青山-1
紀元二千六百年祭の提灯行列に参加、山本五十六元帥の葬儀にも参列。街の変化はすごかった。
紀元二千六百年祭の提灯行列に参加、山本五十六元帥の葬儀にも参列。街の変化はすごかった。
① 語り部氏名 KSさん(酒屋店主)
② 男性
③ 生年月日 昭和5年(1930) 12月4日 (その1)83歳 (その2)78歳
④ 青山で暮らした時期 生まれてから現在(平成26年6月28日)まで。
① 主な内容
小学校の頃は戦時中で緊張感の中で過ごした。紀元二千六百年祭(昭和15年)の提灯行列に参加したり、山本五十六元帥の葬儀(青山葬儀場)にも参列した。青南小には女中が弁当を届けるような子もいた。制服の袖口は鼻水を拭いてテカテカ。青山の街は山手大空襲(昭和20年5月25日)で焼け野原になったが、残った住民は自宅跡と思しき所にバラックを建て、周辺の空き地を勝手に畑にして当面をしのいだ。終戦後はあちこちに進駐軍の宿舎ができて、軍人相手のパンパンがバラックに住み込むなど、敗戦の屈辱的事態をへて、昭和27〜28年頃には青山通りに木造二階建ての街並みが戻ってきた。その頃、紀ノ国屋が日本で初めてのセルフサービス方式のスーパーマーケットを開店(昭和28)させたが、これは革命的な商法だった。ついで東京オリンピック(昭和39)時に青山通りの幅を2倍に拡げた事業が沿線の商店をビル化(4F程度)せるとともに大型スーパーマーケット(ピーコックストア・東光ストアー・ユアーズ)などが立地する素地を作る。
また、戦後の時代の変化の中で青山通りの商店は、商売の継承者がなく、段々大手の企業に中小のお店が飲み込まれていく現状などについて話す。
② 備考
青山の酒屋では昭和50年頃まで、御用聞きをしていた。
酒屋、米屋、呉服屋は町との関わりが多く、町の中心的存在だった。
戦後、日本酒は甲東会(灘、伏見の有名酒蔵―月桂冠・白鶴・大関・菊正宗など8者で作った業界団体)の所属メーカー品のみ取り扱ったが、地酒ブーム(昭和60年頃)以降はこれらの銘柄指定はほとんどなくなった。
東京オリンピックの青山通り拡幅事業で、土地買収単価が破格の43〜45万円/坪で驚く。
青山通りの都電廃止で敷石は銀座中央通りの歩道敷石に使われたと聞いた。
① 現住所 港区北青山3丁目
② 小学校 港区立青南小学校 早稲田大学 青山の酒屋を継ぐ。
③ 保存資料の状況 テープ起こし原稿 要約 取材シート
④ 取材者 TM (聞き手1)・YK(支所) (その2)NK・FK
⑤ 取材年月日 平成26年(2014)6月28日
⑥ 旧住所 港区赤坂青山北町6丁目
語り部 KSさんの話
【KS】 ・・・終わって、オリンピックの期間というのは、学校へ行っていたことと、ちょっと修業、某酒屋へ丁稚奉公みたいなことをしたりして、地元にあんまりいなかったんでね。それでつぶさに町の様子を正確に伝えられないんだけど。だけど、今日の話も、「いい話はできませんよ」と断ったんだけど、「何でもいいから会ってくれ」と。だから、最初からおことわりしておきます、あんまり期待しないでください。
【聞き手】 いえいえ、そういう酒屋さんの跡継ぎの方がどんな修行をなさったとか、どんな生活をなさったかということも、赤坂、青山に暮らした方の一つの歴史なので、失礼ですけれども、何年生まれでいらっしゃいますか。
【KS】 僕は昭和5年。
【聞き手】 昭和5年生まれ、はい。そうすると15歳で終戦。
【KS】 戦争が終わったのが20年だから、中学3年ですね。3年のときに、そうだ、戦争を終えたんだ。私の時代は中学校で軍需工場、学徒動員という名前で、もう学校に行かないで、東横線の新丸子というところの三菱重工業、当時の軍需工場へ学徒動員で、もうほとんどそこへ通っていたから、学生生活というのは中学のもうほとんど、最初の1年かそこらしか記憶がないんだけどね。工揚に勤めて、工揚で8月15日の例のラジオの放送を聴いたということですね。
【聞き手】 ああ、工場でね。
【KS】 そう、工場で、みんなで聴いたんだけど、例の天皇陛下のあれだけでは音がかすれて、何か言葉が難しいから、何だかわからないと言っていたら、一部の人がみんなに「負けたんだ」というふうに伝えてきたんで。それでちょっと呆然としたんですけどね。
【聞き手】 なるほど。一番多感な時期ですから、戦争に負けたというのはショックで。
【KS】 そうですね。やっぱり、当時の教育で、絶対に日本が勝つということと、どんなことがあっても続けるという気持ちでいたから、気抜けしたというよりも、悔しかったですね。ホッとしたというのはなかったですね、多感だからね。
【聞き手】 ちょうど正義感の強い15歳の少年で。
【KS】 そう、戦争には負けないという頭でいたから、それはよく覚えているんだけどね。
【聞き手】 なるほどね。その日から生活が変わるわけですよね?
【KS】 そうですね、それ終わって、あのときにね、覚えているのは、渋谷に出て、新丸子というのは東横線でかなりあるんですけど、鉄橋があったんだね、空襲でやられちゃうでしょう、そうすると電車がとまる、とまるけど休まないで線路伝いにそこまで歩いたことはよく覚えている。新丸子まで、線路の上、枕木の上をね。川があったんで、そこは怖かった、下がね、何川だろうね。
【聞き手】 多摩川ですね。
【KS】 そんな川なんてたくさんないから多摩川でしょうね。あれは怖かった、さすがに。
【聞き手】 川幅、結構ありますからね。
【KS】 あるし、高いしね。線路の枕木伝いで、空襲でやられたときには2、3回かな、あれを渡ったことがあるけと、それが恐怖だったですね。そんな思いで工場に通ったということです。私の学校は渋谷なんですけど、鉢山の都立一商という商業学校ですけどね。
【聞き手】 ああ、あの西郷山の辺にありますよね?
【KS】 あの学校へ結局戻って、そこで中学校の生活を送ったわけですね。
【聞き手】 いつごろから再開したんでしょうね。
【KS】 再開はね、ひところ、いきなり中学に戻れないで小学校の仮校舎、あの渋谷のどこかの小学校の仮校舎を暫定的に借りて、自分の中学へ戻るには、ある期間、仮校舎で過ごしたということですね。
【聞き手】 なるほどね。都立一商といったら、昔というか、今でもそうなんのかもしれないけど、名門ですよね。
【KS】 当時はそうだったんだけど、僕なんかは商人でしょう、商人というのはもう親の跡を継ぐのが宿命だから、私なんかは最初から跡を継ぐつもりで、学校は商業学校へ行くと、自動的にスムーズに行ったんですけどね。私の場合は、5年のときに新制、6・3・3になったのかな。6・3・3で、5年で中学を終える人もいるし、そこで新しい6・3・3で高校に進学、僕の場合はもう一年間だけど、そこにも行かれるというので、僕は5年で卒業しないで新しい6・3・3の3年の高校生活、1年間だけでもやりました。やっていくうちに自分で商売をやりたくないなという気持ちが生まれて、結局、親に言ったら、「それなら好きな道に行きなさい」ということで僕、早稲田を受験して、早稲田大学で4年間かな、そういう生活しながら、結局、酒屋を実直に親の跡に入って酒屋をずっとやっていれば、それなりに、もうちょっといい、この辺のことをいろいろ、いい経験をしたんだろうけど、商人を拒否したからね。それで自分の好きな道を行こうというので、実質、うちの家業は、私に弟がいるの、2年下で、これが僕のかわりにおやじの跡を継いでずっとやっていた。私は、自分で好きな道を、勝手なことだけど、ある期間やっていたんですよ。そういうことで、あんまり地元で動いていなかったから。それで、最終的にうちのおやじが脳溢血で倒れたんですよ、そのときおやじ、亡くならないんだけど、その様子を見ていて、ああ、これは俺、跡をやらなきゃいけないなということで、そこで一念発起して親の跡を継いだということで、いきさつとしては、そういうふうにちょっと変則的なんだけどね。
【聞き手】 早稲田に4年に行かれて、その直後とか、そんな感じですか。
【KS】 そうですね、出て、それで、あんまり詳しいことは言いたくないんだけど。
【聞き手】 ああ、済みません。
【KS】 ちょっと無駄飯を2年間ぐらいやったんですよ。
【聞き手】 何かほかのお仕事をなさったわけですね。
【KS】 そうそう。その間におやじが倒れて、一応やるということになったんですよ。なったけど、僕は酒屋の経験が、息子なんだけどあんまり経験豊かじゃないから、さっき言った丁稚奉公をそこから、大学を出てからすぐにうちの家業を継がないで、田舎の酒屋なんですけどね、そこに2年間ぐらい行ったのかな。
【聞き手】 何県ですか。
【KS】 神奈川県の、田舎の知り合いのところ、そこで2年間、丁稚奉公をやって、空白が何年かあったから、私が自分の店を継ぐ体制に戻るまでに結構そういう寄り道、回り道をしたから、さっき言ったようになかなか当時のまちの様子なんかもよくわからないということなんです。ここへ戻ってからは当然、ここの街の商店の一員として商店会というのがあるし、そういう街の中でいろいろ、地域の中の生活をしてきたんですけどね。私が戻ってきてからの話は多少できますけどね。
【聞き手】 早稲田に通っていらしたのは、交通機関、どういうふうに通われていたんですか。
【KS】 交通機関は、そこの表参道の灯籠を知っていますか、あそこから早稲田行きが出ていたんですよ。学校まであそこからバスで、普通のやり方は、渋谷まで歩いて、渋谷から、昔の国鉄、今のJRで高田馬場まで乗って、高田馬揚から学校まで、またバス、スクールバスで、面倒くさいと思っていたら、そのうちにバスが引けて、表参道から早稲田の正門までね、バス通いしていたんですけどね。早い話が不良だったから、ほんとに。(笑)不良生活していたから、あんまり語りたくないんですよ。だから、きのうの夜ちょっと青山中学で震災が起きたときにどうやって街の人が避難するかという訓練を夜やったんですよ。終わって、きょうこれがあるから早く帰ろうと思ったら、時間も時間だし、ちょっと今日の準備をやっておこうと思ったんですよ。やっているうちに、「あしたの朝、赤坂支所のインタビューがあるんで、おれ、ちゃんと朝、起きなきゃいけないし」と言ったら、「何の話?」と言うから、僕が「戦後からオリンピックまで」の話を聞かれると言ったら、「僕のほうがよく知っている、あんた、その間はあんまり知らないでしょう?」と言われて、「そうなんだよ、困っちゃっているんだよ」と、不良だったからね。(笑)
【聞き手】 いえ、でも、不良の方のほうが人生おもしろいんですよ。
【KS】 そんなの自慢にもならないし、後悔なんですけどね。
【聞き手】 みんなそうですよ。
【KS】 いやいや、お恥ずかしい。今、ほんとに真面目にやっていますから。
【聞き手】 でも、中学3年で、おうちは空襲のときにも焼けなかったんですか。
【KS】 空襲は昭和20年5月25日の山の手のでっかい空襲、あれで青山は全部やられて、私のところは、私が生まれて育った実家が焼けても、直後に掘っ立て小屋、私の場合は近所に外壁だけが残った、ちょっとコンクリートの残骸があったんですよ。そこを少し雨漏りだけ押さえて、簡易生活。私なんかはまだよかったんです、大体の人は焼けた跡のトタンとか、焼け跡の何かあるんですよ、ブリキだとか、木をどこかから持ってきたりして掘っ立て小屋を建てて、結構、村というほどじゃないけど、ところどころに小屋を建てて、多分、そういう人は行くところがなかったということで'しょうね。知り合いがないとか、田舎がないとか、だから、結局、ウチを含めてあそこに住んでいた人は、当時、7、8軒あったかな。それぞれの形でバラックを建てて、どこにも行かないでそこで共同生活。一緒の建物じゃないよ、個々にバラバラに住んでいるけど、あれは当時、一種の共同生活ですよ。
【聞き手】 ああ、助け合って。
【KS】 助け合い。これは鮮明に覚えているけど、焼け跡を掘り返して、自給自足。
【聞き手】 ああ、はいはい、畑をつくって。
【KS】 そうそう。人の土地も自分の土地も、自分の土地はわかるけど、人の土地との境目がないでしょう。もちろん誰もいないところだし、土地の所有者というのはあるはずなんだけど、あれは戦後しばらく、何年ぐらいかな、5、6年はその生活をしたと思うんですけどね。人の土地を勝手に開墾して、中には、田舎の経験者もいて、陸稲といって、米までつくったり、そばとか、そば粉にするまで、そういう上手な人がいるんですよ。ふだん、僕らはばかにしていたんだけど、その人がリーダーになって、みんな、見よう見まねで、肥料はいっぱいあるから、自分たちの排泄物を全部肥料にして、自給自足を何年ぐらいやったのかな、しばらくやっていたんですよ。
【聞き手】 ああ、じゃあ、日ごろは、もともと青山の人じゃなくて、肩身が狭かったような田舎出身の人が。
【KS】 そうそう、田舎出身の人が急に指導者になっちゃってね。それが一番頼りになるしね、僕らは何にも知らないから教わりながら見よう見まねで、サツマイモ、サトイモ、ジャガイモ、あれは簡単にできるんだね。
【聞き手】 おそばは、石臼か何かあったんですか。
【KS】 そうでしょうね。そのおじいさんというか、おじさんが田舎から持ってきて。
【聞き手】 ああ、なるほと、こっちにないですもんね。
【KS】 そうそう、そういう生活は懐かしかったですね。そのうちに、いわゆるほんとの土地の所有者というか、地主がポロポロ戻ってくるんです。帰ってきて、「たしか、ここはうちだ」というのに畑になっちゃったり、土地の権利書等がないでしょう。
【聞き手】 ああ、焼けちゃって。
【KS】 何か多かったのは、既得権で、畑にしちゃった人が頑張っちゃって、もうだめだと、相手が対抗できないんですね、あれ。あれはやっぱりすごい話だけどね、結構、畑を自分のものにしちゃってね、それが生きて、何か焼け太りになった人が随分いましたね。要するに、何も焼け跡しかなくなっちゃって、自分の土地すらもう確認できないこと、戦後何年かありましたね。世の中が少し落ち着いてきたのは、そういう人たちがボツボツ戻ってきたり、バラックにいる人が、もう戦争がないから、自分の家をつくりたいということで、それも正確に言えないけど、昭和20年に終わったとすると、25年ぐらいかな、木造で、当然、大工さんその他職人が出てくるんでしょうね、あっちを建て、こっちに建てで、大した建物ではないけど、ちゃんとした家を建て始めた。今の青山通りも商店が、二階建ての木造家屋ぐらいでそろい始めたんですね。それが多分4、5年たってからでしょうね。昭和27、8年になると街並みがそろったんじゃないかしらね。
【聞き手】 なるほど。みんな、青山通り沿いもそのころは2階建て木造だったわけですね。
【KS】 ええ、鉄筋の家はないですから。一部、空襲で焼け残った鉄筋の家が何軒かあるんですよね、外枠というか、外壁だけね。それを壊さないで中に入っていた人もいますね。さっき言った表参道の入り口の本屋さん、山陽堂さん、有名だけど、あそこも当時珍しい鉄筋の建物なので、あれなんかもあのまま生かして営業を続けられたと思うんですけど、大半はもうないですからね、何もないから木造建築でボツボツと。街の形ができたのが昭和27、8年だったかと思いますね。
【聞き手】 そうすると、先ほどのお父さんが倒れられた年数から言うと、昭和29年か30年ごろですかね。
【KS】 多分、29年で正確だと思うんだけど。私は学校を卒業、大学を出たのが28年か29年でしょうね。それでちょっと寄り道して、丁稚奉公をしたりして我が家に三代目として入ったのが昭和30年かしらね、30年だと思いますね、嫁さんをもらったのが33年だからね。30年から真っ当に家業に励んでいます。今はもう大変な、街の二宮尊徳とは言われないけど、真面目だから。33年に結婚して、今日まできているんですけどね。だから、多分、この街が形、体を成してきたのが昭和24、25年でしょう。それから、いろいろ町会とか商店会とか、あれはやっぱり人が集まるとそういう組織をつくり始めるでしょう。それが昭和28年。だから、結構今、多いのが60周年とか50周年とかみんなやっているけど、60周年というのは、多分原点は昭和28年。だから多いのでしょう、28年ごろが、そういう各業界にしろ、街並みにしろ、組織づくりが始まった年だと思いますよ。
【聞き手】 流れを追ってよく覚えていらっしゃいますね。
【KS】 そんなことないです。
【聞き手】 ええ、我々の頭に入りやすいです、ほんとに。結構、普通、あちこち飛んじゃうんですね、でもきっちり年代的にお話しいただけるからわかりやすいです。
【KS】 ああ、そうですか、一つは、ここにしかいなかったからね。全く動かないで、一日たりともよそに行かないで、この土地に居続けたというところが、半分自慢でもあり、半分、何かばかみたいないんだけど。ただ、そこでごはん食べて寝ていただけだからね。そういう人はほとんどないですね。多かれ少なかれ、みんな一時どこかへ引っ越したり、疎開したりして戻ってきたと。焼け跡にそのまま居続けたというのは、この近所でもいないんじゃないですかね。いたけど、今はもういなくなっちゃった。
【聞き手】 そうすると、その当時、7、8軒、隣近所の方がどこにも行かないでバラックを建てていたということは、戦後、復興したときの商店というのは、戦前と同じ商店が並んだんでしょうか。
【KS】 商店はないですよ、だから、焼けちゃっているんだから。
【聞き手】 ええ、それでバラックで。
【KS】 私の場合は、私の近隣の適当な、自分の家の跡がはっきりしている人は自分の家の跡にバラック建築ね。それで、定かでないのは人の土地の上に建てちゃったりね、あと、外壁の残ったような建物があると、そこへ入り込んで、そこに幾らか、内装というもんじゃないけど、ちょっと住めるように直したりして、ほんとの自給自足で、2、3年はその生活をやりましたね。
【聞き手】 そうすると、酒屋さんを再開なさったのは?
【KS】 酒屋はね、お酒というのは、やっぱり、必需品とは言わないけど、国の厚い保護があったので、お酒は戦後すぐに、戦争中は配給がありましたけれども、あの流れで、豊富にはないけれど、それを、ある程度割り当てで酒屋にあてがうというか、国からというかね、もらって、それを分けて売ったということが始まりですね。
【聞き手】 たしか免許制ですもんね、酒屋さんは。
【KS】 免許制、厚く保護されていたのね。だから、免許がないと酒屋はできないんですけどね。だから、酒屋もそうなかったけど、うちも残った酒屋ですから、その酒屋に品物が割り当てだけれども、届く。それを、ぼちぼち戻ってきた酒屋が自分の店がないし、いるところがないので、私のところへ同業者が集まって、そこで品物の引き取りとか、品物を分けたり、そういう役目を果たしていましたね、うちでね。みんなまだ自分の家がないんですよね、戻ってきてもね。
【聞き手】 ああ、なるほどね。
【KS】 戦後2、3年のころだから、みんな軍服を着て、兵隊帰りも多いでしょう。戦争へ行って戻ってきてすぐに商売はできない、酒屋は免許制だと。だか、既存の残った酒屋を拠点にして、それも酒屋の共同生活、そんな時代がちょっとありましたね。私は、当時まだ中学生、やっと高校生ぐらいでしょう。よくいろいろなおじさんが来ているなと。みんな昔の同業者、戦争が終わって戻ってきて、自分の店を持てないので、僕のところで一緒に働いていたと、そういう時代でしたね。
【聞き手】 それは酒屋さんでなくてはわからないことですね。
【KS】 そうですね。あれ、聞いたことがありますか、国民酒揚って。
【聞き手】 ああ、何かあります。
【KS】 あるでしょう? 国民酒場っていうのは、一種の、お酒が割り当て制だから、お酒を飲みたい人がいっぱいいるわけでしょう。それで、その国民酒場は指定されたところでお酒を飲めるわけです。それを目当てに何か行列してね、行列するから順番で何か券を配ったりね、うちの近所でよくやっていたね、「国民酒場」という名前で、お酒は、どんな世の中で、どんな時代で、お米と同じぐらい人間が求めるものだなと思ってね。そういう思いがありましたね。
【聞き手】 酒屋さんというのは、お味噌とかお醤油とか、そういう調味料も売るじゃないですか。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 そうすると、やっぱり必需品ですよね。
【KS】 そうですね、そういう点ではそういう商売かもしれないですね。米屋と酒屋ね。米屋さんもそうだけど、やっぱり老舗が多いし、国から保護されているというか、免許とか、いろいろな形で、あんまり増えないように長い間、我々、いい思いをしたんだけど、ある時期、ご存じのように、規制緩和があって全部撤廃されて全くなくなっちゃった。それまで僕らは「ぬるま湯」と言うんだけどね、保護されてぬるま湯で何十年もやってきたんですよ。
【聞き手】 そうすると、昭和30年ごろだと、まだまだ、跡継ぎになられても、酒屋さんは御用聞きが多かったんじゃないですか。
【KS】 そうそう、その時代はもう完全に、私が丁稚奉公に行った先もそうだけど、メインは御用聞き、お店へお客さんが買い物に来るという、もちろんそれもあるんですけど、大半はやっぱり御用聞きといって、こちらが出かけていって注文を聞いて届けるというのが酒屋の主たる仕事なんですね。特に酒屋も、表通りにある店と、そればっかりじゃないですから、ちょっと裏通りに行くと、もう完全にそこまでお客さんは来ないから、こちらから出かけていって御用聞きをして、それで届けると。だから、よく、「サザエさん」という漫画で、あれは「三河屋」というのが多いんだけど、あれは必ず御用聞きのシーンがよく出てくる。あれが酒屋を中心にして、米屋にしろ、八百屋にしろ、御用聞き全盛時代ですよね。
【聞き手】 そうですよね。酒屋さんで、スパゲティからドレッシングからお味噌から、何でも注文をとって届けてくれて。大体いつごろくらいまでそうだったんですかね。
【KS】 長いですね。オリンピックが終わってもまだやっていたからね。オリンピックが昭和39年でしょう。50年ぐらいまでやったんじゃないですかね。続いてはいたけど、さっき言ったように、こちらが注文を取りに歩く時代を考えさせられたのは、紀ノ国屋ってあるでしょう?
【聞き手】 はい。
【KS】 あれがうちのすぐそばなんだけど、あれが当初は日本人相手じゃないけど、外人相手にしてセルフサービスという形で、あれがはしりなんですよ。あれを近所で見ていてびっくりしたのは、お客さんがその店へ行って、買って帰ると。商売っていうのは、こちらが聞きにいくものじゃなくて、お店に置いてお客さんが買いにくるものだというのは、あそこから勉強したんですよ。まだ「スーパーマーケット」という言葉があったか、なかったか知らないけど。それで酒屋も、自分の家で売るようにしたいということで、御用聞きは50年ごろまで適当に続いたけど、お店で何とか売ろうとし始めたのは、多分もっと早いでしょうね。昭和44、5年ぐらいからは、やはりお店のあり方としては、御用聞きよりもお店に来てもらって物を買ってもらうという方向に商店はしなきゃいけないということをみんなで覚えたんじゃないですかね。
【聞き手】 ああ、やはり青山ならではですよね、紀ノ国屋みたいに、日本中で一番最初にできたスーパーですからね。
【KS】 そう、あれが進駐軍から始まって、日本人が出入りしたのは何年かからでしょう、当初は外人向けだったけど、そのうち日本人に開放して、何年ごろというのはちょっとわからないんだけど、ある時期から日本人のお客が出入りし、それが過ぎると、今度日本人が主役になって、日本人の店になったんだけど、いずれにしても、お店に商品を置いて、お客さんが全部そこへ買いにいく。品物を自分で、セルフサービス、お客さんが自分で品物を手に取って、あれも全く信じられないことなんですよ。
【聞き手】 下手をしたら、盗まれたとかね。
【KS】 そうそう、万引きだとかね。考えられないことなの、手に取って見るなんて。我々の時代は、商品というのは陳列するけど、説明はこちらでし、お客さんも取ったりしないで、指で、これ、あれと、それが商慣習だったけど、紀ノ国屋さんをはじめとするセルフサービスという形は革命なんですよね、商店からするとね。
【聞き手】 なるほど。
【KS】 だから、街並みは、さっき言ったように、そういうふうに、オリンピックまでは木造の2階建てが主流で、それに青山という通りは、それなりに街並みという・か、商店街の形を一応つくってきた。もちろん、今と比べようもないけど、表通りに店が並んだということね。オリンピックで、ご存じのように、完壁に変わってしまったのは、青山通りの拡幅で9メートル、南北、両側どかされて、中にはいなくなっちゃう、中には、こんな狭くなっちゃう、買い足す人もあるけど。東京都から補償金が出るわけね。出たお金をもとにして、木造をやめて、高層建築じゃないけど、3階、4階、4階が主流になるのかな、鉄筋コンクリートという建物がオリンピックを契機にして青山通りにズラッとそろったわけです。ただ、あれも主流は4階で、エレベーターというのは珍しかったね。滅多になかったですね。
【聞き手】 なるほど。
【KS】 あのオリンピック道路が割と順調にいったのは、土地の買収をやるについて、結構、高額のお金を提示したんですよね。やっぱり、ああいうものが解決するのはお金なんですよね。大義名分はオリンピックというけど、やはり、自分のところを売ったり、撤退したりするのはお金です。これは多分間違いないと思うけど、坪43万円だったと思うんだけどね。聞いています?
【聞き手】 いいえ。
【KS】 提示額が43万円とか45万円とか、青山通りね。それが、とてつもなく高額に感じたんだね。だから早かったの。
【聞き手】 なるほど、当時の地価の普通のからすると。
【KS】 あのね、僕のところは43万円だったと思うんだけど、45万円とか、買い上げますよというので、あれでスムーズにいったの。だけど、その金額の根拠は何だかわからない。ただ、当時の貨幣価値から言うと、「そんなにくれるの?」という額だったと思いますね。だから、よく言う、買収作業が始まると動かない、どかない、どこでもあるけど、あのときは割ときれいにいっちゃったんですよね。もちろんオリンピックという国の政策に協力しようというね。あのころの日本人というのは、まだまだそういう公共精神というか、強かったんでしょうね、国のためとか。
【聞き手】 何か、社会科の授業で「公共の福祉」という言葉をよく聞かされましたよね。
【KS】 そうでしょう?
【聞き手】 だから、「公共の福祉のためには」というね。
【KS】 僕は、あのころ、ああいう大事業がそんなに予定どおりできちゃったというのは、お金の問題プラス日本人が今と全然違うところ、そこでしょうね。
【聞き手1】 そうですね。戦後からのずっと復興というね、日本が立ち直る、そういうあれもあったし、勢いがあったんでしょうね。
【聞き手2】 やっぱり、当時だったら、東洋でオリンピックをやるというのは物すごいことだったんでしょうね。
【KS】 そうでしょうね。オリンピック当時のお店の責任者とか代表者というのは、みんな戦争をくぐった人たちで、だから、みんなやはり国のためとか、社会のためとか公共精神が強いのね。振り返るとそう思う。今ならとても、とても大変な、できない話もあのころスイスイできたというのは、あのころの日本人には強烈にあったね。
【聞き手】 そうですよね、戦争経験者の世代ですものね。
【KS】 そうだね。
【聞き手】 酒屋さんというのは、地域にそうやって出て行って御用聞きに行くわけですから、この地域にどういう人たちが暮らしていたかということをよくご存じだと思うんですよね。
【KS】 そうですね。私はさっき言ったように、やらないんですよ、御用聞きを。
【聞き手】 使用人さんが?
【KS】 そうそう、使用人さん任せで、私は嫌いなの、相手方を訪ねて、御用聞きの出入りというのは玄関を入れないの、みんな勝手口、「猛犬注意」とか書いてあって。
【聞き手】 ああ、そうですね。
【KS】 僕はあれが嫌で、だから僕は行かないと。だから、参考になるような話はない。ただ、御用聞きは壮烈ですよ、スタートしたころは。引っ越しが来る、そうするとそこに何軒かの酒屋が押しかける。そしてお得意さんを確保する。そうすると、中には、これは本当の話だけど、酒屋というのは前かけをかけて酒屋ですという格好だけど、中には、引っ越しが来ると引っ越しの手伝いをやるので大工道具、トンカチとかを持ったり、そういう、引っ越してきたというと手伝いにバーッと行って、そういうやり方をして、そこの家の……。
【聞き手】 ああ、なるほど、あれだけやってくれたからと、これは○○屋さんにやっぱり頼まなきゃいかんと。
【KS】 そうそう、お得意さんを確保したと、そういう競争から始まったんです。それくらい御用聞きというのは壮烈だったの。そのうちにだんだん落ち着いてくると、おのずから縄張りというか、○○屋さんはどこどこの出入りとか大体決まってくるんだけど、それでも競争があれば、割り込んだり、そこへ飛び込んだり、それはいつもありましたけど、いずれにしても、そこの家を訪ねて、奥さんなり女中さんに注文を聞いて荷造りして届けるというのが酒屋の基本なんですよね。
【聞き手】 何というんでしょうか、昔の雇用関係というんですか、何か「小僧さん」なんていう言い方もしましたけど。
【KS】 そうそう。あれはいっごろからか、上野駅へ、ほら、「金の卵」と言っていたでしょう。あの時代、人手がもう幾らでも欲しかったんです。田舎から出てきた人をいろいろな人に頼んで、当時「小僧さん」という名前で、それももう今はもうほとんどどこの店でも住み込みなんてないでしょう。あのころはみんな住み込みですよ。自分の家の一画を住まいに提供して、食事も全部、24時間、従業員と同じように屋根の下で暮らすというのが一つの定番ですよね。そこで主従関係がちゃんとできる。小僧さんというか、従業員はやはり、ちゃんとした労働基準法もないし、盆暮れの休みとか、営業時間も何時から何時なんていう規定も特にないし、けれど、みんなよく働いたんだよね。働くことはみんながそうだから、疑問もないし、ああいうのは、何ていうのかね、とにかくよく働いたね。年季奉公といって、10年とか20年とか勤めると、「のれん分け」といって、主人が新しく店を出すためにいろいろな形で、退職金というのはないんだけど、新しい店をつくると援助する、応援するという形で、長年勤めた形として、それぞれが独立していくというケースが結構ありましたね。そういう雇用関係がやっぱりちゃんと、労働条件だとか、いろいろなものが決まってきたのは、それこそ、相当、後じゃないかな。もちろんオリンピック後ですから、50年ごろからじゃないですかね、そういう形になったのは。オリンピックというのは、やっぱり、街並みはそうやってガラッと変わったけど、商店の雇用関係とか、そういうものは全然、相変わらずという時代だったんですね。
【聞き手】 なるほど。じゃあ、街並みが変わったのはオリンピックだとすると、そういう社会のあり方が変わったのは50年ぐらいということですかね。
【KS】 そうですね。やっぱり50年でしょうね。
【聞き手】 そうすると、KS屋さんにはどのくらいの小僧さんがいらっしゃいましたか。
【KS】 多いときは4人かな、平均2、3人。
【聞き手】 その方たちは、酒屋さんは重いものが多いですから、ああいう荷下ろしとか配達とか御用聞きとかにいらして、ご主人と弟さんと。
【KS】 弟は間もなく独立して、杉並区に自分の店を出したんですけど、とりあえず、私と、私がいない間にやっていた弟と兄弟で従業員と一緒に働いていたと。私は、さっき言ったように、御用聞きはしたことがない、「嫌だ」と言っていた。お店にはいたけど御用聞きはしなかった。だから御用聞きの苦労話なんて、よく話ができないんですよ。ただ、あれはすごかったですよ、どこでもそうですけど、大晦日というの、あれは。
【聞き手】 ああ、掛け取りというか。
【KS】 そう、掛け取り、年末、大晦日に全部精算すると。御勘定は、元来は毎月、毎月という決まりがあるけど、やっぱり、ある時期、オリンピック前までは、お勘定というのは年末に精算すると。ふだんは、よく言うけど、「あるとき払いの催促なし」というのかな、そんな商慣習がしばらくありましたね。だから、そういうものがちゃんとしてきたのが50年ごろじゃないかな。
【聞き手】 そうすると、50年ぐらいから納品書みたいなものを届けてくれるときにくださって、月で締めて請求書をくださって、それで毎月払う、それが50年ぐらいですか。
【KS】 そうですね、それがきちっとしたのはね。
【聞き手】 そのころのお酒、一升瓶ですよね、そのころによく売れた銘柄とか。
【KS】 それはもう、業界用語だけど、「甲東会」というのがあって、有名酒蔵が8つかな、それに入っている。ご存じだけど、「月桂冠」、「白鶴」、「大関」、「菊政宗」その他もろもろ、知っているでしょう、そういう名前は。
【聞き手】 はい。
【KS】 それが今で言うブランド品で、それを扱うことが酒屋にとっては一番大事なことで、お客さんも、いわゆる選択肢がないんだよね。お酒というと、もうその甲東会に所属する有名ブランド品、8社か9社、その中で選ぶというか、それだけの範囲で商いをしていたと。そういう銘柄、ブランド品が変わったのが、いわゆる地酒ブーム、あれは何年ごろですかね。
【聞き手】 そんなに昔じゃないですよね。
【KS】 ええ、何年ぐらいかな、60年ごろかな、昭和60年以降でしょうね。今の甲東会というのは、灘と伏見、そこにもう全部集まっているわけ、お酒というのは灘と伏見なの。地酒というのは新潟県であり、もっと言えば北海道もあるし、特に「越乃寒梅」とか、昔、見向きもされなかった田舎の有名地酒を、結局、選択肢を消費者がつくっていくんでしょうね。ありきたりのものではなくて、こういうものがあるよと口コミか何かで、「○○県に隠れた、これがおいしいよ」と、そういうのが伝わって地酒ブームというのが起きて、今言うブランド品を、もう、売れないことはないけど、ブランド品はお客さんが指定することはもうないです。「月桂冠ください」とか「菊正宗をください」というのは、もうほとんど今はなくなっている。マニアックで、ちょっと人の飲んでいないものを飲むとか、そういうふうに幅がうんと広がってきて、商売のやり方も全然変わっちゃったんですけどね。ある時期、いろいろな意味で変わってきたのは50年以降でしょうね。
【聞き手】 今はもう冷やしてあれですけど、昔はおかんでしょう?
【KS】 そうです。
【聞き手】 かん酒を出すというのは、やっぱり和室、部屋が、お父さんがいて、こういうものじゃないと気分が出ませんよね。おいしさが違うと思うんですね。
【KS】 そうですね、ああいうシーンは、僕らはよくわかるんだけど、お父さんがいて、お父さんが一番いい席に座ってね、こうやっていて、お母さんがそばでかいがいしく、子どもがそばに、かしこまっているんだけど、お父さんを中心に、ああいう家族の風景というのはもう今はないでしょう。
【聞き手】 そうですよね。主婦の立場から言うと、おかんをつけるというと、ころ合いを見て、ああ、そろそろつけておかなきゃとか、「出しましょうか」とか、熱かったしから、ぬるかったかしらと。だけど、冷やというのは、自分で、氷を置いておけば。家族関係も違うということですね。
【聞き手】 そこがね、家族関係の崩壊というか、お酒のおかんもなくなって。
【聞き手】 あと、昔は、よく来客があったんですよね、自宅に。だから、自宅でおもてなしというのは。
【KS】 そうです、奥さんの役目が大事なんだよね、それはサラリーマンも含めてね。サラリーマンは特にそうなのかもしれないね。奥さんの役目が大事で、結局、来客が多いから、それを全部もてなすというか、対応するのは奥さんなんだよね。奥さんの存在というのは大事なんですよね。人の家に訪ねていくと、奥さんがかいがいしく動いている家は、やっぱり、いい家庭だなと思うしね。今はなかなかもう人の家にどかどか入り込むことはない。
【聞き手】 そうですね、もうほとんどないですね。
【聞き手】 会社と家が遠過ぎるんですよ、今。
【KS】 ああ、そういうことですか。
【聞き手】 昔は、遠くても世田谷ぐらいだったから、会社の帰りに部下を連れてくるとか、お年始に部下が来るとかありましたけれども、今はもううちなんかも川崎なんですけど、ちょっと遠過ぎて。
【KS】 同僚が、そこの家へよくありますね、ドラマでしかわからないけど、あったんでしょうね、あれは。
【聞き手】 お年始なんて、お正月には来客がひっきりなしにありましたよね。
【KS】 来客というのは、親戚じゃくなくて?
【聞き手】 そうじゃなくて、そういう仕事上の方とか、あと、仲人した若夫婦とか。
【KS】 奥さんの役目が大変だね。
【聞き手】 そうですね。お正月はいっでもおせちを用意してお酒なんかも切らさないように年末に酒屋さんにいろいろ頼んでおかないといけませんでしたね。
【聞き手】 この前、オリンピックのとき「おもてなし」になっていて、誰が誰をもてなすのかよくわかりませんね。
【KS】 わからないですね。
【聞き手】 口先じゃあね。
【KS】 そうそう。
【聞き手】 そうすると、家庭にお酒を届けるよりも飲食店に届けるほうが多くなっちゃうんですか。
【KS】 そうですね。業務用と家庭用というんだけど、業務用というのは飲食店ね。家庭用というのは一般家庭。こういうふうに酒屋もだんだん色分けされてきた。業務用というのは、やはり特殊なやり方で、値段の面でも、家庭用というのは値段の問題はない。昔、「定価」と言うんだけど、定価販売で、業務用というのは競争が激しい、大量に使うから値段の競争をする。おのずから商売の仕方も違ってくるから酒屋さんも色分けされる。業務用の酒屋、家庭用の酒屋、そういうふうに両方を兼ねてやる場合ももちろんありますけど、どんどん大手というか、酒屋で、そういう大手と称される酒屋は業務用、大量販売をして、家庭用というのは、自分の住んでいる地域の中の家庭とのやり取りですね。そういう区別は、ある時期からされてきた。それもやっぱり、繰り返すけど、昭和50年ぐらいから、そういうふうに業態が変わってきたんですね。
【聞き手】 昭和50年ぐらいって何があったんでしょうね、日本は一体。
【KS】 何でしょうね。
【聞き手】 そういうふうに変わったというのはね、いろいろな面で変わっていますよね。
【KS】 私はそういうふうに感じているの。いつも50年というのは、昭和の歴史を分けていくと、オリンピックまでの話を今、しているけど、あれがやっぱり一つ。それから、40年から50年、オリンピックを引きずっていたんだけれども、50年というのがいろいろな意味で、家庭の家族のあり方とか、テレビは関係ないかな、いろいろな形で何か変わってきたなと。
【聞き手】 確かにそうですね。
【KS】 世の中の様子が整ってきたというかね。
【聞き手】 私はずっと赤坂なんですけれども、明治時代からね。それで住宅地の中なのですけれども、本当におっしゃるとおり、私が大学を出たのが昭和52年なんですが、それまでは住宅地は住宅地、商店街は商店街、花柳界は花柳界で全く色分けされていたんですよ。おっしゃるとおり、卒業した後からどんどん、千代田線が通ったり何かしたあたりから変わって、住宅地の中にも料亭ができてきたり、そういう時期なのか、ちょっとまた勉強してみます、昭和50年。
【KS】 この話の後は、多分、オリンピック以降ということがあるかもしれないけど、またそのときによく僕にも教えてくださいよ。
【聞き手】 青山あたりが変わってきたというと、酒屋さんの納める酒も変わってきたと思うんですけど、三河屋さんは業務用なんですか、家庭用なんですか。
【KS】 うちは両方。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 さっきそういう話をしたけど両方ですね。だげど、割合から言えば、やっぱり家庭用でしょうね。業務用を主体とした業者と競争すると、やっぱりかなわないから、家庭用をやりながら業務用を、家庭用が3分の2で、3分の1が業務用と、そういう二本立てスタイル、結構多いんですよ、そういう酒屋がね。
【聞き手】 純然たる住宅街だった青山が業務地化してきたという実感はどのぐらいですか。お商売のお店が、オリンピックで3、4階建てになるじゃないですか。
【KS】 ええ、それ以降ですね。50年はもう、今、言う業務用とか、そういう色合いをはっきりしていましたね。それはどうしてかというと、僕がちょうどそのころの友人関係、業界の、50年ごろの友人関係をたどっていくと、大体業界がそういうふうに色分けされた時代ですね。僕なんかは青山だから、青山は家庭が中心でやっているけれども、青山じゃない遠くの銀座、日本橋、渋谷、そういう業者とつき合っていくと、業務用の世界というのは、これは大変だなというのは鮮明に覚えているんです。だから、さっきから50年、50年というけど、そのころに酒屋の業態もそういうふうに二分化されたような気がしますね。
【聞き手】 この間、北村薬局(南青山5丁目)の北村さんにお目にかかって、オリンピックの拡幅工事のあたりのことをお聞きしたら、住宅金融公庫から資金を借りて住宅にするつもりでビルになさったそうなんですよ。けれども、実際に入居したのは事務所が多かったということでした。大きな今のURですか、住宅公団なんかが建てた東光ストアなんかが入っていたところとか、ああいうところには住まいにする人が入ったけれども、普通の地主さんが建てたような4階建てぐらいのビルだと、当時は一戸建てがまだ主流でマンションに住むという感覚がなかったらしくて。だから、1階は商店だけれども上は住宅というつもりで建てたのが、みんな事務所が入っちゃったというんですけどね。KS屋さんのビルなんかは。
【KS】 うちは4階建てなんですね、オリンピックで。1階が店舗で、うちは地下もあったからね、地下が倉庫、1階が店舗、2階が住まい、3、4階は事務所に貸していましたね。そういう需要があったんでしょうね。
【聞き手】 事務所のね。
【KS】 ええ。従来、2階建ての木造から、オリンピックを契機にして4階建てが主流になったというのは、多分そういう収入を図るということを覚えたんじゃないですかね。営業は営業として、従来の2階建てよりも高いものを建てて、それを人に貸して、それで副収入を図るという風潮が、これがいいというふうになったんじゃないかしらね。4階建てを建てて、全部、4階建てを自分で使うというケースは少なくて、大体2階でいいんですから、お店と住まいでね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 上は副収入を図ると、そういう知恵というかね、それでやたら多かったんじゃないですかね。エレベーターを導入して高い建物は、その建物が老朽化してからですね。オリンピックが39年とすると、耐用年数が30年とすると、昭和70年ぐらいから、建物の老朽化に伴って立て直すと、今度は4階が8階になると、多分そういう順序ですね。
【聞き手】 そういうときは建築屋がそういう知恵をつけるというか、そういうふうに建てて、上は賃借収入にできますよとか、そういうあれをやったんですか。
【KS】 知恵を授けるんですね。
【聞き手】 銀行も、ですよ。
【KS】 そうそう。それの最たるものがバブルでしょう。ちょうどその頂点で銀行は、お金は何ぼでも貸せますと。高いものを建てるとシミュレーションして、幾ら借りても十分にやっていかれますよということを、銀行の知恵ですごく高いものを建てて、バブルでパンクして、あちこちいろいろ悲劇が出てきたという順序でしょうね。
【聞き手】 エレベーターって公団って、5階以上は、あれですか、エレベーターが必要だとか何とか。
【KS】 エレベーターってなかったですよね。
【聞き手】 酒屋さんのお仕事とまちとの関わりというと、例えば、お祭りのときなんかは結構大きいと思うんですが。
【KS】 それはやっぱり、昔から、いろいろな商売の中で、酒屋と米屋、あと何でしょうね、呉服屋さんかな、酒屋、米屋というのは街の老舗が多いんですね。それから、八百屋さんあり、魚屋さんあり、いろいろな商売があるけど、割と、自分の口から言ってはおかしいけれども、街の中心的存在で、一つは、古いと。あれ、古いという理由はなぜかというと、利幅が薄いんですよ。利益率が低い。魚屋、八百屋、もろもろ、やっぱり利益率が高いから浮き沈みがある。酒屋というのは利幅が薄いから、自然的にけちになる。それから、節約する、地道。例えば、賭け事はしないとか、そういう生活態度がけちで地味だから長年続くし、それが蓄積されたものが多少資産となって残ると。そういう仕組みが、米屋さんもそうだけど、生活必需品だと、国から免許制で保護されているので、そういう条件が伴って、酒屋、米屋が、街の古くて中心的存在だと。そうすると、街でお祭りだ、やれもろもろの行事があると、あるいは、商店街とか商店会とかがつくられると、その辺のおやじさんが中心になってやる。信用もあるしね。信用というのはあると思う、長いからね。信用という一つの財産もあるので、自然的に街の中にかかわりが多くなってくるし、出番が増えると。それは青山だけじゃなくて、多分、赤坂でもそうだし、酒屋のおやじさんというのは、街の中でいろいろやっていますよね。
【聞き手】 ええ、私のちょっと先輩で、赤坂だと柏屋さんなんかも、やっぱり今、元赤坂の会長さんをなさっていますね。
【KS】 あの方もそうだけど、やっぱり、今、言ったように、真面目で実直で、コツコツと、それが信用につながる。だから、街で信用されるので、いろいろな意味で役職を持ってこられる。まあ、柏屋さんもそうですよ。
【聞き手】 あと、四方さんなんかも古いですね。
【KS】 四方さんもそう。これは話が飛んじゃうけど、四方さんは古いんですよ。
【聞き手】 300年とか。
【KS】 そう、東京でも指折りなんだけど、あれだけ長く続くのは息子、息子じゃだめなんです。養子を入れていかなきゃだめ、3分の1、養子だね。四方さんもそうだけど、そうしないと続かない。僕みたいな不良ができると、よく言うでしょう。三代続けばそこは何とかもつとか、必ずばか息子がいて、続かなくしちゃうのは息子なんですよ。その家を長く持続させるには、やはり、養子を迎えて、息子がいても、厳しいところは息子にさせないで、娘さんがいなきゃだめだけど、養子を取って店を継がせる。そういう形をとると四方さんみたいに300年になっちゃう。だけど、基本は、やはりその店の火を消さない。のれんと伝統を守ると、それがうまくいくと酒屋の場合は多分、いろいろな商売の中で一番強いと思う。だから、何とかして営業を、先祖に申しわけないというような気持ちで持続していくのが酒屋なんですよね。
【聞き手】 そうすると、KS屋さんとおっしゃるからには、三河から出ていらしたわけですか。
【KS】 あれは、徳川家康がこっちに来て江戸城をつくって、そのときに三河の国の商人が大分こっちに移って、それが三河屋を名乗って、三河屋が、先ほどののれん分け、愛知県の三河の国の人が多いんじゃなくて、それが基礎をつくって、三河屋ののれん分けをどんどん増やして、もう今は元祖あり、家元ありで、「おれが三河屋の○○」とか、いろいろいっぱい言っていて何が何だかわからないけれども、酒屋の代名詞。「サザエさん」が三河屋でしょう?
【聞き手】 そうです。
【KS】 だから、三河屋が一番多いんじゃないですかね、東京の中でも。ただ、今はもう淘汰されちゃって三河屋さんもなくなっちゃったけどね。三河屋が多いのは、三河の国の人が多いんじゃなくて、三河屋が江戸の、東京の酒屋の元祖なんです。その枝葉がどんどん広がっていった。そこで丁稚さんから手代さんになってのれん分けして。そういうことでこの三河屋は動いていたわけですね。
【聞き手】 じゃあ、三代前のお宅のKS屋さんの最初に始めた方というのは、どこからですか。
【KS】 僕のじいさんは、最初は三河の国だと思っていたら、そうじゃなくて、生まれるまで稲城。
【聞き手】 ああ、東京の郊外の。
【KS】 そうそう、多摩のほう、あそこの生まれなんですよね、後でわかったんだけど。それが東京の三河屋というお店に奉公して、のれん分けして、今の青山のあの地に居を構えたというか、KS屋の旗揚げしたわけですよね。だから、うちのじいさんも、今、言うように、三河の出じゃなくて、三河屋に奉公してのれんをもらってやったと。私はそのことをしばらく知らなかったの、ルーツを。戦後かしら、僕が物心ついてから、うちのおじいちゃんに「生まれはあっちでしょう?」と聞いたら、そうじゃなくて、生まれは稲城で、稲城で丁稚奉公を東京のどこか、何とかという三河屋で勤めて青山に出店したということを聞きましたね。
【聞き手】 青山の看板に明治41年?
【KS】 明治34年。
【聞き手】 1901年。
【KS】 そうそう、それがうちの創業。創業したのは三河から来たんじゃなくて、三河屋をのれん分けして青山の地で旗揚げをしたという歴史があるんですよ。
【聞き手】 でも、幾らそのころにしても、青山通りに面したところにお店を構えるというのは大したものですよね。
【KS】 それは青山という土地をどうして見つけたのかわかりませんけどね。青山というのは、もともと、当時でもいいところだったんでしょうね。
【聞き手】 お屋敷町ですよね。
【KS】 そう、いい街として形ができていたんじゃないですかね。いわゆる屋敷町で、軍人さんが多いしね。
【聞き手】 そうですよね、軍隊が多かったですね。
【KS】 そうです、そうです。
【聞き手】 そのお祭りの責任者になることもさることながら、何か神事とか建前とか、必ずお酒は神様に捧げるものじゃないですか。
【KS】 そうですね。だから、酒屋は、そういう点では、行事には必ず酒が伴うので、需要がいろいろなところにあるから酒屋が成り立っているんでしょうね。何かにつけて酒でしよう?
【聞き手】 そうですね。
【KS】 だから、酒という商売は、一種の必需品なんですね、あれ。
【聞き手】 そうすると、家族生活というのは、先ほど従業員さんが2、3人いらして、ご自身のご家族が。
【KS】 家族は、1つの建物の中に、私の場合は、おやじとおふくろ、私と家内と二世帯だね、嫁さんをもらって、だから、私の両親と私の夫婦と自分の兄弟、まだ嫁に行かないのがいましたから、うちの嫁の立場で言うと、姑、小姑、従業員を一つ屋根の下に抱えてというか、その中に入ってきたわけ。だから、今、思うと、うちの女房は大変だったなと思いますよ。食事も一緒ですから、大家族全部賄って、お店をやり、子どもがいたから子育てをやり、よくやったと思うね。
【聞き手】 ほんとですね。
【KS】 だから、商店に嫁ぐということは、大半はやはり大家族の中に飛び込んできて、従業員の生活まで面倒を見ながら、商売をやり、子育てをやり、姑に仕え、小姑に仕え、一人何役もやったと。それはうちだけじゃなくて、多いと思いますよ、それは。今みたいに核家族になって、子どもたちはそれぞれみんな、住むところが別々になっちゃって、こういう形というのはいつごろからなったのですかね。私の当時の店をやるべく入ったときの生活というのは、そういう大所帯の中でやっていましたからね。
【聞き手】 そういうことは戦前と変わらなかったわけですね、昭和30年代でもね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 でも、家庭の電化製品というのは、そのころどうだったんでしょうね。
【KS】 電化製品ねえ。
【聞き手】 それだけの方の面倒を見るというと、お洗濯にしろ、青山なんかは早かったのかなと思って。
【聞き手】 掃除機とか洗濯機とかテレビ。
【KS】 そういう家庭の苦労というのは、僕は見て見ぬふりをして、みんな女房がやったからね、僕は勝手なことをやっていたからね。だから、私は、こういうことをだんだん言うと自分の後悔になるから嫌なんだよ。だって、女房はそうやって八面六臂の活躍をしていて、私は女房に全部任せて勝手なことをやっていたんですから、私はもう今、女房孝行しているというのは、ただただ申しわけなくて、一生懸命に今、家内に尽くしているけどね。
【聞き手】 いやいや、でも、いい旦那様ですよね、そういうふうに思って。
【聞き手】 ご立派な後悔ですね。(笑)
【聞き手】 ほんとに。
【聞き手】 お住まいのとき、お父さん、お母さんと。
【KS】 僕の場合は、まだいました。両親のその上の、じいさんはいなかったけど、ひいばあさん。ひいばあさんに両親でしょう、それから、嫁に行かない妹があのとき2人いたのかな。
【聞き手】 じゃあ、4人兄弟?
【KS】 あとはそれぞれ、僕が結婚したときは、僕は6人兄弟だけど、男3人、女3人、男2人はそれぞれ独立していたからね。私が嫁をもらったときは、ひいばあさんと両親と私夫婦と従業員3人だと思うんだけどね、それからあと、妹2人でしょう。子どもでしょう。
【聞き手】 お子さんは何人いらしたんですか。
【KS】 子どもは3人。
【聞き手】 すごい大所帯。
【KS】 すごい生活ですよ。
【聞き手】 弟さんのご夫妻はもう別にいらしたんですか。
【KS】 ええ、弟は僕が店に入って間もなく、杉並ですけど、自分で独立して、もううちにはいなかったんですけどね。
【聞き手】 戦後の生活の中でお風呂が結構大きなポイントだという話なんですけど、これだけの大人数だとお風呂というのは?
【KS】 お風呂はね、多分、従業員は銭湯へ行ったと思うんです。家族は家族風呂だから交代で入った。私のところのすぐ近くにいいお風呂屋さんがあったから、従業員はお風呂屋ですね。家族は自分の家のお風呂に交代で入っていたんですね。
【聞き手】 なるほど。それだけの大所帯での食糧というと、戦争直後は食料難で、さっきおっしゃったように自給自足で。
【KS】 そう、自給自足ですが、あのころはね、物々交換ってあったんです。私のところにはお酒という武器があったから、いろいろな人が持ってくるんですよ。これも、まあ、あんまり自慢できる話じゃないけど、酒を持っていると、もう何でも、担ぎ屋さんだ。あれ、「担ぎ屋」と言うんですよね。
【聞き手】 昔、よく、千葉のおばさんとか、茨城のおばさんとかいった。
【KS】 そうそう、あの手の人が大勢いてね。買うんじゃなくて、お酒欲しさに来て何でも置いていく。
【聞き手】 なるほど。
【KS】 だから、自給自足はやっていたけど、それはそれでいろんな形で、あんまりそういう苦労はしていないんですよ。
【聞き手】 るほどね。海の物も山の物も持ってきますものね、ああいう人たちは。
【KS】 そうです。その話は知っているでしょう?担ぎ屋さんの話もね。
【聞き手】 ここら辺にも来ていたわけですね。
【KS】 どこでもあったと思いますよ。あとは、交換じゃなくて売りに、買うわけですけどね。
【聞き手】 どこら辺から来ていましたか。
【KS】 やっぱり千葉ですね。ほとんど千葉ですね。
【聞き手】 そうか、やっぱり、酒屋さんというと、お酒があるというのは強いですね。
【KS】 そうですね。だから、さっきぬるま湯と言ったけど、お酒を扱っているということのメリットは、やっぱり商品として商いする以上に、お酒を持っていたということでこんなメリットはない。メリットというのは、いわゆる、免許制で全部、固く、固く保護されていた。だから酒屋はどっぷり漬かっちゃったと。
【聞き手】 ご成婚のパレードなんかはごらんになられましたか。
【KS】 あのときは、あれは何年ですかね。あれは私が結婚して直後だから、結婚したのが33年だから。
【聞き手】 34年だったと。
【KS】 じゃあ、直後だ。あのときは都電がもちろん走っていて、ここを通ったんですよね、青山通りをね、ルートだからね。馬車が走るために砂を、都電のレールが危ないから砂を全部まいて、馬車の輪っかの通行を邪魔をしないように砂を全部にまいたんですね。ここの通りを通るというので、当時二階建てが多いでしょう。オリンピック前だから。そうすると2階から見たいというので、結構、親戚、知り合いが見にきましたね。舗道にござを敷いてじかに見るやり方もあるんだけど、僕のところなんかは2階から、もうそのころは、昔は見られなかったというんだよね、上からは。もうそのころは戦後だから、2階から自由にね。多かったのは、舗道に全部、ござを敷いて、そこで座って待っていたということもあります。2階から見ていたけどね。
【聞き手】 そうか、2階見下ろすことができるというのも、戦後ならではなわけですね。
【聞き手】 そうですね、昔だったら大変ですね。
【KS】 そうですね、そういう制約が全くなかったからね。
【聞き手】 でも、それを目撃なさったんですか。
【KS】 そうそう、それはもう目の前で見ましたね。
【聞き手】 美智子妃が皇室に入られるということについては、どんな感じだったんですか、一般の人たちは。
【KS】 まあ、驚きですよね。僕らはやっぱり、あの世界は別世界だからね、平民がああいうところに入っていくというのはやっぱり驚きですよね。まあ、人によってそれぞれ受け取り方が違うけどね。
【聞き手】 それだけニュース性はすごく大きかったんですね。
【KS】 そうでしょうね。
【聞き手】 あと、外国文化というと、やっぱりワシントンハイツとかですかね。
【KS】 ワシントンハイツは原宿ですけど、これは、青山と近いんだけど、直接あんまりないんですね。これも余談だけど、戦争が終わって進駐軍が入ってきて、進駐軍、兵隊がジープで乗り込んできたでしょう。あれはやっぱり戦争に負けたという実感を一番味わったシーンですよね。戦争に負けたんだなというのは、ジープにアメリカ兵が乗っかって、チューインガムを食べたり、たばこをポンポン捨てていったり、あれを拾って歩いたり、私はしませんよ、そういうシーンを見ていた。あれで戦争に負けたんだなと。あれがアメリカ人との接触の始まりでしょう。ワシントンハイツで、あそこへ大体、かまぼこ兵舎ができて、兵隊がいっぱい集まったんだけど、僕らは見ていないらね。そこにバラック住宅があったでしょう。パンパンが、それを借りてアメリカ兵と小屋を使っていろいろ遊んで、翌日、風船(男性避妊具)とか、ああいうのを捨てて、だから、嫌な風景はいっぱいありましたよ。ある時期ね、戦後すぐだね、あれは。それは間もなく終わったんだけど、あれと、ジープで彼らが通ったときは、戦争に負けたなと、あれが一番実感しましたね、僕らね。それから後、目が開けたのは、紀ノ国屋、スーパーマーケットをやって、外人客が出入りしているのを見ていて、何か別世界だったんだな、あれがね。
【聞き手】 紀ノ国屋さん以外にも新たに外国人相手のお店というのはいろいろあったんですか。
【KS】 なかったです。青山、赤坂には多分なかったでしょうね。
【聞き手】 なるほど、じゃあ、紀ノ国屋さんというのが、さっきの、お商売の仕方にしても何にしてもすごくショッキングというか。
【KS】 「セルフサービス」という言葉そこから発して、セルフサービスまがいのことを、小さいながらもやった店は結構出てきました。赤坂にも結構ありましたから。
【聞き手】 戦争前の話になっちゃいますが、小学校は青南ですか。
【KS】 はい。
【聞き手】 そうすると、お子さんたちも皆さん青南ですか。
【KS】 そう、うちは全部青南、孫も青南。孫は越境だけどね。孫は目黒だとか渋谷区に住んでいるけど、越境で青南。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【聞き手】 そのころ、お元気なときに、ちょっと娯楽というか、娯楽施設のどこかに遊びにいったとか、そういうことはなかったですか。
【KS】 僕らの時代というのは、中学から学生生活、あの時代は、戦後から昭和30年ぐらいまでは映画ですよ。僕はマージャン、不良時代はマージャン。一般的な娯楽は映画だったね、外国映画ね、あと、パチンコだ。映画、パチンコ。
【聞き手】 映画で何か印象的な映画はありますか。
【KS】 映画はね、僕は映画が好きだったからね、日本映画は黒沢明の「酔どれ天使」とか、そういう、あれを初めとする黒沢映画、それから外国映画はフランス映画。
【聞き手】 なるほど、黒沢明って、名作はいろいろありましたものね。
【KS】 三船敏郎と黒沢明の二人、役者が三船敏郎、監督が黒沢明、あれが主流ですね。
【聞き手】 「蜘蛛の巣城」とか。
【KS】 ああ、そうそう、あれはちょっと後だけどね。「酔どれ天使」が最初で、あとは「七人の侍」とか、一番最初は「酔どれ天使」、何回も見た。
【聞き手】 ああ、何回も、そうですか。映画館はどこら辺までいらしたんですか。
【KS】 映画館は渋谷です、ほとんど渋谷。僕は、大学が高田馬場だから新宿が多かったですね。新宿の名画座といって、古いちっちゃい小屋だけど昔の映画をやっているところがあって、その辺ですね。
【聞き手】 確かにマージャン文化っていうのは、昔、大学生はみんなそうでしたね。
【聞き手】 そうそう、やりましたね。徹夜でね。
【KS】 あれは、真面目な人はやらなかったんじゃない?
【聞き手】 いや、そんなことはないですよ。うちの夫なんか、キャンパスに直行しないで、学生街のマージャン屋さんにまずは行って。
【聞き手】 そうそう。
【KS】 映画、マージャン、パチンコですよ。
【聞き手】 何学部でいらしたんですか。
【KS】 商学部。だって、酒屋だから。
【聞き手】 ああ、なるほど。ですけど、入学試験、大変だったんじゃないですか。
【KS】 あんまり大変だという記憶もないんだけどね。僕はあんまり勉強できないけど、ずっと中の上なんだよ。これも余談だけど、中の上というのが一番好きなの、人生。9勝6敗が好きなの。6回は失敗するけど、3分の2勝てきたら大成功だというね。中の上というのは今でも、食事をするのも、メニューがあると中の上ね。目標は、生活も中の上。中の上というところが微妙なんだけどね。そういう形を自分が一番んでいるというか、人生のモットーなの、9勝6敗人生というんだけどね。これもちゃんとできたら大成功だと思っていますけどね。
【聞き手】 なるほど。
【聞き手】 そうすると、テレビなんかで相撲取りで「クンロク」と。
【KS】 そう、僕は横綱よりも大関が好きというのは、そこなの、横綱になっちゃうのは超エリートね。大関というのが頂点なんですよ、あれを長年やった人というのは、名大関とか、相撲取りでは一番成功者だと思っている。それは余談だよ。
【聞き手】 いやいや、でも、何か、青山っ子気質とか赤坂っ子気質というものがあると思うんですよ、ほんとに、青山、赤坂で生まれ育った人って、あんまり野心家じゃないんですよね、てっぺん目指そうとか、有名になろうとか、大金持ちになろうというのではなくて、今の人生訓をお聞きして、何かそんな気がしました。
【KS】 保守的ですね。やっぱり、あんまり革新とか、革命とか、僕なんかは嫌な言葉だからね、保守的ですよ、考え方は。商売の仕方もそういうのもある、人生そのものがやっぱり保守的なんだね。よく、若いときに左で、だんだん中になっていくときもあるけど、僕は最初からずっと、軍国主義から始まって、極右というのは嫌だよ、保守的な考え、中道保守というね、それが正しいと思っているんですけどね。
【聞き手】 中の上というのがいいですね。何か中の中でも、中の下でもなく、中の上というのがいいですね。
【KS】 まあ、自分の立ち位置としては一番理想だね。そういう位置であれば一番いいんじゃないかと思っていますね。会社で言えば、社長業よりは、ナンバー2、ナンバー一・3のほうが大変だろうといつも思っている。学校では校長先生よりも教頭先生が。
【聞き手】 それはそうですね。
【KS】 そう思っているんですけど。余計なことばかり言って済みませんね。
【聞き手】 大事なことですね。
【聞き手】 そうですよ、人生を生きていらして得たエッセンスみたいなものをいただけるのも、この取材の醍醐味なんですよ。単に本にするというのではなくて、人生の先輩にお会いして、そういう言葉をお聞きできるというのも私たちもありがたいと思っています。
【KS】 余計なことを随分言ったけど。
【聞き手】 昭和5年の何月何日のお生まれですか。
【KS】 12月4日。ことしの12月4日で84歳。もう、あなたね、自分の人生設計は、欲だけど、90歳なんだよ。90歳で「天寿を全うする」という言葉が使えると。今、84歳でしょう。もう余命が片手になってきたから、そう思うと、だんだん一つずつ減っていくでしょう。毎日毎日が愛しくて仕方がないんだよ。我が余生、これだけあると何か気持ちが緩むんだけど、あと片手だと思うと一日一日が愛しくてしょうがないんだよ。一生懸命に生きているんだよ、今。もうのんべんだらりとしていないんだよ、大事にしようと思って。今、実感なんですよ。もし、生かしてくれれば90歳まで。ただ、よれよれで生きるのは嫌だから、迷惑をかけないで生きるという意味で90歳までちゃんとできたらいいなと。そうすると、残りを勘定するとそういう計算になるから、もうすぐだからね。大事に、もうお釣りだから、あと、お釣りの人生を大事に、大事にと日々、新たな気持ちで。
【聞き手】 でも、84歳って、世の中にはたくさんいらっしゃいますけど、おつむもはっきりしていらして、足腰もしゃんとしていらしてお元気ですから。
【KS】 まあまあね。
【聞き手】 まだまだ、100歳以上行くんじゃないですか。
【KS】 とんでもない。もうそんな気持ちでおります。お役にたったかどうかね。
【聞き手】 いえいえ、もう大変役立ちました。
【KS】 うまくまとめてください。
【聞き手】 それで、同級生の中で戦争で亡くなったりとか、そういう方って結構いらっしゃったんですか。
【KS】 クラス会というのをやっても、今は5人だね、集まるのは。4、5年前は10人ぐらい集まったけどね。ただ、集まるクラス会と、いろいろあるね。
【聞き手】 そうだね。
【KS】 うちのクラスは大体集まりが悪い。5年ぐらい前は10人ぐらいでしょう。昨今は4、5人だから。実際、集まりのいいところは今でも10人ぐらい集まるとか、僕らの倍の数でやっているところもあるけど、僕ら、平均的なあれから言うと、今、クラス会をやっても5人ぐらいですよ、50人いてね。
【聞き手】 空襲で亡くなった方というのはいらっしゃらなかったんですか。
【KS】 ああ、いますよ。空襲で亡くなったのは、はっきりわかっているのは3人ぐらい。
【聞き手】 それは青南小の?
【KS】 もちろん青南小。
【聞き手】 いろいろなそういう、戦後の混乱とか、戦争中の空襲とかくぐり抜けて84歳までいらしたのですから、どうぞこれからもお元気でいらしてください。
【KS】 なるべく、お役に立てることは立ちたい。僕は今、そんな地域の中のもろもろのボランティア的な役職があるでしょう。僕は80歳でやめたんです、いろんなことをやっていたけれども、自分の戒めで、80歳が一つの自分の、人を引っ張っていくとか、人に物をちゃんと言えるのは、80歳までは言えるけれども、80歳を過ぎたら老人の繰り言になる恐れがあるから、おれはもう嫌だよと、そういういろいろなことをやっていたけど、みんな、やめているんですよ。今は残りの人生を大事に、ただ、こういうことで役立つことがあればお役に立ちたいなと。
【聞き手】 きょうは本当にいろいろなお話を伺うことができて、ありがとうございました。
【KS】 こんなところでひとつご勘弁を。
【聞き手】 いえいえ、もう本当にありがとうございました。
了
(KS氏 第二回戦後編)
【聞き手】 前回はね、戦前のことですから、子供のときの学校の時代のこととか、いろんな話を伺わせていただきましたけど、今度はその後のことですね。
戦後ですけども、何かこう、町の、町というか生活とかですね、どういうところがお変わりになったか、はい。
【KS】 ええっと、戦後ね。あれは。
【聞き手】 昭和20年。
【KS】 とりあえず戦争終わった直後は焼け跡だよね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 焼け野原ですね。
【聞き手】 ええ。
【KS】 で、焼け野原で、戦争終わってからぼちぼち、それまでバラックだったわけね。
【聞き手】 焼け跡が・・・・・、バラックはあった。
【KS】 焼け跡になったけど、結構ね、バラックを建てて、大勢じゃないけど、ここにそのまま頑張っている人がいましたけども、人はまだ戻ってきません。
【聞き手】 あっ、まだ。
【聞き手】 皆さん疎開されて。
【KS】 疎開したりね、散り散りばらばらでね。戦争終わって人が徐々にここに戻ってきたということで、それで、建築というほどの建物ではないけど、そこそこ、みんな始まったわけですよ、住むところをね。それがまちの形をつくっていくには、やはり23年かかったかしらね。
【聞き手】 2、3年。
【聞き手】 そうですか。
【KS】 そもそも建物にしろ、それぞれ自分のうちもあるし、まあ、青山に戻って、2、3年は必要でしたね。それ、昭和の22、3年ごろからまちの形ができてきたというか、まちらしくなってきたということですね。それで、そのころは何だろう、やはり進駐軍。
【聞き手】 何かワシントンハイツができたって。
【KS】 そうそう、ワシントンハイツと、それから、この南青山にね、やはり進駐軍の宿舎があったんですけどね、そこらにアメリカ兵がいましたから、それがまだ町で結構うろうろしたっていうか、目立って、もう本当に占領されたという雰囲気でしたね。そういう姿が消えてったのは、やっぱり2、3年かかりましたね。ええ、ええ。
【聞き手】 2、3年。
【聞き手】 そうです、何か米軍兵士が東京に150名ぐらい将官がいて、5,250名の士官がいたって書いてありますね。
【KS】 あ、士官。
【聞き手】 ええ、士官の方もいたし、兵舎には何か随分2万人ぐらいの方がいらっしゃったってね、何か。
【KS】 ああ、そうですか。
【聞き手】 そうすると、ワシントンハイツができて、隣の紀ノ国屋さんが。
【KS】 ええ、あれがいつごろなんだろうね。
【聞き手】 紀ノ国屋さんができたの……。
【KS】 紀ノ国屋さんが、いわゆる当初は外人相手の。
【聞き手】 昭和28年ですね。
【KS】 じゃあ、もう大分その辺はまちの復興ができたころですよね。
【聞き手】 うん、そうですよね。
【KS】 それまではお店っていうのはもう本当にバラック建てみたいなね、整った店じゃないんだけど、それでも人が、戦争終わって人が戻ってきて、若干にぎわいが出てきたわけで、まだお店というのは、今、紀ノ国屋さんの、今はスーパー、スーパーって言うけど、あのころスーパーマーケットっていう言葉は目新しい言葉なんですけど、あの店が外国人を相手の、アメリカの人たちを相手にしてお店をつくって、それはいわば我々日本人にとってはあんまり縁のない店だったですよね。あっ、あれ、お店に買い物できたんでしょうけど、ほとんど外人がそこで用を足してたというか。紀ノ国屋さんが青山のというか、日本のああいうスーパーマーケットのはしりになったわけね。
【聞き手】 ああ、そうですね、何か・・・・・セルフサービスとして、何かスーパーマーケットのはしりみたいでしたね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 じゃあ、最初っから紀ノ国屋さんってああいうレジがあってっていう、そういうやり方されてたのですか。
【KS】 ええ、紀ノ国屋さんはもともとこの土地の果物屋さんなんですね。
【聞き手】 そうね、何か、・・・・・ってね。
【KS】 それが亡くなった方というか、先代の紀ノ国屋をつくった方が、何か最初は軍に納めていたんですね。納めていた物の関係でそのルートができて、それで今度店を、自分の店ですけど、もともと自分があった場所にお店をつくって、何ですか、コネから今度外人相手のお店をつくって、そこで形ができたというか。最初はね、アメリカの軍に納めてたみたいね。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。
【KS】 そこでいろんな人脈だとか物の流通がそこでできて、自分のところで商売始めたということで、我々はただただ物珍しく、横目で見て歩いていたと。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 要するに日常的にまちの人が行くっていうことはなかったわけですよね。
【聞き手】 KSさんのお店はいつからですか。
【KS】 うちは、私のところは今の場所(北青山3丁目)で、あそこで焼け出されて、それで鉄筋だったので、いわゆる中身は全部焼けちゃったけど、外殻だけ、骨組みだけ残ったわけです。
【聞き手】 あっ、そうなんですか。
【KS】 そこに内装っていうか、幾らか手を加えて、全く動かないでそこで商売をしてて、何年っていうのをはっきり言えないけど、多分さっき言ったように、3年ぐらいで、自分で、自分のうちで、木造ですけども、2階建ての建物をつくって、そこで商いをしたということですね。
【聞き手】 御商売された・・・・・。
【KS】 その辺の時期は、栄えたってものは全然ないけど、いわゆる木造建ての建物をそれぞれのうちが建てて、だんだんだんだんお店が広がっていったということですね。
【聞き手】 じゃあ、戦後はもうバラックのような、木造のようなおうちがたくさんあって。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 それで、2、3年たってだんだんお店らしい形になってったんですね。
【KS】 そうですね。もちろん御存じだろうけど、電車がね、都電。
【聞き手】 ええ、都電。
【KS】 都電が走っていて、あれがまあ、いわゆる交通網、一番の要になってるわけね。
【聞き手】 都電っていつからでした。
【聞き手】 都電っていつごろからあったんでしょうね。戦前からあったんでしょうかね。
【KS】 戦前からありましたね。
【聞き手】 じゃあ、都電は焼け残ったっていうことですか。
【KS】 都電はね。
【聞き手】 線路は残ったのかしらね。
【KS】 レールは残ったんですね。
【聞き手】 あ、レールだけ残ったんだ。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 車庫がありましたよね。
【KS】 そう、青山車庫って、今のこどもの城や国連大学のところ、あそこに都電の車庫があって、ただ、電車があの車庫を実際に電車の発着場に使ったかどうかね、どうですかね。多分あれが青山車庫っていうんだから、あそこに電車をおさめて、あそこから出入りしたんでしょうね。
【聞き手】 そうですね。
【聞き手】 戦後は、じゃあ、都電走り始めたのはすぐなんですか。(注 都電は中断することなく動いていたのではないか、線路の復旧は昭和24年までに完了している。)
【KS】 都電はね、すぐかな。
【聞き手】 やっぱり2、3年たってから。
【KS】 僕は中学へ行ったころだから、ありましたね。
【聞き手】 ありました。
【KS】 電車に乗って、僕は渋谷の学校だから。
【聞き手】 あ、そうなんですか。
【KS】 うちから渋谷まで都電に乗って、渋谷の駅から歩いたんですけどね。電車ありましたね。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 だから、早く電車走ったんでしょうね。
【聞き手】 そうなんですね。
【KS】 ええええ。
【聞き手】 じゃあ、線路はそのまま残って。
【KS】 そう、線路はあって。
【聞き手】 都電そのものも、きっとあったんですね。
【KS】 だから、焼けてもレールはどうなったんかね。要するに線路を引いたということないから。
【聞き手】 そのまんま残ってたんでしょう。
【KS】 残ったんでしょうね、あれは。
【聞き手】 何か道の真ん中にこう走っていたって感じじゃない。
【KS】 都電の線路の敷石っていうの、敷石は昔のままあって、その敷石が、いずれその後に都電が、ほら、なくなるわけだけど。なくなったときに、敷石が結構な御影石で相当な立派な石なんで、あれを今の銀座通りの、銀座の中央通りっていうの、一番のメーンの通り。あそこへ青山通りの敷石を銀座の歩道。
【聞き手】 歩道になったんですか。
【KS】 今の歩道の舗装ね。あれはその青山通りの都電の線路の敷石を使ったというふうに聞きましたね。
【聞き手】 あっ、そうなんですか。
【聞き手】 ああ、初めて聞きましたね。
【KS】 だから、立派な石なんですよね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 だから、火をくぐってても、あれ、レールは残ってたんですよね、多分ね。
【聞き手】 そうですねえ。
【KS】 だって、線路工事したっていう記憶ないからね。
【聞き手】 そんなに石まで有効利用して、ちゃんと銀座に残ってるなんてすごいですね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 じゃあ、そのころは高校生ぐらいなんですよね。
【KS】 えっとね、私は終戦というか、20年の年が中学3年だと思うんだよね。中学2年かな、昭和20年でしょう、戦争終わったの。
【聞き手】 ええ、そうですね、20年、終わったですね。
【KS】 僕は小学校を12年に入って6年間、18年で卒業したんだから、昭和18年卒業して、18年に中学へ入って、そっから5年間通ったわけだから、だから昭和20年は中学2年生ですね。あと3年間。今言うように、学校へはうちから歩いたんじゃなくて、うちから表参道、昔は表参道って言わないで青山6丁目の停留所って言ったんだけど、そっから都電に乗って渋谷まで。渋谷が終点っていうか、発着場だからね。
【聞き手】 あ、そうですね。
【KS】 だからその記憶からいうと、都電走っていたんですね。
【聞き手】 そうすると、青山の町はすごく変わったっていうのは、オリンピックのときですか。
【KS】 要するにまちづくりという形を、体をなしてないわけですよね。それが整ったのが、もう完全に38年、東京オリンピック。
【聞き手】 オリンピック。
【KS】 あれでまちをね、要するに道路を拡張することによってでこぼこがなくなって、あそこで一斉に、何ていうの、整ったっていうか、建物も全部建てかえられたから。青山の変遷の中では、昭和20年の負けたこと、敗戦と、その次の大きな事件っていうのはやっぱりオリンピックなんですよ。そうすると、昭和20年から38年、オリンピックの始まるまでというのが、いわゆる戦後の混乱期っていうか、それも、世の中は平和だったけど、建物とかもろもろね、非常に整ってない時代ですね。
【聞き手】 ただ、皆さん普通にお店とかもちゃんと38年ごろまでだったら、私も生まれたの27年なんだけど、ちゃんと普通にお店、コンクリ、鉄筋のお店がちゃんとできていた。
【KS】 鉄筋はないですね。
【聞き手】 なかったでしたっけ。
【KS】 もう、みんな木造ですね。
【聞き手】 木造でしたっけ。
【KS】 鉄筋ないですわ。せいぜいモルタルっていうの。
【聞き手】 あっ、モルタルか。
【KS】 木造モルタルっていうやつね。
【聞き手】 あっ、そういうのか。
【KS】 うん、鉄筋というのはないですね。昔の焼け残った、さっき、うちもそうだけど、焼け残りの鉄筋の跡に中を改造して、それを利用して。新しく建てた人っていうのは、みんな木造モルタルっていう・・・・・。それも2階建てですよね。
【聞き手】 高い建物はなかった。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 あっ、本当だ。そうだ2階、あ、これが赤坂中学。
【KS】 で、あれでしょう。町で形が町らしくなって、要するに町会だとか商店会だとか、そういう人のコミュニケーションをとれて、町づくりの形をとったのが、大体昭和28年ですよね。
【聞き手】 あ、そうですか。
【KS】 28年。だから、今、どこのところでも50周年とか60周年の記念誌がある。起源は、始まりは昭和28年、8年が一番多いんですよね。8年がトップで、あと29年、30年あたりでね。
【聞き手】 それで今50年とか60年っていうことにね。
【KS】 50年とか60年ありますね。だから、28年ということは、20年から28年まで、そういう町のやっぱり形が整ってなかったということでしょうね。
【聞き手】 じゃあ、そのころ一生懸命皆さんが頑張られたんですね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 じゃあ、28年ごろっていうのは、もう大分外人っていうか、そういう人たちはもう。
【KS】 そういう影響はなくなりましたね。兵隊の姿もなくなったしね。
【聞き手】 何かその辺で、都営の住宅ができてきたとかね、何かね。
【KS】 そうですね。ちょうどやっぱり7、8年間はつまり混乱期というか、全く焼け跡の名残を残しながら過ごしたっていうわけでしょうね。紀ノ国屋さんが今28年って言われたでしょう。そのときに初めて耳にした言葉がセルフサービスっていう言葉ね。
【聞き手】 あ、セルフサービスがね。そうですね。
【KS】 セルフサービスって言葉と、それから、セルフサービスっていう買い方なんだから、物っていうのは顔見てね。これ下さい、あれ下さいって言って。だけど、セルフサービスっていうのは、自分で勝手に品物をとって。レジで精算されて。あれは紀ノ国屋さんが初めてですよね。
【聞き手】 初めての。じゃあ、すごく新しい感じで、何かいろんな車みたいなカートに積んでは自分で持っていって、こうやって・・・・・。
【KS】 そうそう、自分で物をね、勝手にとるっていうのは大変なことなんですよね。
【聞き手】 そうですよね、昔はないですよね。自分のかごに入れちゃうわけですからね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 それをレジに持っていって、セルフサービスと。
【KS】 そうですね、はいはい。
【聞き手】 紀ノ国屋さんなんて、最初行けなかったですよね。
【KS】 えっ。
【聞き手】 最初のころって、紀ノ国屋さんなんてとてもお買い物する場所じゃなかったですよね、きっとね。
【KS】 そうです。大体日本人があんまり行くとこじゃないと思ってたし、それから、日本人が出入りするようになると、今度はいわゆる裕福な、お金のある人があそこへ出入りしてると。一般的にはもう高嶺の花で。
【聞き手】 普通に八百屋さんとかお魚屋さんとかに行く感じではなかった。
【KS】 そうそう。
【聞き手】 この辺にもたくさん普通の店がありました。
【KS】 そうですね。ああいうの何ちゅうのかしら、昔ながらの専門店っていうの、魚屋、八百屋、米屋、酒屋ね。
【聞き手】 お肉屋さんもね。
【KS】 そういう個人商店の。個人の専門店っていうのかな、ああいうものがやはり本当は商店街の主流っていうか。
【聞き手】 あれがいつごろからなくなったんでしょうね。何か大分後までありましたけど、スーパーができたからでしょうか。
【KS】 あれはそうですよ、個人商店はかなりありましたね。もう、今はなくなっちゃったですけどね。
【聞き手】 ほとんど見当たらないですね。
【KS】 ああいう総菜屋さんとかね、下町行くとね。
【聞き手】 まだありますね。
【KS】 いっぱいありますね。あれが、あの形が青山では消えちゃったんですね。
【聞き手】 この辺って個人商店ってどこにあったんですかね。
【KS】 個人商店は今の青山通りの、この通りの並びに、大体すき間なくずっと並んでましたよ。
【聞き手】 そういう八百屋さんとか何屋さんとかいろいろ。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 オリンピックのときなくなってしまったわけですよね、そういうお店が。
【KS】 オリンピック、そう、オリンピックというのは国が道路をどんと線引きして決めて、拡幅した。それでいなくなっちゃうところがいなくなっちゃった。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 うちの方は5メーターだからね。
【聞き手】 随分広くとられたんですね。
【KS】 5メーターっていうと、小ちゃい店がなくなっちゃう。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 それから、多少余分があっても削られてね。だから残ったうちは、そこに買い足してやる人もいるし、残った狭いところに無理して建てた人もいるし、いずれにしてもきちっと線を引かれて、そこで町並みが整っちゃったわけですよね。それで、当然そこで直したり、建て直しする場合はもう木造じゃなくて、みんな鉄筋ですね。
【聞き手】 鉄筋になったような。
【KS】 ただ、高い物は、高い建物、いわゆるエレベーターのあるようなビルっていうのは、もう極めて珍しくて。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 やはり大体4階ぐらいの高さで、階段で上がりおりという状態ですけどね、ええ。
【聞き手】 最近は何かもうまだもっと高くなっちゃいましたね、ビルはね。
【KS】 ええ、そうですね。あれはオリンピックが。
【聞き手】 昭和39年ぐらいですかね。
【KS】 39年とすると、大体ほら、建物の耐用年数っていうの、30年。
【聞き手】 うん、そうですね。
【KS】 30年ぐらいでしょう。そうすると、昭和70年、平成か。
【聞き手】 平成になりますね。
【KS】 まあ、平成に入ったころに老朽化ってことで。
【聞き手】 建てかえたわけです。
【KS】 それから第2の建てかえ、その場合はかなり本格的なビルになっていくんですね。
【聞き手】 じゃあ、オリンピックのころは4階建てで。
【KS】 オリンピックのころのはね、鉄筋って言やあ鉄筋だけど、でも極めて、何ていうか、ビルという形じゃないですよね。
【聞き手】 ええ。
【KS】 だから、オリンピック後に変わったというのは、平成に入るころにちょうど建物老朽もろもろ、建てかえがはやって、バブルがあって、まちがまた変わっちゃったんですけどね。何といってもオリンピックでしょうね、青山通りの変遷っていうのはね。
【聞き手】 オリンピックのときに青山通りは広くなったんでしたっけ。
【KS】 オリンピックで。
【聞き手】 選手の人。
【KS】 通らない。オリンピックの競技、マラソン含めて、ああいうものはここは通らない。ここを、事件っていうのは天皇陛下の。
【聞き手】 御成婚ね。
【KS】 正田美智子さんのあのパレードですよね。あれが何年なんだろうね。
【聞き手】 34年って書いてあります。
【KS】 34年。
【聞き手】 ええ。
【KS】 それじゃあ、まだあれだ、オリンピックの前だから。
【聞き手】 2階建てぐらいの。
【KS】 ああ、思い出した、そうそう。2階建てぐらいで、青山通りに、馬車が通るっていうんで、都電のレール、あれが危ないからね、ひっかかるから、あそこへ全部砂を、ほら、知ってるでしょう。
【聞き手】 ええ、敷いたって。
【KS】 砂まいて、車が滑んないようにね。沿道にみんな、ほら、むしろ敷いて、座って見てたわけですね。
【聞き手】 後ろの方は、何かミカン箱か何か、高いとこ上ってとかね。
【KS】 そうですね。あ、34年か。
【聞き手】 うん。前の方は、じゃあ、むしろを敷いて、そこに座られてたわけで。
【KS】 むしろっていうか、ござって・・・・・。
【聞き手】 ござ、ござ。私も見にいった。
【聞き手】 ああ、ござね。
【聞き手】 早くからね、席とるのに早くから行って。
【KS】 そうそうそう。
【聞き手】 ごらんになられましたか。
【KS】 だから、僕のところなんかは2階建てだから。
【聞き手】 ああ、見えたんだ。
【KS】 2階から見えるからとか、ふだん親戚はもちろんのことさ、見せろっていうんで、結構知らない人まで上がってきて。
【聞き手】 ああ、そうですよね。
【KS】 上から。戦後だから、もう上からね。昔はね。
【聞き手】 見おろしたらいけないって。
【KS】 まあ、戦後だからそれはなかったから、みんな見物ですな。
【聞き手】 ああ、なるほど。
【聞き手】 物すごい人でした、やっぱり。
【KS】 そうでしょう。
【聞き手】 私、あんまり覚えてないんですけど、物すごい、何かここに53万人って書いてある、御成婚パレードで。
【KS】 じゃあ、見たのは覚えてる。
【聞き手】 何かそれこそ、だから、ござが敷いてあって、結構早い時間から行って、そこに座ってましたよ。
【KS】 そうでしょう。
【聞き手】 うん、そう。それは覚えてますね。
【聞き手】 じゃあ、皆さん旗をお持ちになったんですか。
【KS】 そうそう、そうですね。
【聞き手】 私なんか、テレビでしか見たことないからわからないです・・・・・。
【聞き手】 青山に住んでる人はやっぱり。
【KS】 それはその馬車のあれでしょう、パレードが通ったって話は結構もう聞いているでしょう。
【聞き手】 そうですね、何かお聞きしてますけど、ござを敷いてとかね、お2階から見たとかっていうのはちょっと初めて。
【KS】 ああ、そうですか。
【聞き手】 ええ。
【KS】 僕のところは商店だから、ちょうどほら、通りに面してるんで、もうあれが行われるってことがわかったときには、2階へ上がって見せろっていうんで、結構ね。
【聞き手】 じゃあ、大変だったんですね。
【KS】 そう、狭いうちだけど、大変だったですよ。
【聞き手】 上から見ていいっていうのも初めて伺いました。
【KS】 あ、そうですか。
【聞き手】 何かあんまり上から見るとね。
【KS】 古い人はね、遠慮した人がいるんだけど、うちのはみんな平気で、お巡りさんも何にも言わないしね。
【聞き手】 じゃあ、やっぱりこのころになると全然そういうのが変わってきちゃったんですね。
【KS】 変わったんですね。
【聞き手】 昔はね、お2階から見たなんて、おろされちゃいますよね。
【KS】 そうそう、戦前はほら、御大葬ってあれ、どなたが亡くなったときかな。
【聞き手】 大正天皇。
【KS】 ここをやっぱりね、通ったことあるんです。あんときは、あれ、何年ごろかな。
【聞き手】 戦前ですよね。
【KS】 戦前。大正天皇かもしんない。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 僕は昭和5年だから生まれてないから、聞いた話だけど。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 絶対上へ、やっぱり2階建てだったんだけど、上から見られないというんで、それでもみんなね、内緒ですき間から見たと。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 大っぴらには2階から見られなかったということは聞いてますね。
【聞き手】 大分世相がやっぱし変わってきたんですね。そうですよね、10年たてば。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 じゃあ、オリンピックで拡張工事されて、随分いろんな方が引っ越されていって、普通の住宅とかそういうのもかなり変わりました。表通りじゃなくて裏のほうのだと。
【KS】 裏のほうはね、裏のほうはそんなに変わってないと思うけど。
【聞き手】 そのときは変わってないんですか。
【KS】 ただ、表の人がなくなっちゃったり、狭くなっちゃった人が、裏のほうに住んでる人に交渉して買い足すっていうか、そういう点で、いわゆるもう表通りに近い人はそういう動きは結構ありましたよ。じゃあ、私のとこは売りますとかいうことで。だけど、裏へ入っちゃうとほとんど変化はないですね。一番変わったのは表通りの商店ですよね。
【聞き手】 その5メートルとられたためにですね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 青山通りの拡幅で南と北の街が随分離れてしまったっていうこともね、行き来が難しくなったっていう。
【KS】 そうですね、もう、行き来がなくなっちゃったのね、親近感が。こんにちはとか挨拶がね、あれだけ広い通りになると、南北で分断されちゃったから。
【聞き手】 そうですよね。
【KS】 だから、道路はきれいになったけど、まちの行き交いっていうのが南と北でなくなった。
【聞き手】 あ、地域のまとまり方が変わられちゃったわけですね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 オリンピックの道路拡幅で、北青山3丁目に東光ストア(スーパーマーケット)ができましたね。
【聞き手】 今、オリンピックのところ。
【KS】 はいはい。
【聞き手】 東光ストアが東急ストア、オリンピックになった。
【KS】 あれは大分後でしょう。
【聞き手】 あれ、私が小学校のときだから、30年代だと思うんですけど。
【KS】 あの東光ストアの、敷地っていうか、建物、大きいですね。あれは日本住宅公団が市街地再開発といって、みんなげた履きみたいなやつだけど、みんなで自分の土地を提供して、それまでの個々の店が、それを全部まとめて大きい建物を建てて、そん中に全部収容しちゃったと聞いていますけど。
【聞き手】 あ、お店だとか。あと、東京府市場協会の青山市場があったと聞いたことがあります。
【KS】 ああ、そうですか。
【聞き手】 赤坂と青山と2カ所あったんですって。青山はオリンピックのところ。
【聞き手】 東光ストアのところ。
【KS】 多分あれ、国が援助したと思う。
【聞き手】 そうみたいですね、何か、ええ。
【KS】 あれをやるには建設大臣の大塚雄司さんが動いていた。
【聞き手】 大塚さん。
【KS】 あの人は政治屋さんだからね。あの人がかなり国と交渉して、それで国に援助してもらってああいうものをまとめた。ただ、今まで自分の城っていうか、自分の陣地の中で暮らしてた人がね、やっぱり新しい話ですよね、全部土地を提供して大きな建物の中にそれぞれおさまった。で、上のほうは住宅。
【聞き手】 住宅ですか。
【KS】 住宅、うん。それは画期的なことですよね。
【聞き手】 そうですよね。昔は相当ね、画期的だってね。
【KS】 そうです。あれ、だからあの計画……。
【聞き手】 あれってオリンピックの道路拡張工事の後ですか。
【KS】 オリンピックを契機としてそういう話が持ち上がったわけ。
【聞き手】 あっ、そうですか。
【KS】 だから、多分あれができ上がったのはオリンピックの後です。
【聞き手】 拡張のときですか、じゃあ。
【KS】 ときですね。あれは、だから私らは、この表参道あたりはああいう話はちょっと縁がないんだけど、多分あちらの方に聞くと、あれは大変なことだったと思う。
【聞き手】 そうですね。この辺ですと、オリンピックのことで北青山3丁目にはユアーズ(通称青山ユアーズ)ができたって・・・・・ね。
【KS】 そうそう、ユアーズさん。そうですね。
【聞き手】 ユアーズさん、何かお肉屋さんだったんですか、ユアーズさん。
【KS】 ユアーズ(昭和39年〜57年まで)さんは吉橋という肉屋でした。あれが画期的だったのは24時間営業したのね、夜中にね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 あれはもう、やっぱり商売のほうも常識を超えたことやったわけね。商売っていうのは明かりが暗くなったらしめるということ。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 それが、あそこは朝までやってた。日本で初めての24時間営業したスーパーでした。
【聞き手】 あっ、あれも、でも、オリンピックの。
【聞き手】 ときですね。
【聞き手】 拡張のときですね。
【KS】 そうでしょうね。
【聞き手】 何かいろいろ、それじゃあ、オリンピックを契機にいろんなことで、街が変わられたわけですね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 そうすると、暮らしぶりも随分変わられたわけですか。
【KS】 暮らし。暮らしはどうなんだろう。僕なんかはね、のんきだからな。どういうふうに言ったらいいのかな、食べて寝てただけだからね。
【聞き手】 何か随分ね、活気があった。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 ありましたね。
【KS】 特にこの表参道かいわいは知名度が上がって、青山ということで。
【聞き手】 ええ。
【KS】 それで、僕らの知らないような、ほら、表通りじゃなくて、裏のほうにいろんな、特に、食べるほうの有名店が。
【聞き手】 ええ、レストラン、いっぱいできた。
【KS】 いろんなね、集中してできましたね。
【聞き手】 ええ。
【KS】 あの世界は、僕ら、青山の中なんだけど縁のないとこだから、知らないとこ多いんだけど、何で青山の、特にこの表参道かいわいなのか。
【聞き手】 表参道ね。
【KS】 青山が、そういういわゆる外食産業っていうのかな、あれが進出して、有名なスポットになっちゃったんだけど、我々が、住んでる人間がわからないうちにどんどんどんどん裏のほうが、そういうお店がふえて。
【聞き手】 そうなんですか。
【KS】 だから、青山が住宅街というね、ここは、表通りは昔から商店だけど、裏はいわゆる高級住宅街という、純然たるね。
【聞き手】 そうです。
【KS】 そのまちが、やっぱりオリンピック以後は表通りじゃない裏のほうにそういうお店、特に食べ物みたいなお店がどんどんふえて、で、住みにくくなっちゃったというか、従来の住宅街という面影がだんだんなくなってきたという。今もうほとんどなくなっちゃったからね。
【聞き手】 普通の何か住宅がお店になってたりとかしてますね。
【KS】 そうですね、あれがまたいいんでしょう。だから昔は商店街、住宅街という区別したけど、今、青山は住宅街という言葉にはちょっと当てはまんないような、裏のほうまでお店ができちゃったから。
【聞き手】 そうですね、たくさんお店ありますね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 また、表通りとか、大きい通りのところにはレストランじゃなくてファッション関係のお店がわあっとできてますよね。
【KS】 そうですね、そうですね。原宿とよく比較されるんだけど、やっぱり青山のほうが来るお店の規模が大きいっていうかね。
【聞き手】 有名なお店が多いですね。
【KS】 有名店がね。
【聞き手】 ええ。
【KS】 ここは集中してそういう、僕らよそからって言うんだけど、遠くから青山目指してここへ出店するという店が、それが相当数ひどくなったというか、顕著になったのがオリンピック直後じゃないんだよね。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 やっぱりオリンピック終わって、40年とすると昭和50年、60年、60年ぐらいからそういう傾向がね。
【聞き手】 出てきた。
【KS】 どんどん、その裏の住宅街にお店が進出して、で、1軒できると隣々で人が集まる。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 今のちょっとまちの様子は昔の風情が全くなくなっちゃったからね。
【聞き手】 そうですね。
【聞き手】 そうですね。多分おっしゃるとおりだと思いますよね。急に何かまた、がらっと変わりましたからね。
【KS】 そうですね、そうですね。ここは交通が便利だけど住むにはいいとこじゃないんじゃないかな。
【聞き手】 ああ、そうでしょうかね。
【KS】 家賃も高いし。
【聞き手】 そうです、家賃は高いですね。
【KS】 それから、たしか交通の便はね、極めていいけど。いわゆる環境とか住やすさからいうと、ここはもう住むとこではないという声はよく聞きますね。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 便利さはもちろんいいんだけど、何かにつけて物価は高いしね。
【聞き手】 そうですね。じゃあ、お店はここに置いといて、別なところに住むのが一番いいわけですね。
【KS】 そうですね。だから、結構いるんですよ。商店でここに、表通りでお店をやっていて、住むのはどっか少し離れたとこに、世田ヶ谷とか、ああいうとこに住まいを買って通ってる人は結構いますよ。昔は商売する場所と住む、職住一体型だったですがね。
【KS】 住むとこと商売とが一体と。一つの建物の中で寝たり起きたりする。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 今は営業するところと生活するとこと別々にする人が商店の中にも結構多いですね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 もう住みにくいんだよね。
【聞き手】 それはやっぱり住みにくさからですか、それともビルになって、何ていうのかな、お住まいは別っていう形をとられた。
【KS】 うん、一つはね、有効利用で家賃、貸す場合になると高く貸せるでしょう。
【聞き手】 あっ、そうですね。
【KS】 貸して収入上げて、住むとこはどっか離れたとこでいいという、そういう土地利用っていうか、有効利用もあるでしょうね。そういう人も結構、ここで住むにはもったいないというんでね。
【聞き手】 確かにね、貸したほうがね。
【KS】 それもありますね。
【聞き手】 貸したほうがいいですよね。
【KS】 だから、私なんかは昔からもう、今でもそこに寝てるけど、商いするとこと住むとこっていうのはワンセットでね、もうそういうもんだと思ってるけど、大体周りを見ると、結構みんな別々にしちゃった人が最近多いですね。
【聞き手】 多いですね。表の通りなんか、お店に貸したほうがずっといいですもんね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 住んでいても、何か日常の物を買うのも大変ですよね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 やっぱりオリンピックまでの、戦後からオリンピックまでとオリンピック以降って、周りの建物もそうですけど、何か生活の中で変わったこととかってありますか。
【KS】 変わったのはやっぱり人づき合いね、近所づき合いが薄くなっちゃったっていうかね。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 私は青山の出なんだけど、やっぱり近所づき合いっていうのは下町的なね、昔でいやあおかずを交換したり、まあ、あそこまでいかないにしても、まちの中のコミュニケーションがしっかりあったのはオリンピック前ですよね。あれから外観も変わっちゃったけど、人間関係もちょっと薄くなっちゃったという感じははっきりしていますね。特に最近はもうね。
【聞き手】 隣の人の何か干渉するともう、何かね。
【KS】 プライバシーっていうのもね、今すごく優先されちゃうからね。
【聞き手】 すごく残念なことですね。
【KS】 そうですね。で、一部、ああいう震災とか戦災起きるとね、そんなときに近所づき合いのよさ、あれを確認されて、やっぱり近所って大事だとか思う。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 いろんなこと今、ああいう事件が起きると町会だとかね、また今いろいろ必要を感じるような話が出てきますけどね。
【聞き手】 そうですね、ええ。私たちもこうやってお話伺ってると、昔の方のお話伺うとね、近所づき合いとか人間性がとてもあふれていますものね。
【KS】 そうですか。
【聞き手】 だから、うらやましいなと思います。
【KS】 ああ、そうですか。
【聞き手】 ええ。そういうことが私たちとても勉強になりまして。
【KS】 そうですか。大事なことだと思うんですけどね。
【聞き手】 ええ、そうなんですよね。そういうよさがね。
【KS】 今は、何だろうね、やっぱりかかわり合うのが嫌なんでしょうね、お互いに。だからのぞいたりのぞかれたり、何ていうの、干渉じゃないんだけど。まあ、干渉されたくないとか、まあ、個人個人、僕に言わせりゃあ、わがままになっちゃったんだね。
【聞き手】 そうですね。でも、この間の震災で、何かとてもね、近所のおつき合いがよくなったって方もいるんですよね。
【KS】 ああ、そうですか。
【聞き手】 マンションの方。いつも挨拶しないけども、あれ以来何か皆さんで声かけ合ってますっておっしゃる方がいらっしゃってね。
【KS】 ああ、そうですか。
【聞き手】 ええ。何か年配の方なんかもね、このごろ周りの方と御挨拶できるようになりましたなんておっしゃられて、いいことだなと思いますね。
【KS】 ああ、そうですか。
【聞き手】 ええ。だって隣に住んでいる人がわかんないんじゃ困りますよね。
【KS】 そうなの。町会ってあるでしょう。
【聞き手】 ええ。
【KS】 あれ、集金したり、それから回覧板回したり、行くとね、そういう人に、ここはある人に頼んで回ってもらってんだけど、前は町会費なんていうと必ずやられたそうですよ。何のために、ささいな金額なんで、何のために払うんだと。町会って何すんのって。
【聞き手】 あらあら。
【KS】 これをやられちゃうんでね。僕ら説明できるけど、そういうものを頼んだ人は、行った先で説明できないんで困っちゃうと。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 何のための町会だとかね、僕は随分そのことでその人のために一緒に行ってね、説明に行ったりしましたよ。今そういう話なくなりましたよ。何のためにとか、それから町会長は何してんだとか、そうやって、何ていうの、からかわれちゃうようなことは今なくなりました。
【聞き手】 あっ、よかったですね。
【KS】 だから、薄々認識されてきたんじゃないの。
【聞き手】 そうですね。よさがわかってきたんですね。
【KS】 そうでしょうね。
【聞き手】 あれですかね、生まれたときからそこの土地で生まれてずっと長年住んでて、周りの人たちもよく知った人たちばっかりで、町内会のつき合いもずっとあったのに、こういうオリンピックを境にいろんな人が移り住んできてとか、そういうので知らない、隣が知らない人になったりとかして、町会のそういうおつき合いもだんだんなくなってきたっていう感じなんですか。
【KS】 そうですね。ええ。
【聞き手】 経済が発展するとね、やっぱしそちらが優先になりますもんね。
【KS】 そうですね。だから、言われてみると、オリンピックは見かけだけじゃなくて、町の様子だけじゃなくて中身まで変化させたと思います。人のね、気持ちの中まで。ちょっと乾いちゃった感じが今思うとありますね。
【聞き手】 ああ、そうですね。じゃあ、また東京にオリンピックなんていうとまた困りますね。
【KS】 そうですね。だから、そういう話しすると、積極的賛成もいるけど、そんなのいらないよっていうのもいるしね。1回やったからね。
【聞き手】 町がそんなに変わっちゃ困りますね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 人間関係まで変わるんではね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 またこの辺、オリンピック以降町がそういうふうに変わり、土地の値段も高くなったから。バブルのころ、何かね、大変売ったり買ったりっていうのが多かったっていうことを聞きましたが。
【KS】 そうですね。あれが平成の初期。平成2、3年。
【聞き手】 バブルのころですね。
【KS】 2、3年ごろからバブルというのが起きて、あれで今度人がまた大分動いたって、売ったり買ったりでね。あれもすさんだね、人の気持ちがね、すごく。
【聞き手】 じゃあ、戦後は2回すさんじゃったわけですね。
【KS】 はいはい。
【聞き手】 オリンピックとまたバブルのときでね。
【KS】 バブルです。そうですね。
【聞き手】 ああ、何かわかるような気がする。何かバブルのときに、私たちはバブルのときもう成人していたんで。バブルのころに子供時代を過ごした子が、人たちが今大人になってるじゃないですか。
【KS】 ええええ。
【聞き手】 考え方全然違いますもんね。要するに私たちの子供世代と、私たちの考え方って、それで全然違うじゃないですか。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 で、今の子供たち、バブルの世代の人たちが産んでる子供たちっていうのは、その後だから、バブルが通り過ぎた後だから、また違う、もっと何か考え方が変わってきてるじゃないですか。
【KS】 なるほど。
【聞き手】 だから、そういう何か大きいこういうオリンピックを境にとかいうので、人間関係っていうか、人間性っていうの、これ相当に変化した。
【KS】 それはね、本当に人の心も変えちゃうっていうか。例えば住んでたところを売るなりなんなり、よそへ行くっていうことは大体昔は考えもしないこと。だけど、何かの事情でそこを去って、どっかほかへ行くってことについては、やっぱり人が物すごい関心を持つ。何でとか、どこへ行くのかとかそういうこと。それから、出ていくほうも後ろめたさがあったのね。何かそこを捨てて、いわゆる都落ちみたいな。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 ところが、バブル以降はそういう、上手にそれに身を任せると、うらやましがられちゃう、この人うまくやったと。
【聞き手】 あ、そうですね。
【KS】 行くほうもうまくやったでしょうで。そういうものが先になっちゃって、もうその土地、住んだところからいなくなるとか、移るとかいうことに、周りの目もなれちゃって、ああ、あの人いつの間にかいなくなっちゃったねとか、あの人売っちゃったらしいねとか、びっくりした話がびっくりしなくなって、日常茶飯事になっちゃって。そういう点では、何ていうか、お金とかそういう物欲みたいなものがはっきり優先されちゃって大事な人の人間関係っていうのが非常に薄くなっちゃった。
【聞き手】 そうですね、確かにそれはありますね。
【KS】 もう、我々も今この町でも結構まだありますけど、ある日突然ぱっと水面下で話ししちゃって、ぱっと挨拶もしないでどっか行っちゃうと。行っちゃうってことについてなれちゃって。前は何で挨拶しないんだろうとか、あの人何でああいうふうになっちゃったのとか、そういう気持ちがなくなってね、何かあったんだろうなと割り切っちゃってね。あの人何かうまくやっちゃったよとかね、そういう解釈をするからね。
【聞き手】 青山って特にそうなんですかね、何かそういう時代の流れっていうか、こういう開発の中でかなり変わってきてるから、やっぱり一番ほかのところよりもそういう変化に激しく翻弄されてるっていうか、そういう部分ってあるんですかね。
【KS】 そうですね、ここはやっぱり土地が高いということが、人の気持ちがすさんじゃったんだね。
【聞き手】 ええ。
【KS】 不当に高い、高いというか、そういう高いお金で動くからね。そうするとやっぱりそっちに気持ちをとられちゃってね、一番肝心な人づき合いとかそういうのはもう第2、第3になっちゃうのね。だから、そういうことがあんまりいいことじゃないんだね。
【聞き手】 ないですよね、やっぱしね。
【KS】 そういう何かね、常識じゃないような金額が飛び交ったりすると、気持ちが荒れちゃうね。
【聞き手】 荒れちゃいますね。だから、お話伺ってるとね、ずっと年配の方のお話伺うと、やっぱしそういうね、残してほしいなと思いますよね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 まち並みも残してほしいと思いますよね。
【KS】 そうですね。だから、今こういうあなた方のやってるね、こういう何ていうか、本当に地味な努力だけど、昔の話とかこういうものを伝えていくとかね、もう絶対必要ね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 田舎のほうはそれ大事に伝承されてるけど。
【聞き手】 あ、そう、残ってます、それ。
【KS】 こういう赤坂とか青山っていうのは、やっぱり気持ちが、何ていうかすさんだようなとこがあるから、だから大事なところはとっといて、伝えてって、若い人がその聞いた話を聞いてね、やっぱり勉強するとかね。そういうものは、確かに赤坂、青山は必要でしょうね。
【聞き手】 そうですね。だから皆さんその歴史の本を見るよりもお話を伺って、本当のその姿を残しましょうっていうことで今、始めてるわけですよ。
【KS】 いや、大変な努力ですよ、これ。
【聞き手】 私たちでなかなか・・・・・。
【KS】 あれをあなた方、この間の話をまとめてますよね。
【聞き手】 あっ、これですね。(「あの日あの頃」赤坂青山地区タウンミーティング『まちの歴史伝承分科会』)
【KS】 茶色い本。
【聞き手】 あっ、そうです。
【KS】 これ、あなた方でしょう、本。
【聞き手】 そうです。
【KS】 これすごい評判いいでしょう。
【聞き手】 ええ。
【KS】 いや、これね、この間改めて読んだら、よくね、取材も大変だけど、いい人がいっぱいいるのね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 いい話を。
【聞き手】 そう、皆さんね。
【KS】 特に赤坂が多いね。
【聞き手】 あっ、今回はね、これのときは赤坂の方の語り部が多かったんです。
【聞き手】 そうなんです。
【聞き手】 今回は青山の方にたくさんお話聞きましょうって。
【KS】 青山少ないんで。
【聞き手】 ですから、今回も語り部をね、御紹介していただきたいと思っているんですね。
【KS】 いない、聞かれるけどね、いないんですよ。
【聞き手】 いらっしゃらないですか。
【KS】 あのね、赤坂は僕も最近は、赤坂っていうのは何で昔の話を知ってる人、昔の話をできる人っていうのが多いね。何でだろう。
【聞き手】 変わってないからじゃないですか。
【KS】 ああ。
【聞き手】 変わってないのとですね、出ていった方も戻ってきて、月に1回集まってお話を伺ってたんですね、5年ぐらいかかって。そのときにもう江東区とかあっちのほうへ行った方も戻ってきて、皆さん仲間でお話ししてくださったのを。だから、多分たくさんあるんだと思うんですね。だから、青山のほうも同窓会とかいろいろありますよね。
【KS】 ええええ。
【聞き手】 ああいうときに戻ってらしたときに、いろんなお話伺えれば。
【KS】 ああ。
【聞き手】 皆さんにまたいろんなお話を聞くと、また違ったお話が出てきますもんね。だからそんなのがあると、多分青山の方も多くなる。今、だから私たち、青山で一生懸命頑張ってるですけど。
【KS】 今ね、自分の身の回りにもいないんですよ、私みたいな年代の人が。大分欠けちゃって。昔の話をできる人って言われて、ちょっと前、10年ぐらい前かな、あそこのうちはあそこ、この話はあそこ、そういう人が数人いたけど。
【聞き手】 そうなんですか。
【KS】 今ね、みんないなくなっちゃた。
【聞き手】 ああ、そう。ですからね、なるべく残っていらっしゃる方が多いうちにお話を伺っとかないとね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 何とか青山のことを、お話をたくさん伺いたい。
【KS】 青山は難しい。
【聞き手】 あ、そうですか。
【KS】 多分ね。
【聞き手】 出ていった方が多いんでしょうかね。
【KS】 出ていった人が多いですね。それから、町とのつながりが赤坂のほうが強いのかな、地元意識が。
【聞き手】 道が分かれてないからかもわかりませんね。六本木通り挟んで・・・・・。
【KS】 何かいつも比べるんだけどね、赤坂のほうがそういう取材しやすいというか。
【聞き手】 そうかもしれませんね。
【KS】 それから、語ってくれる人がね。杉山さん知ってるでしょう。
【聞き手】 ええ、杉山さんね。
【KS】 ああいう人がね。
【聞き手】 いらっしゃると、まとめてくださるんですね。
【KS】 ああいう方が、何人かいるんですよね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 ここはね、一番適材の人がこの建物の隣にいます。質屋さんだけど吉川さん。
【聞き手】 あ、吉川さん。
【KS】 あの人は兄弟2人か3人いて、もう質屋さんっていうのはね、やっぱりそこにずっと育って。
【聞き手】 ああ、昔からありますもんね。
【KS】 町の情報をよく知ってるし。
【聞き手】 あ、そうですね。
【KS】 それからまた、自分で一生懸命記録とったりしていた貴重な人が亡くなっちゃったり。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。
【KS】 私もその方に自分がわかんないときは聞きに行ったことあるぐらいで。
【聞き手】 あ、そうだったんですね。
【KS】 その方亡くなっちゃってるし、それから、今1人生きてらっしゃるけど、ちょっと今具合が悪いからね、そういう話すようなあれじゃないし。そういう貴重な方が、最高に貴重な方がいなくなっちゃって。あとは私の2、3年先輩、4、5年先輩でいる方も、本当に不思議なことにみんな亡くなっちゃってね。
【聞き手】 ああ、そうですね。
【KS】 いないんですよ。だから私はこの話をされると、自分は今知ってることぐらいは言えるけど、私よりもっと知ってるとか、これはこの人のとこ行きなさいっていう人はなかなかいない。
【聞き手】 そうですか。
【KS】 ない。オリンピックぐらいは語れる人、まだあるんじゃない、結構。
【聞き手】 そうですね。
【聞き手】 いや、本当にオリンピックぐらいのところでいいんですよね。
【KS】 オリンピックぐらいだと結構いるんじゃないですか。
【聞き手】 もしいらっしゃればね、御紹介していただければと思いますよ。
【KS】 ああ、そう。
【聞き手】 オリンピック前後ぐらいでしょう、わかる。
【聞き手】 今75歳前後。
【聞き手】 オリンピックが39年だから、昭和42、3年とかね、4、5年までとか、その辺までわかってらっしゃる。
【KS】 あそこへ行ってみた、あそこの紅谷さんっていう。
【聞き手】 あっ、紅谷さん。
【KS】 何ていったって、あの人。
【聞き手】 青木さんですね。
【KS】 そう、青木さん。
【聞き手】 あの方前に取材しましたけども、今回はちょっと御遠慮したいとおっしゃったので。
【KS】 あの人も体がちょっと具合悪い。
【聞き手】 そうみたいですね。何か病院通いしてらっしゃるって聞きましたね。
【KS】 そうでしょう。あの人、私。
【聞き手】 同じぐらいのお年で。
【KS】 それから、あとよかったのは、そこに、北村薬局っていう。
【聞き手】 あ、北村薬局さん。
【KS】 薬局があるんだけど、いや、今の人はだめで、社長ですよ。
【聞き手】 あっ、そうですか。
【KS】 若いから。
【聞き手】 ええ。
【KS】 そのお父さんは僕の2つ3つ先輩だけど、この方はよく知ってたけど、この方亡くなっちゃった。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 今いる社長はその息子さんだから。
【聞き手】 息子さんはお幾つぐらいなんですか。
【KS】 えっとね。
【聞き手】 60代ですね。
【KS】 62、3かな。
【聞き手】 70代ぐらいの方がね、一番。
【聞き手】 同じくらいの年代で、コトブキ屋さんがいらっしゃいますね、あの骨董・・・・・。
【KS】 はいはい。
【聞き手】 あの方はどうなんでしょうか。
【KS】 僕はね、町づき合いないの、あの人。
【聞き手】 あっ、そうなんですか。
【KS】 だけど知ってるかもしんない。
【聞き手】 南と北だから。
【聞き手】 そうですか。
【KS】 どうしてかっていうと、あの人ね、戦災の話はね、何かの本、これじゃないんだけど、何かの本読んだら、戦災、空襲のことを。
【聞き手】 ええええ。
【KS】 空襲で逃げたって話をね、書いてあったから。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 知ってるんじゃない。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 ただ、町のことね、全然つき合いないのよ。
【聞き手】 あっ、向こうとこっちで。
【KS】 でも、訪ねて行けば、いい人だから、コトブキ屋さん、イワサキっていうんだけど。
【聞き手】 あ、そうですか。
【KS】 これが、この人ね、KSっていう名前出しても構いませんけど、この人ならいい話、多分聞けると思う。
【聞き手】 そうですか。
【KS】 ただ、ほら、町会活動とか。
【聞き手】 別ですのでね。
【KS】 全然やらないのよ、もう個人的でさ。単独行動やってんのよ。
【聞き手】 あっ、そうなんですね。
【KS】 それがまた楽しいんでしょう。そういう人もあるけど。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 今言われて、イワサキさんはこういう話をするにはいいと思います。
【聞き手】 そうですか、ええ。
【KS】 だから、ぜひ訪ねてね。暇だから。
【聞き手】 あっ、そうですか。
【KS】 様子が。だから話してくれますよ。
【聞き手】 そうですか。
【KS】 体の具合も悪くねえし。
【聞き手】 ぜひ今回は青山の方のね、青山が、本当に町が変わったの戦後ですよね、。
【KS】 それからあとね、そこの交差点の角に布団屋さんがあるの。
【聞き手】 布団屋さん、あ、あります。
【KS】 小松屋さん、大野二男さんっていうんだけど。
【聞き手】 ね、昔からありますよね。
【KS】 小松屋さん。この方もオリンピックで店こんなに小ちゃくなって苦労された人だけど、この人が73歳だからオリンピックのころの話ができるかもしんない。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 それも推薦しておきますから。
【聞き手】 小松屋さんね。
【KS】 そこの社長になってるから、今、布団屋さんの。その人もお勧めだね。
【聞き手】 そうですか。
【聞き手】 そうか、やっぱり商店の方は、よく。
【聞き手】 御存じですね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 で、KSさんのほうで、何か青山がすごく変化したとか、何かこうこのお話をしなくてはっていうようなものがありましたら。
【KS】 そうですね。そうだね。
【聞き手】 あっ、オリンピックのとき何か、この町で何かありましたか。
【KS】 オリンピックね。
【聞き手】 代々木公園のほうだから、ちょっと少し違うんでしょうかね。
【KS】 あとはね、ここに、あれ、地下鉄が。
【聞き手】 あっ、地下鉄、あっ、そうですね。
【KS】 何線っていうんだ、ありゃ。
【KS】 銀座線は。
【聞き手】 戦前ですね。
【KS】 その次の半蔵門線。半蔵門線はこの246(青山通り)の下を通ったんだけど、こんときは地下鉄工事をするのに、あれ、トンネル掘らないで、開削つってね、上から掘った。要するに本線の工事はシールド工法っていうんだけど、一カ所あけて、あとはモグラ式に下を削ってってやる工事で世話やかせないんだけど、そうじゃなくて、うちのあたりの青山通りは全部掘り返したのよ、上からやったから。
【聞き手】 ああ、そうですか、上からやった。
【KS】 上から全部掘って後でふたしちゃうんです。そのためにまちが物すごい混乱したんだけど。
【聞き手】 ありましたっけ、そんなときが。
【KS】 それ何年だろうな。
【KS】 オリンピックの前かな。
【聞き手】 多分、いや。
【KS】 後でしょう。千代田線はね、昭和47年に霞ヶ関〜代々木公園の区間が開通しているけど、明治神宮の表参道の下を通ったから、工事はそんなに影響はなかったんです。
【聞き手】 違うとこです、通ってますね。
【聞き手】 じゃ、半蔵門線は。
【聞き手】 半蔵門線の渋谷〜青山1丁目間は昭和53年8月の開業ですね。
【KS】 そうですか。あれはね、11号線って言ったんじゃないかな。要するに、地下鉄をつくるんで、青山通り、せっかく整った青山通りを全部また掘り返したんだから。掘り返して、その間町がこんなんなっちゃったんだけど。
【聞き手】 ええ。
【KS】 まあ、あれは大きな事件なんだけど、ただ、まちへの影響っていうのはね、ただ迷惑をこうむったっていうだけで、だけどあれでやっぱり何軒かのお店がいなくなっちゃったけど。
【聞き手】 246ですかね。
【KS】 うん。それで、こっちの表参道から向こう。渋谷から表参道まではそういう形で全部上から掘ったけれど、表参道から向こうは穴をあけて下から通ったから、そんなに大きな迷惑はかかんなかった。
【聞き手】 そうなんですか。
【KS】 これを地元としては地下鉄の工事に伴う混乱が、結構な大きな事件だったんだけど、だけどそれも、まあ大変だったってことしかないんだけどね。
【聞き手】 じゃあ、今とりあえず、青山の交通機関っていうのは、地下鉄の最初の銀座線と、それから千代田線と半蔵門線ですか。
【KS】 一番影響を受けたのは半蔵門線。
【聞き手】 そうですか。
【聞き手】 昔は何かこの辺、映画館(青山日活館)があったとか何かね、前にお聞きしましたけど。
【KS】 それは戦争前ね。
【聞き手】 ええ。戦争後っていうのは、それ何か人々の娯楽っていうのは青山ってあんまりない。
【KS】 この辺はね、ないんですよね。ないのと、パチンコ屋が2、3軒あったけどね。パチンコ屋、小ちゃなパチンコ屋が。だけど風俗営業的なところはここはないんですよね。
【聞き手】 いけないんですかね。
【KS】 いけないんでしょうね、多分。
【聞き手】 住宅地だからでしょうかね。
【聞き手】 青山はないですもんね。
【KS】 ないですね。風俗営業はない。
【聞き手】 ないんですね。
【KS】 できないのかないのか、ないんですよ。
【聞き手】 ないですね。パチンコ屋さんが何かちっちゃいとき、やっぱりあったような気がするんですけどね。
【KS】 2、3軒。ありました、小ちゃなね。
【聞き手】 小さいパチンコ屋さん。
【KS】 個人経営のね。
【聞き手】 そう、何かお父さんたちがみんな、何かね、パチンコ屋さんに行ってってありましたよ。
【KS】 ありましたよ。
【聞き手】 青山は何か品のいいお店ばっかですもんね、どっちかっていうとね。
【KS】 青山通りと骨董通りの交差点に、今、マックスマーラってあるでしょう。
【聞き手】 ええ、あります。
【KS】 あのちょうど前あたりに2、3軒あった。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。
【KS】 あとはないですよ、パチンコ屋っていうのは。この辺見たことないですね。そういう何ていうか、風俗営業的なところはこの辺何にもないからね。
【聞き手】 あと、お祭りとか縁日とかですね、何か戦後と変わったようなことありますか。
【KS】 縁日は戦前はあったけど、戦後はなくなっちゃったからね。
【聞き手】 あっ、なくなっちゃったんですか。
【聞き手】 ないですか、私は昭和27年生まれなんですけど、このオリンピックの前って、ちっちゃいときに、青山通りに縁日が、あった覚えがあるんですけども。
【KS】 あったかもしれないね。大規模ではないけどね。
【聞き手】 そう。縁日っていうか、金魚すくいのお店とか、ずっと。
【KS】 多分僕の、そこの善光寺さんの門前でそういう、何かちょっとしたある範囲で縁日が出ていたってことは聞いていますね。
【聞き手】 じゃあ、戦前のような大がかりなのはなくって。
【KS】 戦前は、いやいや、もう大がかりですよ。
【聞き手】 あったから。
【KS】 いわゆるもう、本格的な縁日だけど、だけど戦後は縁日というものはないですね。
【聞き手】 ない。お祭りみたいな感じになって。
【KS】 そうですね。赤坂には縁日はあったでしょう、恐らく。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 赤坂では結構しばらく、今はどうか知らないけど。戦後あったと思うね。
【聞き手】 何か今もちょこっとやっているみたいだけど、縁日っていうのかどうか。
【KS】 縁日がなくなったのとちがう。
【聞き手】 お祭りはありますけどね。
【KS】 お祭りは、そうですね、お祭りはありますね。私たちのほうは、ほら、熊野神社だから。
【聞き手】 南の方は。
【KS】 熊野神社。
【聞き手】 私、1丁目のほうなんで。
【KS】 ああ。
【聞き手】 熊野神社なんですよね。
【KS】 あっ、あそこの、そうですね。
【聞き手】 だから善光寺さんのほうまではあんまり来なかった。
【KS】 あ、そうですか。
【聞き手】 じゃあ、こっちはあんまりそんなに縁日が出なかったんですね。
【KS】 縁日ないね。ええ。
【聞き手】 なるほど。じゃあ、そのころって、お仕事は。 酒屋さんで。
【KS】 そうです、そうです。
【聞き手】 御長男でいらっしゃるから、継いでらしたんですもんね。
【KS】 そうです。もう余り、何ていうの、熱心ではなかったけどね、長男だからやらざるを得ないからやっていましたけどね。
【聞き手】 じゃあ、そのころ娯楽っていうのは、じゃあ、どんな感じでだったんですかね。
【KS】 娯楽は、もう僕の場合はマージャンですよ。
【聞き手】 マージャン。
【KS】 いわゆる町の中で遊興的な施設ってないからね。
【聞き手】 マージャン屋さんがあったんですか、それともおうちでマージャンする。
【KS】 いやいやいや、ジャン荘といって、マージャン屋何軒かあるから。あれは結構ありましたけどね。そりゃまあ、町のあれだ、話すべきような、特に特筆すべきはなにもない。
【聞き手】 いや、何かそのころの方はどんな娯楽をされてたのかなと思って。
【KS】 僕はマージャンですね。
【聞き手】 マージャンで、何かジャン荘って聞いたことあるような気がする。
【聞き手】 いや、お友達のうち行くとよく、きょうの夜はマージャンしてるからって、お父さんたちがじゃんじゃら、何か。
【KS】 あれは、サラリーマンも僕らみたいな自営業もやっぱりちょうど働き盛り、20代、30代、40代の人の共通した娯楽だよね。そうそう、いろんなのが集まってくるんだけど、会社もそうでしょう。会社、サラリーマンのマージャンがやっぱり社交だし娯楽だ。ゴルフっていうのが出てきたのが大体昭和50年ぐらいかな。
【聞き手】 ああ、ゴルフは。
【KS】 50年、もっと後かな、55年ぐらい。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 あの頃からゴルフっていうのが大衆化されて、みんなそっちへ行っちゃって、マージャン屋もすたっちゃって。だから、男性のはけどころ、酒場は別にして、遊ぶところっていうのは今ゴルフが一番多いんじゃないかね。
【聞き手】 ああ、そうかもしれませんね。テレビもゴルフやってますもんね。
【聞き手】 余裕が出てきたんですね、きっとね。
【KS】 うん、そうですね。それから、やっぱり健康志向でしょう、今。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 やっぱりマージャンは体によくないっていうんでね。もうあれはね、本当によくないよ。
【聞き手】 そうです、たばこ吸ってね、狭いとこでね。
【KS】 狭いとこで。
【聞き手】 ああそうか。出前とかってよくちっちゃいときとっていましたが、どうですか。
【KS】 出前ですか。
【聞き手】 別の話ですが、出前ってあったんですけど、おそば屋さんとか何屋さんとか。そういうのって今ないじゃないですか。
【KS】 ゼロではないけど、もうほとんどないですね。
【聞き手】 いつごろからないんでしょう、出前って。
【KS】 出前がないのは、一つはやっぱり今、人手がね、出前やる人がいない。今、出前っていうのはあれでしょう、ピザパイとか。宅配。ああいう連中ですよね。
【KS】 昔はね、いわゆるお店で子飼いの店員さんを使って出前させたの、そば屋とかね。
【聞き手】 おすし屋さんとかあったわね。
【KS】 ああいうのは、今はなくなっちゃったですね。
【聞き手】 とる方もいなくなっちゃったんですよね、きっと。
【KS】 そうですね。だから、今はああいう専門の宅配の、ピザだとかいろんなのありますね。
【聞き手】 それこそ、だってお酒だって酒屋さんからとってましたよ。
【KS】 うん、酒屋はだからやってますよ、まだ。
【聞き手】 あっ、まだやってらっしゃるんです。
【KS】 酒屋そのものは軒数がなくなっちゃったからね。もう何軒もないからね。
【聞き手】 あっ、配達なさってるんですか。
【KS】 やってますよ。
【聞き手】 ああ、そうですか。
【KS】 それはやっぱし酒屋という営業の大事な柱なんですから。
【聞き手】 あ、そうなんだ。
【KS】 お酒っていう商品が重たいし。
【聞き手】 重たいですね。
【KS】 それからやっぱり壊すからね、届けるというね。
【聞き手】 当たり前のように、だって、酒屋さんって配達。
【KS】 そう。
【聞き手】 お酒なんてね、普通に、今はどっかスーパーとかそういうところで買えるけど、昔は酒屋さんでしかお酒って買えなかったと思うんですよね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 だから、お酒とかビールとかって、親がとる。
【聞き手】 そう、塩とかお砂糖とか、みんな酒屋さんが扱っていた。
【KS】 だから僕らみたいのはもう、個人企業っていうか、家族を中心にしてね、そういう伝統的に、自分の、何ていうか家族を中心として自分たちの力の中でやってる店っていうのがほとんど今、大きな企業がその分野をみんな侵しちゃったというか。
【聞き手】 あ、そうですね。
【KS】 何でも全部やっちゃうから。
【聞き手】 そうですね、本当にね。
【KS】 配達も含めてね。だから大きいお店が、結局我々のそういう分野まで全部手を伸ばすと。ノウハウはあるし組織はあるし、資金力もあるし、だから我々ができないようなことをみんなできるから。結局、大企業が我々のような中小以下、零細企業っていうんだけど、みんなもう潰されちゃうという、そういう時代になりましたね。まあ、時の流れで、しようがないっちゃあしようがないけど、寂しいですよ。
【聞き手】 そうですよね。
【KS】 そうなると今度、親が子供にね、僕の後やれよという伝え方が弱くなるわけ。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 こんないい仕事だから。お父さんがやってたことだから、おやじを見てて、ああ、いいなという気持ち、今与えられなくて、逆にこんなことやってんなら俺、やらねえよという。だんだんだんだん商売を継ぐ人っていうか、継承者がなくなってくる。
【聞き手】 じゃあ、親子間もよくないんですね、それね。
【KS】 そうですね。これはまあ、青山だけじゃなくて、全般的にね。
【聞き手】 そうですよね。
【KS】 後継ぎがないというね。ないということは後を継ぐ魅力がないという。なぜ魅力なくしたかっていうと、でかいところがみんな奪っちゃったからね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 そういう細かいとこまで全部自分たちの手でやると上手にやるわけですよね。
【聞き手】 そうすると町のつながりもなくなるんですよね。
【KS】 なくなっちゃうしね。
【聞き手】 結局町が壊れていっちゃいますよね。
【KS】 そうですね。だからそういうでかいところっていうのは町会費とか商店会費っていうと払わないですからね。
【聞き手】 そうですよね。
【KS】 払う必要ないということでね。
【聞き手】 結局町を見るわけじゃありませんもんね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 住んでる方とのつながりがないから、困りますね。
【KS】 そうですね。まあ、それが僕らの商売する立場で、それが革命っていうかね、もうさま変わりもいいとこですけど、それは町の変化、今見えないからね。
【聞き手】 そうですね。
【KS】 消費者からしたら、そういう変化っていうのわからないし。
【聞き手】 でも、この間の震災のときにね、お米がなくなったとかなんとか、スーパーで。でも町でとってる方はちゃんと、お米屋さんがちゃんととっといてくださった。
【KS】 ああ、そうですか。
【聞き手】 そういう何か、よさっていうのがやっと見直されたっておっしゃってましたが。
【KS】 そうですね。本当にね、何もかもとられちゃって素っ裸になっちゃうと、やっぱり最後は人間になっちゃうのね。
【聞き手】 そう、人間関係ですよね。
【KS】 人間関係が。
【聞き手】 今までのつながりがね。
【KS】 そうですね。
【聞き手】 だから、やっぱし町はあれですよね、経済だけではありませんね。
【KS】 ただ、私が語るべきおもしろい話ってないんだよ、何も。
【聞き手】 いやいや知らないお話たくさんありまして。これまた活用させていただいて。
【聞き手】 ありがとうございます。もう1時間以上になりまして、申しわけございません。