テキスト:吉田幸一編『影印本 百人一首抄〈宗祇抄〉』(笠間書院 1969年)
詞書(ことがき)に、「童(わらは)より友だちに侍りける人、年ごろへて行きあひたるが、ほのかにて、七月十日ころ、月にきほひて帰り侍りければ」とあり。わが友だちを月によそへていへるなり。心はことがきに明らかなり。ただ、ことばづかひ、凡慮の及ぶところにあらずと見えたり。月にきほふは、あらそふ心なり。
(歌集の詞書に、「子どものころから友だちでありました人と、何年も経って出会ったが、会えたのはわずかの時間で、時節は七月十日ころ、友だちは月と競うようにして帰ってしまいましたので」とあり、自分の友だちを月になぞらえて表現しているのである。歌の意味は詞書によって明らかである。ただ、ことばづかいは、凡人の考えが及ぶところではないと思われる。(詞書の)「月にきほふ」は、月と争う意味である。)
『百人一首』は紫式部「めぐりあひて」歌は、『新古今和歌集』巻第十六・雑歌上から採られたと考えられます。『新古今和歌集』には、宗祇抄の注が指摘するように、次のような詞書(ことばがき:和歌の詠まれた事情などを記した文言で、歌の前に置かれる。「ことがき」とも)とともにこの歌が載せられています。
はやくよりわらはともだちに侍りける人の、としごろへてゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひてかへり侍りければ
幼なじみであった友だちと、何年かぶりに再会できたのに、会っていたのはわずかな時間で、七月十日のころ、月が山に入るのと争うかのように友だちは帰ってしまった―そのような状況で詠まれた歌であることが知られます。『新古今和歌集』は、この歌を『紫式部集』から採ったと考えられ、『紫式部集』にも同様の詞書が付けられています(ただし、「七月十日」とあるところ、『紫式部集』では「十月十日」となっています。この違いも興味深い問題を含みますが、詳しくは田中新一『紫式部集新注』〈青簡舎 2008年4月〉を参照するとよいでしょう)。『百人一首』の撰者は藤原定家(1162~1241)であると考えられますが、定家は『新古今和歌集』の撰者のひとりでもあり、詞書に示された詠作事情をよく知っていたでしょう。宗祇抄がこの詞書を前提に歌を解釈しようとしているのは、当然とも言えますが、まずはまっとうな解釈の手続きであったといえます。詞書を踏まえて、歌を解釈すると、「久しぶりで友とめぐり会って、顔をあわせ見たけれど、その人かどうか見分けがつかないほどの短い間に、雲隠れした夜半の月のように、すぐさま姿をかくしてしまったよ」となるでしょう。再会した友とわずかな時間しか過ごすことができなかったことを残念に思う気持ちを、友を「月」になぞらえることで表しています。実際は、「見しやそれともわかぬ」―見たのは友だちかどうかわからなかったなどということはないでしょうが、会っていた時間が短かかったことを誇張して言ったもので、それだけ名残惜しい気持が強かったことを表しているのでしょう。
この歌の読解を担当した学生は、詞書のはたらきについて考察していました。詞書の事情を知らない人がこの歌を読んだらどう解釈するか、と想定してみます。すると、いろいろに解釈ができることがわかります。たとえば、「月」は何かをなぞらえているというのではなく、月そのものを詠んだ歌としても読むことができる。あるいは、「月」は、恋人をたとえていると解釈することもできる。後者は恋の歌と理解されます。このような仮定をしつつ、作者の真意を確かに伝えるために、詞書が重要なはたらきをもっていることがわかってくるというのです。逆に考えると、詞書を離れると、この歌はさまざまに解釈することが可能であるということになります。『百人一首』には、どの歌にも詞書は付けられていません。作者名と歌だけで成り立っています。上に記したように撰者の定家はこの歌の詠作事情をよく知っていたでしょうから、前の項に示したような解釈をしていたのでしょう。ところが、後世、『百人一首』で歌だけを読んだ人は、本来とは違う、さまざまな状況を想定して解釈する可能性が出てきます。和歌は短い詩型でもあり、同じ歌がさまざまな状況と結びき、複数の異なる理解が生まれることもあるのです。このあたりに、和歌の解釈の難しさがありますが、一方、おもしろさもあり、和歌という韻文の性格がよく現れていると考えます。