005

数学者の本3冊


 諸学の王は哲学で、数学が女王だろうか。

 私は100名以上の大学研究者にインタビューをしてきた。なるほど理系の先生が価値論(価値哲学)を熱心に語ったり、文系の先生が統計について深く言及したりすることは、しばしばある。

http://manabinome.com/interview-2


 私の頭ではほとんどついていけないが、そのように広がったお話は、いつも面白い。そしてそのたびに、誰もが思うことを思う。

 「もっと勉強しておけば良かったなあ」


 高校2年生までは数学が好きだった。理由は分かりやすいから。

 一方、理科や地理歴史は分からなかった。英語とあわせて定期試験は暗記でしのぎ、大学入試で惨敗した。


 3年生に上がる時、クラスは文系と理系に分かれ、選択科目についてもアンケートがあった。私は文系を選び、数Ⅲの履修を希望した。そんな生徒は他におらず、数Ⅲの授業は受けられなかった。

 自分で勉強するような根性は私にはなく、諦めてそのまま大学に入った。

 すると1年生の選択授業に、何と「数Ⅲ」があるではないか。私は喜び勇んで初回に出席した。そして教科書代りに配られたプリントを見て目を丸くした。英文だったのである。

 2回目以降を欠席し、私の数学との付き合いは終わった。


 004の小川洋子の小説、『博士の愛した数式』の続きである。小川はこれを書くために、取材というものを初めてしたそうだ。

 その相手が、数学者の藤原正彦だった。藤原がNHK教育テレビで、「天才の栄光と挫折」というテーマで話す番組を見て、心を惹かれたことがきっかけだという。

 小説が成った後、二人があらためて話をする機会があり、そこから1冊の本ができた。


①『世にも美しい数学入門』藤原正彦・小川洋子(2005年/ちくまプリマー新書)

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480687111/


 対談というよりは、小川洋子が次々と質問を繰り出し、藤原正彦がそれに答えている。中高生向けだが、もちろん話題は高度な数学に及び、数学者たちの数奇な運命に及ぶ。

 ときに無邪気とも思える小川の質問にも、藤原は笑いを交えながら誠実に答える。互いをリスペクトし合っていることが、そして対談の場の雰囲気の良さが伝わってきて、読んでいて楽しい。


 そして教育に関心のある身としては、藤原が「あとがき」に記す、次のような文章に立ち止まってしまう。


(p170)

小学校では英語やパソコンや起業家精神などが教えられ、中学生に株や債券を教えることが検討されている。大学でも役に立つ学問ばかりが奨励され、産学協同ばかりが声高に叫ばれている。一方で小中学校では、人間の知的活動の土台ともいえる国語と数学が著しく軽視されている。小中高大とすべての段階で、強調されるのは実学ばかりである。


 藤原は文章家としてもきわめて優れる。

 たとえばNHKの番組をもとに書かれたこの本も、ドラマティックな構成が見事だ。数学者たちの人生を身近に、そして切実に感じさせて実に面白かった。


②藤原正彦『天才の栄光と挫折―数学者列伝―』(2002年/新潮選書)

https://www.shinchosha.co.jp/book/603511/

→(2008年/文春文庫)

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167749026


 9人の数学者の、最初に登場するのはニュートンだ。意表を突かれるとともに、その天才ぶりに戦慄する。

 なお、新潮社の公式サイトには小川洋子による長めの書評が掲載されていて、これがまた良い。のちに文春文庫に入り、文藝春秋の公式サイトでは冒頭を試し読みできる。


 最後に、近年出た写真集を1冊。


③『数学者たちの黒板』ジェシカ・ワイン著/徳田功 訳(2023年/草思社)

https://www.soshisha.com/book_search/detail/1_2657.html


 著者は1972年生まれの写真家。100以上もの板書の写真に、それを記した数学者たちの黒板をめぐるエッセイを添えた、異色の写真集にしてエッセイ集だ。

 黒板に書いてある内容も、数学者たちが語っていることも、私には99%以上が分からない。それでもなお面白いし、興奮した。


 まず、見慣れているはずの黒板の、その写真がとんでもなく美しい。そして語られる数学への愛、黒板への愛が非常識なくらい熱い。

 板書の写真集などというアイデアが、いったいどこからやってきたのだろう。あるいは写真家のそのひらめきは、数学的なそれに近かったのかもしれない。

 教育で、授業で、共同作業で、黒板がどれだけ有益かをあらためて確認することができたのも収穫だった。


 小川洋子の『博士の愛した数式』から対談につながり、それが本になった例がもう一つある。次はそれについて書く。