赤坂-5
氷川小学校の同級生がそれぞれの環境や遊びを語る
氷川小学校の同級生がそれぞれの環境や遊びを語る
① 語り部氏名 TY氏、SH氏、OK氏、TH氏(昭和24年区立氷川小学校同級生)
② 男性 2名 女性2名
③ 生年月日 昭和11年・12年(1936〜1937)
④ 赤坂で暮らした時期
① 主な内容
(OKの話) 実家は戦後仕出し屋、料亭、のちに旅館(屋号 A)を営み、なに不自由なく育った。父は赤坂花柳界の復興につくし、三業組合(東京赤坂組合)長になった。昭和27年に新築の赤坂会館(4階建の見番兼稽古場)は舞台付きの立派な建物だった。TBSの開局(昭和27年、テレビ放送の開始は昭和30年)に合わせて開業した旅館は大変繁盛した。
(THの話)家業は炭屋(TH商店)、花柳界やお屋敷へは佐倉炭(木目の通った上質炭)を切って届けていた。一般家庭用には粉炭や硬い楢炭を売っていた。炭団、練炭、薪も扱っていた。 戦時中の強制疎開は一週間で取り壊しの命令を受け、福吉町に移ったのち何日かして、空襲にあった。
(その他)街の中には政治家が記念写真で利用するためか、写真館が多かった。戦後の子供たちの遊び場は校庭、広いお屋敷の焼け跡(三井邸の地下室、黒田邸の池など)や近衛連隊の跡など。六地蔵の縁日も楽しみだった。
② 備考
・待合は芸者と懇ろに遊ぶところで、板前はおいていないが、泊まることはできる。花柳界では通常料亭と呼んでいた。赤坂産業組合加入の料亭数は20軒程(有名店は長谷川、中川、川崎、若松など、金龍は小規模店)。花柳界の区域はみすじ通り、田町通りに限られていた。
・戦災で焼け残った黒田邸の門は読売ランドに移築されている。
① 現住所 赤坂在住 2名
② 小学校 区立氷川小学校
③ 保存資料の状況 テープ起こし原稿 表紙 三回確認
④ 取材者 HM(聞き手1) HK(聞き手2)
⑤ 取材年月日 平成24年(2012)・平成25年(2013)
⑥ 旧住所 TY→福吉町 OK→福吉町 SH→一ツ木町 TH→田町
語り部 TY、 SH、OK、THさんの話
【SH】 昔住所で、僕は一ツ木町45だったな、たしか。
【TY】 うちは福吉町1番地だから。そう、昔はね。だから、本籍は赤坂2丁目1番地?
【聞き手】 福吉町1番地というのは黒田さんのお屋敷。
【TY】 それで、黒田さんのお屋敷を除くとOKさんち。
【OK】 一条さんの屋敷がある。福吉町2番地。一条さんの屋敷に。13軒あったんです。そこに住んで。
【TY】 九条さんと一条さんが2番地になるの? 黒田さんは全部1番地なのよね。
【OK】 で、一条さんが2番地になる。いや、九条さんが……。
【聞き手】 3番地なんですかね。あっ、一条さんと九条さんが2番地なんですかね。
【TY】 2番地だと思う。
【SH】 生まれたところは氷川町だけどね。
【OK】 私はみすじ通りの今の吉池のところが家だったんです。昔は高台だったんですよ。階段があったところ。
【聞き手】 今でもちょっと階段がありますけれども。
【OK】 ありますね。あの階段を上がって、吉池のビルのところが全部うちだった。
【SH】 SHと申します。
【OK】 私は昔、SWと申します。旧姓はSWです。
【聞き手】 終戦は皆さんお幾つだったんですか。
【OK】 小学校3年です。
【聞き手】 小学校3年生ですか。それじゃ、皆さん疎開していらっしゃったとか。
【TH】 僕は集団疎開へ行って、具合が悪くて帰ってきて、その直後に空襲で焼け出されたんです。
【OK】 氷川小学校は個人疎開できない方はみんな集団疎開したんです。
【TH】 そのときの母が書いたものなんですけど、集団疎開と強制疎開の取り払いになった、それが1、2行書いてあるものがあるもので、ちょっとお持ちしてみたんです。
【聞き手】 あっ、そうですか。THさんのところは家が強制疎開。
【TH】 はい。それで、私が集団疎開へ行った直後に強制疎開で、また福吉町。
【聞き手】 それで病気で帰っていらっしゃって、どうされたんですか。
【TH】 そして、福吉町のほうへ引っ越していたもので、そこへ行った何日かのうちに空襲にあいまして、それで逃げて。
【OK】 昭和20年5月25日ですね。
【SH】 東京大空襲は3月10日が有名だけど、その日じゃないんだな。
【OK】 それを見て疎開したんですよ、うちは。下町の3月10日の空襲を見て。
【TH】 それで、だんだん火が来て、麻布のほうがまだ焼けてなくて、親戚があったもので、そちらのほうに逃げたんだけども、最終的にどんどん焼けていって、朝になったらアメリカ大使館の裏。アメリカ大使館のあの近辺は焼けなかったんですね。
【SH】 そうね。あれは焼いちゃいけないんだ。
【OK】 私も焼けなかったところよ。アメリカ大使館の近くじゃ。
【TY】 うちは違うもん。うちは今のところだから。
【聞き手】 大使館に逃げた。
【TH】 大使館じゃなくて、大使館の裏のオークラのあの道ですね、大使館のところの間の。
【聞き手】 大倉邸もみんな焼けましたよね。(集古館は焼けなかった。)
【TY】 集古館だけ残したんじゃない?
【SH】 集古館に彼女いたじゃない。
【TY】 イマムラさん。あのときの門は残っていたもんね。
【SH】 そうだろうね。
【TY】 集古館は2つぐらいは残ったんじゃないのかな。今のあれは建てたのかしら。
【TY】 オークラはもちろんそうだけど、こっちのほう。
【SH】 これは母が1年生のときの先生に書いた手紙なんですけど、先生が亡くなった後に、奥様から手紙があったからって送ってくださった中に区からの通知が入っているんです、ほんのわずかなところに。この辺から私が集団疎開して、すぐに強制疎開で、1週間ぐらいで取り払えということが書いてあって。
【聞き手】 強制疎開って、どの辺にお宅があったんですかね。
【OK】 福吉町の前だから、田町になるの、あそこは。一ツ木通りの左。
【聞き手】 あっ、T商店って薪とか。
【TH】 炭屋です。
【TY】 THさんの両親もそういう関係だったの? 私、頭からTHさんちは炭屋さんという頭があるのよ。
【TH】 昔からそう。
【TY】 日大三高のところで。
【TH】 あれは弟のほう。
【SH】 僕がこっちに来たのは戦後からだからね。
【TH】 あの人のうちにいたんです。令状には最後のところに、1、2行で取り払いということが書いてあるんですよね。私がここで立ち退きを命じられて、そこから1週間の間に強制的に取り払えということ。だから、そのころすごかったんですね。
【OK】 すごい封筒。(THさん当時の令状の封筒を持ってくる。)
【SH】 大切なので、それ世界遺産ですよ。
【TY】 そうですよ。左側から。こういうのって貴重なものですよね。
【TH】 前はこれ田町だったんだね。
【SH】 上手だね、また字が。
【TH】 こっちは、だから福吉町になっているの、住所が。
【TY】 田町になっている。
【OK】 あそこは一条さんのところまで福吉町で、その前の道の右方だと思うんですよ。ですから、みすじ通りの、THさんのおうちは、あの炭屋さんのところはね。もとミカドってありましたね。
【TH】 ミカドははす向かい。
【OK】 ミカドのはす向かいの左角。ですから、ミカドを右に見ると、真っすぐ行って左角のところが炭屋さんだった。
【聞き手】 今、ラーメン屋さんがあるところですよね。
【TH】 今、残っているか知らないんだけど。
【TY】 残っているけど、わからない。
【聞き手】 吉池のすぐ前ですよね。
【OK】 ですから、みすじ通りの角ですね。吉池は福吉町側ですからね。
【聞き手】 おそば屋さんの「むらさき」の前は志津林の置屋さんがあった、OKさんの実家はその向かいですよね。
【TY】 何しろあの辺なんだよね。
【TH】 ミカドがありましたよね。ミカドのちょうどはす向かいより。
【OK】 だから角でしょ、THさんの家は。
【TH】 角から2軒目。マルトさんが。それで、その先。
【OK】 外階段があって、炭屋さんのところ。私、子供のとき覚えているのがある。
【TH】 角から2軒目。
【聞き手】 大体わかりましたね。そうすると、炭屋さんというのは、もちろん赤坂地域の方に炭を卸していらっしゃったんだと思いますけども、あの辺、料亭とか置屋さんがたくさんあったじゃないですか。
【TH】 なもので、料亭さんだとかいろいろ。
【OK】 それは花柳界ですね。
【TH】 花柳界、それから麹町あたりのお屋敷に行っていたそうです。それで、麻布の谷町ですね、あの辺は普通の方たちが住んでいて、料亭とか、ああいうお屋敷に持っていくときはみんな炭を切って持っていくもので、あのあたりから粉炭が出たやつを大分皆さん買いにおいでになっていたそうです。
【OK】 ああ、なるほどね。料亭のあるところはそう。
【TH】 全部佐倉炭(桜炭とも言った高級炭)って、クヌギの木を切って。
【OK】 そうそう。うちなんか全部佐倉炭よ。このぐらい太いの、佐倉炭は。
【TH】 そういうのはみんな芸者屋さんだとか、お屋敷なんかは使っていたもので。
【SH】 いいやつを使うんだね。
【OK】 うちなんか佐倉炭ばっかりだった。
【TH】 あと、くずが出た炭はそういう……。
【聞き手】 佐倉炭というのがいい炭なんですか。
【OK】 そうです。このぐらい太くて、ちゃんと木目が通っているんです。
【聞き手】 私なんか炭って知っているんですけど、ナラとか。
【OK】 ナラ炭のほうがかたいんですよね。
【TH】 一般はそれを使っていたんですよね。
【OK】 佐倉炭は早いの。
【聞き手】 佐倉炭というのは燃えるときって香りがするとか。
【TH】 じゃなくて形がいいんですね。
【OK】 見た目がね。
【TH】 うん、見た目がね。
【SH】 使いやすいんだろうね、でもね。
【OK】 あと、備長炭というのは細くてかたくて、あれは料理屋で焼き物するときに。
【TH】 あれは焼き物に使いましたけどね。
【OK】 今でも使っているところはあるわね。
【聞き手】 炭がほとんどだったんですか。
【TH】 そうですね。炭とか、炭団だとか、あい炭ですね。練炭とか。
【聞き手】 ああ、練炭とか。ああ、なるほど。薪なんていうのは赤坂には売ってなかったんですか。
【TH】 薪もあったようです。僕は小さかったから。おやじは私が1歳のときに死んでしまったんですよね。それだもんだから、その後、しばらくしてからやめたんじゃないかと思うんですけれども、僕はうろ覚えにしか炭屋のことはあんまり覚えてないんです。
【OK】 薪使っていましたよ。うちもお風呂なんてみんな、女中さんがこうやって薪をくべたりしていました。
【TH】 そう。薪も積んでありましたよ。
【OK】 あと、火消しつぼというのが必ずお風呂の外にあって。
【聞き手】 それで、THのお宅は強制疎開になって福吉町のほうに越されて、それから戦後。
【TH】 私は5月5日に集団疎開に行っていたのを覚えているんです。というのは、いつも食べるものがあんまりなくて、その日だけはイモを御飯かなんか集団疎開で、高幡不動ってあるんです。あそこで食べさせてくれたけど、具合が悪いもので食べさせてくれなくて、おかゆかなんかくれて、それで寮母さんが夜そうっとおにぎりをつくって持ってきてくれて、布団に潜って食べた覚えがあるもので、その寮母さんだけは忘れないでいます。だから、5月5日は集団疎開にいて、その後帰ってきて、25日が空襲でしたね。何日もそんなに家にはいなかったと思うんですけどね。
【聞き手】 それで、帰ってきて空襲にあって。
【TH】 それからは、親戚のうちが柴又で、帝釈天の1分か2分のすぐ裏のところにありましたもので、そこへ行って、そこでもやっぱりそんな食べるものありませんし、そしたら新潟に親類がおりますので、そっちのほうへ行ったらどうだって新潟へ行って、そこもそんなにいなかったと思うんです。ちょっと学校へ行きましたけども。それからすぐに、埼玉の鴻巣に父の実家がありまして、そこへ帰って、それから翌年、21年2月にこちらへ家を建てまして。
【聞き手】 それは炭屋さんがあったところですか。
【TH】 じゃなくて、そこは強制疎開でまだ建てられなかったんです。それで、地主さんがほかを紹介してくれて、そこにある中ノ町というところですね、日大三高のちょうどすぐそばにある。
【聞き手】 中ノ町に家を建てたんですか。
【TH】 ええ。そこに35年までいたんですけども、だんだんいろんなものができだして、あの辺で商売しなきゃいかん人もいるもので、そこをそういう人に譲ってくれないかというので、そこを譲って、今の揚所に。
【聞き手】 若葉町?
【TH】 はい。
【聞き手】 ああ、そうですか。じゃ、中ノ町にいるときはご商売はされてなかったんですか。
【TH】 母と2人ですもので、母はその辺にちょっと働きに行ったり、その後、お隣に兵庫県の姫路の寮ができたんですよね。そこに兵庫県の代議士の方が住んでいたんですけども、平河町のほうに越されて、そこの家が今度姫路の寮になりまして。
【聞き手】 今でも姫路の寮がありますね。
【TH】 ああ、そうですか。あのお隣がうちだったんです。お隣がうちで、母はそこの管理をさせてもらっていたんです。
【聞き手】 ああ、そうですか。今でも姫路の寮があります。
【TH】 あそこは代議士の方の家だったんです。
【聞き手】 とりあえず今、THさんのわりと戦後から赤坂へ住まれたさわりまで伺ったんですけど、順番に。
【OK】 私、疎開していた時代を書いてないですね、赤坂に住んでいるから。抜けているところ。それはやっぱり書いたほうがよろしいんですか。
【聞き手】 大丈夫です。疎開は何年ぐらいで帰っていらっしゃった。
【OK】 2年間です。
【聞き手】 縁故疎開だったんですか。
【OK】 そうです。父の郷里の茨城に2年間疎開していました。
【聞き手】 そうすると、こちらに帰っていらっしゃったときは、もうご両親が家を建てられていたとか。
【OK】 ええ、そうです。
【TH】 これ氷川小学校の本ですけど、こんな。
【SH】 2年間というと結構長い疎開でしたね。
【OK】 そうね。3年生からで。
【SH】 僕はそこまでいなかったもの。
【TY】 私は19年の春に疎開して、21年の秋に帰ってきた。
【OK】 父が復員しまして、じゃ、1年半ぐらいね。私の場合は、3月10日の空襲のときはまだ家族全員いまして、あの空襲を見て、妹がまだ生後8カ月だったものですから、5人兄弟で、一番上の姉が20歳ぐらいで、結構年が離れていたんですね。それで、こんなに小さい子がいたら、だれか死んじゃうかもしれない、それは危ないというので、3月の空襲を見て、急遽4月25日に疎開した。
【聞き手】 4月25日に?
【OK】 はい。茨城の大石山の常陸太田のもっと奥の無医村のところに疎開したんです。それは小学校3年のとき。
【聞き手】 有名な滝がある辺ですか。
【OK】 袋田の滝までは行かないです。またちょっと場所が違うんですけど、久慈郡久米村というところで、今は村と言ってないんですけども、父の親戚がまだあったものですから、着の身着のままでそこへ疎開して、とりあえず最初はどこかに間借りして、それで間借りしてからどこかへ家を探せばいいということで、とりあえず着の身着のままで疎開して、それが4月なんですね。そうしましたら、5月25日に全部焼けましたでしょ。その日に荷物が来る、トラックが頼めたというので、それまでにうちは一条さんのほうへ。かっての下屋敷ですから、隣には13軒あったんですね。その庭が、大きなすごい崖になっていたんですよ、一条さんの山の上のほうへ行く。ですから、崖の下が庭になっていたんですね。崖のところに横穴を掘りまして、四畳半の横穴を掘ったんです。
【聞き手】 防空壕みたいなもの。
【OK】 防空壕ですね。電気を引いて、畳四畳半入った。そこに住めるようにしていたんですね。いざというときですから、空襲って言われるとみんなそこに入るんですね、夜中でも。空襲って鳴ると、みんなそれこそ着の身着のままで横穴に入れば絶対大丈夫と。ちゃんと扉もできていて。
【SH】 それは防空壕ってつくったやつじゃなくて。
【OK】 防空壕なんです。ですから、それはちゃんとそういう人足の人につくらせて、電気も引いて、ちゃんと畳も全部、それこそ四畳半に入っていましたから。
【聞き手】 それでも疎開されたんですか。
【OK】 ええ。ですから、全部両親そろえて7人家族ですから、7人はちょっと四畳半にということで、それでも危ないでしょというので疎開したんです。それで、5月25日にトラックが荷物を取りに来るというので、その荷物をそこから全部出したそうなんです。そしたら、荷物を出したところに空襲になって、全部その荷物は丸焼けになったということを聞いています。
【聞き手】 その当時、防空壕に入って蒸し焼きになられたと。
【OK】 それは下に掘る場合ですよね。横穴ですから、一応安全は安全なんですよ。でも、うちの中だけで焼夷弾が24発落ちたと聞いています。
【TY】 だから、安全だと思って逃げた赤坂見附の駅でいっぱい亡くなった。
【SH】 そうですよ。だから、弁慶堀の中にいっぱい飛び込んだというのを後から聞いたけど。
【OK】 一番上の姉は20歳過ぎていましたから父と東京へ残って、子供4人と母が疎開していたんですね。それで終戦になりまして、すぐ戻るというわけにもいかなくて、父がバラックを自分の敷地に建てるということで、もちろん大工さんに頼んでなんですけど、一応家を建てて、そこに。父はもともと見番の仕事をしていたんです。花柳界の元締めなんですよ。ええ、SWって。芸者さんが全部そう。ですから、戦時中は芸者さんに挺身隊の仕事をさせていたんですね。見番が工場になりまして、沖電気の下請をしていたんです。
【OK】 ですから、父が工揚長で、赤坂の見番が芸者さんの働く場所になっていたんです。それで、今度の港区の本にもその写真が載っています。
【聞き手】 『港区の100年』という本ですか。
【OK】 はい。
【OK】 それに戦前の芸者さんというので、それこそモンペ姿の芸者さんが出ていて、帽子をかぶって1人、端のほうに工場長っぽい格好で。
【聞き手】 赤坂のそういう芸者さんの写真って少なかったような気がするんですけどね。
【OK】 芸者さんが戦後、氷川町で踊っている写真も妹が提供したんですね。その父の写っているのと、芸者さんが氷川神社で踊っている、このぐらいの写真を、私の妹が今、跡を継いでいるものですから、持っていて、2枚、金松堂さんのお姉さんに頼まれて、松月さんのおばさん。
【OK】 妹は親しくしていて、私は金松堂のお姉さんと言っているんですけど、あの方。金松堂のお姉さんとうんと親しくしているので、何かないのって言われて、2枚出したのよって言うので、私もつい買ったんですね、あの本。
【聞き手】 ああ、そうですか。でも、その写真見せてもらおう。
【OK】 それで、戦後、芸者さんはそれぞれみんな疎開しちゃっていたものですから、父が全部呼び寄せて、赤坂復興組合というのをつくったんです。赤坂のまちをもとの赤坂に、花柳界にしようということでそれを立ち上げたんですね。うちは自宅兼赤坂復興組合というのをやっていたんです。
【聞き手】 何年ですか、それは。
【OK】 ですから、終戦直後ですね。昭和20年です。20年8月15日に終戦になりましたでしょ。それからすぐですね。
【聞き手】 すぐですか。10月ぐらいなんですかね、多分。その当時、いろんな花街が復興してきたというふうには伺っていたんですけど、赤坂いつごろなんだろうというのがちょっと。
【OK】 うちは料亭もしていたんですね、戦後。ある程度ちょこっと家ができたからというので、みんな家族帰ってきまして、自宅は今の吉池さんのところが自宅でして。
【聞き手】 あそこは料亭にもなっていたんですか。
【OK】 いえ、料亭じゃなくて自宅なんです。あそこは料亭の区域じゃないです。区域というのは花柳界の区域がある。田町でなきゃいけないです。みすじ通りと田町通りなんです、花柳界は。
【聞き手】 田町通りでもずっと国際ビルのほうまで。
【OK】 「長谷川」さんがあったところまではいいんですよね。「長谷川」ってありましたよね。あと「中川」さんがこっちで、長谷川の娘の「口悦」さんって今あれ……。
【聞き手】 今、口悦さんをやっています。
【OK】 これはずっと後ですね、口悦さんができたのは。
【聞き手】 そうですね。
【OK】 「長谷川」の純子ちゃんというのが、今、口悦のおかみさん。
【聞き手】 ええ、口悦のおかみさんですね。
【OK】 私より1級下なんですけども、小学校で。ですから、うんと後ですね、「口悦」さんができたのは。
【聞き手】 そうですね。戦前の地図を見ると、口悦さんってないんですよね。「長谷川」というのはありますけれども。
【OK】 ええ。あの横丁に置屋さんがあったりしたんですよね。あの横丁、口悦さんからこっちへ行く道。今ないのかしら、道が。セイデンシャって電気屋があって、道があって。
【聞き手】 「口悦」さんの右側にあります。
【OK】 見番というのは戦前には今の赤坂会館じゃなくて、その反対側だったんです。
【聞き手】 反対側でしたね。
【OK】 見番が。戦後、私の父が赤坂会館を建てたんですけど、その赤坂会館は歌舞伎座と同じようにして舞台をつくったんですよ。というのは、父が松竹と親しくしていて、そういう関係で3階に舞台を、全部装置をつくった。
【聞き手】 稽古場が。
【OK】 稽古場というよりちゃんと舞台があるんですよ。
【聞き手】 舞台があったんですか、稽古場ではなくて。
【OK】 ええ。今ありますよ。
【聞き手】 今は6階に稽古場が。
【OK】 あっ、建て直しちゃったんですね、それじゃ。
【聞き手】 それでビルになりまして。
【OK】 昔は3階だけだったんです。3階にちゃんとした舞台があって、そこは歌舞伎座と同じような装置を全部つくったんですね。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。
【OK】 うちは昔の見番のほうで、私の父が料亭を始めたんです。
【聞き手】 昔の見番のところで。
【OK】 もとの見番のところと交換して赤坂会館をこちらにして、こっち方をうちの店、東京ハイヤーというハイヤー会社になっていたんですね。それとその反対に、カワステさんの隣がうちの店だったんです。
【聞き手】 カワステさん。そうすると、川崎……。
【OK】 川崎さんはもっと先です、もっと向こうです。
【聞き手】 もっと手前ですね、カワステさんの。
【OK】 はい。カワステさんのすぐ隣で料亭「あかさか」という店をやっていたんです。
【聞き手】 料亭「あかさか」という名前だったんですか。
【OK】 平仮名であかさか。そこは上がりといって、仕出しとお座敷と両方やっていたんです。ですから、赤坂の料亭というのは、自分のところで一切料理をつくらないんですよね。
【聞き手】 そうですね。仕出屋さん。
【OK】 赤坂って、大体全部出前で成り立っているまちですから。ですから、忙しいときは100人分ぐらい出るんですよ。
【聞き手】 あの辺に白梅さんとか。
【OK】 白梅さんのほうはちょっと格が下っていう感じ。赤坂見附のほうですよね。
【聞き手】 ええ。
【OK】 あと三河家とか。ですから、白梅とうちと大体同じぐらいですね、2軒あったのが。
【聞き手】 仕出屋さんもやっていらっしゃった?
【OK】 仕出しがメーンだったんです、うちは。上がりは2組ぐらいしかとらない。
【聞き手】 あっ、お客さんは。
【OK】 はい。ですから、上がり用の、上がりっていうんですね。
【聞き手】 お座敷側のほう。
【OK】 はい。お座敷のほうを上がりっていうんですけど、要するにお客様が上がるから。それで、仕出しのほうは板前さんがいて、始める前、戦争直後は縄のれんの一杯酒屋をやっていたんですよ、飲み屋を。
【聞き手】 ああ、まだお座敷みたいなのに上がる人がいなかった。
【OK】 はい。本当に戦争直後。ですから、それは私が疎開から帰ってきたときですね。私、好きなものですから、そこへ行って何度も伝票に判を押すのを手伝ったりしたことあるんですけど。それは、ですからカワステさんの隣のほうが正面で、縄があって、何ていう名前だったか、そのときも「あかさか」という名前だったと思うんですけど。
【聞き手】 カワステさんの隣は今、駐車場になっています。
【OK】 あそこ日の丸ハイヤー、うちが売ったんです、日の丸さんに。あそこの通りが抜けられるようになっていますでしょ。ですから、うち抜けられたんですよ。ですから、出前の人が通れるように土間が真ん中に1本通っていて、こっちから向こうに出られるようになっていて、後ろは東京ハイヤーに貸していたというか、やっていたんです、ハイヤー会社も。
【聞き手】 ああ、そうですか。今、赤坂会館って、赤坂の花柳界の歴史なんて全く残ってないです。だれも知っている人いないんです、訪ねていっても。だから、私はどういうところで赤坂の花柳界の復興というか、そういうのを調べたらいいのかなって思っていたんです。
【OK】 ですから戦後も。たまたま戦前は勤めていたんですね、見番に。ですけども、結局立ち上げる人がいなくて、若林さんという料亭ありましたね。
【聞き手】 はいはい。若林さん、今はモダンな結婚式……。
【OK】 若松にいらした若林さんっているんですか。
【聞き手】 若林さんって建物はあるらしい。
【OK】 溜池に近いほうですね。あそこはご主人がいらして、男性の方がいらして、若林さんも一応そういう組合の中で。
【聞き手】 ああ、立ち上げたお1人だったんですか。OKさんのお父様と。
【OK】 SWといって。さんずいに「S」です。SW忠之介と申しました。「ちゅう」です。忠義の「忠」です。「の」は「之」ですね。「すけ」は「介」。助けるは、あれは百姓の「助」だって父が言う。(笑い)
【聞き手】 武士の介ですね。何とかの介とか。
【OK】 そうそう。
【聞き手】 ああ、なるほど。
【OK】 ですから、戦後、父たちは所帯を持ったときから赤坂に住んでいたんです。
【聞き手】 それでずっと見番で働いていらっしゃったんですか。
【OK】 はい、そうなんです。それで、戦後立ち上げる人がいなくて、父が全部芸者さんを呼んで。
【SH】 大切な人だね。
【聞き手】 大切な人だね。生き字引ですね。(笑い)
【OK】 沖電気の下請工場を始めたときから一応自分がトップで工場長になって。
【聞き手】 ああ、挺身隊ということで。
【OK】 はい。ですから、うちは食べ物に困らなかったんですね。工場に来るんですよ、配給が。ですから、乾燥バナナなんて、うち押し入れいっぱいあった。
【TY】 真っ黒だったね。
【OK】 それで母がジャムをつくったりね。お昼はちゃんとお雑炊みたいなのが配給で来るんですよ。うちに残りが来るんですね、自宅に。一番上の姉はずるいことに、そこへ勤めているというふうにしてほかで働くのを免れていた。20歳ぐらいだったから。
【聞き手】 ああ、そうですか。今、料亭も「あかさか」という名前だったということなんですけど、その当時は何軒ぐらいあったかというのはお聞きに。
【OK】 料亭ですか。
【聞き手】 ええ。
【OK】 何軒って20軒ぐらいはあった。金龍さんというのが残っていますね。金龍さんはそのころから。まだ案外小さいこじんまりとした料亭さんだったんですね。目立ったのが「長谷川」、「中川」、あと「川崎」さんね。あとは「若林」とか「若松」さんね。
【聞き手】 「若松」と。
【TY】 でも、「中川」はわかるじゃない。
【OK】 「若松」さんというのは娘さんが福田蘭堂(尺八奏者・作曲家)と。
【TY】 川崎は今なくなっているでしょ。今の息子さんの前だったから。
【OK】 Y子さんという娘さんがね。
【SH】 だって、今ほとんどないじゃない。
【TY】 「中川」はある。「中川」さんはかなり大きなビルを建てちゃっているから。
【OK】 そうね。皆さん立派なビルを建てたから。
【TY】 すごいビル建てているから。
【OK】 「金龍」さんは、今、本当に残っている「金龍」さんって。
【SH】 あれ場所は変わってないんだろう、前から。
【OK】 そうなの。前からあんなこじんまりした料亭だった。今はリニューアルして一般的にもなったね。
【聞き手】 ええ。業態をちょっと変えたという。
【SH】 我々でも行かれる「金龍」さんになったんだ。(笑い)
【OK】 小学校のクラス会は毎年あそこに決めたんです。
【聞き手】 ああ、そうですか。私がいろいろ料亭の話を伺ったときに、仕出しでやっている料亭さんのところを待合といって、料亭というのはそこでお抱えの料理人がいるところを料亭っていうんですよというふうに私はちょっと聞いたんですけども、違いますかね。
【OK】 違います。待合と料亭の違いって、待合というのは芸者さんとお客さんをねんごろにさせるようなところだったと思うんですよ、私が思うには。普通には料亭と言ったんですよ。料亭はどこも板前さんを置いてないんですよ。
*注 戦前は待合と料亭は区別されていたが、戦後は一括して料亭と呼ばれている。
【聞き手】 ああ、そうですか。道場六三郎なんかは常盤家の料理人をしていたというか。
【OK】 常盤家というのは、だって花柳界に入っていませんもの。
【聞き手】 入ってないんですか。
【OK】 入ってないところは料亭、そういうのを置いておきますよね。花柳界へ入っているところは一切板前を置かないんです。ですから、今、「金龍」さんも板場が小さくて、ですからお料理が間に合わない、大勢になると大変だって。昔のまんまなんですって。この前聞いたんですよ。昔のまんまの台所なので、大変なんだって言っていました、大勢になると。
【TY】 そういえば、うちの前に、戦後だけど、チョウヤという料亭があったのね。
【OK】 それは花柳界に入ってない。
【聞き手】 入れないの。区域が決められているから。
【OK】 そうなの。それで、芸者さんも、花柳界以外のところに頼まれるのは遠出っていうんです。
【OK】 それは見番を通さなきゃいけない。
【TY】 だから、それもできないから、自分ちでにわかな、そういうお姐さん。
【OK】 コンパニオンみたいなのね。
【TY】 そうそう。自分たちでつくっているから安いんですよ。だから、お客さんはそういうのがわかってないから、安いから行こうよ、行こうよっていうので繁盛したと思う。
【OK】 ですから、福吉町になっちゃうと、花柳界の中じゃないんです。だから、田町通りとみすじ通りだけなんですよ。
【TH】 本当に聞こうと思ったのは待合とお茶屋とあるでしょ。どう違うのかなと思ったの。それで大体わかった。
【聞き手】 私は待合と料亭の違いってそういうふうに聞いていたので、多分この本なんかではそういうふうに書いてあると思うんですよ。待合というのは、仕出しをとってお客様に提供する。料亭というのはそこに料理人がいて、そこでつくっている。
【OK】 だから、待合というのはお客さんが泊まれるんですよ。
【聞き手】 待合は?
【OK】 うん。
【TY】 それこそ若かったから、そのあれが全然わかってないからね。
【聞き手】 お客様とねんごろになって、そのまま泊まれるみたいな。
【OK】 待合ね。で、料亭というのは、まあね、さっき。終戦直後、臨検といって警察の調べがあったんですよ。
【SH】 臨時検察という意味の臨検です。
【OK】 臨検、臨検っていうんですよ。それで、突然、赤坂警察なんかの手入れがばっと入るんですよ。
【聞き手】 何で手入れが入るんですか。例えば。
【OK】 お酒を出しちゃいけなかった。私もその辺、細かいことはよくわからないんですけど。それで、お客さんがあっても玄関を真っ暗にしちゃったりと。うちでまだ上がりをやってないころ、仕出しだけのときは、自宅がわりあいちゃんと部屋をつくってあったものですから、自宅でそういうお客さんをやっていたんですよ。料亭のようなちゃんと座敷をつくってあったものですから。それで、私、よくわかるんですけども、お客さんの遊びなんかもちょっとのぞいていたりして、トーラトラとか遊びあるんですよね。トラとかオイチョケンとかね。そういう遊びをみんな覚えちゃっていて、そういうのをそっとのぞくんですよね、芸者さんが遊んでいるのを。屛風を立てて、トーラ、トラ、トラってあるんですよね。
【聞き手】 幾つかは芸者さんの遊びを教えてもらったことがあるんですけども、私たちに教えてくれる芸者さんの遊びなので、それはそこそこ限りがあって。
【OK】 屛風をこうたたいて立てるでしょ。こっち側とこっち側と出てくるんですよね、トーラ、トラ、トラと。
【聞き手】 そんなのも教えていただきましたけど、今はもう75、6歳になるユキコ姉さんなんかは話を聞くと、芸者さんは下履きなんてはいちゃいないからねみたいな。
【OK】 芸者というのは今、本当に崩れているんですよね。昔の芸者というのは芸を売るんだということですから。
【SH】 その芸も遊びの芸なんていうのは、ユキコ姉さんに言わせると、すごいきわどい遊びの芸だったりなんかして、ああ、そうなのかって、そういう感じで。
【OK】 オイチョケンというのはこうやって、オイチョケンとかトーラ、トラ、トラ。
【TH】 うちのお隣が置屋さんだったの。何人か芸者さんがいたんですね。だから、僕なんかは小さいときには、よくそこのお姐さんにかわいがってもらったものだから、そこの家に行って、2階へ上がっていくと芸者さんが何人かいて、それで化粧道具をみんなしまっちゃうんです、いたずらされると思って。かき回すもんだから。
【聞き手】 シズバヤシさんなんていうのはお向かいですよね。
【TH】 何軒か芸者さんのおうちがありました。
【聞き手】 置屋さん、あの辺(赤坂2丁目・ミカド周辺)とても多かったですからね。
【OK】 私は結構芸者さんの名前とか、ウメノさんといろんなね。
【TH】 2人ぐらいは覚えているの。スミタロウさんという人とマアちゃんとかといって、僕は小さかったもんだから、よくかわいがってもらったことがありましてね。
【OK】 それで、臨検というのが入ると父が大変なんですよ、忙しいんですよ。電話がかかってきて、父が行くとぱっと警察が、ああ、SWさんに来られちゃったら、だめだと言って帰るんですよ。ですから、どこのうちに臨検が入った、臨検が入ったって、父は大変かけずり回らなきゃいけない。ですから、役所関係全部そのかわり常につけ届けしているから、役所には顔がきいていて。ですから、父が昭和29年に亡くなったんですけど、そのとき60年ぶりの大雪というので、大変な大雪が積もったんですよ。それで、うちの庭に雪がものすごく多かった。でも、役所のトラックが2台来て、全部雪を持っていってくれた。
【TY】 そうしたら、後で聞いた話だと、SWさんちのお父様のお葬式は、赤坂見附まで花輪が並んだって。
【OK】 それで、歌舞伎役者が全部来ましたから。松竹の大谷さんが葬儀部長だった。だから、私の知らない友達に聞いたら、木遣りが出たとか。
【TY】 ああいうときって出るのよね。久保田万太郎さん、あの方が亡くなったときもそういうふう雰囲気だったの。
【聞き手】 久保田万太郎さんも福吉町のところに住んでいらっしゃったんですよね。
【TY】 そうだと思います。お葬式だけのそういう雰囲気。お葬式を出したというのは知らないのよ。お通夜のときにそういう雰囲気があったというのだけちょっと記憶にはある。
【OK】 そうそう。お通夜だからね。うちも、だから亡くなってすぐは自宅でちょっとやって、それから組合葬というのを赤坂会館でやったものですから、そのときに歌舞伎の方で、水谷八重子さんと沢村貞子の後援会長をしていたんですよ。松竹とすごく昵懇だったものですから、そういう関係で赤坂をどりなんかも全部歌舞伎座でやる。
【聞き手】 ああ、なるほどね。
【TY】 数年やったわよね。
【OK】 ですから、私、歌舞伎座はふだんでもただで入れたんですよ。
【TY】 そう。赤坂をどりというのがありましたね。何週間ぐらいやったのかしらね。
【聞き手】 赤坂をどりは1週間ぐらい歌舞伎座で借り切ってやったそうですね。
【OK】 そのときは毎日行っていた、私は。ふだんでも歌舞伎座は赤坂のSWですと言うと、ばっと入れてもらえる。
【聞き手】 29年にお父様が亡くなられて、その後、だれか料亭を継がれたり。
【OK】 料亭は、母は全くずぶの素人なんですよ。本当の奥さんで、父のことだけやっていればいいという人だったんですね。自宅と店と2分ぐらいのところ、離れていましたから。私は何しろ料理が大好きだったんですよ、子供のころから。山脇から帰ってくると、制服を脱ぐと毎日店へ遊びに行くんですよ。毎日、店に遊びに行っていて、父がそんなに好きなら、給料やるから従業員の監督しろって言われたんですよ。父は全く素人で、経営者だけだったものですから。中学3年から私は給料をもらって、毎日そのかわり2時間、あした試験があっても2時間と約束したら、6時から8時まで毎日店へ行くんですよ。それで従業員の監督。中学3年ですよ。(笑い)でも、それで今、料理の仕事しているんですよ。
【SH】 すごいですね。
【OK】 今、料理教室をやっている。ですから、中学3年のときに板前さんの手を見ていたので、全部頭に入っているんですよ。100人分ぐらい出るときは、忙しいと板場の配達。小僧さん4人ぐらいいたんですけど、間に合わないときは、私、岡持ちを持ってその辺まで行ってあげたりとか、何でも平気なんですよ、やるのが。ですから、そういうのを手伝ったり、あとダイコンのつくるの、お刺身のツマのダイコンにちょっとわさびがのっていますでしょ。あれ、ツマ何十つくってって言うと、ちょっちょっとつくるんですよ。そういうのを手伝っていたんですよ。好きだから。
【聞き手】 ああ、なるほどね。じゃ、かなり大きな仕出屋さんもしていらっしゃったんですね。仕出屋さんは何ていう。
【OK】 あかさか。だから、料亭「あかさか」といって。
【聞き手】 あかさかという、仕出屋さんもそうだったんですか。
【OK】 そうなんです。それで、入り口がちょっと別で、門をこっちにこしらえて、上がりのお客様はこっちから入って、2間ぐらい上がりの部屋があって、仕出しがメーンでしたから。
【聞き手】 仕出屋さんというと、私は戦後、三州さんとか白梅さんとか。
【OK】 白梅さんとうちが同等ぐらいで、三州さんがちょっと落ちるんですね。
【聞き手】 それから千古満さんとかって。
【OK】 千古満は知らないです。
【TY】 千古満さんは仕出しね。ビルの上のほうに住んでいたもんね。
【OK】 それはずっと後じゃないですか。後はこっちに。
【TY】 かなり戦後だったと思う、千古満さんは。
【聞き手】 三河家さんもそのころは仕出屋さんだったんですか。
【OK】 そうですね。
【TY】 今も仕出屋さん?
【聞き手】 今は仕出し。
【TY】 三河家さんは。
【OK】 白梅さんとあかさかがこのぐらいで、三州さんと三河家さんはちょっとランクが落ちるね。だから、一流の料亭さんにはうちの料理が全部いっていたんです。ですから、小付けから全部いくんですから、7品も8品もいくんですよ。だから、それを100人分って器だけでも大変ですよ。
【TY】 そうよね。
【聞き手】 ちょっと伺ったんですけども、お料理というのはその都度その都度冷めないように、つくった先から運んでいって、それで行った料亭ではお客さんのころ合いを見てお出しするみたいなことで。
【OK】 ええ。ですから、1品ずつ、1品ずつ運ぶわけです。それを岡持ちという丸いのに入れた。器もこんな大きな鍋で全部温めるんです。それも私手伝いましたよ。熱いんですよ。
【聞き手】 だから、お吸い物なんかも冷めないように。
【OK】 おわんは全部下がってきますでしょ。全部洗い方が洗いますね。きょうまた使うのに清拭きって、全部ふいて、つや出しも全部する専門のおじいさんがいるんですよ、清拭きする。清拭きって特殊な布で全部つやを出して、また全部函へおさめるんですよ。おわんだけでも全部。器は、京都から職人が全部清水焼をしょってきていたんです、かごで。
【聞き手】 だから、食器だけでも大変なものだったんじゃないですか。
【OK】 うち、やめてから浜屋さんが大分買ってくれました。浜屋さんはそのまま料亭へ出せるようなお刺身をそのころつくっていたんです。ですから、お刺身なんかの道具は浜屋さん。私たちも分けてもらって、ある程度持っています、食器。でも、私、今自分で陶芸をやっているので、全部自分でつくったほうを優先する。
【聞き手】 でも、浜屋さんはそんなにお料理は出していらっしゃらないですよね。
【OK】 お料理はお刺身だけです、あそこ。ええ。でも、わりあい高級な魚屋さんですから、あそこは。29年にお父様が亡くなられてから。それで、父は経営者だけでしたから、母が立ち会ったんですけども、板前さんにいいようにされちゃうんですよ、どうしても。袖の下をもらったりなんかしちゃうでしょ。それで、だんだん赤字になるようになっちゃって、1年でやめたんです、店を。それで、自宅がそのままね。
【SH】 広いんだね。
【OK】 そう、すごく広かったです。離れがあったりして、私たちの勉強部屋は離れだったんですけど。知り合いの人から、女の仕事として旅館でもやったらどうですかって言われて、そのまま旅館ができるような家だったんですね、日本旅館という感じで。知り合いの人が2、3人泊まってくださればいいでしょうと言って、地方からお客さんが出てきたときのために4、5組お客様の寝具があったものですから、それで旅館を始めようということになったんです。たまたま私の姉の旦那というのが芸能人だったものですから、義理の兄の紹介で、TBSが赤坂にできましたね。それが4月30日に開局になるので、うちの旅館の許可がおりたのは3月31日だったんです。
【聞き手】 TBSの借り上げの旅館になったんですか。
【OK】 それが指定旅館になっちゃった。
【聞き手】 TBSって結構いっぱい周辺にそのころは。
【OK】 対翠館。対翠館もそうですし。で、赤坂にというので。そうしましたら、開局の前の晩に20人泊まりに来ちゃったんですよ。開局の前の晩ですね。ですから、31日、うちが許可をとった日に。うちは4、5組しかお客さん用のがなくて、夜中に、永嶋布団店というのが角にありましたね。あそこをたたき起こして、枕や毛布全部買って、夜中に配達してもらった。
【聞き手】 永嶋布団店って、今のタリーズコーヒーがあるじゃないですか。一ツ木通りの角、あそこだったんですよ。
【OK】 そうなんです。それで、お客様が20人寝るといったって、幾部屋あっても、9尺の押し入れをあけちゃって、2段ベッドみたいにして寝ていただいたり。それで、まず経理の人とコックさんを雇わなきゃならないでしょ。それ私、2つかって出ちゃったんですよ。ちょうど山脇の高校3年卒業した年だったんです。高校2年のときに父が亡くなりまして、1年間母がそれをやって、やめて、私は大学とか短大とか行くよりは、何しろ商売好きで好きで、料理も好きなので、じゃ、私にやらせてって言って、経理は税理士さんに教わりながら、あと村田簿記にちょっと通いながら、すぐできる短期というのをとったんですよ。3カ月で1年分勉強できる、そういう短期講座をとって、料理は全部私が見よう見まねで、ですから肉や魚は全部自分で行って目で見て注文して、それで全部私が。それで、TBSの、あのころは生番組ですから。報道の人は朝4時に出たり。
【聞き手】 みんな周辺に旅館がたくさんあったんです。
【OK】 夜中に泊まりに来て、ですから24時間鍵を締めたことはないですね、うちは。
【聞き手】 それは今の吉池のところのビルをお売りになるまで旅館は続いていたんですか。
【OK】 そうなんです。
【聞き手】 お売りになったのは?
【OK】 いつになるのかしらね。私が結婚してからもやっていましたから。私が結婚するので、板前さんと経理の人を雇ったんですよ。結婚して9カ月まで通っていた。それで、実家に毎日通うので、夫が神田のほうの会社に勤めていたものですから、両方にちょうどいいところというので四谷見附に探して、私は木造の大家さんのいるアパートにあこがれていたんですよ。
【TY】 ものすごいあこがれたのよね。
【OK】 あこがれたんですよ、アパートって。住んでみたいと思って。家がちょっと広かったものですから、2間ぐらいしかないところでちょと住んで、すごいあこがれて、それで毎日朝起きると全部洗濯物を持って実家へ通っていて、帰るときはでき上がっていますから。
【SH】 済みません。そうすると、3番の電車ですか、タクシーなんでしょうか。
【OK】 四谷見附から電車で来て。
【TY】 3番の電車あったわよね。飯田橋から。
【OK】 四谷見附にたい焼き屋さんがあるでしょ。
【SH】 済みません。安藤鶴夫が本に書いたっていう。尻尾まであんこが入っている。
【OK】 1つ買ってきてあげると、お手伝いさんがみんな喜ぶので、よくお土産買ってあげて、ただ、電車の中でにおうのよ、あれが。焼きたてなので。そうそう、若葉町に住んでいたんです。
【聞き手】 ああ、そうですか。じゃ、今の吉池が入っているヒルがほとんどSWさんのお屋敷だった。
【OK】 お屋敷ということじゃないですけど。ですから、庭も2つ日本っぽい庭が。
【聞き手】 崖のほうにあったんですか。
【OK】 ええ、崖のほうに向かって庭園が2つあったんですね。ですから、父がいたころは月に1回植木屋さんが来て、全部庭の手入れをしていましたから。
【SH】 入り口を左に上っていく、今は階段があるけど。
【OK】 階段があって右側ね。料亭みたいなものだったものですから、格子戸があって、よく「流し」が入ってくるんですよ、料亭かと思って。そうすると、父がたまたまいたりすると、「流し」にやらせた。
【OK】 あと、普通の「流し」もギターを持って入ってくるんですけど、私も子供のころから歌が好きで、歌えとか言われて、父に歌わされて。
【聞き手】 そういう花柳界なんかとすごく密着した関係の中にいて、例えば芸者さんになりたいとか、そういうふうな感じというのはなかったですか。
【OK】 私は中学のときから料理やりたくて、父は、ですからみんな娘が、一番上の姉は早く結婚しちゃって、その人と駆け落ちして結婚したくらいなんです、父に反対されて。ですから、戦後は4人姉妹。私のすぐ上に2つ上の姉がいて、私と弟がいて妹がいるんですけど、妹はやっぱりこまっちゃくれていて、ですから父の理想は大学出の芸者にしたいって、妹を。私には店をやらせたくて、姉はいいところに嫁がせ、結婚式は全部引き抜きの衣装とか、そういうふうに言っていましたね。
【SH】 姉さん1人だけだっけ。
【OK】 いや、2人。一番上が離れているから。
【TH】 1人しか僕知らないな。
【OK】 だって、一番上の姉は、私が育つときはもう結婚しちゃっていたから。
【SH】 どこだっけ。外国の経営の会社。
【OK】 姉は結婚してすぐに行っちゃったから。
【SH】 いや、だんなさんが。
【OK】 アラスカ。
【SH】 そうそう、アラスカ。
【OK】 ですから、私がどっちかというと一番実家のためにすごく働いた。
【聞き手】 それで、結局妹さんは芸者さんにはならなかった。
【OK】 そうですね。でも、やっぱり赤坂が好きで、なぜかみんな44のときに、私が44のときに夫に死なれて、それから一番上の姉も44のときに離婚して、それから妹も44のとき離婚して。
【聞き手】 じゃ、みんなお1人になって。
【OK】 上の姉2人は今亡くなっちゃっているんですけど、妹は赤坂のみすじ通りでスナックしていたんです。
【SH】 そうだよね。
【TH】 僕は1回行ったよね。
【SH】 行った、行った。ビルの一番上だよね。
【OK】 寺子屋の隣のビル、グレーっていうビルで、グレーっていうんです。
【聞き手】 お寿司屋さん。
【OK】 寿司清の真ん前。
【OK】 寿司清の真ん前。つい5年ぐらい前までやっていたんですけど、今、赤坂も大変になって、商売は大変なものですから。で、やめました。みんなやっぱり変わっているんですよ。
【聞き手】 ああ、そうですか。それで、商売をやめられたのは売られるときは何年ぐらい?やっぱり赤坂って、29年から昭和50年ぐらいまでって、どんどんすごい上り坂だったじゃないですか。それこそコパカバーナもできれば、ラテンクォーターもできれば、料亭……。
【TY】 火事もあったりね。
【OK】 ちょうどそのころ遊んでいるよね。
【聞き手】 そのころ、それこそおうちがあった辺というのは……。
【OK】 華やかでしたね。
【聞き手】 にぎやかで、ミカドもできた。
【OK】 ですから、お祭りというと、芸者衆の手古舞が出たんですよ。義理の兄が芸能人のほうに詳しいので、いろいろとあるものですから、いろんな芸能入を呼んで、あそこのお祭りのとき、やぐらの上でいろいろやってもらったりとか。ですから、芸者さんも全部手古舞で田町のほうへ流して歩いていて。
【聞き手】 そうですね。芸者さんもたくさん出たし、それこそお正月あたりの赤坂の田町、みすじのあたりは芸者さんが引出での着物を着て。
【OK】 ですから、うちは全部ご挨拶に来てくださるんですよ、お年賀の挨拶に。ですから、元日と2日はずっとうちにどんと構えて、全部来るんですよ、お年賀に。
【聞き手】 だから、昭和35年に結婚されて、お屋敷は?
【OK】 旅館はまだやっていましたけど。
【聞き手】 何年ぐらいまでやっていらっしゃったんですかね。
【OK】 引っ越したのは何年だったかしらね。娘が昭和40年に生まれたときはまだやっていたかな。
【OK】 だから、昭和45年ぐらいまでやっていましたかしらね。だんだんTBSが寮を建てちゃって、旅館を使わなくなったんですよね。それでやめたんです。TBSだけじゃなくて、父の関係で映画会社も親しかったので、あと役者さんたちとか、田中澄江さんという方も1カ月うちの。ああ、部屋を借り切って下地を書いて。昔はみんな缶詰といって、缶詰になるんですよね。あとは橋本忍さん、『私は貝になりたい』。『天国と地獄』とか。あと、『私に貝になりたい』という原稿はうちで書いていたんですよ。よく岡本愛彦さん、森光子さんもうちへ来たりとか、岡本さんとうちで逢い引きしていたりとか。あと、「にんじんくらぶ」って岸恵子とか、久我美子とか、みんなうちで打ち合わせして、ですから芸能人は随分来てくださっていましたね。
【聞き手】 その旅館の名前も「あかさか」という。
【OK】 あかさかです。平仮名であかさか。昔は黒板塀だったんですけど、途中から変えちゃって。板塀はもたなくなりますからね。
【聞き手】 そうすると、赤坂の一番華なやかなころまではまだ営業していらっしゃったんですね。
【OK】 そうですね。母がだんだんここはもう住むところじゃなくなってきたと言うんですよ。それで、ちょうど妹が結婚して、ですから妹は私より4つ下だから、昭和19年生まれの妹が29で結婚したんです。それで、妹も結婚して、これで全部子供も片づいたから、母が60歳になったからやめるって言ったんですね。それで、あんまり遠くは行きたくないというので青山に、紀伊国屋の奥のほう、ドンクの横入ったところ。ちょうど芸者さんが住んでいたという家を買ったの。それで、弟と一緒に住んだんですけど、2階には芸者さんが住んでいて、下がなんか。芸者さんが住んでいた家だから、すごくしゃれてできていた。ちゃんとお手伝いさん1人連れて引っ越したのよ、母は。
【OK】 「金龍」はAKよしさんという方が最初のおかみさんなんですけども、その方はもう亡くなられて、その息子さんが、お兄さんがNHKに勤めていたんですよ。
【聞き手】 その方も亡くなられたんですね。
【OK】 亡くなって、その奥様が今いらっしゃいます、大女将で。昔、「金龍」さんが葉山の一色海岸って、御用邸に近いところに別荘を持っていらしたんですよ、1軒。そこにうち一夏お邪魔していたんですよ。うちはその次の年に葉山に別荘をつくったんですけども。ですから、その前の一夏は「金龍」さんに。ですから、お兄さんがそのとき早稲田へ行っていらして、よく一緒に遊んでもらっていますね。私より8歳下の妹は、小学校のクラスメイトは芸者さんの子がものすごく多かった。
【聞き手】 ああ、そうですね。氷川小学校は比較的近いので、多かったんじゃないですかね。だから、氷川小学校に限らず赤坂小学校も随分多かったみたいなので、それが何なのみたいなおつき合いがすごく広がっていたのよっていうふうに一緒だった方たちの話は聞きましたけどね。ああ、そうですか。じゃ、今度はSHさんから。戦後から。
【SH】 私は戦後で、小学校6年生になってから氷川小学校に入れてもらったから、それ以前のことについて何にもお役に立ちませんし、頭がぼけているから忘れちやったけど。
【聞き手】 何年ぐらいにこちらに越していらっしゃったんですか、赤坂に。
【SH】 昭和23年。
【聞き手】 じゃ、23年だから、まだ混乱のさなかに。
【SH】 小学校6年生になってからですよ。昭和24年に我々は卒業しているわけでしょ。中学校に入ってからでしょ。だから、1年足らずしか氷川小学校でご厄介になってなかった。
【TH】 でも、とても印象もあって、すごくできたんですよ。
【SH】 冗談じゃないですよ。何をおっしゃるんです。とんでもない。
【TH】 それがあるものんだから、すごく印象にある。
【TY】 そうだよね。
【SH】 私事ですけど、私のおやじが警察だったもので、もちろん軍人だったわけですけど、もともとは近衛騎兵って騎兵隊にいたおやじで、それから満州のほうにもちろん軍人で行ったんですけど、警察だったから、終戦ちょっと前ぐらいに多分こっちへ戻ってきて。ただ、そのとき、終戦前にいたのは蒲田なんですけど、そこはもちろん空襲でやられちゃって、それから大井町の警察に勤めさせられたので、そこで2、3年住んでいたわけです、私も。ですから、大井から赤坂に。それはまたおやじが赤坂警察署に転勤したものですから、さっきの話でないけど、関係あるかどうか知らないけど、その臨検をやったかどうか。(笑い)多分それはもっと後だろうと思うんだけど。
【OK】 私は親しくしているもんね、おたくのお母様と。
【SH】 そうそう、親しくしてもらっている。そんなんで、赤坂のそれこそ終戦間際の云々のことなんてもちろんわからないんですけども、来たばっかりのころの赤坂の景色というのは今でもまだちょっと頭の中に。今、サカスの、もちろん全部変わっちゃったけど、もうちょっと山は高かったんだね、あれ。その上に近衛歩兵三連隊かなんかの赤れんがの瓦礫がまだ残っていた。そのころがありますから、それで懐かしいんですよ。
【聞き手】 これですよね。近衛連隊の。
【TH】 よく遊んだ遊び揚所でした。
【TY】 岡田真澄ってクラスメイトなんですよ。
【SH】 そうそう、岡田真澄。亡くなっちゃったんですけどね。
【OK】 岡田さんは被災者住宅にいたのよ。
【OK】 住んでいたの、戦後。
【TH】 戦後引き揚げてきたときに。
【SH】 あそこら辺で正月にたこ揚げなんかして、遊び場としては非常によかった。そんなものが懐かしいですけども、今はもちろんないけども、TBSの鉄塔をつくった。あれは昭和何年ごろかな。昭和30……。
【聞き手】 30年にTBSがテレビ放送を始めたんですよね。だから、28年か33年ぐらいにでき上がったんですよね。
【SH】 だから、そういうのが非常に懐かしい風景ですけど、今はまるっきり違っちゃっていますけどね。
【OK】 昭和30年にテレビ局が開局したんですから、そのとき既にできたんですよ。
【SH】 とにかくそうすると、昭和23年ということは60何年前だね。それだけ長くは住まわせてはもらっているんですけどね。
【聞き手】 今でも一ツ木に住んでいらっしゃる?
【SH】 住んでいます。昔の木造の建物だから、2階へ上がるんだってそのうち大変になるだろうから、マンションとかどこかへ越そうかなとは思っているんですけどね。
【聞き手】 一ツ木5-1って、どの辺だろうか。
【SH】 今は赤坂5-1ですね。
【OK】 昔、鈴振り横丁といっていたんです。
【SH】 そうそう、鈴振り横丁と言っていた、あれは円通寺坂をずうっとおりてきますね、一ツ木通りに向かって。だから、一ツ木通りのほうが近い。3分の2ぐらいおりたところです、円通寺坂を。そのところの……。
【OK】 だから、山脇のほうへ曲がるちょっと手前よね。
【SH】 T堂さん。ごめんなさい。T堂さんのダンスの隣です、私は。だから、昭和23年に建てた家は建て直したんですけど、建て直してからもう50年になるから塀自体古くなっちゃっていて、おやじがやったんですからあれなんですけども、そんなんでとても。それで、私はさっき言ったように、大井町に住んでいたとき出た小学校の先生が、変な言い方で申しわけないんだけど、赤坂に行くんだったら、氷川小学校へ入れてもらいなさいと言ってくれたらしいです、おふくろに。本当はそうなんですよ。インチキしたのかどうか知らんけど、そのころだから、多分あんまりうるさくなくて。要するに氷川小学校というのが有名だったのか、大井第一小学校の先生がそう思ったのか、多分、勝手な言い方だけど、氷川小学校はちゃんと自分の小学校の校舎を持っていたわけです。赤坂小学校は正直言うとそこに居候していた。焼けちゃったから。そこにいたんですよ。だから、多分どうせなら氷川小学校に入れてもらえということだったように思うんですよ。多分そういうことだったろうと思うので、そんな悪いことしたとは。ですから、変な話、私も倅と娘は赤坂小学校へ入れたくなかったんだ。(笑い)
【聞き手】 でも、23年ごろに一ツ木のあの辺にお住まいになったというのは随分。
【SH】 赤坂警察、今も揚所は変わらないですけど、歩いて10分か、それぐらいのところに。ですから、そこに土地を借りて、今もその土地を借りているわけですけど、自分の土地じゃないわけだ。それで家を建てられている。
【OK】 お地蔵様がありますでしょ、一六地蔵っていう。あそこが一の日と六の日、特に六の日の縁日が盛んだった。
【SH】 今でも六の日かなんかやっているんだね。
【TY】 にぎやかだったもんね。
【SH】 昔と全然違うけど、今でも一ツ木通りに幾つか店なんか出してやっているようですよ。
【SH】 六の日だと思ったがな。
【OK】 昔は一、六というと、六の日のほうが盛んでしたね。
【TY】 盛んだったわね。
【聞き手】 大体六の日が六地蔵って、浄土寺さんのご縁日なんですけども。
【SH】 地蔵は今でもありますよね。そうなんですよ。あの縁日ね。
【OK】 そう。お寺っていうけど、お墓がないの。あそこのヨーヨー釣りとか、私なんか20個も釣っちゃってさ。
【TY】 にぎやかでしたよ。本当ににぎやかだったね。
【TH】 両側にずうっとね。
【OK】 六の日の縁日に行くのが楽しみ。
【TY】 楽しみよね。ちょっとお小遣いもらってね。
【OK】 夕方から子供はね。
【TY】 それで、金魚すくいが10円だったのよね。(笑い)
【OK】 私なんかヨーヨー釣り、20個釣ったんです。こうやってくるくるとひもをぐうっと巻いていっちゃうのね。そういうずるして幾つも釣れちゃったりする。
【聞き手】 戦前がすごくにぎやかだったって伺った。
【TH】 戦前もそうらしいですね。
【SH】 子供のころは我々毎回というか、行っていたわけですよ、縁日に。
【OK】 戦前は赤坂の山王下にスケート場があったんですよね。山王ホテルの地下がスケート場で、一番上の姉はやっぱり山脇だったんですけども、山脇からいつもスケート場に直行していて、靴を預けてあったと言っていましたね。
【TY】 それこそあっちこっちにあったのね、スケート場というのも。
【聞き手】 新宿の伊勢丹と赤坂の……。
【OK】 赤坂の山王ホテル。
【TY】 芝の増上寺の前にもあったんですよ。
【SH】 そんなあれね。その後は赤坂というのは便利で、どこへでも通えますから、おやじはもちろん2、3年に一遍転勤させられるんですけど、赤坂からはその後どこにも移動しませんでした。便利ですからね、交通が。
【聞き手】 それで、昭和23年というのはまだ本当に焼け野原で、バラックみたいな感じだったと思うんですけど。
【SH】 そうですよ。ですから、まだ空き地というか、カボチャを植えたりなんかしていましたからね。
【OK】 裏に大きなトリ小屋があって、トリ1羽飼っていたわね。
【SH】 そうでしょ。あのころはそうだった。
【TY】 全然許可も得ないでね。
【OK】 お餅も自分ちで、こんな杵と臼が物置にあって、28日になると餅職人が来て、うちでお餅つくのね。だから、まだそのころは自分ちで赤坂あたりでも餅ついたりとかね。
【SH】 だから、その前のSWさんという旅館のころ、僕は大学のとき、彼女の弟さんの家庭教師をちょっとさせてもらっていたことがあるんだ。だから、よく食べ物を。
【OK】 それぞれみんな勉強を見てもらっていたから、それぞれいろんな先生がついていたから。
【SH】 いやいや、役に立たないんだけども。
【OK】 床屋さんもうちへ来ていたし、月に2回。
【聞き手】 おうちで床屋をしていたんですか。
【OK】 父は月に2回床屋してもらう。
【聞き手】 出前だったんですね。
【OK】 そう。赤坂はおやつも全部出前なんですよ。全部うちは出前。何食べたいっていったら。
【TY】 付き合いきれないわね、本当だったら。あまりのお嬢ちゃまで。(笑い)
【OK】 だから、全部出前。立田野とかね。
【TY】 そうよね。立田野さんも近半さんの隣にあったもんね。
【OK】 だから、全部出前。あと、TBSの真ん前に珍楽というラーメン屋があった。店は小さいんですけども、出前が多いんですよね。
【聞き手】 そうですね。あのころ戦後すぐはみんな出前の。
【OK】 珍楽のラーメンは50円だったのね。松月というのがあって、そっちは35円なんだけど、おいしくないの。珍楽がお休みだと、しようがないから松月からとる。
【TY】 うちのそばにあったときには50円だった、ラーメン屋は。
【SH】 それはそんなものだろうね。今の10分の1ぐらいだろうな。
【TY】 だから、プロレス、力道山、テレビがないから、見に行くときにはラーメン屋さんとか食堂へよく見に行ったわね。昭和30年……。
【TH】 あそこはテレビが溜池のところにあって。テレビ見に行ったね、よく。(溜池東芝ビル後に東芝EMI)
【SH】 そう。彼のあれで大分テレビ売れたんだよね。
【OK】 力道山って赤坂に住んでいたんですもんね。
【TY】 リキマンションのあたりでしょ。
【SH】 マンションまだありますよ。
【TH】 うちの隣が、相撲で九州山っていたのね、昔の。あの人がその後プロレスのレフリーしたもので、よく連れていってくれて、ちょこちょこと入っていって、力道山の試合やなんか見ましたよ。
【聞き手】 稲荷坂を上ったところですよね。その当時、一ツ木通りというのはお店なんてどんな感じだったんですか。
【SH】 あんまりなかったという感じです。
【OK】 でも、戦後はおしゃれな店できていたわよ。
【TY】 お店はね。うんうん。
【SH】 その裏のというか、田町通りとか、そういうところはもちろん料亭がずっとあったけど、一ツ木通りには食べ物屋というか、そんなのは全然覚えてないな。
【OK】 だから、立田野があったでしょ。
【SH】 あっ、立田野はあった。
【OK】 それから、金松堂さんはずうっと本屋だった。金松堂の手前にあった洋品店で、隅谷洋服店、私、あそこで買うのが好きで。
【SH】 でも、少なかったですよ、とにかく。
【TY】 その上に三木武夫さんの事務所があったのよ。坂を上っていくとずうっと。
【OK】 ヨロズヤさんと隣が大野さんです。赤坂製パンって、あそこは友達なんですよ。
【SH】 あんこを売っているところがあるでしょ、今でも。
【OK】 あっ、相模屋さん。
【SH】 あそこは昔からあった。
【OK】 私、おやつをあそこから買って、うちから持ってきてもらった。
【SH】 あれは大したお店というか。
【OK】 みんな集まると、きょうはくず餅が食べたいとか何とかって電話すると、あそこのを持ってきてもらっていました。
【SH】 そう。とにかく、例えば私らがラーメン食いに行こうなんて、そういう感じの店というのはほとんどなかったような感じがするけどな。
【OK】 珍楽ぐらい。
【聞き手】 八百屋さんとか魚屋さんとか。
【OK】 ありましたよ。あそこにナカムラヤっていって、安いの。
【TY】 あった。10円だった、サンマが。(笑い)
【SH】 よく覚えているね。
【OK】 安い魚屋。だから、うちは自宅のほうで従業員と一緒に食事するから、みんなナカムラヤで、母だけ浜屋。
【TY】 だから、珍楽さんのちょっとこっち側にあったでしょ。珍楽さんのちょっと隣の隣あたりにね。
【OK】 そうそう。
【聞き手】 そんなところに魚屋さんあったんですか。
【OK】 そう。ナカムラヤっていうの。
【聞き手】 ナカムラヤという魚屋さん。干物屋さん?
【OK】 干物じゃなくて普通の魚屋。
【聞き手】 一ツ木市場みたいなのもあったんじゃないですかね、多分。
【OK】 それ、いなげ家さんのほうを通るんでしょ。いなげ家へ行くほうのところに。有馬写真館の横。
【聞き手】 はいはい。有馬写真館のところにね。
【OK】 昔は有馬写真館の右だったんですよね。今、左になっちゃった。うちもお正月って有馬写真館へ毎年。
【TY】 写真屋さん。今、有馬写真館って言うから、思い出したら写真屋さんがあった。
【TH】 うちもあそこへよく写真を撮りに行くんだけどね。
【聞き手】 あそこは昔、今のアパホテルがあったところに有馬写真館があった。
【SH】 そうそう、それですよ。
【聞き手】 あそこ、小森さんっていう魚屋さんがありましたね。
【TY】 名前は知らないけど、あった。
【OK】 小森さんができたのは大分後じゃない?
【TY】 知らないけど、あの辺にあった。
【OK】 有馬さんは、お正月は毎年家へ写真を撮りにきたのね。家族写真を撮るので。
【聞き手】 ああ、そうですね。有馬さんは料亭の写真を撮っていて、随分。
【SH】 あれ戦前からあったんでしょうね。
【聞き手】 戦前からありましたね。有馬さんは随分古いお店です。
【TY】 でも、赤坂通りにもあったでしょ、写真屋さんって。
【OK】 赤坂通りってどこよ。
【聞き手】 瀬戸さんとか富士さんとかって。
【TY】 THさんちの近くにあったし、今、TBSの近くに写真屋がある。
【OK】 あと、ヨゴさんの左側。
【SH】 ああ、あった、あった。赤坂通りにあった。
【OK】 あと、一ツ木通りからみすじ通りの途中に。
【TY】 瀬戸物屋さんの隣あたり。その辺の名前がわからない。
【SH】 いや、あった、あった。
【TY】 あったよね。
【聞き手】 あのころは政治家さんが、花柳界でご接待したら、必ず写真を撮ったらしいんですよ。記念写真。それで、すごく繁盛したみたいですね。
【OK】 昔は政治家さんが来ると、車はみんな白ナンバーと言ったんですよね。ハイヤーはみんな白ナンバーって言うんですよ、そのころは。きょうは白ナンバーが多いわねとか、そうすると店で忙しいとかいうので。
【SH】 そうそう、白ナンバーということを。
【OK】 ハイヤーはみんな白ナンバー。
【TH】 そう、言いましたよね。黒塗りの車なんて、よくあそこに。
【OK】 だから、それをみんな店では、白ナンバーがきょうは多いからどうのと言って、忙しくなるぞとかね。車を見ると、大体どのぐらい注文が来るとか、5品とか7品とかって、お客さんによって注文の量が違うんですよね。
【聞き手】 お客さんによって料理の質ってみんな違ったんですか。クラスってあったんですか。
【OK】 そうですね。きっとそうです。
【聞き手】 松竹梅みたいな。
【OK】 松竹梅じゃなくて品数ですね。5品とか7品とか、揚げ物が入らないとか。ですから、最初、突き出しから、お吸い物のおわんとお刺身っていう順序がありますよね。それで、口がわりとかね。
【聞き手】 SHさんなんか赤坂の、例えば昭和23年に越してこられて、ちょうど学生時代を過ごされて、オリンピックがありましたよね。オリンピックまでの間って、赤坂なんかすごく変わったとか、そういう印象ありますか。
【SH】 申しわけないなあ。変わったかなあ。
【聞き手】 赤坂の中に住んでいらっしゃる方は、全然関係なかったわよという方がほとんどなんですね。だから、246側に住んでいらっしゃった方はすごく変わったっていうふうにおっしゃるんですけども、中側の人はあんまり影響なかったですよって。
【SH】 そういう感じですな。あんまり変わったというイメージないですね。
【OK】 変わったというと溜池交差点、要するに今全日空ホテルがありますよね。それと、全日空ホテルを背中にして右に面して溜池、突き当たりで、これ崖だったんですよ。これがオリンピックを境にこの崖が……。
【聞き手】 オリンピックですかね。もっと後で。
【OK】 後ですかね。
【聞き手】 ええ。高速道路は走っていませんよね。
【OK】 ああ、そうか。それじゃ、オリンピックのときは都電がなくなる? 都電がなくなって高速道路をつくるので、あれしたのかもしれないね。だから、うちの娘が都電で通っていたのがなくなって、バスになった。そうですよね。だから、下の娘が幼稚園のときはバスで通っていたけど、小学校に入ると都電がなくなってバス。
【SH】 そうだね。昭和38年か。
【OK】 そんなことだわね。6年生まれだから、そういう感じ。
【SH】 だから、そうですよ。246、青山通りというのは確かに全然変わって、赤坂見附のところは全然変わっているけど、一ツ木通りはあんまり変わったというふうに見えない。ただ、周りの店が増えたし、変わっていくから、それは確かにあれだけど、景色があんまり変わったというものはないね。もちろん変わっているんだろうけども、それほどのあれはないですね。
【聞き手】 そういう意味で鈴振り横丁もほとんど変わってない。
【SH】 そうですね。鈴振り横丁もあんまり変わってないですね。
【OK】 何で鈴振り横丁って言ったのかしら。
【聞き手】 鈴降稲荷ってあるんですよ。
【OK】 ああ、そうですか。
【SH】 私のところのちょっと坂寄りのほうのほんのちょっと、何軒かあるの。鈴降稲荷って小さなお稲荷さんがあるのでね。
【OK】 ああ、それで鈴振り。私も毎日のようにあそこを通っていたのに? 山脇に通うのにあそこを通って、こんな変な階段を上るんです。雪のときは大変なんですよ、滑っちゃって。階段、平らじゃありませんでしょ。あれ、こんなになった階段なんですよ。
【聞き手】 今は立派な階段になっていますもんね。
【OK】 あっ、そうなんですか。
【SH】 今のやつ知らないの?
【OK】 知らない。斜めの階段なんですよ、昔は滑り落ちちゃうような。
【SH】 しかも、あれ不思議なことに、同じ足で上らなきゃならない。左は左、左って。くたびれちゃうんだ、あれ。
【OK】 そうそう、幅が広くてね。
【SH】 そう。だから、交代交代にならないんだ。
【OK】 私なんか、いつも遅刻しそうで行くから大変だったわよ。
【聞き手】 今は立派な階段になりましたね。
【聞き手】 それで、辻さんに。
【TY】 みんなお話ししちゃったから何にもない。(笑い)
【聞き手】 辻さんも子供時代の遊びとかもいろいろお聞きしたいので。
【TY】 遊びってねえ。
【OK】 道路で遊んでいた時代ね。
【TY】 道路で缶けりとかね。
【聞き手】 車もあんまりなかった。
【TY】 なかったから。
【OK】 道路は幅の広い、それこそTHさんのところの幅の広いところとか、うちの下のところで遊びました。
【聞き手】 男の子と女の子と一緒に遊ぶなんていうこともあったんですかね。
【OK】 一緒でしたよ。
【TY】 小学校のときはほとんど一緒よね。
【聞き手】 大体氷川小学校の人はどの辺で遊ばれたんですかね。
【OK】 うちは道路の前で遊んでいましたね。
【聞き手】 学校の中では……。
【TY】 校庭でも遊んで。
【TH】 校庭ではよく野球したね。氷川公園とかね。
【SH】 ドッジボール?
【TY】 ドッジボールもやったよね。
【OK】 氷川公園がありましたでしょ。あそこに畑をつくらせられたんですよ、フダン草を植えて。私、それがすごく重い。砂利が多くて大変ってみんなでね。フダン草をつくったの。あそこの公園を全部畑にして。
【TH】 僕は幾つか自分の遊び場があったんです。1つが近衛連隊。そこは爆撃で残骸があったでしょ。
【SH】 あった。赤いきれいなね。
【TH】 その中に入っていっていろいろ。防空壕もあったのかもしれなかったですね。そこを上り下りしたりしてよく遊んでおりました。
【SH】 危ないといえば危ないけどね。
【OK】 近衛さんじゃなくて、氷川神社の前の三井さん、あそこも入れたんですよ。それで、あそこでかくれんぼしたりなんかして、焼けているんですけど、地下がすごい広かったんですね。
【SH】 今、アメリカ大使館の職員かなんかの宿舎になっている。
【OK】 地下に部屋がかなりあったらしく、上は全部燃えたけど、地下は仕切りだけあるじゃないですか。だから、あそこで遊んだり、黒田さんの庭でエビガニだのね。
【聞き手】 黒田さんの中なんかでも遊んだり。
【TH】 あそこは広い池が。
【SH】 池がありましたね。
【OK】 私たちは一条さんの庭で遊びましたね。
【TH】 そこもそう。あそこでエビガニを大分とって、あそこはよく遊び場になっていました。それから、一条さん。
【OK】 一条さんのところはレンゲ畑で、みんなレンゲをつんで首飾りみたいなのをつくったりとか。
【TH】 戦後はレンゲ畑だったんですよ。
【OK】 レンゲ畑だったんですよ。だから、一条さんのお住まいは洋館が建っていて。
【聞き手】 まだ建っていたんですか。
【OK】 建っていたんです、戦後。
【TH】 木がいっぱいあったもので、あそこでよくセミだのカブトムシだのとりに行きましたね。一条さん。それから、その後、隣の九条さん、私にいとこに年上の女の子がいましたので、その子の友達なんかと一緒にあそこへ行くと、食器がまだ焼け跡にありまして。
【聞き手】 九条さんのお屋敷は焼けたんですか。
【TH】 焼けたんですね。あそこも全然何もなかったです。それであそこへ行って食器なんかとって、その子たちとおままごとをしてみたりとか、そんなことしました。だから、あの辺ずっと遊び揚でした。
【TY】 男の子も女の子もみんな一緒に遊んだよね。
【TH】 うんうん。
【TY】 だから、黒田さんは焼けたけれども、門だけが残ったんですよね。それが東京のどこかのまち、例えばこどもの国だか、あっちのほうに。
【聞き手】 読売ランドにあるんですけど。
【TY】 そうらしいですね。
【聞き手】 でも、しばらく溜池のほうに置いてありましたよね。
【TY】 うん。
【聞き手】 あそこの土地関係が難しくて、親戚の人に黒門の土地を取られたらしいんですけど、その人が読売新聞社の正力松太郎に無料であげちゃったらしいんですよ、その門を。だから、今は読売ランドに置いてあるんですね。
【OK】 一条さんも、戦後にゴム統制会というところが全部買ったらしいんですよ。私もすぐ上の姉から聞いた話なんです。ゴム統制会というところが一条さんの屋敷跡を全部。うちは一条さんの下屋敷というところの隣に13年いて、一式全部ゴム統制会が買って、ですから戦前は借地だったわけですよ、うちなんかも。戦後、ゴム統制会から買ったそうです。
【聞き手】 ゴムって戦後すぐ統制品だったので。
【OK】 そうです。ゴム統制会が一式買って、それでうちもそこから買ったらしいですよ。うちは通りに面してなかったんです、戦前は。奥まっていたところで、中に通りが1本入っていたんです、下の中でも。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。崖の下に?
【OK】 ええ。こっちの浜屋さんの前に大きな門がありまして、そこからずうっと坂になって、雪なんか降ると、そりができるぐらいの坂があったんですね。それで、ずうっと上がるようになっていたんです。ですから、こっちの階段のほうからは入れなかったんです、戦前は。うちは表通りに面していないほうだったんですね。ですから、崖があって、崖下のほうだったんです。戦後、ゴム統制会が買ってから、崖のところからこっちまで全部広く買ったらしいんですよ、表通りのほうまで一角を。ですから、戦後残っていたから、すぐそういうことができるんですよね。朝ドラの『ごちそうさん』じゃないけど、そこに残ってないとすぐできませんものね。
【TY】 だから、皇居があって、そこに大名屋敷が、みんな大きいお屋敷ばっかりあったわけじゃないですか、赤坂地域は。だから、三井さんの本家があって、南部坂があって、南部坂のこっち側から全部、黒田さんのお屋敷。そう。それがどんどん分譲されて、うちもだから昭和5年あたりで分譲するので、今のところを母たちが買った。それで、今はマンションが1つあるんですよね、黒田さんの。
【聞き手】 黒田さんはマンションに今でも住んでいらっしゃいますけどね。だから、戦後の貴族の方って生活が苦しかったから、本当に切り売り、切り売りというか、だから今の16代目のご当主さんも昭和23年か24年ぐらいのお生まれなんですけども、氷川小学校で、赤坂中学校の出身なんですよね。
【TY】 黒田さん。
【聞き手】 黒田さんって。戦後だから、何も学習院へ行かなくたっていいんだろうということで、氷川小学校、赤中のご出身なんですけどね。だから、あの山って北から南に抜ける通りがないですよね。みんなおりていかないといけない。
【OK】 横線がないということね。
【聞き手】 そうそう。だから、ぐるっとおりて、多分赤羽(かつての東急ホテル)さんのところを通って氷川学校に通っていらっしゃったみたいなことをおっしゃっていましたね。こっちへ行っても、あっちへ行っても。
【TY】 ちょうど真ん中だからね。確かに真ん中。真っすぐ行けばすぐなのに。2分ぐらいで着いちゃうかもしれないのに。
【OK】 花柳界も大体芸者さん上がりでおかみさんになる人と、女中さん上がりでおかみさんになる人といたんですよね。そのおかみさんの雰囲気はやっぱり全然違うんですよ。「長谷川」のおかみさんは女中さん上がり、「中川」さんは芸者さん上がり。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。仲居さん上がりのおかみさんのほうが経営はしっかりしているみたいな。
【OK】 しっかりしていますよ。ですから、「長谷川」さんのおかみさんは仲居さん上がりですよ。特に顔つきから違うんですよね。しっかりしている。
【聞き手】 なるほどね。それで、辻さんは昭和5年に黒田さんのところから今お住まいのところを買われて、そこでご両親が事業を始めた。
【TY】 そうです。その前から始めたんですよ。母が牛込の人なので、そうしたらご近所さんで、一ツ木通りで薬局を始めた方がいたんですよ、母が若いころに。それじゃ、知り合いがそっちにいるならばというので今の福吉町に引っ越してきて、そしたら分譲が始まったので、そこを買ったという感じ。
【聞き手】 福吉町の1番地というと、どの辺になるんですか。
【TY】 氷川小学校から坂を左におりたところ。
【聞き手】 左におりて、今のアークヒルズと。
【TY】 あの真後ろ。そう、ツインタワーのまんま後ろ。
【OK】 あの辺みんな森ビルが開発した。
【TY】 そうそう。今月の30日であそこも閉館。森ビルが壊すんですって。建てかえで、3年かかるそうですね。でも、壊すのでも1年以上かかるんですって。だから、うるさいから、ごみとか煙を出さないように壊していくんじゃないの?
【聞き手】 あそこ建ったのも随分新しいような気がするんですけど。
【TY】 だから、うちの孫が生まれる前後ぐらいだから、30年たつかたたないぐらいでしよ。
【OK】 赤坂プリンスだって、昔、あそこは芝生があって、外にプールがあって、あそこ私、入りに行きましたけど、赤坂プリンスの芝生がずうっと。赤坂の弁慶橋が見えるところにプールがありましたでしょ。
【聞き手】 赤坂のプールに行くのが若い人たちのステータスみたいな。
【OK】 子供たちと行きましたよ、あそこに。赤坂プリンスのプール。
【TY】 でも、私たちが小学校のとき写生っていうと、霊南坂か赤坂見附のあそこに決まっているんですよ。
【TH】 赤坂プリンスの屋上から写生するというの。
【TY】 うん、屋上からね。
【聞き手】 霊南坂はまたきれいな教会でしたしね。
【TH】 こっちの赤坂プリンスもそうだったね。
【SH】 今、霊南坂といってもね。
【OK】 でも、あそこ桜坂がいいわよね。
【聞き手】 プリンスホテルは旧館ですね。
【TY】 そうそう。
【TH】 旧館です。あそこの屋上から学校もよく見えたね。
【TY】 撮影のスポットですよね。
【OK】 今、あそこはどうなっちゃうの? 今度プリンスホテルは壊されましたでしよ。
【TY】 壊れたけど、あれは残るんですって。
【OK】 旧館は残っているけど、新館があったほうは?
【TY】 また建て直しするんじゃないの?
【OK】 西武が売っちゃったわけですよね。
【TY】 あっ、プリンスだからね。
【OK】 西武はどんどん衰退しているから、今ね。
【聞き手】 辻さんは、小学校は氷川小学校で、あの辺というのはあんまり変化というのはなかったんですかね。ちょっと赤坂の中心からは離れているというか。
【TY】 そうなんですよ。だから、皆さんは氷川小学校を境に向こうの坂をおりていくでしょ、一ツ木のほうの坂。私、1本こっちだから、おつき合いというのが。
【OK】 だから、小学校のとき、あんまりつき合いがない。だから、こっちのほうだけなんですよ、つき合うのが。
【TH】 遊ぶのが分かれちゃったね。
【聞き手】 なるほど。坂を境に。
【TY】 そうなんですよ。帰る道順。だから、私でいうと、SHさんとかNさんなんですよ。
【OK】 要するに溜池方面の人たち。私たちはこっちへ帰ってきちゃうから、こっちのグループでと。
【聞き手】 溜池も道路を越えて、向こうから氷川小学校に通っていらっしゃったみたいですものね。
【OK】 Nさんなんかそうでしょ。
【TY】 違う。全日空ホテルがあるでしょ。あれの隣あたりだった、Nさんのおうちは。
【OK】 ああ、そう。そうすると、向こう方じゃないわけね。SHさんは向こう方じゃないの?
【TY】 SHさんはアメリカ大使館の前。
【OK】 そうすると、向こう方でしょ。
【TY】 そう、あっち方。Nさんも向こう方。パン屋さんの隣あたり?
【OK】 みんな結構その辺から来ていた。だから、やっぱり向こうのお友達とこっちの、どうしても友達はつき合うのが分かれちゃうんですよね。
【TH】 帰りが違うしね。
【OK】 でも、大人になってから、30代になってから毎年クラス会やっています。(笑い)
【TY】 夜遊びもしたものね。
【OK】 30代で夜のクラス会だから、年に二度やっていた。
【TY】 そう。それで手入れが入ってね。
【OK】 夜中まで遊んで。
【TY】 そしたら夫に、おれだって朝帰りしてないのにって言われた。(笑い)
【OK】 まず、みんな夫に何て言う。赤坂生まれと結婚したんだから、しようがないって。その一言で何も言えない。(笑い)そのぐらい赤坂というのは夜中平気ですもんね、歩くのが。私なんか2時、3時に、夜中、こっちの家から向こうの家へ行ったり来たりしたりとかね。花柳界は夜中のまちですからね。(笑い)
【聞き手】TYさんのおうちの辺は家内工場っていうんですか、工場みたいなのが多かったって。
【TY】 今住んでいるところでしょ。多分ないと思う。住宅地だと思う。うちの隣は五軒長屋ぐらいだったんです。だから、機械を入れて仕事しているのはうちぐらいなんじゃない?
【OK】 だって、TさんとかNさんって、みんな機械屋さんでしょ。
【TY】 それは、だって表通りだから。
【TY】 商店街があり、家内工業みたいなのがあるから、それはいいんですけど、うちは1本路地入っちゃっているでしょ。だから、それで商売していて、機械を入れていたというのはあの通りではうちぐらいで、Fさんっていたでしょ、男の子。
【TH】 うん、F君ね。
【TY】 あれ、何屋さんだっけ。
【TH】 何かやっていた、あそこのうちは。
【OK】 あっ、板金屋みたいなのを。
【TY】 あと、OZさんのうちもなんか工場、ようかんの何かつくっていた。紙の関係だけど。
【OK】 うん、ようかん屋の紙を。やっぱりあの辺じゃない? お宅の近くでしょ。
【TY】 そう、1本向こう側ね。
【OK】 あと、菅谷さんっていう宝石屋さんがあったでしょ。あそこばっかりうちに取引に来てもらっていたのね。
【TY】 息子さんが引っ越しましたって挨拶に来られたけどね。
【OK】 アサノ先生だったんですよ、私たち。アサノ先生もあの近くに住んでいたんですよ。ねっ。
【TY】 そうですね。
【OK】 あの坂をおりて、ちょっと左のあたり。
【TY】 そう、南部坂に近いほう。
【聞き手】 箱屋さんって伺ったんですけど、箱を赤坂でつくるというのは赤坂に需要があったんですか、そういう。
【TY】 たまたま父たちが、そこで商売を始めたというだけのことだと思いますけどね。そこで開拓をしていって、文明堂とか、錦松梅とか、塩野さんとか。そういうふうに開拓していって。たまたま偶然に。父はあんまり営業のうまい人じゃないんですけど、必死に働いて営業したんでしょうね。それで、今はもうここで商売するところじゃないだろうというので、川口へ工場移転していったんですよ。父がリヤカーとか自転車で、肩に荷物しょって塩野さんあたりに配達に持っていたとかね。あれは麻布の文明堂さんで、文明堂さんも個々なんですよね、麻布とか、銀座とか、日本橋とか。でも、今は結構統一されていて、麻布さんはもう廃業しちゃいましたのでね。もうこんなところやっていられないって今の主が。だから、ビルをあそこは持っているんだと思うんです、文明堂ビルというのを。あれで悠々自適なんだと思います。人がどれだけこっち側にいるのかというと、要するに今全日空ホテルの通りがあって、その向こう側にも住んでいらした方がいたでしょ。榎坂があるでしょ。そっちとこっち側とまた違ってくると、なかなか男の子とまでは遊ぶ……。ドコイキとか、縄跳びとか、缶けり。缶けりとかやったわね。ドコイキというのはこうやってどこさわってくるとか。さわるべからずみたいな建物があったでしょ、こんな変な。変圧器みたいなのはさわるべからずと書いてある。そこへさわってくるんですね。(笑い)
【OK】 麻布小学校に行った人もいるのね、あの辺で。
【TY】 ぎりぎり近いんじゃない? 向こうのほうが。だから、氷川小学校へ行くと、10数人しかいないわけよ、生徒さんが。だから、うちの孫は麻布小へ行ったわけ、逆に。そうすると、重い荷物をかついでかけ出していったのよね。
【OK】 戦時時中は、私たちの時代は逃げて帰る練習ばかりでしたから。
【TY】 あっ、戦時中はね。
【TH】 あと防空頭巾かぶったね。
【OK】 防空頭巾かぶって、それでどぶが全部からだったので、とぶに入るんですよ。かけて帰って、途中で何か鳴ったりすると、全部耳と目を押さえてどぶに伏せるんですよ。とぶに入る。私なんか小さいから、ぽっとどぶに入る。どぶに伏せるの。そうしなかった?あっ、そうか。あなた3年生まではいなかった。
【TY】 そう。私、昭和19年の春ごろ疎開して、21年に帰ってきているから。
【OK】 だから、私は小学校2年まではいたから。
【聞き手】 結構疎開の期間は短かったんですね。昭和19年から21年までだから、2年ぐらい。
【TY】 そう。昭和19年の2、3月ごろ? それから、21年の秋には、それこそ母がこんなところにいられないと。
【OK】 でも、そのときおうち建てたわけ? もう。
【TY】 バラック建てたんじゃない? だから、母ともう1人の人で結構往復したんじゃないのかしらね。それなりに住めるように。
【OK】 私、お風呂、ドラム缶のお風呂へ入りましたよ。
【TH】 おれも入ったよ。
【OK】 雨が降ると傘差して。周りにさわると熱いから大変よ。しゅっと入らないと。
【聞き手】 戦後からオリンピックぐらいまで、一番印象に残っていることって何ですかね。
【OK】 私、お祭りで盆踊りがすごくあったりとか、昼間はおみこしかついで、夕方から盆踊り。こっちの田町寄りのほうは華やかだったですよ。お祭りで芸者衆の手古舞が出たりとか、屋台が組まれて芸人が出て、夜、アッコちゃんと。サエグサ美容院というのがあったんですよ。今の松原商店と。松原商店はあった? あれがもとはこっち方の今のミカドの辺だったんです。小さな雑貨屋さんだった。あれが向こうへ行って、松原商店の隣の富谷薬局と、松原商店の並びにサエグサ美容院というのがあって、そこでみんな昔風の。うちの母なんかもずっとそこへ行っていたんですけど、私も年末は日本髪をそこで結ってもらって、そこの人がクラスメイトで、よく一緒に遊んだんですけど、夕方からはそれこそ5時から盆踊り。
【SH】 盆踊り、よくやっていたね。昔、サエグサさんでしたね。
【OK】 夜11時まで、もう終わるまで踊りあかす。
【OK】 今の赤坂会館のところが空き地になっていたの。
【聞き手】 そこで盆踊りやったんですか。
【OK】 そうなんです。
【聞き手】 今は氷川さんの境内でやっていますよね。あとは何か一番印象に残っているって。
【OK】 だから、縁日へ行ったりとかね。
【TH】 テレビ局ができたよね、あの上に。あんなのができちゃって、それでテレビ塔が建って、うちのおふくろなんかがよく見に行っていました。
【OK】 でも、30年だから、大分戦後……。
【TH】 よく見に行っていましたね。TBSの玄関にテレビがあって。玄関のところの1台。よく夕涼みがてら見に行ったことがありました。それで、塔ができたものだから、塔みたいに真っすぐ伸びたいなという気がありました、あのころに。(笑い)あのときは随分テレビ見てね。
【OK】 私なんかはそのころ働いていたから、一生懸命、20人ぐらいの料理。打ち合わせというのをTBSとはしょっちゅうやったんですよ。そうすると、20人ぐらい。旅館の朝の食事というのは決まっていますから、お手伝いさんでできるんですけど、夜のお食事はきょうは何人と全部自分で仕入れして、全部つくっていましたから、献立を考えて。
【TH】 テレビも変わってきたもんね、あのころの店がなくなったり。
【OK】 これはいつの写真なの?
【TH】 それ戦後すぐ。氷川小学校のあれでアルバム。
【OK】 霊南坂、溜池。でも、赤坂小学校の方のほうが多いかなと、私は拝見して。氷川小学校のころのことがあんまりないんですよ。
【聞き手】 そうなんです。赤坂小学校の方のお話を聞くことが多かったので。
【OK】 私、これ拝見してすごく思った。(笑い)これは氷川小学校じゃなくて、絶対これは赤坂小学校だなと思った。
【聞き手】 これからいろいろ話してくださる方いっぱいご紹介いただいて、聞かせていただければ。氷川小学校でも住んでいるところによってまたいろいろ。
【OK】 そうですよ。こちらとあちらは全然違いますからね。やっぱり花街というのはにぎやかですよね。花街というのはやっぱり派手ですよ。ここに書いてあるところは三業道路で、これが三業組合。三業組合の組合長だった、私の父は。ですから、戦前より戦後のほうが派手ですよね。戦後のほうが一時期花柳界は派手になりましたね。
【聞き手】 でも、戦前も軍隊がいたので、随分派手だったようなんですけども。
【OK】 戦後一時、政界が。政界は全部赤坂を使っていましたからね。
【TH】 人力車が随分あそこに。
【OK】 あっ、私、人力車に乗ったことある。
【TH】 ああ、そう? 芸者さんがね。
【OK】 だって、お医者さんへ行くのに入力車で行く。
【TY】 あの2丁目交番のところに並んでいたもんね、人力車が。
【OK】 そう。だって、足が全部水虫になって歩けなくなっちゃって、人力車で。
【TH】 芸者さんもいたり、三味線の音が聞こえてきたよね、いろいろと。
【OK】 だって、うちに流しが来るくらいだから。
(写真を見ながら)
【OK】 くだらない写真を持ってきてね。これが小学校の卒業式の写真なんですね、6年生の。6年生のときは2組あったので、私、1組だった。それで、こんなの結ったりしたんですよ。恥ずかしいから。お正月というと必ず新日本髪。まだ中学生のときは新日本髪というのを結って、高校生になったらこっちのおしどりという髪なんです。
【TY】 あっ、やった。どっちが小学生のころ?
【OK】 向こうは中学生、16歳。こっちが18歳。
【聞き手】 これ、ちょっと私、写真を撮りたいんですね。
【OK】 恥ずかしいから、写真を何かというので整理して見ていたら、あっ、こんなのがあったなと思って。
【聞き手】 ちょっと伺ったときに、赤坂の花柳界というのは、朝鮮戦争のころから急ににぎやかになったって。
【OK】 ああ、そうですか。
【SH】 やっぱり景気がよくなってきたからね。
【OK】 新橋、赤坂、柳橋といって、その3つが一流だったんですよね。神楽坂とかいうとちょっと落ちるんですよね。ですから、随分、柳橋とか新橋の方とも父はおつき合いがあって、両国の花火のときはいつも招待されて、柳橋の料亭の舟で花火見物して。これも有馬写真館で撮ったの。
【TH】 うちにも何枚かあるよ、有馬さんで撮った写真が。昔、学校へ行ったよね、1日。
【OK】 戦前は知らない、覚えてない。
【TH】 あっ、そう?元旦の歌を歌ったりとか。紅白の餅かなんかあった。
【OK】 だから、2年上の姉はなぎなたのけいこがあったのよ。私たちはそんなのなかったんじゃない。その時代、こんな髪形が。
【聞き手】 何年ぐらいですかね。
【OK】 写真の後ろに書いてあります。
【TH】 花火がぱっと上がるでしょ。そして、ばらばらばらと落ちてくると、あれ見ると焼夷弾が落ちてくるのを思い出しちゃうんだ。
【OK】 いや、中学と高校ですね、それはきっと。昭和24年に卒業していますから、小学校は。だから、中学のときと高校のときですね。
【OK】 そうですね。それはおしどりという型なんですよ。ここにちょっとこういうふうに出すんですね。
【聞き手】 そのサエグサさんという美容院で。
【OK】 隣ぐらい。今の富谷薬局。
【TH】 郵便局かなんかない? あそこに。うん。なかったっけ?
【聞き手】 今はセキネっていう八百屋さんになって、今はその八百屋さんもやめて。
【OK】 みっともないの。済みません。
【聞き手】 貴重なお写真、どうもありがとうございました。あんなにいい空襲の写真があったのに何で使わなかったんだろうね。
【OK】 後で見せてね、今の写真。
【TH】 はい、どうぞ、どうぞ。学校の60周年のときだか、送ってきたんだよね。寄付したの。そうしたら、あれ送ってきた。
【OK】 『赤坂物語』という本が出ましたね。私の一番上の姉があれを読んで、これは全く違うと言っていましたね。姉がこれは赤坂じゃない人が書いているって。
【聞き手】 赤坂じゃない人が書いているんですけども、たまたまユニパックで仕事していらっしゃって、ちょうどユニパックの前に勝海舟邸のイチョウの木が見えたので、イチョの木から見た赤坂ということで書かれていて、彼女は彼女なりにいろいろ取材をして書いたんですね。
【OK】 私もあれ持っていますけども。
【TY】 私も持っています。
【OK】 姉もあれを読んで、姉は大正12年生まれですから。震災があったのが9月です。姉がお宮参りの日だったそうです。そのときから赤坂に住んでいたんですよね。家は焼けなかったので、近所の人に炊き出ししてあげたりとか、多分大変だった。そのときは台町に住んでいたって言っていましたね。台町に所帯を持ったというのは聞いているんですよね。あそこは山なので、地盤がかたいので、多分、震災のときはあんまり揺れなかったんです。ですから、平気だったみたい。たんすを押さえていたとか言っていました。昔、父がいたころも赤坂でSWを知らないのは潜りだって言っていましたね。(笑い)町中が知っているっていう感じで、知らないやつは潜りだとか。妹なんかも父と一緒に歩くと、大変よ、方々みんなおじぎするからって言っていましたね。
【聞き手】 その方なんかも、赤坂が元気になったのは朝鮮戦争が非常に大きなきっかけで。
【SH】 それは景気がよくなったんだから、あれだね。
【OK】 金松堂のお姉さんが、妹なんか、SWさんのお嬢ちゃんっていつまでたってもお嬢ちゃんって言われていてね。
【SH】 金松堂のお父さんは元気なのかな、まだ。
【OK】 みたいよ。動いていますよと言っていた。
【聞き手】 赤坂なんかの一六地蔵のそんなにぎわいというのが本当にびっくりするぐらいですね、伺うと。
【TY】 人があふれていたわよね、あのときの縁日は。
【OK】 夏なんか浴衣を着てちゃんとね。何かするとすぐ浴衣着たりとか、ちゃんとそういう格好しましたね。
【聞き手】 戦前はあそこで日用品なんかも売っていたらしいんですけども、洋服地とか着物地とか。だけど、戦後の縁日というのは・・・…。
【OK】 焼きそば屋さんとかね。
【TH】 バナナのたたき売りなんてやったんだもんね。
【聞き手】 物を売っているというんじゃなくて、食べ物屋さんとか屋台みたいなのが主だったんですかね。
【OK】 あと金魚すくいとか、ヨーヨーとか。
【TH】 植木屋さんも随分あったね。
【TY】 市だかなんかのとき、植木屋さんばっかりというのがあったわよね。
【SH】 そういう感じだよね。
【OK】 うちは食べ物は一切だめなの。買っちゃいけませんって言われて。
【SH】 子供が喜んで歩くようなのを対象にしているんだろうけど。
【TY】 今、植木で1本180円だったの、根がついていて。何だっけ。今咲く花。におう。チンチョウゲ。それを私がお墓へ持っていって、お墓の隅にぽんと入れたんですよ。そうしたら、こんなに大きくなったんですよ。いい形になったなって、お墓あれして、こういうふうに。そうしたら、うちの母がだれかに言われて、切らなくちゃいけないと言って、真夏に切っちゃって、何にも手入れしないもんだから、枯れちゃった。
【聞き手】 食べ物なんかはどうだったんですかね、皆さん戦後。だから、畑をされたっていう話をしていました。
【OK】 戦争直後ですね。
【TH】 ひどかったね。
【OK】 うちは千葉からおばさんがかごをしょって、千葉のおばちゃんといって。
【TY】 かついで来る人もいるし、私は母と買い出しに行ったことが何回かある。
【OK】 私はちょっと申しわけないけど、食べ物に困らなかった。
【SH】 そうだよ。うらやましいよな。だって、我々まだ中学に入ったころは、15円だか20円だか忘れたけど、例えばそば屋へ行ったって切符持ってなきゃだめなんだもん。金を払っただけじゃだめだよ。
【OK】 中学生で?
【SH】 うん、そうだよ。
【TY】 でも、パン屋さんでコッペパンにジャムを塗って、それこそSWさん、そんなもの食べたことないだろうけど、クリームパンだとかジャムパンだとか、こんなんで買ったわよね。
【TH】 学校でもコッペパン1つ。
【SH】 配給制度だから、まだね。
【OK】 それで、給食がひどかったんです。
【TY】 ひどかった。最悪ね。
【聞き手】 給食はあったんですか。
【OK】 脱脂粉乳。
【TY】 もうまずくて、まずくて。
【OK】 もう飲めないので、担任の先生が捨てていいって言うんですよ。
【TY】 それぐらいまずかったわよね。
【OK】 廊下に長い洗面台があって、そこにバケツがあったんです。そこにみんな捨てちゃうんです。
【SH】 赤坂の話じゃないから悪いけど、僕は大井町にいたときに駅前の広場で闇市というのがあって。私が覚えているのが、正確かどうか知らんけど、卵が5円50銭というのをちょっと覚えている。正確かどうか知りませんよ。だけど、それは500円生活時代ってわかる?
【OK】 何、500円生活時代って。
【SH】 500円生活というのは、給料取りを、要するにサラリーマンは500円しかくれないの、月給。つまり、例えば1,000円なんだけど、あと貯金させられるの、全部。それを500円生活。そんなに長いことじゃないよ。1年かなんかなんだ。そのころですからね。例えば今1カ月にサラリーが1万円だとすると、そうしたら、生活が5,000円だよ、要するに。そうでしょ。
【OK】 戦争直後?
【SH】 うん、戦争直後だ。
【OK】 戦争中かしら、母が郵便局から、そのころは銀行というのはあんまりなくて、郵便局でしたでしょ。1件で700円しかおろしちゃいけないっていう制度があったみたいです。
【SH】 そうなんです。あったのよ。月給取りは500円しかくれないんだもん。
【TH】 印紙かなんか張って使ったことあったよね。
【OK】 全て配給でしたでしょ。だから、闇で買うしかないんですよね。
【SH】 ないけど、今ちょうど言っていたような高くてなかなか買えないのよ。
【TY】 新円切りかえになったじゃないですか、お金が。だから、私が疎開していたところでアイスキャンディが何十銭だったんです。だけど、東京へ帰ってきて間もなくしたら、ぐるっと変わったもんね。だから、その切りかえがいつだったかは私も覚えてないのよ。
【TH】 随分お金の価値がね。
【TY】 価値が変わっちゃったからね。
【OK】 戦後間もなくじゃない? 切りかえたのは。(*注 新円切替1946年)
【TY】 それがよくわからないけど、20年の春ぐらいはアイスキャンディ35銭だったのよ。
【OK】 35銭?
【TY】 うん。
【OK】 私、中学生のときはハーシーのチョコレート、50円だったかな、私、毎日1枚食べていたの、お小遣いで買って。
【SH】 金持ちだな。
【TY】 ラーメンが35円、50円という時代なのよね。
【OK】 そうそう。
【TH】 円になっちゃって、そういうのは銭だったもんね。
【OK】 チョコレートが好きで好きで、毎日1枚食べちゃった。見番の並びにハガさんというお米屋さんがあったんですよ。
【TY】 今もある? なんかあるわよ、お米屋さん1軒。
【聞き手】 お米屋さんはありますね。
【OK】 その隣にタカハシヤっていうちょっと高級な駄菓子屋さん、おせんべいとか、チョコレートとか売っていて、そこで毎日1枚ずつ買った。
【TY】 お米屋さんがあって、その近所に千古満さんのビルがあるんだよね。
【聞き手】 そうです。お米屋さんの2軒隣か3軒隣かに千古満さんの。
【TY】 あそこに千古満ビルがある。あの方も料理でしょ。千古満さん。
【聞き手】 千古満さんも仕出屋さんですよね。仕出屋さんだけれども、今、赤坂はこんな状況なので、パリに千古満という日本料理のお店を出すらしいです。
【OK】 すごいですね。
【聞き手】 今はほとんどパリのほうに行っていらっしゃいますね。
【TY】 じゃ、2代目か3代目かでしょう。
【TH】 あのころは食べるものがね。だから、お米も一升瓶の中でついていた。
【SH】 こうやっていたよ。
【OK】 戦時中ね。
【SH】 要するに玄米をつかなければならないからだね。
【OK】 ごみが残っていると、あらを拾えと言って、こうやって洗うの。
【TH】 食べるものがなくて、すいとんだとか食べた。
【OK】 私はそういうのが食べられないから。
【TY】 うらやましい限りで。
【SH】 食べるものというのは本当にね。
【OK】 代用食だと、うっと受け付けないから。
【TY】 わかるけど、こっちはひもじいもんね。(笑い)
【SH】 変な話だけど、すいとんというのがあるでしょ。今だって観光地へ行ったら、すいとんってうまいのがあるじゃない。だから、こんなのすいとんっていうんじゃねえんだと。すいとんというのは代用食事で、ふすまを煮るのがすいとんっていうんだっていうの。
【OK】 ふすまを煮るの?
【SH】 ふすまを。
【TH】 ふすまも食べたよ。
【SH】 だって、食い物ないんだもん、ほかに。
【TH】 小麦粉をちょっとつなぎにつくって。
【SH】 それは出汁なんかもちろん入ってないですよ。
【OK】 だから私、ほうとうとか、そういうの嫌い。
【TY】 私、粉類好きだから、ほうとうって好きなのよ。
【聞き手】 食料事情が改善してきたというのは、大体感じとしてはどのぐらいですかね。何年ぐらい。
【TY】 昭和30年近く?
【OK】 いや、そんなにならないです。
【SH】 そんなにはならないでしょ。昭和24、5年。
【OK】 昭和23年ぐらいには回復したんじゃない?
【SH】 幾らか回復。
【TY】 そんな完全には回復してないよ。
【SH】 さっき言ったように、金だけ払ってもだめなんだから。切符を出さなくちゃ。配給なんだから。そば、うどんを食うのにだよ。米だけじゃないよ。それがなくなったのが中学のとき。
【聞き手】 昭和25年の5月に外食券なしで食べられた。
【SH】 だから、昭和25年というのは我々は中学のまだ1年か2年に。
【聞き手】 15円でかけそばがつくられた。
【SH】 そのとおりだ。15円かなんかでうどん食うの。
【OK】 でも、昭和24年でしょ、私、小学校を卒業したの。でも、卒業式の日に、私、ふぐ源からこんなフグ刺が届いた。
【TY】 だから、全然違うのよ。
【SH】 闇市へ行きゃ、それはあるんだよ。
【OK】 築地のふぐ源さんって。
【聞き手】 昭和24年から全国の料理飲食店が再開して。
【SH】 そうだね。そのころからだよね。
【聞き手】 朝鮮戦争が昭和25年6月なので、そのころから外食券なしで。
【聞き手】 やっぱり一つの転機になる感じですね、朝鮮戦争が。
【SH】 それはそうですよ。それはアメリカがどんどんね。
【OK】 築地のふぐ源さんって有名な板さんを入れられて、それがうちの店を一部貸していたんですよ、赤坂で。ですから、卒業したお祝いにといって、こんなお皿でフグ刺が届いたりしたんですけど。
【TH】 昭和22、3年ごろまでよかったんだろうね。
【TY】 フグどころじゃないよ。お刺身じゃなく、お寿司も食べられなかった。
【SH】 それはそうだよ。米なんかないんだもん。
【TH】 お寿司どころじゃないよ。お米がね。
【OK】 うちお寿司屋が出張してくるのよ。
【TY】 OKさんがちょっと違うの、別格なの。
【SH】 だって、配給というのは砂糖とかトウモロコシとかだって、みんな米のかわりに配給なんだよ。
【TH】 サツマイモをよく食べていたもん。
【SH】 だから、極端に言ったら、1カ月に3日分しか米は配給してくれないんだよ。
【TY】 でも、中学に入ったころからは違ってきたわよね。
【SH】 幾らか違ってきたけど、今言ったように昭和25年までは外食券が要るようになっていたんだ。
【TY】 だって、お弁当が持っていかれて、御飯のお弁当を持っていけたんだから。
【TH】 で、おそば屋さんから何かくれたんだね。
【TY】 だから、OKさんは別格。
【SH】 もちろん買い出しとか何とか行かなきゃならないけど。
【TY】 うん。行かなくちゃならないけども、中学に入ったときにはお弁当は持っていって、御飯だったもん。
【TH】 そうだよね。中学ぐらいにはもう。
【OK】 それこそ全然違うお話ね。そのときはまだうちの中学校なんていうのはあれだから、ストーブがあったわけですよ。まきだか練炭だか知らないけど、そうすると冬になるとそこで温めるわけよ、お弁当を。そうしたら、私の仲間が温めるのに、クサヤをお弁当のおかずに持ってきた。クラス中におっちゃったという、今でも笑い話。(笑い)
【SH】 ぜいたくだよね。でも、それは。
【OK】 それも彼女のおうちが小料理屋だった。だから、そういうのが入っていたんですよね。
【TY】 私もタタミイワシとかお弁当のおかずに。タタミイワシって高いわ。
【OK】 おうちで食べればおいしいけども、お弁当のおかずじゃにおっちゃうって、それも温めちゃうと。
【聞き手】 それは赤坂中学校じゃなくて。
【OK】 じゃないです。私学です。
【TY】 赤坂中学校というのも、戦後は氷川小学校に間借りしていたのよね。
【TH】 うん、そうだよね。
【聞き手】 そうですね。氷川小学校だけが焼け残ったので、なんかあれですね。
【聞き手】 じゃ、中学校は皆さんばらばら?
【TY】 ばらばらですね。
【OK】 私は山脇。
【TH】 僕は日大三中・三高です。
【SH】 あれ近かったんですね。
【TH】 あれ中ノ町で、すぐだったんですね。
【OK】 私たちの学年は山脇と三中がほとんど。
【SH】 それは地元だからね。
【TY】 だから私は、失礼な言い方をすると、テストしなくても三中と山脇は入れるものだと思っていたぐらい入ったわよね。10人ぐらいずつ。
【SH】 そんなことはないよ。いや、それぐらい多かった。
【OK】 山脇は10人受けて、10人入ったんですよ。
【TY】 三高も全部入ったんでしょ、大体。赤坂の人たち、山脇の人が多いですよね。
【OK】 そうですよね。一番上の姉から3人全部山脇なので、だから試験受ける前から制服ができちゃって。(笑い)
【SH】 歌手の姉妹がいたじゃない? あれ何っていったっけ。
【TY】 川田さん。
【SH】 川田正子と孝子か。
【OK】 孝子は下。正子のほうは東洋英和なの。
【TY】 あっ、そうなの? 山脇じゃないの?
【SH】 山脇じゃなかったか。おれ、両方山脇だと思っていた。
【OK】 東洋英和は芸能活動をしちゃいけないの。東洋英和はうるさいんですって。ミッションだから。
【TY】 そのときはね。そのときはねって。
【OK】 それで、下の孝子は。あの人の360番という番号が出たとき、みんな知っているのね。やっぱりあのころはアイドルだったからね。
【TY】 そうよね。ラジオじゃ年中だったもんね。
【OK】 みんなわあって。私も覚えている。だから、360番って書いてあった。
【TY】 自分の番号は忘れても覚えちゃう。
【OK】 私、自分は247番。
【SH】 よう覚えているね。
【聞き手】 皆さんここで昭和22年ごろモンペが減り、スカート姿増えるという。
【OK】 そうですね。洋服になるなとどういうふうな。
【TY】 私、モンペってあんまり記憶がないのよ。
【OK】 モンペというんじゃなくて、モンペというのはこういうふうにひもでしばる。そうじゃなくて、うちは母が手づくりで全部つくってくれたんですけど、花柄かなんかの、要するにぽっとはける。上がゴムで、下にもゴムが入っていて、そういうダボっとしたパンツですね、ズボンみたいな。それはモンペじゃないんですけど、そういうのをつくってくれてはいていましたね。
【聞き手】 それはいつぐらいまで。
【OK】 戦前なのかしらね。戦後はそういうのはあんまり。
【TY】 私、モンペというのはあんまり記憶ないのよね。
【OK】 私もあんまりモンペって記憶ない。うちはモンペじゃなくて、そういうのだったわね。
【TY】 だから、結構スカートで。
【OK】 戦後はすぐスカートだったような気がする。
【TY】 ねえ。
【聞き手】 普通にこういう。これも戦前のお写真なんですけど、結局、普通にスカートだった。
【OK】 そうですね。
【聞き手】 氷川小学校って制服みたいなのはあったんですか。
【OK】 ないです。ただ、運動着はブルーマー。昔はブルーマーって、ダボっとしているの。
【SH】 そうね。中学はあったろう、制服ね。
【TY】 うん。それは私学の場合はね。
【SH】 僕も制服あった。
【OK】 だから、さっきの写真みたいにみんなまちまちですよね、卒業式も。そのころは1つしか中学選べなかったので、落ちたら赤中へ行けとか言われていました。山脇の制服で赤中へ行きなさいって言われた、もし落ちたら。
【聞き手】 でも、親御さんはやっぱりモンペ。
【OK】 いや、うちモンペはいてない。
【TY】 記憶がない。
【TH】 うちも着物でしたね。
【TY】 着物だったかもしれない。それに割烹着して。
【OK】 私の母も九十幾つ、亡くなるまで洋服って着たことないから。
【SH】 そういえば着物だったな。
【TY】 うちのは着物ね。
【SH】 戦時中はモンペだったんだろうけども、戦後はそうね。
【TH】 モンペの姿ってあんまり見たことない。
【SH】 そうね。覚えがないな。
【OK】 やっぱり赤坂って、モンペをはく人少なかったんじゃないのかしら。でも、芸者さんの写真はモンペ姿の芸者さんって出ていますね。
【TH】 戦前だろうね、それ。
【OK】 うん、戦前。
【TY】 そういうお仕事をね。
【OK】 そうそう、工場だからね。そういう沖電気の関係で。だから、戦後、沖電気のお客様が結構使ってくださったの。
【聞き手】 あとは普通に、大概洋服は。
【SH】 男は、だって短パンであれだから。
【OK】 洋服は、ですから昔、既製服ってなかったんですよ。だから、全部あつらえですね。
【聞き手】 あっらえか、お母さんがつくるか、そんな感じだったんですかね。でも、男の子の服というのは、大概、戦前は金ボタンとか、こういうような。
【SH】 そういえば、どんなの着ていたかな。
【聞き手】 靴なんかはどうですかね。
【OK】 これで見ると今とあまり変わらないね。
【TY】 戦前はみんな革靴を履いていたんですよね。
【TH】 うちもそうだったよ。僕も大体革靴履いていたね。
【SH】 靴は革靴だったかな。運動靴。
【OK】 ただ、戦後すぐ、直後、中学へ行くときの手さげカバンが牛革じゃなくて、豚皮でしたね。
【TH】 なかったよね。
【SH】 どんなカバンだったかな。覚えてねえな。
【聞き手】 でも、戦後、結構皆さん革靴履いていらっしゃったんですかね。
【OK】 革靴ですね。
【聞き手】 戦前の方は、赤坂の人はみんなほとんど革靴だったと言っていました。
【OK】 戦前も戦後も革靴で。
【TH】 戦前はうちなんかは革靴。戦後はどうだったろうな。そんな革靴なんかなかったと思うな、戦後は。
【TY】 だけど、戦後でも革靴でもいいものと悪いものとあるから。(笑い)
【聞き手】 ズックみたいなのは履いてなかったんですかね。
【OK】 履いてなかったんじゃないですかね、逆にそういうのは。
【TH】 革なんだけど、グローブがありましたよね。かたいグローブでね。それとかきれのグローブでよく野球をみんなやったんだけども、岡田真澄だけがいいグローブ持っていたの。クラス会に僕行ってきたの。随分いいグローブ持って、随分うらやましかったよと言ったら、おふろくさんがPXに勤めていたんだって。それなもんだからね。
【TY】 だから、威張っていたんだ。
【聞き手】 威張っていたんですか。
【TH】 そんなに威張ってはいなかったです。
【OK】 威張ってないわよ。
【TY】 違う。だから、あそこに住んでいたでしょ、かまぼこのTBSに。そしたらば、ヨシダピサコさんのおうちがオークラに住んでいたじゃない。焼けなかったので。
【OK】 円通寺さん?
【TY】 うん、円通寺さんの。そこにお母さんが来て、日本人なのに何でこんなところに住んでいるんだ、私たちとかわれって談判しに行ったと言っていたわよ。
【OK】 ああ、そうなの。負けたのにって?
【TY】 そう、負けたのにって。
【聞き手】 お母さんは外国の方だったんですか。
【OK】 そうなんです。お父さんが岡田さんという。
【TY】 画家かなんかなんでしょ。
【OK】 そう、画家かなんかだった。
【TH】 デンマークだったかな。
【SH】 デンマークだったよね、たしか。
【OK】 お母さんはね。
【TH】 でも、そんなに威張ってなかった、僕たちには。
【OK】 岡田は威張ってない。
【SH】 あれは僕らより2つぐらい上だな。
【TH】 一緒に学校から帰ってくると、同じところだから、下の土手を上っていくのね。余計なこと言ったけど。
【SH】 あれ何年生までいたのかしら。僕は残念ながら。
【OK】 6年生のときに知らない間にいなかった。
【SH】 そうでしょ。
【TH】 アメリカンスクールへ行ったんだって。
【SH】 だから、僕は一緒だったことはないわけなんだ、彼とは。
【OK】 だけど、氷川の友達はいいって言っていた。
【SH】 だから、会ったのは、後のクラス会しか会ってない。
【TH】 クラス会にはよく来てくれたんですよね。亡くなるちょっと前まで来てくれていた。それで、ここが一番懐かしいんだって。
【OK】 余談ですけど、お嬢ちゃんたちは青山へ入っているみたい。
【TH】 芸能界の話は全然しなかったですね。
【SH】 だけど、彼がクラス会に出て、だって青山でやったら、それはみんな周りの人はあいつはだれかわかっているわけだよ。わあっと見るんだよ。
【聞き手】 ああ、そうですか。洋服なんかはそうだったんですね。
【SH】 下駄を履いていた覚えはあるけどな。
【TH】 あそこへ上がっていく……。
【SH】 もちろん学校へ行くときじゃないだろうけど。
【TH】 あっ、げたをね。下駄はよく履いていたね。
【TY】 でも、なかなか洋服も買ってもらえないしね。
【TH】 もらえなかったね。
【SH】 だってないんだもん。
【TY】 本当に買ってもらえるっていうことなかったもんね。記憶がないわよね。でも、何か着ていたんだもんね。
【聞き手】 そのときはご両親というのは、土曜日、日曜日なんて休まず、皆さん働いていらっしゃったんですね。
【TY】 それこそ月に2日しかお休みない? それで、月2日の日曜日ね。例えば第1と第3がお休みだといっても、午前中は仕事させられているんですよ。だから、本当にゆっくりできるというのがほとんどなかった。町工場ですから。
【TH】 町工場じゃなくても、その当時、親たちって必死でしたからね。
【SH】 そうそう。
【TH】 うちはおふくろと2人だったもんだから、サイダー屋さんってあるんです、檜町へ途中に。
【TY】 あっ、ありました。今でいう。サイダー屋さん。
【聞き手】 あっ、ホッピーさん。
【TY】 ホッピーさん。そう。
【TH】 そのうち、お隣の姫路寮まで行った、そこの管理に。最初のうちは、戦後こっちへ帰ってきてすぐはそこのサイダー屋さんへ行って働いていましたね。
【聞き手】 あそこの角にありましたからね、石渡さんの。
【TH】 角に。あっ、石渡さん。
【TY】 あの方は私たちよりちょっと上だから、かなり詳しいでしょ。
【TY】 若いの? それじゃ。
【聞き手】 この前、ご主人と一緒にお話を聞いたら。
【TY】 60歳代?
【聞き手】 いやいや、60代ということはないです。でも、75、6?歳
【TY】 それじゃ、同年代なんですね。
【聞き手】 と思いますよ。ああ、そうですか。石渡さんのところの近くに?
【TH】 うちは三中のそばだったんです。瀬戸写真館、瀬戸あそこのすぐそばです。あそこのちょっと裏で、2、3軒行ったところ。あそこの子とはよく遊んでいたんです。
【TY】 M君っていたよね。あの子、写真館じゃないんだ。
【TH】 違う。
【TY】 あっ、そうなんだ。
【SH】 ああ、M君ね。
【TY】 M君っていた。
【TH】 瀬戸写真屋さんだった。
【TY】 あっ、そうなの。
【TH】 瀬戸さんは僕たちより1つ下だったので、よく近所で遊んでいましたね。それから、長寿庵というおそば屋さんがあって、あそこの子も一緒で。
【聞き手】 ああ、そうですか。でも、今はもう若旦那になった。
【TH】 それは僕より2つぐらい下だから、やっぱり74、5歳になっているんでしょうね。
【TY】 だから、代がわりはしているかもしれないけど。
【聞き手】 長寿庵さんも新しいビルを建てられて。
【TH】 もうできたんですか。
【OK】 みすじ通りの由来、もうご存じでしょ。みすじ通りの由来というのは。何でみすじ通りっていうか。四方さんが三味線の三筋でつけたんですよね。赤坂会館、見番は今、あそこの中にないんですか。
【聞き手】 ないんです。
【OK】 あっ、そうなんですか。
【聞き手】 練習の舞台も、芸者さんは1時間幾らとお金を出して借りるようになっています。
【OK】 え一っ、要するに料亭が少なくなっちゃったからですね。
【聞き手】 ええ。料亭が少なくなってしまったし、あそこを建設するときに、その当時の赤坂組合の組合長さんがバブルの最盛期に建ててしまったので、借金が払えなくて、結局とられちゃったという形になって。
【SH】 じゃ、せっかくだから、お菓子ももらって帰ろう。悪いから。
【OK】 やっぱり私なんか、何たって赤坂が懐かしいんですよね。
【聞き手】 ありがとうございました。
了