最近ですもんね。
【MY】 20年前ぐらいじゃないですか、あれは。
【聞き手1】 そうですね。
【聞き手3】 高樹町あたりは高速道路や道路ができるまでは普通の平屋のおうちが。
【MY】 ですね、同じですね。だから、青山南町と同じような感じだったんですね。やっぱり1区画広くてやっぱり100坪ぐらいはあって、お店は全くなくて住宅地という感じです。
【聞き手1】 そうですね、お店は日赤通りのほう、その辺は日赤通りのほうですかね。
【MY】そうですね、日赤通りは前からず一うっと商店街で。
【聞き手1】 ええ、商店街だったようですね。
【MY】 だから、日赤通りと青山通りですかね、商店街、その間は何もなかったんです、お店自体。青山通りから一歩入るともう木造住宅地で庭つきの住宅と、そんな感じで。
【聞き手1】 子ども時代に映画とか、例えばテレビとか、本とかいうので非常に印象に残ったものって、何か毎日聞いていたものとか、そういったものは?
【MY】 子ども時代はあのときは「月光仮面」とか「鉄人28号」とか「鉄腕アトム」とか。
【聞き手1】 あ、「鉄腕アトム」の時代なんですか、随分…。
【MY】 それから、あれですよね、アメリカの「名犬ラッシー」とか、アメリカの何かドラマとか、そういうのが、それは小学校かな。
【聞き手1】 それでこの辺って常盤松の御用邸って近い?
【聞き手4】近いですね、高樹町の通りのこっち側。
【聞き手1】 常盤松の御用邸って近いですよね。
【MY】 今もうっそうとしたあれですよね。
【聞き手4】 そうですね。
【聞き手1】 ええ、そのころ常盤松御殿というのはうっそうとした森だったように思うんですけど。
【MY】 行ったことはないですね。
【聞き手1】 行ったことはないですか。
【聞き手4】 南青山の渋谷寄りですもんね。
【MY】 ええ。
【聞き手4】 だから、こちらからだとちょっと遠いわよね。
【聞き手3】 通りを挟まないと、挟みますね。
【聞き手4】 そうね、あの大きい通りを。
【聞き手3】 大きい通りを。
【聞き手1】 それでご成婚のときなんていうのは何歳ぐらい、ああ、まだ小さかったですよ、小学校の何年だろう、小学校の5年とか6年ぐらいですか、ご成婚は。
【MY】 昭和何年でした?
【聞き手1】 昭和33年ですね。
【聞き手4】 じゃ、まだ8歳か。
【MY】昭和33年だと8歳。
【聞き手4】 小学校。
【聞き手1】 だから、あまり記憶ないですかね。
【MY】 だから、記憶ないですね、覚えてないね。
【聞き手1】 ああ、何か常盤松の御殿に皇太子と皇太子妃がしばらく住んでらっしゃったようなんですけど、そういうのはやっぱり…。それでこの辺で青山に住んでらっしゃったときも西麻布に住んでらっしゃったときも、そうですね、昭和28年ぐらいになるともう占領時代ではないので随分外国人も帰られたときなんですけれども、外国文化の影響というか、例えばワシントンハイツがあったころとか、そういうころというのは皆さん青山通りに紀ノ国屋ができたりユアーズができたりというので、青山通りは非常に外国文化の影響を色濃く受けていたんですけれども、こっちでちょっと奥まったほうというのはそんなに外国文化というか、そういうのはなかったんですかね。
【MY】 あんまり覚えはないですね。
【聞き手1】 そのころは進駐軍が引き揚げてった後というのは、あまり外国人っていなかったですもんね、日本にね。この辺、外国人なんか住んでなかったんですかね、軍属の方じゃなくて。
【MY】 あまり覚えがないから、ここは南青山4丁目、3丁目付近というのはあまりいなかったんじゃないかなと思うんで。
【聞き手1】 うん、なるほど、なるほど。
【MY】 あっちの三連隊とか、今も星条旗新聞とかありますね。
【聞き手1】 はいはい。
【MY】 あそこは今もアメリカ軍がいるし、うちはあまりちょうど青山墓地の反対側ですからね。
【聞き手1】 そうですね。
【MY】 そこまでは行ってないですね、小学校のときは。
【聞き手1】 ああ、ちょっと遠いですもんね、子どもの足にはね。大体、自転車で、さっき自転車で遊んでらっしゃったっておっしゃったんですけど…。
【MY】 そうですね。
【聞き手1】 自転車でどの辺を?
【MY】 やっぱり今で言う南青山3、4、5、6丁目ぐらいですかね、というか、青山墓地まで行ってないから、青山墓地の…。
【聞き手1】 手前ぐらい。
【MY】 手前までです。それと北青山ですね、大体青南小学校で一緒だったそのころ遊んでいた人たちは大体そこら辺だからですね。
【聞き手1】 友達のうちなんかにもいらっしゃったんですかね。
【MY】 行きましたね。
【聞き手1】 友達の家の感じってどんなだったんですかね。
【MY】1人、作家、お父さんが作家をされている方がいて、フジモトっていうのかな、その家は何か洋館的な感じで、何か普通の日本間の平屋とは違うなというのは覚えていますね、ちょっと洋風な家だったかなと。うちは畳の、でも、応接間はあったですね、家で。
【聞き手1】 平屋だとやっぱり昔風の日本家屋だったんですか、何かふすまをあければ全部オープンのスペースになるみたいな。
【MY】 そうでもない……。
【聞き手1】 でもない……。
【MY】 そうでもないですね、そんな大きな家ではなかったので。
【聞き手1】 戦後建てられたんですよね、全部焼け野原に越してらっしゃったんだから。
【MY】 そうです、昭和27、8年に越したときに建てた家ですね。
【聞き手1】 建てたんですね。
【MY】 そのころはまだ3歳、たしか3歳なんです。3歳と1つ下の妹がいて、その4人なんで家自体はそんな広い家ではなかったと思いますね。
【聞き手1】 そうしたら100坪もあったらすごく広い庭ですね。
【聞き手4】 そうなんですね、庭が広くて。
【MY】 ええ。妹は女の子だから何をしていたのかあまり覚えてない。あまり一緒には遊んでなかった。低学年のときは一緒に遊んでいたんですね、3年生ぐらいまではね、その隣の。女の子3人と1人だったから、何やっていたかな、トランプとか、すごろくみたいなのやっていたのかな、屋内のゲームをしていた覚えがある。
【聞き手1】 ああ、室内では、室内で遊ぶときはトランプとかゲーム。
【MY】 1、2年のころはね。4年から上は外で自転車に乗ったりとかしていたんで、そのときはやっぱり男だけでしたね。だから、小学校高学年ぐらいになるとあまり女の子と一緒に遊ぶとかってしないですよね、別々だから。
【聞き手1】 うん、極めておとなしい何か……。
【聞き手4】 そうですね。
【聞き手3】 やはり青南小学校にお通いになって中学受験を皆さんされたわけですかね。
【MY】 そうですね、一番下の妹だけが青中に行ったのかな。僕とすぐ下のは私立に行ったんで、中学から。
【聞き手1】 ああ、中学から。家庭教師、大概青南のお子さんたちというのは塾とか家庭教師とかってついていたんですかね。
【MY】 多分、多分、と思います。僕は塾には行ってなくて家庭教師なんで。
【聞き手1】 家庭教師、ああ、そうなんですか。
【MY】 たまたま親戚のまたいとこぐらいの人ですね、ちょうど当時は東大の学生だったのかな、そう、麻布から東大行ったんです、今の親戚の子が。
【聞き手1】 ああ、そうなんですか。
【聞き手3】 そのころおやつなんていうのは?
【MY】 おやつは結構食べていましたね。
【聞き手3】 どんな?
【MY】 うちの母親は甘いものが好きで、もう最終的には糖尿病をず一うと患っていたんですけれども、おせんべい、おまんじゅう、かりんとうとか、和菓子、洋菓子も好きで、ビスケットとか、そういうものかな。多分、帰ると3時とかって大体おやつ食べていましたよね、母親が好きで食べていたから。
【聞き手1】 ほとんど用意されていたという感じですか。
【MY】 はい、ええ。
【聞き手3】 大体青山通りで買い求めていらしたんですか。
【MY】 う一ん…。
【聞き手4】 昔の人はつくったんじゃない。
【聞き手3】 銀座?
【MY】 いや、銀座、いや、多分、青山通りだと思いますけど、どこで買っていたかよくわかんない。
【聞き手3】 回りにそういうお店はあったわけですね。
【MY】 青山通りにはあったですね。
【聞き手3】 あったから。
【聞き手1】 ありましたね。
【MY】 お菓子屋さんとかあったですね。
【聞き手1】 その当時あれですかね、お母様はお買いものにいらっしゃったんですか、それとも御用聞きが……。
【MY】 御用聞き来ていましたね。
【聞き手1】 来ていて、それで御用聞きの方が届けてくれる。
【MY】 お菓子は買い物に行っていたと、多分、酒屋さんとクリーニング屋さんは来ていたような覚えがありますね、御用聞きが。あとはどうなんだろう。
【聞き手1】 何かね、昔はあの辺みんな御用聞きで……。
【MY】 うん、御用聞き多かった。
【聞き手1】 魚屋さんも、野菜、八百屋さんも。
【MY】 魚屋さん、八百屋さん、八百屋さんは来ていたのかな。何か行商の人が来ていた。
【聞き手3】 担ぎの…。
【MY】 担ぎの、そう。
【聞き手3】 千葉の…。
【聞き手1】 そうですね、千葉の人。
【MY】 そうそう、そうですね、大きなかごで。
【聞き手1】 こおりしょってね……。
【MY】 ええ、週一か月1回か。
【聞き手1】 あれですかね、そういう回りとのあまりおつき合いのないような地域だと、お祭りなんていうのは全然関係なかったんですかね。
【MY】 お祭りは、うちの両親あまり好きじゃなかったから参加した覚えはない。
【聞き手1】 あの辺は何かね、熊野さんの、熊野神社の氏子さんだというふうに聞いているんですけど。
【MY】 青山で氏神様も行ったことないでしょうね。
【聞き手1】 ああ、ないですね、そういう環境だと。
【MY】 あそこは氏神様どこなんですか、南青山。
【聞き手1】 何かあの辺は熊野さん、熊野神社。
【MY】 金王八幡神社。神社に行った覚えが全然ないんですけどね。初詣も行かなかったし。
【聞き手1】 あ、そうですか。
【MY】今は結構行っているんですけれども、明治神宮…。
【聞き手1】 善光寺さんなんかで縁日が出たとか、梅窓院なんかでも縁日があったっていう、こっちは長谷寺も縁日が出たというふうに聞いていますけど、そういう・
【MY】 そこら辺はあまり行ってないな、ええ。
【聞き手1】 何か小中学校のときに、じゃ、MYさんの一番の楽しみって何だったですか。
【MY】 何でしょうかね。う一ん、何だろうな、あんまり、ドッジボールぐらいですかね。
【聞き手1】う一ん、例えばお勉強しているのが楽しみだったとか。
【MY】 あんまりお勉強もそんなに好きでは、嫌いではなかったけど、そんなにずっと本を読んでだというというのはあまりないし……。
【聞き手1】 そのころMYさんのお宅にテレビとか、洗濯機とか、冷蔵庫とかってもうありました?
【MY】 ありまし……。テレビは、東京オリンピックは多分テレビは見たのかな。
【聞き手1】 あ、テレビでごらんになったの、オリンピックは。
【MY】 白黒のですね。
【聞き手1】 それで東京オリンピックのときはあれですかね、お友達かなんか、どこかにテレビのあるうちに集まって見たとか、そういうことではない。ほとんどお宅にテレビ…。
【MY】 ではないです。家で多分見たんじゃないかなと思いますね。オリンピックは2回、3回ぐらい何か予選に駒沢とか行きましたね。
【聞き手1】 ああ、見にいかれたんですね。
【MY】 見に、はいはい。
【聞き手1】 東京オリンピックって、そうすると、中学2年とおっしゃいましたね。
【MY】 そうです、中学2年です。
【聞き手1】 中学2年、一番興味のある年ごろだったかもしれないですね、中学2年だとね。
【MY】 あんまりそういえばそうですね、スポーツとかあんまりやってなかったから、そういうグループに入っていなかったんですね。そんなに野球もサッカーもしてないんで。
【聞き手1】 ああ、そうですか。戦後30年ぐらいはやっぱりどなたに聞いても「やっぱり野球でしょう」みたいに言うんですけど、学校から帰って校庭で何かみんなで遊ぶとか。
【MY】 学校では、多分、あの当時は学校終わったら校庭開放はしていたのかな。
【聞き手1】 なかったですか。
【MY】 なかった、あまり覚えないですね。校庭で何か遊んだってそんなにはないです。
【聞き手1】 ああ、なるほど、そうですか。お友達の家なんか遊びにいって家の中のことをちょっともう少し教えて欲しいのですが。洋風の家があったり、あと何かお友達の家に行って印象的、そのころの暮しみたいな、人々の暮しみたいな、例えばお友達の家に行ったら、あそこの家に行ったら必ずおやつが出たとか、何かお母さんですね。
【MY】 多分ね、あまりいろんな家には行ってないんですね。
【聞き手1】 あ、そうですか。お母様というのは和服着てらっしゃったんですか。
【MY】 いや、和服は着ていない。
【聞き手1】 あ、洋服だったんですか。
【MY】 洋服ですね。あの当時だから何も、専業主婦ですね。専業主婦、何も仕事もしてなかったし、だから、ずっと家にいて家事をしていたという感じですね。
【聞き手1】 何年ぐらいから、何年生くらいからその洗濯機とか冷蔵庫とかって、電気冷蔵庫とかって……。
【MY】 洗濯機とか冷蔵庫ね。
【聞き手1】 家に入ったか覚えていませんかね。
【MY】 う一ん、多分、氷を入れる冷蔵庫があったのは何となく覚えているんですけど。
【聞き手1】 ええ、木の。
【聞き手4】 ありましたね。
【MY】 それがいつ電気冷蔵庫になったかというのはちょっと記憶ないです。多分、最初のころは上に氷を置いてある冷蔵庫。
【聞き手1】 氷置いて、はい、そういうタイプの冷蔵庫だったですね。
【聞き手4】 氷屋さんがね、近くにありましたもんね、大体。
【聞き手3】 そのころは、ごめんなさい、MYさんのおうちとか、その回りのお友達やなんかのおうちにはお手伝いさんというか、女中さんとか、そういう方たちはどうだったですか?
【MY】 結構いましたね、うちも僕のいとこかな、いとこになる女性がちょうどやっぱり結婚前で20歳ぐらいだったのかな、家事見習いの感じでお手伝いさん的な感じでしばらくいました。小学校のころに結婚して出ちゃったのかな、それまでに一緒にいて家事見習いですね。やっぱりそういう女中さんまで行かないけど、そういう方は結構いたですね。
【聞き手3】 回りのおうちにも。
【MY】 ええ、と思います。
【聞き手1】 う一ん、回りのおうちもね、何ていうんですか……。
【MY】 隣の隣が、石丸電気ってありますね。石丸電気の社長さんのお宅だったと思うんですよね。ちょうど青南小の向かい側ぐらい。戦後大きくなったんじゃないですかね、石丸電気って、今の最初の量販店。
【聞き手2】 そうですね。
【MY】今はヨドバシとかビッグカメラとかのほうが大きいですけど、昔は秋葉原の石丸電気というのが結構安売りというかね、量販店のはしりですけどね。ほとんどつき合いはなかったんですけれども、石丸電気の多分社長さんだと思うんですけどね、の自宅、結構立派な、多分、うちよりは立派な家だった、(笑)ええ。
【聞き手1】 ああ、そうですか。
【聞き手3】 ちょっと話はずれますが、ということは、秋葉原はそのころもやはり電気屋さんが集まっているような…。
【MY】 多分、でしょうね、多分、戦後できたんですよね(*注 秋葉原電気街は1949年〜)。
【聞き手1】 そうですね。
【MY】 だから、そのはしりで多分ちっちゃい町の電気屋さん的な感じで最初はスタートしたんじゃないですかね。昭和25年、30年のころというのはまだビルではなくて、僕も、多分、そう言えばね、電気ラジオをつくっていたりとかしていたんで……。
【聞き手4】 ああ、ラジオ。
【MY】 ラジオ、あれ小学校のころかな。
【聞き手2】 そうね、趣味ですね。
【MY】 ラジオ組み立ててね、秋葉原にパーツを買いに行っていたりとかっていう覚えはありますんで。
【聞き手1】 うん、そうですね、男の子はそういうことが……。
【MY】 あれは多分そのころだと思うんですね。
【聞き手1】 はやった時期ってありますからね。
【MY】 ありますね。
【聞き手1】 「子どもの科学」みたいな本を買ってきて。
【MY】 そうですね、パーツを組立ててトランジスタラジオかな。
【聞き手1】 ええ、そうですね。
【MY】 ただ、そのぐらいで隣の家、すぐ隣の、青山通りの隣はその全銀連のビルだったんで、向かい側は能屋敷、能屋敷じゃなく、お能をやっている…。
【聞き手1】 はいはい、銕仙会で…。
【MY】 ええ、すぐ隣はよく知らないんですよね、全くつき合いなくて。あんまり、だから、町会的な感じで地域での活動というのはほとんど記憶にないの。
【聞き手1】 う一ん、何か全銀連の隣ぐらいにも町会の事務所がありますよね。ちっちゃな神社があって、その隣。
【MY】 神社は今もありますね、お稲荷さんかな。
【聞き手1】 ええ、お稲荷さんですかね、はいはい。
【MY】 あれは昔もあったと思うんですよね、あったと思うんですね。
【聞き手1】 ええ、お稲荷さんの。
【MY】 町会事務所は覚えないんで、お稲荷さんの裏に今もありますね。アパートというか、マンションというか、何か一番最初にビルができたのがそこのような記憶があるんですけどね。
【聞き手4】 お稲荷さんの裏ですか。
【MY】 お稲荷さんの裏、今もあれは何だろう、ダイエーじゃなくて、5、6階建てぐらいの集合住宅。青山通りが拡張されたら、そこはやっぱりビルが結構建ちましたね、1階が商店のビル。それまでは青山通りにはビルがなかったと思うんで、2階建てぐらいの商店だったので、都電が通っていて。
【聞き手1】 そうですね、青山通りも2階建ての住宅でしたよね。
【聞き手4】 そうね、川島さんがいつもそう言っていましたもんね。
【MY】 うん。
【聞き手1】 だから、商売しているとね、どうしても下が店舗で。
【MY】 下が店舗で上に住んでると。
【聞き手1】 上が住居という感じの建物ですね。
【MY】 そんな感じのが、ずらっとあったような感じで、紀ノ国屋はあまり覚えないですな。
【聞き手1】 そうですね、もうMYさんの時代になると食べるものというのに苦労したという時代ではないですね。
【MY】 ではないですね、何もなかったという。
【聞き手4】 昭和25年ぐらいじゃね、そうですね。
【聞き手1】 大体、おたくの食卓ってどういったメニューが多かったんですかね。
【MY】 結構うちの父がやっぱりそこにいたときは工場をやっていたし、結構早く閉めて6時ぐらいから延々とお酒を晩酌で飲んでいて、大体そのつまみ的は料理が多かったんじゃないかと思います。2時間か3時間ぐらいは夕食をしていたんで、別に、だから、食事というよりはお酒を飲むという。結構、両親の話は、ちょうど築地、何の話ししていたのかな、結構話をしていたような感じでね。あまり人を呼ぶことが好きじゃなかったんで、お客さんは来た覚えがほとんどないです。
【聞き手1】 ああ、そうなんですか。それで、MYさんは中学校から私立を受験されたわけなんですけれども、それはご両親の希望だったんですか、ご本人の希望だったんですか。
【MY】 両親だと思います、行かせたいと。
【聞き手1】 ああ、やっぱりそのころは、何ていうんですかね、そういう子どもに一流の教育をさせるというのが親の何ていうか、望みだったというか、そういう空気ではありましたよね。
【MY】 まあ、そうだったですね。なので、うちのやっぱり親族で男兄弟みんな麻布、東大に行っていたということがあって、その1人が家庭教師に来ていたんで。ただ、あんまり勉強した覚えは全然なくて、何か受験大変だったなとはほとんど思わなかった。
【聞き手1】 思わない、ああ、幸せな方だったんですね。(笑)
【聞き手4】 そうですね。
【MY】 あまりせかされて勉強した覚えは全然ないんですよ。嫌いではなかったので。
【聞き手1】 そうすると、妹さんも私立を受験されて。
【MY】 ええ、ですね、妹は、だから、母が出た山脇なんですけどね、赤坂でということで、叔母もそうだし、だから、そこへ。
【聞き手1】 じゃ、妹さんは西麻布から山脇まで通われていたんですね。
【MY】 そうです。近いほうじゃないですか、赤坂だから。
【聞き手2】 そう、近いもんね。
【聞き手4】 だから、これ、赤坂・青山の人、結構山脇行っている人多いですね、女の人はね。
【MY】 多いんじゃないですかね。
【聞き手1】 そうですね、赤坂の人は。
【MY】 そうそう、地元でもあるし……。評判もね、別に悪くはなかったし、まあね、よかったですからね。
【聞き手4】 そうです、昔はよかった、そうですね、お嬢様がね。
【MY】 青南小は、今の建物の前の建物ですね。1つ、似たような感じの建物でしたけど、3階建てで。ただ、多分50人~60人の間ぐらいだった、1クラスが。それで6クラスあったんで、だから、今の生徒数の3倍かそこらは、もっと多かった。36クラス。
【聞き手4】 一番多いころじゃないですか、昭和25年生まれね。
【MY】 一番、ちょうど、だから、ベビーブームの一番最後ですね、昭和25年だから。昭和21、2、3年が一番ピークですよね。
【聞き手4】 そうですよね。
【MY】だから、そこで一気に増えたから、そこで小学生が満杯になったんだろうと思う。
【聞き手4】 そう、一番多いころですね。
【聞き手1】 あれですもんね、小学生が減ったって青南は子ども数、生徒数減らないですからね。
【MY】ですね、青南と赤羽と白金はね、港区の中の進学校でみんな寄留の子どもたちが多くて、いまだにそんな感じじゃないですかね。
【聞き手1】 そうですね、だから、青山に住んでらっしゃったころと西麻布に住んでらっしゃって、もう一番印象に残ったことみたいなのはどういうことですか。やっぱり遊び方が違うとか、例えば青山だと、今と昔と違いますけれども、道路でもちょっと広くで…・・。
【MY】 だから、やっぱり閑静で静かだったなという思いがありますね、青山はね。その時代があれだったんでしょうか、車がまず少なかったですよね。だから、道路で遊べたという、今は全くだめだし……。
【聞き手1】 ええ、今でも、でも、閑静で静かですよね、ほかの地域に比べたら。
【MY】 う一ん、まあ、そうかな。
【聞き手1】 世の中全体的に騒然としているので。
【MY】 うん、ほとんどマンション街ですよね、麻布も似たようなもんですけどね。だから、それなりに1区画がやっぱり100坪か200坪で広かったからマンションが建ちやすかったんでしょうね。
【聞き手1】 そうですね。そのころのお友達で何か印象に残ったお友達っていますか。例えばこういう人もいた、ああいう人もいたみたいな感じで。
【MY】 結構みんな受験していたんでやっぱりできる子が多かったというのがありますね。クラス会行って、ほんとう7、8年前に初めてあったんで、青南小学校の、それまで中学からは私立行っちゃったし、そういうのが多かったから全く小学校で集まりってなかったですね。なので、多分出て50年ぐらいになってからのときに1人、遊びにいったサッカーをやっていた友達が、何だっけな、ビクターかなんかだっけな、で何か理事かなんかやっていて呼びかけで集まったんで、青山に。要するにそのころになるとまず住所がわからないですね、そのまま住んでいる人ってほとんどいない、うちもそうだけど。ただ、うちの場合には卒業したときの住所がそのときから麻布笄町だったので変わってないんですね。だから、連絡ついたんだけれども、多分50人いて十数名ぐらいしか連絡がつかなかったと。実家が残っていて連絡がついたというほうが多いですね、そのまま住んでいるというのはほとんどいない。
【聞き手1】 ああ、なるほどね。
【MY】 だから、小学校を卒業して地元でそのまま、だから、商店がなかったですもんね、そもそもね。商店があればそのまま継いでというのもあるけれども。
【聞き手1】 みんなそういう意味じゃサラリーマンというか、何か個人の住宅が多かったので、そのまま引き継いで親の代の親の仕事をするという人は少ないですよね。
【MY】 あんまりいないですね。だから、勤め人になると社宅に入ったりとか、ほかに出たりとかするから、だから……。
【聞き手1】 じゃ、ほとんどは……。
【MY】 もともとのそのときの1戸建ての家がそのまま残っているというのはないですよね。
【聞き手1】 もういないですもんね、ないですもんね。
【MY】 ないんです。全部マンションになっちゃっているから。
【聞き手1】 そのマンションに入っているというわけでもない。
【MY】 でもないですよね、大体売っちゃってほか郊外に行ったりとか、という。
【聞き手1】 うん、なるほどね、商店街だったら…。
【MY】 そういう意味では商店がある赤坂とか麻布の十番とか六本木とかだと、親の仕事を継いだ人もいるだろうし、多少はそういう地元のつながりがあったかと思うんですけどね、でも、青山の場合は、青山通りの商店街の人はあれだけども、それ以外には商店もなかったから地元で仕事をしているという人が少ない。
【聞き手1】 ああ、そうですよね。
【MY】 うちもその町工場をやっていたけれども、途中でやめちゃって築地にうちのおやじがもう仕事をするようになったので、工場を途中でやめちゃったし。うちの父のほうはそもそも大学、機械工学出ているんで、冷凍機関係の据えつけとか、修理とか、そういうのをやっていて……。
【聞き手1】 ああ、すごくお父様って独立心が旺盛な方だったんですかね。
【MY】 でも、う一ん…。
【聞き手1】 例えばそうやって機械工学なんかやっていたら、組織の中に入ってやるということも選択肢としてあったかもしれませんけどね。
【MY】 まあ、そうかもしれないですけどね。
【聞き手1】 自分で町工場つくられて。
【MY】 まあ、やって、それから、全く畑違いの問屋の…。
【聞き手1】 ええ、仕事をされた。
【MY】 仕事も継いで、おじいさんから継いで、実のおじいさんじゃないんですね、うちの母親のほうだから。今もず一っと築地で商売のつくだ煮もやっているけど、主にお惣菜の問屋さんを、最近、観光客が増えて築地はもうにぎわっていますね。
【聞き手4】 そうですね、築地はにぎやかですね。
【MY】 にぎわっています。うちの店も・…・・。
【聞き手2】 何ていうお店ですか。
【MY】 ツクハンという店です。つくだ煮、平仮名で「つくはん」なんですけどね、波除神社のすぐ近くでやっています。
【聞き手1】 あ、そうなんですか。
【MY】 波除神社の角に削り節のマツエダ(松村?)さんだったっけな、削り節のお店が波受神社のすぐ隣で、その2つ隣ぐらいですけどね。
【聞き手1】 そうですか。あと、今お友達の話を伺ったんですけど、お友達の話を伺う中で非常に青山の特色というのがすごくよくわかったというか、ほんとうにサラリーマンの家庭が多かったので……。
【MY】 そうでしょうね。
【聞き手1】 家を継いで代々そこにいるという方が少ないんだなというがすごくよくわかりましたよね。
【聞き手4】 あの青山通りだけだったの、継いでいるのはね。
【聞き手1】 だから、そう、比較的古いお話を伺おうというので今まで青山通りの商店街、ずっと古く住んでいらっしゃっている方の商店街の方の話を聞くことが多かったんですよね。
【MY】 ああ、多分そのぐらいしか、商店の人はお店を継いでいるけど……。
【聞き手1】 そうですよね。だけど、普通に……。
【MY】 普通の民家の人はやっぱり継がないからいないですよ。
【聞き手1】 そうですね。ましてやね、バブル期とか、非常にあの辺土地が値上がりしてね。
【MY】 ええ、値上がりして、値上がりすると住んでいて相続税払えないから切り売りするか売っちゃって、外に引っ越して相続税払うと。
【聞き手2】 そう、大体みんなそう。
【MY】 知り合いでも多かったです。親が死ぬと特に100坪、200坪なんかとんでもない相続税かかりますから。
【聞き手1】 相続税、そうですよね。
【MY】 とても売らないと払えないのが普通なんで、それで売っちゃって郊外に引っ越さざるを得ない人が多かったんです。
【聞き手2】 そうでしょう。
【聞き手1】 ああ、ほんとうにそういう事情がわかりましたね。
【MY】それでうちも麻布に越してから狭かったんで、10何年前に小規模宅地特例ができたんですよね。そうすると、評価額が8割引き、2掛けになるんですよね、60坪以下だと。100坪だとそのままそっくり相続税かかるけど、60坪以下だと2掛けだから5分の1になるんです。そうすると、1等地にいても商店街だったらばほとんど相続税、うちもゼロで相続できたんで、父親から。それで、離れないで済んだんですよね。
【聞き手2】 ああ、そうね。
【MY】 だから、子どもも親のところに住める。だから、その前のやっぱりバブルになって土地が上がって、結構みんなその当時は広い土地だったからとても相続税払えなかったから、青山に住んでいる人、麻布に住んでいる人はどんどん外に……。出ていきましたね。出ざるを得なかったんです、大きいところはですね。
【聞き手2】 そうですね。
【聞き手1】 ああ、なるほどですね。
【MY】 それがず一うと続けて、親子続けて住めなくて、投げちゃった一番大きな要因かなと思いますね、相続税が。
【聞き手1】 なるほど、はい、そうですか。
【MY】 同じぐらいの、近所でも親が死んだら引っ越したと。
【聞き手2】 そうです、それはありますね。
【聞き手1】 ああ、なるほどね、だから、今までほんとうに表通りしか聞いてなかったから。
【聞き手4】 そうね。
【聞き手1】 中の話ってなかなか…聞けなかったですね。
【MY】 いないですよ、だから、今ここに。
【聞き手1】 そうなんですね、地元にいなし。
【MY】 うちはたまたま麻布だから、港区の中だからこういうのをお声がけはあったけれども……。
【聞き手1】 ええ、そうですよね。
【MY】 ほかに、大体郊外行っちゃいますんで、世田谷とか杉並とかね。
【聞き手1】ええ、どこに行ったかもわからないみたいな。
【MY】 どこに行ったかわかんない。
【聞き手1】 それこそ50人いて16人しかね、連絡がつかなかったみたいな。
【MY】 ええ、そうですね、それも港区に住んでいるのってうちぐらいしかいなかったと思います。
【聞き手2】 うん、そうでしょうね。
【聞き手4】 そうよね、お店残して外に住んでいるとかね、結構いらっしゃったりして、聞いていると住所が違いますもんね。
【MY】 そうですね。多分ね、卒業して会ったのはその同窓会1回で、それも多分ね、7、8人しか集まらなかったと思う。その連絡先がわかったのが10何人だけれども。
【聞き手2】 うん、来たのはね。
【MY】その来られたというのはまたそのうちの半分もいないんで。
【聞き手2】 そう。
【聞き手1】 やっぱり、でも、それは青山の雰囲気というのをあらわしているかもしれないですよね。もうやっぱり……。
【MY】 ああ、そうかもしれないですね。
【聞き手4】 そうね。
【MY】 昔からそんなお祭りやってわ一っと地域で盛り上がるとかね、そんな感じはなかった。わりと閑静な住宅地だった。だから、近所つき合いもそんなにない。やっぱり愛着は私もありましたし、ただ、そのままず一うと住めない事情があったということで離れたと思います。多分、今住んでいる人、私もシルバー人材センターでこの前、地域部会とかやって町歩きの話もしたんですけれども、赤坂地区やったんですが、赤坂地区の人でほんとう長く住んでいるという人ってほとんどいなかったんですよ。60歳以上のね、人が集まって、今住んでいる人のうちで10年以上住んでいる方がぱらぱらいるぐらいだったですね。
【聞き手2】 そうですね。
【MY】 だから、赤坂の赤坂1丁目~9丁目にいる方で30人ぐらい集まって……。
【聞き手1】 あ、30人も集まりました?
【MY】 地域班は60人ぐらい、60何人いるんですかね、そこでシルバー人材センターに登録していて、私もちょうど今年登録したんです。その中でエリアの部会があって、赤坂の部会のときに一応ちょっと町歩きのPR会で30分ぐらい話をしたんです。ええ、やっぱり生まれてからずっと住んでいる方っていらっしゃらなかったです、その中で。
【聞き手1】 住んでらっしゃる方はね、結構、赤坂のことを知っているつもりでいるんですよね、やっぱり自分のところね。
【MY】 でも、知らないというのが多いじゃないですか。
【聞き手1】 知らない人が多いですけど。
【MY】 町歩きやってみて初めて発見したというのも結構多いし……。
【聞き手1】 はい、そうなんですね。
【MY】 麻布もやっていたし、赤坂・青山とかも、ところが、もう一つ赤坂じゃなくて芝の大門でも同じようなのをやったんです。そうしたら、あそこは商店街で全く違うんで、そうすると、半分以上の人がず一うと住んでいる人でした。
【聞き手2】 ああ、そうでしょうね。
【MY】 お店をやっている多分そういう方が、地元で仕事をやっている方が多かったんでしょうね。だから、もうず一うと50年以上という人がかなり多かったんで、あ、すごく違うなと思いましたね。
【聞き手1】 ああ、なるほどね、町の状況というのが随分違うんですね。
【MY】 ええ、大門は大門で狭くてほとんどがほとんど商店、事務所街の感じですから、そこにいまだに住んでいる方というと古い方ですよね。
【聞き手1】 大体、今、聞くべきことって大体聞いたんですけれども、皆さん、何かご質問ありますか。
【聞き手2】 そうでしょうけどね、だから、この20数年の間に赤坂地区に住んでいる子どもたちの変化というんでしょうかね、そういうのを感じていらっしゃるかなと思いまして。
【MY】ああ、多分、僕、20年という、もっと前ですよね、50年前は道で遊んでいたけれども、今は道で遊ぶ子はいないとかね。
【聞き手2】 そうですね。
【MY】 そこは私も20年前ももう道では遊ばなくなった、遊べなくなったんですね、もう既に車が多くなって。麻布グラウンドで有栖川公園の隣、あの野球場でいつもスポーツ大会やっているんです。
【聞き手2】 ああ、なるほど。
【MY】 11月にね。多いときは300人ぐらい参加をしてやっています。
【聞き手1】 あと何か皆さんありましたら、あれですかね、学校通ってらっしゃるときに、今、都電で通ってらっしゃる、都電で渋谷まで……。
【MY】 都電じゃなくてバス。
【聞き手1】 バスで行っておられた。
【MY】 昔からありました、日赤産院から渋谷行きの都バスが、学バスといって女学館と国学院と実践と青学を通って……。
【聞き手4】 ありますね、ずっとあそこ学校ばっかりだわね、そういえばね。
【MY】 今もあれ180円か多少安いんですよね。
【聞き手4】 そうですね、でも、あそこ道路随分狭いですよね。
【MY】そう、狭いところを通っていくんで。
【聞き手1】 それでもう渋谷からは東急東横線か……。
【MY】 東横線で日吉へず一うと行っていた。
【聞き手1】 ああ、日吉まで行かれて。
【MY】 日吉の普通部に行っていたんで、そこからず一うと、大学も工学部なのでず一っと日吉ですね。
【聞き手1】 ああ、なるほど。
【MY】 途中から日比谷線ができて広尾の駅から通うようになった。
【聞き手1】 やっぱり広尾の駅のほうが近いんですか。
【MY】 近い。
【聞き手1】 ああ、そうなんですか。
【MY】 近いですし、渋谷からバス乗るよりは全然早いんで・・・…。
【聞き手1】 ああ、なるほど。
【聞き手4】 そう、歩っていかれる距離だわね、歩っていかれますもんね、あそこだとね。京橋に通われていたときはどういうふうに行ってらした?
【MY】 京橋はやっぱり広尾から……。銀座乗りかえで、途中、10何年はず一っとあそこの霞ヶ関でおりて京橋まで、日比谷公園のお堀端をず一っと毎朝歩いていたんです。歩きはももともと好きなんで。港区のボランティアガイドも立ち上げて、街歩きもしています。
【聞き手2】 私の赤坂は勝海舟のところですのでね、毎年、近畿ツーリストが来ますよ。
【MY】 あ、そうですか。
【聞き手1】 赤坂教会っていうのは勝海舟のゆかりの教会なんですよ。
【MY】 ああ、そうですか、そうですか。
【聞き手1】 今日はありがとうございました。
一了一