青山-3
戦後でも、上流階級層の注文は材料持ち込みのため菓子作りを続けられた。
戦後でも、上流階級層の注文は材料持ち込みのため菓子作りを続けられた。
① 語り部氏名 AT氏(和菓子店)
② 男性
③ 生年月日 昭和20年(1945)4月26日 69歳
④ 青山で暮らした時期 幼少期から現在(戦時中一時世田谷下馬に疎開)
① 主な内容
疎開先の世田谷区下馬から昭和23年頃青山に戻った。子供の頃は蔵だけが焼け残った広い根津邸にもぐりこみザリガニ釣りをした。店の前の高樹町通り(骨董通り)はオリンピックの時都電(渋谷〜新橋)が廃止されて歩道ができたが、幅は変わっていない。以前は道路の両側に魚屋、文房具屋などの日常品を扱う店が結構あったが、路一本裏から大きな家が並ぶ、静かな屋敷町だった。オリンピック以降、家の建物が変わっていった。
家業の菓子屋は昭和10年頃に父が開業。終戦直後までは「岡持」に見本を入れて御用聞きもしていた。父親が52歳で亡くなり,19歳で家業を継いだが、この際、職人を解雇して、残された簡単なレシピ(絵)を見ながら、10年程、試行錯誤して、独自の菓子を作り上げた。青山の和菓子組合も後継がいないので、10軒くらいに減ってしまった。戦中、戦後、物資不足の時代は時々上流階級層の注文が材料持ち込みだったので、材料の調達の苦労なく菓子作りを続けられた。
② 備考
・「高樹町通り」の名は当該道路の元々の愛称。現在使用されている「骨董通り」はバブル期に骨董商が増え始めてから言い出された俗称で、平成25年に地元から区へ「高樹町通り」の愛称にしようの運動をしたという。
・和菓子商の内「朝生(あさなま)屋」の称は当日売りの大福、団子などの商品を朝の内に作り終えている店を指す。対して茶席用の菓子などを作る店が上生菓子屋(御菓子司)で茶会用の菓子に型物は使わない。注文に随時適応する茶会が開かれる日は店を休まないなどを心がける。
・向田邦子(作家)は店主母親と交遊があった。水羊羹と金玉が好きで飛行機事故で急逝した台湾旅行(1981)にも持参した。
① 現住所 港区南青山5丁目
② 小学校 区立青南小学校 その後高校卒業後家業の上生菓子店「K屋」を継ぐ
③ 保存資料の状況 テープ起こし 表紙
④ 取材者 N K(聞き手1) AH(聞き手2) TM(聞き手3) CI(聞き手4) OH(聞き手5)
⑤ 取材年月日 平成26年(2014)10月4日
⑥ 旧住所 同上
語り部 HKさんの話
【聞き手】 和菓子屋さんのご主人様で、やっぱりそういう作務衣なんか着てらっしゃるといいですね、ぴったりとして。今いらした女の方も浴衣を。
【AT】 女房です。
【聞き手】 そうですか。このお店のしつらえも伝統的で。
【AT】 いやいや、もう古いから。
【聞き手】 いつですか、このおうちは。
【AT】 ここは戦後ですね。戦前は今のみずほ銀行の2、3軒隣で商売やっていたんです。
【聞き手】 青山通り沿い。
【AT】 ええ。
【聞き手】 そうですか。じゃあ、焼け出されて。
【AT】 戦争が始まって危ないというので、世田谷の下馬のほうへ疎開しちゃったんですよ。それから小学校6年ぐらいのときにまたここへ戻ってきて。
【聞き手】 そうですか。何年生まれでいらっしゃいましたか。
【AT】 昭和17年生まれです。
【聞き手】 17年生まれでいらっしゃって。そうすると、12歳のころだから。
【AT】 昭和23年か4年ぐらいだね。
【聞き手】 じゃあ、まだ戦後間もない感じのところへ戻ってきたわけですね。
【AT】 そうですね。
【聞き手】 そのころに建てられた建物をそのままお使いなんですか。
【AT】 そうなんですよ、この前だけはね。
【聞き手】 でも、いいですね。何でも建てかえて上に伸びていく中で。このおうちの前の柳の木もずっと。
【AT】 これも2代目で、3年前ぐらいに植えかえたんですけれども。ここへ来て昭和23年ぐらいに植えたのが倒れちゃったんですよ。
【聞き手】 そうですか。でも、柳って育つのが早いですよね。3年ぐらいでこんなになるなんて。
【AT】 なっちゃいますよね。
【聞き手】 そもそもK屋さんというのは、青山通りでお商売をお始めになったのはいつごろなんですか。
【AT】 昭和10年ぐらいかな。
【聞き手】 お父様がお始めになって。
【AT】 そうです。
【聞き手】 お父様でどこかでやっぱり修業していらしたんですか。
【AT】 ええ、銀座のほうの菊廼舎。まあ、親戚関係だから、そっちへ行ったんですよ。
【聞き手】 吹き寄せやなんかをつくっていらっしゃるところですよね。
【AT】 そうです。
【聞き手】 そうですか。ご親戚で。
【AT】 ちょっと親戚だったんで、おやじがそこでずっと修業して。
【聞き手】 そうですか。じゃあ、K屋さんというお名前もちなんで。
【AT】 そうなんですよ。ほんとうはその廼をつけたかったらしいんですけど、向こうにだめだと言われて。
【聞き手】 なるほど。昔、ここら辺は、今は骨董通りなんていうので随分よそから人様が遊びに来るようなところになっていますけれども、23年に戻っていらしたころの小学生時代、中学生時代のここら辺は。
【AT】 そうですね、オリンピック前でまだ都電が走っていたんですよ。この歩道がなくて、ちょうど2車線都電が走っていて。
【聞き手】 なるほど。
【AT】 それで、オリンピックのときになくなって、この通りだけは幅も広さもそのままなんです。
【聞き手】 ここは都電が走っておったんですか。
【AT】 そうなんですよ。
【聞き手】 青山通りの青山5丁目交差点をクッと曲がって。
【AT】 そうです。この通りも都電が走っていたんです、新橋行きの電車がね。
【聞き手】 ここは新橋行きの。
【AT】 そうなんです。新橋行きなんですよ。
【聞き手】 新橋・渋谷間ですか。
【AT】 そうですよ。
【聞き手】 じゃあ、電車通りということで、わりと商店はあったんでしょうか。
【AT】 そうですよ。この通りも結構いろいろなお店があったんですよ。魚屋、八百屋、大体、そういう日用品が買えるような、文房具屋とか、豆腐屋さんとか、結構あったんですよ、ここの通りは。
【聞き手】 じゃあ、普通の人々が生活で必要なものを商うようなお店がずっと……。
【AT】 ずっとありましたね。すぐ1本裏は屋敷町で、大きい屋敷ばっかりだったんですよ。結構静かなまちだったんです、この通りは。青山通りも、あそこに電車が走っていたけれども、都電がね。広く言えば、町がちょっと広かったんですけれども、オリンピックが来たときに拡張工事でみんながおれなくなっちゃったんですけれども。この通りだって、反対側とはつき合いは結構あったし、青山通りも結構そういう関係で商売をやっていたんだけれども、拡張工事で反対側と反対側のつき合いがなくなっちゃったんですよ。
【聞き手】 倍になったから。
【AT】 ちょっと渡ってというわけにいかないから。
【聞き手】 向こう3軒が……。
【AT】 向こう3軒両隣というね。青山通りが一番ひどいんじゃないかな、そういうつき合いではね。
【聞き手】 なるほど。じゃあ、1つ曲がったところに前々に越していらして、かえって立ち退きとかがなくて。
【AT】 まあ、そうなんですよね。でも、この通りもまだ計画道路には入っているんですよ。
【聞き手】 今でも。
【AT】 ええ。ここからこのくらいまでとられる予定になっているんですよ。
【聞き手】 両サイド。
【AT】 両サイド。それで、5、6年前にこの辺の有志で区のほうにかけ合ったんですよ。今ここは区道になっちゃったんですけれども、前は都道で、今は区が管理しているんです。どうなんだということで。みんなセットバックで、建っていてもあれでしょう。計画道路になっていて、いつやるんだと言ったら、金がないんだから、20年はそのまま。建てるのならセットバックで3階までで。壊してもいいようにという、とんでもない話を。
【聞き手】 じゃあ、建てかえちゃったら、損しなきゃいけなくなっちゃうわけですね、セットバックしなきゃいけないなら。
【AT】 そう。
【聞き手】 今のままでこうやっていらっしゃれば、このまま。
【AT】 そうなんですよ。だから、うちもどうしようかなというあれでやっているんですけれどもね。もう20年はそのまま。計画は中止できないということで。この通りは紀ノ国屋の横っ面を通って明治通りを突き抜けるんだと、最初の計画ではね。戦後、30年前ぐらいにその計画はできていたんですね。ずっとそのままになっちゃって。このままのほうがほんとうはいいと思って、はっきり言ってね。
【聞き手】 そうですよね。道路の幅が広がって車がビュンビュン通るだけでもね。何か歩く気もなくなっちゃうみたいな。こちらはそういうお屋敷町で和菓子屋さんというと、どんなお商売だったんでしょうね、終戦直後ぐらいは。やっぱり御用聞きというのもあったんですか。
【AT】 ありましたよ。
【聞き手】 ちょっとお聞きすると、岡持みたいなものに見本のお菓子を入れて…。
【AT】 うちもやりました。
【聞き手】 でも、こちらは上生菓子とかもやっていらっしゃるから、お茶のやっぱり…。
【AT】 うちはお茶のほうが専門なんですけれどもね。
【聞き手】 それで、私たちの伝承塾でもお話を聞きにK屋さんにだれが行くといったら、もう彼女も私も「行きます、行きます」なんて。(笑)やっぱり季節の上生菓子を今もつくり続けている和菓子屋さんというのはどんどん減ってきちゃっているんですよね。
【AT】 そうですね。昔はね、青山・赤坂でも和菓子屋といったら20軒ぐらいあったんですよ。
【聞き手】 そんなにあったんですか。
【AT】 青山・赤坂で。青山・赤坂の組合があるんですけれども、今はもう10軒ぐらいですかね。結局、跡継ぎがいないとかでね。昔は修業に行くといったら、京都とかそういうところへ結構入れたんですけれども、最近はそういう和菓子とか洋菓子の学校ができたから、そういう店で商売人から商売人へ修業に行くというのはなくなってね。
【聞き手】 そうなんですか。
【AT】 昔は結構そういうツテでね。
【聞き手】 今でもそうなのかと思っていました。
【AT】 いやいや、もうあんまりないです、そういうのは。学校ができたから、専門の学校が。
【聞き手】 製菓学校みたいなところが。
【AT】 そういうところからみんなこう……。
【聞き手】 でも、先代から受け継ぐみたいなのは、逆になくなっちゃったわけですか。
【AT】 結局、その家その家で継いでいくしかない。跡継ぎがなくなれば、もうやめちゃうとかね。
【聞き手】 ATさんのお父様はそうやって菊廼舎に修業にいらして……。
【AT】 僕はね、高校を卒業してすぐ大学へ行くつもりだったんですけれども、うちは兄弟5いまして、僕が長男で、下3人いて、サラリーマンになる予定だったんですけれどもね、食っていけないから、おふくろがやれということで、これは全部独学でやっているんですけれどもね。
【聞き手】 でも、お父様から……。
【AT】 おやじからはレシピやなんかが書いてあるもの、それを見てやっていたから。でも、10年以上は苦労しましたけれどもね、1つ覚えるのにも。
【聞き手】 昔の職入さんって手取り足取り教えないで、見て盗むとか……。
【AT】 そうですよ。だから、今、うちも息子がやるようになって、もっとも菓子学校へ行かせて、とりあえず基本だけ覚えてこいと。うちはそうやってきましたからね、やっぱり学校で覚えた仕事とこっちでやっている仕事というのは全然違うし、学校でやったというのは、もう基本どおりのお菓子だから。ほかの菓子屋へ行って違っても、これは菓子学校でやった菓子だろうと。
【聞き手】 なるほど。
【AT】 だから、息子に人のやっていることを見て覚えないとできないと。菓子をもって一つずつ手取り足取りというわけいかないから、全部自分で人のやっていることを見てやるということをやれと言っていますけれどもね。
【聞き手】 そうすると、ATさんご自身は高校を卒業して、跡を継げということで、そうすると職人さんたちと一緒に作業場へ入られて。
【AT】 2人ぐらいいたんですけれども、おふくろが全部辞めさせて。
【聞き手】 えっ。
【AT】 職人がいたら、こっちが努力しないだろうというので、全部首にして。
【聞き手】 すごいスパルタですね。じゃあ、即戦力にならなきゃいけなかったわけですよね。
【AT】 だから、1つつくるのに半年以上かかったときもあるし。
【聞き手】 だめ出しされるということですか。
【AT】 そうです。それは全部捨てられちゃってね。
【聞き手】 えっ、捨てられちゃうんですか、つくったものを。
【AT】 それで10年ぐらいやりましたけれどもね。結局、自分の独特の菓子をつくるしかないかなということでね。修業には行かなかったから、自分だけでやっちゃったからね。レシピはおやじが残していってくれたけれども、結局、絵は描いてあるけれども、どんな品物で、どうやってつくるかということはわからないんですよね。
【聞き手】 じゃあ、その当時のレシピ、絵とかじゃないですか。ここが何とかみたいなのは全部まだこちらにはあるんですか。
【AT】 ありますけれどもね。だから、絵を見て、分量、それからどれぐらい煮詰めてやるかというのは、その当時、ほんとうに検温なんてやっていなかったから、火がブクブクという、これが何度だ、この手で上がればという、その程度しか書いてないから、やっぱり自分でやらないとできないというレシピだったんですね。
【聞き手】 そうか、絵だけだと、上の飾りの黄色い部分は何の材料ができているのかとか、そういうことはわからないわけですね。
【AT】 そうなんです。そういう点はね、まだおふくろがいたから、味がこうだこうだというのは教えてもらったけれどもね。
【聞き手】 やっぱりそばで見ていらして。さっき私、お話をちょっと聞き漏らしまして、お父様はご存命でいらしたんですか、跡を継がれたときには。
【AT】 亡くなったもので。
【聞き手】 亡くなったので、大学進学を諦めて跡継ぎになられた。
【AT】 亡くなったんです。
【聞き手】 そこの重要なところを聞き漏らしました。
【AT】 下に兄弟が3人いましたのでね。5人兄弟で、下が3人。上が中学ぐらい、小学校がいたので、サラリーマンで養っていけるかということで、やっぱりここでやれということになって。
【聞き手】 じゃあ、お母さんからだめ出しがあった。でも、職人さんを首にしちゃって、できの悪いのを捨てられちゃったら、何を売れば。お母様はつくられたんですか。
【AT】 いや、全然つくらない。僕だけだった。
【聞き手】 じゃあ、店頭に出すまで、結構、修業期間があったんですか。
【AT】 まあ、ある程度できるものもありましたけれどもね。
【聞き手】 なるほど、ある程度できたものはお店に出して、これはまだだめと言われたものは出せなかった。ほんとうにご苦労されましたよね。
【AT】 うちあたり、2週間ぐらいで変わっていく品物もあるし。
【聞き手】 季節ですものね。和菓子だし。
【AT】 1年中やっている品物というのも2、3ありますけれども、大体長くて3週間ぐらいでぐるぐる変わっていくから。1つできたら、次をとっていかなきゃならないから。
【聞き手】 今、こちらでつくっていらっしゃる。
【AT】 そう、奥でやっています。
【聞き手】 そうですか。ほんとうに和菓子屋さんでもいろいろ、おたく様のようにお茶関係のものをなさっているところは、そうやって2、3週間ですけれども、もう少し庶民的なところは、もうお大福とおまんじゅうというと、年がら年中ですけれどもね。
【AT】 そうなんです。そこと違うからね、私たちは。
【聞き手】 やっぱりここら辺はお茶をなさる方が多かったんですか。わざわざ遠くから見える方が……。
【AT】 結構、お茶の先生は多かったですね。昔、小学校のころはね、3年のときに来たんですけれども、遊び場というところがなかったので、結構、根津さんのお屋敷のところがまだ整備されていなくて、美術館もできていなかったから、お茶室があったか何かで、広い庭があって、周りの塀というのはあちこちから出入りできていたから、よくみんなであそこでザリガニ釣りで遊んでいたんです。
【聞き手】 そうですよね。あのお寺との境は何もなかったから出入りできていて。
【AT】 そう、何もないですよ。結構、小学校のころはみんなあの辺で遊んでいたんですよ。先ほど書類をもらったときに、昔あって、今はなくなったものって、小学校のころはみんな釣りやなんかであそこで遊んでいたから、たまたま僕が50歳ぐらいのとき、青南のPTAの会長をちょっとやっていたんですよ。学校でプール開きがあると、校庭に消防団が来て、池をつくって、その中にドジョウを入れて、ドジョウつかみ、10年ぐらい青南でやっていたんですよ。みんな親はドジョウをつかんで、家を持っていって食べるじゃないですか。
【聞き手】 食べるんだ。
【AT】 食べるんですよ。それを子どもが見て、何て残酷だとか何とかっていう意見が出て、親は持っていって、豆腐の中にぶっ込んで食べたりするでしょう。
【聞き手】 子どもは飼うつもりだったのかしら。
【AT】 飼うのか……。親はみんなね……。飼っている子もいただろうと思いますけれどもね。そういう残酷なことはやめてくれとか何とかっていう話が出て、僕が2年ぐらいPTAの会長をやっていたけれども、じゃあ、ザリガニを入れたらいいんじゃないかと言って1回やったんですよ。築地ヘザリガニを買いに行って。
【聞き手】 築地で買うんですか。
【AT】 そうですよ。
【聞き手】 食用ということだ。ねえ、そういうことですよね。居酒屋で使うでしょう。
【聞き手2】 そうなんですか。
【AT】 ザリガニ、出しているところもあるんですよ。
【聞き手】 空揚げにしてね。
【聞き手2】 そうなんですか。
【聞き手】 和食では空揚げにする。ザリガニの空揚げ、結構、はやってますよ。
【AT】 それで、学校でそれをばらまいたら、今度は子どもが驚いちゃって、逃げ回っちやつて。
【聞き手】 はさみがあるから。
【聞き手2】 でも、ザニガリ釣りとか普通に行っていましたけれどもね。
【AT】 だから、そういう感覚が今のものはないんじゃないかなという。
【聞き手】 そうか、ATさんがお子さんのころは、根津さんのお池とかでザリガニを釣ったけれども。
【聞き手】 でも、私のころも小石川植物園でザリガニをみんな釣ってましたけれどもね。
【AT】 多分みんなやっていたと思うんですよね。
【聞き手】 うちも檜町公園だ、あそこの池なんかでほんとうに魚を釣ったりとか。
【聞き手2】 そういう遊びをしないということなんですね。
【AT】 そういう遊びはしないんでしょうね。
【聞き手】 自然教育が難しくなってきたですね。環境だけじゃなく、親の関係……。
【AT】 そうですね。
【聞き手】 ATさんがPTA会長をなさっていたころというのは、昭和で言うと何年ぐらいですか。50歳ぐらいというと。
【AT】 今70だから。20年前ぐらいですね。
【聞き手】 今は小学校のPTAの会長さんはほとんど女性というのが全国的ですね。
【AT】 そうですね。僕がやって、あと2、3年ぐらいまではね、PTAの会長って、地元の人間がやれば、地元の人間が手伝いに行くようになりやすいでしょう。そういう感覚でやっていたんですよ、歴代ずっと。大体地元の商店会の会長がやるとか、そういう知り合いがやっていた。ところが、10年ぐらい全然得体の知れない人間がやるようになったから、商店会もあんまりこう……。
【聞き手2】 手を挙げちゃうんですかね、やりたいって。
【聞き手】 今、越境が多いことは多いですけれどもね。
【AT】 越境は4分の3ぐらい。地元の人間というのはそんなにいないでしょうね。
【聞き手】 4分の3が越境ですか。
【AT】 今600人ぐらいいるんじゃないかなと思いますけれども、越境のほうが多いですよ。
【聞き手】 お話が戻りますけれども、ATさんご自身は小学校は、青南小学校なわけですね。
【AT】 そう、青南なんです、3年から。
【聞き手】 中学は青中。
【AT】 青中へ行って。
【聞き手】 その6年生で戻っていられたころは、青南は結構人数が多かったんですか。
【AT】 多かったですよ。小学校が4クラスぐらいあったかな。1クラス60人ぐらいで。
【聞き手】 えっ、すごい。
【AT】 青南は1,000入ぐらいいたのかな。青中へ行ったときは、今度は向こうの青山小と一緒になって、1学年10クラスぐらいありましたよ。
【聞き手】 まだ、ベビーブームより前ですのにね。
【AT】 そう、前ですよ。だから、僕の年代というのは結構この辺にまだ住んでいるしね。商売をやって。
【聞き手】 以前は、1本裏は屋敷町だったわけですから、それが戦後、様子がどんどん変わって。
【AT】 そうですね。オリンピック以降ですね。
【聞き手】 やっぱりそうなんですね。じゃあ、焼けて戻っていらしても、その裏のお屋敷なんかも焼けた方も戻っていらして、昔のようにお屋敷で暮らしていらしたわけですかね。
【AT】 そうでしょうね。
【聞き手】 なるほどね。戦災よりもオリンピックで変わったというのはすごいですね。
【AT】 そうですね。戦災後ってそんなには変わっていなかったしね。結構オリンピックで家の建物が変わったから。
【聞き手】 焼け残ったのはほとんどなかったんですか、建物は。
【AT】 なかったですね。
【聞き手】 でも、あっちは、表参道のほうは。
【AT】 向こう側は全部焼けましたね。
【聞き手】 焼けましたものね。
【AT】 この辺でも、まだ残っていたところもあったと思うんですけれどもね。
【聞き手】 23年だと、まだバラックですか。それともちゃんとした建物が建ち始めていたんですか。
【AT】 大きなビルはなかったんですけれども、普通の建物にはなっていました。
【聞き手】 根津さんの建物は焼け残ったんですか。
【AT】 あれはね、蔵だけは残ったんじゃないですか。
【聞き手】 でも、何か庭のほうにいろいろお堂とかお茶室はあとから移築した・…・・。
【AT】 あれはあとから建てたんです。
【聞き手】 でも、お蔵が残ったから、いろいろなものが残ったんですね。
【AT】 結局、青山・表参道一帯というのはオリンピックで変わって、いろいろな外国の文化が入ってきたから、ファッションもあるし、サングラスとかね、ちょっと太いズボンとか、ああいうファションは、この辺は外国から入ってきたから、すぐ根づいたので、結構ファッションのまちとか何とかっていう。
【聞き手】 結構、洋装店さんが多いですね。
【AT】 石津謙介…。
【聞き手】 VANね。
【AT】 基礎になったのは、多分、石津さんのVANじゃないかな。
【聞き手】 なるほど。一世を風靡しましたものね、VANタウン青山とか言って。あれが起爆剤に。じゃあ、この通りに骨董屋さんが増え始めたのは。
【AT】 あれはね、バブルのころだから・・・…。
【聞き手】 骨董通りって。
【聞き手2】 それで名前がついたんですか。
【聞き手】 そうすると、じゃあ、バブルのころになってから骨董通りと。
【AT】 そうです。テレビをやっている「いい仕事してますね」という中島誠之助が隣にいたんですよ。隣で商売やっていたんですよ。それで、根津美術館の正面がこっち側の通りになったんです、入り口が。
【聞き手】 そうですよね、こっちですよね。今は入れないけれども。
【AT】 入れないけれども。あそこで、結構、お茶の先生のお茶会があったので、骨董屋さんが増えたんですよ。
【聞き手】 なるほど。中島誠之助は赤坂の人なんですね、もとは。じゃあ、K屋さんの立地としては、根津さんの正面玄関に行く道筋だし、周りにお茶道具なんかの骨董を売るところは多いし。骨董通りという名前もそのころですか。
【AT】 このころ、その誠之助がつくったんだよ。
【聞き手】 でも、実際、海外文化というか、青山学院もあるし、外国人が結構住んでいたんですか。それで、骨董がみたいな……。関係ないんですか。
【AT】 外国人はそんなには住んではいなかったけれども、買い物に来るのは多かったですよね。
【聞き手】 昔、表参道なんか歩いていると、外人観光客からオリンエンタルバザールはどこかとかって。
【聞き手2】 そうですね、オリエンタルバザールから始まって、キディランド……。
【AT】 そうなんです。あそこはね。
【聞き手】 だから、原宿へ行って、こう青山通りまで戻ってきて、また今度こっちの骨董通りへ来て。昔は青山も原宿も静かなところでしたよね。
【AT】 そうですよ、静かですよ。
【聞き手】 フランセとキディランドとオリエンタルバザールぐらいしか…。
【AT】 なかったですよ。店はそんなになかったんです。
【聞き手】 同潤会アパートがあって、あとは静かなお屋敷町で。
【聞き手】 竹下通りなんて。
【AT】 ないですよ。
【聞き手】 じゃあ、昔は何か通りの名前ってあったんですか、ここは。電車通りは。
【AT】 高樹町通りって呼んでいた。だから、高樹町通りも誠之助が骨董通りと言ったから、去年ぐらいかな、運動を起こして、区のほうでもとの高樹町通りにしてくれと言って戻した。やっと高樹町通りということになって。
【聞き手】 そうですか。だって、高樹町というのだっていわれがある名前だからね。
【AT】 そうなんですよ。高樹町というのは・・
【聞き手】 高木さんという大名が……。
【AT】 そう、大名がいたんですよ。
【聞き手】 じゃあ、高樹もこの「樹」で。
【聞き手2】 樹木の樹で。だから、やっぱりそういう江戸時代からのゆかりのある名前をお商売で変えられちゃ。
【AT】 そうなんですよ、困ると言ったんです。(笑)
【聞き手】 お父さんのご出身はどちらなんですか。
【AT】 名古屋なんですよ。
【聞き手】 そうなんですか。またお茶所ですね。
【AT】 坊主の出で、坊主の一番下の末っ子で、継げないからって、こっちへ来たという。
【聞き手】 名古屋はお寺が多いですよね。おもしろいですね。名古屋のお寺さんの坊ちゃんが東京で修業して和菓子屋さんになられた。名古屋はほんとうにお茶とか、お花とかね、日舞とか、ああいう芸事が盛んな。
【AT】 結構多いみたいですね。
【聞き手】 ほんとうにああいう季節の、何かお茶の先生が嘆いていましたけれども、水無月を探して回っても、なかなかあの時期にないのよとか言って。だから、K屋さんだったらあるのかな、もしかしたら。
【AT】 ああいうのも大体6月の最後のほうなんですよ。そんなにない。1週間ぐらいしかやらないんです。
【聞き手】 こちらと向田邦子さんですよね。
【AT】 そうなんです。おふくろがよくつき合っていたんですね。
【聞き手】 そうですか。
【AT】 高樹町のほうに住んでいて、売れない時期があって……。
【聞き手】 あの方も舌の肥えた方でいらっしゃるから。
【AT】 そうなんです。
【聞き手】 何かその当時の面影を残す写真みたいなものは残っているんですか。
【AT】 これがそうなんですけれどもね。上のほうが青山通りで。
【聞き手】 向田さんだ。
【AT】 そうなんです。あれがおふくろで。
【聞き手】 やっぱりお母様はお着物を着ていらして。
【聞き手】 お店のつくりもちょっとお茶室風ですよね。窓とか数寄屋風ですよね。そのつってあるのは灯籠ですか。
【AT】 灯籠ですね。
【聞き手】 ちゃんと風鈴の風が……。
【聞き手2】 この奥の看板はいつごろつくったものですか。
【AT】 これは開店当時にあったんじゃないかなと思います。
【聞き手】 ちゃんと残しているんですね。
【聞き手2】 ということは、戦前から。
【AT】 そう、戦前から。
【聞き手】 じゃあ、空襲のときは燃えないように。
【聞き手2】 例えばあのお写真は、今回企画の冊子「あの日あの頃」とかに掲載は……。
【AT】 別に構いませんけれども。
【聞き手】 向田さんは何か問題ありますか。どうなんですか。
【AT】 いや、別に関係ないですよ。妹さんがいらっしゃるんですよ。うちの水羊羹をよく買いに来るんです。あの先生は水羊嚢と金玉が好きでね、どんどん宣伝に使ってくださいって。買いに来たんですよ。このお菓子は先生が台湾へ行くときに持っていったんですよ、10個ぐらい。飛行機と一緒になくなっちゃったんだろうなと思って。(ショーケースのお菓子を見ながら)
【聞き手】 そうか、ほんとうですね。おもしろい、ビーチボールなんかもつくっていらっしゃる。花火、ヒマワリ、こういうのはやっぱり創作なさるんですよね。「朝顔につるべとられてもらい水」だ。
【聞き手2】 上にあんな表情があるのは珍しい。
【聞き手】 つるがついて。普通、黄身しぐれというような感じなんですかね、この瑞雲というのは。
【AT】 そうです。
【聞き手】 かわいい、お魚がチョンチョンといて、清流が。楽しいですね。夏らしいお菓子ですよね、このお菓子は。
【聞き手2】 ちょっとお茶を飲むのに、こういうのがあるといいですね。かわいい、この七福神。
【聞き手】 エダマメなんて、お干菓子でもお珍しい。でも、いかにも夏の感じですよね。でも、ほんとうにいつまでも続いてほしいですね。さっき和菓子屋さんもだんだん減ってきたというお話だけれども、今、クールジャパンだし、ヘルシー指向だし。
【AT】 うちはそうなんですよ。
【聞き手】 菊屋さんは息子さんが継いだから、うまくいっているんですよ。そういうご家庭は少ないですよね、意外に。嫌がって継がない人が多いですわね。
(店にかかっている絵を見て)
【聞き手2】 この絵は……。
【AT夫人】 それは芸術大の教授の笠尾さんという方が、お客様なんですけれどもね。
【聞き手】 みんながそうやって……。
【AT夫人】 みんないただきもので。(笑)先生、うちのお菓子、ちょっといらして、今どきの教授は若いので、デジカメで向こうへ渡って、ちょっと包んでいる間に撮って。それで描いて送ってくださって。
【聞き手】 やっぱりこのお店のたたずまいが魅力的だから、そういうふうになさるわけですよね。
【AT夫人】 あちらは長谷川さんという刷り師さんなんですけれども。
【聞き手】 今、刷り師さんだってそんなに数いらっしゃらないでしょう。
【AT夫人】 これもいただいたんですよ。この黄身しぐれが大好きで。こちらは町春草先生。
【聞き手】 すごい、すごい。町って落款が押してある。
【AT夫人】 先生にいただいて。
【聞き手】 町先生はお元気ですか。おきれいなね。
【AT夫人】 大分前に亡くなってます。フランスから勲章をいただいたあとぐらいですかね。しょっちゅう伺っていましたから。
【聞き手】 町さんなんかも青山にお住まいだったんですか。
【AT】 そうですよ。原宿、交番の裏を入ったところに住んでたんです。
【聞き手】 やっぱり土地柄ですね、そういう。品のあるおきれいな、凛とした方。
【聞き手2】 共通するんですよ。向田先生もそうだったですね。
【AT】 そうですね。
【聞き手】 共通しますね。当店の粋なお得意さんは共通するところがありますね。
【聞き手2】 こちらだと、氏神様はどちらになるんですか。
【AT】 金王八幡さんです、渋谷の。そういうお祭とか盆踊り、結構長いんですよ。盆踊りは50年ぐらいやっていますよ。毎年欠かしたことはないんですよ。
【聞き手】 実際、金王八幡の盆踊りの思い出を語る方は結構いらっしゃいますものね。
【AT】 金王八幡はみこしのお祭と、盆踊りというのはもう50年以上。
【聞き手】 何か特有の踊りがあるんですか。
【AT夫人】 ないです、ないです。
【聞き手】 50年ぐらいと言ったら、もう戦後20年ぐらいたっているわけですものね。
【AT】 戦後始めて……。
【AT夫人】 もう60年近くになる。
【聞き手】 60年近く。
【AT夫人】 はい。戦後すぐくらいです。
【聞き手】 昭和30年ぐらいから……。オリンピックより前ですね。じゃあ、60年ぐらいになるんですね。お子さんのころの衣食住というのか、家族生活とか、そんなことの思い出というのはありますか。今と比べてどうなんでしょうね、今のお子さんたちと比べて。
【AT】 今の子どもは結構いろいろなところへ連れて行ってもらっていたようだけれども、僕の時代はまだ商売をやっていて、そんなにどこかへ連れて行ってもらったという記憶がないんだけれどもね。
【聞き手】 昔の親は仕事優先ですものね。
【AT】 そうでしょうね。
【AT夫人】 ほんとうお盆とお正月ぐらいしか。
【聞き手】 お店屋さんはそんなに土日休みとかじゃなかったじゃないですか、昔は。
【AT】 なかったから。そんな親にどこかへ連れて行ってもらったという記憶はあまりないですけれどもね。
【聞き手】 お店のお休みというのはどんなふうだったんですか。
【AT】 どうだったのかな。
【聞き手】 日曜日もあいていたんですか。
【AT】 日曜日もあいていたんじゃないかなと思うんですよね。
【聞き手】 お茶会なんていうと、わりと土日が多いですものね。
【AT】 土日が多かったからね。
【AT夫人】 私が嫁に来て35年ですけれども、いまだに休みはないですよね。土日はお茶会のほうに出ていきますから、だらだらとずっと。ですから、嫁に来た当時、主人は茶会のほうに出かけると、母はやっぱり息子がお茶会に行っているというので店をあけていましたからね。一応、日曜日はお休みなんですけれどもね、本来は。ですけど、息子が茶会に行っているから、母はここに住まいがありましたから、店はあいていましたからね。多分、母たちが商売しているころは、店を休んだっていうのは、そんなにはないんじゃないかと思いますけれども。35年前にしてそんな感じでしたからね。決まった休みみたいなものはなかったんじゃないですかね。職人さんたちがいる時代は、職人さんたちは休ませても。茶会は日曜日に2軒も3軒もあるわけですからね。
【聞き手】 お茶会のお菓子というと、また特別じゃないですか。先生がここはこうしてくれ、ああしてくれと。
【AT夫人】 今はそうでもないですけれども、ほんとうに特別ですよね。お道具によってお菓子は全然違いますから。先生が持っていらっしゃるお道具は皆さん違うわけですから、全部オリジナルのお菓子になるわけですよね。
【聞き手】 開かれる内容によってはね。
【AT夫人】 そうですね、大寄せだったり、ほんとうに5、6人という場合もございますしね。それに対応してきたので、どんな注文をいただいても大丈夫ですよね。お電話でこういう趣向でしたいという、もうそれで通っちゃいますね、別にお道具を見なくても。
【聞き手】 じゃあ、お預かりしている方とかも結構いっぱいあるわけですか。
【AT夫人】 何をですか。
【聞き手】 何かお菓子の木型とか、そういうものを。
【AT夫人】 お預かりしているのはもう会社さんだけですね。型は使いませんから、基本的に茶会の場合は。普通の店売りは型ものを使いますけれども、基本的には型でつくったものは茶会には出せない。
【聞き手】 一品一品手づくりと。
【AT夫人】 おまんじゅうがゆがんでいても、それのほうがいい。そうやって私は母から言われましたんで。機械でつくるお菓子は全部均一だけど、そういう菓子は茶会には出せないんだと。だから、機械は一切うちには入れないんだという。
【聞き手】 そうなんだ。
【聞き手2】 跡を継がれたころから、お茶のお菓子が主流だったんですか。
【AT】 そうですね。
【聞き手2】 なるほど。じゃあ、もうお父様のときからずっとそうなんですね、きっと。
【AT】 ええ。僕もそういうお菓子はお茶の先生のところへ行って、どういうお菓子がいいかって聞いて、みんな教えてもらいました。
【聞き手】 相談の上ですものね。何回かつくり直したりしてってよく聞きますものね。
【聞き手2】 じゃあ、ほんとうにお茶菓子がメインでいらっしゃるんですね。
【聞き手】 お茶会のね。
【聞き手2】 おなかを膨らます菓子じゃないという。
【聞き手】 大衆和菓子じゃない。
【聞き手2】 お大福とか、おまんじゅうとかね、ああいうものじゃないということですね。
【AT夫人】 そういうお菓子じゃないんだと。
【聞き手】 大衆和菓子と違うと。
【AT夫人】 だから1日中つくっているんですよ。朝生(あさなま)屋さんは大体午前中で仕事を終わって、ご主人たちはこの辺、散歩なさっているんですよ、皆さん、よそのお菓子屋さんは。私は不思議で、何で今ごろご主人がああやって散歩しているのかと思ったら、朝生屋さんはもう午前中で終わるんだって。だけど、うちの場合はずっと……。ホテルとかも入っていましたから、ずっと。
【聞き手】 朝生屋という言い方をするんですか。
【AT夫人】 朝生。
【AT】 朝早くつくるから。
【聞き手】 そういうのを朝生屋。
【AT】 大福とか、朝、早くつくらないと冷めないし。
【AT夫人】 豆腐屋さんみたいな感じですからね。
【聞き手】 ああいうものをつくっている和菓子屋さんは朝生屋さん。
【AT】 そうなんです。
【聞き手】 おたくのような、茶の湯のお菓子をつくるところは何て申すんですか。よく昔、お菓子司と書いてありましたよね。
【AT夫人】 そういうところはそうですね。いわゆる上生菓子屋。
【聞き手】 上生菓子屋さんですよね。
【AT夫人】 だって、門前の名物菓子でも何でもないですからね。
【聞き手】 そうですよ。ほんとうに寅さんの草だんごとは違いますからね。和菓子もさまざまですものね。
注・朝生・浅生ともいう。その日に売ることを目的にして、朝から作り始める菓子で、餅菓子や団子、葛菓子などです。煉切や羊羹、求肥などの上生菓子に対する言葉です。比較的安価で、家庭で日常的に食べられるものが多い。
・御菓子司(おんかしつかさ)=上生菓子屋
【AT夫人】 やっぱり職種それぞれに持ち味があるわけですから。うちのはこういう菓子だし、お大福はお大福屋さんが。やっぱりほかの職種でもそうですけれども、その店、その店のよさというのはありますよね。
【聞き手】 やっぱりカジュアルなもの、フォーマルなものね。
【AT夫人】 そういうことです。
【聞き手】 お流儀なんかもやっぱりいろいろなお茶のお流儀が……。
【AT夫人】 お流儀は皆さん、どれだけあるか知らないわけですよね。
【聞き手】 そうですよ。こちらは小堀遠州流。
【AT夫人】 小堀さんはここに前にお住まいでしたから。
【聞き手】 私は裏千家ですけれども。
【AT】 住んでいらっしゃったのは弟さんのほうかな。
【聞き手】 弟さんのほうですか。
【AT】 はい。
【聞き手】 じゃあ、弟さんのほうの流れですね、私が習っているのは、今。
【AT夫人】 あの背の高い。息子さんの代になっちゃうんじゃないですか。
【聞き手】 まだ、そんな上の方にはお会いしていませんが。
【聞き手】 私も亡くなった母がずっと裏千家をやっていたものですから、やっぱり根津さんでお茶会をやったら、小学生のときからこんな点て出しなんかしたりしてね。だから、きょうはもう喜んで。観野さんもK屋さんなら行きますって。
【聞き手2】 静かだったのに、突然手を挙げちゃって。(笑)
【聞き手3】 この通りで戦前からご商売が続いているところは何軒ぐらいなんですか。
【AT】 この通りで言えば・・…・。
【AT夫人】 ないです。戦前から同じ職種でしょう。
【AT】 そのそば屋は米屋からそば屋に変わった。パン屋も……。
【AT夫人】 戦前じゃないでしょう。パン屋さんはまだ1代ですもの。
【AT】 でも、小学校のときはあった。
【聞き手】 じゃあ、その程度なんですね。2、3軒しか残ってない、数えたって。
【AT】 その程度なんです。青山通りのほうはまだ結構、酒屋とか文房具屋、薬屋さん。紀ノ国屋はまだ新しいほうですよね。
【聞き手】 その朝生屋さんも含めて、和菓子さんも結構この通りにあったわけですかね、戦後。
【AT】 この通りはなかったかな。青山通りのほうに4軒ぐらいあった。今はもう1軒ぐらいしかないですからね。
【聞き手】 じゃあ、ほんとうにこの高樹町通りにはおたく様だけだったんですね、和菓子屋さんは。
【AT】 そば屋とパン屋ぐらいしかないのかな。
【聞き手】 そうですか。じゃあ、地元の方相手のお商売というよりも、ほんとうにわざわざお茶の先生が遠くから買いに見えたり。
【AT】 まあ、そうですけれどもね。でも、この通りも人通りが多くなったから、若い方が買いに来ますけれども。品物もやっぱり若者向けに、見て、かわいいとか。
【聞き手2】 (ショーケースを見ながら)ビーチボールね。なるほどね。(笑)
【AT】 そういうことなんですよ。
【聞き手】 でも、1本裏はお屋敷町だったみたいな、地元に住んでいらっしゃるお茶室も持っていらっしゃるような方もいらっしゃる。
【AT】 いますよね。今は結構マンションになりましたから。
【聞き手】 なるほど。子どものころの、戦後23年に帰っていらしてからの生活のあり方というのは、そうすると、1階がお店で、2階がお住まいでというような形ですか。
【AT】 多分そうだと思いますよね。この通りも含めて、青山通りもみんな、オリンピック前は大体2階建ての商店みたいなものしかなかったから。
【聞き手】 跡を継ぐ前は、従業員さんもいらしたわけですけれども、その方たちは住み込みだったんですか。
【AT】 そうです。
【聞き手】 やっぱりみんなそうですね、お話を聞いていくと。
【AT】 当時はね。
【聞き手】 それがガラッと変わったのが、やっぱりオリンピックなんですね。住み込みの店員さんが2人ぐらいいらしたということですね。お母様がそのお世話を全部焼いていらした。
【AT】 やっていたんです。
【聞き手】 職住一致でね。
【聞き手2】 それはすべてのお店屋さん、共通しますね。
【聞き手】 今回、インタビューを通して、やっぱりオリンピックが1つの区切りであると。
【AT】 だから、今回、またオリンピックをやられるに当たって、また違う変化が起きるんじゃないかなんてみんな思っているしね。この前、競技場の周辺の商店会が集まって、どうしたら今度、おもてなしができるかと。というのはいいけれども、いかにもうけるかなんていう話も出ていたけれども、この前、区のほうで環境審議委員をやっているので、その会合があって行ったんですけれども、みんなお台場の水をきれいにするとか、代々木とかでトライアスロンができるようにとか言って、きれいにしようとか言って、古川の川を浄化しようとかね。
【AT夫人】 芝の人たちが。
【AT】 言ってやったんですよ、僕も。オリンピックに向けてみんないいことばっかり言ってね、国立競技場も建てかえになるというけど、その廃棄物をどこへ持っていくんだと。区役所はCO2が増えないようにとか何とか言っているけれども、それだけのダンプが来て、青山通りを横切ってお台場のほうに捨てにいくかもしれないけれども、そういう話は全然、地元住民には伝わってないじゃないかと。みんなそういうことを心配しているから、競技場周辺の人間でも、オリンピックは反対しないけれども、そういう建物は低くするとかになったけれども、反対している人間もいるんだから、そこにも配慮してもらいたいなということは言ったんですけれどもね。じゃあ、どうやって配慮するんだというと、僕にもちょっとわからないけれども、それはそっちで考えることだろうと言ったんですけれどもね。そういうこともやっぱり…。競技場の廃棄物が、汚れてCO2が増えるとか何とか言っているけれども、そういう環境には配慮してやらないと、住民も横向くんじゃないかということで、そういう話を聞いて、最初は僕らでも商店会でいかにもうけようかなんていう話ばっかりだったけれども。そういう話もあるんだよと、この前、みんなに言ったんだけれどもね。
【聞き手】 スクラップ&ビルドだと、地球がもたないですよね。やっぱりメンテナンスして…。
【AT】 そうですよ。と思うんだけれどもね。
【聞き手】 ほんとうに外苑の競技場、何も壊してあんな化け物みたいなものをつくらなくてもと私なんかは思います。
【AT】 そうでしょうね。
【AT夫人】 あの建築家のデザインはなかなか具体的に建っている例が少ないらしいんですけれどもね。
【聞き手】 おたく様みたいにね、例えば時流に乗らないで、戦後に建った建物をちゃんと守っていらっしゃるというのは、逆に時代の流れが変わると、すごくみんなが認める価値が…。
【AT】 人から見りゃ、そうかもしれないけれども、住んでいる人間は何で木造に住んでいるとかね。(笑)
【AT夫人】 そんなものですよね。
【AT】 目立っていいかなとは思うけれども。
【聞き手】 でも、今でも住んでいらっしゃる方というのは。ご自宅は別という方が多いでしよう。
【AT】 うちも店と工場だけで、だれも住んでいないんですけれども。
【聞き手】 工場もあったら、相当奥が……。
【AT】 奥は深いんです、ずっと。
【聞き手】 でも、疎開先が下馬というのは何かわかる、青山通り沿いに玉川通りを行くんですよね。
【AT】 そうなんですね。戦前、疎開して下馬にいて、女房と結婚してここを出て、家を買ったのが上馬なんで。何で道路1つ隔てて反対に住むんだって。
【AT夫人】 駅は三軒茶屋なんですけれどもね。
【聞き手】 今でも半蔵門線で1本ですものね。
【AT夫人】 朝の仕事の関係もあって、ちょっと行けないかなと思って。
【聞き手】 でも、あの辺は雰囲気があるから。
【AT夫人】 そうですね。この辺は昔の飯野海運、飯野ビルとかありましたけれどもね。飯野海運なんかも皆さん下馬に疎開なさったんですよ。
【聞き手】 そうなんですか。やっぱりそうなんですね、うちも赤坂を焼け出されて、新町なのよね。
【聞き手】 桜新町。桜新町のところだったの。
【AT夫人】 でも、そうやって疎開していたので助かっているんですよね。皆さん、やっぱり亡くなっていらっしゃる。おばあちゃんが亡くなったとか、焼夷弾が落ちて。
【聞き手】 なるほど。
【AT夫人】 ですから、昔はみずほ銀行の隣、今、スターバックスさんがある位置ですね。昔はみずほ銀行さんの隣に佐阿徳さんという大きなウナギ屋さんがございましてね、その隣。
【聞き手】 表通りにお店があって。
【AT夫人】 そうですね。昭和10年のころは、そういう……。
【聞き手】 そのお写真は青山通りの写真。
【AT夫人】 そうです、10年は。25年はもうこちらですから、電車の線路も写っていますけれども。
【聞き手】 そうですか。ちょっと区役所に帰って、また相談の上なんですけれども、そのお写真を多分写して、それを使うとかということになるんじゃないのかなと思うんですけれども。
【AT夫人】 どうぞお持ちください。
【聞き手】 それだけいろいろなお茶の方とおつき合いしていると、お茶なんかもされるんですか。
【AT】 僕もやっていた。
【AT夫人】 私たちの年代はお茶、お花、踊りは花嫁修業状態でしたから、普通に当たり前で。
【聞き手】 じゃあ、流派ということは……。
【AT夫人】 それを言ってはいけないということなんですよ。
【聞き手】 なるほど、こういうお仕事だとね。
【AT夫人】 自己流と言っておきなさいよと言われて。
【聞き手】 なるほどね。
【聞き手】 ほんとうにそうですね。いろいろなお流儀の方が見えるんですものね。
【聞き手】 それはやっぱり知恵ですな。
【AT夫人】 息子なんかもね、やっぱりお稽古とかに行っていましたけれどもね。
【聞き手】 戦前は表千家が東京は盛んだったと。うちの母なんかも娘時代は表だったらしいんですけれども、戦後、子どもを持って、ちょっと子どもの手が離れたからまた始めようというと、もう裏一色になっていたみたいで。
【AT】 そうですね。
【AT夫人】 今、表さんは貴重ですよね。ほとんどお裏さんになってしまって。
【聞き手】 大橋茶寮さん。
【聞き手】 そうそう思い出した、虎ノ門。あと氷川町のが出てこないのよ。氷川町のお初釜なんかやったんだけれどもな。私も不肖の娘だから、親が死ぬまでは跡を継がなかったんだから。
【聞き手2】 私も母は全然違う流派だったし、お茶室はあっても、お茶を立てているのを見たことがない。
【聞き手】 周りのみんなに、お茶室があって、着物があって、道具があるのに、何でやらないんだってさんざんせつかれてね。
【聞き手2】 50年ぐらいの生活も変わったですが、やっぱりATさんのお父さんが亡くなったころは、人生60年ですね。
【AT】 そうですね。
【聞き手】 だから、ATさんのお父さんが亡くなったのは別に早いというわけじゃないんでしょうけれども、平均寿命は大体・・…・。
【AT】 まあ、そうですね。
【聞き手】 僕ら戦後のどさくさは人生60年という記憶ですがね。
【AT】 そうですね。
【聞き手】 80歳とかそういうのは記憶にないですね。
【聞き手】 でも、お偉い方だと妖怪みたいな人が結構いますからね。
【聞き手】 じゃあ、ATさんが18歳でお父様が亡くなられたときは、お父様は何歳でいらしたんですか。
【AT】 52歳です。
【聞き手】 ちょっと若いですね。
【AT夫人】 もう死んでいるということですからね。(笑)
【聞き手】 私たちなんかとっくにね。じゃあ、奥様は私と同世代かな。私、ちょうど今、還暦なんでございます。
【AT夫人】 還暦です、私も。今年、還暦。午年なんです。主人も午年です。
【聞き手】 そうですか。
【AT夫人】 一周り違うんです。
【聞き手】 そうですか。やっぱり私たちの世代までは、母親がお茶とお花とお習字をやらなかったら許しませんみたいな、そういうのは当たり前という世代だったんですよね。今、世の中、そうじゃなくなったので、お茶なんかもやっぱり……。
【AT夫人】 そうですね。お茶も看板取るまでは皆さん、なさいませんからね。
【聞き手】 お金もかかるし。
【AT】 2、3日前に盆踊りがあったんですけど、銀行の女の子が浴衣が着れないから、着せてやってくれと頼まれて支店長に女房が頼まれました。
【AT夫人】 お母さんにいつも着せてもらっているというわりには、ひもも1本しか持っていないし、今はこういう時代なんだなと思って。
【聞き手】 ひも1本じゃ着付けられませんよね。
【AT夫人】 ひも1本しかないのと言って。(笑)やっぱり5年ぐらい前も1度あったんですけれども、それぐらいまでは皆さん、一応、浴衣下も持ってきていたし、ひもも持ってきていたし、そのころのお嬢さんたちは。5年たつと何も持ってない。5年でこんなになっちゃうのかなと思って。(笑)
【AT夫人】 ほんとうに畳がないですからね。
【聞き手】 そうですね。
【聞き手2】 そう、畳がない。
【聞き手】 風景がなくなると、文化が変わっちゃいますからね。
【AT夫人】 せめて浴衣ぐらいはと思いますけれどもね。人のことも言えないし、うちの娘も。(笑)
【聞き手】 でも、着ているのを見ていると、やっぱり興味は違うでしょうね。
【AT夫人】 ほんとうによそ様のことは言えないですけれどもね。
【聞き手】 奥様は夏までお浴衣を着ていらっしゃるぐらいだから、冬もずっとお着物で通していらっしゃるんですか。
【AT夫人】 そうですね、ほとんど。よっぽどじゃないと。よっぽど大雨、台風のときとか大雪のときは私も車で来ますので。
【聞き手】 そういうのを見て育っていらっしゃるから、お嬢さんも着ようと思ったら。
【AT夫人】 まあ、着ようと思ったらなんですけれども。まず着ませんから。やっぱりお茶もしていましたから、女の子を産んでちょうだいと言ったけれども、男しか産まないから、お願いだから女の子を産んでちょうだいと言って。もう今、悲しいですね。ほんとうにお母さんたちがわかっていないんです。信用金庫さんだから、地元というか、通いの人たちが多いんですよね。地方からという人はそんなにはいらっしゃらないんですよね。なのに、ひも1本。浴衣の下も持ってないんですね。銀行に浴衣と帯とげたはあるんです。銀行の浴衣があるわけです、宣伝用に。さわやかという。だから、それは銀行には置いてあるので、それ以外の付属品がないんです。
【聞き手】 そうなんですよね。なまじ着付けなんていって、いいよなんて言うと、何も持ってこなかったりしますよね。
【AT夫人】 ひもだけはお願いしますねと言ったんですけれども、そうしたら1本でしたね。(笑)7人いて、ほんとうにみんな。1人だけ、やっぱり4、50歳の人だけは持っていらしたけれども。
【聞き手】 じゃあ、伊達締めなんてもう……。
【AT夫人】 伊達締めなんて想像できないんじゃないんですかね。ゴムのベルトみたいな。せめてそれぐらい持っててねみたいな感じですね。
【聞き手】 一番気になるのは、直し方を知らないから、最悪ですね。
【聞き手2】 そうそう、崩れるものなのよね。
【AT夫人】 そうですね。だから、もうきゅっと締めたら、「あっ、お食事できなくなっちゃう」とかって。「大丈夫よ、胃を締めてないから」って。(笑)そのうちやらせてくれなくなっちゃうかも。(笑)こっちは大汗かいてね、時間がないので。30分で7人ぐらい着せなきゃならないんで、大汗かいてやっているのに。
【聞き手】 それは大変ですね。30分で7人は大変ですね。
【AT夫人】 私もそのあと用があるので、1人5分しか私は時間がないって流れ作業状態で。
【聞き手】 来年はどうなっているんでしょうね、その子たち。
【AT夫人】 来年もお願いしますとかって言われて。
【聞き手】 せめてちゃんと持ってくるんでしょうね。
【聞き手2】 今、還暦ぐらいが最後の世代かも……。
【AT夫人】 私たちが最後ですよ。しゅうとめに仕えるのも私たちが最後です。
【聞き手】 私の子どものころは、自分が一緒に住んでいた祖母は、やっぱり365日着物を着ていたんですよ。そういう中で育っていると。
【AT夫人】 おばあちゃんはそうだ、そう言われると。
【聞き手】 真夏のほんとうに暑いときだけ、何かちょっとあっぱっぱを……。だけど、日常、基本、着物だったから。
【AT夫人】 そうですよね。うちもそうでした。うちは両親もよく着物を着ていましたのでね。それに関しては全然抵抗はないんですよね。でも、今はそういううちのお育ちじゃないから。おじいちゃん、おばあちゃんもいないし。
【聞き手】 そうですよね、核家族ですしね。
【AT夫人】 だから、無理なのかなとは思いますけれどもね。
【聞き手】 失礼ですけれども、何かお仕事とつながりのあるようなご家庭のお育ちですか。
【AT夫人】 うちもやっぱり商売人のうちなんです。
【聞き手】 やっぱり和の関係とか。
【AT夫人】 ではないですね。
【聞き手】 でも、お着物を着ていらしたんですね、ご両親は。
【AT夫人】 そうですね、母はほとんど着物で、何もしない人ですから、ポーッとして。
【聞き手】 いやいや、それはもう人手があったからですよ。
【AT夫人】 何もしないで。昔は女中さんとかが……。姉なんかにも言われますものね。お母さんなんかね、あんたの世話なんかしたことないわよって。そうやって言われながら育ちましたから。たまたま、何でこんなうちに来たのかしらと思います。(笑)
【聞き手】 でも、ちゃんと何でもできる方でね。
【AT夫人】 一生懸命やっているんです。ありがたいと思ってねとかって。(笑)言ってくれないじゃないですか、この年代は。こっちが言わないと、うんともすんとも言わない。
【聞き手】 でも、60歳の方で全部できるというのも、今はすごく珍しいと思いますよ。
【AT夫人】 そうですかね。でも、せめて習字ぐらいは習っておくべきだったと思いますね。自分で書くじゃないですか。だから嫌だなと思いながら書いているんですけれどもね。
【聞き手】 素敵ですよ。
【聞き手2】 これはみんな奥さんの字ですか。
【AT】 そうです。
【聞き手】 それは大したものです。
【AT夫人】 父とかだったら、普通に巻紙で手紙を書いていましたから、逆にそういうのを見ていると、習いに行くという意識はないんです。
【聞き手】 ご主人がしないと、もう……。
【聞き手】 だって、FKさんより先輩の赤坂・青山歴史伝承塾の女性たちは、かなりモダンな方のほうが多くて。
【聞き手】 そうですね。
【AT】 私もご主人と同じスタイルですよ。かなりワイフは字が上手ですから、もう年賀状もせずに、書いてもらっているんです。
【聞き手】 じゃあ、もう内助の功大ですね。
【聞き手2】 練習したって遅いですよ。うまい人がおったら、それに頼る。これは全くご主人と同じスタイルです。
【聞き手】 こういうお茶で使うようなお菓子の需要というのは、戦後すぐに盛り返したんでしょうか。
【AT】 そうですね、僕が商売を継いでから……。
【AT夫人】 戦時中もうちの揚合は、お砂糖も小豆も苦労しなかったと母が。あるところにはあるので。いわゆる昔なんか小佐野さんとか、戦後、急成長した方とかもいらっしゃるじゃないですか。宮様が衰退して、逆に。奥様は宮様の出とか、そういうお嬢さんが多かった。だから、材料は向こうから。うちが自分のところで調達するんじゃなくて、持ち込みだった。だから、戦時中もお菓子をつくっていたんです。戦後でもやめたことはなかったと。父がいない間ぐらいだったと。
【聞き手】 なるほど。お父様は出征なさったんですか。
【AT】 そうです。出征していたんです。それで疎開したんです。
【AT夫人】 父が出征したので、みんなを疎開させたと。それで自分は出ていった。ほんの父のいない問だけで、父が帰ってきたら、早速、材料が来たと言っていました。
【聞き手】 やっぱりすごいな、お茶のつながりは。
【聞き手2】 やっぱり上の方がお相手だからね。財界、政界。
【AT夫人】 皆さん、財閥の方たちで、ほんとうに梁瀬さんだとか、普通にいらっしゃって。安田さんとかもいらっしゃった。皆さん、あっと思うような。妃殿下方もいらっしゃるし、普通に。
【聞き手】 なるほどね。だから、戦前と戦後で階級は入れ代わっても、リッチな方々やハイソな方々は常に一定の数いらして。
【AT夫人】 常にいい方たちはいらっしゃるわけですよ。
【聞き手】 こっちと行った方たちも、そっちに合わせようとするから。
【聞き手2】 そうそう。もともとこうだったところに合わせようとするからね。
【聞き手】 確かにね。
【聞き手2】 今のNHKの「花子とアン」ね、象徴していますよね。あの時代、ちょっと前、戦前の暮しぶりがわかる。
【聞き手】 でも、そのビーチボールのようなお菓子もおつくりになったりとか、いろいろ…。
【AT夫人】 こういうのはもう主人のあれですね。クリスマスのお菓子、○○とか、子どもが小さいときから主人なんかが行ったので、先代の亡くなった父がキャンドルのおまんじゅうをつくったとかって言っていましたから、戦前からクリスマスのお菓子をつくっていた。
【聞き手2】 そういうやっぱり土地柄というかね。
【聞き手】 その辺、さっきからお聞きしようと思ったんですけれども、青山学院が近いじゃないですか。だから、青学との関係ってお聞きしたかったんですけれども、じゃあ、お子さんたちは青学ですか。
【AT】 いや、そうじゃなくて。
【聞き手】 ご主人も高校が……。
【AT】 私は芝のほうの学校です。
【聞き手】 何か社会的にいろいろな活動をなさっていらっしゃいますね。
【AT】 いやいや、最近ですよ。商店街の会長をやったから、嫌々やったみたいなもので。それがついていろいろなことを、区のほうの仕事が入って。
【聞き手】 ATさん、やっぱり戦後のどさくさからオリンピックまでのこの商店街と、今の商店街のおつき合いはちょっと違いますね。
【AT】 そうですね。でもね、戦前から商売をやっていて、三河屋という酒屋があります。あの方はもう2代目がやっていて長いんですけれども、会長やって、戦前のやり方と今のやり方は大体みんな下からこうやってきたから、みんなそれは教わってやっているから、商店会としてのつき合い方というのはそんなに変わらないけれども、結構、人のつき合いというのは大事にしているから、上、下ちゃんとやるようになって。今、商店会も2代目、3代目が継いでやっているから、僕あたりの出る幕じゃないよね、70代なんて。50代、60代の人たちもいますから。人間が変わっていけば、商店会も変わるし、町も変わるんじゃないかなと思っていますけれどもね。
【聞き手】 でも、この通りなんかは、結構、商店会さんに入っているんですか。
【AT】 結構入ってますよ。
【聞き手】 チェーン店が多いようなイメージがありますけれども。
【AT】 ここの表参道商店会、今、200店舗ぐらい会員です。だから、港区で2、3番目ぐらいに多いんじゃないですか。
【聞き手】 多種多彩ですよね、職種が。
【AT】 多彩ですよ。
【聞き手】 ブランドショップが結構……。
【AT】 そうですね、入っていますからね。
【聞き手】 前はそういうのはなかったから。
【AT】 なかった。
【聞き手】 ブランドショップが入ってきて、商店会そのものも変わっていくんじゃないかなと思うんですが。
【AT】 そうなんです。そういうふうに合わせて、今までどおりのことをやっていたら、ちょっとついて行けないですから。いいショップがいたら、なるべく取り込むようにしてやっていますけれども。
【聞き手】 もともと入っていらっしゃる方が多ければ、皆さん、入りますよね。
【聞き手2】 やっぱり商店会も、昔からやっているところはオーナーさんだけれども、ブランドショップとか、やっぱりサラリーマンの雇われさんが……。支店長だけの話ですからね。
【AT】 そう。上に聞いてみるとか何とかっていう話もあるからね、難しいですね。月2回、清掃活動やっているんですよ。会員を集めて、もう20年ぐらいやっているんですけれども、前は役員だけで15、6人でやっていたんですけれども、今、どんどん大きい会社が。朝9時からやるんですけれども、1時間ぐらい。5、60人集まってきますよ。
【聞き手】 CSRとか、ああいうのが。
【AT】 結構、5、60人集まってやるから、いろいろな横のつながりができてね。
【聞き手】 やっぱりそういう一緒にやることがあるとつながってきますね。
【AT】 それが、今、大事じゃないかな。ごみの数より人間の数のほうが多いんだから、最近は。そんなにごみも落ちてないけれども、もうやめようかなとは言っていたけれども、でも、やっぱりこういうつながりを持たないとね。
【聞き手2】 やっぱりフェース・トゥ・フェースなんですよね。
【聞き手】 でも、そんなにチェーン店さんが加盟しているってすごいなと思いました。
【AT】 入っていないところもありますけれどもね。
【聞き手】 結構、一番の悩みじゃないですか。だから、マンションにしてもそうですけれども、昔からいる方と新しく入った方の……。じゃあ、そんなに出入りは激しくないんですか。
【AT】 いや、激しいですよ。古い店はそんなにあれだけれども、テナントショップとかは長くて2年ぐらいで、入れ代わり立ち代わりするからね。
【聞き手】 それって、戦後から比べると、変化的には……。
【AT】 戦後はそんなに動かなかったけれども、こういう通りになってからはやっぱり…。
【聞き手】 最近のほうがやっぱり出入りが激しいらしいです。昔はやっぱり家を大事にしたから。
【聞き手2】 さっきのお話だと、オリンピックで拡張工事をして、青山通りは随分変わったけれども、この通りはそんなに変わらなかったと。そうすると、次の変わった節目というのはやっぱりバブルですか。
【AT】 バブルですね。
【聞き手】 やっぱりこんなふうにビルがいっぱい建って、ブランドのものが入って。
【聞き手2】 私がバブル時期にばっちりではないけれども、雑貨屋さんとかがはやり出したころに、墓参りじゃないのに、この辺を歩き出したのはそのぐらいですかね。
【聞き手3】 僕はこの後、北村薬局さんのビルで会合がありまして、北村薬局さんの方もなかなか見識のある方ですね。今、何か後楽園にお住まいなんですけれども。
【AT】 そうなんです。あそこも創業が明治ぐらいなんですか。
【聞き手】 そうなんです。あそこも創業が明治ぐらいなんですか。
【AT】 そうでしょうね。古いですよ。
【聞き手3】 何か善光寺さんについて薬事奉行で来たんじゃないかって。
【聞き手】 そうそう、長野と言ってましたからね。
【聞き手2】 そんな方がいるんですか。
【聞き手】 この間、川島さんのところにも行ってきたんです。さっき三河屋さんの話が出ましたけれども。
【AT】 そうなんですか。
【聞き手】 あの方もなかなか楽しい。
【AT】 そうですよね。
【聞き手】 やっぱりそうやって続いているところは少ないですね、お話を聞いていますと。だから、やっぱり北村さんもおっしゃっていました。続いているのは、5軒に1軒か、20%から25%だと。家を継ぐためには人がなかったらいかんし、人が継いだって金が続かなかったらいかんし。ATさんのところは人がついているし……。
【聞き手】 やっぱりお商売の方針というか、ポリシーがしっかりしていらっしゃるというところは続いているような気がしますよね。
【AT】 みんな長くやっているところは、どこか1つポリシーを持ってやっていますよ。川島さんもそうだし、北村さんのところだってそうだと思うんですよ。じゃあ、ないと。特にうちの菓子屋あたりだって、よっぽど自分の特徴とかそういうものを持っていないと、結局、ほかの菓子屋と同じようなことになっちゃうから、だめになっちゃう。
【聞き手】 きょうはお忙しい中、ありがとうございます。