002

作文を教える3冊


 001に書いた通り、いくつかの大学で作文の授業を担当している。

 教えるのはレポートや論文、あるいは仕事で必要な文章の書き方である。だから「読みやすく分かりやすい」伝わる文章が「良い文章」だ。個性は求められない。


 しかしもちろん良い文章にもいろいろあって、個性が良しとされる場合もある。その典型は文芸だ。

 高校や大学の入試では、国語の読解問題で「説明的文章」と「文芸的文章」の2問が出題される場合が多い。説明的文章の問題では、筆者が提示した理路を、正確に追う力が問われる。客観性が重要だ。

 一方、主に小説が取り上げられる文芸的文章の問題では、登場人物の気持ちや、物語の展開に込められた作者の意図などが問われる。どうしても主観が入るため、苦手に思う人がいたり、「正解」をめぐって議論になったりする。


 私が担当する作文の授業では、文芸を直接取り上げることはない。

 しかし目指しているのは「説得力のある文章」だ。そして説得の相手は、主観を持つ人間だ。「気持ち」もあるし、その文章を読む以上は何らかの「意図」も持っている。

 そしてそもそも、実は「説明的文章」と「文芸的文章」に明確な境界線は存在しない。


 今はほとんどの大学で作文の授業があると思うが、内容はさまざまだ。特に文学系のクラスでは、「説明的文章」を書く練習ではなく「文芸的文章」を書く授業も成り立つ。

 たとえばこの本は、明治学院大学で行われた「言語表現法」という授業の記録。これはこれで勉強になったし、何より面白かった。


①『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎(2009年/朝日新聞出版)

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=10713

→(2012年/朝日文庫)

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=13694


 著者は現代の日本を代表する小説家の一人で、文芸評論でも活躍している。結婚5回と人生経験も豊富だ。

 書名はキャッチーだが、これはキャッチーな書名で買わせ、読者を「考えないこと」へといざなう、内容のないハウツー本のパロディーだ。実際には授業をする高橋も、ユニークな課題に挑戦する学生たちも真剣である。


 その課題とは、架空の国家を設定して書く「憲法」や、「1日しか記憶がもたない人の日記」などなど。高橋が語る出題意図の内容は楽しく、また深い。また休講の理由として述べた、小さなわが子が重い病を得たときの様子は、その迫真性に凄みさえ感じた。

 しかしやはりこの本の一番の魅力は、掲載されている学生たちの作文だ。高橋に指名され、教室で自分の文章を読み上げる際の喜び、緊張、照れなどの描写には、つい口元が緩んでしまう。

 高橋の小説や文芸評論については、いずれ別に取り上げたい。


②『言語表現法講義』加藤典洋(1996/岩波書店)

https://www.iwanami.co.jp/book/b258233.html


 この「言語表現法」の授業を、高橋の前に担当していたのが加藤だ。この本も、その授業記録。もちろん内容はまるで別物だ。

 著者は文芸評論をはじめ、社会評論など様々な分野の活動で高名。高橋の授業と違って、ちゃんと学生の作文に対する誤字脱字なども指摘する。


 加藤の語り口は熱い。目次を見ただけでも、そのことは十分に伝わってくる。

 初回の授業のテーマは「頭と手」で、その内容として、次のような項目が列挙される。


・経験の場としての書くこと

・「言語表現法」とは──頭と手が五分五分だということ

・『文章読本』のイデオロギーから土方仕事へ──文章教室とは違う

(以下略)


 もちろん内容の鋭さは第1級。大いに勉強になった。

 しかし私はこの熱さを過剰だと、あるいは今となっては古いとも感じてしまった。特に巻末の「基本文献案内」はそうだ。

 はたして受講した大学生たちにとってはどうだったのだろう。しかし心配は無用だった。


 この本に関して、加藤には「助けられて考えること」というエッセイがある。初出は2019年の「信濃毎日新聞」だが、私は『ベスト・エッセイ2020』(2020年/光村図書)で読んだ。

https://www.mitsumura-tosho.co.jp/shoseki/essay/book-es2020


 加藤は、自分の著書の中で『言語表現法講義』だけが例外的に売れ続けている、と書き始める。そしてその理由は、学生に助けられたからだと言う。

 たとえばサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」。自分では気付けなかったが、その結末が「cath から watch へ」を示していることを、この授業で学生に教えられたそうだ。正直であり謙虚だ。


(『ベスト・エッセイ2020』p326)

こう見てくると、サリンジャーは、ここに一つの子どもでい続けることの断念、あるいは成長の劇を描いている。子どものとのつながりを「キャッチ」するものから「ウォッチ」するものへと変えていく。

(中略)

 馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない。それから先は、「見守る」しかない。

 しかし、辛抱強く「手出しせず」に「見守る」うちに、教える側も、何かを学ぶ。


 高橋や加藤には全く及ばないが、私も教えることを仕事にしている。我が身に照らしてグッときた。

 『ベスト・エッセイ』シリーズについても、いずれ別に取り上げたい。


③『レトリック感覚』佐藤信夫(1978年/講談社)

→(1992年/講談社学術文庫)

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150630


 「文芸的文章」について、その表現をめぐる本を1冊。若い時に読んで衝撃を受けた。

 自分が小説を読むとき筋だけを追っていて、表現、つまり言葉の選択や配置に無関心だったことを思い知った。その一方で、実は意識しないまま表現を味わい、また学んでいたことにも気づかされた。


 主に小説家の文章を取り上げて、レトリックの持つ意味と意義を考察している。目次は「第1章 直喩」「第2章 隠喩」と続く。この本の引用部分に魅かれて、元の小説もずいぶん読んだ。

 記述のスタイルは、文学研究というよりもエッセイに近い。勉強になっただけでなく、とても楽しく読んだ。そしてしびれた。


(「第4章 提喩」)

じつは、その日そこに降っていたものは《雪》ではなく、《雪の白さ》だったのである。


(「第5章 誇張法」)

彼女は、「四千枚の舌さえもっていたら」という誇張によって、いっきょに四千回分のお礼を、一枚の舌で言ってのけた。みごとな愛嬌をふりまくのに、少々の才気さえあれば、舌は一枚でじゅうぶんである。


 現在は講談社学術文庫と電子書籍で読めるが、私が持っているのは50年近くも前に出た親本(おやぼん)だ。「ことばは新しい視点をひらく」という副題がついている。

 黄色い帯の背には「井上ひさし氏激賞!」とあり、帯の裏には、私がこの本を買おうと決めた同氏の推薦文が入っている。あるいは当時、この本を評した文章の一部なのかもしれない。

 今読み返しても素晴らしいので、全文を転記する。


 この明快でたのしい書物を直喩でたとえるならば、「上出来の推理小説のようにおもしろく」、隠喩でいえば内容の深さは「底なし沼だ」と言い切ってよい。また換喩ならば「読者に文学を志す鬼があれば、この本はその鬼の金棒となるだろう」はずで、提喩では「お買得」だ。誇張法では「こいいう種類の本に乏しかったこの国の文化界にとてこの本の出版は、彼の月世界着陸にも匹敵する快挙」であり、列叙法では、「一読感嘆、再読感動、三読卒倒……」であり、緩叙法では「この本はすばらしくないわけでは決してない」のである。

 はやりことばで、そしてふたたび隠喩でいえば「この本こそ空前の知的武器」である。


 ついでに帯の表紙にうたわれている、「誇張法」によるキャッチフレーズも書いておく。


新しい発見を形づくるレトリックの機能に着目し

その復権を堂々と主張した100年待望の書。


 引用される作家は漱石、鴎外などのいわゆる文豪から当時の流行作家までときわめて幅広く、このことにも感嘆した。その中には井上ひさしも、もちろん含まれている。

 私の授業でレトリックの説明をすることはない。しかし作文の書き方を説明するときや、学生たちを督励するときはレトリックを使う。だからこの本は、今でも時々読み返す。