青山-2
終戦直後昭和40年頃まで在住、当時の青山一丁目周辺の町並みを語る。
終戦直後昭和40年頃まで在住、当時の青山一丁目周辺の町並みを語る。
① 語り部氏名 TK・TS(TKさんの娘さん)
② 女性
③ 生年月日 昭和2年(1927) 87歳
④ 青山で暮らした時期 昭和23年から現在まで
① 主な内容
・終戦直後から昭和40年頃まで住んでいた当時の青山一丁目交差点付近の街並みを語る。
・青山通りに面した青山北町1丁目(現 北青山一丁目)側は東京オリンピックのため、青山通りの拡幅工事で削られたが、住民が立退く際に南青山側に移った人も多い。北町1丁目の路地にあった「長寿庵」(日本蕎麦屋)なども南側に移転している。
・青山1丁目交差点北側に大きな石屋の「石勝」(南側に工場も所有)があり、裏側に中村舞踊研究所、劇団民藝、少し離れてレディース洋裁学院があった。
・交差点の南側はごちゃごちゃと食べ物屋、本屋、薬屋、肉屋、パン屋、眼鏡屋(ミヤコヤ)、団子屋などの店が集まっていた。
② 備考
なし
① 現住所 港区南青山2丁目
② 小学校
③ 保存資料の状況 表紙
④ 取材者 HK (聞き手)
⑤ 取材年月日 平成6年(2014)9月18日
⑥ 旧住所 港区青山北町1丁目(現 北青山一丁目)
語り部 HKさんの話
【聞き手】 まず、すいません、ご年齢をお聞きしてもいいですか。
【TK】 87歳。
【聞き手】 87歳。昭和2年……。で、青山というか、1丁目の交差点のところ、最初ですよね。
【TK】 そうです。
【聞き手】 北青山1丁目が青山としてはお住まいになったのは最初ですか。
【TK】 そうです。
【聞き手】 それがいつぐらいから? 戦後?
【TK】 昭和23年……。
【聞き手】 戦後の後の焼け野原から少し引っ越してきた。
【TK】 それでうちは、表通りじゃなかったんです。オリンピックがあるということで、表を広くするためにちょうどうちが表出たの。
【聞き手】 じゃ、前を削られ……。
【TK】 そうです。削られて。
【聞き手】 青山通りを北のほうは大分削られたって。
【TK】 そうそう。それで、うちは、どういうわけか表のほうに砂場があったりなんかしたんですよ。そこが全部なくなって、表から路地で入ってうちだったの。で、それが全然なくなってうちが表出たの。
【聞き手】 じゃ、ラッキーだった。
【TK】 玄関すれすれに。
【聞き手】 だって、何か22メートル道路が40メートル、ほぼ倍ぐらいになったっていうことだったから、そういう意味では、ほんとに前がなくなったわけですか。
【TK】 そうですよね。うちの前は桶屋さんっていって。でも、桶屋さんっていってもお風呂のおけなんかつくってたのかな。そういうようなうちが角にあって、路地入ってきてうちだったんですけど、表が全部広くなって、右側のほうは何があったかね、あんまり記憶はないんですけど。
【聞き手】 じゃ、やっぱり表通りは商店街がずっとあったんですか、もともとは。
【TK】 商店街、何かね、あんまり記憶がないんですけど、逆に広くなってからのほうが私は記憶があるんですけど。今、表通りの人は、それぞれわりと青山の裏のほうに、北青山に移ってきたりなんかしてるんですよね、立ち退きで。
【聞き手】 それは今の南側のほうに移ってらしたわけですよね、立ち退きで。
【TK】 そうそうそう。
【聞き手】 広くなってからはあそこの並びにも牛乳屋さんとか。
【TK】 あ、よくご存じ。
【聞き手】 はい。うちも配達してもらってたから。
【TK】 表通りにあったんですよ。
【聞き手】 表通りにありましたよね。
【TK】 そうそうそう。
【聞き手】 スポーツ店もタケダさんとか。
【TK】 そうそうそうそう。タケダさんは……。
【聞き手】 結構・・・…。
【TK】 北青山側だったのね。それで、あと、不動産屋さん、住友不動産とかっていう…。
【聞き手】 あ、今もありますね。
【TK】 今、うん。あれとまた違う、もう全然なくなったんですけど、そんなのがあったり。今も住友ってありますけど、大企業の住友と全然関係ない住友のね。
【聞き手】 あ、関係ない住友が。
【TK】 今でもありますけど、そうじゃなくてね。
【聞き手】 あと、お豆屋さんとか。
【TK】 あ、お豆屋の但馬屋さん、まだあるの。
【聞き手】 今もありますよね。まだありますよね。
【TK】 そうそう。あそこのお豆屋さんはご親戚がわりと多いらしいの、青山に。何かワイシャツ屋さんとかのいろんな方ご親戚、藤田さんってお医者さんができたんですけど、青山通りにそのかたも。
【聞き手】 ありますね。
【TK】 私も墓地とおりの角にあるそこに、一、二度行ったかな。
【聞き手】 青山通りの牛丼の松屋だかなんだかの隣のビルの上の……。
【TK】 あちらもみんなご親戚だと思う、豆屋さんやなんかと。だから、わりとほら、くっついてご親戚があるみたいでね。私も最近だけど、そういうのを知ったのは。
【聞き手】 あれって、あの角のところ、要するに、東宮御所側は削られなかったんです
か。
【TK】 私はお芋の配給時代からなんですけど、青山1丁目の角はね。元のうちの真ん前は何かごちゃごちゃした食べ物屋さんとか何とかがあったんですよ、ちょうど反対側ですね。
【聞き手】 確かに1丁目の交差点って、ツインビル側の角が地下鉄の駅で、薬屋さんだとか、お肉屋さんも八百屋さんもあった。
【TK】 それはね、ちょっとツインビル側なの。
【聞き手】 ちょっとずっとありましたよね。で、向かい側が……。よくお買い物行ってましたから。向かい側に本屋さんとか並びにあって……。
【TK】 そうです、そうです。
【聞き手】 青山1丁目も本屋さんの並びがずらっと結構お店があった。
【TK】 私よりよく、記憶がすごいわ。そうそう、本屋さんもあったの。
【聞き手】 あの本屋さんにいつも買いに行き、だから・・・…。
【TK】 いや、言われればそうだわって感じ、私、今。
【聞き手】 だから、今の南側の並びのほうは文房具屋さんだとか、パン屋さんだとか、いろいろお店がずらっと、眼鏡屋さんもあったし。
【TK】 北側にお肉屋さんがあってね。それで、南側は何があったのかな、あの角は。今、ツインビルの前になってるところは。おだんご屋さんかなんかあったお店かな。もうほんとだめ。
【聞き手】 いえいえ、同じですよ。長寿庵さんが北にあったとか。
【TK】 ちょっと奥にひっこんでいたの。今、結局、前が削られたんで表へ出てきたんだ、ね、長寿庵も。それで、南側に一度あのビル建てたのよ。どういうわけか逆のほうに行ってくれというんで、同じビルを長寿庵は建てたのよ。そうしたら……。
【聞き手】 そうですよね。ちょっと狭くなりましたよね。
【TK】 そう。建てたのはいいけど、1階階数は増えたの、同じものですけど。でも、あそこも運がいいわね、表へ出てきちゃったから。
【聞き手】 路地入った奥でしたよね。
【TK】 みんな表通りにいた人が裏のほうに来たり、みんなお店になっちゃってるからね。
【聞き手】 でも、やっぱりお店も、当時は2階建ての、1階お店、2階住まいっていうようなのだったのは結局、戦後、焼け野原からそういう店になっていったわけですよね。
【TK】 そうそうそう。都電もなくなりね、四ツ谷から品川行きまで。ああ、そうだ。K子ちゃんなんかも電車で通ってたんじゃない? 幼稚園に。幼稚園は電車じゃないよね。
【聞き手】 うん。電車では通ってない。幼稚園のときはもう……。
【TK】 何だった?
【聞き手】 車で。
【TK】 車で行ってたの? まあ。
【TS】 でも、帰りに廬山だとか行くときは……。
【聞き手】 あそこ、すごくお庭が大きかったから、車でとめられたわけ。
【TS】 それで、あの時分みんながそれを、お庭があったわけよ、廬山の。それでみんな、マサヒコちゃんなんか、春巻き1本ずつ持たされて、お庭で遊んでたわけ。
【TK】 長寿庵のビルもマンションに人が入ってるんだから、働かなくてもいいぐらいに思ってるんじゃないの? ねえ。あそこも運がいいわよ、ほんとに。路地入っていったところだったからね。
【TS】 長寿庵、あそこ、今の前にあったでしょう。出前に来てたのよね。
【TK】 ああ、そうかもしれない。出前があったかもしれない。
【TS】 だって、うちまで出前で来てたんだから。
【TK】 あ、そうだ、そうだ。出前があったんだ。
【聞き手】 昔は出前が随分ありましたよね、おそば屋さんだけじゃなくてお寿司屋さんとかも。それで、向かい側のあそこへこの人がこんなちいちゃいとき連れて歩いていて、住友不動産がまだ町の不動産屋さんだった。それで、よく歩いて前通ったらば、暇なもんだから、不動産屋さんの若い人たちがすっかり覚えちゃって。
【TK】 あそこの北町に住友不動産というのがありますけど、あれは全然関係ないの、住友とは。いやいや、全然関係ない。全然関係ないんですけど、昔からどういうわけか住友不動産という看板でやっていますけど、今でも代がかわって息子さんがやっているんじゃないかな。前はおじいちゃんがやってたけど。あんまりおつき合いがなかったからあれですけど。でも、今でもやってますものね。
【TS】 青一マーケットがあった時分は、北町に石勝ってあったでしょう。
【TK】 あ、そうそう、石勝さん。石勝さんは全部だめになっちゃったから。
【聞き手】 大きな石屋さんだった。
【TK】 北町にもあり、南町にもあったりしたのよ。あそこほんとに、そうだ、石勝の次男のお子さんが、お嬢さんが2人いて、それで、東洋英和に行っていて、東洋英和をやめて、何か銀座でホステスかなんかしていた、誰かが会ったことあるって。石勝さんのね。みんなだんだん代がかわって、青山には、時々お墓に石勝の名前の書いた車があるから、どこかにあるんでしょうね。潰れてはいないみたいですけど。
【聞き手】 その青一マーケットというのはどこにあったの?コンビニ。
【TK】 だから、ツインビル側で外苑東通りに沿った角あたり。
【聞き手】 お肉屋さんが並んでて……。あ、あれ……。
【TK】 K子ちゃん、知ってるわよ、お肉屋さん。
【聞き手】 地下鉄の駅の後ろ側のところでしょう。薬屋さんの隣? 相模屋さん
【TK】 あ、そうそうそう。相模屋さんと八百屋さん。
【TS】 八百屋か。
【聞き手】 相模屋さん、八百屋さん。この並びに一度来ましたよね、相模屋さん。今、なくなっちゃったけど。
【聞き手】 あなたがコロッケ買いに行ったお店。
【TS】 あれは肉屋さん。
【TK】 いや、あのね、うちの真ん前に今ほら、眼鏡屋さんがあるでしょう。あそこへ来たのよ、八百屋さん。
【聞き手】 あ、相模屋さん。そうそう、来ましたよね。
【TK】 それで、相続のことやなんかがあって、それで、やっぱり売って、きょうだいで分けたんじゃない?だから、いまは青山にはいないみたい。
【聞き手】 あの眼鏡屋さんって、今のホンダの辺にあったミヤコヤさんですよね。
【TK】 そうです。ただ、今、ハイカラな名前になってますけど。福井かなんか、あっちのほうの方よね。
【聞き手】 あ、そうなんですか。
【TK】 うん。だから、何か眼鏡屋さんって向こうは多いんですってね。
【聞き手】 あ、福井の鯖江とか枠が有名ですね。あそこは何があったの?今の三越バラエティーっていうの?青山ビルね。
【TK】 あそこは何だったんだろうね。あ、そうそう。バレエを教えたりなんかする、中村舞踏研究所、うちの裏のほうには、ほんとに変な男がいたの。バレエを教えてたの。それから、民藝の誰かがあの近辺にいたわね。劇団の民藝ね。
【聞き手】 劇団民藝の方。何かこの近辺、赤坂とか青山近辺にはそういう劇団なんかの方とか随分住んでらっしゃって。
【TK】 民藝とか、俳優座とかいろいろあったから。
【聞き手】 何かもうちょっと外苑に近いほうに洋裁学校があって。
【TK】 何といったっけな、レディス洋裁学院といったかな。うん、そう。洋裁学校があったの。
【聞き手】 いろいろこうやって取材してる中でお聞きしたんですけど、昔、代々木公園の昔のところにワシントンハイツがあって、米軍の関係者が丸の内のほうへ皆さん通勤する途中とかだったんで、青山通りに結構米軍の奥様方やそういう米軍の人の服をつくるテーラーが多い……、だから今でも結構テーラーがあるけれど、その影響でそういう洋裁学校があったって聞いたんですけど。
【TK】 ああ、そうなの。都営青山1丁目アパートよりの裏のほうにね。ありましたよ、学校はね。
【聞き手】 洋服はオーダーしてつくってもらっていたわけ?
【TS】 いや、どこでしてということじゃなくても、お洋服はデパートで買うとかだけじゃなくて、そうやって洋裁店でつくってもらうとか。
【TK】 いや、みんな、結構、何とかかんとかつくってたのね。
【聞き手】 自分で?
【TK】 自分でね。
【聞き手】 あの時分ね、何か知り合いを訪ねてどこかつくってもらいに。
【TK】 あんたなんか今でもそうなんでしょう。
【聞き手】 つくってもらってたよね。
【TK】 ね。そうでしょう。私はドレスメーカー女学院出てるんですよ。それで、1年間は寮生活したの。目黒の雅叙園の真ん前で。屋上上がると雅叙園が丸見えだったの。それで1年間は通った。
【聞き手】 もうひゃ一ってお作りになっちゃったの。
【TK】 今は既製品買ったほうがずっといいのがあるじゃないですか。私、既製品のバーゲンのときには行きますけど。
【聞き手】 そうすると、洋裁をされてたっていうと、アメリカの雑誌とかそういうのに結構影響されたりして洋服をつくってたんですか。
【TK】 すぐ上の姉が医者になったほうがいいんじゃないかしらと言ってるうちに結婚の話があって、結婚するのにはやっぱりその前に洋裁でも習ってというんで、結婚が決まってからですよね、ドレメに行ったのが、姉が。そういう関係で、姉が行ったんで私もついでにということで行ったんですけど、1年間は寮生活で、ドレメのすぐ近くであちこち寮がありましたけど、運よく学校のすぐ近くでした。ああいう学校は戦争中、ちょっとストップになったの。最初、ドレスメーカー女学院というのが、杉野女学院になって、それで一時閉まって、終戦後、私のお友達なんか、始まったらすぐ師範科というところに行きましたけど、私は友達に聞いて1年おくれで師範科に。そのときは田舎から通ってましたよ、1年間。だから、寮生活してたときは、いろんな台湾の人とか、それからいまだにおつき合いがあるのは佐賀県のほうの人ね、みんな寮生活で一緒でしたから。それから別府のほうの人とかね。今おつき合いしてるのは佐賀の入だけですけど。毎日もやしのおかずで、戦争中ね。
【聞き手】 寮だとお食事も出る?
【TK】 そうそう。舎監といううるさいおばさんがいて、外出するのにも何も大変でしたよ。やっぱり宝塚が好きで、みんなね。みんなで行くも行かないも切符買ってきちゃうから、一緒によく行きましたよ。
【聞き手】 それって、ドレメにいらしたのは、戦後すぐ? 戦前?
【TK】 戦争が始まる前。
【聞き手】 始まる前?
【TK】 うん、そう。
【聞き手】 じゃ、そうすると、戦争中はもう、すぐ学校が閉鎖……。
【TK】 おまけにほら、ドレスメーカーなんていう名前だから。それで、終戦になって。
【聞き手】 それでまた復学されたんですか。
【TK】 一時、だから、杉野女学院になって、それで最近はもうドレスメーカーになってると思いますけど。
【聞き手】 北青山の辺は、奥側は一般のおうちじゃなかったんですか。
【TK】 いやいや、ここは、私はよくあんまり覚えてないんですけど、ほとんどこうやってビルが建ってますけど、普通のうちだったの。それが、ここなんかみんなユニマットですから、隣も。みんな買い占めてビルになってますけど、普通のお宅だったのよ。
【聞き手】 北も南も普通のおうちで、表だけに商店がある。
【TK】 そうそうそう。裏のほうは間組やなんか勤めてた人、タクシーの運転手さんとか、そういうふうに住んでたんですよ。間組の運転手さんなんかしてた人も、裏に、表通りじゃなくてちょっと入ったところに住んで、だから、間組の方の家族のお住まいというのが裏のほうにあったのかな、レデイス洋裁学院があった近辺ね。いつの間にかなくなっちゃったのよ、学校ね。
【聞き手】 だって向こう側、女子学習院もあったわけですね、秩父宮のラグビー場の辺かなんかに。
【TK】 ああ。それは、私はよく知らないんですけど、今、青山の中学校があるじゃないですか。
【聞き手】 うん。あれは陸軍大学ですしね。
【TK】 そうそう。軍の学校でしたよね。K子ちゃんのほうがよく知ってるわ。
【聞き手】 そんなことない。ただ、こうやっていろいろお話を聞くからだけで。
【TK】 そうなんでしょうけど、私なんか言われると、ああ、そうだっていう感じですよ、今はね。もうほんと何でも忘れて。私、今年、お財布をどのぐらいなくしたかわかんないの。
【聞き手】 この辺で泥棒が結構入る。
【TK】 この路地ね。いやいや、最近あれですけど、イチョウ並木の脇ところに小さなてんぷら屋さんやってる人があるんですよ。そこなんか2回ぐらい入った。磯美家さんってお父さんがやってた、お父さんが亡くなって、それでほら、ああいうことっていうのは何とかできちゃうものなのね。それで、息子さんがやってるから。
【聞き手】 ちょっと小ぎれいにしましたよね。北青山のガソリンスタンドの並びに満月ってあったでしょう。
【TK】 そうそう。あそこはよかった。
【聞き手】 あそこなくなっちゃったのは痛手だわ。