赤坂-3
お隣りさんは吉川英治氏!戦後赤坂のお屋敷町の生活を語る
お隣りさんは吉川英治氏!戦後赤坂のお屋敷町の生活を語る
・語り部氏名 MN氏
男性
生年月日 昭和18年(1943)9月23日
赤坂で暮らした時期 昭和29年10月か11月〜現在
① 主な内容
新宿伊勢丹の前に店舗があった親が世田谷区松原の居宅(1000坪)を処分して、カナダ大使館の正門前の分譲地8区画の内150坪の区画を買って、昭和29年の小学五年生の時に移り住んだ。あとで、隣りに吉川英治さんの居宅ができた。子供の頃の生活では、近所に友達がいないので、学校で放課後1〜2時間遊んでから帰った。中学生の初めまでは、街灯がついたら外に行くなと言われた。週末には外苑の六大学野球(外野席は無料)を見に自転車で出かけたりした。夏休みは家庭教師と一緒に箱根(母の実家が旅館)へ行っていた。父親は絶対服従でしつけは大変厳しかった。家庭環境は祖父母、両親、長男Nの以下3人の子供、女中の構成だったが、近所の付き合いは挨拶程度。日常は御用聞き、店屋物ですませ、外食はまずない。買い物は顧客扱いのデパートによく行っていた。電気洗濯機、冷蔵庫、テレビなどもいち早く揃えたし、自家用車は昭和26年には中古のダットサンを購入した。この周辺も昭和の終わり頃(バブル期)にビル化され住民がいなくなった。
② 備考
・皇太子ご成婚パレード(昭和34年4月10日) 皇居→祝田橋→三宅坂→半蔵門→四谷三丁目→信濃町→神宮外苑→イチョウ並木→青山通り(6丁目まで)→常盤松御所
・60年安保闘争時、東京の歩道は投石防止のため、歩道ブロックからアスファルト舗装となった。
① 現住所 港区赤坂8丁目(元赤坂新坂町)
② 学校 暁星学院・暁星小学校 中央大学卒業 商社
③ 保存資料の状況 テープ起こし原稿 取材シート 三回確認
④ 取材者 FA(聞き手1) YM(聞き手2)
⑤ 取材年月日 平成26年(2014)10月4日
⑥ 旧住所 赤坂区田町4丁目(現 港区赤坂3丁目
語り部 MNさんの話
【聞き手】 はい。MNさんは赤坂8丁目にずうっとお住まいですか。
【MN】 同じ揚所に、昭和29年のたしか10月か11月からです。それで、途中転勤で、3年間だけ山梨へ行っているんですけども、自分ちはそのまま残してありましたから、1週間に1回ぐらいは戻ったりなんかしていましたから、ずうっと住んでいるのと同じですね。
【聞き手】 ああ、そうですか。昭和29年というと。
【MN】 私、小学校5年のときからです。そこから以降は完全に物心はついていますけども、今回の話は東京オリンピックまでですか、一番よく覚えている時代じゃないかと思いますけど。
【聞き手】 そうですよね。小学校5、6年というと、一番記憶が鮮明なころですものね。そうすると、恐れ入りますが、何年生まれでいらっしゃいますか。
【MN】 昭和18年生まれ、9月27日。
【聞き手】 で、今、赤坂8丁目というところにずっとお住まいなんですね。
【MN】 はい。昔の住所は赤坂新坂町1番地です。住居表示で変わっていますから。
【聞き手】 新坂町1番地ってお聞きしたほうがピンときますね。昭和29年というと、お宅の周りというのはどんな。
【MN】 今、ここは住宅地なんですけども、この一角は1軒も建っていませんでした。焼け野原というわけじゃないんですけども、私ども親がここを購入したんですけども、そのとき分譲地なんですよ。今は驚くだろうと思うんです。1区画8軒分ぐらい、1区画が150坪ぐらいの分譲地だったんですよ。
【聞き手】 ということは、150坪のお家の8倍のお屋敷。
【MN】 そうそう、1区画はね。それは多分、戦前の屋敷だったと思うんですけども。
【聞き手】 あっ、そうですか。それを昭和29年に購入なさって、赤坂に移り住んだわけですね。
【MN】 そうです。
【聞き手】 それ以前はどちらにいらしたんですか。
【MN】 世田谷区の松原です。
【聞き手】 あっ、そうですか。そのお宅が8軒のうちの一番早く建ったお家。
【MN】 一番早くですね。同じくらいにもう1軒建ちましたから。
【聞き手】 その当時、赤坂というのはそういうふうに空き地が結構あったんですか。
【MN】 あったですね。それから、まだ焼け野原のところが多かったですね。それで、民家ばっかりですね。ですから、私の隣はカナダ大使館なんですけども、カナダ大使館は、今は大きいですけども、昔は小さなビルが1棟建っていただけですから。カナダ大使館の土地の大きさは、今と同じですね。
【聞き手】 あそこら辺は今でも緑の多いところですよね。
【MN】 多いですね。高橋是清公園がありますからね。
【聞き手】 じゃ、高橋是清公園の後ろ側。
【MN】 もうちょっと赤坂郵便局寄りの次の角を入ったところです。
【聞き手】 ああ、そうですか。で、カナダ大使館の隣?
【MN】 隣です。
【聞き手】 そうすると、小学校はどちらに通われたんですか。
【MN】 九段の暁星小学校です。
【聞き手】 ああ、そうでいらっしゃいますか。そうすると、暁星にも近いということで、世田谷から移られた。
【MN】 そうなんです。それでこっちに引っ越してきたんです。
【聞き手】 じゃ、フランス語はご堪能でいらっしゃるんですか。(笑い)
【MN】 だから、友達がみんなその辺ですから、そこからずっと神田弁になっちゃったんですよ。赤坂は神田弁じゃないんですけど、実際、僕は神田弁になっちゃいまして、「ひ」と「し」が言えないとか。
【聞き手】 なるほど。神田っ子が多かったんですか。
【MN】 暁星は、九段の坂の下の神田から須田町方面の問屋街とか商店主とか、そういう方が半数近くだったですね。
【聞き手】 じゃ、赤坂・青山方面から通っていらっしゃる方というのは少数だった。
【MN】 この付近はなかったですね。神田方面が多くて、あとはばらばら、一番遠い人は横浜とかですね、当時。
【聞き手】 今、神田弁というお話が出ましたけど、そうすると赤坂弁というのはご存じ?
【MN】 僕、知らないんですよ。近所の友達がいないわけですよ。ですから、赤坂弁というのは知らないですね。
【聞き手】 なるほど。でも、確かに下町の「ひ」と「し」が言えないとかいうのとはちょっと違うかもしれませんね。
【MN】 だから、僕は今、そういうので一番困っているのは、ワープロを打つときに質問だとか、必要という言葉が出てこないんです。自分で言う言葉でローマ字を打っちゃうんですね。
【聞き手】 ええ、なるほどね。
【MN】 だから、自分でも言葉は神田弁で、江戸弁だなというのは。
【聞き手】 江戸弁ですね。なるほど。それはおもしろいですね。そのころは都電があったと思うんですけど。
【MN】 都電ありました。
【聞き手】 お通いになるのに。
【MN】 都電です。ですから、ちょうどここの区役所の前が赤坂表町という電停ですか、そこから10番線に乗って九段まで通っていました。
【聞き手】 じゃ、乗りかえなしでずうっと。
【MN】 乗りかえなしで行きました。小学校なんていうのは朝のラッシュ前ですから、都電に乗って10分で九段まで行っていましたね。ですから、近いんですよ。
【聞き手】 そうすると、学校から帰ってきてからの赤坂での生活というのは。
【MN】 赤坂での生活はせいぜい本屋に行ったりするので、地元での友達というのはゼロだったですね。当時は、だから学区としては坂をおりた檜町小学校ですね。これが学区なんですけども、当時どれぐらいの規模があったかというのはわからないですね。僕の息子は檜町小学校へ行ったんですけども、昭和48年生まれなんですけども、その子が入学した当時、昭和55年ですか、このときは3クラスだったですね。年子で次の子が生まれたんですけども、その次の子が入学したときは2クラス。そこでどんどん人口減少しているときですね。その後、統合して、今の赤坂小学校になったのかな。
【聞き手】 その本屋さんというのはどこの?
【MN】 本屋さんというのは、僕は3カ所へ行っていたんですけども、まず青山1丁目の交差点のところに、今のホンダのビルのところですね、そこの都電の電停の前に本屋が1カ所あったのと、あとは僕が覚えているのは一ツ木通りですね。今でもその本屋はありますけどね。
【聞き手】 金松堂さん(2021年―令和3年に閉店)ですか。
【MN】 金松堂さんですね。それからもう一つは六本木の交差点の角。
【聞き手】 あっ、誠志堂(2003年―平成15年に閉店)。
【MN】 そうそう、その3カ所ですね。六本木と一ツ木通りは自転車で行ってという。ですから、その辺が行動半径ですかね、当時の。
【聞き手】 なるほど。六本木交差点、青山一丁目交差点、赤坂見附交差点、それからどうですか、溜池交差点?
【MN】 溜池には行かなかったですね。あそこは六本木から坂をおりて福吉町を通ってというのは、自転車で動かなかったな。
【聞き手】 なるほど。じゃ、この三角形なんですね。
【MN】 そうです。あと、氷川神社がうちの氏神様ですから、氷川神社に。僕の子供、僕なんかも全部神事ごとはあそこでやっていますから。
【聞き手】 氷川神社はどんなでしたか、そのころは。
【MN】 同じですね。
【聞き手】 あっ、変わらない。
【MN】 変わらない。あそこだけは変わらないですね。
【聞き手】 本当に赤坂の中でも変わらないところっていうと、あそこだけですよね。
【MN】 ああ、あそこですね。昔は車が入れなかったですけど、せいぜいその駐車場ができたぐらいですね。
【聞き手】 失礼ですが、MNさんのお父様というのは何をしていらした方なんですか。
【MN】 新宿の伊勢丹の前で商売をやっていたですね。もともと四谷の出身なんですよ。ですから、私どもの先祖からの墓は、信濃町と四谷3丁目の問の左門町にあるんですけどね。
【聞き手】 ああ、そうですか。もともと四谷の方でいらしたりすると、近いところにお住まいになりたいという。
【MN】 そうかもしれないですね。
【聞き手】 あんまり縁のないところよりは。
【MN】 うちのおやじは戦争中の昭和17年に世田谷の松原に1,000坪の土地を買って、そこで自給自足の生活を戦後していたんですね。半分畑にして、ニワトリ30羽ぐらい飼って、ですから食い物にはそんなに困らなかった。それで、昭和29年にそこを処分してここに。ですから、そこの1,000坪とここの150坪と、こっちへ家を建ててイコールという。
【聞き手】 なるほど。だから、やはり赤坂というのはそのころから……。
【MN】 高かったですよね。
【聞き手】 ということですね。
【MN】 ただ、赤坂は、僕ら友達、その後、大学までの友達に言わせても、僕のうちに遊びに来るのは不便だって言われるんです。今はもう不便だと思わないんですけども。というのは、やっぱり新宿、渋谷、どこから行っても当時は不便なところだと言われましたね、遊びに来るには。結局、都電か地下鉄銀座線だけですけども、特に新宿からというのは不便だったですね。
【聞き手】 丸ノ内線なんかないですからね。
【MN】 ないですよ。それで、銀座線も今は6両編成ですけど、当時、3両編成ですから。
【聞き手】 あっ、そうですか。
【MN】 青山一丁目も今はあれだけ乗降者はいますけど、ぽつん、ぽつんとしかおりる人がいなかったという。
【聞き手】 本当に住宅地でしたものですね。
【MN】 住宅地ですね。ですから、青山一丁目の交差点の、さっき言ったホンダ側には本屋ともう一つ何屋さんがあったなって、こっち側のツインビルのあるほうは果物屋、八百屋、肉屋、そば屋、こんなのが1軒ずつ並んでいて、それで赤坂郵便局は当時からありましたけど、赤坂郵便局のもう一つ、青山一丁目交差点寄りのところには間組の大きな土地だったんですね。その角のところには教会があったですね、当時。
【聞き手】 戦後も大分残っていましたね。29年ですからそうですよね。48年か50年、そのくらいまでツタの絡まった無人の教会があったですね。じゃ、青山一丁目は商店街というほどではなかったんですね。
【MN】 ないんですよ。数軒なんですよ。だから、今も商店街はないんですけど、当時から買い物は不便でしたですね。今も不便していますけどね、この土地は。
【聞き手】 はい。今は別の意味でいろいろ。
【MN】 スーパーはないしね。それから、赤坂8丁目の私のところから新坂をおりたところ、あの当時から数軒の商店街はあったですね、魚屋だとか八百屋とか。今もありますよね。八百屋が何になっているかな。魚屋は寿司屋になっているとかね。だから、あの辺の魚屋とかあれが毎日のように御用聞きに来ていたですね、当時は。
【聞き手】 御用聞きですよね。
【MN】 ええ、当時の。店に買いに行かなかったですね。だから、あの坂をおりるというのはほとんどしなかったわけですね。
【聞き手】 ああ、なるほど。新坂をおりたあたりの商店から御用聞きに来る。
【MN】 来るんです。そうですね。
【聞き手】 そうすると、どんなお店屋さんが来ていました?
【MN】 魚屋ですね、一番多いのは。毎日来ていましたね。
【聞き手】 魚屋さん、毎日。
【MN】 「魚」に数字の「三」と書いて魚三。それからもう1軒、あれ何ていったかな。もう1軒の魚屋はついこの間まで商売していましたからね。
【聞き手】 やっていましたね。角みたいなところですね。
【MN】 うん。今、造園業かなんか。
【聞き手】 やまと造園さんもありますよね。
【MN】 その隣が魚屋。
【聞き手】 その隣が魚屋でしたよね。あと、私のほうなんかだと、酒屋さんとか米屋さんとかも来ていましたけど、そちらのほうはいかがでしたか。
【MN】 酒屋さんとかはもっと向こうから来ていましたね、青山4丁目ぐらいから。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。へえ一。三河屋というのがありまして、それもつい数年前に廃業するといって挨拶に来て、それまでは続いていたようですけどね。おもしろいですね、商圏というのが。酒屋さんは青山4丁目から。
【MN】 何かのつながりで来るようになったんでしょうね。
【聞き手】 そうですか。そうすると、お米屋さんなんかは?
【MN】 お米屋は覚えてない。
【聞き手】 とにかくお魚屋さんが毎日来ていたということなんですね。
【MN】 うん、それは覚えていますね。
【聞き手】 私なんかの記憶だと、こんな経木にきょうのお魚なんかを。
【MN】 書いてね。こんな見本だけ持ってきて、夕方に本物を届けるって。あとは豆腐屋は毎日プープー鳴らして来ていたし。
【聞き手】 だから、おうちにいても商売屋のほうから来てくれるという形ですよね。
【MN】 そうそう。
【聞き手】 お買い物に出かけるんじゃなくてね。なるほど。
【MN】 それで、昼間のことは、学校へ行っていたから覚えてないんですよね、ぼくは。
【聞き手】 そうですよね。戦後、赤坂に住んでいらっしゃると、例えば週末の楽しみなんていうのはどんなことをしていましたか。
【MN】 週末、何を楽しみにしていたかな。神宮外苑の野球場でただ見したり。六大学野球なんていうのは、外野席ただで入れたんですよね。開放していたんですよ。それから、内野席も開放していて、ですから野球揚まで自転車で行って、自転車をあそこにほっぽり投げて、それでただ見していたというようなね。今、そういうことはないですね。
【聞き手】 外苑なんてカナダ大使館の横でしたから、すぐですもんね。
【MN】 だから、自転車で行けば5分もかからないのでね。
【聞き手】 カナダ大使館のお近くでいらしたという、カナダ大使館の思い出というのは。
【MN】 思い出はないんですけど、例えば出前を頼むにも何を頼むにも、カナダ大使館の正門の前のMNですと言えば、そういう電話の仕方をしていましたね。
【聞き手】 なるほど。
【MN】 昔は正門は今のところじゃないですから、横の道を入ったところですから。あと、当時まだ戦前のものがいろいろ残っていて、表札が赤坂区表町とか、そういう表札があちこちにまだありましたね。これがなくなったのは昭和40年になってからですかね。それまではあちこちで赤坂区という表示がありましたね。
【聞き手】 なるほど。そうですよね。かけかえる必要が特にないですからね。
【MN】 それが書きかえられたのは、例の住居表示に変わったときに、みんなしようがなくて書きかえたという、町名がそこで変わっちゃったわけですから。
【聞き手】 そうですね。昭和42年でしたかね、41年でしたかね。でも、焼け残って表札が残った。
【MN】 焼け残って残っていて、カナダ大使館なんかも表札が残っていましたよ。
【聞き手】 なるほど。じゃ、門柱だけ残ったんですね。
【MN】 そうそう。外苑東通りも赤坂郵便局のところから乃木坂のほうまで歩いていくと、左側にそういった赤坂区という表示が数軒ありましたね、当時。乃木神社なんかも遊びに行っていた場所ですから、あれも今と、結婚式場なんかできちゃったですかね。結構遊びに行っていたですね。
【聞き手】 そうですか。じゃ、何だかんだ言っても、やっぱりおうちへ帰ってからも遊びには行っていらっしゃったんですね。
【MN】 そう。友達がちょうど乃木神社の隣あたりにいたので。
【聞き手】 あっ、そうですか。
【MN】 あとの友達というのは、暁星の友達に赤坂の置屋の子もいたからね。
【聞き手】 あっ、そうですか。乃木神社の隣の方も暁星のお友達?
【MN】 そうです。
【聞き手】 で、置屋さんのお子さんもいらした?
【MN】 うん。
【聞き手】 置屋さんというと、場所的には……。
【MN】 赤坂見附、それから山王下、あそこをちょっと入ったところですね。
【聞き手】 そういうところからも暁星に行っていらしたんですね。
【MN】 うん。
【聞き手】 今、歌舞伎の御曹司多いですよね。
【MN】 はい。今の松本幸四郎が僕より1つ上ですね、1級上ですね。
【聞き手】 あっ、そうなんですか。置屋さんのおうちや、乃木神社のお隣のおうちに遊びにいらしたりということは?
【MN】 よく覚えてないけど、行きましたね。乃木神社の隣は広い土地だったな、あれは。自分ちの土地かどうかわからないですけど。
【聞き手】 あのあたりは木戸孝允さんのこ子孫も住んでいらしたみたいですよね。
【MN】 聖パウロ何とかって。
【聞き手】 女子修道院。
【MN】 あれの隣だったですね。ですから、乃木坂の下から坂を上がっていった一番上だったですね。こうやってくねっと行った坂をね。
【聞き手】 ああ、そうですか。私ばっかりお話しして、YNさん、いかがですか。MNさんの年代から見て、これは40年以降もあるのかもしれませんけど、ご記憶にある中でMNさんの目に映った置屋さんの子供という花柳界の接点だとかはどうでしたか。
【MN】 置屋さんの子供というのはあんまり学校で話題にしませんでしたから、後から親から聞いて、あの子はぞうだよって言われたようなね。それで、赤坂の花柳界、繁華街というのは、どっちかといえば遊びに行っちゃいけない場所という感じで、あっちのほうは本屋に行くぐらいで、だから町並みはどうかというのは覚えてないですね。TBSができたのが昭和32年ぐらいだと思うんですけど、そこから東京タワーができるまでか、その後あったんだな、TBSの鉄塔がありましたから、今のTBSの放送局とかには。
【聞き手】 じゃ、遊びに出られるというのは、赤坂見附近辺というのは……。
【MN】 あんまり行かないですね。赤坂見附の電停というのは、通学のときに10番の都電に乗って1回見ていますから、わかったんですけど、赤坂見附電停の前に床屋がありましたね。結局、246号線は立体交差になって、それで都電が通らなくなって、まちも全部変わっちゃったですよね。
【聞き手】 そうすると、同じ赤坂の中でも地域性があるねというお話がこの間から出ていたんですけれども、この間、伝馬町(元赤坂一丁目)の方にお聞きしたら、伝馬町は三角州の孤島みたいなところで、電車通りを挟んでこっち側とはちょっと違う、下町風だったと言うんですね。逆に今のお話を聞くと、新坂町の辺はちょっと山の手風といいますかしらね。
【MN】 お屋敷町です。
【聞き手】 お屋敷町ですよね。
【MN】 夜は寂しかったですね。今でもあんまりね。あとは青山通りが今の広さになるまで2回広くしているんですね。最初、広げるときかな、虎屋の位置を今のところに、道の反対側に移動しているんですね。虎屋は豊川稲荷の隣の角にあったんですが、それが最初の道を広げるときにその虎屋が引っかかって、こっち側に移ったと。多分、等価交換したのかなんかね。それで、後はあそこの豊川稲荷から青山1丁目までは、こっち側は東宮御所ですから、あれは広げるのは簡単だったんです。国有地を買収するわけじゃないから。広げる前は小さな空堀がありましたよね。今はないですけどね。空堀があって、それから1回広げて空堀はなくなったのかな。それから、今の広さになるのにもう1回広げているんです。全部東宮御所側を広げていますから、こっち側は区画整理で昔のままの状態で残っているんですね。ですから、赤坂郵便局からこの区役所のところまで昔と同じ土地の大きさですよね、こっち側は。
【聞き手】 なるほど。全て御所側なんですね。
【MN】 御所側を削ったですね。
【聞き手】 さっきのところで、MNさんの世代はグランドキャバレーっというのはあんまり関係ないですか。この前で出たのはミカドとか。
【MN】 関係ないですね。僕が大学へ入ったのが昭和37年ごろですから、まだ遊びに行けるころじゃないですね。ミカドだとかいろいろ聞きましたけど、1回も前も通ったことがない、夜は。だから、どんなあれかというのも知らないですね。
【聞き手】 ああ、なるほどね。案外と、私なんかもずうっと育っていますけれども、地元の人間はああいうところへ遊びに行くということはまずないですよね。社用族だとか、政財界のトップの方たちで、地元の人間は夜になると出歩かないですからね。
【MN】 そうね。だから逆に、地元で食事もしてないですよ。ほとんど自分ちですから、夜は出歩くなんていうことはしなかったし、だから夜のまちは知らないですね。逆に、小学校とか中学校の初めごろは、街灯がついたら外へ行くなって言われた。そういう時代だから。今もそういう教育をしているんでしょうけどね。
【聞き手】 昔は、ご家庭でお食事をするというのが普通だったということですよね。
【MN】 当たり前だったですね。外食はしなかったですね。
【聞き手】 なるほどね。それからもう一つ、お宅のように伊勢丹の前でご商売なさっていらっしゃるような裕福なおうちでも、外食をそんなにするという習慣はなかったということですね。
【MN】 ないですね。
【聞き手】 例えばお客様が見えたときなんかは家庭料理でおもてなし、それとも…
【MN】 いや、店屋物をとったですね。だから、僕は一番最初、世田谷にいるころ、寿司をうちの親がとったんですね、僕の友達が来たとき。覚えているんですけど、昭和26年なんですが。親が寿司屋にお金と一緒にお米を出しましたね。ということは、お米がまだ不足だから、まだ外食券時代ですよね。あれ、何でお米を出すんだろうと。まだお米が配給の時代というか、闇米がない時代ですよね。だから、この辺もそうでしょう。赤坂でそういうのは経験ないんですけど。ただ、僕はこっちに来てからも、例えば渋谷あたりで食事するなんていうと、外食券食堂というのが。ご存じないですか、外食券食堂。外食券がないと外で食事ができないんですよ。それで、外食券は役所へお米の通帳を持っていって。
【聞き手】 へえ一。聞いたことはありますけども、実際そういうふうに。
【MN】 それで、実際は区役所にそんなのを持っていくことはしないで、食堂の前にダフ屋がいるわけですよね。それで、食券を売っていて。うちの親が一番連れていってくれたのは渋谷の東横の地下にあった食堂なんです。そこの前に必ず外食券売りのダフ屋がいて、売っていましたね。それを買って食べる。
【聞き手】 渋谷の東横にはよくお買い物とか行くことが。
【MN】 買い物は一番多いですね、ここから行ったのは。銀座じゃなくて、渋谷のほうが多かったんじゃないかな。
【聞き手】 青山通りを真っすぐ行けば渋谷ですからね。
【MN】 近いんですよね。それで、地下鉄があったし、都電が9番と10番と2本通っていましたからね。
【聞き手】 なるほど。じゃ、青山通りに近いところにお住まいの方たちは、動線としては西側に向いているんですね。
【MN】 うん。今はどっちかというと銀座方面だけども、当時は銀座というのは高級過ぎたのかな、行かなかったですね。
【聞き手】 それは昭和30年代ですか。29年にこちらにいらしたんだから。
【MN】 それから先でもやっぱり渋谷だったですね。僕なんか銀座で食事してくれたというのを覚えているのは、小学校の卒業式の日と中学校の卒業式、その日だけですよ。銀座のスエヒロに連れていってくれて、ステーキを食わしてくれたの。そのぐらい高級だったのか。
【聞き手】 小学校の卒業式と中学校の卒業式。
【MN】 そのお祝いに銀座のスエヒロでステーキってね。
【聞き手】 なるほど。ふだんのちょっとした外食は渋谷の。
【MN】 渋谷のデパートの地下の大衆食堂というんですか。
【聞き手】 私の世代になると、東横というと上に食堂があったんですけど、地下にあったんですね。
【MN】 地下にあったですね。それで、上には遊園地がもちろんある。この間もテレビでやっていたんですけど、遊園地にロープウェイがこっちからこっちまでつながっていたとかね。
【聞き手】 渋谷東横というのは、青山方面の方たちもおっしゃっていましたね。
【MN】 それで、うちが当時2階家だったんですけど、2階に屋根というか、屋上から見ると渋谷東横が見えましたよね。だから、それだけここから渋谷までは高層の建物が何にもなかったって。
【聞き手】 2階建ての上っていうと、物干し台とかへ上がるんですか。
【MN】 そうそう。ですから、地上6メートルまで上がれば渋谷はもちろん見えたし、富士山から大山、箱根まで見えましたしね、西のほうは。それから、こっちの東のほうは、もちろん国会議事堂が見えましたし、その先に銀座4丁目のネオン。それは何で銀座4丁目かというと、銀座4丁目に森永の地球が回るネオンがあったんですけど、それがちゃんとうちから見えましたし、だから本当にそこまでの問、大体2階以上の建物が何にもなかったって。それで、うちから南側はずっと新坂の坂塀をおりて下ですけど、その上がったところが昔の防衛庁、龍土町のところですね。だから、防衛庁の建物が見えていたというね。
【聞き手】 先ほど青山通りが今の2回目の広さになるまでに1回目で虎屋が移って、あと2回目以降というのは御所側を削られている。景観的には、先ほど青山1丁目のほうに昔は幾つか商店街というか、肉屋さんとか、八百屋さんとか、魚屋さんがあったといって、今も比較的落ち着いているといえば落ち着いている景観だと思うんですけど、通りが広くなったり、あと都電があったものがなくなっていったわけですよね。そういう中で、MNさんから見たときに、そういう全体的な景観面の変化で印象に残っていることは何かございますか。
【MN】 東京オリンピックのときが、都電がなくなるきっかけかな。ここの前は例の赤坂見附の立体交差で都電がなくなってからか、もうちょっと早かった、東京オリンピックのころかな。それから、その後も青山1丁目から外苑方面は都電が残っていたんです。それで、10番と9番は青山一丁目の交差点から、10番は四谷3丁目のほうに曲がっていきましたし、9番は六本木のほうに曲がっていったという、そういうふうに路線変更したんですね。それで、景観はいずれにしても当時から商店は何にもなかったんだな。青山1丁目の今の外苑側の角にはカメラ屋さんがあったな、1軒ね。その先が青山中学だったですよね。当時から、あそこは港区になるのかな、都営住宅があった。
【聞き手】 北青山のところですね。やっぱりオリンピックというのは、赤坂・青山地域にとってはエポックメイキグでしょうね。
【MN】 変わりましたね、あのとき。道が広くなったというのは変わったですね。あとはこの辺のトピックスは皇太子、今の上皇のご成婚ですね。あれは昭和34年4月10日。あのとき馬車の行列は四谷3丁目のほうから信濃町へ来て、信濃町から外苑の中に入って、あのイチョウ並木を抜けて青山通りに入って、青山6丁目まで行ったんですか、馬車の列が。だから、あれ見に行きましたよ。
【聞き手】 そうですか。どこら辺でごらんになりました?
【MN】 外苑の入り口のところですね。それで2回見たんですよ。三宅坂で見て、それで自転車で走ってきて三宅坂から半蔵門に行って、半蔵門からずうっと四谷3丁目まで
【聞き手】 ご自身は三宅坂でごらんになってから、自転車で外苑の入り口に駆けつけて、2カ所で。
【MN】 そうそう、2回見たと。
【聞き手】 そのときどんな感じでしたか、観衆は。
【MN】 思ったより少なかったんじゃないかな。
【聞き手】 そうですか。へえ一。でも、ご自身は2カ所でごらんになるというのは相当関心が。
【MN】 関心があったというか、興味本位だったんでしょうね。
【聞き手】 そうすると、中学生ぐらいですか。
【MN】 昭和34年というと、中学1年か2年ごろでしょうね。
【聞き手】 それはどなたかお友達と一緒に?
【MN】 いや、1人ですね。
【聞き手】 で、ちゃんと見えましたか。
【MN】 見えましたね。
【聞き手】 どんな印象でしたか。
【MN】 印象は残ってないな。(笑い)見たというだけで。後で今テレビなんか見て、ああ、ああだったんだなというのを。
【聞き手】 なるほど。じゃ、見ることが大事だったんですね。
【MN】 それより、僕、テレビの放送をどうやってやるのかなって、そっちに興味があって、今でこそ中継なんて当たり前なんですけど、当時中継というのは大変だったので、例のテレビカメラは民放なんかがもちろん全部寄せ集めでやっていましたし、地方の中継車が全部来て、各場所に。地方の民放のカメラ、福井放送とかそういうのが出ているんです。これは福井から来たんだろうとか、そっちのほうに興味があってね。
【聞き手】 ああ、なるほどね。最後、パレードは青山6丁目までって言われましたよね。
【MN】 6丁目、青学の裏までですね。
【聞き手】 常盤松というところが東宮御所に充てられたようなんです。
【MN】 そこに住んでいたんですね、最初は。そこまで行ったんですね。
【聞き手】 今、常陸宮がいらっしゃるところですよね。青山学院の裏手のほうですよね。
【MN】 裏のほうです。そうですね。ですから、皇居を出て、祝田橋からずっと三宅坂、半蔵門まで行って、半蔵門から四谷を通って四谷3丁目、それで信濃町へ来て、信濃町から外苑の中を通って、当時青山3丁目といったですけど、イチョウ並木を抜けて、あと青山通りを通って行ったということですね。それで、馬車の列が滑らないようにって、都電の線路の上に砂をまいたんですね。そういうほうが印象で、お2人を見るって。(笑い)
【聞き手】 やっぱり男の子らしい興味ですよね。
【MN】 何か聞いてくださいよ。どんどん思い出してくるでしょうから。
【聞き手】 あと、アメリカ大使館がこの地域にあるんですけど。
【MN】 アメリカ大使館のほうは今でも行きませんし、当時も行かなかったですね。僕の行動半径以外ですね。ですから、六本木から溜池というところすら坂をおりなかったくらいですから。
【聞き手】 一ツ木通りの本屋さんにいらしたときに、ほかの一ツ木通りのお店に寄ったりとか。
【MN】 いや、しなかったですね。どんな店があるかというのは覚えてないですね。あと、あそこから出前をとったかな。一ツ木通りの鳳月堂(閉店)といった。今でもあるのかな。洋食屋があって。
【聞き手】 鳳月堂。洋食とお菓子とある。
【MN】 ああ、そうですか。そこから洋食は出前をとっていましたね。そば屋は青山1丁目の角からですね、とっていたのは。
【聞き手】 水内庵ですか。
【MN】 何屋さんといったか。本当に青山1丁目の角にあったですね。
【聞き手】 ありました。地下鉄の入り口の上ですね。
【MN】 うん、そうそう。地下鉄の入り口の上ね。
【聞き手】 鳳月堂さんはどんなメニューなんですか。今はお菓子しかやっていませんけど。
【MN】 当時、普通の洋食、とんかっだとか、ハンバーグとか、オムライスとか、そんなものだったですね。
【聞き手】 そして、青山1丁目の。
【MN】 そば屋。これはカツ丼だとか、普通のそばだとか、そこからですね。寿司屋が、青山通りをずうっと行って、外苑の並木通りの次の交差点のところの角に新寿司というのがあったんですね。そこからとっていましたね。当時はチラシが入るとか、そういうのはないですから、何かの拍子に1回とると、そうなるんでしょうね。
【聞き手】 「新しい」という字を書くんですか。
【MN】 新しい寿司です。今はないですね、それは。
【聞き手】 あっ、そうですか。やっぱり自転車で出前に来ていたんでしょうか。
【MN】 自転車ですね。
【聞き手】 大使館はそうですけど、この塾のミーティングのときに、終戦後、比較的軍用機みたいなスペースがあったような議論がされて、私も全然不案内なんですけど、ちょっとその辺もし。
【MN】 昭和30年になれば、何もその面影はなかったですね。近衛第三連隊とか、そういうのがあったんでしょ。その土地は、だから何にも建ってないで、塀になったから中は見えないんですけど、しばらくそのままになっていたですね。この三分坂をおりて、その先のところですね。
【聞き手】 TBSの上は引揚者住宅があったそうです。それで、長屋のようなものが建っていて、それがしばらくしてTBSになったというお話です。それから、代々木公園もワシントンハイツといって、占領軍がいたらしいんですけれども。
【MN】 外苑、いたかな。
【聞き手】 もう25年で占領は終わっていますからね。
【MN】 そうね。あそこは港区じゃないから、ちょっと関係ないんですけど、三宅坂の最高裁判所のあるところはかまぼこ兵舎がずらっと並んでいましたよ。
【聞き手】 私なんかの思い出だと、70年代なんですけど、70年代の安保反対とか、ベトナム戦争反対とかというと、結構赤坂見附あたりからデモ隊が毎日出ていたんですけど、国会が見えるくらい近いわけじゃないですか。いかがですか。60年安保なんていうのは何かあったんですか。
【MN】 しょっちゅうこの青山通りはデモが歩いていましたね。
【聞き手】 あっ、そうでしたか。
【MN】 だから、声は聞こえてきましたけど、そんなのは眺めに行くんじゃないと言うから。だけど、安保のころは、別にこの辺は被害も何もなかったですね、投石するだとか。というのは、あの安保で歩道が全部アルファルト化されちゃったんですよね、東京中が。
【聞き手】 あっ、そうなんですか。
【MN】 それまではみんな四角い敷石だったですね。だから、水吐けがよくて浸透したんですけど、その後、全部それを外して、壊して投げないようにアスファルトにして、最近また、きれいになってきたですけどね。
【聞き手】 御影石を四角に切った石が埋まっていたわけですよね。
【MN】 御影石じゃないです。コンクリートだけども、四角いのがずうっと歩道に敷いてあったですね。
【聞き手】 それがアスファルトになっちゃったんですか。
【MN】 そう、歩道全部ね。特に新宿なんてみんなそうしちゃったですね。新宿が一番拠点だったですからね、安保のときの石投げる。
【聞き手】 そんなのは知りませんでしたね。お母様はおうちにいらしたんですか。
【MN】 そうです。
【聞き手】 おうちでは、例えば女中さんなんていうのは。
【MN】 いましたね。だから、当時のうちは女中部屋がありまして、3畳のね。ただ、昭和30年代になったら、もうその時代でもなくなったんですね。女中部屋にいつまでいたのかな。まだ昭和20年代の世田谷にいるころのほうが女中はいましたね。2人ぐらいいて、それも全部東北の山形出身とか。
【聞き手】 女中さんがいつごろからいなくなったって、比較的普通のおうちでも女中さんがいるということが珍しくなかった時代がしばらくあったんですけれども、そういうことがなくなったのはいつごろなんだろうなって。
【MN】 32、3年じゃないかな。だから、昭和20年代は当たり前だった。昭和20年、30年ごろって給料覚えていますよ。小遣いあげていたから。3,000円だったですね。僕が覚えているのが30年ごろでしょうね。3,000円で、三食食事つきですよね。そのかわり休みは盆と暮れだけ。
【聞き手】 あっ、やぶ入り。
【MN】 やぶ入りですよね。当時ね。それで、朝から晩までですよね。
【聞き手】 そうですよね。
【MN】 寝るとき以外はという。あれ、結構つきかったんだろうな。それしか食いぶちがなかったんですよね。女性の東北の農家の口減らしとちゃあ。だから、今はフィリピンなんかへ行くと、本当にどこでもメイドがいるのが当たり前なんだか。
【聞き手】 お母様の服装なんていうのはその当時は。
【MN】 もう洋服ですね。うちの母親は大正11年生まれで、まだ健在なので、そっちのほうがよっぽどしゃべるほうかもしれないけど。
【聞き手】 でも、お元気ですね。だって90……。
【MN】 90か91ですよね。戌年ですから。まだ1人で歩けますからね。
【聞き手】 ご家庭でよく三種の神器なんていう電気製品が。
【MN】 うちは裕福だったと思うんですよね。テレビは日本というか、東京というか、千何番ですよ。
【聞き手】 あっ、番号がついているんですか、製造番号というか。
【MN】 違う。NHKとの契約番号です。1番から始まって。ですから、表札のところに契約のプレートその番号がね。多分あれは一連の番号だと思うんですよ。三種の神器としてはテレビが。うちには、ですからNHKと日本テレビの開局当時からあったっていうことですね。だから、当時のテレビは、日本テレビなんていうのはお昼に2時間ぐらいと夜4時間ぐらいしかなくて、アナウンサーだって1人か2人ぐらいで、毎日同じ女の子がしゃべっていたという。
【聞き手】 あと、洗濯機なんていうのは。
【MN】 洗濯機はありました、もうそのときに。一槽式で、ぐるぐるこうやって手で回す絞り機がついていたですね。
【聞き手】 そうですね。
【MN】 それから、冷蔵庫はもちろんあったし、車も、うちが車を最初に買ったのは昭和26年なんですよ。もちろん当時、小型車ですけども、国産はないですから、国産の戦前のダットサンを中古で買ったんです。それで、昭和26年には番号が、今と同じ小型車は5ですから、5の625というんですよ。だから、東京で625台目だったと思うんです。それで、昭和29年にその車を買いかえて、小型の外車を買っているんですけども、これはたしか5の6649。思い出すんだな。
【聞き手】 すごいですね。少年の記憶力たるや。
【MN】 だから、多分6600何番目というね。それぐらいの車の数だったんじゃないですかね。
【聞き手】 その外車は何だったかと覚えていらっしゃいます?
【MN】 イギリスのコンセルというやつですけどね。当時買った値段というのは親が自慢していたから覚えているんですけど、130万円と言っていたですね。
【聞き手】 今の130万円と違いますからね。昭和29年ですからね。
【MN】 多分、何倍ですかね。10倍ぐらいですか。
【聞き手】 高度成長期の前ですからね、オイルショックとか。
【MN】 当時の都電の料金が8円だったんですよ。何で8円というのがすごく印象があるかというと、当時、料金10円払うと、2円ずつおつりがくるわけですね。それで、当時は玉じゃなくて1円札ですから、1円札を2枚ずつこういうふうに折ったやつを、車掌が全部2枚ずっ折って持っているわけです、束にして。それで、はい、2円、2円っておつりをくれるわけです。
【聞き手】 それから見ると大体20倍ぐらいですけどね。
【MN】 その後、10円になって、15円になったんですね。
【聞き手】 お札だったんですね。
【MN】 10円玉が出たのが昭和27年ごろでしょ。
【聞き手】 1円札。
【MN】 1円札ですね。
【聞き手】 おもしろいですね。都電の車掌が2枚ずつ折っていて。
【MN】 そうそう。それをこうやって束にして持って、ずうっと都電の中で切符を売って、あれしてね。
【聞き手】 家庭生活についてはそのぐらいかな。あと、ご兄弟の数なんていうのはそのころは。
【MN】 兄弟、僕は4人です。私が長男です。
【聞き手】 男の方……。
【MN】 男、男、女、女ですね。僕は長男で18年生まれ、一番下が昭和26年生まれで。
【聞き手】 ああ、そうですか。おじい様やおぱあ様というのは。
【MN】 おじいさんというのは、僕が物心つく前に亡くなっているので知らないんですよ。おばあさんは、母方は昭和40年ごろまで生きていましたけど、父方は昭和30年ごろに亡くなったのかな。
【聞き手】 じゃ、ご一緒にお住まい、3世代同居ではなかった。
【MN】 .僕は住んでないですね。
【聞き手】 そうですか。じゃ、4人兄弟だけれども、核家族ですね。
【MN】 核家族ですね、ずうっと。
【聞き手】 それに女中さんがお1人ぐらい。
【MN】 そうです。父方というのはうちが新宿にありましたから、わざわざこっちにいなくても、結局うちのおやじは5男で、分家ですからね。
【聞き手】 なるほど。ご両親の面倒を見るということ……。
【MN】 見るというのはなかったんですね。
【聞き手】 なるほど。
【MN】 当時は多かったんですね、子供が。うちのおやじなんて12人兄弟だった。
【聞き手】 そうですか。
【MN】 ただ、成人したのは5人だけだと言っていましたけどね。そういう時代なんで5人とも戦後まで、ついこの間まで生きていましたけどね。
【聞き手】 お父様は大正生まれですか。
【MN】 大正7年。母が大正11年。
【聞き手】 やっぱりお父様の世代とMNさんの世代とでは、兄弟の数とか家庭生活は随分違いますよね。
【MN】 多分そうですね。
【聞き手】 戦前の方のお話を伺ったらば、明治の末期生まれのお父様、お母様が多くて、わりと大正ロマンのころに青春を過ごしているから、ご両親がリベラルだったと言うんですよ。MNさんのご両親の世代というと、大正2桁とか1桁の終わりぐらいで。
【MN】 そうそう。それで、結婚したのが昭和17年ですから、もう戦争に入っているんですね。それで、うちのおやじは戦争に行きませんでしたから。体が弱いとうまく言ったらしいんですけどね。
【聞き手】 ご両親というのは今の家庭なんかと比べてどんな。
【MN】 やっぱり厳しかったですね、おやじは。特に食事の作法なんていうのはうるさかったですね。
【聞き手】 お食事の作法ってどんなことを言われましたか。
【MN】 まず、こういう食べ方をしちゃいけないと。
【聞き手】 ひじをついちゃいけないということですね。
【MN】 これは今、テレビで見てもひじついてやっている。よくあんなのテレビでもやるな、なんて思ってね。もう必ず。それから、こうやって食べるのもだめね。必ずこうやって食べうと。ただ、よく言う1つとったらこうやってやれとか、そういうのは言わなかった。自由に順番どおり食べうとか、それがあったですけど、一番言われたのはひじつく。食事の作法ではあとは覚えてないな、何言われたか。
【聞き手】 あとは日ごろ常にお父様がおっしゃっていたようなことというのは、お子さんたちに。
【MN】 何言っていたかな。
【聞き手】 お仕事でお忙しくて、あんまり接触がなかったんでしょうかしら。
【MN】 だけども、うちで必ず食事はしていましたから。朝出ていくのは早かったですけどね。
【聞き手】 必ず夕食時にお父様がいらっしゃるというのは、今はなかなかできないことかもしれないですね。
【MN】 だから、夕食時に帰ってきていましたから、必ず風呂はおやじが最初に入るという昔ながらのあれをやっていましたね。
【聞き手】 お父様がお母様をお呼びになるときに、何とお呼びになっていらっしゃいました?
【MN】 何て言っていたかな。覚えてないな。
【聞き手】 「あなた」とか。
【MN】 いや、それは言ってない。「おい」とかだろうな。
【聞き手】 お父様がお母様をお呼びになるのは多いかもしれませんけど、お母様がお父様をお呼びになるときは。
【MN】 「お父さん」かな。
【聞き手】 ああ、なるほど、なるほど。お父様のほうは「おい」なんですね。
【MN】 「おい」だね。(笑い)
【聞き手】 じゃ、お母様やお父様はお子さんをお呼びになるときには。
【MN】 母親は、僕なんか尚彦って言うんですけど、「尚ちゃん」「尚ちゃん」。今でも「尚ちゃん」ですよね。おやじは「尚彦」って言っていたかな。
【聞き手】 なるほど。それで、例えばお父様にお母様がお話になるときには、敬語でいらしたんじゃないですか。いかがですか。
【MN】 いや、覚えてない、それは。
【聞き手】 そうですか。
【MN】 ただ、絶対服従みたいなね。だから、家計のお金は完全におやじが握っているわけでしょ。当時は財布ね。だから、小遣いというか、生活費をもらうのに苦労していましたね。その交渉が時々、どうしてもきょうは幾ら欲しいとか、そういう交渉。だけど、結構今思えば自由な生活をしていたと思いますよ。例えば三越とか伊勢丹とか帳簿につけて、月決めですから、当時としては。今で言うクレジットで買うようなものですよね。
【聞き手】 帳簿で帳面買いっていうか。
【MN】 帳面買いというわけで、どこに回しておいてというやり方ですよね。それがデパートの顧客の扱いですか。
【聞き手】 じゃ、外商でいらした?
【MN】 外商でもあるんだろうな。
【聞き手】 お帳面で月払いでというのは、普通の方が普通の売り場でお買いになるのとはちょっと違うんじゃないですか。私、ちょっと家庭生活でお聞きしましたけど、YNさんいかがですか。
【MN】 僕の子供の時代ですね。僕の時代しか知らないんですよ、とにかく。
【聞き手】 やっぱり暁星しかですね。
【MN】 ただ、暁星小学校は当時、昭和25年に僕、1年生なんですけど、当時、40人ずつの2クラスで、理想的な人数だったですね。
【聞き手】 そういう中で、今、少子化で子供さんが、この地区もあまり子供を見かけることがないんですけど、MNさんが昭和20年代、30年代、40年代ずうっと暮らしているときに、MNさんの目に映った同級生とか、同級生以外でも構いませんけども、当時から子供さんの影というのは、このエリアというのは印象が薄かったのか。
【MN】 薄いですね。表で子供が遊んでいるという風景はなかったですよ、この付近。というのは、お屋敷ばっかりあったということかな。
【聞き手】 そういうことですよね。遊ぶんなら家の中なんです。
【MN】 じゃなくて自分ちの庭で。
【聞き手】 自分のうちという意味ですけど。
【MN】 結局公園で遊ぶだとか、道路で遊ぶのは庭がない人だという、遊ぶのは庭で遊べって。
【聞き手】 そうですよね。
【MN】 だから、今、僕の孫が赤坂小学校の1年なんだけども、何クラスあるか聞いてないな。それは区役所に聞けばすぐわかるんでしょうけど。
【聞き手】 この間、赤坂小学校の3年生の課外授業に私たちのメンバーで2、3人で行ってきたんですけど、2クラスでしたね。今、2クラスずつみたいですね。
【MN】 2クラスでも今そこは3校が統合されていて、赤坂小学校と檜町と氷川小学校も一緒になって、3校が一緒になっているから、人数的にはやっぱり少ないですね。だけども、港区自体の人口は増えているんですよね。一時期16万ぐらいまで減ったんじゃないかな。
【聞き手】 今、海側のほうで増えているみたいですね。
【MN】 あっ、向こうでね。この地区はそんなに変わらないよな。外人が多くなってきた。
【聞き手】 そうですね。あと、今、小規模なマンションがすごいですね。赤坂6丁目だとか、あの辺の狭いところで、赤坂台もそうなんですけど、昔だったら商店街があったところが全部入り口からマンションとかホテルになっているので。
【MN】 今、赤坂小学校の前なんか、みんなマンションなんですね。
【聞き手】 そうですね。空き地になったり、駐車場もどんどんマンションにかわっているので、まちの機能としては赤坂通りぐらいはマンションやめてほしいという。
【MN】 赤坂通り、あそこね。あそこはまだ商店街としてずうっと残っていますよね。
【聞き手】 そうですね。ちょっと昔に比べればというか、1階そのものが全部マンションのつくりになっちゃっているので、昔であればお店が1階に入って、上がマンションというんなら、そういうお店もありますからいいんですけど。
【MN】 そういえば、赤坂小学校の前に昔からの電気屋と文房具屋があって、そこの電気屋は今でもありますね。
【聞き手】 ありますね。光田さんってね。
【MN】 あれはね。
【聞き手】 当時から、今でもそうですけど、私立のいい小学校が都心部にたくさんありますから、赤坂からそういうところへ通う方って結構いらしたと思うんですよね。だから、きっとMNさんの隣近所のお宅でも、私立に行っていらっしゃる方たちっていらしたんじゃないですか。それはご存じないかしら。
【MN】 隣近所、僕の兄弟はみんな私立なんですけどね。男は暁星で、女は白百合でという。
【聞き手】 皆さんカトリックの学校にいらっしゃって、しかも九段のほうに。
【MN】 ただ、周りにはそんなにはいなかったな。
【聞き手】 そうですか。
【MN】 今と変わらないんじゃない?今でもうちの前を、朝、暁星に行く制服は時々見ますけど。
【聞き手】 失礼ですけど、暁星から上の学校にはどちらにお進みになったんですか。
【MN】 僕は中央大学なんですけど、やっぱり神田なんですよ。ずうっと、だから何年間も。
【聞き手】 それで神田弁が余計に。それで、本屋さんがたくさんありますしね。
【MN】 神田はね。
【聞き手】 学生街もありますしね。済みません。暁星というのは中高一貫?
【MN】 小中高が。
【聞き手】 フランス語は何年生ぐらいから教えていたんですか。
【MN】 小学校の1年からですね。ところが、全然しゃべれないですね、やっぱり。今の英語教育というか、それと同じですよね。結局文法だとか、そういうことを教えて、しゃべるほうじゃないでしょ。
【聞き手】 じゃ、お読みになるのはもう?
【MN】 できないですね。やっぱり社会に出て必要だったのは、フランス語じゃなくて英語だったから。
【聞き手】 ああ、なるほど。でも、フランス語とつづりが同じものって結構多いから、何となく英語をお読みになっても。
【MN】 使ってないとね。でも、僕らの同級生とかにはフランス語を生かして就職とか、そっちのほうに進んだのもいますよね。外交官やっているとか。
【聞き手】 いかがですか、トピックスのほうで。基本的には青山通りとか、MNさんの近辺で置きかわったのは、やっぱり東京オリンピック前後という。
【MN】 そうですね。
【聞き手】 見附の交差点もそうでしょうし。
【MN】 見附の交差点、それから青山一丁目の交差点もそうですね。ただ、青山一丁目の交差点が再開発されたというと、今のツインビルが建ったり、ホンダが建ったりというのは昭和50年以降じゃないですかね。
【聞き手】 ホンダはたしか昭和50年以降ですよね。ツインビルはもうちょっと前からあったような気がしましたけど。あと、都電がなくなったというのも大体……。
【MN】 都電がなくなったというのは、昭和45年ごろはまだありましたね。やっぱり昭和50年ごろですかね。あれは何でなくなったんだろうな。一遍になくなったですよね、東京都内。そういう方針だったんですね、あれ。かわりに地下鉄ができたということでしょうね。
【聞き手】 これ、ちょうど昭和29年から40年ぐらいまでにかけて、日本ってものすごく変わっていったと思うんですけど、その時代に小学校高学年から中学、高校というふうに進まれた中で、ご自身が情報を得るメディアというのはどういうふうに変わっていったんでしょうか。
【MN】 やっぱりテレビですね。おかげさまでうちは早くからテレビがあったので、テレビにかじりつくというのが多かったですね。だから、テレビができてからというのは、ラジオを聞く機会がなくなっちゃったですね。だから、うちにラジオがあっても、ただ、テレビは一家に1台ですから、ラジオは何とか自分の子供部屋にもあったから。
【聞き手】 ああ、なるほど。
【MN】 各部屋にはラジオはあったんだな。テレビが一家2台になったのは、東京オリンピックのころですかね。ただ、東京オリンピックのときには、うちは残念ながらカラ一にはなってなかったです。東京オリンピックは、僕は見に行ってないんですけどね。神宮の国立競技場がメーン会場ですけどね。昭和32、3年かな、第3回アジア大会があったんですけど、それは見に行ったんです、国立競技場に。昔の神宮競技場ですけどね。
【聞き手】 ごめんなさい。もう1回おっしゃっていただきますか。
【MN】 第3回アジア大会。これは昭和32、3年じゃないですかね。それは見に行きましたね。
【聞き手】 意外と地元の方はオリンピックを見てないという方、いらっしゃるんですよね。青山通りに例えばアベベを見に行くとか、そういうのはなかった?
【MN】 そういうのはなかったんだけど、アベベは青山通りを通ってないと思うんですよ。というのは、国立競技場から府中に走っているんです。ですから、中央道というのか、国道20号、あっちがアベベのコースですから、こっちへ来てないんですよ。
【聞き手】 なるほど。だから、オリンピックを見物に行くというだけではないんですね。
【MN】 折り返し点が府中だったですから、東京オリンピックは。それ以上にあとはマラソンが時々ここを、オリンピックじゃなくても。それで、今の皇太子がまだ小さいころ、東宮御所の柵の上にこうやって眺めているのは何回か見まして、マラソンなんかを。隣にお付きがいたのかどうか覚えてないな。あれ、皇太子がいるよなって。
【聞き手】 今の皇太子ですね。浩宮ですね。
【MN】 そう。あれが小さいころですね。
【聞き手】 警備上、問題なかったわけですね、こうやって見ていても。
【MN】 そうそう。あの柵越しにね。だから、多分警備の人にあそこまで裏側から上げてもらったんでしょうね。
【聞き手】 あとは年代的に、外堀通りに自動車街があったとかなんとかという話が出たんですけど。
【聞き手】 そうですね。見附から溜池のほうにかけてですよね。
【MN】 あそこは全然歩いてない地域ですね、僕は。結局、通学はこの赤坂見附までこの坂をおりて、そこから三宅坂に行っているのが通学路だから、赤坂見附から虎ノ門というのは全く歩いてないというか、そこを通るときは地下鉄で通っているという。
【聞き手】 そうすると、青山通りの両側というのはどんな様子だったんですか。
【MN】 青山通りは、こっちから行くと、青山1丁目からずらっと商店が並んでいるという状況じゃなかったですね。かえって商店が多いのは、今で言う外苑前から表参道にかけてのほうが両側に商店がずうっとありましたね。それからずうっと青山の青山学院の手前までは商店街だったんじゃないでしょうか。ずうっと商店が並んでいましたね。
【聞き手】 カナダ大使館から赤坂見附の間というのは。
【MN】 向こう側は御所があって、その次が虎屋があって、それから豊川稲荷があって、そこから先何にもなかったんじゃないかな。今ある鹿島建設とか、あの辺は商店はなかったんじゃないかな。こっち側も何にもなかったんですよ。今と同じ、赤坂区役所があって、隣が赤坂警察。これも昔からですよね。それから、その後は赤坂小学校があって、商店はあったのかもしれないけど、記憶にないですね。
【聞き手】 そのころ小中学生の坊ちゃんでいらしたMNさんの1日の生活って、典型的なのはどんなふうな。
【MN】 僕、小学校のときから朝6時半にうちを出ていったんですよ。
【聞き手】 え一っ。でも、都電で10分なのに。
【MN】 うん。だから、学校に大体1番に着いて、帰ってくるのが3時、4時ですかね。放課後、学校で1時間か2時間遊んで帰ってくるという普通だったですね。
【聞き手】 帰っていらしてからはどんな。
【MN】 何していたかなあ。うちの中ですよね。結局、模型で遊んだり、工作大好きだったから、そういうのをやっていたですね。
【聞き手】 兄弟4人でいろんなことなさるんでしょうか。
【MN】 いや、しなかったですね。単独行動だったですね。
【聞き手】 じゃ、やっぱり1人1部屋おあり?
【MN】 1人1部屋だったのでね。それは昭和29年に新築したときに、そういう部屋割りでつくっちゃっていたんですね、おやじが。
【聞き手】 なるほど。じゃ、近所のお友達と遊ぶということもなかったっておっしゃっていましたよね。
【MN】 近所の友達というのは学校の友達だけですから、この近所の。だから、放課後、学校で遊んで、それで帰ってきて終わりという。
【聞き手】 お勉強なんかどんなふうに。
【MN】 勉強はやっぱり家庭教師ですね、当時は。
【聞き手】 どんな科目を教わっていらしたんですか。
【MN】 全般じゃないかな。
【聞き手】 あっ、そうですか。やっぱり東大生かなんかですか。
【MN】 小学校時代の家庭教師というのは東大生なんですけど、もう友達ですね。小学校時代の家庭教師は夏休みには一緒に避暑に行くとか、そこで夏休みの勉強をするとかね。
【聞き手】 じゃ、一緒なんですね、避暑地まで。
【MN】 そうそう、避暑地まで一緒で。結局、東大生でも東京に下宿している人ですから、かえっていいんですね、こうやって一緒に遊んだほうが。三食つきのあれですからね。
【聞き手】 東京に残っていても困るし、田舎に帰っても仕方がないですからね。
【MN】 そうそう。
【聞き手】 なるほど。避暑地はどちらに?
【MN】 うちは母親が箱根の出身なんですよ。だから、箱根が避暑地で、疎開も箱根なんですよ。箱根宮ノ下ですけどけね。
【聞き手】 それはいいですね。行けばおじいちゃま、おばあちゃまにも会えるし、避暑も疎開もできたっていう。
【MN】 そう。それで、うちの親は箱根の旅館の娘ですから、行けば泊まるには何も苦労しないし、飯も苦労しないしという。
【聞き手】 あっ、本当ですね。
【MN】 これは母親の親の代がかわるまではずうっとそんな生活をしていましたね。だから、昭和30年代までは、夏休みになればそこへ行って1カ月もいるというね。
【聞き手】 昭和30年代の……。
【MN】 終わりごろまでですね。それが、代がかわっちゃって、疎遠になっちゃったという。
【聞き手】 なるほど。そうすると、小学生のときから東大生の家庭教師がついて、毎年、夏は箱根へいらしてというのが中学生ぐらいまでですか。
【MN】 小学生ぐらいまでかな。中学生のときは1人で行っていたですね。
【聞き手】 中学生ぐらいになると、もう家庭教師じゃなくて1人で。
【MN】 1人で行ったね。
【聞き手】 家庭教師はふだんの生活ではついていたんですか、中学でもやっぱり。
【MN】 ついていたというか、生活までは入ってこないけど、週に2回ぐらい来て、2時間ぐらいですか。
【聞き手】 そうなると、小学生みたいに全般の科目というんじゃなくて。
【MN】 じゃなくて特定のをやっていたんだろうな。
【聞き手】 英語とか数学とか。
【MN】 英語とか数学。逆に、僕は数学は得意だったから、数学はなかったと思うな。
【聞き手】 なるほど。じゃ、英語だったんでしょうかね。
【MN】 英語だろうな。
【聞き手】 なるほど。数学お得意でいらしたというと、大学の学部は?
【MN】 工学部です。
【聞き手】 ああ、やっぱりね。なるほど。昔は塾に通うとかっていうんじゃなくて、特にお屋敷の生活だと、やっぱり家庭教師が来てくれるというのだったんですね。
【MN】 ああ、そうですね。僕らのころも塾はありましたね。研数へ行ったりなんかしていたのもいますからね、高校時代。高校時代だから昭和30年代の一番終わり、昭和35年から37年ぐらいが高校時代ですから。
【聞き手】 ご自身は研数とか、そういうところは。
【MN】 僕は行かなかったですね。
【聞き手】 そうですか。家庭教師は高校には。
【MN】 高校のころはどうだったかな。ほとんどいなかったんじゃないかな。
【聞き手】 じゃ、ご自分で勉強するようになっていらしたんですね。
【MN】 していたですね。
【聞き手】 MNさんの場合は暁星へ行かれていたんですけど、ちょうどMNさんの世代から6、7年ぐらい後に生まれた、ベビーブームかなというのは、MNさんの年代の方から見て。
【MN】 ベビーブーム。
【聞き手】 ベビーブーム、団塊の世代というのが、どこへ行ってもMNさんの数年下に塊でいたんですけど、それを今までの生活の中でちょっと感じられたことというのが何かあれば。
【MN】 あまり感じなかったな。
【聞き手】 ああ、そうですか。ちょっとこの辺の土地柄ですと……。郊外なんかですと、小学校とかクラスが急増したとかですね。
【MN】 暁星は、僕が小学校を卒業するまではクラスは増えてなかったですね。その後、増えているんですよね、現在も。というのは、経営がそういうふうに変わったんでしょうけどね。
【聞き手】 暁星や白百合にお子さんを通わせるということは、お父様かお母様がカトリックでいらしたんですか。
【MN】 いや、カトリックじゃないんですよ。うちの母親が白百合出身なんです。それでなんですね。うちのおやじはずっと公立ですから、四谷何とか小学校ってね。それで、高校はどこだったかな。今で言う新宿高校のところですよね。ただ、うちの母親がずっと白百合だったから、それがあれしたんでしょうね。
【聞き手】 箱根から白百合?
【MN】 通えないから、寄宿舎なんですよ。
【聞き手】 寄宿舎にお入りになって。
【MN】 だから、戦前、寄宿舎ですね。
【聞き手】 そうすると、小学生じゃ無理ですよね。小学生からですか。
【MN】 小学生は箱根ですね。尋常温泉小学校と言っていましたね。中学からですね。
【聞き手】 じゃ、女学校ですよね、昔でいうと。
【MN】 そう、女学校から。大学は行ってないですから、女学校出なんですね。ただ、寄宿舎にいた人はみんな信者になっていたのが多かったようですね。
【聞き手】 それで九段のあたりの学校、暁星とか白百合とか、ほとんど兄弟みたいな学校ですから、そういう……。
【MN】 ああ、そうそう。昭和20年代の九段の白百合なんていうのは、あそこは戦争で焼けていますから、校庭なんかに僕行ったことありますけど、瓦れきになっているんですね。.暁星は高校は焼けたんですけど、小学校は焼けてないんです。木造の校舎そのものは焼けてない。
【聞き手】 あっ、そうなんですか。さっき、29年に越していらしたころは、空き地が多くてとおっしゃっていましたけど、いつぐらいからまちが復興したというか、おうちがすき間なく並ぶようになったんでしょうか。
【MN】 うちの一角が全部埋まったのは昭和34、5年じゃないですかね。5、6年たっていますね。分譲地で売れていたけども、みんな家は建てなかったのかな。うちの隣が吉川英治だったんですけど。
【聞き手】 あっ、わかりました、場所が。中央マンションの隣あたりですね、お宅様は。
【MN】 中央マンションって、僕、わからないんだけど。
【聞き手】 ああ、そうですか。是清公園を入ったすぐ左手の吉川英治の屋敷跡に建っているんですけど。
【MN】 あれ、中央マンションっていうんですかね。
【聞き手】 はい。昭和35年ころにお宅の分譲地の8軒があった。
【MN】 あったですね。だから、吉川英治はうちの隣の自分の自宅で亡くなったんですよね。よく屋根の上の物干し場から眺めていましたね、着物姿で。
【聞き手】 吉川さんは何年ごろにいらしたかって覚えていますか。
【MN】 引っ越してきたのは、うちから3年ぐらい後だと思うんですよ。
【聞き手】 ということは昭和32年ぐらい?
【MN】 昭和32年ぐらいですね。ずうっと空き地があって、ただ、うちのおやじがちょっと買い増しをしたいと言ったら、もう売れちゃっているって言われたらしいから。
【聞き手】 なるほど。じゃ、吉川英治さんとお隣同士だったんですね。
【MN】 そう。お隣だから、ずうっとつき合っていましたし、僕と同じぐらいの娘がいたんですね。つい2、3年前までいましたからね。建てかえたマンションになっても、一番上に住んでいたんですよね。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。おつき合いはあったんですね。近所つき合い。
【MN】 近所つき合いは本当の近所だけですね。会えば会釈をするぐらいですね。今は全くないですけど。だから、吉川さんが引っ越すときも、黙って行っちゃったですもんね。だから、知らなかったです。ただ、今でも登記上ではなっていますね。兄弟全部登記の中に入っていますから。
【聞き手】 なるほど。だから、お屋敷町で、門と塀があるようなおうちの隣近所のおつき合いというのは、外で会えば会釈をする程度ということですよね。
【MN】 そうそう、本当にそうですね。だから、それ以上の会話はないという。
【聞き手】 子供たちが遊ぶのも自分の敷地の中だしということですよね。お買い物は出前だとか、御用聞きとかということですよね。なるほど、なるほど。
【MN】 だから、今、うちの一角で、当時から住んでいるのはうちだけになっちゃったですね。うちも今から8年前に再開発して建てかえたんですけど、昔の住宅を。今の森英恵が住んでいるところ、ご存じだと思いますけど、あそこは加納さんといって、千葉県知事をやった方だったんですね。その方がうちのちょうど同じぐらいに建てた敷地で、1番目と2番目のうちなんですけど、当時、加納さんというのは建てるときに下水がなかったんですよ、あの道に。自分の自費で下水を引いたんですよ。新坂の下まで引いたのかな。その下水管にうちのも入れさせてもらったというね。
【聞き手】 下水が通ったのはいつごろなんですか。
【MN】 だから、自費で入れたっていうから、もちろん引っ越してきたときには下水をやったから、水洗便所だったんですけど。
【聞き手】 あっ、そうですか。なるほど。じゃ、引っ越す前に下水を引いたんですね。
【MN】 引いて新築しているんですね。
【聞き手】 その8軒のお家って、そうすると吉川さんと加納さんとMNさんと……。
【MN】 あと、島津さんというの。
【聞き手】 今でもありますよね。
【MN】 ありますよね。やっぱり鹿児島県の島津さんの出ですよね。
【聞き手】 本家でしょうかしら、島津久光さんの。
【MN】 学習院の学長をやられた方ですね。それから、あとはあんまり知らないな。うちの隣はタカハシさんって言っていましたけどね。これは実際、僕は知らないですけど、キリンビールの社長だなんていううわさは聞いたです。それから、うちの裏がオカダさんといって、これはあんまりおつき合いはなかったですね。
【聞き手】 戦前までは別ですけども、戦後で150坪の土地を赤坂でお求めになれるような方たちというのは、それなりの方だったということですよね、8軒の方の顔ぶれをお聞きすると。
【MN】 そうですね。多分ね。それ以外はみんな、僕より前から住んでいたもう一つの区画で、今、大きなマンションが建っているようなところは、それ以前から住んでいた、例えば大山さんだとか、今でも持っているんでしょうね。それから、北澤さんとか、300坪とか500坪持っているような。
【聞き手】 そうすると、お宅のあたりは皆さんわりと敷地が、150坪なんていうのは小さいほうで。
【MN】 小さいほうですね。
【聞き手】 300坪とか500坪とか。
【MN】 500坪。うん。
【聞き手】 もとからいらした方ですね。
【MN】 そうですね。この表通りも住宅だったんです。ここからずっと行けば、草月会館のところは、僕、よく覚えてないんですけど、その隣が高橋公園でしょ。それからカナダ大使館でしょ。その隣は日本曹達という会社だったんですね。今の王子ビルね。それから、その隣は道路公団の方、キシさんといったかな、それの普通の住宅だったんですよ、大きな門構えの。それが青山通りに面していたんですね。赤坂郵便局は今のままで、今、NTTが入っているビル、これは何だったかな、空き地だったような気もするけどね、あそこ。
【聞き手】 新坂町って昔からお屋敷町ですけれども、ここら辺はずっとお屋敷町だったということですね、昭和30年代も。
【MN】 ああ、そうそう。
【聞き手】 いつごろからこう変わったんでしょうかね、こういうビル街になった。
【MN】 ビル街になったのは昭和50年になってからかな。最初にできた家はみんな2階屋の木造か鉄筋の家かという、2階家ですね。それが今の3階屋のマンションになったのは、3階屋というのは規制なんですね、今の住宅地の。10メートルが規制ですから。だから、この近くで第2種住専が残るのはあそこしかないんです。
【聞き手】 私は丹後町のほうだったんですが、第2種住専だったんですよ。
【MN】 丹後町というとこっち側ですよね。
【聞き手】 山脇のあたりです。そうですか。10メートルの規制です。そうそう。だから、うちも3階建てでしたね。
【MN】 3階建てなんですよね。ちょっと大きな土地なら4階建てまで建てられるけどね。
【聞き手】 うちも100坪ちょっとだったので、やっぱりそんな。なるほど。
【MN】 あんまり細々した30坪の土地とか、そういう家はなかったですね。
【聞き手】 なるほどね。ですから、地上げ屋さんなんていうのは来ないわけですよね。ああいう20坪、30坪のお家だったら。
【MN】 まとめてっていうね。
【聞き手】 だから、比較的50年ぐらいまで残って……。あっ、そうか。でも、バブルの時期はもっと後だから。バブルの影響というのは。
【MN】 バブルのときの影響はなかったですね。ただ、おやじがまだ生きているころは、売ってくれというのは大分来たみたいですね。
【聞き手】 なるほどね。昭和50年ごろからビルになって、3階建ての。
【MN】 そうですね。うちが一番あとだったんですけど、うちが再開発したのは今から8年前、2004年なんですけど、吉川さんのところを再開発したのはそれより10年ぐらい前だから、1995年ごろですかね。あそこは土地が広かったので4階建て。結局、最初に建てた家が4、50年たって、みんな再開発という感じですね。だから、その時期でも、再開発といってもみんな代がかわって再開発ですよね。前の人が建てかえるというのは、結局うちは建てかえたですけど、吉川さんのところは東急リバブルかなんかと一緒になって共同開発ですかね。
【聞き手】 今でもそういうふうに再開発なさっても、上やなんかにお住まいなんでしょうかね、皆さん。さっき吉川さんはいらっしゃるとおっしゃったけど。
【MN】 吉川さんはいましたけども、2、3年前にいなくなりましたね。ずうっと住んでいましたけど。それから、島津さんはいるんじゃないかな、一番上に。それから、加納さんのところは売っちゃって、今はいないでしょうね。
【聞き手】 そうすると、住民がいなくなった時期って、おたくの8軒だと、どのぐらいの時期になるんでしょうね。
【MN】 やっぱりバブルのころだ。
【聞き手】 ああ、なるほどね。
【MN】 バブルの前まで。だから、1990年ごろまではまだそんなには。バブルは1990年ごろでしょ、89年とかね。
【聞き手】 じゃ、お宅の近辺に限っていえば、昭和29年にそういうふうに8軒のものが分譲になって、ずうっとそのまんま昭和50年ぐらいまで来て、それから4、50年たってから3階建てに建てかわったりしたけれども、住人が入れかわっちゃったのはバブルのころだということなんですね。
【MN】 そうですね。バブルのころに売っ払ったんでしょうね、みんな。いい値段だったですから。
【聞き手】 あと、自然環境なんかはいかがでしたか。
【MN】 うちはちょっとした小さな庭があったんですけど、セミ、チョウチョ、トンボ、何でもありでいましたね。ところが、この2、3年、セミもいなくなったですね。セミも聞こえないです。今年まだ1回もセミ聞いてないですよね。
【聞き手】 そういえば、いつもはこの青山通りを青山1丁目から赤坂総合支所まで来ると、ミンミンすごかったんですけど、きょうは聞こえないですね。
【MN】 聞こえないでしょ、今年。まだ早いのかもしれないんだけど。
【聞き手】 暑過ぎるのかしら。
【MN】 そういうのがいる環境というのは、多分御所があるからだと思うんですね。それから、鳥は少なくなったな。
【聞き手】 じゃ、お子さんのころは、昭和29年から昭和40年くらいまではどんな生き物もいたんですね。
【MN】 どんなのもいましたね。カエルもいたし、普通の田舎と同じ生き物はいましたね。
【聞き手】 それはお庭に?
【MN】 庭の池なんかもゲンゴロウがいたし、何でもいましたね。カエルもいたし。うちも庭をなくしちゃったからね。
【聞き手】 お庭がなくなったのは再開発のときですか。
【MN】 そうです。結局、敷地の規制いっぱいまで建てちゃって、残りのところを駐車場にしているから、土がないという状態にしちゃったから。
【聞き手】 案外と皆様のお話を聞くと、赤坂って自然がふんだんにあって。
【MN】 だから、うちの隣がカナダ大使館で、あそこは広大な庭があるわけですから、桜見物ができるようなね。今の大使は開放しないけど、4、5年、もうちょっと前かな、大使は桜の時期に庭を1日、2日開放して、大使の公邸なんかも見学できたんですよね、そのときは。
【聞き手】 あっ、そうですか。カナダ大使館が桜のころに?
【MN】 桜のころに開放して。
【聞き手】 2、3日ですか。
【MN】 2、3日ですね。あんまり宣伝してないから。
【聞き手】 じゃ、お隣近所の方たちが口コミで。
【MN】 口コミと張り紙ですね。だから、大使公邸、これは戦前から同じなんですけど、それなんか見せてもらいましたよね、見学コースに入っていて。
【聞き手】 じゃ、お花見と公邸の見学。
【MN】 うん。これなんかそのときの大使による配慮なんでしょうね。
【聞き手】 じゃ、何年間かだったんですね、そうすると。
【MN】 そうですね、それやったのは。今、そういうのは何にもないですから。
【聞き手】 大体昭和何年ぐらいですか。覚えていらっしゃいません?
【MN】 ついこの間みたいだから、平成になってからじゃないかな。
【聞き手】 ああ、そうですか。じゃ、昭和29年から40年くらいまでの間にはそういう経験は。
【MN】 それはなかったですね。
【聞き手】 なるほど。じゃ、カナダ大使館との交流というのは・・…・。
【MN】 いや、ないのと同じですよ。隣でね、結局今でもそうですけど、治外法権のところだもんね。それで、職員宿舎は今でもありますけど、あそこは昔、木造の一軒屋の職員宿舎だったんです。うちの2階からよく見えるんですけど、交流はなかったですね。
【聞き手】 なるほど。草月会館なんかは近いですけど、何かイベントがあったりするといらっしゃったりとか。
【MN】 いや、行かなかったですね。今の草月会館は2代目ですよね。その前は一回り小さかったんです。でも、うちの妹なんか、草月流かなんか習っていたんじゃないかな。そっちのほうがよく知っているんだろうけど。
【聞き手】 そうすると、お出かけになる揚所というのはどういうところだったんですかね。
【MN】 出かける場所は。
【聞き手】 さっき東横が出ましたけど。
【MN】 映画は新宿だったですね、渋谷じゃなくて。
【聞き手】 そのころは丸ノ内線(1954―昭和29年)が通ってからですか。
【MN】 丸ノ内線が通る前ですね。
【聞き手】 ああ、そうですか。どうやっていらしたのかしら。
【MN】 丸ノ内線はいつ通ったんだったけかな。丸ノ内線も通っていたかな、もう。
【聞き手】 新宿の映画にいらしたときには、どういうふうに行ってらしたんですか。
【MN】 バスか都電ね。バスは新宿西口から田町駅東口っていうバスが出ていたんですね。あれ、伊勢丹の前を通って四谷3丁目から、田町行きのバスって青山1丁目を通って、六本木を通って。
【聞き手】 ああ、そうでした。
【MN】 それで、赤羽橋回りと四ノ橋回りと1分置きに通っていたんですね。それから、都電だと青山一丁目の交差点から33番と7番で四谷3丁目へ出て、四谷3丁目から新宿駅行きの都電に乗りかえてという。
【聞き手】 映画は新宿。映画って、昔は若い人たちにとっては大きな娯楽だったみたいですよね。
【MN】 だから、伊勢丹の前ですよね。歌舞伎町へは行くなって言われたから、当時から。
【聞き手】 あっ、そうですか。
【MN】 買い物も伊勢丹が多かったんじゃないかな。
【聞き手】 そうですよね。お父様のお店の目の前だし。
【MN】 ああ、そうそう。その関係だよね。
【聞き手】 やっぱり外商で。
【MN】 そうね。だから、新宿三越と新宿伊勢丹は外商でやる。三越の外商を持っていると、三越の本店とか、あれが全部できたんですね。三越の本店も買い物はしょっちゅうしていたんじゃないかな。あれも地下鉄一本ですからね。
【聞き手】 そうですね。映画とかお買い物とか、あと本屋さんなんかは小中学生のころは地元でしたけど。
【MN】 地元の小さな本屋で買えないものは新宿の紀伊國屋。神田に行くよりは新宿紀伊國屋のほうが多かったんじゃないかな。今のビルになる前ですよね、紀伊國屋が。
【聞き手】 やっぱり娯楽は映画が主ですか。
【MN】 映画だったんだろうな。それだからといって、しょっちゅう行ったわけでもないし。
【聞き手】 じゃ、あんまり遊び回る方ではなかったんですね。
【MN】 遊びはしてなかったです。
【聞き手】 むしろ模型をつくったり、そういう。
【MN】 ああ、そうそう。
【聞き手】 模型はどこで買うんですか。
【MN】 模型は新宿か、渋谷の東横かどっちかだったですね。
【聞き手】 新宿だとどこですか。
【MN】 新宿の紀伊國屋に入る路地のところにあったんですよね、模型屋が。紀伊國屋は新宿通りから一本入ったところにありましたからね。
【聞き手】 あっ、前は今のところじゃなかったんですね。
【MN】 土地自体は同じ場所ですけども、今の新宿通りの、前というのは小さなお店が何軒もある、それで犬屋なんかもあったりね。その奥まったところが紀伊國屋だったんです。
【聞き手】 ああ、そうですか。それとあと渋谷。
【MN】 模型は渋谷の東横のデパートか、どっちかですね。
【聞き手】 全体としては、カナダ大使館の高橋是清公園のそばだったので、全体的には想像つきましたけど、閑静な環境の中で比較的ずっと過ごされたということですよね。
【MN】 ああ、そうですね。赤坂の下町に近いけども、そこは全然知らないというね。
【聞き手】 赤坂というのは多様性が一つの特色のようで、本当に山の手のお屋敷町の暮らしと下町っぽい人たちと。
【MN】 花柳界と。
【聞き手】 花柳界とあって、多様性があるところが特色のようなところで、またお屋敷の暮らしをお聞きすることもなかなかできなかったので、とても貴重なお話しいただいたと思います。だから、隣近所のおつき合いなんかも違うんですね。私のところなんかもそんなに社交術もなかったんですけども、代々ホワイトカラーのうちなものですから、隣近所のおつき合いはおっしゃるとおりなんですよね。おかずのやりとりだか、そんなものないんです。
【MN】 それはなかったですね。うちが余ったからどうとかね。
【聞き手】 そう。あと、調味料の貸し借りとか、そういうこともない。
【MN】 それもないです。一切ないですね。あと、うちがあったのは、周りのうちより先に電話が引かれた。呼び出し電話ね。
【聞き手】 昔はそうでした。
【MN】 迷惑な話なんだけどね、こっちにすれば。何でうちの電話番号を教えるんだなんて。
【聞き手】 そうですね。それから、例えば氷川さんのお祭りなんていうののかかわりもね。
【MN】 なかったですね。ただ、今でも6月と9月の人形の大祓式はやっていますね。
【聞き手】 じゃ、お祭りにはあんまりかかわらないけれども。
【MN】 そういった神事ですかね。だから、うちの子供も孫も全部お宮参りは氷川神社へ行きますし、うちの子供なんか自分で結婚式場を探したんだけど、氷川神社でやっていますから、氷川神社でやるということはそれだけ親しみがあったんですよね。
【聞き手】 やっぱり大祓に年に2回行っていらっしゃるから。あれ、6月と12月ですよね。大晦日ですよね。
【MN】 はい。僕も新春の初詣は氷川神社に行きます。ほかはほとんど行かないけどね。もちろん三ガ日のうち行くというだけで、夜中には行かないですけど。
【聞き手】 じゃ、やっぱり氏神様だという意識を。
【MN】 意識はありますね。だから、豊川稲荷は行かないし、日枝神社も行かないし、やっぱり氷川神社に行くという。それで、明治神宮も行かないし。
【聞き手】 なるほど。おもしろいですね。皆さんカトリックの学校にずっと通っていらして、氏神様をそれだけ。
【MN】 それだけ学校が自由なんです。別に強制しないというね。ただ、小学校のときは宗教なんていう時間があってね。
【聞き手】 学校の気風というのはどんなでした?校風というか。
【MN】 今みたいないじめはなかったですね。中学校になるとやっぱりいじめるというのはあったけど。まあ、真面目だったんじゃないかな。ただ、残念なのは普通の区立の生活を知らないから、僕は。
【聞き手】 それもまた一つの赤坂の住民の姿ですから、そういう方もほかにもいらっしゃるわけですから、そういうお話を伺うのもなかなかないチャンスなので。お仕事、今は引退なさっていらっしゃるんですか。
【MN】 もうリタイアしましたから。
【聞き手】 そうすると、地域とのかかわりというのは。
【MN】 一切ないですね。町会のつき合いもないし、今ね。だから、僕が小さいころは、町会のつき合いというのも奉加帳が回ってくるときに黙って出していたというぐらいでしょう。それ以外のつき合いは何もしない。だから、自治会にあれしたとか。
【聞き手】 そうなんですね。
【MN】 今でも町会はあるみたいですけど、一切知らないですよね。奉加帳も回ってこないですね、今は。
【聞き手】 あっ、そうなんですか。
【MN】 回ってきますか。
【聞き手】 回ってきていました。だから、お祭りのときなんかには寄付はしていましたね。
【MN】 回ってきてないんじゃないかな、今は。
【聞き手】 なるほど。そうなんですよね。だから、それも一つの赤坂のある地域のあり方なんです。
【MN】 多分この新坂の坂をおりた先は、昔ながらの町会とか、そういうのがあるんだと思うんですよね。
【聞き手】 あの坂の上と下で違うんです、赤坂というのは。
【MN】 違うんですよね。それから、この表町も坂の上と下で違うと思うんですよね。
【聞き手】 そうですね。
【MN】 僕、きょうここへ来る前、隣の不在者投票をやってからここへ入ったんですけど、昔の区役所のときの不在者投票は、本当小さいこんな1個のトイレみたいなところでやらされたけどね。
【聞き手】 なるほど。あとほかに、赤坂のまちというのを今まで振り返って、一言で言うと何が一番特色というか、印象に残るというか。
【MN】 静かで暮らしやすいまち。近所つき合いもしないでいいし、昔から。
【聞き手】 わずらわしいことがないですよね。
【MN】 わずらわしいことがないということですね。今でも友達やなんかに赤坂に住んでいると言って自慢できるまちですね。えっ、赤坂なのっていうね。名刺一つ見て、赤坂って言うと。こうやって個人の名刺をつくったのは、リタイアした後ですから、それまではみんなどこへ住んでいるかわからなかったわけですよね。
【聞き手】 なるほど。失礼ですが、お仕事は?
【MN】 仕事は商社。輸入商社に勤めていた。
【聞き手】 じゃ、サラリーマンでいらっしゃったということですね。
【MN】 サラリーマンです。
【聞き手】 そうですよね。サラリーマンで赤坂がご自宅っていう方はなかなかいらっしゃいませんからね。
【MN】 それも親の代から住んでいるから今でも住めるし、それで相続したから、今でも住んでいられるという。
【聞き手】 ご長男でいらっしゃったから。なるほど。
【MN】 相続して、みんな法定どおり相続したので、今、再開発してマンション化したんですけど、各部屋を1人ずつ登記したわけです。だから、4人兄弟が1軒ずつ持って、自分が住まない人はそれを賃貸していいよと。そういう相続の仕方で再開発したんです。
【聞き手】 なるほど。今の赤坂のまちというのをごらんになって、これからどうあってほしいとかね。
【MN】 事務所化されて、どんどんまちが変わっていますよね。これは住んでいる人としては迷惑な話で、これはこの20年ぐらい前からそうですけど、朝なんか、僕は通勤で青山一丁目まで歩いていくんですけど、その間、通勤者は向こうから歩いてきて、わあっと波ですよね。こっちから行くのは僕1人ですから。だから、本当にそれが違うんだなというね。それで、こんな人の流れになったのも、この20年ぐらいですかね。
【聞き手】 なるほど。赤坂見附駅から私なんかはどこへ行くのでも出かけていましたので、もう既に高校生ぐらいのときから、向こうから来るのは大群衆で、こっちから行くのは1人だったんですけど、青山一丁目というのはそうじゃなかったですものね。おっしゃるとおり、20年前ぐらいまでは。
【MN】 大群衆はなかったんですよ。駅も改札がちょこんと1つあったぐらいですからね、昔の駅は。
【聞き手】 結構住宅が多いんですけどね、赤坂っていろいろ調べてみると。確かに赤坂って多面性があるので、事務所外のところなんですけど、居住人数が多いってあまり知らなかったですけど、それが逆に減っているということなんですよね。お屋敷町の跡がマンションになるか、エリアにとっては事務所のビルになってしまうという。
【MN】 結局カナダ大使館のところも4階までは事務所ですから、貸し事務所でしょ。この青山通りもずうっと事務所ですよね。だから、青山一丁目駅からこの辺までずうっと通勤の波ですよね。虎屋のところまでは赤坂から歩いてくる人が多いでしょ。
【聞き手】 そうですね。だから、静かで暮らしやすい自慢できるまちであり続けてほしいということですね。
【MN】 そうそう。赤坂に住んでいて、あと苦労したのは、昔、渋谷、新宿で飲むと、バブルのころはタクシーが来てくれなかったですね。逆にタクシーの運ちゃんは、ここまで乗せれば、あと帰り車はいくらでも拾えるわけじゃない?六本木は。だけども、逆になるんじゃないかと思って、とまってくれないんですね、新宿あたりでこうやって手を挙げても。だから、渋谷から随分歩きましたよ、とまってくれなくて。とまればいい客なんですよ、都心に行くには半分お金になるわけだから。
【聞き手】 郊外に行くんじゃないかと思われちゃうわけですね。
【MN】 そうそう。それで、かえって逆に立って拾うんじゃないかと。
【聞き手】 渋谷、新宿だと、そういうことになっちゃうわけですね。
【MN】 うん。それで、銀座だとここまでも来てくれないというか、もっと遠く狙うわけだから。
【聞き手】 そうですね。銀座で、赤坂で、早い時間ならまだいいんですけどね。
【MN】 終電がなくなった後って絶対だめなんですね。
【聞き手】 じゃ、銀座からもお歩きになった。
【MN】 だから、終電の時間はメモして。ただ、終電というのは、渋谷からこっちって今でも零時10分?銀座線が。それから、新宿からでも零時10分とか、早いんですよね。
【聞き手】 なるほどね。そういう場所なんですね、赤坂というのは。
【聞き手】 近いんですけどね。
【MN】 近いんだけども、3キロもないんです。だけども、酔っぱらったときには、しようがないから1番まで飲んじゃう。(笑い)
【聞き手】 なるほどね。じゃ、サラリーマン生活のときは、どこまで通勤していらっしゃったんですか。
【MN】 やっぱり僕は神田なんです。
【聞き手】 あら、不思議ですね。
【MN】 不思議なんだけど、水道橋だとか。一番最後のときは会社が上野に移転して、上野だったですけどね。
【聞き手】 神田に縁が。
【MN】 縁があるんだよね。
【聞き手】 神田と赤坂って、比べたらどういうあれですか。
【MN】 神田は本当の下町ですよね。こっちは山の手ですが、僕のいるあたりは山の手って大手を振って言えるんだろうけども、本当の山の手というのは違うんでしょ。目黒とか。
【聞き手】 いえいえ。
【MN】 それは違うの?
【聞き手】 それは戦後に言うことで、江戸以来の山手というのは赤坂とか四谷。
【MN】 青山の屋敷街ですね。
【聞き手】 青山なんかは昔、田畑もありましたから、江戸時代は。せいぜい赤坂ぐらいまでなんですよ、武家屋敷が建ち並んで。
【MN】 そうだね。ここは武家屋敷で、渋谷は渋谷村だったんだもんね。
【聞き手】 そうです。
【MN】 渋谷菜があってね。
【聞き手】 江戸の近郊の農家が農作物を持ってくると、梅窓院の門前で売りさばいて、空の大八車に赤坂あたりの下肥をもらって帰るわけですよ。ですから、青山通りでいうと、梅窓院というのが郊外と江戸のまちとの境目。
【MN】 そういえば行商が来ていましたね、朝、千葉とかから。
【聞き手】 なるほど。神田に学校もあり、お勤め先もありという方から見ての赤坂の特色というのがよくわかりました。ですから、赤坂は本質的にはやっぱり山の手なんですよ。その中に、武家というのは純然たる消費階級なので、職人だとか商人がいなきゃ困りますから、後から田畑を埋め立てて、商人地をつくって呼んできたので。
【MN】 多分うちのあの一角も、戦前は一つのお屋敷だったと思うんですね。それがどういう処分で分譲地になったのか。
【聞き手】 そうですよね。そうだと思います。これ、地図いろいろありますから、後で調べてみるときっとわかると思うんですけれども。
【MN】 いい番地だったんですけどね、新坂1番地なんて。
【聞き手】 そうですね。
【MN】 今、本籍地としてその番地だけ残っているんですよね。赤坂8丁目1番地という本籍地ですよ。
【聞き手】 新坂町のあたりは本当にお屋敷が多かったので、華族様のお屋敷かもしれないです。
【MN】 ずうっとレンガ塀だったですね、残っていたのは。
【聞き手】 あっ、それが残っていたんですか。
【MN】 残っていたですね。
【聞き手】 じゃ、そのレンガ塀の中を入ると8軒になっているんですか。そうじゃなくて。
【MN】 そうじゃなくて分譲のときに壊していましたね。壊してあって、基礎が残っているとかね。
【聞き手】 なるほど。きょうはどうも本当にありがとうございました。