担当教員の専門分野は、明治〜大正期の小説・戯曲で、特に泉鏡花(1873-1939)の作品を中心に研究しています。
泉鏡花というと神秘的な幻想文学や怪談のイメージが強いかもしれませんが、若い頃には思想を押し出す社会派の作家として注目されたり、風俗小説やメロドラマが舞台化されて人気を博したり、美麗な装幀や口絵で彩られた書物が「鏡花本」と称して珍重されるなど、様々な顔を持った研究対象です。
このゼミでは明治時代以降の近代文学を幅広く扱いますが、古典文学と同じように表現に即した丁寧な読解を重視し、考察の妥当性や評価の可能性について議論しています。
各々の関心に沿った作品がもつ独特の論理や感性を解明することを目的としつつ、知れば知るほど謎が深まっていく言葉の世界を楽しく散策しましょう。
北村透谷『蓬莱曲』論―内部世界の出現とその挫折―
尾崎紅葉『不言不語』論─家族を結う契り─
徳冨蘆花「不如帰」論─悲劇の女性と近代─
反近代の極北へ―『春昼』『春昼後刻』論
ラフカディオ・ハーンと〈宿命の女〉―「雪女」「お貞の話」「和解」―
『草枕』論—画工による女の解放—
鈴木三重吉「三月七日」における連想・夢想と恋愛観
『田舎教師』の研究―不遇な主人公像と花袋の描写論を中心に―
谷崎潤一郎「少年」論
志賀直哉「清兵衛と瓢箪」論―少年の行く手を阻むもの―
正宗白鳥「入江のほとり」論 ―残留者と出郷者の「家」—
谷崎潤一郎「神童」論ー「天才」という病魔と自意識の輪郭ー
「高瀬舟」論―転換される〈語り〉―
有島武郎「実験室」論―解剖がもたらす崩壊―
佐藤春夫「田園の憂鬱」論ー侵食する憂鬱ー
泉鏡花「唄立山心中一曲」論―心中をかたること―
「小僧の神様」論—内包する倫理—
有島武郎『一房の葡萄』論―許すということについて―
内田百閒『冥途』論―恐怖と異界の先にあるもの―
小川未明「港に着いた黒んぼ」論―ただそこにある自由―
稲垣足穂『星を売る店』―天体と自己の存在―
野溝七生子「山梔」論―閉ざされた家庭をひらくもの―
宮沢賢治における民話的素材の昇華―「ざしき童子のはなし」を中心に―
梶井基次郎『冬の蠅』論―生と死の闘争―
江戸川乱歩「陰獣」論―名―
井伏鱒二「山椒魚」論―川の中の囚人たち―
谷崎潤一郎『春琴抄』論―佐助に紡がれる物語―
交錯する三人の宮澤賢治―「銀河鉄道の夜」を中心に―
岡本かの子「老妓抄」論―語りを超えていく「いのち」―
海野十三「十八時の音楽浴」論―ユートピアを求める人間の愚かさ―
抽象化の詩学—立原道造『暁と夕の詩』考—
声と幻視―折口信夫『死者の書』論―
高村光太郎『智恵子抄』論―「自然の象徴」としての智恵子像―
三島由紀夫「花ざかりの森」論―「わたし」の萌芽―
坂口安吾「桜の森の満開の下」論―喋る首と女たち―
太宰治「ヴィヨンの妻」論―笑う弱者―
川端康成『雪国』論―ひび割れる鏡―
安部公房「薄明の彷徨」論―濃霧の青春―
武田泰淳「ひかりごけ」論―忌避された原野―
三島由紀夫『近代能楽集』論—「卒塔婆小町」を中心に—
深澤七郎「楢山節考」における精神性の過去と現在
三島由紀夫『鏡子の家』論―廃墟への未練―
三島由紀夫『憂国』論―錯綜する「視線」―
寺山修司『毛皮のマリー』論―マリーの支配―
安房直子「きつねの窓」論―喪失と回復の狭間―
野口ゼミの特色は、長い時間をかけてじっくりと一つの作品研究に取り組むことです。また、学年・研究対象の異なるゼミ生と議論を行うことができるのも魅力の一つです。自分一人では思いつけなかった考えや新しい発見を得ることができる議論の場は着実に卒論制作に役立つ貴重な機会となります。研究対象・方法に迷った時には先生だけでなく、経験豊富な先輩方から助言をいただける機会もあり、一人で悩む必要はありません。
新歓コンパや夏合宿、節目の飲み会等も行われ、親睦を深めながら和気藹々と活動しています。議論は一人ひとりが真剣に取り組んでいますが、個性的な意見が飛び交うことで和やかな笑いが生まれることもしばしばです。
伊豆長岡温泉は武者小路実篤ゆかりの宿にて研究会・親睦会を催し、夏目漱石の転機となった修善寺まで足を伸ばして文学散歩をしました。
明治43年に漱石が訪れた菊屋旅館の客室を移築
再現:修善寺の大患
👆(前夜の大飲が祟ったのか、見学中に先生が倒れて一時は人事不省に陥ったものの、門下生たちの懸命な看病で生命の危機を脱しました…?)👆