赤坂-4
赤坂伝馬町は町工場、小商店、町屋がびっしり。東京オリンピック(1964年)で街が大きく変化
赤坂伝馬町は町工場、小商店、町屋がびっしり。東京オリンピック(1964年)で街が大きく変化
語り部氏名 ES氏(日本料理店主)
男性
生年月日 昭和16年(1941)12月
赤坂で暮らした時期 昭和23年から平成10年頃まで
①主な内容
東向島5丁目(墨田区)で生まれ、昭和23年に赤坂伝馬町に移り住んだ。町工場、小商店、町屋がびっしり建て込んで、近所付き合いが濃いところで、沢山の子供たちも年の隔てなく、一緒に遊んでいた。TBSのある近衛連隊跡は山の上と呼んで、遊び場だった。そこに残った木造兵舎が引揚者向けの長屋で、鶏や山羊が飼われていた。ホテルニューオオタニのところでターザンごっこ、赤坂御所内は職員宿舎の友達のところに行くと言えば、入門OK、監視も受けず遊びに行った。戦災で、氷川小学校に間借りしていた赤坂小学校に入学して、高学年になって新校舎に移ったが、生徒が多いため、二部授業でも教室はぶち抜きで使用できるように工夫されていた。赤坂中学校は米軍基地の隣で金網越しに行進を見ていた。第10期の卒業で、同期に西園寺一晃や十朱幸代などの他、元華族やその粋筋の人もいた。父は銀座8丁目の有名なふぐ料理の「さんとも」一筋の料理人で、常連客との面識も広かった。23歳になって家族全員が協力して自宅に食堂「ひろ野」を開店した。鯖の味噌煮が好評だった。53歳の時、店を新橋に移し、6年続けた。東京オリンピック(1964年)に青山通りの拡幅で「とらや」本店(和菓子)が移転する一方で、鹿島建設などの会社が流入し、元赤坂地区は街が大きく変化した。
②備考
・丹後段々の上に立つと、東京タワーがだんだん出来上がっていく様子が正面に見えた。
現住所
小学校 区立赤坂小学校・赤坂中学校 その後、飲食店を起業
保存資料の状況 テープ起こし原稿 要約 取材シート 表紙
取材者 FK(聞き手1) AH(聞き手2)
取材年月日 平成24年(2012)
旧住所 赤坂伝馬町2丁目―2(現 元赤坂1丁目) 昭和23年頃から
語り部 ESさんの話
【聞き手1】 ESさんみたいにお仕事を持っていたら、赤坂にいる方は少ないですねって言ったら、お二方ぐらい同級生が今でも赤坂でお商売やっていらっしゃるみたい。赤坂まちの歴史伝承塾の座長をしておりますFKです。
【聞き手2】 AHといいます。よろしくお願いします。
【ES】 小学校の統合後も赤坂という小学校の名前が残っただけでもいいなと思ってね。
【聞き手1】 じゃ、やっぱり旧赤坂小のほうですね、旧檜町小学校じゃなくて。
【聞き手2】 山脇学園のところね。
【ES】 山脇はあこがれでした。
【聞き手1】 ああ、近かったですもんね。
【ES】 じゃ、伝承塾も随分長いんですか。
【聞き手2】 伝承塾自体は5年か3年。
【聞き手1】 2年ですかね。その前にまちの歴史で伝承分科会とかっていう名前で3年間やっていて、それでこの間お送りした本(あの日あの頃 戦前編)を出したんですよ。それを引き継いで、今度は戦後の話を聞いておかないと。戦後のことだってだんだんわからなくなっちゃうからということで、ESさんの世代の方にお聞きしようということになっていますね。前は90歳近いような方たちばっかりお話を聞いていたので。
【ES】 そうですね。90歳だったら。
【聞き手1】 だけど、この赤坂だって、戦後から今まですごく変わってきているじゃないですか。だから、変わってしまう前のことって知らない人が多いので。で、ESさんは赤坂のどこら辺に最初お住まいになったんですか。
【ES】 最初はここでいうと、伝馬町って書いてありますか。
【聞き手1】 伝馬町ありますね。ここら辺ですよね。
【ES】 伝馬町2丁目2番地っていうところなんですよ。それで、こっち方に青山通りに面して表町1丁目、2丁目、伝馬町1丁目、2丁目、3丁目と。ここはある面では孤島みたいな、こっち方のほうは川向こうとかなんか、青山通りを隔てちゃうと。
【聞き手2】 別世界になるんですね。
【ES】 別世界というか、友達もこっちへ来ると、ちょっと遠いというかね、学年によってどんどん広がっていくんですけど、そこなんですよね。
【聞き手1】 じゃ、昔、「HR野」さんがあったじゃないですか、お店が。あそこがお住まい?
【ES】 ずうっとそうですね。あそこに昭和23、4年ぐらいから。
【聞き手1】 .ああ、そうなんですか。あのころは伝馬町というのはどんな様子だったんですか。
【ES】 そのころっていうとね。
【聞き手1】 そのころ、覚えていらっしゃるかどうか。
【ES】 戦後数年たっているから。だけど、空襲の残材というか、そういうものは一応片づけられているんですけど、その前にお風呂屋さんがあったとかいう、空き地になっているところとかあると、やっぱり土管とかタイルですかね、あっ、これはお風呂屋さんのタイルだなというような、そういう瓦礫みたいなものが残っていました。
【聞き手1】 空き地にそういうのが残っているわけですね、残骸が。
【ES】 そうですね。だから、空き地はふんだんにあって、遊び場というとね。だから、伝馬町だけでも盆踊り2カ所ぐらいでやれる空き地があるもんで、一緒にやろうとかなんかっていう話もあった。
【聞き手2】 当時、小学生だと空き地で草野球をやったりとか。
【ES】 うん。どっちかというと、私、ビー玉とか、メンコとか、そうなりますよね。あそこの伝馬町でも、狭いところなんだけど、路地が幾つもあって、入り組んでいて、建物といっても、バラックというつくりというのもあったんですよ。だから、魚河岸から来る人が箱を持ってきて、それを壊して屋根をつくるとか。
【聞き手1】 なるほど。本建築じゃなくて、いろんな廃材を利用して。
【ES】 そうそう。廃材を利用して、だから雨が降っちゃうとやっぱり漏れてきちゃうとかね。そうすると、洗面器を置くとかした。そういう時代でも暗さはないですよね。
【聞き手1】 ああ、なるほど。
【ES】 あっけらかんとしてというかね。
【聞き手1】 みんながみんな、そうですからね。
【ES】 そうですよね。だから、その家の家庭が見えるんです。職業とか、なんていうのかな生活ぶりが。
【聞き手1】 なるほど。わかっちゃいますよね。様子を見ていればね。
【ES】 うん。赤坂というと、イメージ的には山の手じゃないけど、一部あるけど、下町的な要素というのは随分あって、お金の貸し借りとかわりとしていました。給料入るまで貸してくださいとか、お米借りるとかね。
【聞き手2】 しょうゆ貸してくださいとか。
【ES】 うんうん。
【聞き手1】 また、伝馬町というのは町家が多いっていうか、本当に小さな商店だとか、小さなお家とかびっしりでしたよね。そのころはまだ空き地があったんでしょうけど。
【ES】 虎屋さんが御所側にあったんですよ、豊川稲荷かなんかのほうに。
【聞き手2】 今の向かい側。
【ES】 そうそう。オリンピックのときに反対側に移った。
【聞き手2】 表町の向かいになりますね。
【ES】 半分ぐらいの敷地しかないというか、青山通りの拡幅で御所側が削られちゃって。
【聞き手1】 虎屋さんなんかは復興していたんですか。
【ES】 虎屋さんはわりと早く。あそこに東京の工場がもうできていて、向かい側へ移った…、それ、ちょっとわからないですけど、すぐにできたのか、後からできたのか。多分後からできたんだ。
【聞き手1】 ESさんが覚えていらっしゃるころは既に営業していて、虎屋さんは。
【ES】 虎屋さんって、最初から営業していましたよね。
【聞き手1】 早かったんですね。
【ES】 黒いトラというか、大きいトラがばっちり玄関のところに見えるんですよ。今はこっちのほうに、中に入っているかもしれないですけど。
【聞き手1】 トラの置物みたいなの。へえ一。
【ES】 虎屋さんというのは黒川さんといって、いろいろ役職をやったりしていたんですね。
【聞き手1】 そうですね。赤坂小学校のPTA会長かなんかなさっていたんですか。
【ES】 ええ、そうですね。それで厚生大臣もやりましたよ。
【聞き手1】 あっ、そうなんですか。私、今のあんなビルばっかりの元赤坂という名前になっちゃいましたけど、伝馬町の戦後のころは空き地もあっちこっちにあるし、バラックもあるし、豊川さんもあるし、黒川さんの虎屋さんがあるし。
【ES】 そうですね。酒屋さんがあるんですけど、柏屋さん、オオハシさんとはよく飲んだりとか、幼友達というかね。
【聞き手2】 ご商売やられている家庭が多かったんですか。
【ES】 商売とか、鉄工所というのかな。新井さんとか、小平という僕の友達がいたんですけど、溶接とかね。
【聞き手1】 じゃ、町工揚とか、商店とかがわりと多かった。
【ES】 そうですね。だから、家庭がサラリーマンというか、そういう感じはあんまりなかった。
【聞き手1】 なるほど。
【聞き手2】 赤坂とは大分イメージか変わる。
【聞き手1】 今おっしゃったとおり、青山通りの向こうの三角州みたいなところですから、町内でまとまっていたというか。
【ES】 そうですね。それと、あと子供が結構各家庭に多かったんですよ。だから、おもしろいのは、縦のつながりという、お兄さん的存在とか、お姉さん的存在とか、そういうどこかの兄弟がつながっているので、兄弟のだれかのうちに一緒に遊びへ行くとか。結構おもしろかったのは、TBSのところは元近衛連隊といって、天皇を守るという連隊でね。連隊の跡は瓦礫があったりして、お盆のころになるとちょうちんを持って、船が出たとかどうとかと言って、小学校の6年生の子が1年生とか、2年生とか連れて来たりするんですよ、遊びにっていうので。だから、TBSというのはその当時から山の上と言っていたんですよ。
【聞き手1】 山の上って言っていたんですね、子供たちの間で。
【ES】 そうですね。山の上と言って。丹後段々というか、あそこに立つとよく見えるんですよね、ちょっと高いところに立つから。赤坂が。
【聞き手1】 丹後坂の上ですね。
【ES】 ええ、上から見るとね。
【聞き手1】 うん、そうそう。そのころの丹後段々の上から見た赤坂のまちの眺めというんですか、景観というのは目に焼きついています?
【ES】 東京タワーができる最初から、あそこへ立つとどんどんでき上がっていくのがね。
【聞き手2】 映画の光景ですね。
【ES】 遮るというものがまずないんですよ。とにかく、すぱっと正面に見えていて、建物ができ上がるまで遮るものがなくてでき上がった。
【聞き手1】 下のほうからは見えていたわけですね、あの丹後段々の上からだと。
【ES】 そこからじゃないと思うんだけど、でき上がっていく過程がね。
【聞き手2】 子供の時代、赤坂御所が目と鼻の先なので、そこでのぞいて怒られたりとか、そういう遊びというのはありませんでしたか。
【ES】 そのころはわりと寛大で、小学校のときのクラスの皇宮警察の子が休むと、給食のコッペパンを届けてくれと言われたりしました。
【聞き手2】 ご自宅までですね。
【ES】 うん。そういうことがあって、中に行くんですけど、全然チェックなし、友達のところへ行くと言えばもうオーケーで、中に入っちゃえば、わりと監視もないので、ちょっと奥へ行ってみようとか、沼があるとか、そんなふうなおおらか。だから、今みたいにあんな警備がなくて、わりといい時代でした。今の迎賓館が一時国会図書館だったんですよ。そっちのほうにもわりと。芝生が広くあって、遊ぶところはかなりありました。
【聞き手2】 昔は迎賓館で遊ぶ。ぜいたくな。
【ES】 ぜいたく過ぎます。
【聞き手1】 そうですよね。
【聞き手2】 さすがだと思うんですね。
【ES】 だから、赤いじゅうたんとかなんかあって、そうやってカビくさいような、なんかしていたんですけどね。
【聞き手1】 じゃ、国会図書館の中にも入られたんですか。お庭の中で。
【ES】 中にはわりと年いってからですね。入館は何歳以上って決まっていますから。
【聞き手1】 そうですよね。小学生は無理ですよね。
【ES】 無理ですね。
【聞き手1】 じゃ、小学生のとき、そこら辺まで地続きだから、ずうっと遊びに行ったわけですか、御所の中から。
【ES】 そうですね。
【聞き手1】 御所の中ってどんな様子なんでしょうかね、お庭やなんか。
【ES】 多分迎賓館と御所とどこかで仕切られるというか、何かあったと思うんですけどね。
【聞き手1】 さっき沼があったとおっしゃっていましたけど。
【ES】 沼というか、そんなね。家内の知っている人があそこにいて、東宮御所を全部案内してもらった。おやじは銀座8丁目で日本料理のフグ屋さんということで、「さんとも」というところで働いていて、当時としてはすごく有名な店です。平仮名の「さんとも」ですね。
【聞き手1】 銀座8丁目の平仮名の「さんとも」さんはフグ料理店ですか。
【ES】 そう。
【聞き手1】 フグの料理人って免許が要ったり。
【ES】 その当時はね。今は何万人といるんだろうけど、その当時、やっているというだけで免許が出たらしくて、60何万とか言っていましたね。
【聞き手1】 お父様はそれを経営していらしたんですか。
【ES】 いや、経営じゃなくて勤めていた。
【聞き手1】 勤めていらした。じゃ、その包丁人ということですね。
【ES】 そうですね。
【聞き手2】 戦前からですか。
【ES】 戦前からですね。浅草にいて、結婚して、その間に私は疎開とかなんかあったんですけど、おやじはずうっとその店一筋で、だからすごい人たちと面識があった。
【聞き手2】 それこそ花柳界がわりと近いような。
【ES】 有名人とか、接触はあったけど。おもしろいのが、改造したうちの赤坂の店にカウンターと簡単な椅子なんかを置いてやったときに、お祝いに来てくれた人がいたんすよ。そうしたら、福沢諭吉の孫とかロールスロイスで来たりね。
【聞き手1】 ロールスロイスで?
【ES】 うん。3台ぐらい来て、三井生命の社長だとかね。
【聞き手2】 じゃ、常連のお客さんですね。
【ES】 そういうので来てくれたりとかね。やっぱり職人気質というか、月1回ぐらいの休みなんだけど、サービスというか、伝馬町の子供たちに、めったに休まないんだけど、休みの日に「チラシ」とかなんかつくるんですよ。子供たちを呼んで食べさすのね。来ない子には持っていけとか。だから、時代というのか、そういうものかな。
【聞き手1】 ああ、そうですか。
【聞き手2】 じゃ、銀座で勤められて、赤坂の地元で開業されて。
【ES】 いや。赤坂では昼間は定食をやっていて、夜は銀座のほうに行っていたので、70ぐらいまでは勤めていて、僕の子供時代のときは、わりと銀座の料理人というのは変人じゃないかと。
【聞き手1】 そうですね。
【ES】 そうすると、銀座のほうのお祭りに、向こうのほうの浴衣の生地を、おかみさんが送ってくれて、兄弟全員5人が着て銀座のお祭りに行ったことがある。
【聞き手1】 へえ一。赤坂からわざわざ銀座まで。
【ES】 でも、そういう関係というのがだんだんと。そういうことは、今はないと思うんですけど、そういう昔のしきたりがあったのでしょう。
【聞き手1】 じゃ、赤坂というのは地元でお商売している人ばっかりじゃなくて、ESさんの時代には銀座あたりにお勤めしている人の自宅というのもあったということですよね。
【ES】 そうですね。だから、多分うちがあそこに住んだというのは、銀座の店で買った家を貸してくれたと思う。
【聞き手1】 なるほど。今でいう社宅ですよね。
【ES】 そうですね。
【聞き手1】 それで、ESさんは赤坂小学校から赤坂中学へいらして、そのころ。
【ES】 私がまず来たときは、赤坂小はなかったんです、建物が焼けてしまって。それで、氷川小学校に間借りしていたんです。多分、一番上の3階あたりになるかな。先生とか校長先生はみんな肩身が狭いというか。
【聞き手2】 ビジターみたいな。
【ES】 うんうん。それで覚えているのは、赤坂小学校第一、第二、第三と校舎がだんだんできていくんですけど、第一校舎ができたときに、みんな高学年になったんだけど、椅子をそれぞれ氷川から運んできました。
【聞き手1】 自分で持っていく。
【ES】 そうそう。
【聞き手1】 居候さんじゃないんですね。
【ES】 そうそう。人数が多くて2部授業ですね。
【聞き手1】 ベビーブームよりもうちょっと上ですよね。
【ES】 もうちょっと前。
【聞き手1】 でも、やっぱり人数は多かったんですね。
【ES】 多かったですね。そうですね。1組、2組だと思うんだけど、それでも多かった。校舎は第一校舎だけだった。結局収容し切れないということで、それで第二、第三とできてきて、でも第一校舎のあたりになると、暖房はだるまストーブ。
【聞き手1】 はいはい。AHさんの年代だったらわからないんだな。
【聞き手2】 さすがにわからないですけど。
【聞き手1】 だるまストーブって鉄の鋳物でできた、こんなずんぐりした、だるま型のストーブで。
【聞き手2】 写真で見たことあるじゃないですか。
【聞き手1】 石炭で。
【ES】 そうそう。だから、石炭置き場があって、高学年になってからそこら運んできて石炭を入れる。
【聞き手1】 話が後先になっちゃうけど、ESさんは昭和19年生まれでしたよね。
【ES】 本当に生まれたのは16年の12月なんですよ。
【聞き手2】 じゃ、開戦とほぼ同時なんですね。
【ES】 そうですね。12月8日が開戦で、翌日。ちなみに、私が生まれたのは夏目漱石が亡くなった日ですよ。
【聞き手1】 じゃ、16年12月9日生まれ。
【ES】 うん。戸籍は17年になっているものですからね。だから、そこで私の人生が変わってきちゃった。
【聞き手1】 そしたら、お生まれになったのは赤坂じゃないんですね。小学校ぐらいからでしたっけ。
【ES】 そうですね。生まれたのは向島のほうでして。
【聞き手1】 またまた本当に粋なところで。
【ES】 ええ。だから、すごくおもしろいのは、向島、東向島というか、玉の井という、私も具体的に知らないんですけど、そこに何年間かちょっといて、私が絵をかいていて個展をやったきに、墨田区のほうの絵の講師に頼まれて行ったところが、その近くだったんですよ。
【聞き手2】 お生まれになったところ。
【ES】 うんうん。
【聞き手1】 おもしろいものですね。
【ES】 だから、大船に乗ったつもりで行ったりとかね。
【聞き手1】 私のうちにESさんが昔おかきになったお花の絵があるんですよ。奥さんからちょうだいしてね。この間もちょっと画帳を見せていただきましたけど、今いう○○な絵をおかきになっているじゃないですか。例えばご自分が覚えている風景とか、子供のころの思い出とか、そんなものを絵になさるということはおできになります?
【ES】 それはちょっと難しい、もともと絵を習っているとか、そういうところを出たわけじゃなくて、本当に素人で始めていて。
【聞き手1】 それがいいんですよ。差し上げたあの本あるじゃないですか。あれの挿絵をかいた方も習ったことなんか一度もないんですよ。自分流で、我流で自分のいろんな思い出だとか、戦争中のことだとか、いろんなことをさささっとおかきになる方なんですけど、私、きょうの取材に先立って、ESさんって絵をかくんだと思って、しかもご自分が赤坂にずうっといらして、いろんなことを覚えていらっしゃるから。
【聞き手2】 ご負担じゃなければ。
【聞き手1】 そうなんですよね。
【ES】 いやいや、ちょっとあれですね。
【聞き手1】 試しに今度、ご自分でスケッチブックにいろいろかいてみてくださいよ、やれるかやれないか。無理強いはしませんので。
【ES】 子供のときの一ツ木通りの6日の日の縁日だとか、そういうことしか覚えてなくて。
【聞き手1】 一ツ木通りの縁日はESさんが覚えられていた…。それで、ごめんなさい。向島からいつごろ赤坂に。
【ES】 向島から多分疎開というか、小学校ぐらいでしょうか。母親とかおやじの実家とかに行って、戦後、23年ぐらいに深川6カ月ぐらいいて、それから赤坂に。
【聞き手1】 ああ、そうですか。それで、さっきの話だと、昭和23年くらいに赤坂っておっしゃっていましたね。
【ES】 そうですね。だから、赤坂小学校は1年のときから入った。
【聞き手2】 それからずっと赤坂にお住まいで。
【ES】 そうですね。
【聞き手1】 1年生のときには氷川小学校に間借りで、それから第一校舎ができて移っていらしたのは何年生ぐらいのときだったんですか。
【ES】 1年、2年ぐらい。
【聞き手1】 じゃ、もうわりとすぐに。そのころの学校生活の印象というんですか、深く思い出に残っていることというのは。
【ES】 2部授業が1年間。授業中に外からのぞくというか、廊下のほうに出されて授業を待つというか、多分、午前中と午後、遊びのときだったかな。
【聞き手2】 子供の数が多くて校舎が足りなかった。
【ES】 足りなかったんですよ、当時。たまに映画会ってやるんですね。そうすると、仕切っている戸を外して、そこで学芸会とか映画会とかやったり、そういうことはよくやっていましたね。
【聞き手1】 映画なんて、どんなのを学校でやるんですか。
【ES】 教育映画っていうかな、あと覚えているのは三益愛子とかね。
【聞き手1】 三益愛子。うんうん、いました。
【ES】 そういう映画だったんじゃないのかな。
【聞き手2】 戦後だから、教育映画といっても戦前の雰囲気とはまた違うんでしょうね。
【聞き手1】 そうですよ。
【聞き手2】 民主的な映画になっているね。
【ES】 具体的にすごく覚えているわけじゃないんだけど、家でお手伝いしましょう的な、例えばそういう映画だったんじゃないですかね。娯楽っていえばそういうことと、それからTBSの、今はもう山はなくなって、昔は引揚者の方がTBSのところに寮というのかな、長屋が何棟もあったんですよ。そのころは普通のうちでもニワトリとかヤギとかを飼っていたり。だから、山の上に動物がいましたよね。
【聞き手2】 食用にしたり。
【ES】 食用というか、食べたんだか。
【聞き手1】 卵をとるんでしょうかね。
【ES】 あと乳を搾るとか、ヤギとかね。
【聞き手1】 へえ一。赤坂のTBSの山の上にヤギが。(笑い)
【ES】 ですから、地下鉄の赤坂見附だって、今はあれなんですけど、昔はここが入り口かなんていうぐらい狭くて、切符売り場はおりていって、途中で買うんですね。だから、戦前の人から聞くと、戦争中は地下鉄にみんな逃げたとかいうのでしたよね。
【聞き手1】 都電は通っていましたよね。
【ES】 都電は、赤坂見附だとわりと須田町行きとか渋谷から出ていて、水天宮行きとか、あと新橋のほうから四谷行きというのが出ていた。
【聞き手2】 あっちこっち幅が広がったんですね。
【ES】 そうですよね。都電というのは本当にそのころの交通手段というか。
【聞き手1】 伝馬町だと赤坂見附は近いですから、都電が縦横に。それで、おっしゃったとおり、丹後町とか一ツ木町の間に大通りがあって、都電が通っているから、随分距離感が。
【ES】 ありますね。それで、一ツ木通りを、昔は見附の交差点じゃなくて、真っすぐ行っていたんですよ。一ツ木通りの先と伝馬町と真っすぐ。
【聞き手1】 こことここが真っすぐ行けたということですね。
【ES】 ええ。
【聞き手1】 あっ、そうか。歩道橋なんてないですもんね。
【ES】 ないですからね。
【聞き手1】 それに通りだって、オリンピックで広げられる前はそんなに広くなかったでしょ。
【ES】 そうですよね。だから、今、赤坂見附の三宅坂へ行く途中の三角の空き地がありますよね。
【聞き手1】 三角の公園。
【ES】 公園というか空き地。
【聞き手1】 あっ、交差点の真ん中のところ。
【ES】 うんうん。交差点の空間というか、あそこで三角べ一スとかやっていたんだから。ボール拾えたりしているんだから、そんなに車の量もない。
【聞き手1】 だって、交差点の真ん中ですよね。
【ES】 そうですよね。
【聞き手2】 またちょっと今と違和感ありますね。小中学生の男の子だと、どういう遊びをされていましたか。
【ES】 何でもやりましたね。チャンバラとか時代劇とかなんか、錦之助とかやるとすぐ影響されて、伝馬町1丁目と3丁目とのけんかだとかなんか、その中でやっている。
【聞き手2】 場所は空き地とか公園みたいな、そういうところですか。
【ES】 そうですね。あと、四谷見附の堀とか、弁慶堀というか、あそこで遊びましたよね。今、ニューオータニがあるところは本当に森みたいな感じで、サルがいたとか、見つけたとかどうの、そういううわさというか、そういうのがあったりして。
【聞き手1】 どんなのを見つけたですって?
【ES】 サルがいるとか。
【聞き手1】 サル?
【ES】 うん。本当かどうかわからないですよ。
【聞き手1】 じゃ、オータニは何にも建ってなくて、単に森で。
【ES】 ええ。それで、結構ツル性の植物があって、ターザンごっこなんてやりましたよね。
【聞き手2】 都会のまん真ん中で。
【聞き手1】 オータニの中でターザンごっこができたなんて。へえ一。
【聞き手2】 それは年ぐらい?昭和20年代後半ぐらいですか、そういう遊び。
【ES】 昭和24、5年ぐらいですよね。おもしろかったのは、四谷の土手のほうに土管が今もあるんですけど、水がちょろちょろ。あそこは今、もう草ぼうぼうなんですけど、昔は砂地みたいなところで、あの土管、そんなに水は流れてないんですけど、冒険だといってろうそくかなんかを缶に入れて、四つんばいになって行くんですよ。そうすると、その土管が大きい土管で、2つに分かれていて、その先へ行くと上智大学のグラウンドのほうに出るんですね。
【聞き手1】 上智のグラウンドって、前はお掘りだったのが。
【ES】 お掘りだったんですよね。
【聞き手1】 それで、戦後の瓦れきをみんなが投げ込んでいって、次第に埋まっていっちゃったので、埋め立て地になった。ESさんが覚えているころはもうグラウンドだったんですか。
【ES】 多分グラウンドになっていたかもしれない。一応草ぼうほうというか、そのわきを都電が走っていたんですよね。
【聞き手1】 そうすると、弁慶堀のこっち側から喰違いの土手の下を通っている土管を、カンテラみたいなのをつくって、缶の中にろうそくを立てて、四つんばいになって進んでいくわけですか。
【ES】 単純なんですけど。
【聞き手1】 でも、やっぱりスリルだ。
【ES】 スリル。下が滑りやすいんですよ。
【聞き手2】 危なくないですか。
【ES】 コケみたいなのが生えて、するっといくときもあるし。でも、みんな団体行動でやっていたからね。
【聞き手1】 何人ぐらいで遊ぶんですか。
【ES】 4、5人ぐらいはいたんじゃないですかね。大勢のときは大勢だし。
【聞き手1】 じゃ、わりと大勢でみんなで遊ぶという。
【ES】 そうですよね。
【聞き手2】 多分、昔は、年代がちょっと上でも下でも一緒になって遊ぶんですね。今はわりと学年ごとに分かれちゃうんですね。
【ES】 そうですね。だから、地域で、例えば小学校の夏休みのときは、みんな家庭で、それぞれバケツとかなんか持ってきて水をまくんですよ。それを地域でやったという、一部ではそういうことを教えたのかもしれないし、朝起きて水まきしようとか、ラジオ体操があるとか。だから、わりと協力的、よその他人というか、地域がわりとまとまっていましたね。まちをきれいにというか、そういうことというのがあったんですね。
【聞き手1】 朝、水をまくというのは、例えば道路はまだコンクリートじゃなかったんですね。
【ES】 なかったですね。
【聞き手1】 土だったからまくのかしら。それとも……。もうアスファルトでした?
【ES】 いや。アスファルトにちょうどどんどんなっていく。だから、空き地があるとすぐ土管が通っていて、電信柱は木でしたからね。
【聞き手1】 そうすると、『ドラえもん』とか『ササエさん』とか、そういうまちですよね。土管があって、原っぱがあって。
【ES】 そうそう。
【聞き手2】 地域社会が機能していたんでしょうね、今と違って。
【ES】 そうでしょうね。多分、こっちの一ツ木のほうだって、そういうことはあったんじゃないですかね。
【聞き手1】 赤坂の中でも地域地域によって特色があるというのが、おもしろいところですよね。
【ES】 そうですね。一ツ木だと全部生活用品そろうでしょ。独立した八百屋さんなり魚屋さんなり、下駄屋さんとか。いろんなね。何にもないというか、物がない時代でも楽しむということをやるというか、あったみたいね。だから、弁慶堀で、今は交番がこっち方というか、赤坂見附の交番。あれ、弁慶橋の掘りのところにあったんですよ、交番が昔は。夏は信州のほうからホタルを集めてきて、弁慶堀にやぐらを建てるんですよ、あそこのところへ。それで、多分ボート場の経営者とか管理人がいるんだけど、やぐらの上でホタルを放すんですね。だから、うちまでホタルが飛んでくるときがあるんですよ。
【聞き手2】 情緒ある時代ですね。
【ES】 蚊帳の時代ですからね。かやを吊っていた時代。
【聞き手2】 不便な面はあったんでしょうけど、今では失っちゃったものがいっぱいあったような感じがします。
【ES】 だから、お風呂屋さんが一ツ木とかにはない時代だったから、四谷のほうまで風呂屋さんに行ったんですよ。そのうち一ツ木の金春湯とか、近くにあって。
【聞き手1】 じゃ、お風呂はそのころはまだ各家庭にはなくて、お風呂屋さんへ行くっていう。
【ES】 そうですよね。
【聞き手2】 四谷までだとちょっと歩くには、15分か。
【ES】 歩きますね。上智大学のほう。
【聞き手1】 そうか。町内にあったお風呂屋さんは焼けちゃって、瓦れきになっているんですもんね。
【ES】 そうだよね。だから、一ツ木にできたのがまず金春湯ができて、近半さんの横に金春湯があってね。
【聞き手1】 うちの角のところに住んでいたから。
【ES】 そうだよね。角のところですよね。お登美湯というのができてね。
【聞き手1】 そうそう。お登美湯というのがありました。田町通りかなんかね。
【ES】 そうですね。そのころは粋な黒塀じゃないですけど、本当に料亭があったですよね。
【聞き手1】 ああ、わりと早くから?
【ES】 うん。政治とか、国会が近いから、待合政治っていうあれで。
【聞き手2】 あれは昭和30年代に入ってからですよね。
【聞き手1】 町並みなんかで、一ツ木通りなんかはどんなふうだったとかって覚えていらっしゃること。
【ES】 ずうっと商売屋さんをやっていた、一ツ木へ入って右のほうにはミシン屋さんがあったとか、左方かな、初めてテレビが出て、貿易会社かなんかはっきりわからないですけど、何しろオープンにテレビを見せてくれて、人だかりというか、人垣がね。
【聞き手1】 それはいつごろなんでしょうね。一ツ木通りの電気屋さんじゃなくて、貿易会社さんで見せてくれていたんですか。
【ES】 そうですよね。力道山とか、そういうときだったですよね。
【聞き手2】 プロレスとか、相撲中継とかですか。
【ES】 そうですよね。
【聞き手2】 そのころはもう中学生ぐらいですか、ESさんは。
【ES】 大人の人に肩車してもらったから。
【聞き手2】 あっ、まだ小学生だ。
【ES】 まあ、そうですよね。見えないから、肩車してもらったというか。
【聞き手1】 伝馬町ではあまりサラリーマンはいなくて、商店とか、工場が多かったということなんですけど、例えば赤坂小学校の同級生というのはどんな人たちが多かったんですか、あるいはどんな家庭の子供たちが。
【ES】 商売というと、金春湯の隣にホソヤっていうお菓子屋さんとか、あと魚屋さんとか下駄屋さんとか。
【聞き手1】 サラリーマンじゃなくてお店屋さんですか。
【ES】 お店屋さんという。
【聞き手2】 ご商売をやっていらっしゃる方とか。
【聞き手1】 あと、さっき引揚者住宅の話がありましたけど、そういうところからもお子さんは来ていらっしゃる?
【ES】 ええ。学校には同級生いましたから。戦後も裸電球というか、暗いような感じで、引揚者というか。多分、一時的にどんどん大勢入ってくるというかね。伝馬町に住んでいると、こっちのほうにみんなで来るというか、友達関係もなかなか心配になるという、地域的にみんなまとまって遊んでいるから、学校では一緒になるけど、学校が終わればまた地元で遊んじゃうから。
【聞き手1】 じゃ、昔の子供の生活というのは、学校から帰ってきてランドセルを置いたら、とにかく外に出て町内の子供たちと大勢で遊ぶという。
【ES】 そうですよね。
【聞き手1】 むしろクラスメイトとか何とかというよりも、地元の子なわけですね。
【ES】 地元ですよね。
【聞き手1】 年が上だろうが下だろうがね。
【ES】 だから、ろう石があったら、Sって書いてS合戦だとかね。
【聞き手1】 えっ?Sって書いて何ですって。
【ES】 S合戦。
【聞き手2】 Sケンとかっていうんだ。
【聞き手2】 かろうじて私も、ろう石とか地面に書いてやる。
【ES】 奥にある宝というか、そこを踏めば勝ちとか。
【聞き手1】 Sケン。じゃんけんの「けん」ですか。要するに「S」にじゃけんの「けん」でしようか。それこそ思い出して今度かいてください。だって、いくら言葉で聞いてもなかなかわからないじゃないですか。だけど、Sケンってこんなのだよとか、それから瓦れきとか、バラックの家ってこんなだったよとか。
【聞き手2】 土管の様子とかね。
【聞き手1】 土管の様子とか、当時の四谷の土手の感じとか、絵にしていただけたら一目瞭然じゃないですか。
【ES】 それが難しい。
【聞き手1】 ずいぶん今の赤坂と違いますよね、お話を聞いていると。
【ES】 何しろ住宅事情も狭いし、うちの中で遊んでいられちゃ困るというか、外へ行って暗くなるまで遊ぶとか、受験とか何とかというのはまずないね。
【聞き手2】 『ドラえもん』とか、『サザエさん』とか、『じゃりん子チエ』とか、そっちに近いような世界観ですね。
【ES】 うちでも縁日で買ってきたひよこが大きくなって。
【聞き手1】 ああ、そうですか。お宅でもニワトリを飼っていらしたんですか。結構隣近所でもそういう動物を飼っていたんですか。町なかですけど。
【ES】 いたかもしれないですが、ちょっとわからないですね。空き地があると、サツマイモとかなんか植えたり。覚えているのは、子供のころ、皇居の土手に行ってノビルをつんできましたよね。そうすると、今の最高裁のところが米軍の進駐軍で、あそこにかまぼこ兵舎って、かまぼこ型の建物がすごくあって、広々としているんですよ、今の最高裁があるところが。米軍の家族が住んでいる。
【聞き手2】 バーディーバラックスですか。(シェファーソンハイツ)
【ES】 そうそう。すごいぜいたくに使っているんですね。
【聞き手1】 進駐軍の思い出ってあります?あんまり小さ過ぎてあれかしら。
【ES】 チョコレートをくれるとか、そういうものはあったんじゃないですかね。
【聞き手2】 直接もらったりとか、ESさん自身はございます?
【ES】 そういうことはなかったですね。だけど、小さいころ、新橋のあたりは川があって、結構米軍の遊ぶような。
【聞き手1】 中学時代のことって覚えていらっしゃいますか。
【ES】 中学校は10期生ですよ、赤中の。
【聞き手2】 今のミッドタウンの奥のところですよね。
【ES】 そうですね。あの当時は米軍が接収していたんですね、防衛庁が入る前に。そうすると、まず、生徒はみんな金網のほうに近づいて、行進とかみんな見ているんですね、米軍の。
【聞き手1】 じゃ、米軍との間は金網だけだったんですね。
【ES】 そうですね。中学校には今で言う有名人とかいたんですよ、同期生とか。十朱幸代とか、あと西園寺一晃(かずてる)ですよね、西園寺公望のひ孫。
【聞き手2】 同級生ですか。
【ES】 うん。一晃という。
【聞き手1】 で、公望さんのお孫さん?
【ES】 ひ孫だったかな。
【聞き手1】 ひ孫さん。へえ一。
【ES】 あと、木戸コウジョというのがいた。木戸さんというのは、美智子さんの、本当の美智子、美智子妃殿下((笑い)の女官長ですか。退職したとか出ていましたね。
【聞き手1】 木戸孝允さんのひ孫の、女の子だったんですか。
【ES】 女の子ですね。いろんなあれでしたよね。商売人の人とか、あと淡谷のり子の姪っ子と。そのときはお父さんが国会議員だったかな。
【聞き手2】 今だったら学習院に行きそうな人たちも。
【ES】 全くあれですよね。あといえば清元とか、置屋さんとか。
【聞き手1】 粋筋の人もいれば、華族様だったような方たちもいて。
【ES】 そうそう、伯爵の。
【聞き手2】 多種多様な。
【ES】 伯爵だとかどうとかという。
【聞き手1】 それは赤坂ならではですね。
【ES】 そうですよね。おもしろいですよね。
【聞き手1】 大体どのぐらいの人数いたんですか。
【ES】 結構多かった。A、B、C、D、E組ぐらいだったかな。
【聞き手1】 A、B、C、D、E。じゃ、5組。
【ES】 5組か。そのころが一番多かったかもしれませんね。
【聞き手1】 私、戦後そんなにたってなくても、もうA、B、Cなんですね、組の名前が。
【聞き手2】 中学のとき。
【聞き手1】 昔は敵性外国語だったのにね。1組って人数多かったんですよね、今と違って。
【ES】 昔は40人ぐらいいた。先生たちも結構一生懸命というか、燃えていた先生が多かったみたいですね。
【聞き手2】 進学とか、そういうもの。
【ES】 じゃなくて、意気込みというのかな、熱心な人が。
【聞き手2】 新しい日本の先生のためにとか。
【ES】 だから、美術の先生で、今はもう亡くなったんだけど、イラストレーターの真鍋博っていう人いたんですよ。すごく売れっ子の人がいた。
【聞き手2】 中学校になられると、小学校時代と遊び方とか、友達というか、つき合う相手等が変わってこられたりとかされます?過ごし方というか、どんなふうに変わるんですか。
【ES】 要するに中学校になると、ずうっと一緒のクラスじゃないでしょう。だから…。
【聞き手2】 あんまり親しくならないですぐ組み替えになっちゃう。
【ES】 うん、変わっちゃうというか、そういうことのあれでしたね。
【聞き手1】 小学校から中学校に行って、本人が感じた一番変わったとか、小学校と違うなというところはどんな。
【ES】 何しろ、うちから中学校はやっぱり遠いなと思いましたよ。
【聞き手1】 確かに伝馬町は学区域で一番端っこですもんね。
【聞き手1】 熱心な先生が多かったということでしたけど、例えばどんなことをよく生徒たちにおっしゃっていたかとか、そういうのって覚えていますか。
【ES】 そういう点では、特にすごい影響を受けたということはちょっとないかなと。僕は年中ぼお一っとしているような感じでいたもんだから、人によって随分あれだったかもしれないけど。
【聞き手2】 クラブ活動とか、そういうのはやっていらっしゃったんでしょうか。
【ES】 運動する陸上とか、例えばそういう生徒は本当に一生懸命やっていたし、特に何かに熱中したとかあまりなく過ごしちゃったというか、どっちかというとおとなしいとか、いるとかいないとかって言われると、目立たないというか、だけどよく詩を載せてもらったというか、学年誌とか、あとは年に1回学校で出す校誌。
【聞き手1】 ありましたね、「校舎赤坂」って。
【ES】 そういうのね。
【聞き手1】 そういうのも、もしかしたら戦後ならではかもしれませんよね。あっ、そうでもないのかな。生徒の自由につくった詩を学校の雑誌に載せるとかって、そういうね。
【ES】 あっ、そうそう。それ、多分「双葉」っていうのを出していましたよ。また、そういう熱心な先生がいたんですね、多分。
【聞き手1】 「双葉」っていう学年誌ですか、それじゃ。
【ES】 学年誌ですね。それは「双葉」っていう。そんなのができるし、美術の先生が表紙をかいたりなんかして。
【聞き手1】 ああ、なるほど。例えば十朱幸代さんなんてやっぱりすごくきれいだったと思うんですけど、同級生としてはどうでした?やっぱり目立っていました?
【ES】 そうですね。目立つというか、派手というか、よく授業を早退していなくなっちゃうとか、そういうことはよくあれですよね。
【聞き手2】 当時からそういう子役というか、芸能活動をやっていらしたんですかね。
【ES】 十朱幸代って芸能人の親が、それもあったんじゃないですかね。
【聞き手1】 それで、中学を出られてからは、赤坂とのかかわりというのはどんな。学校は区域外だったんですか。
【ES】 そうですね。だから、そんなに。ただ、そういうあれではずっと何かを地域でやっていたわけじゃないし、例えばどこかの団体に所属して何かやっていたとかっていうことがなければ、そこでもう終わりかな。
【聞き手1】 そうですよね。普通やっぱり義務教育が終わっちゃうと地域を離れて、それでESさんの場合はお仕事をまた赤坂でなさったじゃないですか。あれはいつごろからなんですか。
【ES】 あれは学校を卒業するときに将来どうするかといったときに、生活も大変だし、どうしようかというね。私もつくるのは嫌いじゃなかったから、小学校のときとか中学校のときにつくるうどんぐらいできるというか、それだったらちょっと材料を買ってということで、卒業するまでに店を始めて。
【聞き手1】 あっ、そうなんですか。じゃ、随分若かったんですね。
【ES】 23歳ぐらい。
【聞き手1】 23歳ぐらいで?
【聞き手2】 お父さんのお勧めがあったとか、そういうわけでもないんですか。
【ES】 ちょうどタイミング的というか、やろうかというときとどうしようかというときと重なって、だから私は修業に行ったわけじゃないし、全くの素人で。
【聞き手1】 でも、さっきのお話だと、小中学生のころからつくるのがお好きだったと。お父様が例えばおうちでちらし寿司かなんかつくって近所に配ったりするときに、ESさんも一緒に手伝われたんですか。
【ES】 そういう記憶はないんですけど、うちの母親がわりと病弱で、うちの兄貴もそうだけど、わりとそういうのになれてくるというか、簡単なことなら。
【聞き手2】 習わぬお経を覚えるみたいな感じでする。
【ES】 そうですよね。切ったりむいたりとか、そういうことはできていた。
【聞き手1】 なるほど。じゃ、おうちのお手伝いをよくしていたということなんですね。お母様が病弱だから。
【ES】 そうだよね。
【聞き手1】 なるほどね。そういうことで、生活の中で身につけていったお料理の腕を生かして、やっぱりお父様も料理の道に進んでいらしたから、そういうのも少し影響あったんでしょうかね。
【ES】 そうかもしれませんね。だから、本当に基本的なことを身につけてなくてよくやったなというか。
【聞き手1】 じゃ、いきなりご自分のお店を始めたわけですね、修業に行かずに。
【ES】 一応家族で始めたから、妹とかね。
【聞き手1】 あっ、そうなんですか。
【ES】 妹が3人いたから。
【聞き手2】 それ、ちょっと詳しく伺ってないですが、伝馬町のご自宅の周辺というか、そこの場所で。
【ES】 まず、自宅を改造して、カウンターだけの、10人程度の和食の店で始めました。昭和42、3年ごろオリンピックが終わってすぐくらいで、周りにそのような店がなかったので、母、兄、妹と家族総出で始まったのです。周りには、どんどん会社のビルが建つとか、現場の人とか、でお客さんも多かったですね。最初は毎日魚河岸に行って仕入れてやっていました。
【聞き手2】 お客さんは、当時はどういった方が多かったですか。
【ES】 サラリーマン。
【聞き手2】 赤坂周辺の。
【ES】 周辺ですね。あそこの地域、こっちから向こうを渡ってうちへ来るというお客さんもいましたけど、あそこの中がほとんどで、常連さんですよね。
【聞き手2】 夜は少しお酒も出すんですね。
【ES】 そうですね。意外とうちは早く終わるんですよ。9時にはもう終わるというのでやっているのでね。
【聞き手2】 当時で客単価はお幾らぐらいなんですか。
【ES】 その当時、定食が160円。
【聞き手2】 お昼の定食が?
【ES】 うん、お昼の定食が160円ぐらい。うどんとかだったら60円。
【聞き手1】 昼定食160円だとどんな献立なんですか。
【ES】 フライ定食とかおでん定食、あと煮魚とか、そんな感じですよね。
【聞き手1】 それで、御飯とおみそ汁とお漬け物がついて。
【ES】 そうですね。
【聞き手1】 へえ一、それで160円だったら随分いいですよね。でも、その当時の物価が私わからないんですよ。
【ES】 私がアルバイトしていたときは時給が60円なんですよ。1分間1円か、遅刻すると引かれるんですね。480円ですね。
【聞き手2】 夜だと500円ぐらいとかって、そんなにはいかないですか。
【ES】 わからない。
【聞き手1】 じゃ、9時閉店っていうと、勝負はお昼だったんですね。
【ES】 お昼は本当に忙しいときは、30席ぐらいとすれば、最高に忙しいときは4回転ぐらいでしたね。食べている後ろでお客さんが待っている。
【聞き手2】 一時どきは戦争ですよね、4回転というと。
【ES】 さばみそがよく出るんですよ。60食ぐらいサバが1日出ていた。半分近くさばみそ定食。
【聞き手1】 やっぱりおふくろの味という感じですよね、さばのみそ煮とか。
【ES】 そうですね。だから、お昼食べた人が夜お客さんを連れてきてお酒飲むときに、5人来ればさばみそ5つとか、つまみになんか。だから、おもしろいですよね。
【聞き手1】 なるほど。じゃ、お昼に近所のサラリーマンの人がランチ食べに来てくれて、その人たちが夜になるとお客さんを連れて接待に来る。
【ES】 来るというか、ちょうど景気がいいときだったかもわからない。
【聞き手2】 私も会社が虎ノ門で、昼おいしいところ、ちょっと夜行ってみようかなという感じになって行っていますもんね。
【聞き手1】 なるほどね。そのころはほとんどが会社員しか、隣近所の会社員。
【ES】 そうですよね。だから、そういう人が入ってくると頼むものがわかる。
【聞き手2】 顔見て。
【聞き手1】 なるほどね。あそこはいつぐらいまでやっていらしたんでしたっけ。
【ES】 あそこは僕が53歳のころまでだったかな。
【聞き手2】 お店の名前が「HR野」?
【ES】 平仮名の「HR野」なんですけど、それはおやじが、常磐線のいわきの先に広野ってあるんですよ。
【聞き手2】 ご出身が?
【ES】 ええ。
【聞き手1】 じゃ、奥様の出身地と同じ。
【ES】 それは家内の実家へ行くときも広野へ行くんだけど、もともと親戚というか、私と家内の関係ははとことか。
【聞き手1】 あっ、そうなんですか。
【ES】 広野というのは、「汽車」という童謡があるんですけど。
【聞き手1】 「汽車、汽車、しゅっぽ、しゅっぽっぽ」って。
【ES】 広野原というか、その碑が建っているんですよ。
【聞き手1】 広野原というのは広い野原というんじゃなくて、広野という。
【聞き手2】 地域がある。
【聞き手1】 ああ、そうなんですか。
【ES】 だから、あそこら辺をイメージして作詩したと思います。
【聞き手2】 作詞家の方とかね。
【聞き手1】 ひろのって、たしか「ひろ」が平仮名で、野原の「野」は漢字ですよね。違いますか。全部?
【ES】 「ひろ」が平仮名。そうそう。
【聞き手1】 野原の「野」は漢字ですよね。
【ES】 そうですね。
【聞き手1】 お父さんの出身地。う一ん。53歳ごろまでということは、昭和I6年生ま
れだから。(笑い)今、お幾つなんでしたっけ。
【ES】 今、7I歳ですけど。
【聞き手1】 えっ、そうなんですか。いやあ、お若いですよ。ということは18年前か。
【ES】 そこから新橋へ移って6年ぐらいやったかな。
【聞き手2】 ニユー新橋ビルの?
【聞き手2】 今、お店は?
【ES】 もう完全にやめて、それからミチコが亡くなった。13回忌だな。
【聞き手1】 奥様は2001(平成13)年でしたっけね。
【ES】 うん、そうです。
【聞き手1】 だから、I2年。ちょうどI3回忌ですね、今度この秋で。「HR野」さんを赤坂から新橋に移したというのは地上げですか。
【ES】 要するにうちの所有でなかった。
【聞き手1】 あっ、そうか。「さんとも」さんの。
【ES】 そっちのほうの事情で手放すということで。
【聞き手1】 そうか、そうか。そうですね。
【ES】 だから、いまだに子供が言うんですよ。まだ店やっていれば、おれたちやっていたよとか。私が生きているうちに、さばみそとなんかはやり方を教えてくれって。
【聞き手2】 半分ぐらい注文された当時のさばみそを伝承されている。
【聞き手1】 そういう家庭的な料理って無形なものだから、消えていっちゃうじゃないですか、伝えていかないと。レシピ本が出ているって言っていて、いわゆるお料理番組でやっているようなみそときっと何か一味違うんですよ。
【ES】 どうなんですかね、それは。
【聞き手1】 何かコツがあるんですよ、きっと。
【聞き手2】 そうですね。それは本当に文章にできない、何ていうんですかね。
【ES】 昔、おやじが『家庭画報』とか、そういうのによくレシピ、要するにつくり方とか、そういうことは言っていましたよね。
【聞き手1】 だって、『家庭画報』って高級雑誌じゃないですか。
【ES】 昔のです。なんかそういう。
【聞き手1】 やっぱり銀座の名店の何々の秘伝をとかいう、そういう記事なんじゃないですか、きっと。
【ES】 結構テレビかなんかのドラマで調理している手だけの撮影とか、あと「職人」という、木村伊兵衛という写真家が『アサヒグラフ』に撮ってくれたことがあるんですよ。
【聞き手1】 お父様は本当に料理人としては世の中に名の出た方だったんですね。
【ES】 あまりそういうのを話さないんですよ。だけど、電車なんかに乗っていると、来た人と挨拶していると、あの人、これからスタジオに行くという場面とかね。
【聞き手2】 本当の職人肌の方なんでしょうね。そんなにひけらかしたり、そういうのは一切せずに。
【ES】 うん。だから、多分カウンターでお客さんと話というか、『サザエさん』の長谷川町子さんが姉妹でよく来ていたとか、越路吹雪さんとか。一番華やかというか、いい時代のときなんじゃないかね。
【聞き手2】 隠れ家みたいな名店だったような感じがしますね。
【ES】 だから、もしおやじがそういうあれで何か書いたものを残しておけば、その時代時代の何かあったかもしれませんね。
【聞き手1】 私も「さんとも」さんに長谷川町子さんとか越路吹雪さんとかが来ていて、それでお父様は、昼間は赤坂のお店を手伝われて、夜は「さんとも」さんに勤めて。
【ES】 多分うちが商売してないときの50歳代とか40歳代とか、そういうときの。
【聞き手1】 ああ、なるほど、なるほど。それで、赤坂で商売を始めるよというので、福沢諭吉の孫やなんかが来てくれたりしたということなんですね。
【ES】 そうですね。
【聞き手2】 昭和39年東京オリンピック、その前から多分オリンピックが決まってから道路の拡張とか、いろいろまちが変わってきたと思うんですけど、その変化とかお店は、お客さんが増えたりとか、何かございました?オリンピックの直前、前後では。
【ES】 多分その後、商売を始めたのが。
【聞き手2】 お店はそのちょっと後なんですね、昭和42、3年。
【ES】 そうですね。ですから、もうその時代は日本の経済発展というか。
【聞き手2】 高度成長真っただ中ですね。
【ES】 周りがどんどん発展していくということは感じていたかもしれないですね。
【聞き手1】 伝馬町がどんどん変わっていったんですかね、やっぱりその時代。
【ES】 そうですね。
【聞き手1】 例えば道路拡張なんかのとき、どうでした?
【ES】 伝馬町にあった床屋さんが一ツ木に移るとか、鹿島建設がきたとか。何しろ、どんどん会社が来て、街が変わって行った。
【聞き手1】 どうもありがとうございました。