赤坂-1
赤坂で日本料理店を経営。花柳界や町の暮らしの変遷とともに。
赤坂で日本料理店を経営。花柳界や町の暮らしの変遷とともに。
・語り部氏名 HKさん(日本料理店主)
男性
生年月日 昭和20年(1945)4月
赤坂で暮らした時期 生まれてから現在(平成26年―2014)まで。
① 主な内容
戦後先代が赤坂で飲食店(中華仕出し)を継いで、日本料理店を経営。同時に赤坂花柳界の待合に仕出しを届ける仕事をしてきた。その中で、垣間見た料亭や待合の暮らしや芸者衆の在り方、また、赤坂花柳界の真っ只中に暮らして見てきた、赤坂の人たちと花柳界の人々との付き合いや暮らし方など、父親の仕事を手伝いながら見てきた赤坂の様子。自らの経験を踏まえて、日本料理の蘊蓄や料亭や待合の料理の内容や料金の変化や商店街の役員として関わった時代の商店街の繁栄と凋落。赤坂の繁栄は東京オリンピック(昭和39年・1964)までだったとはいいながら、バブル経済の中で、赤坂の古くからの住民で、最も積極的で、活動的だった人たちから、時代の流れに呑まれて、赤坂から去らざるを得なかった状況など、赤坂商店街の変遷、赤坂商人気質や訪問客の特性、その将来について持論を述べている
② 備考
・戦後赤坂の商店街の飲食店は中華店が多かった。(昭和30年頃まで)
・小学校では、花柳界からの同級生も多く、芸者さんになった女子もいた。
・待合茶屋の料理場は旦那が焼餅を焼くので、全員女性が占める。料理は仕出し屋から取る。
・赤坂の料亭はそこから秘密が漏れることがないように、信用を重んじた。
現住所 港区赤坂3丁目
学校 氷川小学校 青山中学校 慶應大学卒業 日本料理店を継ぐ
保存資料の状況 テープ起こし原稿 要約 取材シート 三回確認
取材者 NM(聞き手1) AH(聞き手2) TM(聞き手3) CI(聞き手4) OH(聞き手5)
取材年月日 平成26年(2014)10月4日
旧住所 赤坂区田町4丁目(現 港区赤坂3丁目)
語り部 HKさんの話
【聞き手】プライベートなことでございますが、生年月日は。
【HK】昭和20年4月26日です。69歳。我々は団塊じゃなくて、昭和20年というと、へこみの世代なんですよ。21年ぐらいから団塊の世代に入るんです。我々のときは、学校のクラスは人数が少ないんですね。だから受験も比較的楽だったのかもしれんけど、私は大変でしたけど。
【聞き手】現住所はまさにこちらでいらっしゃいますが、そうしますと、20年にお生まれになって、物心ついたころから場所はこちらのほうに。
【HK】最初、私が物心ついたときは、そこの塩野(和菓子)さん。地図でいうと……。向かい側ですね。田町4丁目。塩野さんのお隣に住んでたんです。それで昭和27年にここの土地をそこの土地と、父の話ですけど、等価交換をして、等価交換というより、そこを売ってここを買ったんでしょうね。それで余ったお金で、木曽まで父は木を買いに行ってるんです。ところが父はいろんなおもしろい話……。私にはおもしろい話は何もないんですが、父はおもしろい話がたくさんあって、赤坂の話とは全然関係ないんですが、うちの父は37、8歳で、37歳かな、徴兵されてるんですよ。それで韓国へ、連隊に入ったときに料理長だったんですよ。料理長で、だから上等兵というんですか。で、写真を見るとひげを生やしてるんですよ。で、おやじ、こんなので上等兵はできねえだろうっていったら、俺は連隊長にすごいかわいがられたから、ひげを生やしてたんだと。ただ父は、終戦間際になると、日本の軍隊っていうのは兵隊をトラックの後ろに載せて、銃剣を持って韓国の人たちをおどかして食糧を調達してたんです。ところがうちの父は、ほんとはいけないことなんでしょうけど、連隊の靴だとか靴下ですとか手袋だとかをトラックへ積んで、農家の人と物々交換してたんです。食糧調達で。そうしましたら、終戦の間際に、Hさん、うちの村へ来てくれって呼ばれて、村人の人たちが、もう日本はだめだよと。だから、これを持ってけ、あれを持ってけといって、小豆とお砂糖と何とかと言ってましたよ。リュック3個分を父にくれたらしいんです。で、父はそれを引揚船のところへ持って行ったら、当時、私物は船の外へ全部置いていかなきゃいけない。そうしたら連隊長が、父の荷物は俺の荷物だといって載せてくれたらしいんです。うちの父はそういうものを持って日本へ帰ってきてるんですね。それで、闇で売って、塩野さんの隣に家を建てたんですけど、建てたといってもバラックでしょうけど、私の記憶だとラーメンをやってましたね。それで私、ラーメンとか居酒屋みたいなのをやってたんですよ。名前をフジといって、私は当時、今の国際の西館に、国際自動車のモータープールがあったんです。要するに駐車場が。帝産オートは氷川小学校の上かな。こっち側は国際か何かだと思いますけど、バスや何かがとまる場所がありまして、そこに私が兄とラーメンを配達して、当時は幾らだったかな、30円か50円かわからないですけど、腕に握りしめて、もうかった気分で手伝いに通ってた記憶が残ってるんですよ。それで土地を、今度こっちへ移ったときに、父は再建するんだといってトラックをチャーターして、木曽で木を、トラックにいっぱい積んで帰ってくるんですが、六郷の橋のところで当時木材とか釘とか、みんな統制品なんですよね。それで多摩川の六郷の橋のところで、検問の警察官がトラックの助手席のトラップを上ってきて、許可書はあるかとか言ったらしいんです。父はトラックの後ろにずた袋か何かを付けてあって、あ、許可書ですかといって、手をこうやったんです。そうしたら警官が、あるなら通れといって通らせてくれた。
【聞き手】危ういですね。
【HK】それでここが建ったんですよ。そうじゃないと建たないですよ。
【聞き手】それは危機一髪。
【HK】危機一髪なことはたくさんあるみたいです。
【聞き手】いや、いや、それはお父さんがきっとうまく話とか、何かつけられたんでしょうね。
【HK】いや、つけてなかったんですよ。だからよくそんな話を聞きます。そんな話を聞いてますね。
【聞き手】運がよかったというか。
【HK】運がよかったんでしょうね。
【聞き手】でも、その連隊長さんにかわいがられた話とか、やはりお父さんは料理長もしていらしたし、こう言っちゃあれですけど、優しいご性格で、きちっとしたあれをされておられたんでしょうね。
【HK】あんまり戦争の話はしたがらなかったですね。ただ、日本の人がひどいことをやってるんだという話は言ってましたね。戦争のとき。ひどいことをやってきたんだって言ってましたけどね。ただ、40幾つのとき、徴兵のときは、ピストルというんですか、撃ったことねえと言ってました。要するにみんな後方部隊なので……。そんな話をしてましたけど。
【聞き手】いや、お帰りになるときに朝鮮の人から3つも袋をいただくなんて、やっぱりあれですよね。
【HK】珍しい。
【聞き手】人徳でね。ほんと、そうでしょうね。
【HK】珍しいことなんでしょうけどね。そういう、赤坂の方のお人柄っていうのもあったのかなってちょっと思うんです。いろんなところから兵隊の方が集まってると思うんですけど。
【聞き手】いい人が多い赤坂。
【HK】いい人が多いというより、赤坂はある意味で不幸な人がたくさんいるんです。要するにおめかけさんが町に多かったですから、片親の方々が多いでしょう。だから私は今、氷川小の同窓会の会長をしてるんですけど、竹下さんがその前の同窓会の会長さんをなさってたときも、片親だとか何とかいって責めたことは子供のときからないんですよ。みんなそういう意味では情というより、みんなわかってるというか、中にいると、中の人のほうが−この言い方は古過ぎちゃってだめかな、貞操は固いすよ。おめかけさんにしても、旦那以外の人には手を出しませんし、だから外から見るとふらふらしてるでしょうね。だから中学校は、私は赤中じゃなくて青中へ行ってるんです。氷川小学校を出て、うちの姉の長女がすごい頭がよかったんです。それで弟にものすごくできの悪いのがいると。それで小林先生っていう当時の先生に長女がかわいがられてたものですから、その長女が相談に小林先生のところへ行ったら、小林先生が青中に今来てるから、そのできの悪いのを俺のところによこせと。で、そのできの悪いのが俺なので、青中へ行ったんです。だから越境なんですね。私は赤中じゃなくて青中に越境したんですけど、当時、うちはこういう飲食店ですから、母が弁当をつくってくれないわけですよ。つくってくれというのも無理なので、長女がつくったり、2番目の姉がつくったりもするんだけど、長女もその当時は第一生命に勤めてたりしてたから、つくれないときはパンを買わなきゃいけなくて、昼休みに塀を乗り越えて、青山1丁目のところにコロッケ屋さんがあって、そこヘパンを買いに行って、怒られたんです。そのときに、やっぱり赤坂の花柳界の辺から来てるやつはっていうようなことを、耳にしたんですよ。それから私、はっとして、それからほんとに生真面目にしなくちゃしようがないと。みんなの見る目が違うわと思って、えせ生真面目になったんです。そういうことですね。だからよその方々の目と、中にいる人間の目はまるで違うんですよね。
【聞き手】外から偏見で見てた。そういう見方で赤坂の人を。
【HK】そういう目はありましたね。色眼鏡で。
【聞き手】まさにね。そうすると、ご兄弟は長女……。
【HK】長女、長男、次女、それから私、妹と、5人います。
【聞き手】女性が3人、それで次男でいらっしゃるわけですね。
【HK】次男です。
【聞き手】そうすると氷川小から青中へ行って、それからは。
【HK】それから私は都立城南高校に行きまして、麻布十番のところにあるんですけど、今は閉校になって六本木高校になってると思うんですけど、それで一浪して慶應義塾大学へ行きました。浪人しましたから。ただ、私はほんとにできは悪かったんですよね。だから大体先生に会うと、へえ、おまえがねっていう感じです。ただ変な話、城北予備校へ行ったときも、1学期のときに2,000人いて、1,000番台ですよ。でも、すごいショックなことが1学期のときにあって、それからほんとに真面目に勉強したら、2学期の最初のテストで4番になったんですね。それから12番を下がったことはなかったです。でも、そうすると、学校の先生の態度が変わるんですよ。
【聞き手】そうでしょう。
【HK】だからね、私、何だ学校の先公っていうのは……。あ、ごめんなさい、先生っていうのはと、私は思いましたね。高校時代に浪人してると報告しなきゃいけないので、1学期に呼び出しがあるんです。で、1学期に行ったときは、私なんか十把一からげの、浪人の集まったやつらの中で、おまえ勉強しろよみたいな話をするわけです。それで2学期になったときに呼び出されたときには、HK君、ちょっとこっちへ来てくれというんです。それでみんな同じ高校で、同じ予備校へ行ってるのがいますから、それなんかから話を聞いてるんでしょうね。おまえ、随分いいらしいじゃないかと。これから頑張れっていうわけですよ。でもね……。それなら、もっとできの悪い時期に声をかけてくれよと思うわけですよ。それで、実はうちの父は六大学野球が大好きでして、私は小学校から六大学をいつも、神宮外苑に土日は連れて行かれて野球を見てたんです。それで慶應の大ファンで、そしたら、私は浪人のときに試験を受けたら、最初の発表が慶應だったんですよ。そしたらおやじが喜んじゃって、入学金を納めちゃったんです。だからほかの試験、何も結果を見に行ってないですよ。見てもしようがないから。だって、あの当時、60万とかっていうお金ですから。入学金とあれを入れたら。だからそんなのを蹴るわけに私もいかないし、で、見に行かなかったら、今度、学校の先生のところに、慶應に決まりましたので卒業証明書とかくださいって報告に行くわけですよ。そうしたら、「この大学は、この大学は」って言うから、え、見に行ってないです……。見に行ってないですと。「何で行かないんだ、おまえ」って散々怒られて、で、私は、人間ってめちゃめちゃ身勝手な人たちばっかりなのかと。誰が俺の入学を喜んでくれてるんだよと、ほんとに思いました。そのころから、やっぱり予備校で、お一人でもほかがあったら、予備校としてはこれだけ合格してると。実績が欲しいだけなんです。だけど、それよりもほんとうは、私じゃなくても、例えばA君、B子さんだとかがここに受かって、よかったなおまえっていうのが、私は人だろうと思っちゃうものですから。その辺がギャップで……。今になれば、先生の気持ちもわからないわけじゃないけど、当時は、何なんだよとか思いながら帰ってきた思い出があります。
【聞き手】当時で慶應でいらっしゃったら、相当できのいい……。
【HK】いや、さっきも言いましたように、V下がりのところですから、楽なところだったと思います。もとはできない。いや、高校の先生に伺っても、そんなのどうでもいい話ですけど、城南へ入りましたよと言ったときも、へえ、おまえがねと言われたんです。で、慶應へ入りましたと言ったときも、へえ、おまえがねと。つまりそれほど目立ったあれじゃないんですね。ただ、最近の気持ちでいうと、どこかにスイッチが入るとめちゃめちゃやったというだけの世界で、そして終わったらスイッチ切れちゃったというだけの世界なんですけどね。それだけの話ですだから、何でも丸暗記でした。今みたいに予備校も行かなかった。予備校って、今みたいにそんなに一生懸命やったわけじゃないので、中学校から高校までの英語ですと、教科書を丸暗記してました。丸暗記して、そらんじられましたね。みんな丸暗記です。論理性は何もないです。ただの丸暗記です。しようがないですね。
【聞き手】でも、それで、できるかどうか差ができてきますから。
【HK】だからほんとは違うんですよね。だからテストがどこか狂ってますね。
【聞き手】結局、でもそういうあれで鍛えられたんですよね。そう思いますよ。で、そこで能力が出るんですよね。方法はどうあれ、そのときにそういったあれで、ぐっと伸びる人と伸びないのと、やっぱり刺激があったりして違ってくるんだと思いますね。学部は……。
【HK】私はアホウ学部(法学部)です。
【聞き手】お店のほうのお話をお伺いしてもいいですか。ラーメン屋さんを戦後、昭和20年ごろですから、やっていらして、その後は。
【HK】それで27年にMK家という看板をやっと掲げまして。
【聞き手】こちらのほうで。
【HK】だからバブル……。ここは実は、今この建物は150坪あるんです。ですから私の父のすねをいまだにかじって、財産を取り崩してますけど、父たちと母たちが、要するにここは最初37坪ですから。ここまで広げてきましたので、だから父母たちはがむしゃらに働いたと思いますね。私も中学校から出前を、岡持ちを担いで自転車に乗ってましたし、37坪だと、お座敷があっても大して大きくないんですね。だから出前を持って待合さんに行きましたから、忙しいときは、出前だけで100人分ぐらい、毎日出してました。
【聞き手】出前はどういうメニューですか。和食、定食。
【HK】いや、まずお通しとお椀を先に待合さんに届けておくんですね。お通しと小づけですね。小づけとお椀と通缶という、カンにおわんの具だけ入ってるんですけど、おつゆは通缶に入れて、それをみんな・・ 待合さんに届けて行く。すると待合さんはお客さんが来ると、まずお通しを出して、おわんつゆをそこから鍋にとって温めて、ご自分で張ってお出しになるわけです。そのときに、お客さんお見えになったら、例えば今日は10名様で見えましたよというと、うちへ電話がかかってくるんです。10名様、お始めですと。すると次にお刺身を持って行くわけです。次が口がわりを持って行って、その次に焼き物を持って行って、次はお煮物を持って行ってという、そういう順番に持って行くんです。ですから、待合さんによっては、7人がお見えになってるから、7人から始めますと言われると、7人を持って行く間に1人が増えましたというと、それもそこへ入れてとか、だからひっきりなしですよ。最盛期は調理場に入っている板前が5人ぐらいで、運ぶやつが5人ぐらいいたんですよ。私はだから中学校から帰ってくれば、夜は自転車で手伝い。だから高校も、父は私が机に向かって勉強すると怒ってましたよ。そんなの役に立たないつって。だから、おまえ働けと。だから父は、浪人したいと言ったときは、姉弟で頭を下げて頼んだんです。浪人を1回だけさせてくれと。父は大学へ行かなくていいと思ってたんですね。
【聞き手】うちを継いで。
【HK】ここをやれと。だけど、父は兄にはすごい甘くて、兄は立教を出て、それから洋食をやりたいといって、今のそこの2丁目の交番の脇に坂があるでしょう。溜池タワーっていうタワーが建ってるんですけど、そこに当時は金子さんだったかな、帝国ホテルの会長さんがいらっしゃって、そこへ父が頼みに行って、うちの息子が洋食をやりたいと言ってるから何とかしてやってくれと。それで京都ホテルへ勤めるんですね。京都ホテルへ、その紹介で。で、京都ホテルへ行ってるときに神戸のベルギー領事館というんですか、公使館というの、そこのテストを受けて、ベルギーの……。あっちは専門学校みたいなのが国公立であるんですよ。要するに、大学以外に職業専門学校みたいなところがある。ベルギーにあるんです。で、それを受けて、4年制だけど、大学出てるからといって一般教養みたいなのは免除されて、実技から入るんですね。ベルギーで2年間やって、それからスイスだとかフランスだとかアメリカとか、ふらふらしてたんですよ。で、父のところ、うちに手紙が来ると、あいつは何かもてるんです。私はもてないんだけど。力は私はあるんですけどね、でももてないので……。何かオープンカーみたいなのに乗っかって、外人のきれいな女の子を脇に乗せてる写真とか、3人ぐらいの女の子に囲まれてる写真とか、やたら送ってくるわけです。で、おやじが、こいつは何やってるんだと。遊び回ってるんじゃないかというので、私が大学4年のときかな、帰って来たんですけど、その当時は木造の裏のほうに小さな別の家をつくって、スタンドMK家というのをつくりまして、そこで兄に、おまえここで商売やれと。うまくやったら考えるとか言ってたんです。そしたら、長女の結婚した連れ合いが、要するに兄と兄同士で話し合ったんでしょうね。そうしたら、継がないと言い出して、私は大学4年のときに、一応つまんないところでも内定してるところがあるのにもかかわらず、長女夫婦に……。今でも麻布の楓林別館という中華料理屋が、またあそこは朝の5時までやってるんです。早いとこ終わりゃいいのに。それで10時ごろ来いって、行ったら、そこで説得して、11時ごろで終わるんだったら、もう帰りますと、嫌だ嫌だと帰って来れるのに、5時までやってるから、うんと言うまで動かないんですよ。で、結局……。根負けというか、あんたどうするんだと言ったら、あとは俺に任せるといって、全然任せないで、私がこっちへ帰って来たときには、ゼミの先生に呼び出されて怒られるわ、おまえの後輩をおまえの会社は採ってくれなくなるとか言われて、そんなこと言われても、もう終わっちゃったよとか思ったんですけど。
【聞き手】そうですか。
【HK】今、先生は仲よくしてますけどね。イケマサル先生って、結構いい先生なんですよ。大学野球に詳しい方ですけど、その当時は大分怒られました。しようがないですね。
【聞き手】それでおうちを継ぐことに決められて。
【HK】ええ、なっちゃう。勝手になったので、成り行きです。みんな成り行きなん
です。
【聞き手】いや、いや。そうですか。それでお兄さんのほうの、拝見すると、ベルギー
【HK】そうです、ベルギーの。ほんとうは、兄はスタンドをやってるときに、洋食をやりたいんだったらと、新橋に場所を父が確保したんですよ。で、おまえこっちへ行けと。新橋もこれからいい町だからと。で、赤坂はまだ和食の町だったんです。洋食云々じゃないから、新橋のほうがハイカラぶってるからそっちへ行けっていったら、兄が動かなかったんです。で、動かなくて……。ただ、父がこの家を建てるときは、これはおまえがつくれと言ったので、これは鹿島と私がつくったんですけど、簡単に言えば、だから父のあれでは、土地も6:4で私になっちゃってるんですよ。だけど父が他界したときに、6割4割で何とか言ってもくだらないから、もういいやって、兄とここの収益はフィフティー・フィフティーにするという形をしたんですね。要するにけんかしてても始まらないし、しようがないだろうといって……。簡単に言いますと、10対ゼロなら全部自分のものでいいんですよ。でも、9対1だったら、幾ら9があっても、1は文句言われるわけです。で、4対6も、絶対6が多くても、4が文句を言うに決まってるんです。だったらフィフティー・フィフティーにする。相続じゃなくていろんな運営方法について。その相続の金額も、それは私のほうが不利なんです。建ったときのほうが土地の資産価値が強いですから、私のほうが相続税が当然多く来るわけです。だからそれは、相続の問題から言えば私は不利なんですけど、ビルを運営していくというと、簡単に言うと、ひびが入って直そうよといったときに、6割の私が金がなくて、4割の兄が金があって、100万円かかるんだったら、俺が40万出すから、おまえ60万出せと例えば言ったとしても、俺は60万なかったら、どうせけんかになりますよね。だからどっちに転んでも同じだから、フィフティー・フィフティーでいいよと。つまらないわだかまりが消えるなら、そうしようという形で……。だから人は、一之って名前がよくないというんです。これ長男につく名前だって。だけど、兄も長男で、イチゾウってついてるんだからいいじゃないかなと思うんですけど。まあ、どっちでもいいんですよ。しようがないです。成り行きでなっちゃったんだから。
【 】お兄さんと仲がよろしくて、近所でも評判の仲よしっていう感じだったんでしょうかね。
【HK】いや、7つ年が違うんですよ。一番上の長女とは10歳違うから、その後、兄が7つでしょう。その次のトシオがまた3つ違って、私と4つ違うから、だからすごい年が離れてますから、仲がいいなんていうより、私が大学のとき彼はヨーロッパに行っていたし、仲がいいということはないんですね、別段。むしろ仲がいいと言えるとすれば、下の妹だとか、すぐ上の姉のほうがいましたから、あれですけど。
【聞き手】一緒にね。
【HK】うん、一緒にいましたし、一緒に家を手伝ってもいましたから。
【聞き手】7つ離れると、小学校へ入ったら上は中学校ですからね。大人に見えちゃいますね。
【HK】見えちゃいますね。だから仲がいいとかっていうのはあまり感じたことはないですね。ただ、昔から私は、学生時代までは、年の差が1つでも半月でも違えば先輩だと思ってるんですけど、社会に出たら先輩もへったくれもないよというのが私の考え方なので、あんまりそういうのは気にしないことにしてます。
【 】ちなみに赤坂は和食の町で、新橋は洋食の町っていうか、ハイカラぶってるとさっきおっしゃってたので、おもしろいと思ったんですけど、その空気というか、町全体で、赤坂では花柳界もあったので和食……。
【HK】当時は洋食というと、からす亭さん。で、その後、津つ井さんですからね。和風式洋食、箸で食べられる洋食っていうのが出てきたのが。だから赤坂は基本的にいうと、皆さんは和食の町と言うけど、私に言わせると中華の町だったんですよ、子供のころは。要するに、子供のころ、赤坂は中華料理屋さんばっかりですよ。それはなぜかというと、連合軍だから、お酒の統制が自由なんですよ。闇酒を売れたんですね。で、警官がこのお酒をどうするんだといっても、おまえ連合軍に盾つくのかみたいな話でなんです。大体中華屋さんがすごい多かったんですよ。だから、ちょっと前まで、ミカドの前の通りをヤッカン通りと言ったんです。ちょうど15年ぐらい前、ヤッカン通りっていう、周りの下世話な人たちの話でそういう話が出てて、やくざと韓国の料理屋さんしかないから、ヤッカン通りと言ったんですね。こんなの書かないでくださいよ。言ったんです。でも、そのとき、私のとらえ方は、中華と同じだと思ったんです。要するに、当時たくさん中華屋さんがあって、歴史を調べられるとわかると思うんですけど、赤坂には中華料理屋さんが40店舗ぐらいあったと思うんです。私は詳しくは、子供のころだからわかんないけど。
【聞き手】昭和30年ぐらいですね。
【HK】30年前後ですね。それからずっと残ってきたのは、実は山王飯店と樓外樓と赤坂飯店だけなんですよ。古いのは。ところが山王飯店ももうやめちゃって、樓外樓さんも1回潰れて、今再興なさって、残ってるのは赤坂飯店だけみたいな、中華料理屋さんとしては、赤坂というと赤坂璃宮とかそういう皆さんのイメージがあるでしょうけど、赤坂の古い中華料理屋さんというと、そういうところしか残ってないわけですよ。
【聞き手】老舗は。
【HK】老舗は。でも、考えると、やっぱり歴史が淘汰されていくんですよ。だから淘汰していくっていうことは、韓国のお店がたくさんあろうと、どっちみち淘汰されるわけですよ。いいものだけが残る。だから私が赤坂を考えるときは、どんな人でも赤坂へ出たがってるということは、そこの土地にまだ価値があると。で、出たがってない、要するにシャッター通りばっかりができてくるようになったときは、赤坂は終わるだろうなと。だからそれが韓国料理屋さんであろうと、例えばどこかの外国の何とか料理屋さんが盛んだろうと、私はそこの土地に出る意味があって出てくる以上は、まだ赤坂の価値は下がってないと。で、そうでないもの、もう赤坂へ行ったってしようがねえよという時代が来たら、要するにシャッター店舗が増えてくるときが赤坂の終りのころだろうなと。それは、赤坂の価値というものについてそれぞれ皆さんいろんな思いがあると思うんですね。いろんな価値をそれぞれ皆さんが見出されていらっしゃると思いますけど、どっちにしてもそこに価値が見出される以上、まだ赤坂は、掃きだめの鶴ぐらいにはなるかなと思ってます。
【聞き手】中華の店が中心だったという、私なんか、最近どんどん中国、韓国の店が多くなったとか、そういうふうに思っていたんです。今お話を聞いて、目からうろこでした。
【HK】中華が多かったです。ですから、今、山王パークタワーですか、あそこに山王ホテルがあったんです。私のころはパンパンガールっていうんですか、またこれ下世話な言葉だから書けるかどうか知りませんけど、そういう人たちが将校さんの手にぶら下がって、闊歩なさってましたよ。ものすごい闊歩してて、私は1回だけ、みんな子供がくっついて行くものだから、私もくっついて行ったことがあるんです。そうしたらガムが投げられたんです。で、たまたま私のところへ落っこちてきて、私は食べたときに、何てうまいものがあるんだろうと思いました。こんなうまいもの初めてだと。
【聞き手】あ、ガムが。
【HK】ガム。だって、あの当時、おふくろがおやつでくれたのは、竹の筒に三角形に折った梅干しですよ。あれをしゃぶってうという。当時は、俺ははな垂れ小僧ですから、青ばなを垂らしていたわけですから、それから比べたら、こんなにうまいものがあるのかと。だから父が何年ごろだったのか、記憶にないんですけど、サトウキビをどこかから持ってきて私にくれたとき、わ、これは甘いなと思ったんですよ。
【聞き手】なるほど、あれでね。
【HK】あれで。それで私は毎日毎朝、市場へ行くものですから、何年前だったかな、サトウキビが、段ボールがあったので、それをくれといって買ってきたんですよ。これ、うめえぞと思って。それで、おまえらこれ食っていいそと。どうやって食うんですかと。こうやってガーッとやって、ガジっと食ったら、まずい……。
【聞き手】そうでしょうね。ほかにいろんなものがありますから。
【HK】それで、かみさんにものすごく怒られました。何でこんな無駄なことをして、どうすんのよと。で、どうしようって思ったんですけど。
【聞き手】時代がかわればね。
【HK】時代がかわると味覚も変わりますよね。だからお料理もものすごく変わります。昔、うちは基本的に父の代から、ほんとうは関東風料理なんです。で、関東料理の特徴っていうのは、お醤油の分−お醤油ってほんとうは一番おいしい調味料だと、私はいまだに思ってるんですが、関西の吉兆のおやじさんも言ってるんですけど、真ガレイを霜降りにして、生醤油だけで−もちろん生きてるやつですよ。生醤油だけで煮たら、こんなうまいものはないというほどに、やっぱりお醤油がおいしい調味料なんです。で、関西はそういうのがないんですが、ただ、健康志向が塩分のものを退ける傾向にあるので、やっばり関西風になってくるんです。
【聞き手】薄味でね。
【HK】ええ。昔の卵焼きは、割下っていうのをつくるんですけど、卵を例えば15個に、割下3杯とか決まってるんですけど、その割下っていうのはお塩とお砂糖で甘いやっなんですけど、それを3杯入れて、かき回して卵焼きをやるんですけど、昔の卵焼きっていうのは、私は焼いたことがないんですけど、古い調理師の板さんたちに聞くと、卵焼きを焼いておいても、真夏で3日もったというんですよ。で、技を知ってるんですけど、半返しといいまして、卵をこうやって普通は返しますよね。それを、こっちがドロドロしてるときにこう返して、向うへ送っちゃうんです。そうすると、また薄い膜を引きずって向うへ行きます。またこうやって送っていくから、煮汁が、割下がどんどん乾燥していっちゃうんです。だから卵と甘辛だけのかたい卵焼きができるんです。それが3日間傷まない卵焼きという。要するに、折りの文化というとおかしいんですけど、本膳があって、お土産に出る、二の膳に出てくるようなやつがタイの塩焼きとか、それはお土産として折に詰めていくんです。だからそこに卵焼きだとか、簡単に言うと、当時はきんとんみたいなのを入れて、詰めて、お持ち帰りいただいて、本膳だけ食べるとか、そういうしきたりの中で生まれてきますから、傷まないもの、お持ち帰りいただいても大丈夫なもの……。冷蔵庫もない時代ですから。で、私たちのころでも、調理場に電気冷蔵庫が入ったのはいつだっけな。ともかく氷が冷蔵庫でできたから。一番上に氷のこんなでかいのが、16キロの氷を幾つか河岸から買ってきて、上に乗っけて、下で冷えると。そういう冷蔵庫ですから、鮮度的には、基本的にはどうっていうあれじゃないんですね。だから鮮度は非常に悪かった。
【聞き手】電気冷蔵庫に比べると。
【HK】ええ。でも、私も少しだけ料理には凝ってるものですから、江戸時代も魚の日持ちはよくないわけですよ。それで、江戸時代からある料理で、今もあるのはコイこくなんです。これ、濃醤料理(こくしょう)、濃い醤油の醤と書くんですけど、醤って、大将の将に、下に西っていう字を書く。濃醤料理というのがありまして、それは杉板で箱をつくって、裏にご飯粒をまぶして、いろりに乗せて上に……。簡単に言うと、みそ汁を入れるんです。それで日持ちが悪いものですから、例えばスズキだったらスズキ、タイとか、何でもぶつ切りにしたものを中に入れて、野菜を入れて、食べたんです。すると杉の香りがして、臭みが飛ぶんです。それを濃醤料理といって、すごい人気があったんですけど、コイだけは、陸から揚げても夜まで生きてるんですよ。ササの葉っぱにくるんでおくと。今も濡れた新聞紙にくるめば、コイは12時間ぐらい生きてます。だから活きがいいので、鮮度バッチシなんですね。だから多分、将軍さんもそれをおいしいと思ったと思います。臭みがないですから。だから不忍池のコイはとっちゃいけないよというのは、要するにコイは一番おいしい魚だったんですよ。当時は。それが今に残るのがコイこくという。コトコトやって、骨までやわらかくなるとおいしくなるんです。そのうちコイこくが、甘辛に似た醤油みたいに、みそじゃなくなる時代も来るんですけど、コイこくだけが今残っている。そんなあれですから、昔と今に比べれば食べ物も、日持ちをさせていいというのであれば、ショートケーキにしたってエクレアにしたって、随分ソフトになりましたよね。味も。
【聞き手】今、賞味期限とかありますけれども、賞味期限を過ぎたってあんまり変わらないですよね。
【HK】変わらないですね。で、ケーキも、デパートさんは、良心的で前の日ぐらいですからね。もっと前につくっちゃって、デパートに納めてるのがありますから。ただ、私もデパートに生おせちを出したりしてますけど、今、小うるさく責任を言われるわけです。そうすると、おせち料理、私なんかは3日過ぎても、お客さんに渡すおせちですから、3日過ぎたって食べてるわけです。大丈夫だっていう自信はあるんです。でも、賞味期限を書いてくださいといったら、1月1日と書くんですよ。1月3日とは書かないです。
【聞き手】念のためにっていう。
【HK】念のためになっちゃうんですよ。念のためにというのは、デパートに迷惑かけてもいけないし、自分のうちにも累が及んでもいけないという、保身主義なのか、今はそういうふうになっちゃうんですよ。
【聞き手】昔はにおいを嗅いで、こうやって、うん、だめだとなりゃ、自分の舌のあれでわからなきゃうそですよね。本来。
【HK】そうなんです。で、昔のおふくろなんか、例えばおせちでお芋の煮っ転がしにしても、3日ぐらいしてちょっと変ねといったら、自分で火を入れて食べちゃいましたよ。自分でもう一回火を入れ直して。そんなこと、今の人はしないですもの。だからそうなると、一体どんなところに置かれているのかわからないから、うちに文句っていうあれでもないんですけど、お客様から電話かかってきたのは、うちの亭主が玄関におせちを置いちゃったのよと。そしたら犬が来て食べちゃったのよと。どうしてくれるのと言われたんです。
【聞き手】玄関は、だから少し涼しいというか、そういうことで置かれたんじゃないですか。
【HK】どうしてくれるのよって言われて一・…。でも、それからうちは風呂敷で包んだ後、箱に入れてお渡しする。
【聞き手】モンスター消費者ですね。
【HK】だから世の中の一般常識がどうなるのかなっていうことを、わからなくなってるんですよ。
【聞き手】そう、それは犬が悪いですよ。
【HK】いや、そう思いますよ。でもね、簡単に言うと、それはだからうちの責任ではないのはわかってますけど、今後うちの包装状態については検討いたしますのでという答えをとりあえず言うしかないですよ。また送りますとも、私も言えないし。だからその辺のことです。いろんな人がいらっしゃるので。どうしようもなくつまらないものは突っぱねますけど、そうでないと、じゃうちのほうでも対応させていただきますので、それでご勘弁いただけますかとかって言うしかないんですね。赤坂でも、今、ぼったくりバーが3軒あるんです。で、実は警察もマークはしてるんですけど、今のぼったくりさんたちは頭がいいんです。昔は、1回入ったら20万ぐらい請求されたんです。ぼったくりでね。あれが全部とかになっちゃうでしょう。そうすると、やられたやつは、みんな警察へ訴えるわけです。ところが、入って座ってビール1杯で四、五万といわれると、1回それで払って、警察へ言いに行くわけですよ。すると、これから調書を取りますからとか言い出されると、こんなに時間がかかったらたまらないと。おまわりさん、いいです、いいです、勉強だから私はこれでいいです、ただ、あそこでそうなっただけですって、訴えなくなっちゃうんですよ。だからマークはするんだけど、踏み込めないんですよね。
【聞き手】じゃ10万とか、そういうべらぼうじゃなくて、いいところで、これはしようがないなと、そういう状況を考えて言ってる。
【HK】考えてやってるんです。だから3万とか。そうすると、ビール1杯3万円なんてあるのかよと思うわけですよ。だから一時の感情で警察へ行くんです、こういう場合。そうすると、お名前はとか、どういう状況でしたと。そうすると、もういいです、え、書かないんですか、訴えないんですか、いや、社会勉強ですからとかつって帰っちゃうんです。
【聞き手 】でも、そういうお店が残っちゃうと、赤坂に行ったら、どこがぼったくりバーだかわからないから、行けないとなっちゃう人……。
【HK】いらっしゃいます。だから困るんだけど、さりとて困るんですよ。そういう、赤坂の町も3軒ぐらいあるみたいですね。でも大体は、昔は公衆電話のところに女の子の写真があって、電話をくださいというのがありますでしょう。あれ、べたべた張ってあるけど、いろんなところに置いてあるのは、みんな渋谷ですよ。
【聞き手】そうなんですか。
【HK】赤坂じゃないんですよ。渋谷からこっちへ。
【聞き手】出張。
【HK】出張です。だから今、どこから電話なさっていらっしゃいますかとか聞いて、赤坂ですと言うと・・…・。だから赤坂に本拠地はないんですけど、赤坂にべたべた……。今、大分なくなりましたけど。
【 】お話がおもしろくてあれなんですけど、お聞きしたいことがありまして、…。慶慮に、どうやって通われていました?歩き、バスとか。
【HK】私はまず青山中学校まではほとんど歩いていました。で、城南高校は歩きと自転車です。で、慶應大学は日吉に2年ですので、地下鉄から東横線で。で、三田の場合は都電がなくなってたから、新橋からJR田町駅ですか。あとはバスでも行きましたね。
【HK】そんなにはかからないでしょう。赤坂見附から新橋へ行って、田町駅ですから。
【 】30分ぐらい。
【HK】3、40分ですね。そんなものです。あと、どうやって通ったかな。バスでも行った思い出がありますね。3年、4年になると、とってる授業以外は、出なかったり出たりしてましたから。で、私はマージャンが好きじゃなかったものですから。飽きちゃうんです。あの当時はみんな学生はマージャンがはやってたから、だからマージャンにいるやつは、次の授業までの時間を自分で選択してると、3、4時間あいちゃうやつもいるんです。するとマージャンに通ってるやつもいましたけど、私はマージャンがどうしても好きになれないで、自分で飽きちゃうんです。パチンコもそうなんです。やってて、こんなんで、よく好きにやってるなと。それでやってなかったわけじゃないんですけど、パチンコやったこともありますし、マージャンもやったことあるんだけど、あんまり徹夜マージャンまでやる気はなかったです。つき合いでやるぐらい。
【聞き手】クラブ活動とか、学生時代は何かやって。
【HK】クラブ活動は奇術部です。KMS(慶応マジックサークル)という名前で、手品をやって。
【聞き手】手品、めずらしいですね。定期的に、楽器だったら発表会とかあるじゃないですか。何かあるんですか、そういう。
【HK】あります。家族会と発表会。家族会が大体6月ごろで、あと発表会があって。あと、1、2年生が三田祭でやらされるという感じですね。
【聞き手】じゃ今でも、お店で……。
【HK】あんまりやらないです。少しは、だから昔的には……。
【HK】見せるというほどじゃないですけど、簡単に言うと、10円玉をこうやっておいて、こうなくすとかね。
【 】なくなった。
【HK】いえ、いえ、ここにあるだけです。これをとるようなまねして、というだけです。だからこういうのは同じです。こうやって。
【聞き手】あれ。
【 】じゃこっちに入ってるんじゃ。
【聞き手】目の錯覚をね。
【HK】そうです、そうです。目の錯覚は、皆さんすぐできますよ。例えばこういうのをこうやって、あ、いけねえ、落っこちぢゃった。いいですか、これをとりますからといって、今、音がしちゃいましたけど、ここに落っことしておいて、これをといって、ないよという。すると膝の上に……。で、皆さん何回か、ミスディレクションというんですけど、1回わざと落っことして、ミスディレクションを繰り返すと、落ちたと思わないんですね。で、とってきて、これを目の前に見せてやるんです。持ってないんですけどね。そうすると、そこにあると思っちゃうんです。それをなくすとかっていうのが……。ただ、私なんかうまくないから、うまい人たちはたくさんいますからね。
【 】手品は大分はやってたんですか。当時。
【HK】いや、そんなにはやってないですね。何のきっかけなんだろう。多分オリエンテーションか何か、大学に行ったときのオリエンで、その人の人当りがよくて、その人がいいなと思ったんですね。ただそれだけの話だと思いますよ。だからそれをつくづく思いましたよ。自分が大学2年とか3年になって、新しい人を入れようとして、私が誘うとみんな入らないもん。だから多分それは人当りのいい人がオリエンテーリングすると入るんだろうなと思いますね。で、俺みたいなのは無理なんだと思いますけどね。
【聞き手】マジックバーって、最近ありますね。赤坂にも。
【HK】ありますね。だけどそういうところもあんまり行かないですね。それで私たちの大学は結構マジックの原書を読んでたんですよ。それを発表してたから、結構我々の大学はマジックの最先端を行ってると言ってたんですけど、今はマジックっていったってあまりやらないですよね。よくそんな不健康なことをやってたなと思いますよ。合宿というと、10円玉を乗っけてこんなことばっかりやってるんですからね。
【聞き手】外から見てると不思議な。
【HK】そうなんです。新入生がくだらねえことをよくやったなと。でもハイキングの後、そんなことをやってましたね。今は若い人たちは、それだけじゃなくて、奇術のほかに、ジャグリングっていうのをやっている若い生徒さんたちもいますね。こういう変な棒みたいなのを回したり。帽子を3つ飛ばして、かぶったり、回したりっていう、それも手品の中に入ってきたんですね。そういうのも今は家族会や何かで、あまり行きたくないんだけど、たまに行くと、そういうのを見させられますね。
【聞き手】今でも、ずっと、それがあるわけですね。
【HK】OB会がありますので。だからOBがうるさいんですよ。私はなるべく行かないようにしてるんですけど、OBの人たちがみんな仲がいいものですから、たまに食事会とかいろいろすると、おまえ何で出て来ないんだとかいろいろ言われて、だからたまにはお顔出しするという形でいますけど。
【聞き手】そういう大学生活を送られてて、4年になって、就職が決まってたのに、ついにこのお店を継がれることになったということなんですね。
【聞き手】お店のほうは当初から仕出しというんですかね、近くの待合とかそういうところに……。
【HK】待合さんにも随分入れてましたね。うちにもお客さん見えてましたけど、待合さんも。
【聞き手】のほうが多かったですか。お店に実際にお客さんが来られるよりは。
【HK】だって、37坪だと、2部屋ぐらいしか2階になかったんですよ。お座敷が。
【聞き手】テーブルじゃなくてお座敷なんですか。
【HK】テーブルはありませんでした。だからお座敷2部屋ぐらい。例えば10人の4人も来たらいっぱいになっちゃうだろうし、広いところで20人の4人、5人とかいうぐらいだから、大した数じゃないんですね。だけど外は、それこそ100近い仕出しを出してましたから、だから待合さんを随分私は行きましたね。その後、父が頼まれて、参議院の議員会館の中に食堂もやってましたけど、私が高校になったら、ずっと夏休みはそこを手伝ってましたね。だから安保騒動のときもあの中にいて、もう帰れないんです。
【聞き手】ああ、なるほど。
【HK】国会を囲まれてまして、出るに出られない。それで中の職員の人たちの食事も用意してあげてくれと。だけど、市場から仕入れる道がないわけです。だから、あるものしかお売りできないですよね。
【 】大変なところにいらっしゃったんですね。
【HK】はい。だからそれで食堂でテレビを見てましたよ。どうなるんだろうな、俺は帰りたいとか思いながら。いい加減、どこか行けよなとか思ってましたよ。私は政治的なことからいえば、当時は右翼系だったですから。
【聞き手】何やってるのと。
【HK】何やってんだよと。当時、慶應の塾監局も占拠されてたんですよ。で、体育会系の友達もいましたので、やつらを追い出そうとか、いや、やめたほうがいいとか言ってるうちに、最終的に追い出したんですよ。そのとき、こういうところで言っていいのかわからないですけど、電気も水道もとめられてると、ある部屋なんて全部トイレですよ。汚いったらありゃしない。で、私は河岸へ行ってるときに、全学連が築地4丁目のほうから機動隊に押されて、市場の中に逃げ込んできたんです。そのとき、仲買から荷物を買って、我々の車がとまってるところへ荷物を出すのを軽子さんといって、軽い子供と書くんですけど、軽子さんが出すんですけど、軽子の人たちが全学連の学生をぶん殴ってるんですよ。で、袋だたきにしてるんです。で、俺、そのときに、この闘いは終わったなと思いました。要するにおまえらの味方がおまえらを殴ってんじゃねえかと。で、これってありかよと思ったんです。何で殴ってるやつらが、殴られてるやつらが、みんなそれぞれの気持ちがわからねえんだと。だからもっと方向性が違うんじゃねえかと。それを思ったときに、この闘いは終わったなと私はほんとに思いました。別に機動隊の肩を持つつもりもありませんが、下支えの人たちがかくまってくれるような人たちになってくれないとだめ。どうにもならないですよ。軽子の人たちなんて、寒いと酒飲んで配達してるわけですよ。酒臭いやつもいるし、おまえ大丈夫かよみたいなやつもいるわけですよ。そういうやっらが何でおまえらを守れねえんだと思ったときに、これは革命でも何でもねえわと思いましたね。
【 】子供のころ、どんな遊びをなさってたんですか。
【HK】べ一ゴマ、メンコ、あとはこの突き当りが二条さんと言ってたんです。九条さん。一条さんの隣なんですよ。九条さんというのは、黒田さんの屋敷じゃなくて、黒田さんが溜池にあると、黒田さんの隣に大正天皇の奥様の九条家っていうお屋敷がありました。
【 】今の吉池のあたりですか。
【HK】そうです、吉池の上です。そこまで二条さんで山だったんですね。で、山っていうか、要するに木が茂ってて、だからそこで虫をとったり、それから日枝神社に行くと、日枝神社で虫をとったりやってましたね。あと、今のアメリカ大使館の官舎がありますでしょう。大使館職員の。あそこ、土手があるんですけど、ちょうど南部坂のところに土手ありますよね。あそこを上っていくと……。こんな小さいアオガエル、アマガエルの小さいのがとれるんです。で、それをとりに行くと、MPがシェパードを連れてパトロールしてるんです。で、あいつらひどいんですよ。犬を放すんですよ。そうすると、うわ一と来るから、あの:土手から飛び降りるの。そうするとね、その土手からは絶対に犬は出て来ない。そこからは吠えてるだけなの。その土手を飛び越しては来ないんです。それでアオガエルをとりに行ったり、あと、私はやってないんだけど、銀閣さんという、今はなくなっちゃったかな、ところに、大きなイチョウの木があって、そこを私の友達3人ぐらいが上ったら、外国人が住んでて、何かワーワー騒いで、怒られたんだと思っておりてきたら、けつをビタビタたたかれたとか。
【 】ちなみに銀閣さんという、そのイチョウの木はどちらにあったんですか。
【HK】銀閣さんのところにあったんですよ、イチョウの木。銀閣さんだと思ったな。氷川小学校を上っていくと、溜池へおりていく道がありますね。途中に十字路がありますでしょう。片っ方に、右側にお釈迦様みたいな銅像を飾ってある……。ありますでしょう。あれの左を曲がりかけた、なだらかな曲がり角の左側にあったんです。ええ。その辺にイチョウの木があって、そこを上ったのがあります。そう、帝産オートでしょう。この辺にあったと思いますね。
【 】溜池の下におりていくところが。
【HK】この辺ですね。そうです、ここが帝産オートのプール(現 トップ オブ ダ ヒルズ)があって。でも、この道……。帝産オートのプールはこの辺にありましたよ。ここの辺、帝産オートのプールだと思ったな。だからおりてこの辺だと思ったんですけどね。、南部坂っていうのはここのところですね。ここがグリーンの。
【聞き手】旧三井。
【HK】はい。で、ここが九条家っていうのがあったんですね。で、大正天皇の奥様がここのお嬢さんが嫁がれて、氷川小学校にそのピアノを寄贈なさってる。はい。で、ここが九条さんといって、我々は言ってたんですけど、ほんとの名前はどうなのかわかりませんが、ここに森が……。今はマンションばっかり建ってますけど、そんなんじゃなくて森がたくさんありました。あとは、この日枝神社でよく遊びましたね。
【聞き手】野球とか、そういうのもやりましたか。
【HK】野球はあんまり、グラウンドみたいなのがないんですよ。
【聞き手】たしかに、すごい広いところがないですね。
【HK】ないんですよ。それでこっちのほうのチームに入って、どこかで野球を……。おまえ、キャッチャーになれとか言われて、やった記憶があるんですけど、そんなに長くはやってなかったですね。
【聞き手】青山公園とか、あっちのほうまでは、ちょっと……。
【HK】行ってないですね、あっちへは。だから私は青山の友達が多いんですけど、青中のほうではそんなに遊んでないですね。ともかく家へ帰って来ないと手伝えないんですから。だけど、あそこのミヤザワさんですとか、シンドウさんですとか、結構青山では先輩だとか……。で、青中のときは、私は柔道部だったものですから。柔道部ったって、中学は子供の遊びですからね。結構悪いやつらが柔道部みたいなのに入ってるんですよ、悪餓鬼が。だから悪餓鬼が青山にいたのをみんな知ってるんですよ、逆に言うと。だから、あいつ知ってるのみたいな話になって、その悪餓鬼の人たちも、柔道部にいるやつだと、上とつながってても、上も悪だから、悪の手下だから、あんまりいじめに来ないんですよ。あんまりいじめられた記憶が、だからないですね。
【 】ちょっといいですか。前、青山で、ずっと慶應だったという方を取材したことがあったんです。だから青山のあたりは、あんまり友達がいなくて、やっぱり慶慮の友達が多いっていうふうに伺ったんですけど。慶應のころの友達は多いですけど、青山の友達もいますよ。
【 】そうすると、あまり子供のころからのそういう友達はないっていうか……。でも、氷川小と青山中だから、その方よりも子供同士で遊んだっていうのは、。
【HK】赤坂辺ですね。ただ、赤坂は、固定資産税が高くなっちゃうと、みんな出て行け政策なんですよ。長く住んでるなと。だから私の小学校の友達はみんないません。みんないなくなっちゃってます。みんな赤坂からおん出されちゃったのかな。あるいは、好奇心が強くて意欲のある人がバブルのときに失敗してるんですよ。で、消極的でおどおどしてるのが生き残ってるんですよ。結局、何もしてないですからね。だから株だとかに手を出しませんし、いろんなものに好奇心もないし、興味もないし、そういう人間が残っていって、だから今の赤坂は逆を言うとおもしろくないんです。活性化しないんですよ。おもしろくないんだから。おもしろい人たちはいなくなっちゃった。イケイケドンドンの人がいないと、町は……。だって、青野さんでしょう、それから有職さんでしょう、それから稲毛屋さん、それから大須賀さん。そこのウナギ屋さんのふきぬきさん。ミヤガワさん、それからマツモトさん。皆さんいなくなりましたよ。穂積もいなくなったし。保住さんは、私は小学校から一緒に講道館へ行ってましたから、だから友達なんだけど、穂積もいなくなっちゃったし。
【聞き手】でも、お店はありますよね。今おっしゃったので。
【HK】穂積さん、お店? 建物はあるんです。だけど人の手に渡っちゃった。ええ。そこのウナギ屋さんふきぬきさんも人の手に渡ってる。あれ紀文さんに渡って、その後、紀文からどこかに渡ってるはずです。だからタムラさんという河豚屋さんもなくなったし、皆さんやっぱりそれなりに……。で、運がよかったのは、うちのおやじたちが拡大主義をとってたでしょう。土地について。だから借金だらけなんですよ。何とか払っていかなきゃいけないから、それはある意味で運だったんですね。そうでない人たちは土地も十分あって、拡大主義をとってなくて、借金をしてない人たちは金がたまってきますよ。で、お金がたまってくるでしょう。だけど、うちは、ためたくたって、持って行っちゃうやつがいるんだから。結局、何とかバンクとか、みんな持ってっちゃうわけですから、ためようがないでしょう。
【聞き手】一生懸命それを払うために。
【HK】払うために働いてるから。それは別の目線から言えば運がよかったのかもしれない。まあ、そういうものに興味もなかったですけどね。ただ、逆を言うと、人の運ってほんとに紙一重なんですよ。だから一つ間違ったら私たちも同じ運命をたどってる可能性はあって、その辺は何とも言えません。だって、例えばこの隣のヒラモトさんのショウヘイ君というのが、うちがビルを建てるとき、私のところへ相談に来て、HKさん、うちもビルを建てられないかなといって、俺はよくわからないから、変なところへ紹介できないから、住友信託銀行を紹介したんです。それで、おまえら、建てたいと言ってるから面倒見てやってくれと。そしたら、22坪しかないから、ほんとは無理でしょうと言うから、私ははっきり言ったのは、おまえら、無理と決めるのは、おまえの決めることだと。本人が無理と決めるまではきちっと聞け。それをやんないから、おまえらは単に土地買い、土地を買うやつらみたいになるんだと。本人が無理だとわかるまで話に乗ってやれと。そしたら、要するに設計士も呼んで、絵を描いたわけです。そして採算べ一スや何かもこうなりますとやっていったら、本人が結局だめだと。これじゃやっていけないと。で、売りたいと言ったわけですよ。そしたらね、ダイセン建設という、赤坂にあったんですけど、そこが22坪を5,000万で買ったんですよ。でもね、皆さん考えてみてください。1坪5,000万ということは、10階建てにして50万ですよ。だからペイするためには、1坪でもペイできないわけですよ。簡単に言うと。エレベーターもついちゃうから。ところがそれをダイセン建設は半年の間に、今度は市原の古本屋でマンションででかくなった人に、8,000万で売ったんですよ。つまり、6カ月で3,000万の22倍、6億6,000万もうけてるんですよ。それがバブルなんです。で、だったら、ダイセン建設、立派な会社になってるかというと、もう今はないんですよ。今は存在してないですから。そんなにもうけた会社が。つまり、人っていうのは怖いなと思うのは、二匹目のドジョウなんですよ。三匹目のドジョウだとか、知りませんよ、ダイセンがもっとでかくやってれば。だけど、私に言わせれば、もう一匹ドジョウと思うから、最終的にはババを引くんでしょうね。
【聞き手】ババをね。
【HK】だからいなくなっちゃってるんです。
【聞き手】プロ野球選手とか、演歌歌手とか、聞きますね。
【HK】バブルなんですよ。
【聞き手】バブルって、株とか、ババ抜きですよね。ほんとに。
【HK】そうです。最後にババを引いたやつが……。結局、その古本屋さんが私のところに挨拶に来たけど、建てますといって、東急建設がやって、工事中に半分になったら、工事を中止したんです。で、東急の現場監督に聞いたら、支払いがまだできてない。で、結局その古本屋さんが潰れて、で、東急建設も困ったでしょうね。しようがないから建てたんですよ。で、全部東急の管理下で、3年ぐらいありましたよ。で、そのとき、ここが住むようにならない限り、赤坂の町はだめだなと私はそのとき思いましたよ。そんなもんですよ。だから人間の欲なんて、私だって多分、変な話ですけど、キャンデーを買って当たりが出たら、また次のときに当たるんじゃねえかと、また買いに行っちゃいますよ。それと同じですよ。
【聞き手】結局ギャンブルとはそうですね。最初のころ、何かでちょこっと当たって、ある程度プラスになると、そこでやめときゃいいのに、これがやめられない。
【HK】やめられないですよ。で、追っかけて6億ですよ。誰がやめろと言うことを聞きますか。そんなの誰も言うこと聞かないでしょう。よほどのギャンブラーか、よほどの聖人君子。そのどっちかでなきゃ、やめませんよ。そこでストップかけられる人はものすごいギャンブラーか、ものすごい聖人君子ですよ。どっちかですよ。あれはなかなかできませんよ。
【聞き手】その当時、バブルのころは、この辺はどうだったですか。花柳界とか料亭とか。繁盛してたのはもっと前ですかね。
【HK】もっと前です。要するに繁盛してたころは、たばこの「光」っていうのが30円とか、そういう時代ですよ。
【聞き手】昭和30年代、40年代。
【HK】30年代、40年代。要するにオリンピック前まででしょうね。オリンピックは、物がみんな上がっていくんですよ。人件費も。その当時は、だって私の初任給が6,000円だったんだよな。あるところへ行ったので。6,000円ですよ。で、当時、そのとき3万円。大学生で。簡単に言うと、光とか何とかってたばこが30円の時代っていうのは、お給料が3,000円とかそういう時代なんですよ。その時代に仕出しの料理が、1コース700円です。もちろんそこで待合さんは倍ぐらいかけるわけですよ。だから、よくキンセンさんって、皆さん知ってるかな、築地のほうにあったんです。今もありますけどね。仕出し屋上がりはいい料理をつくるんです。原価計算が厳しいからです。で、普通の料理屋よりも原価計算をきつくしないと、やっていけないんです。だって簡単に言うと、今2万円のお料理ですと、出されたのが、これが2万円かよ、どう見たって1万円ぐらいしかしねえじゃないかと思われたら、お客は来ないですもの。だから待合さんに出したときに、例えば長井さんに出して−2万円払ってるんですよ。長井さんにお出ししたときに、2万円払ったのに、こんな料理かよと思ったら、仕出し屋はだめになっちゃうんですよ。だから2万円の料理を出して、なるほどな、これ2万円するなと思わせないとだめなので、仕出し屋っていうのは原価率がすごいきついんです。で、700円のときに、簡単に言うと、10人分配達したら、2人ぐらい雇えちゃうわけですよ。そうしたら、旦那ですよ。そこのおやじは。旦那殿になっちゃいますよ。今、料理を10人前出して、2人分雇えるかといったら、雇えないもの。そうでしょう。2万円の料理を10人出して、20万になって、お給料はといったら、1人20万ぐらい取りますからね。だからそういう意味では人件費が上がっちゃったんです。人件費が上がると旦那が消えていくんです。旦那という人たちが。だから昔は、おまえのことを俺は好きになったよ、じゃどこかうちを買ってやるから、ここにいてっていうふうにはならなくなってくるわけですよ。
【聞き手】世知辛くなってくるんですね。
【HK】そう。それで待合さんというのは、皆さんご存じかどうか知りませんけど、料理場に男は置かないんです。
【聞き手】全員女性。
【HK】全員女性です。だから台所です。で、仕出し屋から料理をとるんです。それはなぜかというと、旦那がやきもちをやくからです。新井さんみたいないい男が来たらさ。できてるんじゃねえかと思っちゃうじゃないですか。そうするとさ、それは長井さんはお年で、そうねと思っても、長井さんがやきもちやくかもわからないんだから。で、あいつとおまえはできてるんじゃないかとか、なっちゃうでしょう。だから仕出し屋から料理をとるんです。あそこの「中川」さんだって、白梅さんがみんな行って−調理場のでかいのあるんですよ。でも、あそこで料理するわけです。白梅さんの板さんがみんな行って料理する。で、そんな料理場がないところは、うちみたいなところからお料理をとって、温めたりするだけですよ。そういうふうにしてお料理をとってたわけです。ところが、だんだん時代とともに待合さんが消え始めるんですね。それはなぜかというと、ビルにしたほうがもうかるんですよ。遊んでいけるわけですよ。待合さんというのは、ある程度広さを持ってるでしょう。で、ビルにすれば、どんなに好きものとか言われたって、好きで男におべっかなんか使うのは、誰だってくたびれるわけですよ。そう思いますよ。好きでもない男に、まあ、お兄さんと言ってみたり、とっとと帰れよと思ってても、もうお帰りとか言わなきゃならないでしょう。だからどう考えたって疲れるでしょう。それはビルをつくって、貸して、上がりをもらってたほうがいいわけですよ。だからみんなビルにし始めてるんです。で、それが待合さんの、例えば名前は言っちゃいけないんだろうけど、うちがやってるときに、私も調理場へ入ってましたけど、急に来なくなるんです。お料理がね。いつも30ぐらい来てるのが来なくなる。で、何かあったのかなと思いながら1カ月ぐらい我慢するんです。で、1カ月過ぎて伺うと、なくて悪いわね、もううちはビルにするの、来週は全員引っ越しよとか。え一、何で早く言ってくれないのって話ですよね。そうすると、うちあたりでも配達要員を雇ってるわけですよ。すごいきつくなってくるわけです。で、だんだん人を補充しなくなってくると、我々も選ぶようになってくるんす。新しくできたところに配達しませんと。いつやめちゃうかわからないんだから、古いところとおつき合いしますけどという話になっていって、だんだん消えてくるのと、待合さんがお料理代が上がってくるでしょう。我々、仕出し屋でも、7,000円じゃこれ無理ですよと。ごめんなさい、8,500円にしてくださいとかなってくると、実入りが減ってくるから上げようとするわけです。ところがお客の懐は豊かじゃないわけです。下手をすると、「お母さん、今日は知り合いばっかりだから2万円ぐらいでやってくれよ」とか言ってくるわけですよ。すると、HK屋の料理を全部とってたんじゃ、とてもじゃないけどもうからないんだと。すると、お通しとおわんとお刺身だけでいいわとか。で、自分のところでステーキを焼いてみたりするわけです。でも、それでいいんだけど、実は料理をやったことのない人たちがやってるわけですよ。だって変な話、箸より重たいものを持たないような人たちがやるわけだから、だから最初のうちはお客はおもしろがっているけど、それはごまかせないですよ。料理っていうのは。ステーキ屋の料理と素人が焼いたステーキは違うんですから。するとだんだんお客が離れていくんです。どうせあんなの食うんだったら、こっちでうまいもの食ったほうがいいぞみたいに。で、だんだんだれてきちゃうんです。これ、どっちがどっちというのは、商売は難しいんですけど、はやらなくなったすし屋みたいなものです。はやらなくなると、すし屋は仕入れを控えるでしょう。仕入れを控えるから、お客が来てもネタがない。すると客が来なくなる。ますます仕入れを控える。要するにはやらなくなって、高回転をしなくちゃいけないんですね。量があって、鮮度のいいものがあって、安いというと、お客はわんさか来る。だからまた同じように仕入れて、ぐるぐる回り出すけど、悪くなると、ぐるぐる悪いほうへ回り出すんです。飲食店ってそういうところがあるから、結局その辺が時代に乗ってないんですね。私、芸者さんたちも悪いと思います。時代に乗ってないんです。例えば京都なんかいろんな工夫をなさるでしょう、舞子さんたち。で、赤坂に工夫がないんです。旧態依然として仕事をなさろうとするから、それはある意味正しいんだけど、長い目で見ると間違ってる可能性が出てきちゃう。なぜかというと、認識の中で皆さんがいなくなるんですよ。皆さんは芸者のほうだけど、認識しなくなってくるんです。一般の方々が芸者というものを認識しなくなってくるんです。簡単に言うとハエ取り紙みたいなものです。ハエ取り紙を認識しなくなると、ハエ取り紙がなくたっていいと思うんです。だから、仮にハエが飛んでても、ハエ取り紙を買ってこようとは言わないですね。殺虫剤を買ってこいとなっちゃう。だからそういうものがあるんだっていう認識をさせるにはどんな方法があるか私はわかりませんけど、ほんとは必要なんですね。で、いつまでも王道ばっかり歩いてると、実はそれが王道じゃなくなる可能性に気がつかないんです。王道がいつでも、永遠に王道として続いてると思ったら間違いなんです。王道ってのは、どこかで消える可能性がある。だから枝道を王道にしようとか、いろんなことを考えていかないと、道が途中でなくなることに気がつかないで、その道を歩いてっちゃう可能性があるんです。王道っていうのは、考えてみたら、振り返ったときに王道なんですよ。で、前を向いたときは王道じゃないんです。道がないんですから。で、振り返ってみたら、ああ、これが王道だったなっていうだけの世界ですから。そこが、どうも芸者さんのご努力も足りないのかなと。俺は口幅ったいことは言えないけど。
【聞き手】例えば、京都に比べて赤坂がすたれたとしたら、そういう理由もあったんじゃないかと。
【HK】あったんじゃないかと思いますね。我々、飲食店もそういう……。で、私はそれなりに抵抗はしてるんですよ。例えば、皆さん、名刺に日本料理店って入ってますでしょう。これ、私のうちは割烹って書いてあったんです。で、割烹をやめました。で、ここのテーブル席をつくったのも、このビルのときからなんですけど、ここは単品を売らないんです。だから入ってきて、刺身くれ、ビールくれというと、うちはやってませんと断るんです。コース料理しかやらないんです。で、抵抗はしてるんですよ。でも、その抵抗って実は狂ってるのかもしれないんです。それをやってお高くとまってると言われても困るんですけど、実は日本料理って、皆さんが何とか遺産に入れるぐらいなんだからしようがないんですけど、遺産になってきましたから……。太田胃酸じゃないですよ、遺産になってきちゃったので。だけど、例えばうちも、服部だとか武蔵野調理師学校とかにお願いに行くんですけど、卒業生の9割が洋食系なんですよ。希望者が。で、この1割を中華と日本料理で奪い合ってるんです。そういう時代に入ったんです。これにいち早く気づいていながら、手を打ててない、このどうしようもない男が1人いまして、当時、アンケートを二十何年前にとったときに、卒業生が、日本料理っていうイメージは、縄のれん、ゲロ。
【聞き手】飲み過ぎて、食べ過ぎてってことですか。
【HK】女性のけつとか、そういうイメージを出してきたんです。これはあかんぞと。これはあかんから、和食をレストラン化しようと思って、試みにつくったんです。でも、だめなんですね。しようがないですけどね。でも、いまだに、そんなに飲んだくれはここには出現しないし、という道を考えていってはいるんだけど、別の道があるような気もするんですけど、日本料理というのと同じように、そういうことについて模索する必要性があるんでしょうね。赤坂の飲食店は。ただ、赤坂の町へ飲食店がたくさん出たがるんです。それはなぜだかおわかりですか。
【聞き手】人がそれだけ集まる。
【HK】人が集まるのは新宿でも行けますよ。
【聞き手】ステータスが何かあるんですかね。
【HK】違うんですね。実は赤坂で成功する飲食店ってすごい少ないんです。それはなぜかというと、赤坂のお客っていうのは狙い撃ちなんです。連れションじゃないんです。だからトイレに行く途中にあそこに焼き鳥屋があったから、した後、入ってみようとかって考え方じゃないんです。例えば、今日、璃宮に行く。だからきれいにして、行くわよっって、璃宮に来ちゃうんです。周りを見てもいないんです。見ないで、車を拾うなり、地下鉄でばっと帰っちゃうんです。だから璃宮さんしか見てないんです。赤坂へ行って、赤坂ブラなんてしないんです。で、ほかの飲食店もそうです。例えば皆さんがご存じだと、榮林さんでもいいです。榮林へ行くわよといって榮林へ行くんだけど、途中に三河家があって、三河家へ寄ってみようかしらと思わない。榮林ってどこだったっけ、え一と、何とかの先と言ってたわよ、ここだ、ここだと入っちゃうんです。で、その方々にインタビューしていただいたら、正しいと思うんだけど、どこかお店で気になったところはありますかといったって、みんな見てなんかいないですよ。皆さん、そうやって入ってきちゃうんです。だから、赤坂に店を出すってものすごく難しいんです。ところが、人って、広い人もいるんですね。町を歩いていらっしゃる方で、新規オープンするとちらっと見る人がいるんですね。昼問でも、新規オープンだってよと。で、歩いてるんです。6カ月ぐらいして、まだ潰れてねえなと、見てるんです。1年ぐらいすると、やってるから入ってみるかっていう感じなんですよ。だから1年もたないと、もたせられないんです。それで、おいしいと、少しずつ広がってくるんです。これが赤坂の特殊性ですね。そこに玉寿司さんって、広尾にお店も出していらっしゃるんですけど、玉寿司さんが出したときに、暇でしようがないから赤坂見附でチラシを配ったんです。ランチを800円。ランチはものすごく売れるんですよ。夜になるとぴたっと来ないんです。何回やってもね。それで私に言うんです。どうなってんの、ランチは来るのに、夜は全然来ない。だから私、玉寿司のおやじに言ったんです。我慢。じっと見て、真面目にやろうと。真面目にやってりゃ、わかる人がいるっていう。そうしないと、ここの町は、すんげえ見てるからと。今、テレビで森首相さんが来たとかやってるでしょう、玉寿司さん。だんだん有名になってくる。だから、そういう意味では、飲食店で赤坂で成功すると一流だと陰で言われるんです。その辺が非常に難しいから。でも、赤坂へ出たがるんです。でも、私は物販店に出てほしいです。要するに、物販店があってこその飲食店なんですよ。
【聞き手】銀座なんか特にそうですね。
【HK】そうです。みんながぶらぶらしてくれないと、町が栄えないんですよ。
【聞き手】ビックカメラじゃなくて。
【聞き手】そう、ビックカメラだけじゃ。
【HK】だめです。狙い撃ちじゃだめなんです。やっぱりぶらぶらして、あら、ここにお好み屋さんがあったんだ、入ってみるみたいな。
【聞き手】それは気がつかなったですね。
【HK】そういう町歩きをされることがいいことなんですよ。で、町を歩いてくれて、ウインドショッピングをされるような町になる。要するに物販店のところがビジターをやったときも、物販店への申し込みは少ないですよ。で、飲食店はあんななっちゃったの。なかなか物販店が出たがらないんです。それは購買力がないのかあるのか知りませんけど、家賃も高いんでしょうね。その辺は何か工夫する必要があるでしょうけど。
【聞き手】ネットとかでも、今買えちゃうというのもあるんじゃないですかね。インターネットで。
【HK】まあ、そうだけど、ネットで買えるんだったら、現物を見にいらっしゃいと言えるじゃない。そういうのも私はあっていいのかなと思うんですけど、やっぱり赤坂の人って利便性だけで生きてますからね、地元の人も危機意識を持たないですよ。単なる利便性で生きてるんですよ。だって地下鉄に乗れば、ほとんどどこへでも行けるでしょう。で、渋谷の町をごらんになるとわかるんですけど、坂が多いじゃないですか。そうすると、はやらないんです。平らがいいんです。そうです。銀座にしても、赤坂もそれを持ってるんです。平らなところはあるんです。だから平らっていう、利便性だけで赤坂が生きてるから、たちが悪いんですよ。麻布十番みたいに危機意識を持っていたところっていうのは、昔、地下鉄がなかったとき、それから六本木ヒルズができなかったときの六本木ってご存じですか。あそこ、どうやって来るんだろうと思うようなところですよ。で、私なんかも車であそこへ行くと、おいしいところはお客さんが来てるんですよ。要するに、あの離れ小島に客を寄せるために、あの豆屋さんにしても、そば屋さんにしても、みんな頑張って一生懸命やってるの。で、蓋がぱ一んとあくでしょう。今度便利になったら、みんなわんさか来るようになった。だけど、誰もが来ちゃうからいいんだよっつって、殿様商売してると、お客様は来なくなるんですよ。それが赤坂ですよ。だからほんとうに赤坂は、利便性だけで生きるんじゃなくて、みんなで工夫して、考え込んで、そのためには商売を一生懸命やらなきゃだめなんですよ。商売を一生懸命やらないと。実は、好奇心の強い方々って私は言ったけど、その人たちは商売よりも金もうけに走り過ぎちゃったんだと。商売を一生懸命やってくれればよかった。で、商売での好奇心を発揮してくれたら、もっと開けたのに、能あるタカがチキショウめと思うんですけど、立派な方々がいなくなっちゃった。私はそうだと思います。だから赤坂はもっと危機意識を持たないといけないです。私はずっと商店街の会合だとかでも言うんです。赤坂は捨てた町だと言うんです。そんなに自助努力もしないで、みんなが文句を言い合っててどうするんだと私は思うんです。そうじゃなくて、みんなで力を合わせて進めないと、赤坂の町はうまくならない。
【聞き手】先ほどおっしゃった、町歩きというかブラブラ……。銀座とか麻布十番とか広尾とか、目的はなくて、とりあえず行って、歩きながら発見があったりとか、雰囲気がいいから歩いてたら、次この店に来てみようとか、赤坂は正直言ってあまりないかも……。
【HK】ないですよ。
【聞き手】タクシー、あるいは地下鉄で店に行って、2軒目に行くかもしれないですけど、帰っちゃう。ぶらぶらするって感じはちょっとないかもしれませんね。
【HK】ないですよ。それで赤坂でおしゃれな人を見たよっていうのもないんだよね。だから赤坂で、いい着こなしをしてる人がいるなっていう人が歩いててくれるなら、そうすると、また私もそうしようかしらっていう人も出てくるんだろうけど、やっぱり……。
【聞き手】でも、テレビ局とかありますけど、見ないですかね。
【HK】歩いている方もいらっしゃるんですけど、だけど、多分赤坂のよさは、あんまり干渉しないですから、知らんぷりですよね。それは赤坂のよさです。また、赤坂って実は村ですから。ほんとうに村なんです。で、私は赤坂で飲まないです。
【聞き手】村ですか。
【HK】ええ。私、いろんな会合でお母さんたちとお会いすると、私の袖を引っ張って、「HKさん、あの方、何とかってクラブに入り浸りだけど、彼女とできてる?」とか聞くんですよ。お母さん、そんなくだらないこと見ないほうがいいよとか言うんだけど、そんなのどうだっていいじゃないと言うんだけど、まあ、すごいですよ。だからみんな見てるの。
【聞き手】見てる。
【HK】だから見られてるんです。
【聞き手】気をつけなきゃいけない。
【 】赤坂の人たち、やっぱり皆さん顔見知りだから。
【 】どこか入るとわかっちゃうね。
【 】すぐってことはないですけど、あ、今日は誰々さんを見たよとか、別の方と会うと、今日さっき何とかさんが歩いてたよとか、ちゃんとみんな仲よしだから、そういう感じなんです。
【HK】みんな見てる。だからオタオタと、鼻を長くしてどこかのクラブなんか入ってられないですからね。
【聞き手】そうすると、もとに戻ってというか、人が見てるかっていう、ここに赤坂の特集、花柳界、グランドキャバレーなんてあるんですね。ここは昔、ミカドとラテンクォーターとコパカバーナ、3つが有名で、ミカドがほかに比べれば比較的安いといいますか、で、この前ちょっとお話を聞いた、フランク・シナトラなんかがラテンクォーターで、こっちは高いからあれで、ミカドにはちょくちょくというか、たまに行ったというお話があるんですけれども、HKさんご自身、そういったところへたまには……。
【HK】行ったことあります。ラテンクォーターだと、トイレに入るのが嫌になっちゃうんだよね。チップをとる人が、ボーイさんが立って、100円玉を入れなきゃならないし、100円玉がなくなっちゃったよ、1,000円か、なんて……。それでホステスさんも外国の人が多くて、だから俺、あんまり英語、通じるかよと思ったりしたこともありますし、ミカドは小波さんのお嬢さんとも親しかったから、小波さんは妹さんがアメリカに住んでて、あのビルを売っちゃって、今はアメリカにいらっしゃってる。だけどミカドはあまりでかくなり過ぎて、従業員が酒とかみんな横流ししたりしてたから、だめだったでしょうね。
【聞き手】そうですか。そりゃひどい。
【聞き手】そういうナイトクラブに仕出しとかもされてたんですか。
【HK】そんなのありません。
【聞き手】それはないですか。
【HK】ええ。ナイトクラブって、大したもの出ないんだよ。でも、うちの父が、みすじ通りっていうのをつくったんですけど……。
【聞き手】あ、お父さんが。
【HK】そうです。それで、私、文句ばっかり言われました。うちの母がスズっていう名前だったんです。HKスズといったんです。みすじじゃなくてミスズ通りだとか言って、おまえのおやじは女房の名前をつけやがってとか、文句ばっかり言われましたよ。そのときに、みすじ通りができ上がったときに、ミカドでパーティーをやったんです。そのとき、すごい人数が入ったな。そんな思い出があります。
【聞き手】それは何年。
【HK】昭和何年だろう。昭和30年代じゃないかな。昭和35、6年じゃないのかな。で、余計なこと言うと、いけないんだな。記事にしないですか。ミカドの最初の土地の売買のときに、うちで行われたんです。そのときにお金、一斗缶、3個で来たんです。一斗缶を3個ぶら下げてくるんです。2人がかりで。そこにお札が入ってるんです。現金取引ですよ。しかも、今もそうなんですけど、とりわけ韓国の方だとかは、不動産屋、皆さん気をつけたほうがいいですけど、帯封があるじゃないですか。100万円の帯封で100枚あると思うでしょう。抜いてる場合がある。だからね、一斗缶を全部数えるの。だから大変だったみたいですよ。私はお座敷に出てませんから、母から聞きましたけどね。何億円、1割とか抜いたら大変ですものね。そういう取引が行われた。だからラテンクォーターも行きましたし、だけど別に、それがどうかしましたって世界ですからね。私が子供のとき、力道山がオープンカーで、そこのイトウ印刷のアキラさんという人が運転手やってて、よくこの辺にとまってましたよ。力道山とか乗せて。そんな思い出があったり、昔のほうが、芸能人が歩いてることに興味があったんだけど、今はあんまり興味がないですね。だから興味がなくて、この間、うちの新入社員をあるところへ連れて行くのに、俺が一緒に行ってやるといって赤坂通りを歩いてたら、たけし事務所あるじゃないですか。そしたら、たけしが外車に乗ってちょうど出てきたの。私は「たけしか」とか思いながら歩いてたら、店のやつが立ちどまって、ビートたけしだとか、立ちどまっちゃって、当時、俺もあんな感覚だったのかなって思いました。今は全く感覚がないんですよね。
【聞き手】やっぱりお店もこういう、昔はゴージャスな感じがあったし、俳優さんだって女優さんだって全然違うじゃないですか。ピカピカが。たけしさんが別に隣にいたよと。それがどうしたのって。
【HK】都会の人はそうなんですよ。地方の人は、まだ感覚が違うんでしょうね。
【聞き手】多分、地方から出てきた大学生とかは舞い上がっちゃうと思いますね。
【HK】舞い上がっちゃうんでしょうね。だから私が子供のころなんかは、例えば越路吹雪とかああいう人たちが、へをするとは思ってないですからね。いや、まじで。
【聞き手】トイレ行くって。
【HK】思ってない。だからそこの差ですよ。
【聞き手】今や、みんな女優さんのそれなりのでは、みんなコマーシャル出てますもん。
【HK】そう、出てるから、今の女優さんがへをしたところで、ちっとも驚かないけど、だけど当時、そういう人たちがへでもしたら、私はびっくりしちゃったでしょうね。きっと。
【聞き手】当時は料亭とか、そういうところへ持って行くと、芸者さんとか、すごいきれいな人と遭遇とかっていうのはあんまりなかったですか。
【HK】それはあるけど、あんまり気にならないんですね。
【聞き手】若いときで、あんまりどきどきとかなかったですか。
【HK】ないですね。っていうのはね、例えば塩野さんの横に住んでるとき、裏手が石井さんっていう置屋さんだったんです。今はビルになっちゃってるんです。石井さんの置屋さんには芸者さんたちがいたけど、みんなお化粧なんかしてないでしょう。夜じゃないから。で、子供心に、昼間遊びに行くわけだから、石井君と遊びに行くと、当時は台所にガス灯があるの。ガス灯って、知りますかね。ホースの長いのがつながってて、おばあちゃんが火をつけると、ガスにぽ一っとあかりがつくんです。え、ガスで電気がついてるなんて思ったり、そんな思いがあったけど、きれいなお姉さんたちがいるなぐらいにしか思ってないんですよね。
【聞き手】そうか、お座敷でそういうふうにしたのと、やっぱり裏を知っていらっしゃるから、わかっちゃうから、全然違いますね。
【HK】全然ちがう。で、あとで、あんた、あそこにいたでしょうと言われても、あそこを歩いてた人、誰が歩いてた……。芸者さんが歩いてたけど、お姉さんだったのって感じですよ。だって違うんだもん。それは女の人ってお化粧すると変わるとかいうけど、だけどさ、それにしてもガラッと変わるんですよ。
【聞き手】それは芸者さんなんてのはそうでしょう。
【HK】ガラッと変わっちゃうから、それは無理ってものですよ。で、子供心にあんまり興味なかったですね、それは。で、私の友達でマシコっていうのが芸者になってたし、小学校の同級生で芸者やって、今は根岸じゃなくて、クラブやってますけど、あんまりだから気にならないですね。そういうことは。
【聞き手】やっぱりそういう中にいらっしゃるから、あるんでしょうね。
【HK}で、別にその人たちに、よく芸能人の花街にいた人って、お姉さんたちからおごってもらったとかあるじゃない。俺、おごってもらった経験もないからね。
【聞き手】お小遣いもらうとか、ない。
【HK】経験ないの。おごってもらった経験ないんだけど、お姉さんを連れた男の人に……。赤坂は六の日に縁日があったんです。そうすると、私なんか金を握ってないから、買えないわけですよ。ろくなものしか。だけど、羽振りのいい大人と会うと、なぜか大人は、男の人が私におごってくれるの。それは多分、今思えば、おまえ黙ってなよという話なんだろうと思うんだけど、そんなこと、俺全然思ってないから、おじさんからごちそうになっちゃったなんて……。
【聞き手】それはおもしろい。
【聞き手】羽振りのいいところを見せたいんじゃないですか。
【HK】そうかもしれない。だけど、それで、やけにいいものを買ってもらったり。縁日だから、ろくなもんじゃないでしょうけど、そんな思い出はあります。
【 】あと、オリンピックのころって、パレードとかいろいろ違ったこと……。
【HK】オリンピックのとき浪人だったものですから、1回だけお客さんから切符をもらって、陸上競技を見に行くぐらいは、行きました。
【聞き手】国立競技場のね。
【HK】ええ。だけど全くわからなかった。興味がないんです。日本人以外の人が走ったりしてるじゃないですか。そうすると、何を見てていいのかわからないですよね。こっちで走ってるし、トラックでは何か走ってるし、向うでは何かやってるし、え一、こんなのかなんて……。
【聞き手】なるほどね。今みたいに情報があって、100メールは何とかでとか。
【HK】そうです。だから携帯ラジオか何か持って行ってれば、まだ興奮したかもしれないんですけど、ただ、ぶらっと入っただけで、しかもあんまりいい席と言えるのかどうかわからないけど、一応正面の上のほうだったんです。だから、人が走ってたり、駆けてるけど、そんなに試合まで見えるようなところじゃないし・…・・。聖火リレーは赤坂見附を通ったときにちらっとは見たけど、受験してたから、俺には関係ないやっていう思いでしたね。
【 】それほど、町の盛り上がりみたいなものは、あまり。
【HK】町の盛り上がりはないだろうな。
【 】例えば、見に来た方たちが、帰りに赤坂に流れて来たりとか。
【HK】さあね。日韓のサッカー、ありましたでしょう。
【聞き手】ワールドカップですか。
【HK】ワールドカップです。そのときはベルギーの選手とか赤坂ヘ……。もちろんベルギー料理もあるけど、皆さん来てました。兄の店って、結構ベルギー大使も、ベルギー航空のスチュワーデスさんも、みんな来るんですよ。
【聞き手】それは味がいいんでしょう。
【HK】だから味がいいっていうより、兄貴がべらべらしゃべれるからね。
【聞き手】あ、なるほどね。2年ぐらい留学していらした。
【聞き手】ベルギー料理ってめずらしいですね。フランス料理とはまたちょっと違う。
【HK】同じですよ。そんな難しく考えないほうがいいと思いますよ。
【 】何か思い出に残ってるような、テレビとかラジオの番組みたいな、懐かしいなんて思ったり……。
【HK】私、思い出ってわけじゃないけど、私は意味がわからなかったのは、最初うちはお風呂がなかったでしょう。子供のころは。そうすると、そこにお登美湯というお風呂があって。
【 】ああ、ありましたね。私も知ってますから。
【HK】それでお風呂入っておいでと言われて、行くと、がらがらなんだよ。そのとき、おまえ行きなとおふくろが言う。誰もいねえじゃないかなんて…。そしたら、どうも「君の名は」をラジオでやってたみたい。
【 】それ、皆さん言ってましたね。がらがらだって言ってましたね。
【HK】だけど、そのときに必ず、おまえ行っておいでっていう。だから子供には聞かせたくなかったのかどうか知りません。
【聞き手】お母さんとしてはね。
【聞き手】夕方ぐらいだったですか。当時。
【HK】そう、夕方です。
【聞き手】お母さんは、こっそりと、しくしく……。
【HK】やってかもしれない。それはわからない。俺はともかく、お風呂入ってたんだから。
【聞き手】その時間帯に。
【HK】それで、誰もいねえから、潜っていいのかなとか、つまんないことばっかり考えてましたよ。
【聞き手】なるほど、「君の名は」が。
【 】ちなみに、前にお話を聞いた方も、お風呂に行かれたときは、自分はお金を持たないで行って、そのとき、自分はお金かかるの知らなくて、あとでお母さんとかお父さんがいるときに払ってたんだろうなみたいなことをおっしゃってたんですが、そういうのはありましたか。
【HK】私は、そういうのはちゃんと。だって、うちはそんなに気前よくないもの。そんなのは何もなかったですね。ただ、あと野球拳だとか、ああいうのが夜、よく待合さんから聞こえてた。大騒ぎしてるのをよく聞いてた思い出がある。
【 】よくテレビとかで私たちが見てたような、1枚ずつ脱いでいってみたいなことを。
【聞き手】帯を。
【HK】それは知りません。中まではわかりません。中までは、全然見てるわけじゃない。外で聞こえてくるのに、野球拳というのが。
【 】三味線とか掛け声とか
【HK】聞こえてくるのは。で、げらげら笑ってたりする覚えは、印象には残ってますね。
【 】歌なんかはあれですか、まだ小さいから「リンゴの唄」、そういう流行歌は。
【HK】流行歌っていう、それなりの皆さんのあれでも、そんなに好きなのって私はなかったですね。あんまり歌でどうこう……。ただ、私は、美空ひばりだとか石原裕次郎だとか超有名な人の名前はわかるんだけど、若いころから生半可の人の名前って全然わからないんですよ。聞いたことあるなっていう程度でしか、私自身はあんまり興味を感じてなかったですね。それは何ていうのかな、若いころから情けない人生を送ってたんでしょうね。きっと。
【聞き手】真面目一本やりだった。
【聞き手】そうでしょうね。映画なんかあれですか、渋谷にフランス映画を見に行ったとか。
【HK】映画はね、記憶に残ってるのは「七人の侍」。あれを兄と見に行ったり、あと何ていう映画だったかな、ちょっと覚えてないですけど、ここから歩いて麻布によく見に行きました。一の橋に映画館が3軒ぐらいあったんです。私はよく兄に連れて行ってもらって映画を見ましたね。ただ、印象に残ってないの。
【聞き手】日本映画ですか。外国映画ですか。
【HK】日本映画なんでしょうね。ちょっと印象にないな。ただ、歩いて、電車に乗らないで行けるところというので、一の橋によく行きました。で、印象に残っているのは「七人の侍」。なぜか残っている。
【聞き手】映画館は赤坂に、昔からなかった。
【HK】ないです。
【聞き手】何でなんですかね、。
【HK】で、パチンコ屋は伝助というのが赤坂見附にあるんです。パチンコ屋、伝助っていうのがありましたね。よくうちのおやじが行ってて、おふくろが、お父さんを連れておいでといって、俺が呼びに行った思い出があります。
【聞き手】昔のそういう光景が。
【HK】で、それ以降、パチンコ屋さんが消えちゃって、それから後ででき上がってきましたね。
【聞き手】場所がなかったんですか。映画館だとそれなりに建物、坪数とか。
【HK】坪数でいうと、もちろんミカドだとか、コパカバーナだとか、そういうところへつくれば、あったんだろうけど、まだ収益性でいいものがあるとにらんだんでしょうね。もうちょっといい収益性のものがあると思ったんでしょうね。だからキャバレーだとかクラブになったんだと思いますね。だから逆に、そういうものがはやってくるころに、変な言い方をすれば、芸者さんたちが危機意識を持たなきゃいけなかったんでしょうね。同じもてなしをするんだから、何で和食と洋食でもてなし方が違うんだろうと。つまり、片方は、極端な言い方をすると、ワインなんて当時は少ないんだから、簡単に言うとビールと日本酒の差ですよ。で、何でかなと、みんなが考えないまま来ちゃったということでしょうね。その辺が違ったんですね。だからある種、特殊な世界をつくり上げちゃった。ほんとは何でもない世界ですけどね、芸者さんにしたって。何でもないと思いますよ。ただ、よく一見さんを上げないって皆さんおっしゃるけど、それは支払い能力の問題もあるんでしょうけど、通常はうちあたりでも、何々会社さんが来て、ご予約があって、それの関連してる何々会社さんのご予約があった場合は、満席ですとお断りしますからね。要するに情報が漏れないようにしてあげなきゃいけないですから、政治家の方は、例えば長井先生が見えて、新井先生がお見えだといったら、ちょっとお部屋はございませんと。同じ閥ならともかく、そうでなかったら、今日は先生勘弁してください、今はいっぱいなんですよとか言ったり、だから信用のない人をお座敷に上げるわけにいかないんですよね。だから、わけのわからない人をお入れして、隣の情報が漏れたりしたら大変なことになるという意味で、一見さんは上げないという。
【聞き手】よくわかりました。初めて。
【HK】だから支払い能力だけだったら、前払いでお願いしますと言えばいいだけの世界なんですよ。簡単に言えば、お一人様5万円頂戴しますがよろしいですかと言って、いいよといったら、2人だから10万渡して、「じゃ上げてくれる?」と言えば、一見さんじゃなくなるわけですから。でも、一見さんお断りっていうのはそういう意味じゃなくて、どんな人が来られてて、どんな形で自分の店から情報が漏れるっていうのが、まずいなとだからそういう意味では、多分待合さんでも、要するに単に賭博場の寺銭を稼いでる場じゃないわよっていうプライドはあったんでしょうね。そういうことはあったと思いますね。
【聞き手】そういう一つ一つのことが大事で、和食、日本食というか、私、ビールでも日本酒でも、さっき骨董に多少手を出して、同じものでも、ワイン、シャンパンでさえも、グラスによって味が違うんですよね。日本酒だってそうです。
【HK】あるでしょうね。
【聞き手】見るからに安物のお銚子と、骨董のというのは違う。
【HK】それは、目の肥えた方はね。俺なんか同じに見えちゃうけど。
【聞き手】いや、いや、それはご主人なんかよくご存じだと思うんですが、そういう違いが全然一緒くたになっちゃったのが今の時代。画一化、均一化で、ソフトの部分、そういったちょっとしたことの大事さ、ほんとにいいものだということがだんだん……。それはどうでもいいことで。
【HK】そのとおりだと思いますね。だから私も、若い人たちに怒るのは、おまえ、しびんでお茶が飲めるかっていうんですよ。おまえら、もしこんなむちゃくちゃなことやるんだったら、おまるでカレーライス食わすぞと。そういうことがおまえらにできるかって言うんですよ。同じことなんですよ。そこにある何かを感じ取れないやつに、料理の何を考えてるんだよと、つい言いたくなる。だけど、そう言っている俺自身も、もしかしたら一つのフレームワークの中にいる可能性もあるから、また注意しなきゃいけないんでしょうけど、フレームを広げたいけど、頑固おやじになってくるとだめでね。なかなか……。
【 】見えません。
【聞き手】柔軟な。いろんな話を聞くと。
【聞き手】そういう危機意識を持ってるというだけでも、そこら辺が。
【聞き手】ご成婚パレードは……。あと一つだけ。
【HK】ご成婚のときは、皆さん見に行きましたよ。赤坂見附に。
【聞き手】何か敷いてあって。
【HK】敷いてないな。それと、私なんか子供心に、中学校のときだったけど、テープに実況を撮りましたよ。
【 】テープがあったということ。
【HK】あと天皇陛下が亡くなったときも、皆さん来てたな。青山通り、すごかったですよ。ただ行っちゃうだけなんだけどね。何だという感じなんだけど、やっぱり何かがあるのかなと思いますけどね。私にはよくわからないんだが、ああいう人間になりたいなと思いますよ。つまり逆を言えば、変な意味じゃなくて、俺は別に国粋主義者でも何でもないけど、何もなくても慕われるような人になりたいなと思いますよ。なかなかできないもの。そう簡単には。
【聞き手】いや、慕われていらっしゃると思いますよ。
【HK】いや、いや、誰もいないです。そう思いますね。でも皆さん、結構関心を持っていらっしゃる人は・・・…。それで、新宮様(浩宮)が生まれたときも、ちょうちんパレードを我々の商店街で企画したんですよ。男の子だと思って。ただ、みんながちょうちんを持ってて、派手さがないじゃないですか。それでみんなで悩んで、そうだ、秋田の竿灯みたいにしようと。で、木でちょうちんを幾っも並べて、あれをつくったおかげで新聞にも載りましたよ。あれを一面に新聞がとってくれて。ただ、苦労話を言わせていただくと、集合場所がまずないんですよ。1,000人近くなるだろうと。その1,000人を集める場所がない。それで宮内庁に連絡したら、宮内庁は、門の外へ出てお辞儀もしてくれないというわけですよ。そういうのは勘弁してくれと。おまえ、人のお祝いだから、職員ぐらいお祝いに出て来いよと俺なんか思ったけど、誰も出ませんというわけ。ああ、弱ったねと。それでともかく、集める場所といったら、山王グランド、あそこに山王ビルってあるじゃないですか。こっち側に広場がある。
【 】あ、大きくなっちゃったところ。立派な高いのができたところですね。
【HK】ええ、昔の山王ホテルのこっちのところですけど、そこに広場があって、そこを借りるように手配して、借りるっていう、オーナーから許可が出て、次は赤坂小学校を解散式にしようと。で、一番困ったのは、いつ産まれるかわからないんです。産まれる日が決まらないんです。
【聞き手】それは大変ですね。
【HK】それで毎日、道路占有許可願を出さなきゃならない。ところが、もっとめんどくさいことが起こったんです。あっち側が麹町警察なんです。
【HK】こっちは赤坂警察。
【聞き手】両方申請しないといけない。
【HK】そう。そうしたら麹町警察の人が、3日目だったっけな、あんたたち大変だから、俺のほうから赤警に、赤警で全部取りまとめるように言うよと。で、いつお生まれになるかわからないでしょう。あれ随分苦労しましたよ。それでお生まれになったら、土曜日なんだよ。さあ大変といって、午前中わかったんだけど、会社の人はいないでしょう。おい、人が集まるのかよと。今度は電話をしまくり。みんな来てくれよって。
【聞き手】重いの、つくっちゃったはいいけど。
【HK】それで、あれを持ってもらうのは結構重たいので、消防団に言って、消防団は…。あれは準国家公務員だから、出動要請が出ないとお給料出ないんです。あれ、給料もらってるんですよ。俺、こんなひどい非常識があるかと。だって、交通安全運動や何かで、交通の仕事をやってる地元の人たちは一銭も出ないのに、消防で、ただふらふらしてるやつに給料が出るって、何言ってるんだよと。
【聞き手】あ、そうなんですか。
【HK】それで出動要請してくれないと出ないというんです。おまえ、そういう物言いってあるかよと思うわけですよ。こっちは俺の子供のためにやってるんじゃなくて、他の人のためにやってるのに、喜びはそういうものじゃないだろうと思ったんだけど、しようがねえやというので、出動要請を今度は赤坂消防署へ出して、出動要請が出たから出てくださいと。制服で来てくださいとか言って。
【聞き手】疲れますね。
【HK】疲れるんですよ。そしてパレードになって、それでも800何人来ましたね。それでほかに新聞ネタがないので、新聞社も来てくれて、結構絵にはなりましたけどね。だけど、来てくれた人に今度は配るものまで考えなきゃならないでしょう。しようがないから、サントリーに電話して、何か健康飲料を出してくれよとか、裏方というのは何でも大変なんですよ。ほんとに。あれは何年だろうな。12、3年前ですよ。中学生だから12、3年前だと思いますよ。新宮様のときは。そのぐらいですね。