青山-4
青山1丁目周辺は子供時代のパラダイス。エリアは外苑、弁慶堀、墓地へと続いた。
青山1丁目周辺は子供時代のパラダイス。エリアは外苑、弁慶堀、墓地へと続いた。
① 語り部氏名 HMさん
(青山でお年寄りの認知症対策のためのイキイキサロンの運営)
② 女性
③ 生年月日 昭和24年(1945)1月26日 歳
④ 青山で暮らした時期 生まれて現在まで青山で暮らす(高校生時代は三鷹で暮らす)
① 主な内容
旧姓は「AN」富山県の出身で、父親の代に東京に出てきた。生まれた時は青山1丁目1番地に住み、その後、赤坂8丁目の公団、建て替えの時に青山4丁目、その後北青山1丁目に住んでいる。オリンピックの前は、青山は北も南も含めて一つの街であった。青南小学校は青山小学校の分校で、青南の子供は軍人さんの子が多く、青山小学校は商人の子が多かった。
子供の頃や小学校の頃は男の子のグループに入り、東宮御所や外苑、青山三丁目、墓地、鉄砲山(青山1丁目の青山公園一帯)を遊び回った。青山通りの拡幅で立ち退きが進み、友達がずいぶん居なくなった。東宮御所などは狸が出るというので、生垣を登って警備員に叱られた。
青山1丁目が一番賑やかだった時は三越バラエティーストアーやジーンズの栄光があった時。
昭和60年の安保闘争の時は青山通りがデモ隊で埋め尽くされることもあった。70年安保の時は自分がデモ隊の中に入って、安田講堂の中に立て篭もった。
東京オリンピックの時は入場券をもらい、国立競技場に見にいった。学生の頃は日本の音楽はほとんど聞かず、洋楽ばかりきいていた。
今は、認知症のためのイキイキサロンを団地の中で実施している。
② 備考
・三越バラエティーストアーは昭和40年代後半から50年にかけてあった三越が手掛けたスパーマーケット。
① 現住所 港区北青山一丁目
② 小学校 青山小学校 青山中学校 共立女子中学校 高等学校
③ 保存資料の状況 テープ起こし原稿 三回確認
④ 取材者 FK(聞き手1)・NK(聞き手2)・TM(聞き手3)・NM(聞き手4)
⑤ 取材年月日 平成26年(2014)9月23日
⑥ 旧住所 港区赤坂青山南町1丁目1番地(現 港区南青山1丁目)
語り部 HMさんの話
【HM】 私は旧姓がアンネン、ANと申しまして、これは本当にネットで調べると370世帯ぐらいしかないような名字で。それで、これはもう富山県の砺波市の太田という集落に、村にしかない苗字です。『吾妻鏡』なんかではちょっと出てくる、安念坊という坊主がいまして、それが天皇方について北条と戦って、松坂で斬首になっているんですよね。それの息子が逃げているんですよ、越中に。それで、それが結局元じゃないかというふうに言われていますね。ただ、東京のほうには、逆に言うと、おじが東京に来て、それで、肺病に。昔は肺病というと結核ですよね。結核が皆さん多かったので、結核にかかっちゃって、その看病で父が地元の富山で女学校の先生をやっていたんだけれども、弟の面倒を見るといって東京へ出てきて、そうしたら、母が子供を、その当時は生まれたばかりの私ともう1人姉とを引き連れて東京に来ちゃったと。だから、妹は日赤ですね、渋谷で生まれています。まだ私が乳飲み子だったので、生まれたばかりのときに来たということですから、多分戦後だと思います。当時米軍の基地がもっと大きかったですから、乃木坂のところにあったね、今は星条旗新聞になっていますけど、基地でした。昔は1丁目の交差点の、銀座線青山一丁目駅からよく米兵がよくおりてきたんですよ。私なんかの祖母がお米を持って東京に出てくると、米兵はみんな大きいんで、おばあちゃんちっちゃいんで、またの間をくぐって歩いたと言っていました。そういう祖母からの話は聞いていますね。この写真はね、オリンピックの前ですね。本当、うちの姉が成人式の次の年と書いてありますので、まだ都電が走っている。ちょうど青山1丁目の交差点、今ここにツインビルがあるという。ここの緑が東宮御所、こっちが多分石勝だと思う。
【聞き手2】 オリンピックは、高校1年生ぐらい。
【HM】 学校で入場券をいただきましたよ。国立競技場の。
【聞き手1】 そうですか。そのころどちらの学校に行ってらしたの?
【HM】 共立です。
【聞き手2】 高校1年でしょう。オリンピックのときにね。
【聞き手1】 公立じゃなくても、共立の女学校でも入場券が来たんですか。
【HM】 来ましたね。
【聞き手1】 何の競技をごらんになりました?
【HM】 陸上です。だから、本当に競技場の、でも、あちこち、あちこちでいろいろな競技をやっているんで、どこ見ていいのかわからないという。
【聞き手1】 そうか、トラックでは走っているし、真ん中ではね、走り幅跳びとかやっているし。
【HM】 あと、そのころにビートルズが武道館でやるというんで、絶対行っちゃいかんと学校のほうから命令されて、のぞきに行って、Mちゃん、行ったんじゃないとかいう。
【聞き手2】 行ったら不良だって。
【HM】 そうです。もうもうですね。
【聞き手1】 今はビートルズといったらほぼ古典になっていますけれども、あのころは不良の音楽。
【HM】 それこそ不良の音楽ですから。だから、60年安保のときに樺さんが亡くなったときにはもう246(青山通り)はデモ隊ですごかったですので、それが小学校、私が6年生か、5年生か、そのぐらいですよね。やはりそういう世情があったので、小学生でも安保に賛成か反対かという話をしていましたね。小学生で。わ一わ一、わ一わ一、周り中がもう、青山という土地はすぐそばですから、国会が、もう年中わ一わ一、わ一わ一という騒ぎの中にいましたので。
【聞き手1】 それは赤坂も青山も同じなんですね。やはり246号線というのが渋谷あたりからずっと国会に向けてね。やっぱり、そうすると、青山のお育ちの皆さんの中で印象深い出来事というと、オリンピック、60年安保、それから、皇太子ご成婚。
【HM】 パレードを見ました。
【聞き手1】 そうですか。どちらで。
【HM】 ちょうど今の外苑前におじが家を持っていたんですね。そこの屋根に上って、ちょうど真向いが梅窓院さんのところの並びにおもちゃ屋さんがあったんです。その前の家の屋根に青山小学校の担任が乗っていました。その時青山通りの都電の線路に砂まいて、馬が滑らないようにして。
【聞き手1】 そうすると、そのお家が当時は2階建てぐらいで。
【HM】 そうです。それで、おばちゃまが喫茶店をやってましたんで、おじさんは不動産屋をやっていたんで。
【聞き手1】 その喫茶店と不動産屋さんが一緒に入っていたんですか。
【HM】 そうです。一軒家だから。
【聞き手1】 なるほど、なるほど。大抵あのころまでは、皆さん、お話聞くと、1階が店舗で2階が住居で。
【HM】 そのとおりですね。2階が家になっていましたんで。
【聞き手1】 その屋根の上に上ったわけですね。どんな印象でしたか。
【HM】 いや、やはりきれいですよね、美智子様ね、当時。
【聞き手2】 結構見えたんですね、近くで。
【HM】 もう、だって、青山通り今の半分ですから。幅が。その真ん中を馬車が通りましたから。2階から見ていますから。
【聞き手4】 じゃあ、よく見えますね。
【HM】 見えます、見えます。
【聞き手1】 うらやましい。何か赤坂見附近辺の方から聞いたらね、お店屋さんなんていうのは2階からのぞいちゃいけませんと言われて、それで、窓をあけちゃだめというお達しが何か警察から。あったんですって。
【HM】 みんな見ていましたよ。それで、青山通りでビルは1軒もありませんでしたから、全部木造の2階です。1階かもしくは2階。最初にビルにしたのは石勝じゃないかな、多分。
【聞き手1】 何か石勝さんって皆さん覚えてらっしゃる。
【HM】 大きい石屋さんですもん。だからね、財産なくしちゃったね、あそこもね。うちは、今ツインビルのあるところにいましたから。そこで、うちはたばこ屋を、父が教師だけれども、教師だけの給料じゃ子供養えないので、母がたばこ屋をやっていて、隣が八百屋、その隣が自分とこでつくっている総菜屋さん、その隣が鈴木薬局という、今スタジアム通りにビルを持っていますね。鈴木の薬屋さん、その次に、体育道具売っていた、私の同級生だったと思う、亡くなっちゃったんだけれども、12階建ての都営住宅の1階で武田運動具店というのをやっていました。その隣がやっぱコグラさんという八百屋で、その隣がそば屋さん、水内庵さん。角。
【聞き手1】 角ですよね。じゃあ、あの並びにずっと。
【HM】 いたんです。
【聞き手1】 そうですか。青山通りに面して。
【HM】 はい。一番端が肉屋で、赤坂消防署があって。そんで、昔は、そうですね、今の青葉公園側、道路を隔てたこっち側のほうにちょっとしたスペースがあって、そこに移動遊園が来まして、昔、ロケットがくるくる回ったりね。それで、見に行って、ロケットがくるくる回ったら下に落っこちるんですよ。財布やら何やら。それをすっごい強烈に覚えてますね、それ。それで、もともとは今のいわゆる三井マンションが建っているところが都営でしたでしょう。あの5階建ての都営が4棟か5棟かあったんですが、それがなくなり、都営ができる前の空き地だったときにそこにいました。まだ、だから、防空壕がありました。
【聞き手1】 じゃあ、上京したてはそちらにいらした。
【HM】 そうです。まだガラスもない。だから、板戸であけるような。
【聞き手1】 あの、あれじゃないですか、昔の半蔀(はじとみ)みたいな、平安時代の棒で内側からあける。
【HM】 そういう窓です。ちょうどやっぱり戦後何もない。それで、あの辺は全部練兵隊の跡地で、全部燃やされていますので、防空壕で遊んだりなんかしていましたね。2歳かそのぐらいですね、3歳か。ちょうどその大陸から引き揚げた人たちの引揚者の宿舎が木造の2階建ての、大きな木造2階建ての、昔で言う、何だろう、こういう家で、真ん中に廊下があって、暗いんですよ。全部木造ですし、そこが今のね、55番地。デニーズ、あそこの裏にあった。今は都営アパートになっていますね、鉄筋の。あそこにあった。私はその前にあった青山保育所、保育園。に通っていましたんで、保育園があっち行ったり、こっち行ったりして、今都営の下に入っていますけど。そこに通わされていたので、行くのが嫌で、父が自転車の後ろに乗っけて、チョコレートのパン食べさせてあげるよなんて言って、だまされて連れてかれていましたね。コロネなんてそんなものなかったです。食パンに塗っていました、チョコレート。全部塗りパンです、当時は。
【聞き手3】 昔のですね、塗りパンでしたね。
【聞き手1】 はい、塗りパンです、みんな、ジャムだろうが何だろうが。
【聞き手3】 はかって、頼むと塗ってくださるんですね。
【HM】 そうですね。
【聞き手1】 何かそれ戦前と変わらないですね。何か戦前のお話聞いても、皆さんね、何かジャムがいい、チョコがいいとかって聞かれて。
【HM】 そうです、そうそう。
【聞き手3】 入れ物に入ってね、やっていただいて。
【HM】 そんなに変わんないですよね。
【聞き手1】 本当、昭和27、8年でも防空壕が残ってたり、お家にガラス窓がなかったり、板戸だったり。
【HM】 そうです。私の感覚の中では肉屋が一番金持ちだったんです。それで、肉屋のお嬢ちゃんは、私なんかは1つか2つか下なんだけど、いいお洋服着てるわけですよ。青山通りをすごい都電の線路があって、慶応に行ってる子はその赤羽橋行きに乗って行くわけです。当時はまだ蒸気機関車が信濃町通ってましたので、1丁目でもボーっていうのが聞こえるという、そういうときでしたね。
【聞き手1】 何か省線って呼んでいたっていう方がいるんですよ、戦後でも。やっぱりそういうふうに呼んでらっしゃいました?
【HM】 呼んでいません。
【聞き手1】 国鉄。
【HM】 国鉄でした。
【聞き手1】 蒸気がまだ。
【HM】 はい、お客さん乗せているのではなくて、貨物なんですよ。今中央線が走っているところを貨物が夜ボーといいながら走っているんです。もう1つね、青山1丁目に住んでいた人ならみんな知っていると思うんですけど、1丁目の交差点のところに、うちらのお店があった向かい側一帯がすごい火事になったんですよ。眼鏡のミヤコヤさんがそこに店舗持ってて、Mという下駄屋さん、だ、下駄屋があったり、何かいろいろお店があって、奥に路地があって、飲み屋街だったの。そこから火が出た、夜中。
【聞き手1】 火事があったのが。
【HM】 うん、南側。そこにいたのは今12階の都営アパートの1階に入ってる寿司屋さんだとか、中華屋さんがそこに店持ってました。
【聞き手1】 ああ、焼けてあちらに。
【HM】 ただ、やっぱり青山でやっていたからという思いがあるんじゃないか。うちの真裏がちょうど間組の木造の会社だったんです。間組がまだ木造2階で、広い土地持っていたんですね、その裏に教会があって。
【HM】 私は幼稚園のとき行っていました。カードもらって。
【聞き手1】 はいはい、日曜学校に行くとね、何かシールとかくれたりして、張ったり。
【HM】 そうです。日曜学校に行っていた。あそこのエンドウ牧師さんというの覚えてるんだけど。
【聞き手1】 その、じゃあ、幼稚園のころはまだ教会が。
【HM】 ありましたね。活動していましたね。だから、今あそこの一帯は消防署、だから、こっち側は消防署があって、赤坂消防署があって、隣に変電所があって、その隣が2号さんのお家で、いろいろあるんですよ。だから、結局あそこに都営住宅ができて、今壊しちゃったけども、都営ができて、周りが全部引っ越したんです。見下ろされるというんで、全部一軒家ですから。246号線の拡張のときは、御所側は、全部取られました。あそこ本来はもっとあって、水が入るような濠があった。台風でその濠に落っこちる車があったんです、飛ばされて。今でも覚えてる。軽トラが落っこった。そうそう、お堀がありましたんで。
【聞き手1】 それが何か。それは全部引っ込んで。石垣になっちゃったわけ。ツインタワービルが建てられるときに引っ越されたんですね。
【HM】 出たんです。父が出たわけですよ。三鷹のほうに引っ越したので。旧住所というのが先ほどのツインタワーのところの。港区赤坂青山南町1丁目1番地です。青山が北町と南町で分かれてましたから。今みたいに南青山とか、そんな言い方じゃないんです。今は北青山に住んでいます。青山に戻ってきて、南青山1丁目にいて、彼氏も青山で住もうよって、彼氏を入れて、1丁目に住んでいて、子供ができたんでもうちょっと広いところって、赤坂8丁目の公団のところに移って、公団が建てかえるみたいな話になって、今度は南青山4丁目に行って、4丁目に行ったときにバブルがはじけて、やれ金ね一ぞという話になって、そうしたら、北青山1丁目が当たったんですよ。だから、もうここのところ青山だけで動いて回っているという感じで。
【聞き手2】 じゃあ、かなり詳しいですね。いろいろね。
【HM】 お店は詳しくない。お店ころころころころ変わる。道だけは詳しい。昔と変わらない。
【HM】 だから、道はね、庭ですね、完全に。小学生のころ走り回っていましたから。
【聞き手3】 たしか小学校は青山小学校ですよね。
【HM】 うち三姉妹全員青山小学校。
【聞き手3】 三姉妹なんですね。
【HM】 だから、青山小学校の前は青山保育園です。青山、青山と、こう来ているわけですね。
【聞き手2】 それから、その後の進路等でいいますと。
【HM】 その後はもう受験して、共立ですね、私学、共立女子中学、共立女子高校と。大学と。今の住所は北青山1丁目6番。
【聞き手1】 そのころの青山小学校というのは何か思い出ありますか。
【HM】 あんなちゃっちい小学校じゃなかった。石づくりのね、ものすごいどっしりした小学校。入り口が、細い入り口は昔からあるの。入ると、石づくりのど一んとしたU字型の玄関があるんです。そこを入って、左側が職員室になっていまして。
【聞き手1】 それ焼け残ったってことでしょう。
【HM】 そうです、そうです。青小は焼け残って120年、130年ぐらいたちますもんね。分校として青南小学校ができましたから、それで、青南小学校と青小とけんかするんですね。
【聞き手1】 そうそう、仲悪いんですよね。北杜夫の本にも出てくるぐらいですもんね、わざわざ。
【HM】 そのこっち、赤坂は檜町小学校なんですよ。檜町小学校は坂下のほうですから、わりとぱっとしないんですね。ここがやっぱり下町なんで。すると、青南が軍人さんの子供たちが多くて、成績が優秀で、日比谷なんかに行きましたんで、そうすると、威張るわけですよ。青小が何でおまえら分校じゃね一かって、こうなるんです。
【聞き手2】 もとをたどれば青山から出たのに。
【HM】 そうです。
【聞き手1】 それは、本当隣同士の小学校っていうのはどういうわけかみんな対抗意識が強くて、赤坂なんかも分校の檜のほうが大きくなっちゃって、やっぱり向こうはね、赤坂なんてちっぽけでと言って、赤坂は、あれ何か昔、はやし立てる歌があって、「青南学校いい学校、入ってみたらぼろ学校」とか。
【HM】 ありました、ありました。歌いましたよ。はやしましたよ。歌ったという、はやす。檜町とはそんなに仲は悪くなかった。あれは、坂下へ行っちゃうから、あんまり接触ないですね。
【聞き手1】 そのころの小学校っていうのは衣食住、学校生活の何か特色というのは今と比べてどうですか。
【HM】 子供多かったですからね。学年6クラスで、1クラス60人ぐらいいましたよね。それで、青山墓地を整理して赤坂高校をつくるっていうんで、幽霊が出るぞという話になりました。その前は、墓地が遊び場でしたから、あそこで追いかけっこしたりなんかして、散々遊んでいました。ちょうど墓地下のところに、今はやっぱり公園になっちゃっているんですが、鉄砲山というのがありまして、そこに行くと薬きょうが落っこちているというんで鉄砲山(陸軍の射撃練習場)という名前になったんですけど、そこは立入禁止なんですよね。隣が米軍ですから。でも、遊びで入っていましたね。
【聞き手1】 なるほど。
【HM】 あそこ龍土町って昔は。明治の文豪が集まった龍土軒がね。ありました。そっちのイメージすごく強いですよね。都電に乗って行くと龍土町、墓地下のほう、あそこはバタヤ部落が並んでいましたので、本当に木でできたバタヤさん、拾って歩く、家がずっと並んでました。線路沿いに。墓地とは反対側になりますね。そこから来てる子供もいましたよね、学校に。
【聞き手1】 そうすると、随分貧富の差が同じ小学校の中で。
【HM】 ないです、ないです、当時はみんな何もないですから、貧富の差がそれほど目立たないですね、逆に。ただ、やっぱりぼけっとしているのとぼけっとしてないので当然いじめや何やらあるけれども、貧富という意味ではなかったですね。お風呂なんかでもお風呂屋さん行っていましたし、内風呂じゃないですから。うちは、私の記憶では、石炭のお風呂がついてました。石炭をくべて、お風呂をわかしていましたね。自宅にお風呂があるという、わりと当時では恵まれていましたね。でも、途中でつぶしましたね。子供部屋つくるっていって、それで銭湯に行くようになりました。青山小学校に行く道に銭湯があって、今ホンダがあるあたりの細い道に、中通りにありました。銭湯はあちらこちらにありました。銭湯に行くのは普通ですからね。学校給食では小学校が給食でしたが、保育園はお弁当でしたね。で、ご飯とメザシとかね、ご飯と生卵とかね、何か変なもの持っていっていたな。当時はメザシのおかずだけとかね。それで、お弁当に生卵だけ持っていったら、先生がかわいそうだと、ご飯にかけてくれて。それで、卵が嫌いになりましたね。多分食べ過ぎたんだと思います。
【聞き手1】 戦前は何か卵は高価で、病気しないと口には入らなかったというけど、戦後は卵というのはわりと、じゃあ、手に入った。
【HM】 うち、ニワトリ飼っていました。1丁目でニワトリ飼っていましたよ。隣が肉屋でしょう。いつの間にかいなくなったね。
【聞き手2】 それで、給食というのは、どうでしたか?
【HM】 もちろん脱脂粉乳です。パンもおいしくなくてね。パン投げていましたよね。コッペパンですよね。揚げパンなんていうと喜んでね。お砂糖ついてるから。
【聞き手1】 そうそう、何かみんなこんなちっちゃなわら半紙切ったのを机の上に置いて、そこにお当番がお砂糖を配ってくれて、揚げパンつけながらね。
【HM】 コッペパンはぱさぱさなので、結局半分ぐらい食べてランドセルに入れて、そのうちにかちんこちんになるのをちぎって投げて遊んでいたの。
【聞き手1】 本当ですね。冷めるとかちかちになりましたよね。
【HM】 そうそう。
【聞き手1】 もう昭和23年生まれの生徒が入ると給食だったんですね。
【HM】 給食でしたね。脱脂粉乳と。牛乳に変わったのは多分ね、5年生か、そのぐらいでしたよね。こんなに味が違うのみたいな。小学校は石づくりのものすごく重厚で、そこに生徒が増えたもんだから、校舎を今の2丁目側に建て増しをしまして、そこに入っていましたね。
【HM】 それで、おしゃべりしていると「廊下に立て」って言われて、廊下でおしゃべりしていたら、うるさい、「校庭に行け」って言って、校庭に行って遊んでいたら、おまえら、「帰ってこい」って言って。すっごく思い出しますね。小学校時代。
【聞き手1】 結構立たされたほうですか。
【HM】 立たされたほうです。後ろ向いてしゃべっていましたから、チョーク、ば一んと飛んできて。
【聞き手2】 それは、おしゃべりしているから、静かにしろと。
【HM】 そうです。だから、基本的に言うと、私はADLLだな、今のADHDだろうなと。多動性ね。
【聞き手1】 トットちゃんのほうですよね。
【HM】 そうです。もう後ろ向いてしゃべっていましたね。だから、親が学校に行くと先生に怒られた。おたくのお嬢さん。だけどね、うちの姉なんか学年トップなんですよ、青小で。男子女子入れて。そこに私の姉が6年生のときに1年で入るわけです。出来の悪い妹なんで、先生方全員知っているんです。おう、ANの妹かというんで。
【聞き手1】 また、苗字がね、すぐ覚える苗字ですもんね。
【HM】 姉は青中そのまま行って、青中でもトップだったので、それで、日比谷行っていていう、出世コースを。
【聞き手1】 なるほど、なるほど。
【HM】 下の5歳違いの妹は、あれまあと言って。
【聞き手1】 いやいや、そうおっしゃったって、共立いらしたわけですからね。
【聞き手2】 それもう1人、三姉妹ですよね。
【HM】 そうです。妹は結局日赤で生まれて、青小で、中学は国立に行って、それから、青学に行っていていう感じですね。
【聞き手2】 お幾つ違うんですか。
【HM】 やっぱり5つ違いますね。だから、4歳半、4歳半違うので、年が全部結構離れていましたね。
【聞き手1】 なるほど。5歳下の妹さんっていうのは、昭和28年生まれですね。
【HM】 だから、回りみんな60以上になりましたね、見事に。
【聞き手1】 そうですよね。今年午年だから私も60になりましたけれども、1つ上ですもんね、妹さんね。そうすると、家族構成というのは、たばこ屋さんをお母様がなさって、お父様が高校の先生で、おばあちゃまが、じゃあ、さっきのお話だと富山から時々見えたというから、一緒じゃないんですね。
【HM】 そうです、じゃないです。
【聞き手1】 家族構成はお父様、お母様と三姉妹。
【HM】 そうです。たばこ屋やっていたんで、お客さんに、おたくはいいわね、女の子がにぎやかでって言われたそうですよ。
【聞き手1】 女の子の遊びってどんな遊びだったんでしょうかね。それとも、その鉄砲山に行ってこう。
【HM】 私は男の子みたいな女の子だったんで、赤坂に住んでいるとび職でM君っていうのがいるんですよ。お正月とかは、ほら。お飾りを売っているし、昔は正月は獅子舞、はしご乗りをやりましたので、この辺ですと金持ちの家もありますんでね、虎屋さんのお屋敷、青山1丁目のちょうど、さっきの地図で言うとこれ、どこだ。
【聞き手2】 こっち側に家がありますね。
【HM】 ここ、虎屋の屋敷。
【聞き手2】 この辺にあったんですか。
【HM】 ここに大きいお屋敷がありましたんで、そこではしご乗りをやるんですよ、とびの方たちが。そう、クロカワさん。それで、よくうちほらここでたばこ屋やっているんで、お買い物に来て、奥様なんかが来て、やれ指輪のダイヤが落っこったって大騒ぎしたとかいう話を聞きましたが。ここの辺で言えぱ、当時としては虎屋さんのお家が一番大きい。裏は、赤坂8丁目はね、森英恵さんの家もあったけど、ここは全部お屋敷町です。坂上だから。それで、坂下は全部貧乏人なんです、基本的に言うと。
【聞き手1】 そう、赤坂、青山はそうですよね。
【HM】 お屋敷町だったんで、ここが赤坂8丁目、すると、こっちの悪がきどもが行くわけですよ、お屋敷町に。それで、昔は裏門ね、正面じゃなくて裏門のところに牛乳の箱であるとか、そういうのが置いてあるのをあけて取っていくんですね。もしくは、庭に植えてるザクロの実を取りに行ったりね。
【聞き手1】 勝手口というのは必ずありましたよね、大きなお家にはね。
【HM】 ありました、ありました。
【聞き手1】 そこのところに牛乳箱があるわけですね。木製か何かで、こうパタンと。何か牛乳屋さんの名前が書いてあるんです。森永とか、明治とか、興新とか書いてあるんですよね。
【HM】 ありました、ありました。
【聞き手1】 お屋敷の牛乳取っちゃうんだ。
【HM】 だから、それがとび職のMのヨシオちゃんに引きつられた餓鬼どもの集団がいるわけですよ。ともかく、この一帯を仕切っていましたから。
【聞き手1】 青山小学校に来ていたんですか、M君が。
【HM】 彼は赤坂に住んでいたんで、檜町だと思います。
【聞き手1】 それだけでも結構交流があるわけですね、地域で。(*注 M君は青山小学校で、青山から赤坂9丁目に越してきた。)
【HM】 うん、だから、餓鬼どもは徒党を組んでいますので、まだちっちゃくて、だから、本当にこういうちっちゃいのが徒党を組んでこう、一緒に動いてますんで。
【聞き手1】 学校とか。
【HM】 関係ないですね。ボスですから。
【聞き手1】 すごいな。何かよく通っている小学校が違うと放課後、遊ぱないという話も出ましたけれども、ここら辺はそうじゃないんですね。M君が仕切っているから。
【HM】 だから、うん、それで、私なんかはいわゆる今の3丁目、ピーコックのちょっと手前ぐらいまで遠征していたらしくて、姉が、あんたのところの妹がいたわよみたいな報告を受けたって言っていましたから。
【聞き手1】 そうすると何、活動範囲って墓地下から、赤坂8丁目から、青山3丁目、すごい。外苑なんかももちろんいらしたでしょう。
【HM】 そうです。
【聞き手1】 そうすると、信濃町近辺まで。
【HM】 信濃町方面は行かないんです。あの辺は人が住んでないんで。
【聞き手1】 なるほど。じゃあ、絵画館ぐらいまで。
【HM】 そうですよね。だから、あれです、東宮御所の中にタヌキがいるだの、ああだのいるっていうんで、よじ登って、ですよ、そういう時代でしたよ。怒鳴られて、走って逃げるとかね。
【聞き手1】 石垣があって、土手があったけど。
【HM】 もう登ります、そのぐらい。
【聞き手3】 とび職のM君もいるし。
【聞き手1】 本当ね、高いところ得意。
【HM】 だから、女の子ではそういない。男の子の集団だから。そこにまじっているから。ぴょんぴょんいろいろなところに。
【聞き手1】 塀を乗り越えて入って、タヌキとかそういうのにはなかなか会えませんよね。
【HM】 会えない、すぐおまわりさんに見つかりました。だって、子供の声って高いから、一発でわかります。
【聞き手1】 なるほどね。
【HM】 黙ってなんていないもんね。
【聞き手2】 タヌキは1回も見えなかった。
【HM】 見なかったですね。
【聞き手2】 残念ながら。でも、いたんでしょうね、きっとね。
【聞き手1】 じゃあ、地面がないとだめですよね。すごいな、東宮御所、外苑、青山3丁目、墓地、鉄砲山。
【HM】 1日で回るわけじゃないから。
【聞き手1】 それはそうですよね。今日はこっち方面ね。
【HM】 だから、それが結局小学校時代はオリンピックの前なので、道も狭いし、南青山も北青山も一緒になってわ一わ一やっていますので、今みたいに広くなっちゃうと南と北がぱ一んと分かれちゃうし、だから、違うと思う、感覚が。
【聞き手1】 1つのまちだったんですよね。よく皆さん道路の拡幅で青山は分断されたとおっしゃいますよね。
【HM】 そうです。立ち退きで友達もみんないなくなっちゃったから、小学校時代の。だから、商売屋さんだけがとりあえず何軒か残っているみたいな。
【聞き手1】 そうか。拡幅工事って1丁目までは御所側が削られたけど、どこからかは両側削るような形になっているんですよね、青山のどこかで。だから、おたくまで。
【HM】 いやいや、だから、石勝さんがあったところ削られました。北町は。
【聞き手1】 北町はね。南は削られなかった。
【HM】 南は削られなかったんじゃないのかな。
【聞き手1】 なるほど、じゃあ、もうちょっと先で両側削るようになったんだ。
【HM】 うん、多分。
【聞き手1】 何か北村薬局さんなんかは両側削られたところなんですよね。
【HM】 表参道でしょう。
【聞き手1】 そう、表参道。
【HM】 本屋(山陽堂書店)さんも、だからあそこすごく広いのにば一んと削られちゃったから。
【聞き手1】 そうすると、やっぱり子供たちの生活が変わったのはやっぱりオリンピックの。
【HM】 ですね、そう思いますね。もちろん戦争そのものも大きいけれども、いわゆる団塊の世代でわ一っと増えて、子供たちの生活がころんと変わったのは東京オリンピックですね。
【聞き手1】 なるほどね。子供の生活が変わったっていうことは、大人の生活も変わったっていうことですよね。何かこう、変わったなっていうメルクマールになるようなことって何ですかね。これがなかったのがあるようになったとか、これがあったのになくなったとか、オリンピックの前後で。
【HM】 人間の関係がすごく希薄になったような気がする。墓地のところにお寺さんがあって、うちの姉の同級生のお寺さんだったんですよ。そこにお絵かき教室なんかやっていて、お寺さんって基本的に言うと、町に開放された場所だったので、餓鬼どもがいつもそこを走ずり回るみたいな、それこそお仏壇の前は広いですから、お寺さんって、そういう場所だったわけですよ。子供はいつでも出入りできるように開放されたところが、いつの間にか閉め切っていますよね、寺がね、閉めていますよね、入れないですよね。
【聞き手1】 なるほどね。それはどういうことなんだろうか。何かよく青山1丁目近くに住んでいた方が、オリンピックぐらいまでは朝になると人が青山一丁目駅に向かって、夕方になると駅から出てくるっていう風だったのが、オリンピックを機会に逆にパターンが変わったっていうんですよね。だから、住宅地だったのが、外から人が来るまちになったっていうことをおっしゃっていて、そういうことと関係あるのかな。地元じゃない人がまちの中にいっぱいいるから、門を閉ざさざるを得ないということでしょうかね。
【HM】 もう1つは、土地、だから、本当に1丁目というのは田舎ですから、都会の中では、下町に比べると、だから、道路沿いの商店街が全部1階にお店がある、住んでるのが2階だったり、その奥だったりみたいな構成ですよね。それから1本入ると全部住宅地です。それが、拡張して、抜かれて、そこ半分になっちゃった、あっちになって、表に出るの嫌だと言って、売って、ビルになったわけですよ。ぼんぼこ、ぼんぼこビルができて、そうすると、当然外から人が入ってきますよね。
【聞き手1】 そうですよね。1階には元の持ち主がいらしても、上の階にはね、オフィスだったり、住居。
【HM】 なっていますよね。だから、当然そこで出入りが変わってくると思いますよ、やっぱり。
【聞き手1】 そうか、そうか、やっぱりビル化で外から来る人が増えたんですよね。
【HM】 だから、私の小学校の友達ほとんどいませんもん。
【聞き手1】 そうですよね。
【HM】 どこ行っちゃったの、みんな、みたいな。結構ちっちゃいころって、よその家でご飯食べてけっていって食べていったりというのが普通にあった。うちなんか逆に言うとうるさいから、そんなこと一度してすっごい怒られて、二度としなかったけども、明かりがついたら帰りなさいという家だったので、だから、周りの商店の子がうらやましかった。8時、9時まで遊んでいるから。だって、お店屋さんやっているから、みんな。勤め人じゃないから、商店の子っていうのはみんなそうですよ。
【聞き手1】 なるほど。
【HM】 父ちゃん、母ちゃんの商売ですから、子供はほったらかしでしょう。
【聞き手1】 なるほどね。おたくはお父さまが学校の先生だから、お父さまが帰ってらっしゃると皆さんで食卓囲んで。
【HM】 囲まなきゃだめなので。
【聞き手1】 なるほどね。
【HM】 だから、東京オリンピックまでテレビがなかったですから、うちは。オリンピックがやるっていうんでテレビ買いましたから。
【聞き手1】 なるほど。
【HM】 だけど、家の玄関から外へ出て、玄関というかね、お家から出て、五輪のマークがそのままばんと見えましたから。1丁目だ、もろに。
【聞き手1】 インパルスが空に書いたあれですね。
【HM】 わ一って、みんなして空を見てた。
【聞き手1】 だって、本当に近いですもんね、おたくから、その競技場。
【HM】 この間のインパルスの飛行、競技場がなくなるというイベントのときにも写真撮りましたから、家から。
【聞き手1】 なるほどね。外苑の花火大会なんかよく見えますよね。あれはもっと後ですけどね。
【HM】 だから、花火大会をする前はお祭りやっていました。全国の祭り大会というの、あそこ、草野球場で。何年かやっていましたね。だから、からくり人形の山車だとか、いろいろ出ていて。花火大会の前ですよ。オリンピックよりは後。だから、最初の花火大会はお金取らなかったでしょう、草野球場は。今すごいですもんね。
【聞き手1】 草野球場って、絵画館の前の芝生のところですよね。
【HM】 そうです。
【聞き手1】 東京バザールっていうのイチョウ並木のとこでやっていました。何とかバザールっていう名前の走り。何かこう、ちょっとフランス、パリみたいなきれいなカラフルなテントをいっぱい並べて、そこにいろいろなお店が出ていて、ちょっとおしゃれな、何か縁日が和風だとすると、洋風な。あれは昭和40年代だからちょっとオリンピックよりは下がっちゃうけど、45年とか6年とかっていうころかな。
【HM】 道が広がって、そのころじゃないかな、外苑の並木の真ん前にヘレンさんという元モデルさんが洋服店やっていて、真向いの薬屋さんの後に建ったビルの中にフランスのサンローランの店が入っていて、それで、青山1丁目の交差点の青山ビルですね、その1階、三越バラエティー・一が入ってて。
【聞き手1】 そんな時間があった、あった。ジーパンの「栄光」があるほうですよね。
【HM】 そうです、そうです。だから、三越バラエティーができたときには本当にいわゆる青山の雰囲気をつくったのがその時代でした。だから、ドンクのフランスパンを買うのがすごくおしゃれで、赤坂から買いに来る
【聞き手1】 うち買いにいっていました。いや、それね、ドンクのパンっていうのが赤坂、青山の何かこう1つのシンボルだったような感じしますよね。
【HM】 そうですね。あそこにサンドリアっていうケーキ屋さんの喫茶店があって。
【聞き手1】 1階に。
【HM】 深夜までそこはやっていましたから、芸能人のたまり場だったり、一時。
【聞き手1】 1階サンドリアって、ちょっとアマンドと似たような色のどピンクと白のこうひさしがこう出てて。三越バラエティーストアなんていうと、こぢんまりしているけれども、選んだものを置いていて、何か青山の奥様がっていう感じ。
【HM】 青山っていうか、赤坂の。私のイメージだと、お屋敷街の金持ちの奥様達が犬を連れてフランスパンを買いに来るというイメージ。
【聞き手1】 なるほど。赤坂8丁目あたりのね。
【HM】 そうです、そうです。青山はどっちかっていうと貧乏人ですから、そんな金持ちっていうイメージ全然ないですから。赤坂8丁目のあそこのお屋敷街ですよね。お金持ちの偉い人。
【聞き手1】 なるほど。
【HM】 だから、青山が金持ちっていうイメージが1つもない。
【聞き手1】 なるほどね。だから、それは青山も1丁目あたりと6丁目あたりの方とまた違うんですよね。
【HM】 違うと思いますね。
【聞き手1】 根津美術館のあたりの方たちは何かもうお屋敷町っていうか、イメージを自分たちのまちに持っているけれども、いや、でも、港区以外の人が聞いたら、青山1丁目が庶民のまちだとは思ってないですよね。本当、それはやっぱり住んでいた方の実感ですよね。
【HM】 そうですね。やっぱり緑が多いので、東宮御所がありの、外苑がありのという、青山墓地がありのというとこに挟まれているのが1丁目ですから。ですので、繁華街にはまずならないだろうというのと、本当にいわゆる風俗がだめという縛りがありましたし。
【聞き手1】 そうか。御所のね、お膝元ですもんね。大きな御所だの、青山墓地だの、神宮外苑だのに挟まれた狭い、江戸時代で言うと御家人の屋敷だったんですよね、たしか、百人組とかね。
【HM】 そうだと思いますよ。
【聞き手1】 そういうところが庶民の住まいとかお店になっていったという地域だったわけですか。
【HM】 結構燃えちゃって、外苑が、だって、昔は練兵場だったんだもん。馬が走り回ってたとこだから。
【聞き手1】 そうですよね。
【HM】 その表参道なんかのいわゆる南のほうは、軍人さんたちがみんな住んで、お屋敷でしたから、軍人さんはエリートですので、当時は。
【聞き手1】 当時はね、戦前はね。
【HM】 だから、意識が全然違う。いわゆる商売人の子たちじゃないので。全然違うと思います。だから、脳病院なんかのね、青山のなんかの話もつい、前期、私聞きましたでしょう、表参道のおばちゃまたちの話を聞いたんだけど、やっぱりあっちのほうはそういう意味ではちょっと空気が違いますね。こっちのほうは国が持っていた土地だから、1丁目は、全体的に言うと。
【聞き手1】 なるほどね。じゃあ、その246号線沿いの人一並びが、1階が商店、2階が住まいだったと、裏は全て住宅という。
【HM】 全て住宅。
【聞き手1】 その住宅というのは、じゃあ、お屋敷じゃなかった。
【HM】 そんな大きなお屋敷なかった、記憶の中では。
【聞き手1】 なるほど、なるほどね。
【HM】 だから、事業をやってらっしゃる方ではなかったですよ。サラリーマンですよ、言うならば。
【聞き手1】 なるほどね、いや、これ今しか知らない人はそんな青山1丁目にサラリーマンがいっぱい住んでいたなんて、思わないでしょうね。
【HM】 今だったら逆にサラリーマン住めません。家賃が高くて無理です。
【聞き手2】 だから、赤坂8丁目の方はお屋敷の。
【HM】 そうです、もろにお屋敷でした。
【聞き手2】 こちらは、青山一丁目は住宅地なんですね。
【HM】 そうです、そうです。下のほうへ行くともう墓地ですからね。
【聞き手2】 こちらね。
【聞き手1】 今西麻布なんて言っていますけど、霞町なんて低くなっているところでね。
【HM】 青山3丁目のところに金魚屋さんがあったって知っています? 知らないんですか、3丁目のところの坂で一んと下がりますよね、墓地のところ、あそこのとこ。今でも水出るんですよ、だから。
【聞き手1】 低地だからね。
【HM】 だから、青山っていうのは、青山通りの246号線って昔からあるんだけども、そこが峰になってる。
【聞き手1】 そうそう、尾根道です。
【HM】 で一って、こうやって落ちるんですよ。
【聞き手1】 そうそう、街道っていうのは尾根道なんですよね。
【HM】 そうなんですよ。渋谷川もちょっと源流探したんですけどね、今ほら、暗渠になっているでしょう。私たちの小さなころはまだ表に出てたんですよ、川が。暗渠じゃないから。それで、少し大きくなってから、どうしたんだろうね、渋谷川って、渋谷の駅からずっと原宿のほうを通ってどの辺まで、千駄ヶ谷、基本は新宿御苑、起点が、渋谷川って。おもしろいですよ。昔のおばあちゃんの話聞くと、ここ川が流れていたのよとかね、3丁目なんかはね、もろにね。
【聞き手1】 渋谷川って「春の小川」のね、歌のもとになったところですよね。
【HM】 そうです。隠田ですね、昔の。
【聞き手1】 隠田、そうそう。隠れる田んぼ、だから、原宿は田舎だったんですよね。
【HM】 ものすごい田舎ですよ。
【聞き手1】 私が娘を霊南坂幼稚園に上げてるときに、70代ぐらいのおばあちゃま先生がいらして、その方はご主人の実家は新橋だったんだけど、新婚夫婦には田舎が子育てにいいだろうというんで、原宿に家買ってもらったって言っていたから。
【HM】 隠田です。今の神宮前ですよね。だから、伊東屋さん、文具屋さん、銀座の伊東屋さんのお家も。
【聞き手1】 そうですか。
【HM】 そこの道楽息子がネットでお友達なんだけれども、やっぱり昔の話を書くと、久しぶりだよねみたいな話しています。
【聞き手1】 その渋谷川は幾つぐらいまでは川として流れてた記憶。
【HM】 今でも流れてますよ。
【聞き手1】 いわゆるそのほら、暗渠になってるところが。
【HM】 結構私の感覚では高校時代まで流れてたんじゃないかな。
【聞き手1】 そうですか。まちの中に川があったんですね、高校時代までね。
【HM】 ありましたよね。高校は丸々私は三鷹行っちゃったんで、ちょっと青山のことがいまいち疎いんだけども、大学のときにまた青山に戻ってきてるんで。
【聞き手1】 じゃあ、高校時代の3年間だけ三鷹なんですね。
【HM】 はい。もうあんな田舎嫌じゃと思って。
【聞き手1】 いや、三鷹に住んでる人は怒るでしょうけどね。
【HM】 だってね、夜中に寝てるでしょう、し一んって音が聞こえるの。
【聞き手1】 わかる。
【HM】 青山にいたときには、トラックが通ればこんなになっていたし、年中音がしてますでしょう。三鷹にいたらね、寝ているとね、本当にあの音がするんですね。
【聞き手2】 静かで寝れないと。
【HM】 し一んって音がするんですよ。
【聞き手1】 そう、全く音がしないときって耳が鳴るんですよね、し一んってね。
【HM】 だから、あれは私初めての経験でした。
【聞き手1】 そうか、そうか。
【聞き手2】 この前、酒屋の四方酒店のご主人がそうおっしゃっていた。ほかに行くと静かで寝れない。
【聞き手1】 四方さんもね、赤坂で300何10年、そうか、じゃあ、青山通りに面しているお店屋さんで、お店屋さんって間口があいているから、やっぱり音は入ってきますよね。たばこ屋さんっていうのもあれですよね、今本当にね、たばこ吸わない人が増えちゃったからあれですけど、いつぐらいまで、立ち退きまでですよね。
【HM】 そうです。
【聞き手1】 立ち退きがいつだったかというのは。
【HM】 ツインビルができるとき。
【聞き手4】 昭和47年です。
【HM】 でき上がったのがそのぐらいでしょう。立ち退きはその大分前だと思う、5年ぐらい前だと思う。5年か6年ぐらい。だから、そうですよ、工事しているときに私、うん、戻ってきているから、大学で、青山1丁目に。おやじが借りていた都営に私1人で入ったから、そのときに工事、とんてんてんてん、ツインビルの工事していて、ガス漏れ起こして、電話してっていう。だから、三鷹へ移ったのは高校時代ですよ。大学では青山へ戻ってきて、そのときに工事していたので。
【聞き手2】 青山の縁日とか、そういう、楽しみは?。
【HM】 青葉公園でね、美空ひばりの映画会、よくやっていましたよ。あそこにゴザ敷いて。青山の1つの基点になっていましたんで、あそこでお祭り。盆踊り、お相撲大会、映画会、当時は美空ひばり。ちょうど青葉公園の真向かいに駄菓子屋さんがあるというパターンですね。
【聞き手1】 あんなところに駄菓子屋さんあったんですか。
【HM】 入り口の目の前にありましたよ。随分長いことありましたよ。
【聞き手2】 あそこ今でも盆踊りやっていますよ。少し戻ってですね、外国文化で何か外国人との接触で外国文化を感じられたとかないですか。
【HM】 ないですね。米軍の、米兵ぐらいですよね。
【聞き手1】 米兵覚えてらっしゃいます?
【HM】 うん、うん。やっぱり基地が墓地下にあったんで、どうしても。
【聞き手2】 墓地下にね。
【HM】 あと、山王下のほうの、赤坂には将校クラブがあったし。だから、この辺結構米兵が動き回っていましたもんで。
【聞き手1】 でも、団塊の世代の方って、育つ過程ですごくアメリカ文化というのを、テレビだとか、ファッションだとか、音楽だとか、そういうところで受けているというのはありませんか、何か。
【HM】 歌謡曲一切聞きませんでしたよ。
【聞き手1】 やっぱり洋楽一本。
【HM】 はい。それで、だから、ラジオでベストヒットみたいなのを聞いているわけですよ。それで、初めて入った日本の曲が「こんにちは赤ちゃん」でした。日本の歌が入ったよ、みたいな。あとは全部アメリカのとかね、海外の。
【聞き手1】 DJのラジオ番組とかは聞いてらしたのか。
【HM】 聞いていましたね。あの当時はサンレモ音楽祭のイタリアの曲が結構はやっていたんで。カンツォーネの系統ですよね。フランスの曲って、いわゆるシャンソンというのは私の耳には当時は入ってなかったですよね。
【聞き手2】 アメリカとか、イタリアとか、そういった曲ばかり、それを主で聞かれていた。
【HM】 ですよね。
【聞き手1】 いや、あのころ若い世代でも二手に分かれていて、御三家とかいって歌謡曲を追いかけて、明星とか、ああいうのを買う派と、それから、洋楽一本という派といましたよね。
【HM】 だから、私が歌謡曲、演歌を聞いたのは大学に入ってからですよ。それで、銀座のバーに行って、美空ひばりを聞いて、いい歌だなとかいって感激した。それまで知らなかったなという感じですね。
【聞き手1】 ご両親なんかも、やっぱり、じゃあ、あんまりそういう演歌とか歌謡曲とかお好きじゃなかったの。
【HM】 全く聞かなかったです。
【聞き手1】 なるほどね。
【HM】 姉はピアノをやって、私はバイオリンやっていたんですけど、青山にいたころに。渋谷にそういうところがあったんです。お稽古する楽器屋さんが。宮益坂の渋谷から青山に向かう坂道のところに楽器屋さんがあって、そこでお稽古やっていましたね。キーコー、キーコーっていって。
【聞き手1】 楽器屋さんって何楽器屋さんだろう。
【HM】 何楽器屋さんだろう。結構ありましたね、ずっと。長くはやってなかったですね、成人してから今度三味線ですよ。
【聞き手1】 え一。
【HM】 高校のときの友達が、米川さんのお家元さんの娘さんだったんで、お母様が人間国宝でしたから、新宿の名誉区民ですよね、その娘がいて、習いに行って、信濃町だったんで、前は四谷、麹町に住んでいたのね、共立だったんでね。地唄舞、お琴、黒髪とかね、やって、お金を払わずにやって。
【聞き手1】 本当に。
【聞き手4】 日本風になったわけですね。
【HM】 だから、そこのお友達は、米川先生のご主人は俳優さんだったんですよ。それで、娘さんが2人いて、お姉ちゃんが本来はね、家元になるんだけど、お姉ちゃまがリュウマチになったんで妹さんが後ついで。
【聞き手1】 そうか、リュウマチじゃこれがきかないものね。
【聞き手2】 映画なんかどこか渋谷とか行ってらしたとか、見られて覚えているとか何かありますか、映画。中に、女学生でね。
【HM】 女学生のときには、ジョージ・チャキリスの『ウエスト・サイド・ストーリー』、2回も3回も行きましたね。あとは、ディズニーですよ、親が許可してくれた『わんわん物語』から。あとはもうあれですよ、青葉公園の美空ひばりです家族で行った。
【聞き手1】 『サウンド・オブ・ミュージック』、小学校6年生ぐらいのときにやって、そうそう、すごくはやった。曲もね。
【HM】 あれはね、英語ですごく歌いやすいんですよね。「エーデルワイス」なんか。歌っていましたね。
【聞き手2】 当時読んでいた本などは?
【HM】 当時読んでいた本、うちはね、玄関口にぶわ一っと本が並んでいて、少年少女向けの本が、真向いに本屋があったんで、そこにあった本は全部読んでいましたね。立ち読みで。
【聞き手1】 立ち読みで、へえ。
【HM】 読む本がなくなりましたね。だから、何でもかんでも読んでいましたから。
【聞き手1】 なるほど。
【HM】 印象に残っているのはね、カラコルムのお姫様の話とかね、あと、やっぱり日本昔話の神話の話ですよ。今の民話じゃなくて。とか、もう女学生になったらあれですよ、『ジェーン・エア』とか、『赤毛のアン』とか、『秘密の花園』から、四姉妹の話とかね。あれは一通り全部は読みましたね、やっぱり。
【聞き手1】 お父さまは中学校の先生ということは、科目は何を。
【HM】 数学です。だから、私も数学が得意でしたね。成人になってから簿記、うちの主人が会社やっていたんで、経理見てくれって言われて、簿記習いに行って、ぴたっと合うのが最高に快感なんですよ、右左って。だから、好きなんですよね、あれね。
【聞き手1】 ご自宅にはそうやって少年少女向きのご本というのをそろえてらしたんですね、お父様。
【HM】 私が幼いころというのは、少年少女向けの昔の、何だろう、中央アジアの話だとか、あと、あのね。
【聞き手1】 カラコルムの姫君なんていうの。
【HM】 おできができてね、それがね、人面相でね、会話をするとかいうの。いわゆる何だ、スリラーものみたいな、ちょっと冒険にそういうのが入った話とか、それが少年少女向けにあって、片っ端から読んでいましたね。だから、逆におでき出るのがすっこい怖くてね。
【聞き手1】 しかも、昔はそんなにしょっちゅう、しょっちゅう本買ってくれるわけじやないから、繰り返し読みますよね、1冊の本。よく覚えますよね。
【HM】 うち前が本屋さんだったから。ずっと立ち読みしているでしょう。すると、父親が迎えに来るんですよ、飯だ、何やってんだって言って。
【聞き手4】 でも、本屋さん、よくね、ずっと見ていても何も言いませんね。今と違いますね。
【HM】 封してませんもんのね、昔の本は。
【聞き手4】 大らかですね、昔はね。
【HM】 立ち読みしながら笑ったり、泣いたりね。
【聞き手1】 お宅はお店屋さんだから、当然電話なんかはあったわけですよね、早くから、わりと。どの家にもあった時代じゃないですけど
【HM】 ありましたね。今私が使っているのは当時からの電話番号です。3がつく前からの電話番号です。すごいわかりやすい電話、0000-0000。すると、娯楽は本と。ちっちゃいころは渋谷まで行きまして、東横デパートの屋上で遊びました。妹を引き連れて行きましてね、何だった、ゴム風船、ゴムじゃない、何風船っていうの、ふ一って吹く、管にくっつけてぷ一って吹くとびゅ一って膨らむ、あれがね、大好きで、割れないね、穴あけて何か入れたりなんかする。
【聞き手1】 あるある、何か透明なんだけど割れなくて、中にお札とか入れるあれ。
【HM】 できるような、ストローにゴムみたいなぶちゅぶちゅをくっけるんです。ぷ一って膨らませるの。
【フジタ】 何かチューブか何かに入っていて、ストローの先にね。
【HM】 そうそう。あれがすごく好きで、それを渋谷の東横に買いに行くんですよ。それで、一度うちの妹が迷子になって、お金がないからって歩いて帰ってきたとかね。
【聞き手1】 じゃあ、行くときは地下鉄に乗って。
【HM】 地下鉄に乗って、だけど、昔のいわゆる渋谷の駅と東横とをつないでいたロープウエイは知らないんですよ。
【聞き手1】 そのころデパ一トの屋上遊園ってどんな感じでしたかね。何かやっぱりこう、コインを入れないと動かないようなものばっかりでした? それとも、何かもっと自由に遊べたのか。
【HM】 もっと自由に遊べたような気がする。
【聞き手1】 なるほど。だから、子供同士でも行けたということですね。妹さんとね。
【HM】 そうそう。親たちは東横いきませんから、親たちは日本橋の三越ですから。
【聞き手1】 なるほど。じゃあ、お買い物は三越で、子供の遊ぶのが東横。東横かわいそうだけど。
【HM】 東横、あれやっぱりランク下でしたから、坂下だし。
【聞き手1】 そう、そうですよね。何か昔は電車屋さん、鉄道系統のデパートは格下っていう感じありましたよね。
【HM】 ありました。やっぱり昔江戸時代の呉服屋さん系統が上でしたよね。高島屋さんにしても。
【聞き手2】 東横によく行かれたのは。小学校、中学校のころ。
【HM】 小学生のこんなにちっちゃいころですよ。遠征していますもん、だから。
【聞き手1】 すごいですね。子供だけでね。本当活動範囲が広い。
【聞き手4】 すごいですね。行動的なんですね
【聞き手1】 そうそう、本当、活発なお嬢ちゃんだったんですね。
【HM】 そうですね。だって、人形遊びをしたことがない。缶けりね。
【聞き手4】 缶けり、昔はやりましたね、缶けり
【HM】 基本的に言うと、缶けりでしょう、あと、くぎを拾ってきて、都電の下に、線路に置いてね、真っ直ぐにさせるとかね。カンカンにそれを集めて売るんですよ。バタヤさんに売るんです。その下にちょっと石ころを乗せてね、入れてね、渡すとかね。
【聞き手1】 水増しじゃないの。
【HM】 悪知恵はつくんです、子供っていうのは。年中もう駆けずり回っていましたから、近所を。
【聞き手1】 何かそのくぎを都電の線路に置いてというのは何か、皆さん。
【HM】 やりましたよ。頭がぴたっとなるのがね、楽しくてしようがないんです。
【聞き手4】 なんかナイフみたいにしたとかっていう。
【HM】 そうそう。
【聞き手1】 何か手裏剣にして遊んだとかね。
【聞き手4】 ね、何か男の子たちはね。
【HM】 そうですよ、そうです。でも、うちの飼っていた猫ちゃん死んじゃったのよ、都電にはねられて。都電のそばってね、通ると温かいんですよ。摩擦で。冬なんか猫ちゃん行くんですよ。それ以来、だから、動物飼う気にならなくて。瞬間的に動物が走るでしょう。走って家の中に飛び込んできたの、で。道が狭いんで、結局は、信号のないところで寝てる。人間も出入りしてますし、私もそこで、本屋の前ではねられました。うちで飯だぞって怒鳴りますでしょう。本屋で私も相変わらずやってますでしょう。あ、行こうと思って、1丁目の信号すぐそばなのに、50メートルも離れてないのに、真っ直ぐ行こうとするんですよ。そうしたら、走ってきた背中に、横っちょに自分でぶつかっていっているわけ。慶応病院に運ばれて。
【聞き手1】 そうすると、青山1丁目というと、やっぱり信濃町が近いから慶応病院なんですね。
【HM】 慶応です。救急車でも何でも慶応です。
【聞き手1】 なるほど。山王病院というのはやっぱり8丁目のお屋敷の。
【HM】 そうです。あれは、山王病院は赤坂見附の方にあったんだ。
【聞き手1】 飯だぞというのはお父さんの声ですね。
【HM】 ですね。母はそういう叫び方しなかった人なので。
【聞き手1】 あと、お洋服なんかは、既成服とかっていうのはもう出回ってましたかしらね。それとも、お母様がお縫いになったとか、ご近所で洋裁のできる方が縫われたとか。
【HM】 洋服は既成服でしたね。
【聞き手1】 それはやっぱり日本橋の三越なんですかね。
【HM】 でも、ミシンはあったから、修理だとか、ちょっとしたものはつくっていたのかな。お正月は着物に着がえていたし。
【聞き手4】 お正月は必ず新しいね、お洋服とか。
【HM】 でも、いつもお洋服をお母様につくってもらって着ていたという印象は全然ないですよ。お仕事で忙しいんで。
【聞き手1】 そうですよね。お忙しいからね。
【HM】 ただ、一時やっぱりお手伝いさんが家にいたから、だから、昔の感覚だとお手伝いさんが入るのは普通だったんです。今はある程度中産階級でもお手伝いさん入れるの嫌だって言うんです。他人が家の中に入るの嫌だっていう言い方するんだけど、私たちの幼いころまでは普通でしたね。忙しいときは当然、子育てで大変だったからっていって、お手伝いさん入っていましたから。
【聞き手1】 それは、じゃあ、小学生ぐらいのときですかね。
【HM】 そうですね。うちみたいな貧乏人の家が何でみたいなところはありますけど。小さいときってファッションなんて覚えてないですよね。全然覚えてない。
【聞き手1】 足元なんかやっぱり、青山、赤坂の子は戦前からちゃんと靴履いていたみたいですね。
【HM】 靴は履いていました。
【聞き手1】 何か田舎の子はおうち帰るとはだしにげただったりとかするけど、赤坂、青山の人はね、何か皆さん。
【聞き手4】 靴ね、革靴履いていたって言いますね。
【聞き手1】 革靴履いていたっていうね、通学用。
【HM】 うちはあれだな、いわゆるバレーシューズみたいな。
【聞き手3】 ありましたね。バレーシューズ。
【HM】 布でできて、ゴムがついててみたいな。ああいうのだったな、小学生って。革靴なんて履いていませんよ、基本。
【聞き手1】 なるほど。そうか、戦後は、ほら、物資がないから、戦前の昭和10年代よりもかえって。
【聞き手3】 戦前の人は革靴って言ったんだね。
【聞き手1】 そうそう、昭和10年ぐらいの人は。
【聞き手3】 戦後は、だって、物資がないから配給みたいでしたもんね。
【聞き手1】 そうよ、だから、赤坂中学校に通われた方も、かばんが手提げかばんなんだけど、ズックだったって言っていましたもん。
【HM】 だと思いますよ。
【聞き手1】 革製じゃないんだって。
【聞き手3】 布だったかもしれない。
【HM】 幼いときの写真だと、セーターとか、カーディガンだとか着てるよね、お姉ちゃんのなんかかね。赤ちゃんのとき、私何着てるだろう。
【聞き手1】 でも、年中行事で言うと、さっきみたいに、お正月はみんなやっぱりお着物着たんですね。
【HM】 着ていましたね。だけど、商店街っていうのは、基本的に言うと、12時まで大みそかはあけていましたから、お店を。それで、お正月お休みですから、3日間。だから、着物、いつごろからか着物着なくなって、そのうち母も着方を忘れて、子供に教えられなくなって、着物の着方を、私が着物屋さんでバイトして覚えたという。
【聞き手1】 家族中で、お正月は、お父様も、お母様も、お子さんたちもお着物だったんですか。
【HM】 子供は違います。母が着物着ていたという覚えがある。
【聞き手1】 そうですか。じゃあ、三姉妹はお正月着物着るっていうわけじゃなかった。
【HM】 七五三もできませんでしたから。七五三ができたのは妹(昭和28年生まれ)の時代です。姉もできない、私もできない。もうお金ないし、物資ないし。
【聞き手1】 なるほどね。
【HM】 妹のときにはもう七五三でおベベ着て、いいなという覚えがありますね。
【聞き手3】 それはすごくうらやましい感じでしょうね、何か。
【HM】 だから、妹は着物着た写真残ってます。
【聞き手3】 なるほどね。何もお写真が、かろうじて撮れたらきっと。
【聞き手1】 そうですよね。そういう、本当に何年かで全然違うでしょう。
【HM】 全然違った。
【聞き手1】 ちょうど5年、5年だから、5年刻みで。
【HM】 もう妹のときにはみんな豊かですよね、ある程度。自分が結婚して赤ちゃん産まれてから初めて会話ができるみたいな、そういう年の差ですよね。
【聞き手1】 何かごきょうだいがいて、しかも、その年齢差があると、自分の世代じゃないことも知っていますよね。お姉ちゃまが見聞きしていた音楽とかが自然に耳に入ってきていたり、妹さんのときにはやっていたいろいろなことを知っていたりだとか、真ん中でいらっしゃるから、上下の幅10年分ぐらいいろいろ見聞きしてらっしゃるんじゃないでしょうか。
【HM】 いや、そういう記憶ない。
【聞き手1】 そうか、女の子の文化に興味がなかったのかもしれない、少女文化に。
【HM】 だから、それこそ、さっき言った、布施明がいいって言って、高校時代なんかは下敷き持ってくる子たちがいたのね、同級生で。何がいいのかわかんなかった。芸能界に興味なかった、基本的に言うと。歌なんかも、若いアイドルなんかに興味なかったし、すげ一、だから、生意気な女の子だったから、先生とけんかするのが大好きで、先生、この解釈はこうじゃないですかじゃないんですけど、教員室でやっているほうが好きだった。
【聞き手1】 一番興味があったことって何ですか。小学生、中学生ぐらいのときに。
【HM】 小学生のときは60年安保でしたよね。それで。
【聞き手2】 それはやっぱり反対ですか、ちなみに。
【HM】 当時は言っていましたね。そんなような雰囲気で、学生と一緒になってみたいな。70年安保もほら、経験してますでしょう。ちょうどそういう年ごろなんで。
【聞き手1】 70年安保のときにお幾つぐらいだったのかな。
【HM】 大学1年じゃないかな、違うか。
【聞き手1】 あのときも結構。
【HM】 高3からね、参加していたから。
【聞き手3】 大学の初めぐらいですよね。
【HM】 初めですね。
【聞き手3】 私なんか没頭していた。安保のときは何か新宿でばたばたしているのを見ました。
【HM】 新宿で逃げ回って、騒乱のとき。
【聞き手3】 すごかったですよね、あのときね。
【聞き手1】 じゃあ、デモに参加してらしたんですね、高3ぐらいから。
【聞き手2】 ちょうどですよね、我々は。
【HM】 ええ、ちょうど。
【聞き手4】 安田講堂のときとかね、いろいろ。
【HM】 大学1年のとき、ちょうど大学1年のときだったんです。それで、そのときにちょうど芝居始めていて、髪の毛金髪にしていたのね。それをヘルメットの中に丸めて入れて、それで、旗持ちっていって、ピッ、ピッ、ピッていう、やっていたんですよ。早稲田の学生たちと。共立はいない。やっぱり女子大だから。早稲田に行って、早稲田の仲間とやっていて、学生課から呼び出し来るんですよ。君らねって始まる。
【聞き手2】 社青同かな。
【HM】 そうです。それで、いわゆる共産党系の民青。
【聞き手3】 民青ありましたね。
【HM】 共産党系の民青と、学生運動って違うの。
【聞き手1】 違うんですよね。
【HM】 運動が、君らの気持ちはわかるけれどもねと、お茶が出てくるんですよ。
【聞き手3】 私が大学で学生課にいたから、そのころ。
【HM】 そうなんですか。
【聞き手1】 女子大の学生課にいらしたのね。
【聞き手3】 だから、民青とか、いろいろよくわかる。
【聞き手1】 民青の人って、全共闘の人とちょっと毛色が違いますよね。
【HM】 全然違いますよ。
【聞き手1】 もちろん民青じゃないですよね。全然タイプじゃないですもんね。
【聞き手2】 そうです。いや、私もやっぱりシンパだったからね。若くて、正義感とか、そういうのを持っていれば普通そうなりますよ。
【聞き手1】 普通あのころは安保って言ったら反対なんですよ。ちょっと考える人は。そうか、そうすると、ご自身は新宿で、ご実家の前はデモ隊でいっぱいという、家に帰っても外に出ても安保ですね。
【HM】 そうなんです。だけど、何だろう、私なんかはやっぱり芝居やっていたから、そのね、学生運動の教条的なところがやっぱりすごく受け継ぎがたかったですね。だから、「それちゃうやろ」と。そうやって「強制するのかい」みたいなね、ところがあって、問題意識を持つことは悪いことじゃないんで、だから、私はあんたらと一緒になって行動しなきゃいけないっていうことじゃないでしょという、大体論破していましたね。男の子たちは負けていましたね、私の口に。
【HM】 だから、みんな、早稲田、法政なんかの民青は社青同になっていました。
【聞き手1】 なるほどね。小学生から安保問題っていうのはすごいな。
【HM】 青山という場所です。ほかはまずないと思う。やっぱり回りが騒いでいるんで。
【聞き手1】 そうか、だから、日置さんだけじゃなかったんですね。
【HM】 そう思います。だから、論争しているんですよ、近所の子と。おまえ安保どう思うんだよみたいなね。だから、周りが大人に感化されるんでしょう、小さいころというのは。
【HM】 当然不良もいて、全然興味のない子もいるんですよ。
【聞き手1】 なるほどね。これ1つの青山の特色かもしれない。
【聞き手3】 特色ですね、これね、すごいですね。初めて聞きましたね。すごいですね。
【聞き手2】 この前お話聞いたらね、だから、青山通りがフレンチスタイルのデモで本当に揺れていたって開きました。今日お話しすると、さらに身近にそういう、なるほど、青山も揺れた。安保で揺れた青山通りか、そういうのいいですね。
【聞き手1】 だから、どうも何か戦前のあの日あの頃では二.二六事件がやっぱり青山、赤坂の人の最大のライフイベントだったんだけど、戦後はやっぱり60年安保ですね。青山通りとか、赤坂見附とかっていうとね。皆さんも家ごと振動して、家の中まで怒声が聞こえて、それで、ピーポーピーポー、昔はあの音じゃなかったか、ウーというのかしら、とにかく、何か前田病院と山王病院に搬送されるけが人が多くて、夜中じゅう救急車の音が響いていて、忘れられないっていうんですよね。
【HM】 赤坂なんて特にそうですよ。もうお隣なんですもん。
【聞き手1】 そうですよ。国会なんかすぐそこですもんね。
【HM】 むしろピーポーピーポーのほうで、問題は、ホテルですよ。夜中に歩いて。
【聞き手3】 あの燃えた。
【HM】 横井。
【聞き手1】 ニュージャパン。横井さんのね。
【HM】 横井さんのニュージャパン、あのときは何じゃいみたいな。だから、三島の切腹のときには新宿でボーリングしてました。そうしたら。青山はボーリングの発祥地ですから。
【聞き手1】 あれ何年ごろかしらね、ボーリングはやってたの。青山のボーリング、ちょっとお幾つぐらいのときでした。覚えてらっしゃいます?
【HM】 ええ、覚えてますよ。行きましたし。
【聞き手2】 大学入ったころですよ。大学入ってからね。
【HM】 でも、できていたのはもうその前からできていたんで。(*注 外苑にボーリング場ができたのは、昭和27年−1952)
【聞き手1】 そうか、でも、ああいうところに出入りできるようになったのは。
【HM】 できるのは、そうです。すごいおしゃれなボーリング場でしたよ。
【聞き手4】 何か有名な方がいますよね。中山律子とか何か。
【聞き手1】 あと、何かご自分でこれだけはみんなに知ってほしい、言っておきたいというようなことが。
【HM】 基本的に、私たちの世代までは青山というのは田舎。やっぱり都会と言ったら下町になるので、私、共立だったでしょう、だから、下町の子のほうが幅きかせてる学校だったし。
【聞き手1】 神田だからね。
【HM】 それで、それこそ江戸っ子だいみたいな人たちがいたので、青山からといったら山の手、本当に山の手だから、青山は、わりと少ないですよね。それこそオリンピック前なんかは、本当にもう小さなお店だけがずらっと並んでるとこだったので、都電が走っててっていうまちだったから、だから、いつの間にこんなビジネス街になったのっていう印象のほうが強いです。並木に、えっ、観光バス来るのっていう、うそでしょうっていう。今はギンナンの季節。
【聞き手1】 ギンナンで思い出した。だから、山の手だったっていうことは、自然環塊も豊かだったわけですよね。
【HM】 豊かですよ。
【聞き手1】 だから、生き物とかね、どんな、何か、例えば、昆虫なんかがいたり。
【HM】 赤坂はほら、ザリガニとり、弁慶橋、あれは行きましたもん。
【聞き手1】 え一、遠征なさっていたんですか。
【HM】 そうそう、男の子たちが行くから。弁慶橋まで。だから、そういう意味じゃ、弁慶橋のザリガニでしょう。それと、動物ね、何だろう。
【聞き手1】 さっきのあれですよね、タヌキは御所でしょう。
【HM】 タヌキは御所でしょう。そのほかに、動物をとるっていう話はあまり。
【聞き手1】 虫とかどうですか。トンボとか飛んでいましたでしょう。
【HM】 今でも飛んでるから。青山は今すごいですよ、トンボ。団地10階に住んでるけど、10階までわ一っと飛んできます。
【聞き手1】 御所と外苑だから。
【HM】 すごいですよ、トンボ、この季節は。移動するトンボたちです。ルートがあるんですよ。毎年来ますよ。飛んできます。あと、何だろう、チョウチョウ。チョウチョウはとっていたね。あと、セミは普通にあるよね。でも、川がそれこそないから、青山1丁目なんかは、そういう川遊びはできないし、だから、それこそ鉄砲山みたいなところはいずり回るとか、墓地の中で遊ぶという感じだから。墓地の中で遊んでいても怒られなかったし、当時。墓石に乗っていたって怒られませんでした。
【聞き手1】 じゃあ、何かお嬢ちゃまの思い出というよりは、わんぱくさんの思い出ですね。
【HM】 掃除するときなんかはね、真っ先に墓地に、廊下全部、生徒たちが全部お掃除しますでしょう。すると、お隣が青山墓地じゃないですか。掃除していて、男の子がなんだかんだというと、何やってんの、ちゃんと掃除しなさいよって、当然女の子って言いますよね。何だよ、うるさいなとかいって逃げるんです。追いかけるんです。それで、サボるんです。みんなして。待てとか言いながらね。
【聞き手1】 何かもうできてるんですね、ストーリーが。何かもう後に演劇のほうにお進みになる下地が。演劇活動と社青同というのは、何か本当に70年のころのね、青春。
【HM】 小劇場運動が始まっての時代ですよね。だから、70年安保の前後ってそうですもんね。唐十郎だとかね。だから、今一世を風靡している演出家の名前、何だっけ。
【聞き手4】 蜷川さん。
【HM】 蜷川さん、あの方とは現代人劇場というところで、彼がまだ芝居やっていた頃の仲間。蟹江さんもそうでしたし、亡くなられた。
【聞き手1】 いや、何かHMさんにはあれですね、オリンピック以降の話をいろいろ何か聞きたくなっちゃいますね。いろいろなことを覚えてらっしゃるから。
【HM】 でも、あれよ、新宿の風月堂っていうのはやっぱりおもしろいですよ。70年安保のときの。1つのエポックですからね。風月堂は東口の路地を入っていったところにあった。中2階があって、クラッシクを聞かせるお店だけど。風月堂というのは一世を風靡した。
【聞き手1】 何か中学生で、テレビで見ていましたからね、安田講堂の攻防戦はね。
【聞き手4】 私も突入したとき見ていましたからね。
【HM】 あのとき私、涙出ましたもん。
【聞き手3】 だから、今日お聞きしてね、保育園に行きたくないので、パンにチョコレートを塗ったというふうに言っていたじゃないですか、チョコレートってね、小学校のときにパンにつけるのがチョコレートの日はすごいうれしかった。大体マーガリンとか。だけど、やっぱりチョコレートって何かやっぱりこう、青山は違うなと思って、そんなパンに塗りたくる。
【聞き手1】 なるほどね。そういえば、パン屋さんっていうのも昔は、自分のところで焼いているパン屋さんがあちこちにありましたよね。
【聞き手4】 自分のところで焼いて、それで、切ってくれて、そこにジャムとか、何かあんこもあったような気がする、何かおまけでたくさんつけてくれてうれしいなんて思ったことありますからね。
【HM】 青山小学校の前にボンヌっていうパン屋さんがあって、そこなんかもつくって売っていますね。うちなんかはたばこ屋さんやっていて、ヤマザキパンみたいな、そういうパンを仕入れて売っていたので。お菓子も一緒に、昔は大体コーナーがあって、ここがパン売ってて、ここにお菓子を売ってて、だから、ガーナチョコが初めて出たときには、こんなにおいしいチョコレートがある、本物のチョコレートだという感覚があって、だから、母に言われたのは、ケーキをこうね、ショーケースの中に入っていますよね。表から見るとケーキなんです。こっちから見ると半分ないという、犯人は私たち。
【聞き手1】 そうか、そういえばお菓子屋さんのコーナーにたばこの窓があいているっていう。
【HM】 そうそう、それ本当に昔の。
【聞き手1】 それで、昔お菓子って、今みたいにみんな個包装じゃなくって。
【HM】 おせんべいでも何でも入っていましたし、袋に、紙の袋に入れてね、何枚って言って。
【聞き手1】 そうですよね。それで、ポテトチップスでもおせんべいでもはかって、それで、紙の袋に入れて、くるって回して。両わきねじって。そういうお菓子屋さんとたばこ屋さんが併設。その店頭の写真とかないのかな。
【HM】 ないね。当時、だって、カメラなんて自分の家で持ってない。
【聞き手1】 そうですよね。写真屋さんに来てもらってね。
【HM】 そうそう。
【聞き手3】 やっぱり人と撮りますよね、写真、例えば、何かお祝い事があったりとか、何かそういう、自分の商売やっているところが、お店撮るとか、何かないですよね。家族写真とか。撮るようなね。
【HM】 お正月とかはね、必ずね、みんなそろって撮って。
【聞き手1】 後になってみると、今のお店とは違うそういう姿が残っていればなって思うけども。
【HM】 たばこって基本的に言うと未亡人向けに専売のチケットを発行していましたから、政府が。
【聞き手4】 そうなんですか。
【HM】 未亡人が増えましたよ。戦争でご主人亡くした。その人たちの生活の糧を得るために、たばこを専売で許可を出していた。だから、許可制だったので、お米屋さんと同じで。
【聞き手3】 だから、たばこ屋のおばあちゃんだったりするんだ。
【聞き手1】 そうですね。大抵女の人ですよね、座っているのは。
【聞き手4】 おばあちゃんが売っているようなね。
【聞き手1】 売っていた。戦争未亡人が多かったのかもしれない。
【HM】 だって言っていました。
【聞き手1】 でも、お父様はね、最近までお元気でいらしたんですよね。
【HM】 そうです。だから、うちは逆に言うと、それを叔父ちゃんがどこからか手に入れて、それを借りたんです。権利がないと売れない、できないので。やっぱりお米屋さんと一緒なのよ。
【聞き手1】 何百メートル離れてないといけないということも。
【HM】 そうそう、あります。隣同士でつくっちゃいけないよ。
【聞き手1】 ありがとうございました。
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