赤坂-2
赤坂の花柳界の真ん中で生まれ育った二人が、艶っぽい街の様子を語る
赤坂の花柳界の真ん中で生まれ育った二人が、艶っぽい街の様子を語る
・語り部氏名 TT(魚卸業)・HH(電気商)
男性
生年月日 TT 昭和22年(1947)1月 67歳 HH 昭和19年(1944)6月 70歳
赤坂で暮らした時期 生まれてから現在(平成26年―2014)まで。
① 主な内容
実際に赤坂の花柳界の真ん中で生まれ育った二人が、花柳界の街の人たちの様子や花柳界が赤坂の人々や文化に与えた影響や戦後のアメリカの影響下にあった赤坂の様子などを率直に語る。
戦前からの花柳界は昭和30年代〜40年代の高度成長期が最盛期だった。政治家が活動の場所に料亭、待合を盛んに利用していた、そして、赤坂は芸者置屋や会社の寮(接待所)なども集まって、全体的に艶っぽい街が作られていた。一方、戦後は外堀通り周辺には米軍住宅、ホテル、中古米車販売店街、グランドキャバレー・ナイトクラブ・などの立地で急速にアメリカナイズされた街ができてきた。
② 備考
・最盛期花柳界そのもののお客は平日に700〜900人あった。
・この頃大きな料亭(待合は別)は10軒、大きな仕出し屋は3軒ほど、芸者置屋は100軒ほどあった。
・現住所 TT 赤坂2丁目・HH 赤坂3丁目
小学校 TT 氷川小学校・HH 千代田区立永田小学校
保存資料の状況 テープ起こし 取材シート
取材者 HM TA(支所)
取材年月日 平成26年5月29日
語り部 TTさんとHHさんの話
【TT】 詳しいといっても、生まれ育っているわけですから。それと、商売がまさに花柳界相手の商売ですので、好きと好まざるを得ず、どうしてもその中に入り込んじゃっているわけですよね。ですから、昭和20年が終戦で、その後ここは焼け野原になっちゃったわけですよね、当然。私の母は、今、溜池山王駅があるところの赤坂溜池という場所に3代、今は5代目かな、続く八百屋をやっていたわけですよ、八百幸という。
【聞き手】 八百幸さんとお母様というのはご兄弟だったんですか。
【TT】 兄弟というか、そこの長女ですね。あそこ(溜池交差点・溜池山王駅10番出口付近の角がちょうど八百幸でして、それが3代も4代も続いているんですけど、9人兄弟の長女がうちの母親なんですね。それで、あそこには、要するに今の小松製作所寄りは、小松製作所になる前は普通の民家でしたよね。あのときに鈴木勘十さんとか、三河屋さんの酒屋さんですよね。それとかエビスというお寿司屋さんです。あれもみんな親戚なんですよ、うちの。あそこはものすごく血のつながりがうちは濃くて、あそこの先代の当主というのは港区の区会議員にはなってなかったとは思うんですけども、今のさわやか信用金庫の前身の、合併する前の港信用金庫を創設した1人なんです。その息子はもう亡くなりましたけど、港信用金庫の役員をやっていたり、そういう関係でうちの父親も母親もその縁続き、昔の結婚は親戚の知り合いみたいな感じで結婚をしました、みんな。今みたいな自由恋愛とかよりも、あそこにこういう男がいるから、どうだとかという感じで。それで、うちの父は赤坂の人間ではないんですけど、やっぱり東京の人問なんですけども、ご縁があって八百幸の長女と結婚したわけです。
【聞き手】 ああ、そうですか。それから、魚屋さんを始められたんですか。
【TT】 うちのおやじは結婚してから始めたんですね。それで、ここ (赤坂2丁目) で商売をして、小売りもしていたんですけども、花柳界を専門に得意先としていたんですよ。
【聞き手】 八百幸さんも花柳界にお野菜を卸していた赤坂の高級八百屋さんというか。
【TT】 ただ、結局、戦後は、うちのおふくろなんかの話ですと、この赤坂も、どこでも東京はそうですけど、溜池はアメリカ大使館があるから、まず大丈夫だろうということだったんですよね。一般の感じとしては空襲ですよね。あのB29だとかなんかも、それこそ艦載機が来て焼け野原になった。アメリカ大使館のそれこそ目と鼻の先ですから、ここは大丈夫だろう。9人家族で、父親が、みんな疎開をしないで、どうせ死ぬんなら、みんな一緒に死んだほうがいいんじゃないかということで、赤坂見附のほうへ行った方とか、それこそ生死を、左へ行ったから生きて、右へ行ったから。うちの母親の兄弟、両親ともに1人も欠けることなく、それそこアメリカ大使館を除いて全部焼け野原になったということですよね。
【聞き手】 ああ、ピンポイントでアメリカ大使館だけ残った。
【HH】 あの当時にピンポイントができたんだよね。
【TT】 飛行機がそれこそ操縦士の顔まで見えるぐらいおりて。
【聞き手】 そうね。低空飛行で来たみたいですから。
【TT】 そうですよ。無差別ですよね。ですから、戦争の問題もいろいろ語られるけれども、本当に無差別なものでしたからね。それこそ焼け野原になったわけですから、花柳界といっても一から始められたわけですよね、皆さん。昭和22年ごろからうちの商売を再開し、法人化したのが27年ですから、その4、5年前から個人で。私たち兄弟がここで育ったときには従業員も12、3人いましたかな、お手伝いさんですとか。それと同時に、これはお屋敷町もあったんですよ、この山の手とか。今でもというか、昭和30年頃、上場されている会社の役員とかオーナーやなんかが結構住んでいる場所だったので、この氷川小学校近辺とか。それはそれで小売りとして、昔の御用聞きのような感じで5人ぐらいいろいろ散らばってご用を聞いて、今では考えられないんですよね。奥様がみんなスーパーへ行って、買うわけですけども、当時は八百屋とか魚屋とか肉屋、酒屋が御用聞きへ行って、その日に納める。それと同時に、うちの父親がそういうことをやっても、営業的に相手が料理屋のほうがまとまって商売ができるだろうということで、あの当時、赤坂が一番最盛期のときは、花柳界そのもののお客というのは、平日に700入から900人のお客が来ていましたからね。これは考えられないぐらいですよ。
【聞き手】 どうしてそのぐらいの人間が入るんですかね。
【TT】 それは件数も多かったんですよ。それと同時に、その数というのは、なぜ私がそういうことを言うかというと、やみくもにそういうことを言っているんじゃなくて、もちろん帳面を調べればわかるんだけど、そのものはありませんけども、ちょっと話が前後しちゃうんですが、それから戦後、ちょうど保守合同が政界では行われて。
【聞き手】 55年体制ができ上がってからというのがまた。
【TT】 そうそう。昭和30年から40年にかけてどんどんそういういわゆる待合政治みたいな感じで、永田町の下ですから、新橋、柳橋とか、そういったところも花柳界ですけれども、やっぱり近いということで赤坂が重用されたんでしょうね、多分。板前を置いて、調理場があって、大きい料亭が10軒ぐらいあって、そのほかに仕出しをとっている京都みたいな仕出しで、待合ですよね。要するにお客さんがそこで待ち合わせをして、芸者衆も入るし、その前にお料理。
【聞き手】 お料理が仕出屋さんから届く。
【TT】 そのお料理は、ただ、プロパーの人間がいませんから、京都のように仕出屋からとるわけですね。仕出屋は大きいところが3軒ぐらいありましたけど、ほとんど千古満という仕出屋が扱っていましたね。
【聞き手】 ああ、そうですか。私、ちょっと伺ったのは、中川さんは白梅で。
【TT】 中川さんは一棟調理場をつくってあるんですよね。料亭の片隅でちょこちょこっとおわんを温めたり、仕出屋から来たものをちょっと温めたりするというんじゃないんですよ。中川はちゃんと調理場があったんですよ。それで、白梅は板前の親方が2人いて、1人はマツモトっていうんですが、それが直接中川の料理を担当して、若い衆を3人ばかり置いて、あそこで料理していたんです。ですから、仕出しの料理というよりも、それこそお仕着せの料理じゃなくて、自分のところで料理をしていたのと同じですね。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。白梅さんは2丁目の黒田さんのほうに。
【HH】 最初はね。
【TT】 樓外樓の。
【聞き手】 樓外樓の。はい。
【TT】 樓外樓のところに白梅って、自分のところでも上がりをやっていたんですよ、あそこは。料理屋をやっていたんですよ。それで、一番最初のおやじさんというのは軍隊上がりで、なかなか鋭い人でしたよ。私も子供ながら、このおやじさんは相当目端のきく人だなと。
【聞き手】 目端のきくというのは、例えば魚の素材とか、料理に対してどうしたらいいかというふうに目端がきくのと、例えば経営的なところで。
【TT】 経営能力。それは両方持っていますよ。ただ、これは話がちょっとばらばらになっちゃうんですけど、職人に関しては腕はいいけれども、経営はだめだという系統と、完全に分かれますね。腕は大したことないけど、お客をつかむのはうまいなんていうのはいますよ、やっぱり。職人ですから、腰が低くて話が上手、腕は大したことないなんていうのはやっぱりありますよ。それは両方兼ね備えているというのはなかなかいないし、また職人も私はずうっと職人で通すんだという気質の人と、私は将来、商売向きの嫁さんをもらって、1軒店をつくるんだという感じの人間もいますよね。これは今の社会でも同じだと思いますよ。だから、大体ああいう職人の世界なんていうのは飲む、使うみたいなところがあって、またそれが激しいやつは腕がいいとか、そういうことは今の世界ではちょっとあれだけど、そういうところがあるんですね。白梅のおやじというのは典型的なそういう人でしたね。何かの縁で中川に入ったんですよね。そのおやじさんの腕を中川のおかみさんが買ったのかどうか、そのいきさつは私もわかりませんけど。
【聞き手】 買ったのかもしれないですね。皆さん中川がどういう料亭かというのもわからないかもしれないんですけど、赤坂では一番大きな。
【HH】 格が上だったね。
【TT】 そうそう。おかみさんの気質でもいろんな気質があるんですよ。大体大きい料理屋というと長谷川、今の「口悦」ですね。長谷川と言ったり「口悦」と言ったり、それは長谷川というんですけど、それと「川崎」、千代新、三浦、それと浅田さんはずっと後ですね、東京に出てきているのは。私も漏れがあると失礼だけども、そういう大きな料亭、政治家が派閥で使う、政治家が自分のホームグラウンドにしていたような料亭があるわけですよ。ですから、田中角栄は千代新を使っていたんだけど、「川崎」を使うようになりましたよね。あの人の派閥は100人ぐらいいますから、当然大きい広間なんていうのは用意してあるわけですよね。中川のおかみさんというのは、私は直接会ったことないけども、ああいういろんな器だとか、料理もさることながら、掛け軸だとか、生ける花だとか、絵だとか、もちろん自分で使う器とか、そういったものにものすごくお金を使って、芸術性のある格調の高い料亭でしたよね。ですから、早くやめちゃったというのもそういうことがありますよね。ばかばかしくなるということもありますよ。ああいう水商売の中に入っていて、政治家の質やなんかも変わってくるし。「川崎」なんていうのは大きいけれども、そういうことに無頓着なおかみさんでしたね。
【聞き手】 「川崎」というと、福田派みたいな印象なんですけど。
【TT】 「川崎」はそもそも大野伴睦なんです。大野伴睦っていましたよね。院外団からずうっと来た政治家ですよね。いわゆる保守本流じゃない意味での。昔、院外団というのがあったんです。
【聞き手】 院外圧力をかけるみたいな。
【TT】 そういうこともあったし、保守なんだけども、反保守のような河野一郎とか、大野伴睦だとか。大野伴睦のホームグラウンドでしたね。
【聞き手】 「川崎」が?
【TT】 「川崎」が。大野さんが亡くなった後、船田中、栃木の作新学院のオーナーですよね。あの方が大野派を引き継いで、その一派をあそこで集めていたんです。あとは長谷川とか「口悦」は、昔は河野一郎でしたね。中川は、さっきの話の流れからしてやっぱり保守本流なんですよね。保守本流と岸さんから始まって佐藤さんあたりの。
【聞き手】 佐藤栄作あたり。
【TT】 ええ。
【聞き手】 古くから芸者さんをやっていらっしゃった芸者さんの話を聞くと、赤坂の花柳界が戦後急ににぎやかになったというのは、朝鮮戦争があってからだった。
【TT】 あれは1950年。
【聞き手】 そうですね。その前後ですね、多分。
【HH】 日本が、だよね。
【聞き手】 日本もそうなんですけど、花柳界自身もそれからすごく元気になったんですよっていう話をしていましたね。
【TT】 結局、高度成長経済のどんどん右肩上がりで、それと経済界がものすごく力があった、増してきた。
【聞き手】 経済界が力があったというよりも、国の予算を使って財界が仕事をしたので、やっぱり政界と財界というのはくっつかざるを得なかったんじゃないですかね。
【HH】 それは全ての国が、だよね。
【TT】 だから、産業そのものも、もちろんITなんかないですよ。不動産だとか証券なんかよりも鉄は国家なりの時代で、一次産業の富士製鉄、八幡製鉄が合併して新日鉄ができたような。だから、財界のトップなんていうと、家電の会社のトップというのはなりませんでしたよね。みんな東芝だとか。石坂泰三にしたって東芝ですよね。それから、あとは稲山さんにしても新日本製鉄。稲山さんは後だけども、そういう形で国がね。それと同時に、政治資金やなんかだって莫大なお金が財界から入ってくるわけですから。それはどこへ入っていくかというと、やはり保守本流なんですよね。岸さんの流れなんですよね。それに対抗する、さっきも言った大野伴睦だとか河野一郎だとか、ああいう人たちは財界でもまたちょっと違った、ダイエーの永田雅一とか、北炭の萩原さんだとか、ああいう人たちがパトロンだったわけです。だから、どうしたってかなわないんですよね、資金力的に。
【聞き手】 そういう政界と財界がドッキングしなければ日本の経済というか、国力って強くならなかったので、そういう談合と言ったら怒られちゃうかもしれないけど。
【TT】 いや、それはそうですよ。
【聞き手】 話し合いの場としてこの周辺が使われたということですね。
【TT】 それもあるし、経済面ではなくて政治の面も、今のように決められない政治みたいな、今は自民党が半分以上とっているけど、かつての決められない政治みたいなのがあったじゃないですか。要するに衆議院では過半数とっているけど、参議院では過半数とれない。とにかく日本の政治が停滞しちゃうような状況ですよね、いくら政策がよくても悪くても何にしても。ところが、あの当時は社会党と自民党ですよね。今、談合とおっしゃったけども、政策にしても社会党の代議士を呼んで、これはいい悪いは別にして、政策を進める上において反対勢力をもそういう形でうまく。
【聞き手】 ネゴシエーションをしたわけですね。
【TT】 するわけですよね。だから、そういうことをしながら、国民をあざむくわけではないけども、政治を決めていった面も相当あると思いますよ。それはポピュリズム的にいったらよくないことかもしれないけども、それで政治が前に進んでいったんだと思う。
【聞き手】 55年体制の前というのは、改進党とか、自由党とか小党がたくさんあって、そういう人たちがどことどこがつっついたら多数派をとるかみたいなことで、そういう駆け引きみたいなのもあった。
【TT】 結局これは離合集散なんですよね。離れてはくっつき、離れてはくっつき。今のみんなの党とか、あれがやっていますよね。石原さんと……。
【聞き手】 維新もきょうまた分裂したとかありますよね。
【TT】 分裂したとか、それの繰り返しが日本の政治なんですよね。ただ、だけど、民主党と吉田さんの自由党が一緒になって自由民主党をやりましたよね。
【聞き手】 そうですね。それで55年体制ができてきたわけですけどね。
【TT】 そうそう。だから、それの片棒というと、ちょっと表現が悪いけれども、それの一つがこの料亭の。なぜ料亭を使うかというと、これは一つの芸者の存在があるわけですね。こういうお嬢さん方にはちょっと話はあれかもしれないんだけども、そういう場所において今で言うホステスとか、そういった人たちがいるのも一つの重要な要素でもあったわけですよね。なぜ銀座じゃなくて料亭かというと、それは芸者という古来からある、例えばおしんじゃないけども、私が小さい子供のころ、ここら辺には置屋が100軒以上ありましたよ。それはなぜかというと、芸者衆というのは売られてくるわけですよね。売られてくると言うとおかしいけども、東北とかなんかで厳しい家庭環境の人たちが子供たちをそこに預けて、本来的に言うと芸を習い、修業の場でもあったわけですよね。本当にお父さんが風呂敷包みを持って子供の手を引いて、置屋に置いて、それでお金を借りるわけですよね。その年季が明ける明けないというのは、その人が一生懸命働いて、それを女中がわりにして、その間に長唄だとか、踊りだとか、清元だとか、小唄だとか、三味線だとか、そういうものを習って芸者になるわけですよね。そういう修業の話ですから、お母さんというか、いろんな作法を教えるわけです。その作法を教える中で芸者としての教育、それは新聞をたくさん読みなさいとか、お客さんがこういう人たちだから、教養を身につけなさいとかいうこともあるんだけど、それと同時に他言してはならないということがあったんです。お座敷での話を外に出して言ってはいけないと。お客様の話というのはということで、口がかたいというのが一つの重要なところだったんですね、花柳界のしきたりとして。ですから、政治家たちが、財界たちが、今はインサイダーみたいになっちゃうけども、昔はそんなことは当たり前のように行われていたと思いますよ。
【聞き手】 そうですね。騒がれなかったんですね。それで、例えば今、芸者さんなんか東北とか、そういうところから連れてこられたというふうに言っていらっしゃったんですけど、そういうのを現実に見ていらっしゃいますか。
【TT】 ああ、見ていますね。だから、見ているって、どこの駅におりてどうこうのということじゃないけども、雰囲気としてそういう雰囲気でしたね。ですから、今はまごまごすると、自分がちゃんと教育を受けて、家も貧しくないのに芸者になってみたいんだって、いいだんなを見つけるか見っけないかは別としても、そういう人もいるし、ホステスもそうですよね。好きでホステスになる人も多分いると思いますよ、少しでも自分たちの生活をよくするためにということで。ところが、水商売というのはそういうものじゃなかったわけじゃないですか、そこで働く人間というのは。ですから、そういうことで花柳界が重用されたというのは、お茶飲んで、コーヒー飲んで話をするよりも、お酒が入ったほうが話がしやすいじゃないですか。そこにお料理があったほうが話がしやすいじゃないですか。それが終わった後、そこに女性が来ればなおさら……。
【聞き手】 本音が出たり。
【TT】 本音が出たり何かすることじゃないですか。だから、人間の本能というか、本性というか、そういったものを、また時代背景もあったのかもしれないし。
【聞き手】 それで、今ここら辺にも100軒ぐらい置屋さんがあって。
【TT】 もっとありましたね。ここら辺だけでも……。
【聞き手】 この辺は一番密集していた地域ですよね、置屋さんが。
【TT】 密集していましたね。
【HH】 路地があるからね。大体路地のところにお姐さんがいて、置屋さんがあったんです。
【聞き手】 小さいころ、そういう置屋さんの子供たちと遊ぶとか、まち全体の雰囲気とかってどういう感じだったんですか。
【TT】 例えばさっき私が氷川小学校って言いましたよね。氷川小学校あたりは花柳界のまちですから、当然芸者衆の子供もいるわけですよね。奉公に来た人が学校へ行く、それで一緒になったということは私は記億にないですよ。おそらく義務教育を経て、そういうところに来るということもあっただろうし。ただ、芸者衆の子供さんと一緒になるということはありましたよ。そうすると、うちなんかはこういう商売していますから、番頭なんかはよく知っていますから。花柳界へ入っていますから、あれはだれだれの娘だよとか。ただ、下町と違うから、もしそういう人が下町にいたら、主婦の敵なわけじゃないですか、極端な話が。あの人はおめかけさんなんだとか、おめかけさんのまして子供なんじゃないか。そうすると、今で言ういじめが当然起き得ますよね。ところが、こういうまちですから、そういうことは起きないんですよね。
【HH】 いじめはないね。差別はなかったね。
【TT】 それと、これはぶっちゃけた話、またできがいいんですよ、そういう子は。お父さんが頭いいし、みんな。
【HH】 でも、顔もいいんだよね。お母さんから受け継いでいるから。(笑い)
【TT】 それで、さっき置屋さんって言ったでしょ。置屋といったって、もとは何かというとおめかけさんなんですよね。芸者衆の親分ですから。若い女の子を奉公させたいぐらいのところですから、ある程度資金力もありますよね。その資金力は何かというとだんななんですよね。こういうことを言うと、あんまり理解されないかもしれないけど。いや、本当に。そのだんなの力というのはまた半端じゃないんですよ。HHさんたちがちょろちょろ飲みに行って、女の子にチップやるのとわけが違うんですよ。いや、本当。
【HH】 本当だね。
【TT】 一つの例を挙げて、これはマイクであれしているけど、僕の言葉が全部入っちゃうと困るんだけど。
【聞き手】 いいえ、いいえ、大丈夫です。
【TT】 例えば藤山愛一郎っていう政治家がいますよね。あの人は……。
【聞き手】 ニュージャパンのオーナーですよね。
【TT】 いや、違います。あれは横井。
【聞き手】 その前は藤山愛一郎だった。大日本製糖か。
【TT】 そうそう、大日本製糖。大日本製糖のオーナーですよね。大日本製糖だとか名古屋製糖とか、製糖会社というのは全部なくなりましたけど、あのときくずみたいなものを輸入して、それで精製して、それこそただみたいなものを売ったんですよ。
【聞き手】 台湾あたりから持ってきて。
【TT】 そう。それは池田さんのみんなパトロンですよ、池田勇人の。要するにそういうのを阻止するために法律を先延ばしにするわけですよね。そういうのでお金を使って、だからスケールがやっぱり違うんですよね。渡辺があれから5億円もらったとか。法律だとか、そういったものまで左右しちゃうような、そのかわり政治家に莫大なものがね。
【聞き手】 利益がもたらされ。
【TT】 そういうこともあったと思いますよね。藤山愛一郎も財界の、それこそ絹のハンカチを雑巾に変えたというぐらいに、あの人は私財を全部投げ打って政治に入ってきましたよね。あれは岸さんが引っ張ってきたわけですよね。それで、藤山さんは鳥居坂のマンションで亡くなったんですけど、素っ裸になっちゃいましたよね。素っ裸といったってパンツを脱いじゃっているわけじゃなくて、私財、財産がね。だけども、自分のおめかけさんにしていた芸者衆は赤坂にお家をもらって、ビルにしてという極端な話もあるわけですよ。
【聞き手】 でも、赤坂の芸者さんって、皆さんそういう方多いですよね。
【TT】 多いですよ。
【聞き手】 だから、屋敷をもらったのをビルにして、ビルのオーナーになっているという方が本当に多いですよね。
【TT】 そうそう。ただ、それと同時に、そういう芸者衆というのは、また女としての色気だとか、そういったもの以上に知性、教養、礼儀がものすごく備わっている人たちだったんです。また、そういう人たちの眼鏡にかなう人たちというのは。変な話、ご本妻が亡くなって、そうすると、その人たちを「なおる」というんですけど、二号さんが本妻に「なおる」ということがあるんです。
【HH】 こういう話はあんまり聞かないでしょう。
【TT】 それを家族たちが、あの人だったらっていうぐらいの人たちが多かったんですよ、芸者衆というのは。だから、ただ芸者で、演歌の世界に出てくるようなことだけでもないんですよ。だから、柳橋だとかなんかの芸者というのはまた格式も高いし、花柳界でもいろんなランクがあって、柳橋なんていうのは一番格が高かったっていう話も聞くし。
【聞き手】 芳町とか。
【TT】 芳町、浅草のね。
あそこらの芸者衆も歴史だとか、そういったものがあって、明治時代からの花柳界があって、だから有名な政治家が学生時代、帝国大学に行っているときに金がなくなって、今みたいにソープランドとかバーだとかなくて、帝国大学へ行くぐらいですから、余裕のある人が多かったわけですよね。それで、仙台の自分の実家に金がないから送れと電報を打って、そのときに金を送らなければ死ぬという電報を打って、お金を親からもらっていたんです。そのときに電報の返事が、だったら死ねという電報が来たらしいんです。そのときにそのお母さんが、その人が柳橋で遊んでいるんだったらともかく、新橋や赤坂で遊んでいるのは情けないというような言葉があるんです。それだけ柳橋というのは格式が高かったんですね。『サンデー毎日』で連載していたあれなんですけど、単行本で何冊か、僕、取り寄せて読んだことがあるんですけど、そういう一説があるから、柳橋というのは格式が高かったんだなと。
【HH】 赤坂はその下なんだよね。
【TT】 地の利なんだよね、赤坂のは。こんな話ししていても何の参考にもならないでしょ。
【聞き手】 いえいえ。戦後……。
【HH】 歴史はないけども、戦後、やっぱり……。
【聞き手】 戦後になってからなんですね、赤坂というのが有名になったのは。
【TT】 だから、あそこのキャピトル東急って、今のヒルトンホテルが自民党の、必ずテレビに出てきましたよね、前は。あれはなぜかというと、永田町の国会の下にあったからですよね。だから、そういうことで栄えたんじゃないかな。
【聞き手】 そうですね。子供のころって、TTさんなんか周辺で遊ぶときって、やっぱりそういう芸者衆の子供たちとか、そういう人たちと遊んだりなんかはあったんですか。それとも戦後すぐという時代……。
【TT】 子供のころの遊びってどういうことですか。
【聞き手】 例えば学校から帰ってきて、友達とどういう遊びをするんですかね、この辺の子供たちって。
【TT】 子供は別に赤坂だからって、下町だからって、赤坂も下町ですけど、遊ぶことというのは同じですよね。鬼ごっこしたり、かくれんぼしたり、うちへ来てお誕生日会をやるなんていうこともあっただろうし。
【聞き手】 そういうところに置屋さんの子供たちとかって入るんですか。そんなことはないんですか。
【TT】 いや、もちろん。
【HH】 だって、差別がないんだもん。
【TT】 差別はないんですよ。
【HH】 全然ないんだもん。
【TT】 うん。かえって尊敬しちゃいますよね、子供心に。
【HH】 お金は持っているし、顔はいいし、頭がいいから、それはある種尊敬しちゃうよ。
【TT】 うちのおとっっあんよりも、このおとっつあさんのほうが立派なんだななんて思うとね。
【HH】 飛行機の回数券持っているなんていうのがいたんだから。飛行機の回数券だよ、あの当時。何年?あれ。40年代・・…・。40年じゃない。もっと前だ。30年代。
【TT】 だから、普通のまちからすると、細かいことはともかくとして、ちょっと異質なまちではありましたよね。
【聞き手】 そうですよね。その異質さというのはどういうところなんだろうなというのをちょっとお尋ねしたい。
【TT】 だって、我々はどっぷりにそこへつかって、また僕のおやじがどこかのお役人さんだとか、銀行員かなんかで、方々へ転勤していって、赤坂へぽっっと来て学校へ入れば、ここは雰囲気が違うなということはわかるけれども、根っからそこしか知らないから、子供心には学校というのはこういうものだなとしか思わないですよね。
【聞き手】 じゃ、例えば学校から帰っていらっしゃったりなんかして、何して遊んでいらっしゃったりしていましたか。
【TT】 僕はずっと勉強していましたね。(笑い)
【HH】 そうしたら東大へ行って、おめかけさんぐらい持っていたね、赤坂で。
【TT】 本当だね。勉強の仕方とか科目がちょっと違っていたのかもしれない。
【HH】 同じだよ、どこでも。遊び方にあれないね。
【聞き手】 例えば竹下さんなんかは、隣の置屋さんの娘さんにちょっと勉強を教えに行ったりとか。
【TT】 バッテリー屋さんの社長。
【聞き手】 ええ。
【HH】 その人も言ったでしょう。竹下さん頭がいいんだ、あの人。
【聞き手】 勉強を教えに行ったりなんかしたことがあったみたいな話をしていましたけどね。
【TT】 それは小学生のときですか。
【聞き手】 小学生。竹下さんって、八百幸さんの隣か隣ぐらいにいらっしゃいましたよね。
【TT】 竹下さんといったらバッテリー屋?
【HH】 バッテリー屋。
【聞き手】 大きくなってからはお互いに意識しちゃって、口もきかなくなったけど、小学校のころなんか。
【TT】 そういうことというのは世間一般の子供たちの感情と一緒ですよね。
【聞き手】 ああ、そうです、そうです。だから、そういう人たちがまじり合って生活していたということなんでしょうね。
【TT】 ただ、言えることは、うちなんかでも商人ですよね。HHさんのところも商人。その当時は今のスーパーマーケット、これは商売そのものもそうなんだけど、今はもうシャッター通りじゃないんですかね。魚屋、肉屋、八百屋、それから昔は酒屋っていうと土地の名士なんていうのが多かったけど、今、酒屋さんなんかも大変だと思うんですよね。人の商売心配しているほど、こっちだって楽じゃないけども。当時はその商売、商売が、みんなこの赤坂の土地によって大きかったですよね。若い衆が5人も6人もいるとか、お手伝いさんが2人も3人もいるとか。
【HH】 どこのお店でもそうだったね。
【TT】 特にそうでしたね。これは多分、地方というか、赤坂以外でも町場の商家はね。だから、こういう言い方をすると大変変なんだけど、商人の親が子供にこういう言い方しますよね。おまえ、店を継げよと。サラリーマンになったり、こちらは区の方だけど、あの当時、市役所だとか区役所だとか、そういうところで働くということはあんまりドラスティックというか、平々凡々過ぎるんじゃないかというイメージで、商売やんなよと。商売は毎日お金も入ってきてというような、それは今からすると冗談じゃないと。勉強していい会社へ入って、あるいはお役所勤めのほうがいいという感覚ですよね。
【聞き手】 昔は商売していてももうかった。
【TT】 もうかったんです。それと同時に、こういう花柳界を背景にしてもうかっていますよね。僕は全然世間のことは知らない。7、8年サラリーマンやりましたけど、子供のころは知らないから。当然お手伝いさんもいる。好きなものも食べる。人よりもいいものも着せてもらえる。商人はみんなそうだったじゃないですか。商人はほぼそうでしたよね、商人というと。
【HH】 赤坂で商売やっている人は金が回ってきたから。
【聞き手】 こちらのお坊っちゃまも永田町小学校に行ったぐらいですからね。
【TT】 そうそう、お坊っちゃん。今、頭の中もお坊っちゃまですよ。(笑い)だから、そういう意味で花柳界の芸者衆の子供と我々の遊びがどうのこうのというよりも、そういう赤坂の背景があった。
【HH】 だから、芸者衆の子供がいるからって、二号さんの子供がいるからって、色分けのないところだった。
【聞き手】 だから、世間一般に言われているような芸者衆の子供とかっていう感覚は全然ない。
【HH】 ない。いじめもなかった。
【聞き手】 普通のお友達。
【HH】 うん。あっちのほうが優位に立っていた。優位という言い方はおかしいけど。
【聞き手】 赤坂の風習だというのは皆さんから聞いていたんですけど、例えば教育にしても、あの辺は大概氷川小学校、HHさんのところは大体は赤坂小学校ですね。それで、赤坂小学校の区域だけれども、永田町に行く人って随分多かったわけじゃないですか。
【HH】 多かったんだよね。
【聞き手】 そのころのそういう親の判断みたいなのというのは。
【HH】 花柳界の子供は永田小学校へ行っているのが多かったね。自民党本部が真ん前にあるせいかどうか知らないけども。設備もすごかったしね。
【聞き手】 モデル校でしたからね。
【HH】 だから、そんなのがたくさんいたよね。
【TT】 だから、そういう子供の遊びが何とかということよりも、豊かな・・・…。
【HH】 豊かだったんだよ、あの人たちは。
【TT】 結構お勤めの子供たちもいましたからあれだけども、赤坂そのものは豊かだったとは思いますよね。
【HH】 市役所に関係あるのにそんなこと言っちゃいけないけど、市役所に勤めているなんて言うと、なんか大したことねえやつだなという感覚で、怒られちゃうけども、ごめんね。
【TT】 僕の友達でも今になってから、今になったといっても10年も15年も前だけど、あのときに横須賀だったかな、横須賀市役所へ勤めていた仲のいい友達がいて、おれも市役所へ行っておけばよかったななんていうのは、バブルがはじけてね。人間なんて勝手なものでさ。だから今、変な話だけど、入るのだって大変なんでしょ。
【聞き手】 大変なんですよね。
【TT】 じゃ、勉強できるんだ、皆さん。だから、そういうことでちょっと違った面もあるのかな。だから、お誕生日会なんて呼んだり呼ばれたりしていましたよね。
【聞き手】 小学生のころですか。
【HH】 小学生のころ思ったのは、花柳界の子だっていうんじゃなくて、赤坂あたりはプールがあったりとか、すげえなというのがたくさんあったから、この辺。
【聞き手】 その当時にプールのある家なんてあったんですか。
【HH】 プールのあるうちがあったんだよ。あれはササキさんといううちなんだけど。
【聞き手】 どの辺?
【HH】 永田町の交番の隣なの。
【TT】 あれ、キャピトル東急を建てる前ね。あのキャピトル東急のあれは今の『美味しんぼ』に出てくる魯山人のやっていた星岡茶寮ですからね。
【TT】 『美味しんぼ』ってあるでしょ。
【聞き手】 漫画とかね。今、話題になっていますね。
【TT】 そうそう。僕も食べ物屋だから、ああいうのを見るけど、ああ、なるほどなと思うところもあるけども、板前の気質だとか何かでちょっと違うんじゃねえかなっていうところもありますよね。実際の職人なんかは見ていますからね。
【HH】 あの当時、芸者衆の子供のことで思ったことだけど、その当時ぼお一っとしているから、こちらも。おやじの名前と何で違うのかっていうのをすごく不思議に思っていた、当時。
【聞き手】 でも、父親の名前は知っていたんですね。
【HH】 それは例えば松下幸之助の息子なのに青山だとか、どうして青山なのかなっていうのは。
【TT】 それはこういう花柳界の中でも、さっきも言ったように、うちにも10人ほど番頭だとか大番頭がいますよね。そういうのがいろんなところへ入り込むじゃないですか。そうすると、もちろん芸者衆から聞くとかというんじゃなくて、調理場なんかに直接あれするじゃないですか。そうすると、きょうはだれだれの席だとか、だれだれの料理だとかというのは一目瞭然ですよね。うちなんかは注文が入るわけですから。
【聞き手】 注文が入ったときは、きょうだれが来るのかなというのがわかったりするんですか。
【TT】 それを担当している番頭が入っていて、きょうのお客さん。というのは、料理というのは献立をまず立てるじゃないですか、親方が。そうすると、今週はこれだとか。で、我々のところにも相談に来るわけですよ、当然。来週はこういうものを使いたい。お造りはタイにヒラメに2点ものにするとか、1点ものにするとか、イカを入れようと。そうすると、お造りにタイを使うから、焼き物をタイにするわけにはいかないというわけですよね。日本の献立というのは、そういうところがあるんですね。おわんにエビを使うから、お刺身にエビを入れちゃまずいというのがある。ですから、そういう献立の相談も受けるわけですよね。うちのおやじは受けないけど、番頭が受けて、これこれこうで。それと同時に、ほかの料理屋とダブらないように。ほかの例えば「川崎」がこういう料理をする、今度はこうだと。そうすると、板前自身もどこどこは今週何を刺身に使うのかなというような。
【聞き手】 番頭さんを通じて。
【TT】 我々のところへ入ってくるわけですよ。で、聞くわけですよ。そうすると、お客が来て、あの当時の花柳界というのは主客、いわゆる招待するほうもされる側も700人とか800人といっても、ダブっている場合があるんです。きょうは6時から中川で、8時から「川崎」へ行こうとかどうだとか、どこの席へ呼ばれている。そのときに行ったときに同じ、近い料理が出るということは避けなくちゃいけないんです。それだけ気を使ったりなんかするところに、あの当時でさえも食事をして、芸者衆を入れて、お土産を持たせて、ハイヤーで帰すと10万円という値段がつくわけですよ。だから、それは何かというと、例えば料理もそうだし、器もそうだし、それから部屋に飾ってある掛け軸、そういった調度品から全て含んでの金額なわけですよね。だから、そこへいくと、例えば銀座のクラブへ行ってお姉ちゃんの隣で、このテーブルで1人5万も6万もとられるよりは、花柳界の10畳、15畳の広い部屋で4、5人で飲食して、その価値観というものが当然そこにあるわけですよ。だから、そこで、さっきも言ったように、また芸者衆のこともそうだけども、そういう価値観を追求できたわけですよね。
【HH】 だから、一概に高いとは言い切れないね、内容を見たら。ほかのと相対的に、ほかのところと比べて。じゃ、ほかのところはどうなのって内容を比べたら、高いよね、ほかのところは。
【TT】 だから、経営している人間はそれだけ資本を使っているということなんですよね、あの花柳界というところは。
【聞き手】 それだけ資本投下をしてそれを使うお客さん、そこを使うだけの価値がある会合みたいな、ということなんでしょうね。だから、相手を接待するのにそういうものを。
【TT】 そうです。接待というのは微妙なところで、例えば重要な人が、それこそさっきの『美味しんぼ』じゃないけども、ここの料理は最高の料理だと、おやじさんの腕がよくて、センスもよくて、味もよくて。それを接待に使ったときに、そこで接待すればひっくり返っちゃうような汚い店じゃ接待にならないわけですよね。やっぱり接待される側も、何だ、おれをこんなところに連れてくるのかっていう話になるじゃないですか。だから、ホテルが重用されるというのはそこにもあるわけですよね、サービスとか、店構えとか。少々味は落ちても、招待される側が気持ちをくすぐられるようなシチュエーションがないと、接待というのと会議とは違うわけですよね。だから、接待の場だね、要は赤坂というのは。
【聞き手】 この間、変なおじさんと喫茶店で会ったんですね。
【TT】 変なおじさんってあなたじゃない?
【聞き手】 いえ、違います。赤坂の話をテレビの取材かなんかで、赤坂のことを何にも知らない若い人たちだったので私が一生懸命教えて、赤坂はこういう接待の場だったんですよと言ったら、隣に座っていたおじさんが、80ぐらいらしいんですけど、昔、商社に勤めていて、実際、僕は若いころに赤坂で接待する側だったんですよ、本当に赤坂の料亭はよく使ったんですよという話をしていて、お土産にはお菓子の下にちゃんとお金を入れて渡したんですよって、そのおじさんが言っていたから、これはすごくリアリティがあるなと思って聞いていたんですけれども。
【HH】 そこはお菓子の下にお金って、ちょっと違うような気がするんですよ。
【TT】 お代官様に山吹色のあれをやるようなのは、あんまりなかったような気がします。
【HH】 おれもそれは前に聞いていて、おかしいなと思ったんだ。
【聞き手】 ああ、そうですか。その人は商社に勤めていて、80過ぎていたから、賠償のころだったんですよ、デビ夫人なんかが赤坂で活躍したあたりなんじゃないですか。
【TT】 あれはコパカバーナのホステスをやっていて、デビ夫人ってすごい美人だったんですよ。あれも一つの国策なんですよ。人質じゃなくて何ていうの?ああいう約束。
【HH】 あれは国からの贈り物ですよ。
【聞き手】 よく伊豆かなんかで、米国の黒船が来たときの異人さんと同じだね。
【HH】 お金が好きな人はお金だよ。それから、そうじゃなくても陶器が好きな人には陶器だよ。スカルノは陶器なんか目くれなかったと思う。
【聞き手】 でも、あんまり女の人が嫌いな人はいませんからね。
【聞き手】 ああ、なるほど。TTさんなんかはずっとお勉強していらっしゃったという話だったんですけど、赤坂の豊かな社会の中でご両親の教育観というか、今考えてみると、赤坂はみんな高学歴の人たちというのは、結局はみんな外に出ているじゃないですか。
【TT】 まさにそのとおりなんです。そうそう、外へ出ていますよね。
【聞き手】 だから、豊かで、おまえは商売をやれというふうに言われたご家族なんかも、息子さんたちに高等教育を受けさせて、みんなそれぞれサラリーマンになったり、それこそ一流企業に入ったりして、だから戦後の話を聞いているのに今の話をしちゃいけないんですけど、今の赤坂の現状を見ると、みんなそうやって赤坂からいなくなってしまって、赤坂に残った人がいないような気もする。
【HH】 赤坂に残ったのはぼんくらだけだもん。自分も思うよ。
【TT】 それは違うんですよ。こういう流れになっているんですよ、今。今おっしゃったように、戦後、今お尋ねのように、赤坂は商売屋で、そんなにもうかる商売で、子供たちが継いでないじゃないかっていう話がありますよね。商売でもいろんな形がありますね。人をたくさん使って繁盛している店もあったり、ここじゃないんだけど、お豆腐屋さんとか、地味な商売もありますよね。そうすると、もうかる、もうからないのと同時に、どうしたって先代は苦労しているから、もうかればなおさらいいけども、朝早く起きて夜遅くまで働いて、2代目になると、そういうことよりもある程度楽したいと言うと変だけども、もうこういう商売は嫌だと。それと同時に、おとっつあん、おかっさんを見ていて、おかっさんがかわいそうだと。だから、自分は結婚して、女房にもうちょっと楽な生活をさせてやりたいんだという考えの人たちもいますよね。今、流れでおもしろいことに、だからもう一つ言えることは、バブルのときに赤坂見附が1億になりましたよね、坪。ということは、普通、商人で20坪や30坪持っていますわね。そうすると、今から考えても30億とか20億のお金で売れたわけですよ。そのときに繁盛している店というのは売ろうと思わないですよ、人を使ったり何かして。これ以上また商売で稼げると思いますから。ところが、見切りができる商売と見切りができない商売があるんです。見切りができる商売は売りましたよ、みんなその金額で。それでまたそれを投資に回した人もいるし、それで大方はだめになりましたよ、投資に回した人間は。それで、残った人間は何しているかというと、ビルを持って賃貸にしましたよね。あまり山っ気のない人はわりと残りましたよね。それよりももっと自分が知識があって、株だとか財テクだとかなんかに興味のある人間は、銀行だとか、そういったところから当然アプローチがあるわけじゃないですか、こうやればこうもうかりますよって。そういうことで投資で失敗したという人もたくさんいますよね。
【聞き手】 それはバブルのときになってからだと思うんですけど、それ以前からそういう傾向って、HHさんのお父さんも永田町小学校、麹町中学校、日比谷高校みたいなイメージで多分HHさん……。
【HH】 あのときは猫もしゃくしもそういう感覚だからね。ぼんくらな子供でもそう思うんだよね。
【TT】 それで、今、赤坂で氷川神社のお祭りがありますよね。そうすると、大体あれ20町会ぐらいあるのかな、赤坂。
【聞き手】 24町会とかって。
【TT】 24町会ね。これは今、1丁目から9丁目までだけど、先ほど言った福吉町とか、溜池とか、新町1丁目、2丁目、3丁目ぐらいまであるのかな。そのほかにいろいろあります。それで24町会ですよね。24町会の代表が集まって会議するときに、昔の雰囲気と全然違うんです。それはなぜかというと、今お話になったように、やめて売っていなくなっちゃった人もいるけれども、商売をやめてビルにして、それでビルにしたのと同時に、おとっつあん、おかっさんはそこへ住んでいて、自分たちは独立して会社勤めをしている。それで定年になって戻ってきて、そのビルのオーナーになって、それで町会の仕事をし出している人が結構多いんです。
【聞き手】 はいはい、いますね。
【TT】 ですから、先ほどのお尋ねの商売がもうかってというのと同時に、自分の目的としてこういう仕事につきたいとか、ああいう仕事につきたいといった人がやめて引っ越したんじゃなくて、お父さん、お母さんが亡くなって、自分たちがまた赤坂へ戻ってるというケースもあるわけですよ。だから、全てが商人がね。だから、そのタイミングでしょうね。HHさんとか私とか、本当に数えるほどしかいないですよね、商売をやっているというのは。
【聞き手】 いないですよね、本当に。
【HH】 中途半端にもうかっちゃったから、それが問題なんだよ、商売。問題っていうかなんていうか、現状はね。
【TT】 そうそう。だから、さっきの話じゃないけども、商売って、それも努力ですよね。こうやってくだらないことを言っているけど、それなりにうちへ帰れば一生懸命いろいろ考えたりなんかしているわけですよね。僕なんかでもそうですよ。資金繰りだとか、そういったことだってあるわけじゃないですか、ある程度大きくやっていれば。だから、そういうことで商売そのものというのは本当に大変ですよ。
【聞き手】 そうですよね。だから、例えばTTさんなんかは朝早く起きて、河岸に仕入れに行って。
【TT】 僕はあんまりやってないですよ。人任せにしていましたからね。いやいや、こんなこと言っているけど、やりましたよ。
【聞き手】 町並みがすごく変わってしまっているので、そういうことに対して。
【HH】 「口悦」のある通りね、あそこも料亭がたくさんあるじゃない。田町通りもたくさんあったんだけど。この前なんかも随分たくさんあったんだよ。
【聞き手】 今、吉池になっているところありますね、TTさんのすぐ前。あそこ川畠さんというお宅だったのをご存じですかね。
【TT】 川畠というのは料理屋でしょ。その後、旅館をやって、この間会いましたよ。僕は娘とイタリアへ行ったときに一緒のツアーに入っていたの、偶然。
【聞き手】 見番の事務長かなんかやって、お父さんが。
【TT】 あれ見番というか、料理人組合の会長かなんかやっていたんじゃない?あれ川畠っていうの?
【聞き手】 川畠さんっておっしゃいました。
【TT】 あのはす前のね。買う前は料理屋だった。仕出しもやっていた。それは本当に昔なんですよね。その後に旅館になったんですよ。
【聞き手】 ええ、そう言っていました。TBSの。
【TT】 そうそう。だから、森繁久弥なんかよく泊まっていましたよ。あの階段からよく歩いていましたよ。
【HH】 そう、赤坂は旅館が結構あったんだよ。
【TT】 あそこの階段を上がった右側に入り口があった。
【聞き手】 TBSのお抱えの旅館が随分あって、昔は……。
【HH】 連れ込みじゃなくて、ちゃんとした旅館。
【TT】 この人の専門のところじゃなくて、ちゃんとしたね。
【聞き手】 昔は連れ込みだったのかもしれないんですけどね。
【HH】 いやいや、連れ込みじゃないんだ、昔から。
【TT】 今みたいにビジネスホテルがないじゃないですか。それと同時に、今みたいに新幹線で朝向こうの会社を出て、あるいは東京の会社を出て大阪へ出張して、その日に帰れるということはなかったじゃないですか。必ず1泊しますよね、出張というのは。そのときにビジネスマンだとかなんかが泊まる旅館なんですよ。ですから、熱海だとか何とかの懐石料理の旅館で5万とか6万、そういうんじゃなくて、素泊まりもあっただろうし、そういう会社が専属、だけじゃなくて、要するに東京へ出張に行ったら、赤坂のハルピサという旅館へ泊まりなさいよと。そういう旅館が……。
【聞き手】 随分ありましたよね。
【TT】 当然それはありますよ。割烹旅館。
【聞き手】 円通寺坂とか黒鍬谷の辺とか。
【TT】 あそこにハルビサって大きいビルを建て直したんだけど、あれも旅館だったんですよね。昔の何だっけ。
【HH】 南部商事の近く?
【TT】 南部商事のところ。だから、たくさんありましたよ、旅館は。そこもそれぞれ料理人を置いたりなんかしていましたよ。それと多いのが会社の寮なんかも多いですよね。寮というか、迎賓館みたいなの。
【HH】 迎賓館多かった。今でもあるけども。今でも結構たくさんあるでしょ、残っているのは。住友だとか。
【聞き手】 そうですね。三井郵船かなんかは、氷川神社に行く途中の右手に今でもあそこは。
【TT】 あります。それから、日本銀行もあります。
【聞き手】 そうです。あれは全然名前は出しませんけどね。
【HH】 そうなんですよね。だから、そういう揚所なんだね。繁華街のような繁華街じゃないようなところがあるんだ、赤坂って。混在している。
【聞き手】 お屋敷町っていうんですか。
【HH】 お屋敷もたくさんあったし。
【TT】 大体がこれは江戸城に近いわけだから、当然、黒田藩だとか黒田さんの屋敷が。
【聞き手】 そうですね。あと九条家の跡だとか、そういう感じですよね。
【TT】 そうです。
【聞き手】 例えばお魚なんかをおろしているときに、昔、「川崎」の料理人をやった方のお話も聞いたことが……。
【TT】 「よし田」ね。
【聞き手】 「よし田」さん。はい。聞いたことがあるんですけど、その方なんかは大概だれだれさんがきょう来るというと、みんな周囲の人はちょっとわかって、その人の好きなものを仕入れて出すみたいなことで、だから急にだれだれさんが来るよって言われると、手配が大変だったみたいな話を聞いたことがあるんですけども、そういうことでTTさんのところが大変だったみたいなことってあるんですか。
【TT】 大変だったというか、「川崎」の吉田もよく知っていますけど、「川崎」そのものも、そんなこと言うのは、格式の高い料理屋だったらお客のほうもそれは言わないんですよ。格式がないと言うと変なんだけども、ここの料理屋は何でもわがままを聞いてくれるなみたいなところが「川崎」にはあったんですよ、雰囲気的に。
【HH】 だから、格があるんだよね、花柳界の。
【TT】 あそこの料理というのは一品料理なんですよ。あまりひねくり回した料理じゃないんですよ。要するにサザエのつぼ焼きだとか、大きい車の八寸だとか、お刺身があって、おわんがあってというような、食べるほうもそれのほうがいいと思うんだけど、そういう料理だった。だから、うちからしたらいい得意なんですよ。なぜかというとね。
【聞き手】 決まっているから。
【TT】 いや、そうじゃないの。正味のものを使うから、仕入れも多いんですよ。
【聞き手】 こねくり回したみたいなんじゃなくて。
【TT】 仕入れも多いわけですよ。正味のものを使うということは、料理屋としては利益率が低いんですよ。ところが、腕のいい板前、吉田が悪いというんじゃないですよ、腕のいい板前というのはいろんな技術を使うわけですよね。技術って言うとちょっと語弊があるけど。
【聞き手】 加工度とか加工のレベルが違う。
【TT】 加工。そう。だから、京都料理なんていうのは、僕なんかは食べたいと思わないよね。ひねくり回して何が何だかわからないような、例えば女の人なんか見ればものすごくきれいで、華やかで、だけどそれよりも例えばマナガツオの西京漬けがば一んと出てくるとか、お酒召し上がるかどうかわからないけど、サザエのつぼ焼きのこんな大きいのが出てきてくれるとか、お刺身と揚げ物があってという感じ。ところが、僕も腕のいい板前は何人も知っていますよ。その人たちの話なんか聞いても、それはすごいなと思いますよ、天ぷら一つ揚げるにしても何しても。だから、それだけ店側は利益が上がるんですよ。ちょっと魚が高いなと思うと野菜を使うわけですよ。野菜なんていうのは幾らでもないんですよ、いいものを使っても。その当時は魚が高いだの何だのといっても、その料亭のお金からすれば幾らでもないんですよ。今、板前、銀座でもどこでも、僕の得意先は銀座にもありますけど、経営者から32%であげなさいとか、調味料も入れて。
【聞き手】 ああ、素材。
【TT】 素材から。
【聞き手】 原価率ですね。
【TT】 原価率。板前をやる人間なんていうのはあんまり頭のいい人間いませんから、今、電卓があるからそのぐらいはできますよね。そうすると、昔はそんなことを言わなくてもあがっちゃうんですよ。料理なんて、本当にお客が来れば幾らでもないんですよ、料理の原価なんていうのは。
【HH】 材料のことだよね。
【TT】 材料費なんていうのは。だけど、その時代はそんな魚だってべらぼうに高かったわけじゃないし、今はもう天然の魚はものすごく安くなっていますよ。
【聞き手】 天然の魚が安くなっているんですか。
【TT】 安くなっていますよ、バブルだとか一番高い時期からしたら。アマダイなんて高いときはキロ9,000円も1万円もしたけど、今はもう3,500円とか4,000円ですよ。天然のタイなんかだって5,000円前後ですよ。
【聞き手】 えっ?今は養殖が出回っているので。
【TT】 養殖は出回っているんだけど、天然の魚も下がっているんです。それだけ需要も少ないし、やっぱり養殖もので賄うというところもあるし、養殖も下がっていますよ。ですから、材料としては。それはともかくとして、だから例えば大きい料亭でいい板前が実力を発揮して、天然のものしかないんですから、台風だとかなんかになると、魚がなくなっちゃうわけですよ。うちだってタイが10枚だの何だのって注文されたって、2枚とか3枚しか入らないときがあるわけですよね。そういうときでも腕のいい板前は、タイを注文して、きょうはタイがないからヒラメにしてくださいと言っても、ああ、わかりました。やっぱり腕のいい板前というのはゴタゴタ言いませんよ、タイじゃなくちゃ困るんだとか何とか。それはおめでたい席だったら別ですよ。おめでたい席でタイを使わなくちゃいけないというのは別だけども、ただ単に献立だけで、そういう素材がないからといって応用がきかないような板前じゃ、やっぱり腕が悪いんですよ。そういう素材が、先週はちょっと材料が高かったな、今週はこういうふうにしよう、野菜を使って。野菜といったってマツタケなんか使うときは高いけども、それ以外のときは、主婦がきょうはキャベツがどうのこうのといったって、料理屋の材料からすればそんな対して変わりはしないわけですよね。
【聞き手】 前、八百幸さんのおじさんにも二度ばかりお話を伺ったんですけど、赤坂の中で料亭のお料理の質が変わったというのは、関西の料理が赤坂に入ってきたからだっていうふうにおっしゃったんですけど、例えば八百屋さんから見て、野菜の入り方とかそういうのからすると、料亭の料理が変わったのは関西の料理が入ってからだよなっていう話をちょっと伺ったことがあるんですけど。
【TT】 日本料理はやっぱり関西なんですよね。僕も大阪には仕事で何度も行ったことがあるけど、それと板前の腕もやっぱり関西人のほうがいい場合もあるんです。魚の場合でも、昔はハモなんていうのは使わなかったですよね。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。実は私わからないんです。
【TT】 ハモっていう魚がありますよね、長い。
【聞き手】 1センチに包丁を幾つ入れるとかね。
【TT】 そうですね。関西に行けば夏は必ず出ますけどね。東京人はあまり喜ばないというか、材料が。関西へ行くと、魚屋でもハモがあるぐらいなんですよね。こういう大きいハモは骨がちょっとかたいから焼き物にして、それとおわんにするにはこのぐらいの大きさとか、お造りにするのはこのぐらいの大きさとかっていろいろあるんですよね。一応600グラムから700グラムぐらいの大きさのハモが一番値段的にも高いんです。大きいのは焼き物にしたりなんかして、需要がないから安いんですよね。だけど、今言ったように野菜なんかは特にそうですよね。関西の野菜類とか何とかというのは、やっぱり京都あたりの素材というのがあるんですよね。ということは、やっぱり日本料理は関西なんですよね。と僕は思うの。関東料理と関西ではやっぱり味が違いますよね。日本そば屋へ行ってもわかるじゃないですか。砂場なんかへ行ったって、おつゆなんか辛くて飲めないでしょ、しょうゆで。でも、それはそれで好むわけじゃないですか。じゃ、関西はおしょうゆのあれじゃなくても、おわんやなんかでもしっかりしていますよね。
【聞き手】 そうですね。薄味でおいしいですよね。
【TT】 それとフグですよね。フグなんていうのは関東じゃ使わなかったんです、ほとんど。一般の料理屋でフグを刺身にするなんていうことはなかったんです。
【聞き手】 いつごろからなんですか、関東で。
【TT】 フグはあったんだけども、フグの専門の店があったんですよ。それで、料理屋はお客さんの好みによって、関西のお客さんも来るわけじゃないですか。接待する側も、これは大阪の人だから、きょうはお造りだけは、テッサですよね、鉄砲の鉄のすぐ死んじゃうっていう。刺身にしてくれと言うときは、そこに「ふぐ源」という有名なふぐ屋があったんですよ、東京でも。今もあるけど。1人10万ですよね、フグだけでも。
【HH】 あれ今、九段にあるのかな。九段のほうに移っちゃった。
【TT】 そのかわりすごいフグをつくるんですよ。こういう……。
【聞き手】 お皿にきれいに。
【TT】 鶴だとか。鶴ったって僕の頭じゃないですよ。鶴の絵をかいた、そういう…
【聞き手】 お刺身がきれいに並んでいますよね。
【TT】 そうそう。それは職人の腕ですよね、まさに。よく花板だの何だのって、刺身なんか引くのはばかでも引けるんですから、あんなの何回もやれば。だけど、フグの身を立ててこうやってやっていく、それはすばらしいものですよね。
【聞き手】 すばらしいんだけれども、フグは一挙にいってすくって食べるという。
【TT】 そうそう。今、養殖のフグがあれですけど、フグなんていうのはそれほど味のあるものじゃないし、あれはポン酢で食べるものだから。ただ、雑炊にしたときにだしが出るか出ないかの問題なんですよ。だから、そういうふうに料理的に魚でも関西になると、当然おわんでも何でも夏はハモを使ったようになるわけですよね。
【聞き手】 赤坂の料亭なんかの料理もそういうふうに変わっていますか。
【TT】 それは職人によりますよね。職人によるけれども、経営者にもよりますよね。経営者が料理にものすごい神経を使う人だと、それは腕のいい板前を使いますよ。長谷川という料理屋ね、「口悦」、先代のおかみさんはもう亡くなりましたけど、あの方なんかはこれはという若い衆がいるでしょ。吉兆かつる家へ出すんですよ、わざと修業に。自分の子飼いの若い衆ですよ。若い衆といったって、それこそ鼻たれ小僧じゃないけども、ある程度できた人間を吉兆あたりに修業に出すんです。それで、自分の息子を修業に出すんじゃないんですからね。それで戻して、自分の調理揚を任せるんです。そこまでこだわる経営者もいるんですよね。そのかわり器でも何でもいいものを使うんですね。その板前もそういうところで修業しているから、この料理にはこの器を使わなくちゃいけないというのがわかるんですよね。
【聞き手】 料亭のおもてなしというのは料理の器から始まって、器に盛る料理がその人にとってどのように心の中に響いていくかみたいな、そういうことなんですね。
【TT】 でも、やるほうもやるほうだけど、今、食べるほうもわからんからね。
【聞き手】 それはそのとおりでございます。それで、赤坂も時代時代によっていろいろ変わってきて、今みたいになったと思うんですけれども、例えば戦後からずっと料亭なんかを見ていらっしゃって、大体何年ごろからどういう感じで変わっていったかなって、例えばオリンピックのときはどういうふうに変わったかとか、赤坂というのは外国文化も随分早く入ってきたと思うんですけども、そういうのが花柳界だけではなくて、全体の中でどういうふうに赤坂の町並みとか文化みたいなのを変えていったかなと。
【HH】 おれ、思うことがあるんだ。「コパ」にしても「ミカド」にしても、それから向こうに「シャンゼリゼ」ってカフェテラスがあったのよ。みんな経営者は日本人じゃないんだよね、半島系の人だったり、台湾の人だったり。
【聞き手】 「コパ」も「シャンゼリゼ」もそうなんですか。
【HH】 ええ、そうそう。「シャンゼリゼ」は台湾系の人、コパは韓国系の人。
【聞き手】 ナガオさんって韓国の人なんですか。
【HH】 ナカオさんは韓国の人なんだ。
【聞き手】 「ニューラテンクォーター」なんていうのは・・…・。
【HH】 彼のことについてはよく知らないです。
【聞き手】 福岡のやくざさんじゃないですか。
【HH】 それはよく知らないんだ。
【聞き手】 福岡の方なんですよ。『東京ナイトクラブ』っていう本に書いてありますけども。
【TT】 だから、血筋は半島系かもしれないですよね。大体暴力団関係が多いから。「ミカド」はそうですよ、完全に。「ミカド」というのは従来はレストランシアターでやったんだけど、それをやったのは名古屋です。中部観光。
【聞き手】 中部観光ですか。
【TT】 山田というのね、あれがやって、日本にはちょっと早かったんですね。それと一流のショーを呼んで、食事をしながらこうというんだけども、当時はナイトクラブがありましたからね。ナイトクラブというのは最高のショーを見ながら食事もできて、と同時にホステスがいましたからね。だから、日本のその当時の文化としてはまた早かったのか、日本人には合わなかったのか。僕も子供ながら連れていかれましたよ、おやじに。こういう商売やっているから、子供の教育にはよくねえだろうなんていう考えはあまりないんですね、親も。おっぱい出して、踊りを踊ってやるんですよね。子供心に、ああ、すげえなとは思いましたけどね。
【聞き手】 ちょうど30年代ですかね。
【TT】 そうです。その後、「ミカド」になったわけですよね。それが近畿観光なんですよ、小浪っていう。あれは完全に韓国の人ですよ。北か南かどうかわからないけども、近畿ですよね。近畿観光というのは完全に関西ですね。中部じゃなくてね。あれは一つのキャバレーですよね。ナイトクラブと違った、一部ナイトクラブ形式もあったけども、ほとんどはキャバレー。1,500人のホステスを集めたんだよ、初め。
【】 すごいですね。
【聞き手】 それ、毎日600人働いていたんですって。
【】 フロアもすごい……。
【聞き手】 フロアもすごかったんですよね。
【TT】 そうそう。あっ、知っているの?
【】 知らない。
【聞き手】 600人入る。
【TT】 一番最初、1,500人のホステスを集める。集まらないにしても上位50人に車をあげたんですからね、ホステスに。だから、やることがやっぱり鋭いですね、感覚が、関東の人間よりも。事、商売となるとね。その合間に花柳界があって、年代はお調べになればわかると思うんですけども、そのころはこの道なんか11時過ぎると車が数珠つなぎになって、動けないんですから。国際のパーキングにお客の車を預けるわけですよね。僕と妹なんかはニワトリだ、ニワトリだなんて、赤い帽子をかぶってニワトリのとさかみたいなのをやった人たちが歩いて、それでうろうろしていて、みんな帰るでしょ。その後にホステスを連れて食事に行く小料理屋みたいなのが結構繁盛したこともあるんです。
【聞き手】 ここは「ミカド」ってすぐなんですよ。
【TT】 それで、赤坂が衰退していったというか、バブルで、花柳界の料亭というのがものすごくもうかっていたんです。
【聞き手】 バブルのときにですか。
【TT】 バブルの前に。だから、いわゆる保守合同があって、財界が赤坂で接待して、そのころはさっきも言ったように、材料費だって安いし、賃金だって安いわけですよね、人件費なんかだって。
【聞き手】 まだ安い時代ですよね。
【TT】 そうそう。芸者の玉代は一定の決められたものがあっても、女中さんだとか、仲居ですよね、そういった人たちの賃金も安いし、べらぼうにもうかった時代があったわけですよね。何年ぐらいですかね。それはバブルにも重なっているんですけど、その勢いでみんなビルを建てたところがあるわけです。「富司林」とか、「大野」とか、「田川」さんとか、あれがみんなえらいお金をかけて建てたんですよ。ということはまだその勢いがあったんですよね。要するにテナントに貸さなくても、料亭をやっていても当然5億とか6億の借金は返せると思って建てたわけだから。ということは、まだ料亭がこのまま、未来永劫とは言わないまでも、この先まだ商売になるなって踏んだから、そういうふうに建てたわけですから。それで、バブルのころはそうで、バブルがはじけて全部それが取られちゃったわけですから、ビルそのものを。ですから、それを順追っていけば、大体ある程度のあれはできるとは思うんですけどね。僕も年代的に何年とかというのはちょっと。
【聞き手】 例えば赤坂が一番華やかだった。だから、戦後すぐ賠償の問題とか、朝鮮戦争とかというので、だんだん上り坂になっていって、東京オリンピックというのはそういう上り坂のどういうばねになったのか。
【HH】 まだ途中だよね。
【TT】 まだ途中というよりか。
【聞き手】 まだ途中というか、出だしのところ。
【TT】 出だしからちょっとしたところでしょうね。
【聞き手】 赤坂のこれからだったんですかね。
【TT】 そうですね。悪くなり始めたのは昭和60年ぐらいかな。
【聞き手】 昭和天皇が亡くなったころはもうだめになっていたんですか。
【TT】 平成元年ですよね。平成元年というと・・・…。
【聞き手】 89年が一番バブルがはじけたときですね。
【TT】 89年ですね、バブルがはじけたのは。
【聞き手】 そうです、そうです。
【HH】 おれ、一番印象に残っているのは、「中川」がやめたというのが大ショックだったのを覚えている。
【TT】 ただ、「中川」さんがやめたときは、まだ赤坂が悪くなる前になる。
【HH】 そうそう。だから、そのときはショックだったけども、なぜやめちゃったのかと思ったけど、今思えばあの人は先見の目があったという。
【TT】 先見の目があったのか、家の事情もありますよね。
【HH】 それはある。家の事情はすごくある。
【TT】 跡を継ぐ人間がどうであるかとか、それと同時に、赤坂という土地が、これ、料亭をやめたら食えなくなっちゃうんだったらやめない場合だってあるでしょう。そうじゃなくて、それに代替するもの、例えばビルを建てるとか、私もビル建てたんだから、後に継ぐ人もいないしということもあったのかもしれないし、それと同時にもう一つ、あそこのみそのっていうステーキ屋、知っています?
【聞き手】 どこにあったんですか。富司林……。
【TT】 あっちじゃないの。うちの裏のね、うちの裏って、赤坂通りの清水商店って引手金物屋さん、あれ、あの奥さん亡くなったんですけど、その先、もうちょっとTBSに行ったところの左に路地があったんです。
【聞き手】 キャビンとかっていう。
【TT】 そうそう。よく知っているじゃない。あの奥にタマムシしっていう料亭があったんですよ。タマムシって、マスダキミさんという人がやっていたんだけど、それは僕が……。
【聞き手】 ちょうど今の国際ビルの通路になっているところじゃないですか、多分、キャビンがあったところって。
【TT】 国際ビルじゃないよな。違う、違う。
【HH】 通路にはなってない。
【TT】 なってない、今は。
【聞き手】 鳳月堂……。
【HH】 あんなほうまで行かないよ。
【聞き手】 金波ビルの。
【HH】 だから、金波ビル。
【聞き手】 あっ、金波。そうそう、金波ビル。
【HH】 金波ビルの裏側のほうだったよね。
【TT】 その経営者というのはマスダキミさんって、新潟の出身の芸者衆から料亭におかみになった人なんですよ。芸者衆だったのかな、あの人。タマムシってものすごく繁盛した料亭だったんだけど、その人は完全に自分の経営判断でステーキ屋を始めたんです、当時。それはすごい鉄板焼き屋でしたよね。
【聞き手】 その当時としては珍しかったですね。
【HH】 東京で初めてからもしれない。
【TT】 それはもう料亭はだめだって。その当時は昭和43年ぐらいでしたね。40年かな。だから、ものすごく早かったんだね、切りかえが。
【聞き手】 千代田線ができてからですか。千代田線ができる前?
【HH】 いやいや、できる全然前だよ。
【TT】 だから、あの当時にそういう感覚の人は、料亭はもうこの先だめだなと思い始めたのがきっかけなんですよね。ですから、それから10年以上は料亭がまだ繁盛していたんですからね。
【HH】 増えはしなかったね。
【聞き手】 ああ、そうですよね。
【TT】 年代でわかるのは、きょうKRが来ていたんだけど、あれが「千古満」なんかはわかるんだ。
【HH】 「千古満」ってさっきの仕出屋さん。
【聞き手】 知っています、知っています。今、パリにいらっしゃる。
【TT】 あいつは帰ってきたの。それでまた食事に行こうって。よろしくお願いします。
【HH】 あっ、そう。
【TT】 それで、それが「千古満」っていう料亭を、うちの義理の兄になるんですけど、おやじの。それが赤坂が悪くなった時代をよくわかりますよ、年代を。自分も商売をやっていたから。
【聞き手】 でも、今のKRさんって、あんまり「千古満」にはかかわっていらっしゃらなかったんじゃないですか。
【TT】 いや、かかわっていましたよ。息子ですから。それで、自分はあんまりそういうのはあれで、もうそろそろ赤坂も料亭が少なくなり始めたというので……。
【HH】 出ている数を見ればわかるもんね。
【TT】 職人に任せたんですよ。それでも3年ぐらいはよかったと言っています。それから完全に赤字続きになったというので、それなんかが一番よく年代的にはわかるはずですよ。僕、今度会ったら聞いておいてあげますよ。
【聞き手】 KRさんも私存じ上げているので。
【HH】 お兄さんのほうだよ。弟のほうじゃなくてね。
【聞き手】 弟さんのほうじゃなくてお兄さんのほう?
【HH】 お兄さんね。
【TT】 弟は何で知っているんですか。
【HH】 兄貴は知っているのかな。
【聞き手】 パリに行った方。
【TT】 ああ、兄貴、兄貴。
【聞き手】 あっ、お兄さんですか。
【HH】 そうそう。
【TT】 あれは年代的に追っていくと、あいつはよく知っていますよ。
【聞き手】 ああ、そうですか。それで、ご成婚なんて246通りましたよね、皇太子の。32年かな。
【TT】 皇太子って今の天皇ね。僕、あのとき見に行った、四谷へ。
【聞き手】 四谷まで行かれたんですか。
【TT】 四谷に知っている人がいて、ちょうど通るところにあったんですよ、家が。大変失礼だけど2階から。
【聞き手】 あのころって、赤坂ってどんな雰囲気だったんですかね。
【TT】 何年ですか。
【聞き手】 町並みとか。
【HH】 昭和何年?あれ。
【聞き手】 32年です。
【TT】 昭和32年は赤坂はまだビルなんかなかったですよ。
【HH】 ビルないね。
【TT】 全然ないですよ。
【聞き手】 例えば皆さん商売は、さっきTTさんがおっしゃるように豊かな時代で、使用人なんかもまだ何人か抱えていらっしゃったんですかね。
【TT】 いた、いた、いた。昭和32年というとね……。
【HH】 朝鮮戦争から6年ぐらいたっている。
【TT】 まだ全然赤坂の勢い、千古満のおやじが28年に帰ってきて、ここに開いてあれしたんだから、まだですよ。赤坂の最隆盛の始まり、予兆というか、そんな感じだね。
【HH】 千古満さんは7年ぐらい抑留されていたから、赤坂へ来たのはその後だからね。だから、28、9年でしょ。昭和の初め。エポックメイキングでも何でもないんだ、あれは。ただ通っていただけの話。
【聞き手】 料亭はそのころはまだちらほらだった。
【HH】 結構ありましたよ。
【TT】 数だけはありましたよ、すごく。
【聞き手】 あっ、そうなんですか。
【TT】 もうこれからという時代でしたよね、赤坂の。
【聞き手】 じゃ、これからという上り坂に。
【TT】 そうです、そうです。
【聞き手】 なるほど。32年あたりのあれですね。じゃ、ちょっと政治状況なんか見ると、料亭がどれだけにぎやかだったかというのがわかるかもしれないですね。
【TT】 そうですよ。
【HH】 だから、料亭から料亭へ、政治家だか財界の人がからんころん……。
【TT】 サカイなんていうのもあった。
【HH】 歩いているころですよね。
【聞き手】 まちを。
【HH】 Aという料亭からBという料亭へ移るわけだ。
【TT】 だから、今から考えるとばかばかしい話というか、マスコミもそんなに騒ぎ立てもしませんよね。それこそ総理大臣に彼女がいようが何しようが、コミュニケーションそのものもそんなにあれだったし、大野伴睦という有名な政治家がいまして、さっきも話した。
【聞き手】 岐阜の人でしょ。
【TT】 岐阜の人。こまどり姉妹が大好きで、2丁目の交番の今の中華屋さんのところに「酒井」という大きい料亭があったんですよ。
【聞き手】 2丁目の交番の?
【TT】 2丁目の前に。今の国際の本社のところ。あそこにサカイって、お酒の「酒」に井戸の「井」と書いて「酒井」っていう大きい料亭でした。そのあれは、益谷秀次って衆議院議長がいたんです。マスタニというのは……。
【聞き手】 益の「益」ですね。
【TT】 そうです。
【HH】 昔は衆議院議長なんていったら、すごい実力だからね。今の衆議院議長と違うもんね。
【TT】 その人がごひいきにしていた料亭なんですよね。それは早くやめましたね。
【聞き手】 やっぱり益谷秀次が勢いがなくなったと同時に。
【TT】 まあ、そういうこともあるでしょうね。やっぱり人も相当いましたしね。その料亭から大野伴睦が芸者衆2人に支えられながら、酔っぱらって料亭の「川崎」に行くんです。道路だって車は通らないですよね。そうすると、真ん中をフラフラしながら着物を着て歩いて、あれは着物を着ていましたからね、よく。そうすると、芸者がからんころんからんころんのぽっくりを履いて、先生、先生と追っかけて、そういう絵があるんです。絵って、私、直接見ているね。今からじゃ想像がつかないですよね、政治家が芸者を連れて、酔っぱらって道中歩いてなんていう話は。今、そこの前のラーメン屋によく岸田外務大臣がSPを連れてラーメン食べに来て、それでSPが外へ出て最敬礼していますよ、ごちそうさま、ごちそうさまって。そういうのを見ていますから、ここから。そうすると、時代背景というか、それ、どっちがいいというわけじゃないですよ。それは民主的で、ものすごいいい光景なのかもしれないんだけど。だから、日本経済なんかも一つの膨らんだものが小さくなっちゃってという、いい悪いじゃないですよ、これは。
【聞き手】 まあね。時代の流れってあるのでね。
【TT】 時代の流れです。だから、そうなっちゃうと。
【HH】 でも、スケール感はあったね、大きいという意味で。昔の人のほうが、政治家。そういう感覚はあるよね。
【TT】 ただ、酒飲んで酔っぱらってくだらないことをあれしていても、一種の国家観とか、そういったものがあったんじゃないかなっていうことは思いますよね。例えば官僚政治で、岸さんから池田さんになっていったときの高度成長経済の所得倍増計画、あれは官僚上がりの政治家が、官僚上がりと言うとおかしいけど、それこそ官僚というのは英知もあるわけじゃないですか、昔から。それと政治力が相まって日本の原動力になってきて、すごいパワーだったんじゃないかなということは感じますよね。特に我々こういうところで商売やっていて、身近に見ていますよね。身近といったってあれだけども。そうすると、うちのおやじなんかも相当酒が好きで、2丁目の交番のところに、これ余談なんだけど、マツヤマっていうおでん屋があったんです。衆議院宿舎がそこの上にあるじゃないですか。そうすると、料亭に行けない社会党の代議士やなんかがそこで一杯飲むんです。そのおかみさんというのだって、どこかの仲居をやっていたぐらいだから、調子がいいよ。その当時、おでん屋でうちのおやじがよくこぼしていましたが、国会議員の楢崎弥之助だとか、それとか宇野宗佑さん、うちのおやじと仲よしになっちゃってね。
【TT】 総理大臣ですよ。それがよく飲んで、うちのおやじも酒が好きで、政治の話も好きだし、それで随分懇意にしていたんですよ。そういう場所もあって、その政治家たちも、マッチポンプじゃないけども、予算委員会で質問しても後で自分で火を消したり何かするような時代ですか。 楢崎弥之助。そうそう。ああいう人たちだとか、後で民主党の委員長になった人たちだとか、うちのおやじはわりと宵越しの銭は持たない人間だから、しょっちゅうごちそうしたりなんか多分していたんだと思いますよ。そういう赤坂のあれもあったんですよね、雰囲気的に。
【HH】 政治家とか芸能人も含めてだけども、赤坂はあんまり振り返らないところだったよね。振り返らないようにしていたのかもしれない、もしかすると。そう。ふだんどおり。
【聞き手】 日常だという感じ。
【HH】 だから、居心地がよかったんだと思うよ。
【TT】 だから、歌謡界の女王なんていったって、美空ひばりだってそこへ住んでいて、水戸幸さんの2階を借りてずうっと住んでいて、あったんだからね。あのAKBの握手会へ行ったんでしょ、この間。
【聞き手】 だれが?
【HH】 握手会。
【TT】 そのような政治家も芸能人も、それこそ何気なく。
【聞き手】 日常のようにして。
【HH】 つっかけ履いて歩いていたよね。
【TT】 だからって、我々も地元の人間じゃないですか。だから、握手を求めたり、サインを求めたりなんかしないわけですよ。あくまでも日常茶飯事のような、そういうまちでしたよね。雑誌のあれにはあんまりアバウトで、何だかとりとめのない話で。
【聞き手】 いいえ、大体赤坂の雰囲気というのがわかったんじゃないですかね。
【TT】 雰囲気といえば、新派って知っています?水谷八重子さんだとか。
【聞き手】 水谷八重子とか、この方、2人新派はわからないね。
【TT】 新国劇だとか新派とか、今で言う、僕は世田谷なので、下北沢なんかへよく行くと、劇場があるじゃないですか。
【聞き手】 本多劇場とかなんかですよね。
【TT】 本多劇場とか、ああいうところでお芝居やっているじゃないですか。あそこら辺でちょっと飲み屋へ入ると、みんな演劇論をたたかわせたり、すごいですよ。きょうは打上げだなんて言ってね。僕も演劇のほうをちょっとやっていたことがあるから。知らないでしよ。
【 】 知らない。どうぞ話してください。どうぞ、どうぞ。
【TT】 それと同じように赤坂にもそういう芸能人だとか、そういうのがあって、それで新派の世界ね。新派というのは、大劇場で歌舞伎座だとか何とかというところじゃなくて、もうちょっと小さい、本多劇場ほど小さくないんだけど、そういうところで。
【聞き手】 明治座なんかでよくやりますよね。
【TT】 そうです、そうです。日本のいわゆる花柳界の芸者だとか、そういう人たちの世界をやるような芝居なんですよね。
【聞き手】 昔、演劇と歌舞伎があって、それに対して社会主義者とか、そういう人たちが歌舞伎と反対に新劇みたいなのを立ち上げたんですけど、その新劇の新しい運動にもまた批判的な人たちが日本の独自の演劇をということで新派というのを、歌舞伎ではなくて新劇、新劇って、いってみれば洋風のお芝居だった。外国のイプセンとか。
【TT】 そうそう。花柳章太郎。
【聞き手】 そうそう。だから、新派というのはそういうものとは違った意味。花柳章太郎というのも赤坂に住んでいましたよね。
【TT】 そうです。その舞台の風情が、私は子供心に、我々もこういう商売やっているから、新国劇に連れていってもらったり、歌舞伎はともかく、歌舞伎座だって、赤坂の赤坂をどりもあそこで5日間ぶち抜いて芸者衆がやっていたんですから。
【聞き手】 1週間ぐらいね。
【HH】 役者が何人もいたからね。
【TT】 それで、その新派の世界のような、それこそお休みのときに三味線の音が聞こえて、小唄のあれが聞こえて、子供心に風情、風情という言葉はそのとき知っていたかどうか知らないけども、そういうまちだなという雰囲気はありましたよね。
【聞き手】 当たり前に、だから三味線の音色が。
【HH】 また冷暖房がなかったから、夏になるとあけっ放しだしね、みんな。
【聞き手】 そうそう。みんな置屋さんなんかね。HHさんなんか、隣の家が置屋さんだったので、隣のうちの芸者さんが気になって勉強できなかったと言う。(笑い)
【TT】 だから、芸者さんに相当お世話になったらしい、いろんな面で。
【HH】 だから、全体的に色っぽいまちだったよね。
【TT】 色っぽいというか、雰囲気がね。
【聞き手】 だから、みんなの話を聞くと、おしろいのにおいが漂っているというふうに言いましたね。
【TT】 そうそう。だから、一番最初の話に戻って、今になって思うと、そういう子供の感情として、やっぱり一種違った感情は、子供心にして持っていたのかもしれないね。
【聞き手】 だから、こういう花柳界の中で、子供ってどういうふうな暮らし方だったのかなというのを、きょうはお聞きしたかったんですよね。
【TT】 だから、男と女の深いあれはわからないながらも、ただ単に夫婦がいて、子供がいて、おじいちゃん、おばあちゃんがいてというような家族構成だけではなかったような気がする。こういう世界もあるんだなとか、隣のうちはふだん来ない人が出入りしていたみたいなね。それでもごく自然で、親は挨拶もするし。
【聞き手】 おじさん、また来てねみたいな世界。
【TT】 そうそう。だから、そういう遊びとかいうことは子供だからあれだけども、物事の考え方とかなんかは、いい悪いは別として違っていたのかなとは思いますよ。
【聞き手】 だから、当たり前のことが、本当は世の中って当たり前ではないんだよなっていうふうに思ったということなんですか。
【TT】 そこまで。自分が今になって思うと、さっきのどういう遊びをしていましたかって、子供の時代はどうでしたかということを考えてみると、そういう雰囲気の中で育っていますから。
【HH】 ませた分はちょっとあったのかもしれない。事、男女のことについては。
【TT】 おれはなかったな。(笑い)
【HH】 我々は普通に接していたけども、二号さんの子供とかっていうのは、本人たちはどう思っていたかわからないね。もしかすると違う感覚があったかもしれない。おれたちは別に変な偏見だとか、何らそういう差別だとかなかったのに、ただ、向こうはやっぱり裕福で、さっき言ったように飛行機のチケットを、こっちなんか飛行機なんて一度も乗ったことない、チケットを持っていること自体が、おれたちはバスのチケットを持っている、ああいう感覚、すごく不思議には思ったよね。
【TT】 でも、卑下はしてなかった。
【HH】 そうそう、卑下は全然してない。そういうあれがないまちでした。差別とか、皆無とは言わないよ、おれたちが知らないところであったのかもしれないけど、あんまりなかったね。
【TT】 だから、こういう表現はよくないかもしれないんだけど、僕も多少本やなんか読むけど、犯罪者の子供というのを背負っているという感覚ではない。犯罪者って言うと変だけども、本来からすると違うじゃないですか。正式なお父さん、お母さんがいて、そこに子供がいる。だけど、自分のところのお父さんはある程度わかっていても、そのお父さんには家庭があるんだというところはあるわけですよね、本来的に言うと。だけども、母親そのものが、子供たちにそういうあれをあらわしてなかったんじゃないかと思いますよ。
【HH】 父親が違うというのも結構いたね、兄弟2人いたら。そういうのも別に、だからといってそういうことを、何かの席には、あの人のお父さんだれだ、こっちのお父さんだれだっていう話は出たかもしれない。だれって、その子たちはなかったね。違うんだよ、お父さん。例えばおめかけさんとして長く続いた人はずっといたけども、途中で相手が、大体年寄りだから死ぬじゃない。死んじゃう場合は次の人を。これ、とっても大事なところだよ。いいだんなに最初つくと、その後もいいだんな、大体。最初にろくでもないだんながついたのは、いいだんながつかないね。あれ、普通の世界と同じだよ。あれは本当に。だから、変な男とつき合っちゃだめなんだ。
【TT】 あんまり参考にならないんだね。あなたは奥さんはどうかわからないけど。
【HH】 だから、お父さんが違うのもあんまり違和感がないというか、あの兄弟はお父さんが違うんだと言って。
【聞き手】 でも、その人たちにとってみれば、どう思っていたのか。
【HH】 それはわからないね。おれたちはその立場じゃないからわからない。
【聞き手】 そういう方が語り部でいるといいですね、1人。
【HH】 たくさんいるよ、そんなの同級生で。
【聞き手2】 ああ、そうですか。ご紹介いただけると最高ですね。多角的にいろんなね。
【聞き手】 だから赤坂の人、一般的に今暮らしている人たちは、赤坂というのはそういう人たちがいっぱいいたから、差別なくみんな仲よく暮らしていたのよ、それが赤坂のよさなのよって、皆さんそうおっしゃるんですけども、じゃ、反対に彼らから見たらどうだったのかなっていうのを。
【HH】 わからないね。
【聞き手】 わからないですよね。
【HH】 だから、あそこのあられ屋さんあるでしょう。ハヤシさん。知らない?
【聞き手】 富司林?
【HH】 富司林じゃないよ。ハヤシさんってあられ屋(赤坂小町)さんがあるんだよ。
【聞き手】 はいはい。
【HH】 あのお母さんはおれと同じぐらいの年代なんだ。おれは小さいころからあの人はきれいだなと思っていたけど。
【聞き手】 きれいですね。
【HH】 あの人のいきさつはよく知らないんだけど、あの人に聞いたらすごく詳しいことを知っていると思いますよ。
【TT】 あれもそうだろう、MK家の奥さん。
【聞き手】 あっ、そうですね。花柳界の出の人ですもんね。
【TT】 だから、それは一つの笑い話なんだけど、料亭というのは本来的に言うと、今、新橋では東をどりをやっていますよね。都をどりもこの間終わったでしょ、京都の。東をどりもこの間6日間演舞場でやっていました。5日間か。だから、いかに赤坂が花柳界のまちとしてはもう終わったかということなんですよ。
【聞き手】 おしまいですよね。
【TT】 おしまいなんですよ。
【聞き手】 だって、「三浦(料亭の名前)」のところをこの間もHHさんに言ったんですけど、三浦と木の下のところにワンルームマンションが建つじゃないですか。あれにみんな何にも言わずにそのまま認めちゃっているというか、そういうことから考えても、赤坂の人は花柳界というのには何にも未練というか、赤坂を支えてきた花柳界に対しての思いってないんだなあってすごく思いますね。
【TT】 うちのおやじなんかは商人ですから、あまり赤坂の花柳界にお客として出入りするということはなかなかできませんよね。だけど、その外ではいろいろ支えている面がありましたよ。かなりお金も使ったしね。だから今、僕も貧乏になっちゃっているんだけど。だけど、赤坂の人間って意外に花柳界で商売しながら花柳界を使ったり、そういうことをするという人がいなかったね。
【聞き手】 だから、料亭さん自身もこういう意味ではスノビーで、赤坂の商人の人たちって相手にしてなかった。そういう赤坂の料亭と商人との関係で。
【TT】 ただ、これが言えることは、料亭というのは、また特に赤坂というのは何たって第一線の政治家を相手に、第一級の財界人を相手に、それは官僚もいたかもしれませんよね。官僚だって外務省でいえば次官クラス、アメリカ大使クラス、最高の人が行っていたわけじゃないですか。それで、ああいう人たちも酒を飲めば、くだらない話もするわけですよね。芸者衆だって一緒の友達みたいに思う。それは人間として当然ですよね。僕は港信用金庫の理事長が、山口っていうんだけど、赤坂の料亭へ行ってもしようがねえんだと、おれたちは。そうでしょ。だって、きのうは住友の堀田さんが来ただの、だれだれって言っているわけでしょ。信用金庫の理事長だなんて店じゃでかい顔できるけど、赤坂へ行くと、信用金庫の理事長さんですかと言って、それで終わっちゃうと。それもわからないことはないんですよね。だから、あまりにも扱っている商品が高価な商品ばっかりだと、それと同じなんですよね。人間のレベルっていうか、そういうものが。だから、ちょっと行きづらいなとか。だから、うちのおやじなんかよく芸者衆のやっているクラブで、僕なんかもそうだけど、クラブだとかバーだとかへ行って、そうすると芸者衆が遊びに来て、そこで一緒に飲んで、騒いだりなんかするというパターンはあるけども、魚屋が、出入りの商人が行くという…
【聞き手】 ああ、料亭に。
【TT】 カウンターかなんかで飯食う分にはどうってことないけども、そういうところもあったしね。それともう一つ、赤坂というのはリーダーがいなさ過ぎるね。
【HH】 そうよ。昔からリーダーいねえんだよなあ。
【聞き手】 みんな足引っ張り合いしているんでしょう。
【TT】 引っ張り合いするほどまた根性もなければ、甲斐性もないんだよね。政治家みたいに自分の子分をつくるために金をばんばん、それがいい悪いは別として、身銭を切って何とか自分の子分にしたいとかっていう野心もないんだね。
【聞き手2】 結構皆さんリベラルですよね。親分肌で、おれの言うこと聞かないと許さんぞっていう感じじゃなくて、結構相手も尊重して。
【聞き手】 いいこと言ってくれますよ。
【HH】 そうそう、それは全然いい言い方だよ。くすぐったくなっちゃうんだね、リベラルなんて聞いただけでもこっちはさ。
【TT】 僕たちは1つ言うのに10個ぐらい言わないと核心がしゃべれないんだけど、やっぱり教養のある人はちゃんと。
【HH】 そうそう。違うなという、おれは思ったよ、本当に。
【TT】 だから、僕、よくHHさんにも、さっきFNから電話があったんだけど、女くせが悪くて酒くせが悪くて、穏やかな人間ばかりでも物事って進んでいかないところがあるんですよね、何でも。そんなばっかりでも困りますよ。酒ぐせが悪くて女ぐせが悪いばっかりの人間が集まっちゃっても、それは困るけども、まちとして。でも、やっぱりそうなんですよ。やっぱり強引で、そのかわり強引であっても、自分のちゃんとした、最終的にはお金の問題もあるんだけど、身銭を切って何とかっていうね。神社ばっかりに寄付して、山車ばっかりいいのを作ったって、まちの繁栄にはなかなかつながらないところがあるんですよ。だったら、料亭の一つでも行って芸者衆に。だから、赤坂をどりができないということは、今の赤坂をどりだったらやる必要ないですよ。あれはTBSがどうしてもあいているときにやってくれというお誘いがあってやっているのかもしれないけども、僕たち昔の赤坂をどりを知っている人間は、あんなところでやるのは本当にみっともないと思いますよ。あれだったら小学校の演劇会のほうがよっぽどましですよ。だって、鳴り物はやめた芸者衆ばっかりでしょ、ショウコさんだとか何とかって。
【HH】 最初はテープでやっていたんだから。
【TT】 それで、あと踊るといったって育子さん。
【聞き手】 育子さんと若手何人かとか、そのぐらいしかいないですもんね。
【TT】 そうでしょ。だから、一般的にああいう劇場として赤坂の芸者衆が踊るんだっていうことで、一般の人がチケットを買って見る分には、それはそれで一つはいいかもしれないけれども、昔の赤坂をどりを知っている、花柳界を知っているというと、ちょっと寂しいですよね。
【聞き手】 でも、芸者さんもいなくなっているから。
【TT】 いなくなっちゃったからしようがないんです。
【聞き手】 昔の赤坂をどりのピークって、何年ぐらいから何年ぐらいまでになるんですかね。これはトピックスというか、テーマとしていいですよね。なくなった赤坂をどりといつの赤坂をどりのことですか。
【HH】 バブルより前だよ。
【聞き手】 それは戦後ある程度何年かたってから。
【TT】 そうですね。チエちゃんなんか生きているかな。
【聞き手】 この間、河畠さんにお聞きしたら、河畠さんのお父さんが見番で事務をやっているときに初めて松竹の大谷さんなんかと……。
【TT】 松竹ですからね、歌舞伎座は。
【聞き手】 親しくなって、それで始めたという話なんですよね。だから、最初、歌舞伎座で一週間借り切ってやったったことなので。
【TT】 やっていました。5月。
【HH】 それは一番いいときなんだよね。
【聞き手】 ちょっと聞いてみますけれども、昭和……。
【TT】 さっき言われた昭和32年とか、そういうときから何十年かやっていたはずですよ。それで、うちはよくわかっているのは、あのときにチケットが7,000円なんですよね。それで、お茶券をつけて500円だかなんかなんですよ。うちは料亭にいろいろ入れていますよね。買ってくれなくちゃ困るという料亭ばかりではなかったんですけど、大体70枚ぐらい買ったんです、赤坂をどりの切符を。だから、50万ぐらいでしたね。うちの取引先は市場やなんかもあるし、仲間がいますから、そうすると好んで市場のだんな衆が買ってくれたんですよ、それを。HYさん、譲ってくださいよと。で、河岸もみんな粋な人が多くて、今はもうそうじゃないけど、あの河岸の仲買でも、いろんな業種があるんですけど、うちあたりが取引したり、うちあたりもそうなんだけども、茶屋物筋っていいものを扱う業種があるんですよ。そのだんな衆やなんか、私もよく知っているけど、長唄をやったり、清元をやったり、踊りをやったり、そういう人たちばっかりでしたから、その人たちがぜひ譲ってくださいって言うんだね。
【聞き手】 それで、昔は芸者さんが長唄をやったり、踊りをやったり、小唄をやったりしても、そういうやっていらっしゃる人たちだから、わかる人たちばっかりだったんです。だけど、今は小唄を歌ったって、何これみたいな。
【TT】 そうそう。だから、お客そのものもわかる人たちだったんですよ。その後、赤坂をどりをやると切符を置かされるから、赤坂の料亭へしばらく行くのやめようなんていう時代になってきちゃったんですよ、だんだん。それだけ会社のオーナーが少なくなってきたでしょ。オーナーじゃなくても、永野重雄とか稲山さんなんかはオーナーみたいなものですよね、あんな大きい会社でも。天皇みたいな入たちだ。銀行でも一番トップ、頭取なんていうとそれなりの人たちが多かったじゃないですか。そういう人たちが花柳界へ来ていましたから、そういう切符なんて、おまえ、今度赤坂をどりやるんだから、おれがあれしてやるよというスタイルで赤坂をどりが栄えていたんですよ。
【聞き手】 だから、終わったのは多分……。
【TT】 あれ、調べればわかると思いますよ、それは。
【聞き手】 大体元気がなくなってきたというのは、やっぱり昭和50年代。
【HH】 ともかくバブルの前ですよ。バブルのかなり前だと思う。
【聞き手】 だから、天皇が亡くなる前も大体下火になっていましたよね。
【TT】 64年。
【聞き手】 64年ぐらいから。ところで、HHさんは電気屋なんですけど、戦後すぐって街頭テレビみたいなのがあったじゃないですか。
【HH】 赤坂に街頭テレビなんていうのはあったかどうか。
【TT】 あったよ。
【HH】 あった?どこにあったんだよ。
【TT】 東芝で。
【HH】 あそこか(東芝EMI。山王日枝神社の下あたり)。あっちね。
【聞き手】 東芝。
【TT】 目の前が東芝で、あそこにガラス張りでテレビがあった。
【聞き手】 一般家庭にはテレビなんてない時代。HHさんのうちなんか電気屋さんなんだから。
【HH】 うちはうちのおやじが組み立てて売っていたの、7万円で。
【聞き手】 それで、HHさんのうちには隣近所から見に来たりなんかはしなかったんですか。
【HH】 見に来ていたね、そういえば。
【TT】 いいよ、見え張らなくたって。
【HH】 見に来ていた。うちはないよ。うちはないけども、うちはおやじがつくって売っていたから、7万円で。
【聞き手】 街頭にテレビなんか並んでいたんですか。
【HH】 あっ、ウインドーに?
【TT】 街頭でテレビ見たのはプロレスですよね、力道山の。
【HH】 ウインドーに飾ってあったかどうか知らない。でも、あのときはつくったらすぐ売れちゃうんだから。あの当時、メーカーがあんまりつくってなかった。ソニーがテレビなんか全然つくってないころだもん。ソニーもつくってない、東芝とかああいうのだって試作ぐらいのときだよ。本当にNHKしかやってないころに、うちのおやじテレビつくって売っていたんだよ。だから、料亭にも随分売ったんだよ、7万円で。今でも覚えている、7万円というのは。
【TT】 だから、メーカーがつくるんじゃなくてね。
【聞き手】 その当時の7万円ってすごいですよね。
【聞き手】 初任給なんか1万円しないもん。
【TT】 あれは本当にそう。テレビはメーカーがつくるんじゃなくて、僕も2丁目の交番の後ろに電気屋さんがあった。電気屋さんというか、お店はないけど。そこに観音開きのふたがついているテレビをつくってもらって、持ってきてもらったのを覚えています、子供のころ、リヤカーで。
【HH】 そういうのが売れたんだよ、料亭とか。商売屋だと、稲毛屋さんって肉屋さんが買ってくれたんだよ。向こう待っているんだもん、だって。うちのおやじは昼間寝ていて、夜つくって。あっ、そういう時代だ。
【聞き手】 そのころのことをもっと思い出せませんか。例えば外国文化が入ってきたころというのは、HHさんなんかは非常に……。
【HH】 外国文化じゃなくて、アメリカ文化ですよね。ヨーロッパじゃない。なぜかといったら、ハイツ(米軍の駐留基地)がたくさんあったわけでしょ。ジェファーソンハイツだとか、リンカーンハイツというのがあった。もう忘れた。ジェファーソンハイツはあったんだ。みんな大統領の名前がついているわけ。ワシントンハイツは代々木で、赤坂にもたくさんハイツがあったのと、山王ホテルがあったのよ。
【聞き手】 ああ、まだ山王ホテル。でも、占領されていたでしょ。
【HH】 、もちろん。ハイツといったって金網の向こうで、金網でこっちは向こうを見ているんだから、おれたちはただあこがれで見ていたよ。山王ホテルもそうだし、山王ホテルなんて連れていってくれた。
【TT】 山王ホテルはフリーで。
【HH】 連れていってくれたからね。アイスクリームがうまいとか、映画は地下で、映画館があったりなんかして。
【聞き手】 ああ、入れたんですか。
【HH】 それはおれが入れてって言ったらとめられちゃうけども、米軍関係の人が連れていってくれるんだよ。
【TT】 山王ホテルなんか知らないでしょ。二・二六事件。
【聞き手】 二・二六事件のときの将校があそこに。
【HH】 だから、アメリカ人がたくさんいたの。軍属、兵隊、これがたくさん赤坂にいたのよ。赤坂にいたというか、ハイツなんだから入が住んでいるじゃない。それから、ホテルがあるから、ホテルに出入りしているでしょ。それから、米軍の人たちが日本にいる場合車に乗るから、ほとんどアメリカの車だけども、それを払い下げる会社がたくさんあったわけだ、溜池にずらっと並んで。そうすると、アメリカの香りじゃない。だから、アメリカの香りなんだよね。おれなんかそれにかぶれちゃって、人生失敗しちゃったんだけども。
【聞き手】 そのかぶれた様子を話してほしい。
【HH】 かぶれたといったら、やっぱり車はアメリカの車だよね。
【聞き手】 乗っていたんですか、そのころ。まだ小さい子供だもんね。
【HH】 だって、子供だもん、まだ。大学になって乗ったんだけども。
【TT】 シボレーとか。
【聞き手】 フォードとか。
【TT】 オールズモビルだとか、フォードだとか。
【HH】 そうそう。外車といえば、ハイヤーだって日本車じゃないもん。アメリカの車だよ。ベンツでも何でもない。BMWは車なんかつくってなかったしさ。だから、そういうのがたくさん走っていたし、そういうのが払い下がって、うちのおやじも払い下げだかなんだか、シボレーのなんだかに乗っかっちゃって、どこかなんかやっていたけども、アメリカのあれがあまりにも影響が強過ぎたね。だから、この間話したように、アメリカがくれる脱脂粉乳とアメリカがくれる小麦粉で育っちゃったのに、どうしてアメリカに反抗できますか。
【聞き手】 だから、どういうふうにアメリカ文化にかぶれて、人生の道を間違えちゃったわけ?
【HH】 違う、違う。この間の裁判あったでしょ。自衛隊を差しとめしたのに米軍差しとめできないでしょ。当たり前なんですよ。米軍は、だって日本を占領しているんだ、今でも。あなたたちはそれ関係ない。占領しているんだよ、日本を。
【聞き手】 横田基地なんかはそうですよね。米軍の基地があって。
【HH】 そうだよ。飛行機の通っていいところというのは、米軍が押さえちゃっている。
【聞き手】 制空権みたいな。
【HH】 制空権。新潟まであるんだよ、あれ。そこは日本の飛行機は通ってないんだ、今でも。みんな遠回りしちゃうんだ。だから、みんなアメリカに占領のままで、だから日本の憲法を変えなきゃいけない。占領時代につくった憲法だよ、今のは。いや、本当に。いいとか悪いの問題じゃなくて。
【聞き手】 今ごろになって反米になったりなんかして。
【HH】 ちょっと反米になっているんだよ。
【聞き手】 その親米ぶりを。
【TT】 親米ぶりといったって、そんな深い意味じゃなくて、ちょっとアメリカへ行って、そうすると、おれ、この人頭がおかしいんじゃないかと思ったよ、昔。何かというと、アメリカだったらこうだとか、アメリカはこうだとか、日本だったら許せるけど、アメリカはこうだとか、そんなことばっかり言っていたもんね。
【HH】 だって、六本木へ行ったって、お店は米軍のためのお店だよ、みんな。例えばハンバーガー屋だとか、ハンバーガーインっていう、本当にあの当時ハンバーグを売り物にしているお店があって、ニコラスとかああいうのは全部米軍関係なんだ。
【聞き手】 ミッドタウンなんかキャンプだったんですかね。
【HH】 あっ、そう。GHQの跡に移ってきた。
【聞き手】 GHQがあって、麻布三連隊の跡にまた基地があったんですね。
【HH】 あっ、そうそう。スターズ・アンド・ストライプスね。あれ、星条旗なんて言わないんだ。サウザンストライプスって言わないとまずいんだ、あそこは。(笑い)そうなんだよ。でも、星条旗通りなんて言うから、星条旗なんていう名前を聞いたのはおれが随分年齢いってからだよ。昔はみんなスターズ・アンド・ストライプス。みんな日本人までそんなこと言っていたんだから。いや、本当に。
【聞き手】 星条旗って、スターズ・アンド……。
【HH】 星条旗はスターズ・アンド・ストライプスじゃない。星とストライプじゃない。だから、そうなんだよ。
【聞き手】 スターズ・アンド・ストライプスストリートって言っていた。ストリートまでは言わなかった?
【HH】 通りは言わなかったね。だから、あそこも出入りしていて、あそこへ行くともうアメリカだよね。中は全然アメリカ。ワシントンハイツへ行きゃ、ガソリンスタンド、スーパーマーケット、映画館、スケートリンクみんなあって、みんなアメリカだよね。
【聞き手】 ワシントンハイツなんかも入ったんですね。
【HH】 だから、知り合いが。日系の2世なんかがいて、友達なんかいて、そういうのが連れていってさ。
【聞き手】 そういう人たちと遊んで歩いていたんだ。
【HH】 でも、小さいころだよ。中学生ごろ。
【聞き手】 もちろん、もちろん。
【HH】 映画なんかも屋根の上に上って、屋根の上から映画見たりとか、だからこんなハイツの中にスーパーはあるし、ガソリンスタンドはあるし、別世界だと思ったのがあるよ。
【聞き手】 やっぱりすごいあこがれだったんですか。
【HH】 それは着ているものだっていいんでしょう。だって、おれの高校生からアイビールックがはやったわけだよ。石津謙介だとか。
【TT】 VAN。
【HH】 アイビーというのはアメリカの東海岸でしょう。もろ、そんな服着ちゃっているんだよ、おれたち。ジーンズだってそうだ。アメリカから来たジーンズ履いちゃって、喜んじゃってね。本当。
【聞き手】 中学生のころですか、それは。
【HH】 中学生のころもそうだったね。それは着ているものが、雑誌だって英語で書いたのを持っちゃってさ。
【TT】 『平凡パンチ』だね。
【HH】 『平凡パンチ』なんて、あれだってアメリカだよ。だって、雑誌だって何だって、みんなアメリカ。テレビ映画はみんなアメリカの『ララミー牧場』じゃない。
【聞き手】 米軍のお友達なんかと知り合ったというのはどこだったんですか。
【HH】 いたからね、この辺にも。どこにでもいたもん。
【TT】 米軍なんていた?
【HH】 いたよ、店に。日本語しゃべれない日本人とかさ、日系米人でね。日本語しゃべれない日系米人だ。だから、おれは随分友達いて、そういうのに連れられていって、PXなんかへ行くんでも何でも安いじゃない。あの当時、税金が高いから、半分以下でみんな物が買えちゃうじゃない。だから、そういうので、ボーリングの玉を買いに行くのも、ああいうところへ買いに行くんだよね。で、安いしさ。
【聞き手】 ボーリングの玉ですよね。
【TT】 一番最初のボーリングは青山ですよ。
【聞き手】 外苑のところに。外苑なんかもよく通われたんですか。
【HH】 行きましたよね。中学生ごろかな。あんまりなかったんだよね。
【TT】 ボーリング?
【HH】 ボーリング。
【TT】 一番最初は青山にあって、それで力道山が渋谷に中古のボーリング場を買ってね。
【聞き手】 今新しくなったところですね。新しいビルが建った。
【TT】 そうそう。
【HH】 だから、大学になって本牧だよね。本牧ってあるでしょ、今でも。
【聞き手】 横浜のね。
【HH】 あそこはもろ米軍だよ。もろアメリカ。フェンスの向こうはもろアメリカだけども、外もアメリカだよ。全部アメリカ向きのお店なの、レストランだって何だって。
【TT】 でも、横須賀……。
【HH】 あっちのほうもそうだよ。
【TT】 横須賀も今まだありますよね、その雰囲気が。
【HH】 お店の名前みんな横文宇だもん。何とか「ズ」なんてね。アポストロフィだよ。みんな名前はそうだよ。名前の後に「Hino's」とか、そのようなお店がみんな。それでアメリカにかぶれちゃったんだよ。あの当時、アメリカのやることは何でも全ていいと思ったから。ただ、ベトナム戦争はおかしいなと思っていたけど、アメリカがやっているんだからいいだろうと思っていた。
【聞き手】 HHさんは大学を出られてすぐお店の跡継ぎに。
【HH】 プー太郎していたの。どうしようもないから、うちへ入った。でも、アメリカの影響は赤坂も受けて、六本木なんかも相当受けて、表参道なんかはもろアメリカの影響を受けていると思うよ。お店はアメリカ向けのお店がずっと並んでいたんだもん。
【聞き手】 ワシントンハイツがあの奥だったからね。
【HH】 だから、文化は結構。銀座なんかもそういう意味ではPXが服部時計店のところにあって、交通整理しているのはアメリカ人のお客を交通整理しているんだ。カッコいいんだ、それが。本当にカッコいいの。今、ああいう交通整理は見たことないけども、カッコいいんだよ、あの整理するのが。真ん中に立って、台の上に乗っかって交通整理しているんだ、あそこで。それもカッコつけてやっているんだよ。ああなんて。
【聞き手】 赤坂の学校の行き帰りとかというのは要するに……。
【HH】 ハイツの横を通っているんだ。だから、金網の向こうに、おもちゃとか、ああいうのがあるんだと思って。金網の四角形のああいうところをこうやって見ていたのを覚えているよ。アメリカの車はある。庭は広い。洗濯物も日本は物干しざおだけど、向こうはロープで干しているんだよ、庭に。アメリカはああなっているんだとかさ。昔、子供が乗るこのくらいの箱みたいになって、下に車が4つついて、手で引っ張るやつがあったんだよ、赤い色して。大体赤い色していたの。おもちゃ。人を乗っけて引っ張る。大人が引っ張っていた。そういうのが転がったりなんかしていたんだよ。金網を切って盗もうかと思ったけど、捕まったらどうなるかなと思って。その横に日比谷高校があった。日比谷高校も行きたかったんだね、日比谷高校へ行けなかったけども。
【TT】 日比谷高校といったら昔はね。今もそうだっけ。
【聞き手】 だって、永田町、麹町、日比谷っていうのが日比谷、東大。
【HH】 そう。だから、すごく感化受けちゃったよね、そういうのの。もうちょっと違う場所にもハイツがあったし、議事堂の前だったかな。
【聞き手】 今の最高裁があるあたりもキャンプだったですよね。
【HH】 何かあってさ、すごく。だから、そういう意味でね。
【聞き手】 じゃ、米軍がすごく多かったというか、青山通りなんかはお話を伺うと、ワシントンハイツから銀座まで、第一生命まで将校たちが通う通りだったって。
【TT】 GHQね。
【HH】 あったかもしれない。
【TT】 第一生命だね、GHQは。
【HH】 うちは山脇のぞぱに住んでいたことがあるんだよ。そのときに事故が起きたの。車ね。米軍の人が死んじゃったんだよ、2人とも。違う。ともかくぶつかった。電信柱にぶつかったか、何にぶつかったかあれだけど、都電も走っていて狭かったんだ、青山通りも。もうちょい下のところで、東急工一ジェンシーがある、あのあたりだったかな。ともかくアメリカの車がぶつかって、乗っていた人はシートベルトなんか当然してないから、2人とも死んじゃったんだよ。ごめんね、女の子がいるのに。女が裸になっていていたところをおなかを打っていたんだ。(笑い)その当時は裸でいること自体も、事故も多分、裸でいて事故が起きたんでしょう。だから、何で裸で車に乗っているのかって、すごく思い出あるよ、あの当時。昔どころじゃない、もっと小さいころだよ。小学校上がる前だよ。
【聞き手】 HH少年にとっては衝撃的な。
【HH】 ショックだよね。女の裸なんて見たことないんだもん。お母さんのだって見たことないのに。でも、そのころは自動車ってそんなに通ってなかったんだけども。そう、アメリカの車で。ほとんどアメリカの車。
【TT】 だから、溜池は車屋が多かったですよね。
【HH】 日英自動車とかね。
【HH】 そう。あれもやっぱり韓国系の人がすごく多かったね。輸入の権利を得る許可がすぐに取れたんじゃない。
【聞き手】 そうです。日本人は車の輸入売買は禁止されていたので。
【HH】 あの当時から、カメラを持って車の写真を撮っているようなカメラ小僧みたいなのがいたね。だから、相当金持ちの子供じゃない?カメラ持って車の写真を撮っているの。おれが読んでいる『カーグラフィック』という本なんかの初代の編集長なんかは、そうしていたって言っていたよ。だから、その人見ていたのかもしれないんだよ。だから、車好きの人の聖地だったよね、ここも。溜池より先までだね。
【聞き手】 虎ノ門までずっと並んでいましたからね。
【HH】 部品屋も含めて、ほとんどが自動車関係。
【聞き手】 その辺の人たちも、赤坂はやっぱり景気よかったんですね。ディーラーもすごく景気がよくて。
【HH】 そうそう。だから、お金持っていたんだよね。だから、花柳界だけじゃなくて、会社もそういうので持っていたし、米軍の人が物を買ったというのはあんまりあれだけども、あの人たちだって。
【聞き手】 米軍の人たちも、結構赤坂なんかで遊んでいたりなんかしたんですかね。
【HH】 だから、「コパ」だとか「ラテンクォーター」、それからカフェテラスってもっと前には・・・…。
【聞き手】 「シャンゼリゼ」の前に?
【HH】 「シャンゼリゼ」の前に。おれ、あんなカフェテラス見たことない、今でも。すごいんだよ。小さいからね。
【聞き手】 大きく見えたのかもしれない。
【HH】 見えたかもしれないけども、こういうカウンターが30センチぐらい、あっとカフェテラス、ガスラ張りで。前が駐車できるようになっていて、真ん中に入り口があって、その前に広くテラスがあって、そこにネオンサイン。女がマスカラ。ラテンアメリカか、キューバだかどこか知らないけど、マスカラがちょこちょこ動いている。
【聞き手】 ああ、振っているみたいに。
【HH】 振っているみたいなの。こっちの左右にもまたカフェテラスがあったの。そこに米軍が車をとめて。
【聞き手】 「シャンゼリゼ」があったところですね。
【HH】 「ラテンクォーター」の前。だから、山王ビルが建つ前。山王ビルが建つ前にあそこにカフェテラスがあった。だから、日比谷高校と米軍のハイツの横を通って、そこの前を通って帰ってきたんです。あのカフェテラス、でもびっくりしたの覚えている、今でも。あんなすごいあれは。
【聞き手】 じゃ、今のプルデンシャルのあたりですか。
【HH】 そう。あれ全部がカフェテラスだもん。入り口。
【聞き手】 アメリカだったんですね。リトルアメリカ。
【HH】 アメリカですよ、まさしく。だから、すごくそういうのには憧れて。アメリカへ行きたくてしようがなくて、地図とか本ばっかり見ていて、ロスへ行ったとき、あの角を曲がれば何があるというのは、郵便局から知っていたよ。あまりにも見ちゃっているから、あの角曲がれば郵便局があるんだなんて。本当に郵便局があったよね。そういう感じでしたよね。その後だよ。ホテルが建って、「ラテンクォーター」ができて、あそこの前に「シャンゼリゼ」というカフェテラス?あれも見ないね、その後にあんな大きな。
【聞き手】 そうですね。
【TT】 あれも幾らでもなかったでしょう。
【HH】 そうそう。
【TT】 ほんの少しだよね。ほんの一瞬だった。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。
【HH】 あれ、弟の友達のおやじがやっていたの。台湾人。
【聞き手】 フランスに行って、フランスから帰ってきて、フランスのカフェをまねたっていうふうに何かの本に書いてある。
【HH】 ああ、そう。そうかもしれない。安井かずみって作曲家がいたでしょ。あれの最初の旦那はそこの長男なの。死んじゃったけども。死んじゃって加藤和彦と結婚したの。ホッタ君ってね。
【聞き手】 安井かずみって加賀まりこみたいな。
【HH】 あんなカフェテリアだって、すばらしかったの覚えているよね。
【聞き手】 私は田舎でテレビで見たんですけどね。レコード大賞なんかやった後って、TBSのすぐ近くだから、芸能人があそこでインタビューを受けていたりなんかするのを地方のテレビで見ていました。
【HH】 レコード大賞もすごかったからね。だから、赤坂はそういう面ではすごく先端をいっていたね、まちとしては。アメリカだよ。
【TT】 先端といっても、結局GHQがあって、占領されて、通うのにそういうあれを通って。
【聞き手】 そうですよね。ここを通って通うか、こう通うかですもんね。
【HH】 だから、占領軍にやられちゃっているんだよ、おれたち。いや、本当、本当。
【聞き手】 私はいろいろ聞いたんですけど、皆さん何か。もう時間もそろそろ。
【HH】 若い人の赤坂のイメージって、どういうイメージなんだろうか。
【TT(支所)】 赤坂に来る前というのは、赤坂というのはイメージだけが先行したので、なかなか遊びに来る若い人って……。
【HH】 イメージのほうがよかったんじゃないの?
【聞き手(支所)】 いやいや、来てからのほうが。
【HH】 いいの?珍しいじゃない、そういう人は。イメージのほうがよくて、来たらがっかりという人多いよ。
【聞き手(支所)】 すごい高いイメージが。
【TT】 赤坂へ来たって、どちらにいらしたんですか。
【聞き手(支所)】 今の部署というか、異動して赤坂に。港区役所で働いて、前は本庁舎の浜松町に。で、赤坂地域に来て5年目なんですけど、それまで来たこともなかった。
【TT】 逆に聞きたいので、どうですか、赤坂。いろんな面でほかのところと比較して。
【聞き手(支所)2】 私、初めてなんですよ、赤坂は。港区に来て本庁舎で働いた後に、支所は初めてですもんね。赤坂。前も赤坂にいたんですよね。 私は入のときも赤坂支所にいたので、2回目なんですけど。
【TT】 そこの?
【聞き手(支所) 】 はい。
【聞き手】 どうですか。港区をいろいろ言って、赤坂は。
【聞き手】 港区全体の中で見て赤坂って。
【聞き手(支所)】 大人の夜のまちっていうイメージ。
【HH】 イメージはみんなそうだね。
【TT】 僕のおふくろは、赤坂支所ずうっとあったでしょ、今の支所。若いころにあそこで働いて、区役所で働いていて、それは正規のあれだか何だか知らないけれど、徴兵あるじゃないですか。おふくろですからね。おふくろは大正12年ですから、戦前に結婚する前に勤めていたときに、赤紙を出しますよね。
【聞き手】 その係をしていた。
【TT】 やっていたんだって。それだから、MCのおやじさん、MC大吉さん、あのタイヨウのね。あの人に渡したことが、その他何人かに渡したことがあると言っていましたね。やっぱり赤坂の支所、昔の区役所とか、そういうのは地元の人が働いていたことが多いんですか。これ、余談なんだけど、今うちの息子が商売やっていますよね。よかったなと思うのは、僕なんかはいいときの、従業員がたくさんいて、それこそ売り上げもどんどん上がってという、で、派手な商売をしていましたよね。ところが、僕は、母親だとも商人の出ですから、奥さんが大変なんですよ、商売というのは。好きな人もいますよ。そういう商売が好きだからという人もいますよね。僕は一番最初に子供心に思ったのが、まずそれですよ、おふくろを見ていて。それで、僕が結婚したら子供を普通の家庭の、要するに帰ってきてお母さんが待っていて、お三時をつくってくれてというような家庭をつくりたいなと思ってね。ないものねだりなんです。これ、さすがによく言われたんだけど、それは逆にお勤め人の子供は商売やっている人のほうがおいしいものを、変な話、派手で何でも好きなものを買ってくれてと言うのね。親は自分が手かけられないから、物で与えたりなんかする。だから、それと同じですよね。僕はよかったなというのは、今になって思うんですけど、完全にうちの女房は商売知りませんよね。全然別に生活。子供たちが、特に息子が今商売やっているじゃないですか。派手な商売を知らないんですよ。だから、逆に、今こんな小さくなった商売でも一生懸命やりますよ。僕たちの感覚でいたら、そんな面倒くさい3,000円や4,000円の配達なんて断っちゃえよとか、でもこれが商売っていうもので、きょうの話題とは全然違うんだけど、赤坂の移り変わりなんだけど、その一つとしてね。でも、月に5、6万円いくお得意様が、月に50万も60万もいくようになるんですよ。やっぱりそういうことを地道にやっているということですね。だから、僕はおやじにはいろんな商売を教わりましたよ、商売の仕方とか、悪い言い方すれば駆け引きとか、それと目きき。魚の目ききなんかばかでもわかりますよ、こんなものいくらでもやっていれば。大したことないんですよ。だけど、商売のコツとか。だけど、僕は今の息子に教えることは何もないですよ。商売そのものが全然違うんですから。それは八百屋でも肉屋でも、同じ商売であってもそうですよ。
【聞き手】 そうですね。今、昔の感覚で商売やったら、むしろ難しいかもしれないですね。
【TT】 そう。だから、それを知らないでやるじゃないですか。だから、僕もおかげさまで宮内庁やなんかにも行って、陛下のところにもあれして、この間のオバマさんのときも全部うちの品物がいっていますよね。
【聞き手】 ああ、そうなんですか。
【TT】 宮中晩餐会。でも、そういうことにもつながってくるんですね。だから、僕はおやじにいろんなことを教わったけど、一つだけ、商売は面倒くさがっちゃだめだよっていうことを教わったんです。僕は教えることは何もないんです、息子には。でも、そういう商売しか知らないから、うちの息子は。知らないということはないですよ。ずうっともう15年ぐらいやっていますからね。だけど、そういうことで赤坂を一つ見ていくと、同じ赤坂で商売していてもこれだけ違ってきちゃったのかな、違っているんだな。
【聞き手】 時代の変化というのは本当に大きいですよね。
【HH】 さっきの赤坂は昔よかったという話と昔愛している。昔の想いがあるから、またものすごくだめにしちゃっているの、赤坂は。今、息子さんは時代の変わった商売をやる。赤坂がだめになってきたというのは、昔と同じような商売のやり方をしているから、時代にそぐわないとか。だって、おれたちもしょっちゅう言うんだけど、昔はよかった、よかったって言っても。
【聞き手】 言っても今がよくなければね。
【HH】 お金が落ちてくるわけじゃないからね、言っていても。今のやり方について、赤坂はすごくおくれているね、ほとんどの商売の人が。それは昔からいいと言われた料理屋さんなんかでも、昔のとおりやっているから、もうだめになっている、いくらおいしくても。だから、難しいよね。
【聞き手】 でも、やっぱりおいしい料理屋に行くと、混んでいますよね。
【HH】 赤坂はちょっと高いからな。
【TT】 おいしい料理屋へ行くと混んでいるって、どこのお店ですか。
【聞き手】 ランチなんか、やっぱりおいしいなと思っているところに行くと。
【HH】 でも、ランチだけはやってもだめだからね。夜入らないと。
【聞き手】 それはもちろんそうなんですけどね。
【HH】 ランチはやったって、夜入らないところ結構あるんだ。
【聞き手】 もちろん、もちろんそうなんですけど、でもおいしいなと思うところは。
【HH】 昔はランチのお客が夜に通じたけど、今はランチのお客が夜に通じないって。
【TT】 いや、違う。食い物屋でいえば、昔からそうなんだよ。僕、新宿の三井ビルの55階建て、当時ね、あそこで7年間サラリーマンをやったことがあるんですよ。そのときに、僕もこういう商売やっているから、僕と全く畑違いの仕事ですよね。そのときにこのビルが建ったんですよ、赤坂の国際の東館と西館。これは三井不動産が管理して、初めえらい高飛車でテナントを集めたんですよ。入る人はたくさんいるんだから、早く決めないとだめだよというので。私の知っている人もたまたまそういうふうに言われたので、やめてよかったんですよね。あの中に「ふきぬき」をやったの知っています?そこのうなぎ屋が。
【TT】 MTさんが。MTさんが「ふきぬき」って。今は「ふきぬき」だけど、違うんですよね。
【聞き手】 経営者が変わっているから。
【TT】 あれはおでんの材料の何だっけ。それはいいや。紀文がやっているんだけどね。それからどうなったかわからない。MTさんというのは溜池の八百幸の並びにありましたから、私も親しくて、ヒデオさんってものすごくいい人ですよ。あの人が、うなぎ屋をやっていると、日本料理がやりたくなるんですね。これ、クラブなんかやっているママなんかでもそうなんだね。やっぱり日本料理がやりたくなるんですね。それで、このビルのところに40坪借りて、ふきぬきで日本料理をやったんですよ。新国際ビルの東館でやったんですよ。僕、そのときに、僕はそういう経験があるから、三井ビルでサラリーマンやっていて。それで、下に飯食いに行って、あそこの虎ノ門の「きくみ」が下で店を出していたんですよ。あそこは結構商売にはなっていたらしいんだけど、ここでMTさんが商売やったときに、多分これは難しいなと思ったの。というのは、高層ビルの地下で和食をやりますよね。そうすると、上はトーメンが入って、商社がある。だけど、ランチは食べるかもしれないけど、自分のビルの地下で接待は絶対しませんよ。できませんよ。接待というのはある程度ダーティなところがありますから、だれが見ているかわからないようなところで商売できないですよ。でも、やっぱりウナギだけ単体で食べ物屋をやった人間というのは、やっぱり日本料理をやりたくなるんですね、板前がいて。人のことは言えないけど、彼もどっちかというと世間知らずなところもありますよね。彼は日産のテストドライバーなんかやって、車が好きで、そういう人ですから。僕も何度か行きましたよ、2人で。あの当時でちょっと食べて3万円ぐらい。
【聞き手】 すごい料理屋だったんですね。
【TT】 うん。板前なんかを見ても、これは典型的な板前が来ていましたよ。これはマイクが入っているから、あんまり言えないけども。要するに板前ですよ。若い衆を5、6人ぞろぞろ引き連れてきて、うちから魚はいかなかったけど、たまに賄いだなんていうと、25人分ぐらいなんですよ、従業員の賄いが。ヒデオちゃん、もうちょっとあれとは言えない。商売のアドバイスなんかできませんよ。ゴルフだったら多少アドバイスで、ヘッドアップしているんじゃねえかとかなんとかって言えるけど、商売のやり方というのは言えませんよ、それは絶対。僕はこれは難しいなと思っていた矢先、やめましたよね。ところが、三井不動産あたりの管理しているところは、10年間保証金が返ってこないんですよ。やめました、保証金を返しますっていうんじゃないんですよね。内装だってスケルトンで出すでしょ。そうすると、そこで何百万ってかかる。だから、とりとめのない話なんだけども、昼間の商売が夜に結びつかないという典型的な例ですよね。だから、例えば飲食店で成功する例というのは、それは今の庄屋だとか、ああいう大きなチェーン店は別にして、自分が包丁を持っていて、自分の女房が酒の一杯でも飲めて、ちょっと愛想がよくて、顔はともかくとして、そういうような2人で、若い衆の1人や2人。若い衆の1人や2人の給料というのはそんなに高くないんですよ。修業だと思って来ているから。ましてやどこかの料理屋のね。だから、ここら辺の大きい料理屋の若い衆なんていうのは、もう「たん熊」はないけど、京都の「たん熊」が店を出したときなんかは、みんなそういう地方の旅館の息子やなんかが来ていましたよ。だから、そういう意味でお金もかからないでしょ。そういうふうにやれば、絶対に商売としては成り立っんですよね。やっぱりそういう形の商売というのはできないですよ、だめですよ。
【聞き手】 でも、ランチ随分長く通っていますけど、続いていますよね。だから、そういうところは、夜もある一定程度のお客さんがあるということなんだと思うんです。
【TT】 だから、それは例えば経営者がそういう職人、例えば僕のうちの地下が和食ですよね、30坪ちょっとあって。初め建設会社の社長が趣味でやっていたんです。亡くなっちゃって、また代がかわってやっているんですけど、今は自分自身がやっていますよ。できる人だから。それで、家賃だって何十万ですよね。だから、そういうので、やっぱり厳しいことは厳しいですよね。それだけ赤坂の、それは昼間はもう、きょうもたまたま話ししたんだけど、これだけ人がいたら、多少まずくてもはやらざるを得ないよねっていうような話もしていましたよ。食べなくちゃならないとなって、まして雨でも降っていれば弁当でも買えるかもしれないけど、お天気がよくて、外でも行きたいなと思えばね。だから、そういう意味での飲食というのは成り立つかもしれないけど、夜、一ツ木通りを歩いたって、これは厳しいと思いますよ。だから、それだけ商工課の人に申し上げたいけど、赤坂というところも相当落ち込みが多いよね。赤坂そのものというのはほかから比べて相当厳しいと思うよ。
【聞き手】 お店がすぐかわります。
【TT】 かわるんですよね。
【聞き手】 だから、赤坂だからやってみたいという人も逆にいるんだけど。テナントがあくと入るんだけど、あれっ、この前あったのにとか、ここにあった有名なスペイン料理屋だってつぶれましたからね。その前は、一番最初に赤坂にできたスペイン料理のお店があったじゃないですか。結構つぶれています。すごいですよ。当このごろ思い出せない。時々歩いてお店屋さんを見ても、赤坂の交代がすごい。
【TT】 やっぱり人件費とね。
【HH】 赤坂は激しいのかな、ほかのところと比べて。
【TT】 家賃? それと、何たってかんたって、土日が全くだめでしょ。これ、同じ坪単価でも、原宿あたりの坪で一時20万とか15万なんていうのは論外だけども、飲食店で月に20日でしか商売できなかったら、それこそさっきのようなスタイルじゃなかったら、まず難しいと思いますよ。あんまり消極的で暗い話ばっかりもなんだけども、僕から見ていてもそうだもん。僕なんかこういう商売やっていて、地下がスケルトンで、戻しじゃなくて、契約上いろいろあって、僕がやろうと思えばいくらでもできる機会があったんですよ、契約上。僕はやる気になりませんよ、いくら自分のものでも。ものすごく難しい。
【聞き手】 イタリアンでもフレンチでも店がいっぱいありますからね。和食でもいっぱいありますよね。だから、競争がすごく激しい。ちょっとでも味が落ちたらわかっちゃうので、もう行かない。あと、おっしゃるとおりで、その辺のイタリア料理とかなんかでも、土曜日行ったら僕らだけというのがありますよね。家族で2人行って、ちょっと入ったことないから、入ってみようかと思ってこうやってのぞいてだれもいないと嫌だなとか言いながら入って、最初から最後まで2人だけだと。土日はそうですよね。日曜日やってないところもありますけどね。
【HH】 ほかのまちよりも激しいかな、赤坂は。
【聞き手】 激しいと思います。
【TT】 だから、僕のうちの2階はうちの妹が和食やっていて、いい店だったんですけど、狭くなったといって広いところへ移った。その後に2回ぐらいかわったんだけど、モツ焼き屋が貸してくれって言うんだ。その人はなかなかのやる気があったので、若い人なんだけど、それで貸して、その裏のほうも一緒にくっつけちゃったんですけど、それこそすごいんです、忙しくて。やっぱりポリシーを持っていて、内装も全部壊して、丸い椅子、とにかく人が入るようにして、それでやっているんだけど、人から言われますよ。1人2,000円とか3,000円でしょ。食べても3,000円じゃないですか。たまに行きますけど、僕、見ていても、お酒の好きな人って、それこそ焼きとりが三、四本あって、お酒をどんどん飲む。
【聞き手】 昔は、そば屋でそばをちょっと食べながら、お酒飲むというのが昔のスタイルですけど、今はそういうことないですからね。
【TT】 だから、その店はすごくはやっているというか、忙しいんですよね。だから、そこに一つの赤坂のやっぱり。
【HH】 だから、最近の出てくる安いお店で、また安いお店のほうがはやる。
【TT】 だけど、やるほうとしては、我々は混んでいるって言うじゃないですか。そうすると、それじゃないと商売にならないんですよね。要するに原価率とか、20%、30%売り上げが落ちたら、商売は難しいという瀬戸際の、飲食店というのはそういうところですよ。
【聞き手】 昔の赤坂がよ過ぎたんですよね。
【HH】 それもあるね。
【TT】 もうここまで来ると、昔の赤坂が良過ぎたとか何とかっていうことからもう20年も30年もたっていますから、ただそれだけで我々だって、頭の切りかえがいくら鈍くても、そこまでついていかないわけではないんです。それが5年前に赤坂がこうで、今こうだっていうんだったらあれだけども、それから20年も30年もたっていますから、その切りかえ……。
【HH】 昔の名前で商売できなくなっちゃったね。
【TT】 ある程度はなれっこになっているから、その免疫性はあるんだけど、それにしても今の赤坂そのものはよくなる要素はないね。
【HH】 例えば何かのアンケートで、若者の行きたいまちの中に池袋が2位なんていうのは我々は考えられないけども、若者にとってはあの池袋は魅力あるんだね。
【TT】 いや、だからそうなんだよ。住みたいまちが池袋という感覚なんだよ。だから、それは我々にはピンとこないわけ。でも、世の中はそうだということに気がつかなきゃいけないしさ。
【聞き手】 なんかいろいろありがとうございました。また改めて