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世界史の本3冊


 歴史は物語だろうか。それとも科学だろうか。

 教科書には、小説には、古文書にはたくさんの「歴史上の人物」たちが登場する。そして、とても信じられないようなことを成し遂げる。

 だが果たしてそれは事実だろうか、それとも作られた伝説だろうか。


 私は「稗史(はいし)」という言葉が好きだ。

 辞書には「稗官(はいかん)が集めて記した民間の言い伝え。小説風に書いた歴史書。また,正史に対して,民間の歴史書」とある。そして元々「稗」という言葉には、「小さい。いやしい」という意味がある。

 それでも私は、歴史を物語として楽しみたい。


①『ローマは一日にしてならず 世界史のことば』樺山紘一(1985年/岩波ジュニア新書)

https://www.iwanami.co.jp/book/b269035.html


 中高生を対象とした本だが、私は歴史エッセイの名著だと思う。

 歴史上の人物たちが語った言葉や、当時の流行語(とされる言葉)などが満載だ。一つひとつの項目が見開き2ページと短く、いつでもどこでも読める。そして楽しい。


 著者は専門家だけあって、事実か伝説かについての配慮は行き届いている。そしてバランス感覚も抜群だ。

 たとえば「左手にコーラン、右手に剣」の項目の、最初と最後はこうだ。


(p56)

 いったい誰が、言いはじめた言葉なのだろうか。ヨーロッパ人のキリスト教徒であることはたしかだ。

(p57)

 ほかの宗教に寛容なイスラムは、あちこちの社会の古来の慣習をたくみに保存させながら、さらに広い地域に広まってゆく。サハラ以南のアフリカや、インド、インドネシア、そして中央アジアへと。


 著者は文章に巧みで、思い切った表現でしばしば笑わせてもくれる。この本は何度でも読み返したい。


 私は歴史を物語として楽しみたい。その一方で、「歴史を科学する」ことにも興奮を覚える。

 「歴史を科学する」とは、個々の歴史事象について、「実際はどうだったのか」と検証することにとどまらない。そもそも何を取り上げ、何を歴史として記述するかという、価値観の問題が決定的なのだ。


 「物語としての歴史」と「科学としての歴史」。両方に通じる言葉は「歴史観」だろうか。

 世界史を「知る」のではなく、「考える」本を読む。


②『新しい世界史へ 地球市民のための構想』羽田正(2011年/岩波新書)

https://www.iwanami.co.jp/book/b226126.html


 刺激的、かつ誠実な好著。これぞ「今はまだ無いものを求めてもがく」という知識人の仕事だ。

 それだけに他人には厳しい。


(p7)

時代が先に進んでいるのに、なぜか歴史研究者の多くは二、三〇年前の立ち位置にとどまったままでいるように思える。研究テーマは細分化され、本人以外にはほとんど誰も読まない論文が次々と生産されている。


 既存の「学校世界史」や「『ヨーロッパ』中心の近代化史観」の相対化に挑み、成功している。その意味では007で読んだ大阪大学の『市民のための世界史』と通じるが、刊行はこちらが先だ。

 著者は東京大学教授(現在は名誉教授)。大阪も東京もどっちも頑張れ。


 一方でメーンタイトルにある、「新しい世界史」の提示に成功している、とまでは言えないと思う。

 しかし私は「新しい歴史観」を提起している本として、興味深く読んだ。決して易しくはないのに、というか私には難しかったのに、既存の歴史観に斬り込む気迫に、つい先へ先へとページをめくってしまった。


 歴史叙述は「現在から見た過去」だ。

 それは同時に、「過去から現在を見る」ことでもある。過去(歴史)とどう向き合うかという問題は、現在とどう向き合うかという問題と表裏一体なのだ。

 逆に言えば、「現在」に無関心な歴史叙述というのはあり得ないし、あったとしても価値はない。これが「歴史観」だ。


 ここまではいいだろう。それでは「未来から現在を見る」こと、そうした意味での「歴史観」の構築は可能だろうか。

 この本のサブタイトルにある「地球市民のための構想」とは、まさにそうした意味での「新しい歴史観」のことを言っている。それによって記述された歴史こそが、メーンタイトルである「新しい世界史」だ。


 国史研究も、歴史教育も、そして時の政権も、歴史観はどうしても保守、つまりは現状の追認に傾いてしまう。一方、たとえそれが過去のことであっても革命を肯定したり、ましてや現在の国民国家を否定したり、さらには未来の世界政府の設立を促進しかねない歴史観は、無意識のうちに忌避される。

 著者が言う「地球市民」は、やはり無理筋だろう、と私は思う。しかし「主観的個人史と世界史の接続」は可能かもしれない。そして人類に未来があるとすれば、その先にしか無いのかもしれない。

 そうしたことを考えさせられた。


 未来から現在を、「歴史の目で見る」本をもう1冊。


③『2100年の世界地図 アフラシアの時代』峯陽一(2019年/岩波新書)

https://www.iwanami.co.jp/book/b470993.html


 まずはタイトルが目を引く。

 次に数字と、それに基づく地図画像とでどんどん攻め込む。

 そして巧みな語り口でぐいぐい読ませる。

 おまけに余計なことも書いて笑わせる。


 世界の人口は1950年が25億人で、現在は80億人。これが2100年に100億人超で定常化するとして、どうやったら地球を非暴力的に安定させられるだろう。以上が前半。


 第5章以下の後半では、西欧近代的な国民国家が相対化され、21世紀の理想が構想される。それは、20世紀の理想であった世界政府の樹立でも、ジョン・レノンの「イマジン」でもない。著者が期待するのは、主にアフリカや東南アジアの歴史に学ぶ、小人口集団のネットワークだ。

 その構想はとても楽しく、美しく、そして優れる。つまり説得力がある。


 著者は同志社大学教授で、「国際協力機構(JICA)緒方貞子平和開発研究所」の所長。だから世界の悲惨な現実は、よく分かった上で書いている。

 世界は今、悲観的な未来は描きやすく、楽観的な未来は描きにくい。しかし私たちは、それをしなければならない。未来に生きる、あるいはこれから生まれてくる子ども達のために。

 そうしたことを考えさせられた。


 あ、3冊とも岩波新書(1冊はジュニア新書)になってしまった…。